古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

荒川上田野若御子神社

 旧荒川村は嘗て埼玉県の南西部、秩父郡に位置していた村であり、東は秩父市、西は大滝村、南は東京都西多摩郡奥多摩町、北は両神村・小鹿野町・秩父市に接していた。北部を西から東に荒川が流れ、同川には町の西部で贄川(にえがわ)沢と谷津(やつ)川、中央で安谷(あんや)川、東部で浦山川が合流する。荒川に沿って国道140号線と、秩父鉄道(地内の三峰口駅が終点)が通る。南部は県境にある酉谷(とりだに)山から北西方と北東方へ延びる尾根に挟まれた急峻な山地で、集落はおもに北部の荒川河岸段丘上に集中している。
 2005年(平成174月秩父市に合併・消滅し、現在は秩父市の中央部を占める。
 旧村名は荒川が流れることによる。養蚕が盛んであったが、昭和40年代から衰退し、その後はソバ、野菜の栽培が行われ、ブドウ、クリなどの観光農園が多い。
 荒川上田野若御子神社は旧荒川村上田野地域に鎮座する村の鎮守様であり、秩父地方に点在する狼信仰の一社でもある。
        
             
・所在地 埼玉県秩父市荒川上田野698
             
・ご祭神 神日本盤余彦尊
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 例大祭(春祭り)4月第三日曜日 神幸祭81日 
                                
新嘗祭 1123
 上影森諏訪神社から国道140号線で2㎞程西行し、コンビニエンスストア手前の十字路を左折する。因みにその十字路左手には「清雲寺・若御子神社 表参道入口」の看板がある
その後300m程進んだ細い路地の正面に荒川上田野若御子神社の一の鳥居が見えてくる。
 秩父市街地からも離れ、国道に沿って西側は秩父山系の山脈がまじかに見える。山好きの筆者にとってこの風景がたまらない。時に車を降り、澄み渡る空気を体いっぱいに吸う。
標高もやはり高いせいかひんやりと感じる中、何より一帯の空気が違う。埼玉県内にありながらもここまで違うものかと感じ入る。ここまで来れば三峰口までもうすぐの距離だ。
        
               
荒川上田野若御子神社の一の鳥居
             鳥居の前には一対の狛「狼」が迎えてくれる。
 参拝日は紅葉が見頃ギリギリの季節で、風は冷たかったが、周囲の景色も相まって素晴らしい参拝を満喫することができた。
 鳥居から真っ直ぐに伸びた先に二の鳥居があり、そこからが境内となる。社に隣接して「
清雲寺」があり、また専用トイレも併設されていて、そこの駐車スペースに車を停めてから参拝を開始した。
        
                     荒川上田野若御子神社・二の鳥居付近を撮影
『日本歴史地名大系』には旧「上田野村」の解説が載っている。
 [現在地名]荒川村上田野
 
荒川の上流右岸に位置し、西は安谷(あんや)川を境に日野(ひの)村、東は浦山(うらやま)川を境に久那(くな)村、北も荒川を境に同村。南には天目(てんもく)山等の高山が連なり、集落は北部に集中している。秩父甲州往還が荒川に沿い東西に通る。近世初めは幕府領、寛文三年(一六六三)忍藩領となる。田園簿では高三九一石余・此永七八貫三一七文とある。文政六年(一八二三)の書上帳(井上家文書)によると村高五五九石余、うち五二三石余は慶安五年(一六五二)の検地高、残る三六石余は寛文三年から文化三年(一八〇六)まで一三回行われた改畑高であった。「風土記稿」によると水田は少なく、ほぼ畑三分・山林七分の村方で、南に連なる高山のため雨期には水害を受けやすかった。耕地が石地のため干害もあり、また猪・鹿の害もあった。
        
 二の鳥居手前の道路沿いに設置されている「県指定天然記念物 若御子断層洞及び断層群」の案内板。

 社の境内から急な山道を10分ほど登っていくと、「若御子断層洞」という洞窟がある。これは秩父盆地と南側の奥秩父山地との境界をなす断層「日野断層」の一部で、断層がずれて岩石が砕けたところが水によって洗い流されてできた洞窟を「断層洞」という。
 断層がずれた際に擦り合わされて磨かれた「鏡肌(かがみはだ)」という箇所があり、線状のすり傷が見られ、 断層面が直接観察できる場所は珍しいとの事だ。

