古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

妙義神社

「上毛三山」は群馬県が誇る代表的な山である。赤城山・榛名山・妙義山を指し、三山にはそれぞれ赤城神社、榛名神社、妙義神社が鎮座し、人々は各山に宗教的意味を与えて崇拝、または種々の儀礼を行ってきた。
 妙義山は群馬県甘楽郡下仁田町・富岡市・安中市の境界に位置し、九州の耶馬渓・四国の寒霞渓と並んで、日本三大奇景の一つとされる山であり、国の名勝に指定され、日本百景にも選定されている。標高は1,104mと決して高くはないが、そのギザギザと尖った奇岩が乱立し、表面に露出した荒々しい岩肌が創り出す自然景観の美しさが特徴的な山である。
 その絶壁と奇岩怪石が成す山容は浮世離れした雰囲気を醸しており、古くから信仰の対象となっていた。妙義神社は「上毛三山」の一つである妙義山の東麓に鎮座し、妙義山信仰の中心となっている神社である。江戸時代は関東平野の北西に位置し、江戸の乾(戌亥)天門の鎮めとして、家運永久子孫繁昌を願って歴代の徳川将軍家に深く信仰され、加えて加賀の前田侯外諸大名の崇敬も篤かったという。
        
             
・所在地 群馬県富岡市妙義町妙義6
             
・ご祭神 日本武尊 豊受大神 菅原道真公 権大納言長親卿
             
・社 格 国史現在社(波己曽神)旧県社
             
・例祭等 例祭 415日 山開き祭 55日 紅葉祭 113
   
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2998804,138.7652371,15z?hl=ja&entry=ttu
 群馬県富岡市に鎮座する一之宮貫前神社から群馬県道47号一ノ宮妙義線・同県道191号妙義山線で約11㎞先にある妙義神社。県道47号線・191号線の交点である「北山」交差点辺りからは、ほぼ正面に妙義山の稜線がハッキリと見え、表面に露出した荒々しい岩肌が真近かに見えてくる。
 妙義神社の正面鳥居から道を隔てた向かい側には「道の駅みょうぎ」があり、そこには十分な駐車スペースも確保されている。
*参拝日 2021年(令和3年)12月11日。
        
              「道の駅みょうぎ」から見る妙義山
 妙義山は、赤城山、榛名山と共に上毛三山の一つに数えられ、白雲山・金洞山・金鶏山・相馬岳・御岳・丁須ノ頭・谷急山などを合わせた総称で、南側の表妙義と北側の裏妙義に分かれている。特に下仁田側から眺望できる金洞山 (1,094m) は別名中之嶽と呼ばれ、親しまれてきた。奇岩がいたるところに見られる妙義山の中でも中之嶽の景色は、中腹を巡る第1石門から第4石門を始め、ロウソク岩・大砲岩・筆頭岩・ユルギ岩・虚無僧岩といったユニークな名前の岩石群は日本屈指の山岳美と讃えられている。
『妙義』の名称の由来は諸説あり、後醍醐天皇に仕えた権大納言長親卿が、この山を眺め、明々巍々(めいめいぎぎ)であるところから「明巍」と名付けた事が、後に「妙義」となったと言われた説や、威厳があることを表す「明々巍々(めいめいぎぎ)」と例えられたことが名前の由来となったという説もあるが、実際のところは不明である。
        
                                  妙義神社正面大鳥居
 史実によれば「権大納言長親卿」と記載されているこの人物の本名は花山院長親(かさんのいん ながちか)で、南北朝時代から室町時代にかけての公卿・学者・歌人・禅僧。生年は1347年といわれ、後醍醐天皇の崩御した1339年からかなり後代になってから南朝で活動した人物であり、両者の接点はないに等しい。正長2年(1429年)710日に薨去。享年83ともいい、終焉の地に関しては遠江国耕雲寺説や上野国妙義山説も嘗てあったようだが、長親が晩年地方に下ったとする史料はなく、やはり京都東山の耕雲庵にて薨去したとみる説が有力であるようだ。
       
