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古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

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岩田白鳥神社

 秩父一帯に勢力を拡大していた武蔵七党のひとつ丹党の一族に白鳥氏があった。丹経房の弟行房が白鳥に館を構えて白鳥七郎と名乗ったのが始まりである。『七党系図』では行房の子白鳥七郎二郎基政の孫にあたる政家が白鳥四郎を名乗ったともいう。白鳥氏の嫡流はその後岩田氏に代わり、以後の白鳥氏は傍流として存続する。この白鳥氏や岩田氏は同族の藤矢渕氏や井戸氏らと長瀞一帯を領有していたという。
所在地    埼玉県秩父郡長瀞町岩田1881
御祭神    菅原道真公・日本武尊・埴山姫命
社  挌    旧村社
例  祭    2月25日 例大祭

        
 岩田白鳥神社は荒川の右岸、埼玉県道82号長瀞玉淀自然公園線を長瀞方向に進み、岩田地区の山の西麓の道路沿いに鎮座している。地形的にみると長瀞地区は荒川が真北方向に流れていて岩田地区は荒川が屈曲する先端地にあり、南に秩父の平野を睥睨することができる要害の地にある為、社の南側には室町時代から戦国時代には天神山城が存在していた。
 その関係でこの岩田白鳥神社は荒川に対して直角方向に向いていて、丁度西向きの社殿となっている。
 県道を挟んで反対側に集会所らしき建物があり、そこに若干のスペースがあったので、そこに車を停めて参拝を行った。
           

    道路沿いで鳥居の右側にある案内板             白鳥神社と書かれている扁額

白鳥神社    所在地 秩父郡長瀞町大字岩田
 白鳥神社の祭神は、菅原道真公、日本武尊、埴山姫命で、例大祭は毎年二月二十五日である。
 神社の起源は、元慶年中(八七七~八八五)に岩田(白鳥)武信が勧請し、白鳥天神宮と称し祀ったのが始まりといわれ、後の北条氏邦はこの白鳥大明神を厚く崇敬していたので近くにある根古屋城を天神山城に改めたと伝えられている。
 その後、明治三年に白鳥天神宮は、天満天神社となり、さらに明治九年七月八日に白鳥神社と改称した。この時村社に列挌され、明治四十年五月八日、丹生大神社、思金神社、八幡神社を合祀して現在に至っている。
 また、社地は、始め椿の森と称されていたが、宝永二年(一七〇五年)の冬から毎年伐採され、同六年の春にはすべて伐採されて、跡地には杉苗が値付けた。現在する一部の老杉は、当時の物であるといわれている。
 昭和五十七年三月     長瀞町
                                                             案内板より引用
             
                             拝    殿
 白鳥神社の南方部には、室町時代から戦国期に築造された天神山城が山道を通じて存在していた。この天神山城は、戦国時代(天文年間1532-55)、土豪の藤田重利の築城という。本来は後北条家に対抗していた関東管領上杉氏の重臣で、最盛期には、上杉家四家老の一と呼ばれている。榛沢、幡羅、男衾の三郡を領していて、天神山城も対後北条家対策の本拠地的な城であった。
 後に藤田氏は後北条氏に降伏し、北条氏邦をここに迎え、氏邦は「秩父新太郎」と名乗った。この北条氏邦は岩田白鳥神社への崇敬が厚く、それまで「根古屋城」といったこの城を「天神山城」と改名して武運長久を祈ったと伝えられる。この天神山城は筆頭家老・岩田義幸が城を守ったが、永禄三年(
1560)鉢形城に移転し、天正十八年(1590)小田原の役で落城したとされる。

 藤田氏は「藤田系城郭」という独特の築城方式に長けた一族であり、現在でも城郭研究者の間では有名な「埋もれた名城」で、花園城や花園御嶽城、岩田天神山城等の標高200m程度の山に大規模な堀切や、横堀と土塁の組み合わせを巧みに利用した山城を多数築城した。
           
                              拝殿内部
           
                               神楽殿

 
社殿の右側に境内社、稲荷社とその左側に石神       社殿と神楽殿の間にある2柱の石神

 社殿の両側にある石神(磐座)は社殿が勧請される前からの地主神だったのだろうか。石神信仰は岩石に宿る霊を表現していて、縄文以来の自然の物に神様が宿るというアニミズム的な信仰がこの地にもあった証ではなかろうか。


