古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

戸宮八幡神社


        
             
・所在地 埼玉県坂戸市戸宮60
             
・ご祭神 (主)天御中主大神 (相)応仁天皇
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 春祭り 225日 例祭 101日 秋祭り 1123
 片柳飯盛神社参拝後、一旦国道407号線に合流し、暫く南方向に進路をとる。約1㎞先にある「坂戸ろう学園前」交差点を左折し、埼玉県道269号上伊草坂戸線を東方向に道なりに進む。2㎞程進んで正面にコンビニエンスストアに到着するY字路手前の大きく右カーブする先の十字路を右折し、400m先にある信号のある交差点を左折すると左手に戸宮八幡神社の社叢林、及び社号標柱が見えてくる。
 グーグルマップを確認すると、そこは四差路の交点にあたり、社はその四差路の北側に鎮座している。社の東側には「戸宮東集会所」があるが、集会所沿いにはロープが張ってあり、駐車スペースはあってもそこに停めることができず、道路沿いにある集会所から社入り口の僅かのスペースに路駐し、急ぎ参拝を行った。
        
                  
戸宮八幡神社遠景
 戸宮地域は、坂戸市の南東部に位置する農業地域である。『風土記稿』によれば、本は「富屋」と書いたが、いつのころか「戸宮」の文字になったという。
 
 南北に参道が通り、その間には社叢林が広がる。  参道を少し進むと石製の鳥居がある。
『日本歴史地名大系』 「戸宮村」の解説
 [現在地名]坂戸市戸宮・栄・千代田五丁目、鶴ヶ島市富士見六丁目、川越市下広谷(しもひろや)

 塚越(つかごし)村の南にあり、南は高麗郡下広谷村(現川越市)。川越秩父道が南東から北西に通る。小田原衆所領役帳に玉縄衆間宮豊前守の所領として「入西郡富屋」二一貫五六三文があり、弘治元年(一五五五)に検地が行われていた。近世には高麗郡に属した(風土記稿)。田園簿には戸宮村とあり、高五九石余で皆畑、ほかに野銭永三貫八三文。川越藩領で幕末に至る。慶安元年(一六四八)・寛文元年(一六六一)に検地が行われた(風土記稿)。
        
     入口右側には戸宮八幡神社の由緒書きが記されている案内板が設置されている。
        残念なことに長い歳月により、字が薄くなり見えない所もある。
 八幡神社
 当社の祭神は天御中主大神であり、鎮座年代は不詳であるが、往古より一村一社の鎮守として創立され、永承七年(一〇五二年)二月十五日に社殿が再建されたと伝えられ、明治五年村社となった。明治四十三年、大塚野新田に鎮座した八幡神社、御嶽神社を合祀し、現在に至っている。
 またこの地には、昭和五十一年一月二十九日坂戸市の無形民俗文化財に指定された獅子舞が伝えられている。
 詳しい記録はないが、元治阿使用中の道具や古老の口伝えによれば、徳川中期頃から一村融和団結のシンボルとして華麗な装束によって行われたが、最近、時代とともにやや簡素化されたという。しかし獅子舞そのものの演技は、古い伝統をよく守って独特な郷土芸能として保存されている。
 毎年十月一日が例祭、一月一日が元朝祭、二月二十五日が春祭り、十一月二十三日が秋祭りである。
 獅子舞の実演は、毎年十月一日の例祭当日午後二時頃から社前で行われる(以下略)
                                      案内板より引用

        
                  鳥居の左側に設置されている「戸宮の獅子舞」の案内板
 戸宮の獅子舞(坂戸市指定無形民俗文化財)
 秋になると豊年を祝う獅子舞が、市内の各地で行われます。竹で作った「ささら」と呼ばれる楽器を使って獅子舞を踊るので、「ささら舞」とも言われ、昔から地元の人々によって受継がれてきました。
 戸宮の獅子舞は、江戸時代に八幡神社のお祭りに演じられたのが始まりと言われています。
 戸宮の獅子舞は、江戸時代に五穀豊穣を祈って八幡神社の例祭に奉納されるようになったと言われています。例祭は以前、十月一日でしたが、現在は十月の第三土曜日になりました。
 獅子舞の演者は、高張・天狗・花笠・笛吹き・仲立・雌獅子・中獅子・大獅子・唄うたいで、演目は「竿がかり」・「新ささら」・「角平」の三曲です。例祭の当日は、集会場で準備を整え、ほら貝の三つの合図で行列を組み、笛、太鼓をならしながら八幡神社に向かいます。この行列を「道中ささら」と呼びます。八幡神社の前で、獅子舞を奉納して、戸宮の地区内をゆっくり舞いながら集会場へともどります。夜、ふたたび集会場の庭で、獅子舞が行われます。
 獅子舞は、笛・唄・ささらに合わせて、太鼓をたたきながら踊ります。舞の内容は、仲立の先導で、大獅子と中獅子が花笠に隠れた雌獅子を探すというもので、神話を題材にしています(以下略)。
                                      案内板より引用
        