 県指定天然記念物 若御子断層洞及び断層群
 指定日 昭和3531
 若御子断層洞は、若御子神社の南約100メートルのところにぽっかりと口をあけています。断層洞のある崖は、秩父中・古生層のチャートというとても硬い岩石でできています。
 断層洞とは、断層破砕帯の中の粘土や礫が、地下水によって洗い流されたために生まれた空間のことで、世界的に見ても例の少ない、貴重なものです。洞内の岩肌には、断層によって生まれた、平らで磨かれたような断層の面(鏡肌)が見られます。また、鏡肌には、断層が生じるときのすり傷(条線)も観察できます。
 また、この一帯には、無数の断層がほぼ東西方向に走っていますが、このような断層の集まりを断層群といい、ここは「日野断層群」と呼ばれています。
 以上のように、この地域は、断層面・鏡肌・条線・断層粘土・断層角礫など、断層に関連する種々の現象が観察できる、学術的に貴重なところです。
 平成63月 埼玉県教育委員会 秩父市教育委員会
                                      案内板より引用

        
                                       二の鳥居
 二の鳥居前には石段があり、そこを過ぎると神楽殿や社務所が設置された広い空間があるが、そこからまた数段の石段を登らなければ社殿に通じる空間に到着できない。境内は思った以上に複雑であるが、山岳斜面上に鎮座している社であるが故に斜面を均して平地面をつくり、土台を補強して境内を作り出す作業は困難を極めただろう。斜面を補強するために積み上げた石垣は、灯篭等の奉納品がなければまるでお城のようだ。この地にこれ程の社を作り上げたことに対する畏敬の念を感じずにいられない。
 
            二の鳥居前に鎮座する狛「狼」(写真左・右)
 この「狼」の石像は、全体的には「瘦せ型」・頭部は「扁平」。口には「牙」もあり、よく見ると左側の像は「歯」も生え揃っている。また一の鳥居の一対の狛「狼」は参道側正面を向いているが、こちらはお互い向き合っている。他の社に関しても、複数狛犬が配置されている場合で、このように「狛犬」の向き方が違うケースも時折見られるが、向き方の違いには何か法則、ないし因果関係があるのであろうか。
        
             二の鳥居を過ぎると左手に設置されている「神域改修事業奉賛記念碑」
 神域改修事業奉賛記念碑
 当平成元年は大正四年当神社若御子山旧社より御遷座七十五周年に相当す此間昭和十五年は当社御祭神「神日本磐余彦尊」神武天皇紀元二千六百年の挙国奉賀を機し境域及参道の整備等行い現今の整然たる神域を成せり以後幾度か改修もなされしが年古るに従い森厳の気漲るも風雨寇なし築礎崩壊の兆現るを危惧す此を憂い当社宮司故岩田真久氏は氏子総代と相計り神域改修事業を計画するや関与者昼夜力を合せ奔走六百有余名の氏子及当社崇敬者より浄財を蒐め工を起す併て神殿築礎の石積構築改修を行い境内新玉垣奥宮社の覆屋神宝舎の新築又境内整備等神域の大改修を行えり為に景観至処神韻瑞気漲り神徳宏大無辺弥栄に高し嗚呼偉業善哉関与者の熱誠賛助者の協力高邁也此に其功を碑に刻し永く後世に伝う
正に神明之を嘉し賜うべし(以下略)
                                   奉賛記念碑文より引用

        
                       神域改修事業奉賛記念碑の並びにある神楽殿
    神楽を奉納する舞台の右脇には、笛や太鼓等演奏用のスペースもあるあまり見ない形態。
  舞台の神楽同様に演奏者を正面に置くこの配置は「見せる演出」としては面白いと感じた。
        
 神楽殿や社務所のある境内から社殿に向かうには、数段の石段を登らねばならず、その途中には少し広めの遊び場があり、石段を中心に左側には手水舎が、右側には神賓舎が設置されている。

