古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

斎条劔神社

         
               ・所在地 埼玉県行田市斎条1255
              ・ご祭神 日本武尊
              ・社 格 旧斎条村鎮守・旧村社 
              ・例 祭 不明
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1776464,139.4485394,15z?hl=ja&entry=ttu
 斎条劔神社は国道125号行田バイパスを羽生方面に進み、途中「総合運動公園前」の交差点を左折し、埼玉県道199号行田市停車場酒巻線を利根川方面に道なりに進む。埼玉県道199号線は行田市街地外れの和田地域から南河原地域の犬塚までの路線であるが、車幅が狭く屈曲している地点も多くあり、安全運転に努める必要性がある。行田市消防署分署を越えると前方右方向にこんもりとした社叢が見える。そこが斎条劔神社であり、社叢の西側で県道沿いに南北に広がる駐車スペースがあり、そこに車を停めて参拝を行った。
 社殿周辺は斎条古墳群と呼ばれる古墳群となっていて、この劔神社は斎条1号墳という古墳群を代表する円墳上に祀られている。
        
                   斎条劔神社正面
        
                       拝 殿             
  斎条村 第十一冊-頁六十七
  村の鎮守なり。(新編武蔵風土記稿より引用)

 当地は西条とも書き、条里制水田に由来した地名である。社記によれば景行天皇の御代御諸別王が勅命を奉じ、父彦狭島王に代わり東国都督となる。この時、王は当地開拓の祖である日本式尊の霊を、水陸の要にある当地を選んで、東国鎮護の神として祀る。更に、康平5年には八幡太郎義家が安倍氏を征伐するに当たり、社前に馬を休めた。これにちなんで八幡社を併せて祀る。また、応永年中忍城主成田左京亮家が神威を崇め神田を寄進する。更に、徳川家康が江戸に入り、社領十石境内数町を除地する。
 古老の話によれば、当社には愛染明王像が祀られていたが、神仏分離の折、宝泉寺に移されたという。往時この像を納めていたと思われる箱の裏書きには「元禄六癸酉杷919日 明治2己巳年529日改」とあり、神璽箱の裏書きには「明治2己巳年529日御改 忍藩岡村覚太郎様 民政社寺御掛立会清水圭太郎様 名主萎澤六左衛門 同見習千五郎 組頭 松岡平六 大次郎 又三郎 反次郎 吾十」とある。このほか釈迦如来像を安置している。
 幕末まで真言宗金剛山阿弥陀院宝泉寺が別当を務めていた。
 明治4年に村社となり、同43年には字大道の八坂社、白幡の諏訪杜・天神社、江川の雷電社、北反戸の浅間社、新田の熊野社、八幡の八幡社・矢矧社を合祀した。    
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                      本 殿
 
        社殿左側に鎮座する               境内社・八幡社
 浅間・雷・天満・矢矧・熊野・諏訪の各境内社    本殿と隣接するように鎮座している
   拝殿の左側に鎮座する境内社・八坂神社     拝殿と八坂神社の間にある石碑(?)
                          表面が削られているように見える。
   
 社殿周辺は斎条古墳群と呼ばれる古墳群となっていて、この劔神社は斎条1号墳という古墳群を代表する円墳上に祀られている。
 斎条古墳群は利根川の堤防を北方約1キロにのぞむ標高20m程の微高地に築造された。中心となる古墳は、剣神社の鎮座する直径40m、高さ3mの剣神社古墳と呼ばれる埴輪を持つ古墳で、斎条1号墳とも呼ばれ、円墳と推定されている。この古墳の周辺には8基の古墳跡が確認されている。昭和36年(1961年)水田下から埴輪が発見されたのを契機に斎条5号墳の発掘調査が行われた。
 斎条古墳群の存在する行田市斎条は、加須低地に位置していて、この加須低地は関東造盆地運動により、利根川からの河川堆積物を受けて徐々に沈降しているため、古墳群の墳丘自体も沈降している。
 近郊には酒巻地区があり、関東造盆地運動により沈降した「酒巻古墳群」も存在する。
       
              田園地帯に囲まれて静かに佇む社。
        
                   斎条劔神社遠景                            
 
 

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