        豊かに生い茂っている社叢林の中に社殿は静かに鎮座している。
        自然と一体感となっているこの雰囲気が心地よく感じられる社。
        
                     拝 殿
 八幡神社 坂戸市戸宮六〇(戸宮字屋原)
 当社は、この戸宮の鎮守として、開村と時を同じくして勧請されたと伝えられ、応仁天皇と天御中主大神を祀る
 社殿によると、永承七年二月一五日の再建というが、現存する棟札は、天保一二年・嘉永七年・安政四年の三枚だけで、残念ながら永承のものは失われてしまっている。
 明治五年に村社となり、同四三年には、大字大塚野新田から字八幡裏の村社八幡神社、字御嶽の御嶽神社の二社を合祀した。なお大塚野新田は八戸しかない小さな村で、昭和一五年に陸軍坂戸飛行場用地として、村全域が買収され、住民はことごとく代替地の鶴ケ島村脚折の一天狗地区に移住し、これを機に新しく神社を奉斎している。ちなみに、戦後、坂戸飛行場は廃止され、工業団地となっている。
 本殿は一間社流造りで、内陣には幣束が納められている。境内には、様々な記念碑が立ち並び、社殿を取り囲むように杉・松・檜の混淆林がある。
                                  「埼玉の神社」より引用
       
        社殿右側で、幣殿部近くに立派に聳え立つ大杉(写真左・右)


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「坂戸市HP」
    「境内案内板」等


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片柳飯盛神社

 鶴ヶ島市脚折地域に雷電池(かんだちがいけ)がある。現在は「雷電池(らいでんいけ)児童公園」と名称は変わったが、この公園内には「雷電神社」が鎮座している。この雷電池で4年に1回開催される、江戸時代から続く神事「脚折雨乞」が有名で、大きな龍神が街中を練り歩く地域伝統芸能「雨乞い祭り」がある。
「脚折雨乞」の由来として鶴ヶ島市HPには以下の伝承を載せている。
「昔から日照りのとき、脚折の雷電池(かんだちがいけ)のほとりにある脚折雷電社(らいでんしゃ)の前で雨乞いを祈願すると、必ず雨が降った。特に安永・天明(17721789)の頃には、その効験はあらたかで近隣の人の知るところであった。 しかし、天保(18301844)の頃には、いくら雨を祈ってもほとんどおしるしがなくなってしまった。
 それは、雷電池には昔、大蛇がすんでいたが、寛永(16241644)の頃、この池を縮めて田としたため、大蛇はいつしか上州板倉(群馬県板倉町)
にある雷電の池に移ってしまった。そのため雨乞いをしても、雨が降らなかった」
この雷電池(かんだちがいけ)等を水源(実は水源の本流は、関越自動車道・鶴ヶ島IC付近で二手に分かれる西側の上流部には池尻池ともいわれていて、雷電池同様に湧水となっている)とする飯盛川は、鶴ヶ島市と坂戸市との境界付近からほぼ一貫して北流し続けるのだが、飯盛神社北西地点付近で突然流れを直角に東へと変える。また水源から飯盛神社まで北方向に流れているのだが、そこまでは「山田川」。そこから東方向に進み、越辺川へと合流する4㎞程の流路が「飯盛川」といわれていた。
『新編武蔵風土記稿』「坂戸村」
「山田川 高麗郡臑折村内雷神池より流出、當村に入、隣村片柳へ沃げり」と記載があり、
山田川は飯盛川の旧名と思われる。現在はどちらも「飯盛川」で統一されているようだ。
        
              ・所在地 埼玉県坂戸市片柳1829
              ・ご祭神 豊保食姫命
              ・社 格 旧村社
              ・例祭等 祈年祭 226日 例大祭410日 秋祭り 1017日
                   勤労感謝祭 1126日 大祓い 1228日
 片柳飯盛神社は国道407号線を南下し、越辺川に架かる「高坂橋」を過ぎてから1㎞程先にある信号のある交差点を右折する。この交差点右側にはコンビニエンスもあるので分かりやすい。その後200m先の十字路を再度右折すると、正面に社叢林、及び境内の風景が見えてくる。
 南側正面には鳥居が立っており、そこから北方向に一色線の参道があり、その真ん中付近には「片柳第一集会所」がある。集会所近辺で参道を含む境内において、撮影に支障のきたさない場所に駐車させて頂き、その後参拝を開始した。
        
                  片柳飯盛神社正面
 
        正面石製の鳥居                鳥居の社号額
 いつものように『日本歴史地名大系』には「片柳村」の解説が以下のように載せられている。
 [現在地名]坂戸市片柳・芦山(あしやま)町・伊豆の山(いずのやま)町・末広町
 
坂戸村の北東にあり、北は北東流する越辺(おつぺ)川を隔て比企郡田木(たぎ)村(現東松山市)。飯盛(いいもり)川が北東へ流れる。中世には鎌倉街道が通っていた。承元四年(一二一〇)三月二九日の小代行平譲状(小代文書)には養子俊平へ譲られた小代(しようだい)郷(現東松山市)内「をつへの村」の南境として「かたやきのさかひ」がみえる。文明一九年(一四八七)二月甲斐国吉田(現山梨県富士吉田市)から武蔵国へ入った聖護院道興は「かた柳といへる所をとをるとて」として「一しほのみとりになひく糸ハけに春のくるてふかた柳かな」と詠じている(廻国雑記)。この「かた柳」を当地に比定して歌碑が建てられている。休台(きゆうたい)寺の過去帳に伝えられたという元亀二年(一五七一)九月二三日の紀年のある飯盛神社棟札銘写には「入西郡ノ内片柳郷長柳山妙慶寺」とある(風土記稿)。
承元四年小代文書「越辺村の四至、南はかたやきのさかひをかきる」
鎌倉光触寺文書 「貞治三年六月二十五日、成田下総守泰直と玉井蔵人入道覚道は、片楊長門入道の押領を退け、鎌倉大慈寺新釈迦堂領武蔵国横沼郷(坂戸市)の下地を寺家雑掌に打ち渡す」とあり、片柳「カタヤナギ」は、元は「片楊 カタヤギ」と呼んでいたようだ。
 