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古里兵執神社

嵐山町は埼玉県中央部に位置する南北に長い町である。その北端部の古里地区は熊谷市、深谷市、寄居町に接していて、埼玉県道11号熊谷小川秩父線と同県道69号深谷嵐山線が交差する場所として、熊谷、深谷、寄居・小川、嵐山方面へ行く交通の分岐点でもあり、利便性のある地域である。
 地形的にみると、古里地域やこの地域の南部で手白神社が鎮座する吉田地域は比企丘陵内にあり、滑川がその地域から南東方向に流れている。この地域の滑川は上流部で川幅も小さいが、谷幅(川の両側の水田を含む範囲)が広く、両側は山に囲まれているが沖積台地と言われる標高の高い平坦な地も多い所でもある。
 この古里地域のなだらかな丘陵地の一角に兵執神社は鎮座している。
所在地    埼玉県比企郡嵐山町古里766
御祭神    武甕槌命
社  格    旧村社
例  祭    10月18、19日 例大祭(兵執神社獅子舞)

       
 古里兵執神社は埼玉県道11号熊谷小川寄居線を小川町方向に進み、古里交差点を右折、そこから約200m位でY字路にあたり、Y字路の角付近に兵執神社の社号標石があり、そこをまっすぐ進み、丘の中腹付近に兵執神社が道路沿いで右側に鎮座している。ちなみに「兵執」と書いて「へとり」と読む。社殿の丘の下で、参道に向かって右側には社務所があり、そこには駐車スペースがあったので、そこに停めて丘の下の社号標石から参拝を行った。
            
                   
           
  埼玉県道69号深谷小川線とのY字路の間にある社号標石(写真最上部)、そこから真っ直ぐ進むと一の鳥居(同中央)があり、そこをまた丘を登るように進んでいくと境内(同下部)になる。境内までの参道がまた変に気持ちが良く、急ではなく、長さもそこそこの勾配のある参道を歩くと何となくハイキング気分にさせてくれるものだ。
            

町指定
 民俗文化財   兵執神社獅子舞

  指定  昭和三十七年九月一日
  所在  兵執神社 嵐山町大字古里字中内出七六六
  時代  江戸時代

 毎年十月十八、十九日(近年はこれに近い土曜日、日曜日)の秋季例大祭に疫病除けや豊作を祝い古里の氏子によって獅子舞が奉納されています。
 子の獅子舞は,太鼓に文政年間(一八一八年頃)の記載があったことなどから江戸時代にはすでに舞われていたと考えられます。
 獅子舞の役は、順に(一)万灯【一番上に榊と花、その下に灯籠、その下に竹ヒゴに花がつけられ、水引が下がった柱状のもの  二、三十人】 (二)法螺貝【一人】 (三)金棒つき【二人】(四)先連【柏木を打つ 一人】(五)棒司い【獅子が舞を奉納する前に庭を清め、四方を固める 四人】(六)花笠っ子【獅子の演目中にササラと称する竹製の楽器を擦り合わせる 四人】(七)仲立ち【ひょっとこ 一人】(八)獅子【ホウガン(男獅子)・女獅子・男獅子 三人】(九)笛吹役者【十人】で構成され、棒使い・獅子役に限っては小学生からはじめ、満八歳で交代になるそうです。
  奉納は、はじめに社務所前庭で初庭を舞い、次に役の順番で列を整え街道下りをして前の道路まで降り、神社参道の鳥居をくぐり社殿に向かいます。社殿の西庭では二の庭を舞い、東庭では三の庭を舞います。
演目には、初庭で舞う堂浄古根古・女獅子かくし、二の庭で舞う場均し・隠平掛り・花掛り・三の庭で舞う駆け出し、神楽があります。
                                                             案内板より引用 
 
           参道の左側には天神社               天神社の奥には駒形大神の石碑
 

 参道の右側には左側から八坂社、愛宕社が並び(写真左)、八坂社、愛宕社の参道の向かい側にも境内社がある(同右)。左から白山神社・小女郎神社、日枝神社、山神社、そして八幡神社。そして八幡神社の奥にポツンと明敵大神社の石碑があるが今回写真の紹介は省略。
           

