古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

妙義神社摂社・波己曽神社

 妙義山は、今から約6400万年前のカルデラを伴う火山の噴出物でできており、活動後の長年の浸食でカルデラ内の硬い火山の石だけが浸食に耐えて、現在の聳えるような岩山になった。
 妙義神社は、奇岩と怪石で名高い妙義山の主峰白雲山の東山麓にあり、老杉の生いしげる景勝の地を占めている。創建は「宣化天皇の二年(537)に鎮祭せり」と社記にあり、元は波己曽(はこそ)の大神と称し後に妙義と改められた。
 鎌倉時代までは妙義山は「波己曽山」と呼ばれ、周辺の行田、八城、二軒在家、中里、古立、行沢(波古曽神社)、大牛、諸戸(現在の吾妻耶神社)、菅原(菅原神社に合祀)などの集落には波己曽山を御神体として信仰する波己曽神社が複数社存在し、特に著名な7社は七波己曾と呼ばれていたという。妙義神社の波己曽社がその本宮的な存在とされる
 この中で行沢の波己曽神社、諸戸の波己曽神社(吾嬬者耶神社)は現存している。
        
              
・所在地   群馬県富岡市妙義町妙義6(妙義神社内)
              
・創建・建立 明暦2年(1656年)
              
・指 定   群馬県指定重要文化財
 妙義神社の総門近くに鎮座する摂社・波己曾神社。途中までの経路は妙義神社を参照。
 社の入り口のような存在である総門の先にはやや左側にずれるように石段があり、上った先に銅鳥居があるが、そのすぐ右手奥には波己曾神社が鎮座する。
 因みに摂末社(せつまつしゃ)とは、神社本社とは別に、その神社の管理に属し、その境内または神社の附近の境外にある小規模な神社のことで、摂社(せっしゃ)と末社(まっしゃ)と併せた呼称である。枝宮(えだみや)・枝社(えだやしろ)ともいう。
現在は摂末社に関する規定は特にないが、一般には、摂社はその神社の祭神と縁故の深い神を祀った神社、末社はそれ以外のものと区別され、格式は本社が最も高くそれに次いで摂社そして末社の順とされる。本社の境内にあるものを境内摂社(けいだいせっしゃ)または境内社、境外に独立の敷地を持つものを境外摂社(けいがいせっしゃ)または境外社という。
        
                             妙義神社 摂社 波己曾神社正面
「上野国風土記」に「妙義大権現社記」があり、これによると宣化天皇二年(537年)に鎮座、とあるほか、一書に宝亀年中(770180年)草創とあり実は波己曽神社なるを・・・と記されている。主祭神は日本武尊。(妙義町誌下)537年鎮座が正しいとすれば、1480年ほどの長い歴史を有することとなる。
 また波己曽神社が妙義神社の前身であり、妙義の地主神と伝えられ現在でもそう変わりはないように思われる。平安時代の「上野国交替実録帳」には、波己曽神社は美豆垣、荒垣、外垣と垣が三重にめぐらしてあったと記される。この頃までは社殿はなかったといわれ、波己曽神社と社務所の間にある大岩・影向岩が磐座として信仰の対象で祭祀場であったとされる。この方式は日本最古の神社ともいわれる奈良の大神神社と似ている。大神神社は三輪山そのものをご神体として社殿を持たないが山上には三つの磐座が存在する。
        
                              拝 殿
 波己曾社(県指定重要文化財)
 妙義神社の前身は石塔寺であり、そのまた前身が波己曽神社であろう。波己曽神社は白雲山にあり、妙義山の信仰は金洞山や金鶏山よりも白雲山を中心に信仰を集めていた
妙義神社には、元々波己曽神が主祭神として祀られていたが、神仏習合により妙義大権現が主祭神となり、現在では日本武尊となっている。そして今では、波己曽神社は境内摂社に格落ちした形になった
 波己曽神社の信仰は古来よりのもので社殿は建立されていなかった。「波己曽」の由来は「いわこそ」であり、長い間に「い」が失われて「はこそ」になったものと考えられている
「いわ」は岩であり大昔は大岩が自然崇拝・信仰の対象になっていた
波己曽神社のご神体は、現在の妙義神社社殿北東の奥の院への登り口にある「影向岩」(えいごういわ)であったと推測される。
 奥の院は「大の字岩」の奥の岩窟であり、幅は約六メートル、奥行き約十メートル、高さ十メートルという大きなものである。
 大黒天や観音の石仏が祭られて山岳信仰の岩窟に似つかわしいものである。影向岩には注連縄が張られ、毎年十二月の「すすはらい」のときは未婚の男子が身支度をして清掃している。
 一説には、この大岩は天から降ってきたと伝えられている。物凄い音を立てて降ってきたが、ここが居心地が良いというので納まったまま苔むしたという。波己曽神は、往昔、そびえ立つ岩石を真下に立って仰ぎ眺めた先住人たちが、今にも倒れ落ちて自分の頭上に押しかぶさってくるのではないかと恐怖を感じたので、山の神信仰のように危難を免れるために祈願して祭ったものと言い伝えられている。
「上野国交代実録帳」に記された三重の垣を廻らした波己曽神は、古代信仰によるものであったから社殿を必要としていなかった。三重の垣とは、美豆垣壱廻、荒垣壱廻、外垣壱廻と表現されている。
 鎌倉時代までは妙義山は「波己曽山」と呼ばれ、周辺の行田、八城、二軒在家、中里、古立、行沢(波古曽神社)、大牛、諸戸(現在の吾妻耶神社)、菅原(菅原神社に合祀)などの集落には波己曽山を御神体として信仰する波己曽神社が複数社存在し、特に著名な7社は七波己曾と呼ばれていたという。妙義神社の波己曽社がその本宮的な存在とされる。
 
   拝殿正面右側に設置されている標札            拝殿内部
        
        
                  波己曾神社 本殿
『日本歴史地名大系 』「波己曾社」の解説
 [現在地名]妙義町妙義
 妙義神社境内に鎮座する。同社の地主神で、前身であると考えられている。白雲山麓の諸戸(もろと)・行沢(なめざわ)や碓氷郡松井田町行田(おくなだ)に鎮座する七波己曾社の中心。「三代実録」貞観元年(八五九)三月二六日条に「授上野国正六位上波己曾神従五位下」とあり、元慶三年(八七九)閏一〇月四日に従五位上、同四年五月二五日に正五位上勲一二等に叙せられた。
 長元三年(一〇三〇)の「交替実録帳」には「碓氷郡 勲十二等波已曾神社 美豆垣壱廻 荒垣壱廻 外垣壱廻」とあり、総社本「上野国神名帳」でも碓氷郡に記され「従二位波己曾大明神」とある。江戸の国学者奈佐勝皐が天明六年(一七八六)上野・下野両国を調査見学した際の日記「山吹日記」五月四日の条で、妙義神社境内に入ったのち「左りの方に出れは波古曾の御神います、これも御社いときよらなり、此御神は神名式には載られねとも、三代実録にしはしは見えたるふるきみやしろなれとも、今はかく側にいますやうになり、おしなへてはしる人もなし」と記す。
       
       社殿左側に鎮座する厳島神社   波己曽神社の敷地内に設置された
                        『妙義神社再建事業記念碑』



参考資料「日本歴史地名大系」「ニッポン旅マガジンHP」「Wikipedia」「妙義神社HP」等

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