      鳥居の先に立つ社号標柱          静かで落ち着きのある境内
        
                 片柳飯盛神社由来の碑
 由来
 片柳の地は康安年間片柳長門入道の草蒼の土地なり。産土神として飯盛大明神を祀る。
 御魂は伊勢の國外宮豊保食姫命(保食神)なり伊勢の國外宮の地形に類似して西側に山田川北側に流るるを御神号を以って飯盛川と唱えり。
 元亀貳年當所の地頭岩槻城太田氏の被官にて恒岡入道大林軒道會日勢と片柳の長柳山妙慶寺創建開山の祖相州比企ヶ谷妙本寺住持本行院日慶上人を請じて社殿を建立し飯盛大明神、三十番神を併祀し神佛混淆の神社とす。爾来約参百有餘年を経て明治に入り混淆の制度廃止となり三十番神を正覺山休寺に遷座する。
 明治五年に村社に列せられる。後明治四拾年五月村の無格社、稲荷社、荒神社、熊野社、天神社、八坂社、白山社の六社を合祀し飯盛神社と號す。
 拜殿は安政貳年の再建である。
        
                     拝 殿
 飯盛神社 坂戸市片柳一八二九(片柳字宮の前)
 片柳の鎮守である当社は、通称飯盛様と呼ばれ、また神仏混淆時代に三十番神を祀っていた名残で番神堂ともいう。社殿の建築については棟札写しに「安政二年九月 大工棟梁武州高麗郡的場村柴原建五郎藤原規守」とある。
 伝承として康安年間に創立というが確たる資料はない。『風土記稿』に「飯盛明神社 当社は旧き鎮座の由伝へり、元亀年中三十番神を配すと云、休臺寺の持」とあり、更に休臺寺の項に「当寺に飯盛神社の古棟札を蔵せしが、何の頃か失へる由」と載せる。また、元亀二年、地頭岩槻城太田氏被官恒岡入道大林軒道会日勢という者が、片柳郷長柳山妙慶寺(現休台寺)の開祖、鎌倉比企谷妙本寺住持日慶上人に請て三十番神を勧請したとも伝える。恐らくは、農耕神として祀られていた神に三十番神を配したものであろう。
 主祭神は豊保食姫命で、伊勢の外宮と同じであると伝え、外宮の鎮座地である山田原にちなみ、当社近くの川を山田川と称している。
 明治初めの神仏分離により三十番神を休臺寺に遷座、明治五年に村社となり、同四〇年には熊野神社をはじめとする六社を合祀した。
                                   「埼玉の神社」を引用

 休臺寺
 日蓮宗、房州小湊誕生寺の末、正覺山と號す、本尊三寶祖師を安ず、開山日慶天正八年八月十三日示寂、中興開基横田次郎兵衛延寶七年正月廿三日卒す、法名正覺院一乗日臺居士と云、當寺飯盛神社の古棟札を蔵せしが、何の頃か失へる由、過去帳の端に寫を殘せり、其あらまし當所の地頭松山の旗下、恒岡入道大林軒道會日勢といへる人、三十番神を勧請せりと、又武州入西郡の内片柳郷長柳山妙慶寺日慶上人の勧請也、相州鎌倉比企ヶ谷妙本寺住本行院日慶、元亀二年辛未九月廿三日とあり、是をもて考れば往古は山號・寺號も今とは違ひしに、延寶年中中興開基横田氏の法謚を取て山號とし、其おりから寺號も改めしものなるべし、文中松山の旗下と記せるによれば、松山は則比企郡松山にて、彼恒岡大林軒と云人、もしくは松山城主上田氏の臣に恒岡氏ありてそれ等をさすにや、いまだつまびらかなるを知ず、
 祖師堂
 此堂は元毘沙門堂にて毘沙門を安ぜしに、近き頃傍に日蓮の像を並べ置しかば、今は祖師堂とのみ稱せり、堂の傍に元亀二年の古碑一基あり、
鍾樓。寶永五年十一月の銘を彫し鐘を掛たり。
                             『新編新編武蔵風土記稿』より引用
        
               拝殿向拝部の細やかな彫刻の細工。
         製作者は「武州高麗郡的場村柴原建五郎藤原規守」という。
 
     拝殿手前右手にある神楽殿       拝殿右隣に祀られている境内社・稲荷社


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「鶴ヶ島市HP」
    「境内掲示板」等


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三波川惣社姥神社及び三波川琴平神社

 三波川(さんばがわ)は、群馬県藤岡市三波川を流れる利根川水系の一級河川である。流域は全域が群馬県藤岡市に含まれる。東御荷鉾山の東麓に源を発し、東流する。東御荷鉾山から伸びる二つの尾根からの水を集め、下久保ダムの調整ダムである神水ダムの堰堤直下で神流川と合流する。
 上流部は主に山林であり、スギの人工林と落葉広葉樹林からなる。主に深い渓谷からなり、妹ヶ谷不動の滝を始め、落差数m程度の滝がみられる。所々やや平坦になり、数戸〜十数戸程度の集落と畑地が開ける。 桜山の登口のあたりから中流部となる。中流部から下流部では、河川自体は深い渓谷の下を流れる。周辺の植生は杉林、落葉広葉樹林に加え、照葉樹林がみられるようになる。崖の上は比較的平坦に広がるようになり、畑地やみかんの果樹園として利用され、一部に水田もみられるようになる。また、親水公園として小平河川公園が整備され、水遊びやバーベキューを楽しむことができる。
 三波川は白亜紀の海底堆積物が変成作用を受けた三波川変成帯の模式地となっており、緑色の変成岩である三波石を産出する。昭和中頃まで庭石として採取されたため、河川環境が破壊された。1993年(平成5年)以降三波川に石を戻す会の手により石が戻され、徐々にヤマメなどが棲息する環境が回復しつつある。
 嘗てこの地域は古墳時代、神流川との合流点左岸、および流域の上ノ山台地の上にそれぞれ古墳が築かれていて、昔から発達していた地域でもある。また平安時代には、三波川流域を含む奥多野や神流川の対岸、城峯山周辺に平将門の乱に関係する伝承が多く残っているロマン溢れる地域でもある。
        