    境内社の散策が終了し、参道に戻ると、また一段高い場所があり、その上に社殿が見えてくる。
                       
                             拝殿覆堂

            拝殿内部                      社殿の右奥にある鎌倉稲荷
 この滑川の源流域の沖積地を見下ろす大字古里の丘陵上には、古里古墳群が点在している。6世紀後半を中心に築造された古墳群で、当時は78基の円墳が存在したとされて言われているが現在は52基の存在が確認されている。この古里古墳群は10カ所の支群に分かれていて、埴輪をもつ6世紀代の古墳から横穴式石室をもつ7世紀代の古墳へと年代の幅がある。石室の石材にはこの地域の基盤を構成する凝灰岩の切石が用いられている。岩根沢には町内唯一の横穴墓も発掘されている。その東端は埼玉県道11号線に沿って塩古墳群と隣接しているようで、その関係が注目されている。
           
                       古里兵執神社 参道の風景

 今回参拝した古里兵執神社は、まさに平地を見下ろす丘陵地の一角に鎮座する社で、古里地区を一望できる要衝の地にある。社からこの風景を見ているうちに、ふと近郊に存在する古墳群の埋葬者たちは、どのような感慨をもって今の風景を眺めているのだろうかと、何となく思いに耽った面持ちとなった。



                                                                                                  



 

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塚田三嶋神社

 男衾郡には三社、延喜式内社が存在し、小被神社、出雲乃伊波比神社、稲乃比売神社がそれに該当する。その中の稲乃比売神社の論社は二社あり、寄居町鉢形に鎮座する稲乃比売神社と赤浜地区にある塚田三嶋神社だ。
 赤浜地区の南東部に位置する塚田地区は嘗ては鎌倉街道の宿場として「塚田千軒」と呼ばれるほどに栄えたといい、それを支えたのが塚田鋳物師の存在だとのことだ。
 塚田三嶋神社には埼玉県の文化財に指定されている鰐口(わにぐち)が保存されている。この地域は金井(坂戸市)小用(鳩山町)と並んで中世(室町時代頃)に鋳物業が盛んであったと伝え、この鰐口も地元在住の鋳物師によって造られたという。
所在地    埼玉県大里郡寄居町赤浜1973
御祭神    大山祇命 木花開耶姫命 少彦名命
社  挌    延喜内社、論社 旧村社
例  祭    3月27日 例祭

        
 塚田三嶋神社は国道140号線を寄居方面に向かい、花園インター先の花園橋北交差点を左折すると、埼玉県道296号菅谷寄居線となり、荒川を越えて南下し、北柏田交差点を左折する。そのまま道なりに進み、左側斜向かいに薬師堂のあるT字路を左折すると約1.5kmで左側に塚田三嶋神社が鎮座している。
 塚田三嶋神社の西側には塚田集会所が隣接してあり、その前には駐車スペースがあったので、そこに停めて参拝を行った。
           
                       正面一の鳥居と右側には社号標
 一の鳥居や社号標の右側で道路沿いに寄居町指定天然記念物である「塚田三嶋神社のヤブツバキ」、そして埼玉県指定文化財の「鰐口」の案内板が掲示されている。
           
町指定天然記念物  塚田三嶋神社のヤブツバキ
 指定年月日 平成十九年一月三十日
 所在地    寄居町大字赤浜字後塚田1973
 ヤブツバキは別名ヤマツバキともいい、ツバキ科ツバキ属の照葉樹林種で、常緑木である。
 社殿の左側にヤブツバキは三本あり、指定樹は中央に位置する株で、樹高十三・八メートル、目通り一・三メートル、根回り三メートルである。
 近くの杉の影響で、樹冠は北半分はほとんど無く、根元には腐食による穴が幹を貫通しているものの、樹勢は良好な巨木である。
 なお、両脇のヤブツバキは指定には至らなかったものの、巨樹であり、指定樹とともに、大切に保護したい。
 平成二十年三月   寄居町教育委員会
                                                             案内板より引用
           
