古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

皿尾久伊豆神社大雷神社合殿

久伊豆雷電合社
 村の鎮守とす。縁起に文治44月成田五郎長景、伊豆国三嶋社を勧請せし所なる由記したり。成田五郎は承久の乱にも出し人にて、東鑑に見ゆ。されど久伊豆は郡中騎西町場に大社ありて、近郷是を勧請するもの多し。当社も恐くは其類ならん。社に永禄2年左衛門三郎と云ものの寄附せし鰐口を掛く。其図下に出す。此余天正5年中村丹波守守吉が寄附したる鰐口ありしが、何の頃か失ひしと云。社人、青木主殿。入間郡塚越村、住吉神職勝雅楽が配下なり。
・八幡社  村民持
・神明社
・天神社
・駒形明神社 以上三社 泉蔵院持                   新編武蔵風土記稿より引用
        
             
・所在地 埼玉県行田市皿尾393
             ・ご祭神 事代主命・別雷命
             ・社 格 旧村社 旧皿尾村鎮守  創建 文治4年(1188年)
             ・例 祭 例大祭 728
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.14366,139.4384419,16z?hl=ja&entry=ttu

 行田市皿尾地区に鎮座する久伊豆神社大雷神社合殿は国道125号線を行田市街地方向に進み、「行田市役所入口」交差点を左折する。埼玉県道303号弥藤吾行田線に変わり、その道を道なりに進む。途中忍川手前付近でY字路を左方向に進み、忍川を越えてから暫く直進すると正面の細い道の先が社の参道入口になっていて、その先に鳥居が見える。
        
               皿尾
久伊豆神社大雷神社合殿正面
「ふるさと館皿尾センター」が鳥居をくぐった先にあるのだが、神様の通る道を乗用車でくぐるのは失礼かと思い、鳥居手前に僅かに駐車できるスペースに停めて、急ぎ参拝を行った。
 鳥居手前には神橋がある。皿尾地域は荒川の分流である星川、旧忍川の間にあり、豊富な湧き水により古代から水田稲作が盛んにおこなわれていたという。
        
                    参道を撮影
 
西方向に参道が伸びるが途中で北に折れ曲がり社殿に至る。正面にはふるさと館皿尾センターが見える。因みにふるさと館皿尾センター手前には「皿尾城」の石碑あり。
        
          ふるさと館皿尾センター入口手前にある木製の二の鳥居
            参道からは直角に入るような配置となっている。
 
    参道途中にある手水舎(写真左)。手水舎脇にちょっとおしゃれな花手水を鑑賞(同右)

 「皿尾」という地名『埼玉県地名誌』には次のように記している。「皿尾の皿(サラ)は乾いたところないし製陶地を意味する。したがって皿尾とは陶器を製造した平坦地の意となろうか。この地が製陶に適した土地であることについては、「武蔵国郡村誌」の皿尾村の条に「地味、薄黒埴を帯ぶ」と記しているのは注目すべきである。
 
「埴を帯ぶ」と記した埴は粘土、赤土の称で、上代土器をつくる必要欠くべからざるものとされていたものである(中略)」
 また『埼玉県の地名』には「古墳時代の集落遺跡」があったと記しており、これらを踏まえると、皿尾村はまさに「製陶地」だったのではなかろうか。
                 
                     拝 殿
 皿尾地区西側近郊には池上・小敷田遺跡が存在する。池上・小敷田遺跡は、熊谷市と行田市にまたがる遺跡で、秩父山地に発する荒川が関東平野に流れ出て形成した荒川扇状地の扇端付近に立地し、荒川から扇状に分流する星川と忍川の間の低地部に位置する、
 これらの遺跡は妻沼低地の自然堤防上に立地する弥生時代中期中葉から江戸時代までの複合遺跡である。池上遺跡では環濠集落、小敷田遺跡では関東地方で最古段階の方形周溝墓が見つかっており、関東地方における水稲農耕集落の定着を証明した弥生時代中期中葉の遺跡として学史的にも有名である。出土遺物には、在地の土器や石器、土偶などの他に北陸地方の小松式や東北地方南部の南御山Ⅱ式、北信地方の栗林式などの外来系土器が発掘されている。
 
 久伊豆神社・大雷神社並列にて表記された扁額          拝殿内部

 皿尾
久伊豆神社大雷神社合殿の社宝として直径七寸四分の鰐口がある。永禄二年(1559)十一月三日、左衛門三郎奉納とある。
市指定有形文化財 久伊豆神社大雷神社合殿の鰐口
 鰐口とは、寺院や神社の拝殿の軒先に吊り下げられ、参詣者が綱を振って打ち鳴らす鈴です。偏平な円形状で、上部には吊るすための耳が2つあり、下部は細長く開口しています。この鰐口は、直径20.5センチメートル、厚さ8センチメートルの偏平形で、全体に緑青(錆)に被われていますが、特に損傷はありません。同じ規型で前後両面の雌型を作り鋳造したもので、耳は前後各面に一箇ずつ鋳出されています。湯口は上部中央にあり、目は突出し、先端部はそぎあげられています。撞座(つきざ)には簡略化された蓮子が8個(中心に1個、周囲に7個)表出されています。撞座から外側に向かって内区、外区に区分され、その外区の右側には「奉掛鰐口」の銘文が刻まれ、「鰐口」の下に続く銘文の痕跡があります。左側には「永禄二年十一月三日願主右衛門三郎」の銘文が刻まれ、月日の横に小文字で「鋳物師田井」と鋳物師名が刻まれています。
 久伊豆神社の所在する皿尾には、かつて皿尾城(掻上城)が所在し、上杉謙信が忍城攻めの拠点とした事で知られていますが、この鰐口は、永禄二年(1559
)の紀年銘を持ち、伝来も「新記」などにより明確であり、地域の歴史を反映する貴重な資料です。 
                                   行田市HPよりより
引用

 
    久伊豆神社大雷神社合殿境内社        久伊豆神社大雷神社合殿神輿庫
       
                拝殿手前・左側にある春日杉。
          御神木の春日杉から蛇が出ると雷雨になると言われている。
        
                                   拝殿からの一風景
 皿尾久伊豆神社大雷神社合殿は、皿尾を拠点としていた成田五郎長景が伊豆国三嶋社を勧請して文治4年(1188)に久伊豆社として創建したと伝えられている。三島神社のご祭神が事代主命でもあり、本来久伊豆神社のご祭神が大己貴命である矛盾は上記の件で納得できる。
 大雷神社が合祀された時期は不詳だが、新編武蔵風土記稿には久伊豆雷電合社と記載されており、江戸時代後期には合祀されていたようだ。明治6年村社に列格、明治41年に皿尾字駒形の伊駒神社(駒形明神社)、皿尾字仲ノ在家神明社、皿尾字仲ノ在家天神社を合祀している。
        

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