              
・所在地 群馬県藤岡市三波川114
              
・ご祭神 石凝姥命
              
・社 格 不明
              ・例祭等 不明
 国道462号線沿いに鎮座している鬼石神社。一旦国道に合流後、南方向に進路を取り、群馬県道177号会場鬼石線.との交点である「三杉町」交差点を右折する。県道とはいっても決して道幅は広い道路ではない。「三杉町」交差点から県道合流後、暫くの間は民家も立ち並ぶ中で走行しているが、そのうちに山道の中での道路の両側、特に進行方向右側は急傾斜の斜面が続き、「急傾斜地崩壊危険区域」の看板も見える地域。時折民家が進行方向左側にポツポツと見える中で心寂しさも過る中で車を県道に交わる交差点から800m程進むと、辺りは明るく開け、民家が立ち並ぶ場所に到達し、その右側高台上に三波川惣社姥神社の鳥居が見えてくる。
 因みに「姥神社」は漢字通り「うばじんじゃ」と読む。
        
              県道沿いに鎮座する三波川惣社姥神社
『日本歴史地名大系』には 「三波川村」の解説が載せられている。
 [現在地名]鬼石町三波川
 東御荷鉾(ひがしみかぼ)山(一二四六メートル)の東、神流川支流の三波川が東西に貫流し、北は高山村・多胡郡上日野(かみひの)村・下日野村(現藤岡市)、東は浄法寺(じようぼうじ)村・鬼石村、南は甘楽郡譲原(ゆずりはら)村・保美濃山(ほみのやま)村・坂原(さかはら)村、西は同郡柏木村(現万場町)と接する。地質は大部分が古生層三波川式変成岩類で、随所に美しい結晶片岩の露頭がみられる。
 天文二一年(一五五二)北条氏康が関東管領上杉憲政を敗走させた後の三月二〇日、北条氏は「三波川谷北谷之百姓」の在所帰住を令する。その朱印状(飯塚文書)は「北谷百姓中」に宛てられ、三波川流域は北谷(きただに)と称されていた。永禄六年(一五六三)武田信玄との申合せによって北条氏から安保氏に与えられた地に「北谷村」がある(同年五月一〇日「北条氏康・氏政連署知行宛行状」安保文書)。のち長井政実が上杉氏から武田氏に服属して北谷の実権を握り、三波川の飯塚氏に知行宛行・安堵をしている。同九年七月一日には本領「北谷大なら馬助分」八貫文と同所抱分二貫文などの安堵の判物(飯塚文書)を与え、天正六年(一五七八)二月一二日の判物(同文書)で近世には当村の枝村となる琴辻(ことつじ)の知行高を一貫五〇〇文に定め、同八年七月二日にも「大奈良」三貫文などの安堵の判物(同文書)を出している。
 戦国期には飯塚氏や根岸氏など「北谷衆」とよばれる土豪がいた(天正一三年三月二一日「北条氏邦朱印状写」同文書)。同一四年に「北谷之郷」の検地が北条氏によってなされ、本増ともに一〇三貫一七六文の年貢高となり、増分は二三貫文余あったが、うち一一貫文余が免除された(同年一〇月一九日「北条氏邦朱印状」同文書)。同一五年八月二三日に「北谷百姓中」に宛て、当年秋の穀物すべてを箕輪(みのわ)城(現群馬郡箕郷町)に納めるように令し(「北条氏邦朱印状」同文書)、同一七年八月二九日には飯塚氏に北谷年貢銭で黄金と綿をそろえ納めるよう令している(「北条氏邦朱印状」同文書)。

「日本歴史地名大系」に記されている「飯塚氏」や「根岸氏」は嘗て「北谷衆」とよばれる土豪であり、児玉郡御嶽城主長井政実の家臣でもあった。
「飯塚氏」
 〇飯塚馨文書
天正六年二月十二日、琴辻一貫五百文赦免手形、飯塚弾正忠殿、政実花押(長井)」
「天正六年七月一日、知行方、本領北谷・武州安保等を宛行う、飯塚和泉守殿、政実花押」
「天正十三年三月二十一日、御蔵銭五貫文を預け漆を調進させる、北谷衆飯塚六左衛門・同源七郎・根岸忠右衛門、北条氏邦朱印」
「根岸氏」
三波川飯塚文書
「天正十三年三月二十一日、北条氏邦は、北谷衆に御蔵銭五貫文を預け置き、その代物として漆を調進せよと命ず。北谷飯塚六左衛門・同源七郎・根岸忠右衛門・北谷衆中」
       