県指定文化財    鰐口 一口
 指定  平成十六年三月二十三日
 所在  寄居町大字赤浜(三嶋神社)
 この鰐口は、鋳銅製で直径が十九・九㎝、篤さ六・九㎝を測り、上部左右に耳(釣手)、中央両脇に目を配置し、下半部側面に唇上の張り出しがめぐる。また、鼓面の膨らみが低平で、肩の張りも水平に近く、目や唇も薄く造られており、総じて古挌を示している。
 鼓面外区の左右に「武蔵国男衾郡塚田宿三嶋宮鰐口 応永二年乙亥三月廿七日」の銘文が刻まれており、この銘文から、中世に鎌倉街道上道の宿駅であった塚田宿の三嶋神社に伝来したもので、応永二年(一三九五年)に奉納されたこと、当時すでに塚田が「宿」と呼ばれる集落を形成していたことなどが分かる。
当時この地に「道禅」を代表とする塚田鋳物師の存在が知られており、この鰐口も洋式・技法等から道禅もしくはその工房によるものと考えられる。
この鰐口は、県内にある室町初期の稀少なものの一つであり、室町期の形式を確立しようとした基準的作例といえる。
 埼玉県教育委員会
 寄居町教育委員会
                                                             案内板より引用

 社号標石のすぐ先にある境内社(写真左)があるが、残念ながら案内板等がなく詳細不明。また参道を進むと右側に「拝殿改築記念の碑、三嶋神社御祭神」の石碑(同右)がある。
           
                                拝    殿

   拝殿上部には「三嶋神社」と書かれている額                本    殿                       
                                          
    社殿の左側にあるヤブツバキ3樹。真ん中のツバキが寄居町指定記念物に指定を受けている。  

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長在家稲荷神社

  上原白髭神社の東方に「長在家」という地域が存在する。この地域は、15世紀中ごろの室町時代に深谷上杉氏第5代房憲(深谷城初代城主)が開祖した寺である深谷市の仙元山のふもとのにある昌福寺の縁起の中にも"長在家の長者"という記述があり、その地名の淵源は意外と古くからあったようだ。
 この長在家地区には稲荷神社が鎮座している。この社の最大の特徴は参道一帯に敷石の代わりに350ヶ程の古い石臼が敷き詰められていることだ。この参道は「石臼参道」と呼ばれ、昭和53年8月30日に深谷市の有形無形文化財に指定されている。そのためか、長在家稲荷神社は通称「石臼神社」とも言われている。
所在地    埼玉県深谷市長在家204-1
御祭神    宇迦之御魂神(推定)
社  挌    旧村社
例  祭         毎年3月 例祭(豆腐祭り)

       
 長在家稲荷神社は旧川本町、武川駅周辺に鎮座している。国道140号線を熊谷方面から武川駅方向に進み、菅沼天神社に行く十字路を右折すると約400m弱北側に鎮座している。境内の右側に駐車スペースがあり、そこに停めて参拝を行った。
             
                     道路を挟んで一の鳥居の反対側にある石塔
            
             

 深谷市指定有形民俗文化財  石臼参道(昭和五十三年八月三十日指定)
 昔、小麦や豆などの穀物を粉にするには石臼を使っていた。いつのころか、要らなくなった石臼を、村人が神社に納めた。この石臼を境内参道の敷石にしたもので、約三百五十個ほど並べられてある。この様な例はあまり無く貴重なものである。
 稲荷神社の三月の例祭では「豆腐まつり」と言い、各家庭で豆腐を作って奉納したものである。この大豆も、ここに奉納された石臼でひいたのであろう。
 境内には文久元年(一八六一年)に田島金岳ほか十三人で建てた「春の夜や籠り人ゆかし堂の隅」の芭蕉の句碑がある。
                                                                案内板より引用
             
                      境内参道にびっしり敷き詰められた石臼
           
                               拝    殿
                        
 拝殿向背部等の彫刻が素晴らしく、江戸時代の職人技の高度な技術を感じる。今は長年の風雪にさらされて彩色もほとんど薄れているが、創建当時は艶やかで美しかったことだろう。