          手水舎                                      神賓舎
       
            手水舎のすぐ奥に聳え立つご神木(写真左・右)
        
                     拝 殿
 拝殿は石段が上り終えた、その正面には鎮座していない。そこから一旦進行方向左側に曲がり、その先に鎮座している。社殿のある空間は斜面が比較的目の前に見える為、奥行きはほどほどにして、左右を広げるように削平したのでろう。そのため社殿は正面参道、ないし石段からは横を向いているように見える。
*追伸 この社は確認すると西向き社殿である。西向きという事は、その延長線上のお祭りする対象は、奈良県にある神武天皇の御陵墓か、または狼信仰のメッカである三峯神社だろうか。
 当社の由来
 当社は若御子神社と申し御祭神神日本磐余彦尊神武天皇様が奉斎されている
 若御子神社の称号は御祭神「神武天皇様」の別御呼名若御毛沼命の若御毛からではないかと推察される
 御創立は人皇第四十五代聖武天皇御宇、天平年間(西暦七三〇年代)上田野の主峰若御子山の頂きに祀斉されたのが、当神社創始の起源とされ、後延暦十三年(西暦七九四年)若御子山の峰岳にお社が造営され、若御子十二社宮と称される
 社伝縁起には醍醐天皇の御宇、延長八年(西暦九三〇年)神官従五位守屋大和守物部吉清再建とあり神社宝物の御神鏡に刻されて居る
 当社は古くより武将達の崇敬が厚く、天慶年間、藤原秀郷、平将門を討伐の時当社に戦勝を祈願したとあり、建久二年鎌倉幕府源頼朝、戦勝と武運長久を当社に祈願する。天文十四年足利将軍義晴、当社の社殿を造営せしむ。神社はこの時峰岳より旧社地若御子に遷座され、若御子十二社権現宮と称される
 永禄十二年武田軍の兵火に罹り、社殿、宝物旧記等ことごとく消失す
 慶長六年五月社殿を造営す。現在の本殿は即ち是なり
 明治二年若御子十二社権現宮を改め、これより若御子神社と称する
 大正四年神社の移転許可され、大正五年若御子山より現在地に遷座される
 昭和十五年御祭神神武天皇御即位二千六百年を記念し神域の大改修が行われる
 平成二年、当社御遷座七十五周年事業として、現神域の大改修が行われる
                                     境内案内板より引用
 
   拝殿に掲げてある扁額と神武天皇          拝殿脇から本殿を撮影
                          (関係者以外立ち入り禁止の為)
 十二所權現社
 若御子山にあり、本社二間に九尺、三社合殿、造上屋三間に四間、神體木の坐像長九寸五分狩衣烏帽子を着せり、その餘不具なる木造幾體もあり、いづれも古色なり、又十一面觀音の木立像長一尺二寸、三寶荒神の木立像長一尺七寸なるを安ず、共に古色なり、貞享年中再造の棟札に、天文十四年の建立とのせたり、一段三畝廿四步の除地あり、神職は吉田家の配下にて、守屋豐前なり、
 風穴橋 社前にあり、巨岩によりて道を設けり、長三間餘、幅四尺許、屋根ありて廊下の如し、其下盤岩に穴あり是を風穴と云、徑リ一尺四五寸、深さ知るべからず、土人是より靈風を吹出すと云う、
 鳥居 社より三町ばかり山下にあり
                               『新編武蔵風土記稿』より引用

     
                     社殿前方にあるご神木(写真左・右)
       
 境内にあるご神木の近くで、斜面上に祭られている境内社。一番左は稲荷社か、それ以外は詳細不明。
       
                                  境内での一風景
        
             荒川上田野若御子神社西側に隣接している御霊神社
     「静かに佇む」という表現がピッタリの社。ご祭神、由緒、創建等全く不明。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「Wikipedia」「境内案内板・石碑文」等
 