                           石段上には新しい神明鳥居が立つ。
       
                                      拝 殿
        創建等は不明。但し大同年間(80610年)の創建とも云われる由緒正しい社。
 
      拝殿に掲げてある扁額               本 殿
 三波川惣社姥神社のご祭神は「石凝姥命(いしこりどめのみこと)。通常伊斯許理度売命と表記されることが多い神である。この神は、日本神話に登場する天津神系の女神で、作鏡連(かがみづくりのむらじら)の祖神、天糠戸(あめのぬかど)の子とされている。『古事記』では伊斯許理度売命、『日本書紀』では石凝姥命または石凝戸邊(いしこりとべ)命と表記されている。
 日本神話において、太陽神である天照大御神が建速須佐之男命の度重なる乱暴(田の畔を壊して溝を埋めたり、御殿に糞を撒き散らす等)に怒り、天岩戸に引き篭り、高天原も葦原中国も闇となり、さまざまな禍(まが)が発生した。
 そこで八百万の神々が天の安河の川原に集まり、対応を相談する。その際に神々がとった行動の一つとして、鍛冶師の天津麻羅を探し、伊斯許理度売命(石凝姥命)に、天の安河の川上にある岩と鉱山の鉄とで、八咫鏡(やたのかがみ)を作らせたという。

               本殿内部を撮影(写真左・右)

 拝殿手前左側に祀られている境内社・石祠群  正面鳥居の右側に祀られている「道祖神」等

 伊斯許理度売命・石凝姥命(いしこりどめのみこと)の神名の名義について、「コリ」を凝固、「ド」を呪的な行為につける接尾語、「メ」を女性と解して、「石を切って鋳型を作り溶鉄を流し固まらせて鏡を鋳造する老女」の意と見る説があり、鋳物の神・金属加工の神として信仰されている。 
       
                                 拝殿からの一風景

 三波川惣社姥神社から県道を5㎞程西行すると、「三波川琴平神社」に到着する。同じ三波川地域に鎮座する社でもあり、実のところこの社を散策するのが今回の目的の一つでもあった。
 しかし、昨今の「クマ出没」件数の多さ、加えて怪我・死亡事故等のテレビ等の報道もあり、現実この県道を走らせている途中にも「クマ出没 注意」との看板も設置されており、今回は遠目からの撮影にて終了させて頂いた。
 また残念なことにインターネット等で紹介されていた「アーチ形の赤い橋」は既に撤去・解体されていた。写真でも分かる通り、端を設置した際の基礎部分だけが残り、在りし日の情景を思いふけるのみである。
        
               三波川琴平神社を対岸より撮影。



参考資料「日本歴史地名大系」「埼玉苗字辞典」「Wikipedia」等

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鬼石神社

  藤岡市鬼石町区域は市の南部に位置し、東西に約10.7km、南北約5.3km、面積は約52.5k㎡で、その8割程度が山林に覆われている。地形は、西端部にある東御荷鉾山を頂点とした褶曲山地であり、この谷間を三波川が流れている。 また、西は神流町、東と南は神流川を県境として埼玉県と接し、清流と緑の山並みに囲まれ、潤いと安らぎのある豊かな自然に抱かれた地域である。200611日に藤岡市へ編入された為消滅した
 古くは尾西と称した。「上毛風土記」「上野志」には鬼子の名も見られる。
 この地域名の語源は諸説あり、「昔々、御荷鉾山に住んでいた鬼が人里へ下りてきては田畑を荒らし、人々に危害を加えていた。困り果てた村人は、旅の途中で立ち寄った弘法大師に退治を懇願。大師が読経し護摩をたくと、鬼はたまらず大きな石を投げ捨てて逃げ去った。その石の落ちた場所が鬼石町と伝えられ、石は鬼石神社のご神体として、今も町民の信仰を集めている」
『上野国志』では「昔弘法大師が御荷鉾山に住む鬼を調伏した折鬼の持っていた石を放り投げ、その石の落ちた場所が鬼石であると伝える。また一説には古来御荷鉾山から山中・三波川・鬼石・秩父にかけて鬼の太鼓ばちと呼ばれた石棒などの石器の用材が産出され、鬼石がその製造地・集散地であったことによるともいわれる」
 またアイヌ語の「オニウシ」(樹木の生い茂ったところ)に由来する説などがある。
        
             ・所在地 群馬県藤岡市鬼石7221
             ・ご祭神 磐筒男命 伊邪那岐命 伊邪那美命
             ・社 格 旧郷社
             ・例祭等 夏祭 71415日に近い土日曜日
 国道462号線を西行し、神流川に架かる「神流橋」を越え、最初の信号のある「浄法寺」交差点までは前項「浄法寺丹生神社」と同じだが、この交差点を左折する。
 交差点は左折するが、道路は国道462号線のまま旧鬼石町方向に進路をとる。この国道は通称「十石峠街道」ともいい、中山道新町宿(高崎市新町)から神流川(かんながわ)に沿って藤岡、鬼石、万場、中里、上野、白井(しろい)の各宿を通って上信国境の十石峠(じっこくとうげ、標高1351m)を越えて信州に入り、佐久を経て下諏訪宿で中山道や甲州街道に合流する街道である。
 十石峠の名の由来は、山が川に迫る神流川沿いの地域は平地が少なくて米作りができないため、信州から1日十石(約
1,500㎏)の佐久米が「十石馬子唄」を唄う馬子によって上州に運び込まれたことによると言われている。
        
                   鬼石神社正面
 神流川の流れを左手に見ながら南北に通じる国道462号線を暫く進むが、「諏訪」Y字路の交差点で右方向に変わり、神流川と離れる。ここから旧鬼石町市街地内に入る。「諏訪」交差点から南に行くこと500m程で右手の高台上に鬼石神社の赤い鳥居が僅かに見えてくる。
 境内に入る為には、一旦正面鳥居の石段附近を過ぎてからすぐ先にあるT字路を右折して、鬼石神社の裏手に回り、社殿と神楽殿の間に数台分の駐車スペースが確保されているので、そこに移動してから参拝を開始した。
        