 妙義神社正面鳥居を過ぎて、上り坂の道を進む。最初は両側に売店も数店あるが(写真左)、社の社号標柱の地点からは境内となり、厳かな雰囲気と変わる(同右)。
        
     社号標柱を過ぎて、上り坂を登り詰めると正面に朱を基調とした総門がある。
        朱色にカラフルな色彩が素晴らしい正に妙義神社の入り口のような存在。
 旧白雲山石塔寺の仁王門だったが、神仏分離の時代を経て現在は神社の総門となっているが、左右に仁王像が祀られている。江戸時代後期(1773年)の建立。三間一戸八脚門、切妻造、銅板葺。国指定の重要文化財(昭和56年・1981 65日)となっている。

 妙義神社総門(旧白雲山石塔寺仁王門)
 石塔寺(神仏習合の妙義大権現)の旧寺域には社務所(建立年代不詳)と御殿(嘉永6年/1853年築)が置かれています。 総門は、安永2年(1773)築で、国の重要文化財。
 江戸時代後期の八脚門の代表的な遺構となっています。
 白雲山石塔寺の仁王門だったので、廃仏毀釈で石塔寺が廃寺となり、妙義神社の総門となった現在も左右に仁王像が祀られています。
 総門をくぐると銅鳥居で、その先に165段の石段がありますが、平成17年のNHK大河ドラマ『義経』で、牛若丸が修行する鞍馬山の設定でロケ地となったところ。
 ちなみに石塔寺は、房州の石堂寺(いしどうじ/南房総市/当初は「石塔寺」)、近江の阿育王山石塔寺(いしどうじ/東近江市)とともに日本三石塔寺に数えられていました。
                                「妙義神社公式HP」より引用

        
                    総門の近くに設置されている「妙義山歩道」の案内板
        
    総門の先には石段が2か所あり、2番目で斜め左側の石段の先には銅鳥居がある。
                 群馬県指定重要文化財 

             
               銅鳥居の左手前側には3本の大杉が聳え立つ。
                   通称「三本杉」
 妙義神社・唐門の石段からほぼ直線上にこの3本の杉があり、また3本の杉の木の真ん中には不思議な気の流れがあるようで、この空間に入り、お願い事をする方が多いようだ。妙義神社一のパワースポットと言われている。 
        
 銅鳥居から参道を進んで石造の「太鼓橋」を渡ると、上部神域へと一直線に延びる165段の石段が見えてくる。
       
                165段の勾配のある石段を撮影。
 写真左側は上部神域へと一直線に延びる石段の様子。右側は石段から下の風景を撮影したもの。石段は上に上がるにつれ、樹木の根に押されたためか、異様に凸凹しているところが何カ所かあり、正直きつい。途中何度か休憩を入れながらやっと終点までたどり着くことができた。
       
                 石段を上り切った先が神域の入口となる隋神門
                              この門も群馬県指定重要文化財
        
                     唐 門    
 隋神門を潜りぬけて、左側に曲がり、右側に見える石段を上り切ると豪華絢爛な唐門が見えてくる。-宝暦六年(1756年)の建立。妻を唐破風にした銅茸平入りの門で、これらの建物の周囲は彫刻でもって埋められている。昭和56年(1981年)65日国重要文化財に指定。
       
                                  唐門を裏側から撮影
       
                                     拝 殿
 国重要文化財 本殿・幣殿・拝殿(合わせて1棟、権現造)
 江戸時代後期(1756年)の建立。本殿、桁行三間、梁間二間、一重、入母屋造。幣殿、桁行三間、梁間一間、一重、両下造。拝殿、桁行三間、梁間二間、一重、入母屋造、正面千鳥破風付、向拝一間、軒唐破風。