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上影森諏訪神社

『農村歌舞伎』とは、広義には村落における歌舞伎(かぶき)上演(村芝居)一般をさすが、狭義には、村芝居のなかでも専門の役者の来演を求めるのを買芝居もしくは請(うけ)芝居というのに対して、特に素人(しろうと)の地元農民が演じる歌舞伎をいう場合が多い。江戸中期より明治中期にかけての長きにわたって村落芸能の中心を占め、先行の神楽(かぐら)や獅子舞(ししまい)などの芸態にも影響を与えたという。別名「地芝居・地狂言・草芝居・田舎(いなか)芝居」ともいう。
 中央の大都市で育成された歌舞伎は、ほぼ元禄期(16881704)を画期として、そのころ地方都市に生まれた歌舞伎芸団や、役者村とよばれた村々を拠点とする芸能者集団の巡業活動を通じて、地方農村に浸透した。特に盛んであった地域は北関東から中部地方、中国地方にかけての山間部であり、それらは養蚕製糸業に代表される農村産業が隆盛をみた地帯と重なり合っており、地芝居の流行がそうした経済的発展に支えられた現象であったことを示唆している。
 農村で演じられる歌舞伎は、村の氏神の祭礼に村落共同体の行事として開催され、雨乞(あまご)いや立願をはじめ伝統的な祭式習俗とも結合し、都市商業劇場とは違った地芝居独特の世界を形づくった。当時農村で高まりつつあった都市的な娯楽への志向(演目が都市の歌舞伎そのままであったこと。派手な衣装や大道具等)を基盤にしつつも、村々で独自の特徴を持ち、何百年にもわたって伝承されてきた。
 農村歌舞伎の盛行はやがて、そのための舞台(今日、農村歌舞伎舞台とよばれる)を生み出すことになったが、それも村の施設として祭礼の場である従来の神社建築(まれに寺院建築)の一部を改変することにより、しだいに歌舞伎の上演にふさわしい形式を整える。
 こうした地芝居の流行は農村に奢侈(しゃし)的な風潮をもたらす結果となり、事実、多大な出費に耐えかねて夜逃げ同然に村を去った者もいた。したがって幕府・諸藩(のちには明治政府も)は勧農政策の一環としてしばしば地芝居を禁制の対象とし、おびただしい禁令が出された。地芝居の盛行は明治に入ってもなお持続したが、もともと娯楽性の強い芸能であっただけに、映画等 新しい娯楽の出現と共に衰退した。
 農村での娯楽の不足した第二次世界大戦後一時的に復活した所もあったが、その後の急激な都市化と娯楽の多様化の影響で廃れていきたが、埼玉県秩父郡小鹿野町の「小鹿野歌舞伎」のように、今でも地域文化として大事に受け継がれている地域はある。
 秩父市上影森諏訪神社には「諏訪神社附設舞台」がある。間口約11m、奥行7m、木造の舞台で建造年代は江戸末期から明治初年のものと推定される。
 この舞台は、秩父地方の農村歌舞伎舞台の典型的なものの一つで、二重、下座、セリ上げ装置、廻り舞台などの内部構造は古い構造をそのままにとどめており、歌舞伎等郷土の伝統芸能が隆盛であった往時を偲ばせている。
        
             
・所在地 埼玉県秩父市上影森2551
             
・ご祭神 建御名方命 八坂刀賣命
             
・社 格 旧上影森村鎮守 旧村社
             
・例祭等 節分祭 23日 春祭り 429日 夏祭り 7月第4日曜日
 大野原愛宕神社から国道140号線を秩父市街地方向に進む。「道の駅ちちぶ」を越え、4㎞程南西方向に進行すると、さすがに市街地を抜け、国道が大きく左カーブし、「上影森歩道橋」を過ぎた先の信号手前にあるY字路の細い路地を左斜め手前方向に進む。因みにこの細い路地は嘗ての「秩父甲州往還」の旧街道であったという。その路地は上り傾斜であり、高台に向かって進むと左手に上影森諏訪神社の鳥居が見えてくる。
        
                                 
上影森諏訪神社正面
         「秩父甲州往還」と旧街道の分かれ目という位置に鎮座。
      平野部に鎮座する社とはまた違った地域独特の雰囲気を醸し出している。
『新編武蔵風土記稿』には「村名の起りは武甲の大山を東南にうけし村なれば、山の影なる森と云名義とぞ土人云へり」と「影森」地名由来を説明している。またこの社は当地方にはめずらしく、かつて「椿森」と呼ばれたほど椿の多い杜であったという。
        