           鬼石町市街地を見守るような西側高台に鎮座する社
『日本歴史地名大系 』「鬼石村」の解説
 [現在地名]鬼石町鬼石
 北は浄法寺(じようぼうじ)村、西は概して山地で三波川(さんばがわ)村に隣接。東と南とは神流川を隔てて武蔵国渡瀬(わたらせ)村と上・下の阿久原(あぐはら)村(ともに現埼玉県児玉郡神泉村)に相対する。東部を南北に十石(じつこく)街道が通じ、南部で武州側・山中谷(さんちゆうやつ)・三波川村の三方面に分岐する。永禄二年(一五五九)の「小田原衆所領役帳」に垪和又太郎「七拾貫文 鬼石」とある。同六年五月一〇日に武田信玄との申合せによって「鬼石村」は北条氏から安保氏に与えられる(「北条氏康・氏政連署知行宛行状」安保文書)。その後、高山氏に与えられたらしく、検討の余地があるとされる元亀元年(一五七〇)一二月二七日の武田信玄判物写(「高山系図」所収)で鬼石の替地として若田(わかた)郷(現高崎市)を高山山城守に与えている。「甲陽軍鑑」伝本には「おにのつら」「鬼面」とも記している。また年月日未詳の小田名字在所注文写(熊野那智大社文書)には「おにす」とある。
 地形を確認すると、上流域にある神流湖からの神流川の流路が東方向から北方向に変わり、神川町上阿久原地域の北端で再度真東方向に変えながら、左方向に大きくカーブするように突出部を形成する、その左岸にできた河岸低地と低地西側にある高台の間に鬼石市街地は形成されている。
 旧十石峠街道沿いには大きな伝統的な商家建物や、土蔵造りの商家建物も見られ、古い町並みが今なお残る懐かしい地域でもある。
        
                                  創建時期 不明
            御祭神 磐筒男命 伊邪那岐命 伊邪那美命の3柱
 江戸時代には鬼石明神と称し、元禄十六年(1703)宣旨をもって正一位を授けられ、明治になって鬼石神社と改称し、郷社に列せられた。
 鬼石神社の御祭神筆頭である「磐筒男命」は「イワツツノオ(イハツツノヲ)」と読み、日本神話に登場する神で、『古事記』では石筒之男神、『日本書紀』では磐筒男神と表記されている。
『古事記』の神産みの段でイザナギが十拳剣で、妻のイザナミの死因となった火神カグツチの首を斬ったとき、その剣の先についた血が岩について化生した神で、その前に石析神・根析神(磐裂神・根裂神)が化生している。『日本書紀』同段の第六の一書も同様で、ここでは磐筒男神は経津主神の祖であると記されている。『日本書紀』同段の第七の一書では、磐裂神・根裂神の子として磐筒男神・磐筒女神が生まれたとし、この両神の子が経津主神であるとしている。      
        
                                  拝殿に掲げてある扁額
        
                 拝殿向拝部の龍の彫刻
 
    向拝部の両端に位置する木鼻部位にも見事な彫刻が施されている(写真左・右)
        
            拝殿左側には御神木の切り株が残っている。
 樹齢
500年と思われる程の径幅が大きな大杉があったそうだが、平成259月の台風18号の際の強風で倒木したそうだ。但しその際に、本殿や南側に祀られている境内社群には一切被害が及ばない場所に倒れていたという。ご神木が自らの意思で安全な場所に倒木したのであろうか。
        
  ご神体は鬼が御荷鉾山から投げたといわれる「鬼石」と呼ばれる石が本殿床下にある。
 本殿を左方向からぐるっと回る。すると「鬼石」の名前の由来となった石が本殿の床下にあるという札が貼ってある。但し遠間から見る為筆者には暗くてよく見えなかった。

 鬼石町北西部には古くから地元の方々の信仰の山である「御荷鉾山(みかぼやま)」が聳え立つ。通常は西御荷鉾山(1,287m)と東御荷鉾山(1,246m)の二峰を指すが、東西の御荷鉾山とその間にある標高1191mのオドケ山を加えて総称することがある。その三つの峰「三株」「三ヶ舞」が「みかぼ」山の由来という説もあるらしい。また日本武尊(やまとたけるのみこと)東征の折、この山を越えるとき、鉾を担われた伝説から、この字が当てられたともいう。古来より地元の人々の信仰の山で毎年428日の山神祭には神流町・万場を挙げて賑やかに山登りが行われている。
 西御荷鉾山の山頂付近は大の字に刈り込まれている。これは昔麓の村で疫病が流行し、西御荷鉾山の不動尊に平癒祈願したところ疫病が治まったため、大願成就を記念してかり出されたとのこと。
 東西の御荷鉾山の間の峠を投げ石峠といい、麓の町を鬼石という。昔、御荷鉾山に棲んでいた鬼を弘法大師(空海)が退治したとき、鬼が石を投げて逃げた。この石を投げたところを投げ石峠と呼び、石が落ちたところを鬼石と呼ぶようになったという。
 なお、弘法大師が登場しない伝承もあり、この場合鬼は御荷鉾山を一晩で富士山より高くしようとし、それに失敗して石を投げることとなっている。

境内は社殿から左方向、つまり南側に敷地が広がり、そこには幾多の境内社が祀られている。
 
 拝殿左側に祀られている境内社・石祠等(写真左・右)右側の写真の石祠・石碑は八坂神社。
        
                        境内一番南側に祀られている境内社 
       神明調の社殿造りであることから「護国神社」の類かもしれない。 
        
                        社殿左側奥に祀られている境内社・合祀社
                     中央に神明宮(春日大神・天照皇大神・八幡大神)
                   中央左隣に琴平神社・天満宮・神虫除神社・疱瘡神社
                  中央右側隣が稲荷神社・秋葉神社・猿田彦神社・三峰神社
 