 長在家地域の西側には下原地域があり、この地域は世間ではあまり知られていないようだが、室町時代から江戸時代まで続く武州唯一の刀工群である下原鍛冶の一拠点だったという。
 この武州下原刀を制作した鍛冶集団である下原鍛冶は大永年間(1521年~27年)の周重に始まり、現在の八王子市恩方地区や元八王子地区に住み、周重の子康重は小田原の北条氏康の「康」を、その弟照重は八王子城主北条氏照の「照」をそれぞれ授かり、名乗りにしたと伝えられている。後北条氏を後ろ盾に栄えた下原鍛冶だったが、後北条氏の滅亡後は、徳川氏の御用鍛冶となり、幕末まで刀槍類の制作を続けたという。
 武州下原鍛冶は、いつ頃八王子地区等に移住して刀鍛冶を始めたかについては諸説があり、不明な点が多く、ハッキリとは解らないが、相模国(相州鎌倉鍛冶)と下野国登鯨(とくじら)に分かれるようだ。どちらの地域も有名な鍛冶場で、相州鎌倉鍛冶は、古くは鎌倉郡山ノ内庄の地鍛冶で、山内鍛冶は尺度郷(さかどごう)本郷(横浜市栄区)に、沼間鍛冶は沼浜郷沼間(逗子市)に鍛冶場があったらしい。また下野国登鯨は現在の栃木県宇都宮市徳次郎町の地域であり、照重家についての文書の中に、「下野足利ニ居住、永正(1504~1520)年中、武州多摩郡横川村ニ居住ス」、また「足利月光山下原にて打ち、のち横川に居住なり」と記されているものがある。足利の下原は、現在の足利市山下町に存在し、この地域は鋳物師(いもじ)や修験者が居住したといわれている。
 長在家地域はこの武州下原鍛冶が現八王子地域に移住する前に居住し、鍛刀した地域と言われている。何より下原鍛冶に関連した地域、居住した地域にはみな「下原」という字が存在していることは注目に値する。この長在家地域を含めた荒川中流域両岸は、平安時代後期から畠山氏の所領であり、鍛冶製造が発達した一大根拠地と言われている。武州下原鍛冶がこの地にある時期一定期間移住する理由はここにあったと考える。

 この荒川中流域左岸で、櫛引台地一帯、詳しくは「黒田」→「永田」→「上原(下原)」→「田中」→「長在家」そしてそのライン上に存在する「瀬山」→「三ヶ尻」地域は鍛冶集団が存在している一大根拠地だったと思われる。

                  長在家稲荷神社社殿の奥にある境内社(写真左、右)

              
            石臼が敷き詰められて参道。社殿側から撮影。写真左側には芭蕉碑がある。

 

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黒田豊榮神社

 寄居町から深谷市旧川本町辺りの荒川中流域右岸の台地(櫛引台地、江南台地)上には、男衾郡の式内社である出雲乃伊波比神社、小被神社、稲乃比売神社や、井椋神社等、由緒ある社や、鹿島古墳群のような古墳が多くあり、古代において発達した地域だったと推測される。
 それに対して荒川中流域左岸は旧花園町地域であり、町の殆どが櫛引台地上に位置し、現代では主に農業と造園が盛んな地域だが、古墳時代にはこの地域にも100基を超える小前田古墳群や黒田古墳群等があったという。
 その中の黒田古墳群は荒川の河岸段丘上に立地し、帆立貝形古墳と円墳30基以上で構成されていて、現存する古墳は1977年(昭和52年)4月1日付けで花園町(当時)指定史跡に指定された。黒田2号墳は全長41mの帆立貝形古墳で、6世紀末の築造と推定され、周溝からは形象埴輪片(人物・馬)が発掘されていて、前方部をほぼ真西に向けている。周堀のある2段築成の古墳である。また黒田17号墳はやはり6世紀末の築造で、直径22mの円墳。幅約6mの周溝が巡る。主体部は川原石を用いた胴張りのある横穴式石室で、全長5.24mである。副葬品は、大刀1、七窓鐔1、鎺2、鉄鏃10、刀子2、耳環1、ガラス製小玉46以上が出土した。なお墳頂部から高さ97.4㎝の完形の大刀形埴輪が出土しており、平成5年3月10日付けで埼玉県有形文化財に指定された。
 この黒田地区の一角に鎮守の社として黒田豊榮神社が鎮座している。
所在地   埼玉県深谷市黒田1497
御祭神   伊弉諾命、伊弉冉命、埴山姫命
社  挌   旧村社
例  祭   10月14日 例祭(黒田のささら獅子舞)