 創建は、宣化天皇2年(537年)と伝わる。
 元は波己曽(はこそ)の大神と称し後に妙義と改められた。神仏習合時代、妙義神社には別当(神社を管理する寺)として上野寛永寺の末寺である白雲山高顕院石塔寺があった。現在の妙義神社の総門は、明治の初めに廃寺となった石塔寺の仁王門である。神社の総門となった現在も、左右に仁王像が祀られている。
 現在の社殿は、宝暦年間(1751 - 1764
年)の大改修によるものである。古くは波己曽(はこそ)神社といい、『日本三代実録』に記載がある。
 
    拝殿上部に掲げてある黄金の扁額             拝殿内部
             
              社殿の奥に回ると、天狗社がある。
 妙義山には天狗が住むという言い伝えがあるそうで、天狗は一部の山伏が死後に転生した姿だとも言われている。ここにも妙義山が山岳信仰の山である事がわかる。
        
                     本 殿

 参拝中、ふと思ったことがある。日本人にとって「山」とはどのような存在、対象物であったのだろうかと。
 日本の国土面積の約 4 分の 3 は山地や丘陵地である。関東平野などの一部の地域を除けば、ふと周りを見渡せば、何かしらの山を見ることができよう。それ程山は身近な存在である。
 しかし一部の山は里人も崇める程度に留める「霊山」として祀られる場所も多々存在する。
 日本の古神道においても、水源・狩猟の場・鉱山・森林などから得られる恵み、雄大な容姿や火山などに対する畏怖・畏敬の念から、山や森を抱く山は、神奈備(かんなび)という神が鎮座する山とされ、神や御霊が宿る、あるいは降臨する(神降ろし)場所と信じられ、時として磐座(いわくら)・磐境(いわさか)という常世(とこよ・神の国や神域)と現世(うつしよ)の端境として、祭祀が行われてきた。これらの伝統は神社神道にも残り、石鎚山や諏訪大社、三輪山のように、山そのものを信仰している事例もみられる。
 山そのものを神体としたり,山の神と田の神が交代する信仰や山人伝承,死霊が山にとどまり祖霊化する信仰等は,こうした観念に基づく。

 その後飛鳥時代に伝来されたという仏教においてでも、世界の中心には『須弥山(しゅみせん)』という高い山がそびえていると考えられ、平安時代に空海が高野山を、最澄が比叡山を開くなど、山への畏敬の念は、より一層深まっていった。平地にあっても仏教寺院が「○○山△△寺」と、山号を付けるのはそのような理由からである。
 日本における、山岳修行の開祖は役小角(えんのおづぬ)ではあるが、山岳信仰が本格的に日本古来の古神道や、後に伝来してきた仏教(特に天台宗や真言宗等の密教)への信仰と結びついて、「修験道」という独自の宗教が生み出されるのは平安時代からである。
 修験道は、森羅万象に命や神霊が宿るとして神奈備(かむなび)や磐座(いわくら)を信仰の対象とした古神道に、それらを包括する山岳信仰と仏教が習合し、密教などの要素も加味されて確立した。
 平安中期以降山岳修行により呪術的な力を獲得して宗教活動をする山伏(修験者)が出現して,日本の山岳信仰を特徴づけた。修験者の指導によって講が組織され,本来仰ぎみる信仰対象であった山岳は,しだいに参詣登拝の対象となる。霊山・名山の多くは江戸時代に庶民の登拝対象になった。明治期以降うまれた多数の教派神道は,こうした山岳を拠点としているとの事だ。


 社殿での参拝を終了し、帰りは一般参道ではなく、外回りのルートを利用した。この一帯も境内で、手入れも行き届いていて、水神社や愛宕社等の石祠が祀られている。
      
           水神社の石祠         水神社の南側には愛宕社が鎮座
 
 この下り坂のルート途中には多くの大岩・巨岩が見られる(写真左・右)。考えてみれば、山岳信仰は、山を崇め奉る信仰である。この信仰は基本的には山や、山にある大木、巨大な岩を信仰母体とすることが多い。
 


参考資料「妙義神社公式HP」
「山川 日本史小辞典 改訂新版」「日本大百科全書(ニッポニカ)
    「ニッポン旅マガジンHP」「Wikipedia」等

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