       境内社・五角注の社日神          拝殿右側に祀られている境内社
        
                                       神楽殿
 拝殿前方右手には神楽殿がある。毎年7月の中旬に開催される夏祭りは、勇壮な屋台囃子と屋台巡行で知られ、「関東一の祭り囃子」と言われている。
 鬼石夏祭りの始まりは、江戸時代の後期、当時は、「鬼石祇園祭り」の名称で、花車と言われる万灯型の笠鉾3台が、揃って鬼石神社に登上したそうだ。文政7年の棟札が鬼石神社に残されている。
 明治18年以降、人形が飾られる形の組み立て式の山車が引き出されるようになり、昭和になると屋根つきの屋台が作られ、昭和45年に相生町が屋根つきを新造して5台となり、現在の姿になった。昭和50年に祇園祭の名称が、宗教色があるとの理由で「鬼石夏祭り」に変更された。
 5台の屋台によるお囃子は、関東一と言われている。また、勇壮な新田坂(シンデンザカ)の駆け上がりは、祭りの見どころの一つとなっている。地区ごとに独自の調子を持つお囃子と、屋台の屋根に若者が上がり、高速で引き回す勇壮な姿には大きな拍手と歓声が寄せられる。また、二日目の本祭りの夜には、おまつり広場で笛や太鼓の技とお囃子の音色を競い合う「寄り合い」が行われる。「寄り合い」」では、各町内で受け継がれてきた独自のお囃子の打ち回しの後、5町一斉の乱れ打ちが行われ、お祭りが最高潮を迎える。
 尚4月の第2日曜日に鬼石神社太々神楽が奉納される。
        
            正面鳥居から参道、及び町市街地方向を望む。


参考資料 「上野国志」「日本歴史地名大系」「藤岡市鬼石商工会HP」「Wikipedia」等

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浄法寺丹生神社

 上野国神名帳(こうずけのくにじんみようちよう)は、上野国(現在の群馬県)が奉幣していた国内の神社を書上げた登録簿で、国内神名帳の一つ。貫前神社(富岡市)の一宮本、総社神社(前橋市)の総社本、「群書類従」所収本などの写本が伝わる。いずれの写本も上野国内の鎮守、各郡ごとの神名の二部より構成されているが、神名表記や神社数、郡の配列など多少の出入りが認められる。総社本は奥書によると、永仁六年一二月二五日に神主赤石氏中清が「正本の如く」筆写した写本を、貞和四年・弘治三年に二度にわたり写し直したものである。総社本にのみ浅間大明神が書上げられた背景には、おそらく写本成立直前に起こった弘安四年の浅間山噴火の影響があったに相違ない。同本を例にとると、郡別記載部には、碓氷一五、片岡一四、甘楽三二、多胡二五、緑埜一七、那波一八、群馬東郡一四五、同西郡一六九、吾妻一三、利根二一、勢多二三、佐位一二、新田一五、山田一二、邑楽一五の計五四六社(神社名を記したもの二四一社)が確定されている。
 その上野国神名帳・緑埜(緑野)郡十七社の中に「従三位 丹生大明神」と記されていて、これが当社・浄法寺丹生神社といわれている。
        
             
・所在地 群馬県藤岡市浄法寺1259
             
・ご祭神 高龗神 罔象女神
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 例祭(太々神楽) 49日に近い日曜日
 国道462号線を西行し、神流川に架かる「神流橋」を越え、最初の信号のある「浄法寺」交差点を右折する。群馬県道・埼玉県道13 前橋長瀞線合流後600m程北上すると進行方向左側に「広厳山般若浄土院浄法寺」「佛教大師金色尊像」の看板が見え、そこから更に100m程行った十字路を左折すると、左側に浄法寺丹生神社の正面鳥居が左手に見えてくる。
 社の東側には道路を挟んで「藤岡市第七十五区平公民館」があり、駐車スペースも確保されているので、そこの一角をお借りしてから参拝を開始した。
        
                          浄法寺丹生神社 正面鳥居と社号標柱
                  珍しい北向きの社
『日本歴史地名大系 』には「浄法寺村」の解説が載っている。
 [現在地名]鬼石町浄法寺
 東境を神流かんな川が北流し、東は武蔵国新宿(しんしゆく)村(現埼玉県児玉郡神川村)、北は保美(ほみ)村(現藤岡市)、西は高山(たかやま)村(現同上)・三波川(さんばがわ)村など、南は鬼石村と接する。東部を十石(じつこく)街道が南北に走る。村名は浄土院浄法寺による。
 応永二五年(一四一八)三月三〇日に関東管領上杉憲実が長谷河山城守の押妨から鎌倉明王(みようおう)院領として安堵した地に「浄法寺内平塚牛田岩井三ケ所」がある(「関東管領家奉行人連署奉書」明王院文書)。しかし岩井は現吉井町内に比定され、地域的に浄法寺の内とは考えがたい。あるいは上杉憲方に永徳二年(一三八二)に安堵した地の再安堵状である明徳四年(一三九三)一一月二八日の足利義満下文(上杉家文書)にみえる「浄法寺土佐入道跡」、また康応元年(一三八九)八月一六日の明王院への大石重能の打渡状(明王院文書)にみえる「浄法寺九郎入道跡平塚・牛田・岩井」につながるものと思われる。