        
 黒田豊榮神社は国道140号バイパスを花園インター方向に進み、黒田交差点のすぐ先の左折する細い道を曲がり、そのまま道なりに真っ直ぐ進むと、右側に社が見えてくる。開放感のある空間の中に鎮座する社で、荒川の土手がすぐ先にある。江戸時代初期まで「赤口神社」と呼ばれ、江戸時代初期の正保年間(1644~48)の頃、現在地の字宮台に遷座されたという。
           
                          黒田豊榮神社正面鳥居

     鳥居を過ぎてすぐ左側にある神興庫      神興庫、社務所の並びにある獅子頭新調記念碑
           
                              拝    殿
 江戸時代前の社名「赤口神社」の「赤口」は「しゃっこう」「しゃぐし」「さぐし」等、呼び方は様々ある。一般的な意味では歴注、六曜のひとつで、火の元、刃物に気をつける。つまり「死」を連想される物に注意する日とされ、午の刻(午前11時ごろから午後1時ごろまで)のみ吉で、それ以外は凶とされていて、一種の縁起物として今でもカレンダー等で使われている。
 それとは別に、「赤口」を石神(シャクジ)という大和民族移住前の古来からある先住民の信仰という説もある。ミシャグシ信仰は東日本の広域に渡って分布していて、信仰の分布域と重なる縄文時代の遺跡からミシャグジ神の御神体となっている物や依代とされている物と同じ物が出土している事や、マタギをはじめとする山人達から信仰されていたことからこの信仰が縄文時代から存在していたと考えられているが、その全容が解明されたわけではない謎の信仰形態だ。
          
                             拝殿内部
         写真右側には黒田の獅子舞に使われる獅子頭が6頭大切に保存されている。
            
               社殿の右で道路側にある「黒田のささら獅子舞」の案内板

 黒田のささら獅子舞    所在地  花園町大字黒田地内
 黒田のささら獅子舞は、この黒田地区に古くから伝わるものといわれ、口伝によるとその起源は江戸時代中頃の荒川増水の折に、上流より獅子頭が流れ着いた事から始まったといわれている。
 獅子舞は三頭の獅子により演じられるが、他に「万灯」、「金杖」、「花笠ささら」、「棒使い」、「仲立ち」等の役が付き、笛などの囃方を合わせて総勢で約三十人程で行う。
 舞いは、二十三曲程あり物語形式だが現在踊られなくなったものも多い。
 獅子舞の名称に付く「ささら」とは、竹を小割りしたもので、花笠役が持ち、棒でこれを擦ることにより音をだすものである。
 獅子舞は毎年十月十四日の豊榮神社の秋祭に境内で上演される。
 現在保存団体として、黒田ささら獅子舞保存会が組織され、保存と伝承にあたり、毎年近在の子供を対象に伝承活動を行っている。
 その活動が認められて、昭和五十八年には埼玉県知事より「文化のともしび賞」を受賞している。
 昭和五十二年、この獅子舞を町指定無形文化財に指定した。
 昭和六十二年三月    深谷市教育委員会
                                                             案内板より引用
          
           社殿の左側にある境内社 左より荒御魂神社、戸隠神社、瑞穂神社

 旧花園町には黒田古墳群を始め、多くの遺跡の発掘が報告されている。その中で、関越自動車道花園インターチェンジ 付近には、縄文・古墳・平安期の遺構・遺物が検出された台耕地遺跡があり、平安時代後期の製鉄溶鉱炉(堅形炉)7基と、また鍛治を行った建物跡も発掘されている。

 豊榮神社の荒川の対岸には男衾郡「赤浜」地区がある。この赤浜には「字塚田」という地があり、この地は南北朝末期から室町初期にかけて、関東各地の寺院の梵鐘を鋳造した塚田鋳物師集団がいたという。
 この地には大沢半左衛門という畠山重忠の配下の墓もあることから、赤浜地区は畠山氏の所領地だったと考えられ、荒川を挟んでこの黒田地区も所領地内の可能性が高い。この「赤浜」と豊榮神社の元鎮座地「赤口」は「赤」を共有している地である。また現存している畠山重忠の甲冑は「赤糸威大鎧」で、赤色を基調としている。単に偶然だろうか。武将にとって甲冑は身を守る道具というよりは、一種のファッションであり、また同時に自分を表現する大事なものであり、武勲栄達を願う信仰の対象でもあったという。

 日本では色の名称の由来で「赤」は元々「火」を意味するという。何か関連性があるのだろうか。

 

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