 朱を基調とする木製の両部鳥居が2基参道に並び(写真左・右)、氏子の方々奉納と思われ燈篭も数多く設置されている。参道の回りにある植樹も綺麗に剪定されて、日頃から地域の方々がこの歴史あるお社を如何に大事にしているのがこの雰囲気でも伝わってくる。
       
                     拝 殿                      
         御祭神は神川町・上阿久原丹生神社と同じく高龗神 罔象女神。
         「上野国神明帳」に記載がある由緒正しい社であるが、創建等の詳細は不明

Wikipedia」にはこの社に関して以下の説明を載せている
 丹生神社(藤岡市浄法寺)
 丹生神社(にうじんじゃ)は、群馬県藤岡市の神流川沿いにある神社。祭神は高龗神、罔象女神の二神。旧社格は村社。
 平安時代の上野国神名帳に緑野郡「丹生明神」として記載される古社である。
 浄法寺の開祖「最澄」が当時の比叡山に倣い、丹生都比売神を祀ったことが起源とされている。
 浄法寺の字塩、八塩地区よりに鉱水が出ている所があった。神流川沿いは鉱石が採れる地域で、当社以外の丹生神社も多数存在する。社名の起源は、『丹』が土または鉱石、『丹生』が鉱石が取れる場所の意味とされている。
 上毛野君稚子は、当社に戦勝祈願後、天智天皇2
年に唐・新羅連合軍に勝利した。帰国後、後に御神体となった魚籃観音を奉納した。なお、魚籃観音は、近世に盗難にあい、現存していない。
        
                                  拝殿上部の扁額
Wikipedia」での説明の中に登場している「上毛野君稚子(かみつけの きみ わかこ)」は、飛鳥時代の地方豪族であるが、その当時、皇族以外滅多に名乗れない「君」の称号を受けていることから、国内でもかなり有力な勢力であったことは確かである。
 この人物が登場する時代は、国内外でかなりの激動の時代であった。
 大陸では長らく混迷を極めていた分割時代は「隋」国によって統一され、其の後「唐」国に取って変わる。「隋」時代から半島計略は行われていたが、「唐」国もその方針は継続され、高句麗征伐を行ったが、そこは失敗したため、矛先を半島内部に変える。当時朝鮮半島は「新羅・百済・高句麗」の3国がしのぎを削って争っていたが、その3国でも「新羅」国は最も弱小であった。そこで新羅国は唐国と同盟し、自ら臣下となることにより、唐国の援助を受けてから次第に強大となり、ついに660年百済国を滅ぼした。
 百済国と同盟関係にあった当時の倭国(日本国)は、百済国再興を目指す元有力貴族である「鬼室福信」からの要請を受けて、当時倭国内に人質としている豊璋(ほうしょう)王子と5,000名の兵をつけて朝鮮半島の鬼室福信のもとへ送り、その後王位につけた。
 そして天智28月(66310月)に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた百済復興を目指す日本・百済遺民の連合軍と唐・新羅連合軍との間での戦争がおきる。
 当時倭国軍3派の中の主勢力である第2派に属し、その中でも前軍という、まさにこの軍団の主力を担っていた人物が上毛野君稚子であった。
 
社殿右手奥に祀られている境内社・天照皇大神宮  天照皇大神宮の並びに祀られている境内社
 大神宮の左側奥にも石祠があるが詳細は不明   群と、その間にある「丹生神社改築記念碑」
       
             社殿の傍に聳え立つご神木(写真左・右)
        
                                       神楽殿
『日本書紀』巻第二十七
「天智天皇2年(663年)3月 前将軍(まへのいくさのきみ=第一軍の将軍)上毛野君稚子(かみつけの きみ わかこ)、間人連大蓋(はしひと むらじ おほふた)、中将軍(そひのいくさのきみ=第二軍の将軍)巨勢神前臣訳語(こせのかむさき おみ をさ)・三輪君根麻呂(みわ きみ ねまろ)・後将軍(しりへのいくさのきみ=大三軍の将軍)阿倍引田臣比羅夫(あへのひけた おみ ひらぶ)、大宅臣鎌柄(おほやけ おみ
かまつか)を遣(つかは)して、二万七千人(ふたよろづあまりななちたり)を率(ゐ)て、新羅(しらぎ)を打たしむ」
 と記されていて、その後6月にはこの倭の軍団は「新羅の沙鼻岐奴江(さびきぬえ)、二つの城(さし)を取る」功績をあげている。
 但し当初の勝利もつかの間、2か月後の828日まずは海上戦である「白村江」での戦いにおいて「百済遺民・倭国」の連合軍は「唐・新羅連合軍」に完敗し、その前後にあった陸上戦もまた唐・新羅の軍は倭国・百済の軍を破り、ここに半島での戦いは幕を閉じる。

 上毛野君稚子はこの一連の戦いでの詳細な記録はないので、どのような働きをしたのか、そしてどうなったのかは、残念ながら不明である。それならば「Wikipedia」に記されている「当社に戦勝祈願後、天智天皇2年に唐・新羅連合軍に勝利した。帰国後、後に御神体となった魚籃観音を奉納した」というが、この説文の真偽の程はともかくとして、上毛野君稚子がなぜわざわざこの地に「魚籃観音」を奉納する理由があったのであろうか。
 少なくとも上毛野君稚子が、この地域に何かしら関係する人物である可能性を暗に仄めかしているようにも思えるのだが…。しかし現時点でこれ以上の勝手な考察は控えたいと思う。



参考資料「日本書紀」「日本歴史地名大系」「Wikipedia」等
 

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