                 社の入口から参道を進むとある朱色の両部鳥居
 鳥居の先には記念碑があり、そこには「
椿の森に鎮座する諏訪神社参道に建つ両部大鳥居は明治時代の末下影森琴平神社に建立されたものだったが 第二次世界大戦中当椿森諏訪神社に申し受け今日に至った」との記載がある。
        
                参道に設置されている案内板
 諏訪神社 御由緒 秩父市上影森二五五-一
 ◇御神木の大杉は市指定の天然記念物
 秩父市の南西に位置する上影森は、南東に武甲山がそびえ、西に荒川が流れ、『新編武蔵風土記稿』には「村名の起りは武甲の大山を東南にうけし村なれば、山の影なる森と云名義とぞ土人云へり」とある。
 当社は当地方にはめずらしく、かつて椿森と呼ばれたほど椿の多い杜であった。現在、社殿は武甲山に向いて建てられているが、昭和三四年に焼失する以前は、氏子区域を見守るように建てられていた。
 昭和三六年(一九六一)再建の棟札には、天正五年(一五七七)・享保六年(一七二一)・宝暦十二年(一七六二)・安永二年(一七七三)・天明六年(一七八六)・文化三年(一八〇六)の本殿造営及び屋根葺き替えの棟札の写しが記されており、造営の足跡を知ることができる。
 また、境内にある歌舞伎舞台は大正六年(一九一七)に造られたもので、回り舞台になっていることから、市指定有形民俗文化財であり、当社の御神木である杉は推定樹齢約六〇〇年、胸高周囲五八〇センチメートルを超える大木で市指定天然記念物となっている。
 ◇御祭神 建御名方命 八坂刀賣命
 ◇御祭日
 ・元旦祭(一月一日) ・節分祭(二月三日) ・春祭り (四月二十九日)
 ・夏祭り(七月第四日曜日) ・月次祭(毎月二十七日
)
                                      案内板より引用
        
            鳥居脇に設置されている「神苑整備記念碑」
 神苑整備記念碑
 椿の森に神鎮まります諏訪の大神の大前に齋き奉る大鳥居 社務所など 奉齋以来いく多の星霜を閲みて腐朽著るしく早急にこれが改修をせまられた折
 この神やしろの神庭に 遠つ世の氏子諸びとたちが大神をおろがみ御神德の洽く四海に及ぼされんことを祈念し神賑の館として築ける歌舞伎舞台もまた県内まれにみる貴重な文化遺産でありながら永い風雪に耐えて破損夥しく この際両者復元により 旧態を保存して神威の昂揚につとむべしとの結論に達し神社積立金を基金としひろく氏子崇敬者の浄財寄進を勧募して神域整備の議成り過ぐる年秋工を起せしに神威たちまちにして顕現悉皆順調に進捗当初計画を容易に 凌駕して浄財の寄進を得たり
 仍ち付帯工事たる社務所増築をも併せてその完きを見面目を一新するに至る
 折しも歌舞伎舞台は秩父市有形民俗文化財の指定を受け いま先人の偉業ここに認めらる
 是偏に大神の御稜威と氏子崇敬者の篤い敬神の念の賜に他ならず 因って神苑整備と文化財指定を記念し 寄進者名の石ぶみを営みて永く感謝の誠を示すものなり(以下略)
                                   「記念碑文」より引用

 上影森諏訪神社には案内板や記念碑等が多く設置されている。これも歴史の深さから来るものであろう。
        
                     拝 殿
        
    拝殿手前左側には秩父市指定有形民俗文化財である「諏訪神社附設部隊」がある。
      大正六年(一九一七)に造られたもので、回り舞台になっているという。
 秩父市指定有形民俗文化財 諏訪神社附設舞台
 間口約11m、奥行約7m、木造の舞台で、建造年代は江戸末期から明治初年のものと推定されます。かって上影森村が戸数八十五戸であった時代に村の若者たちの手によって木材の伐採に始まり、運搬・建築と幾多の困難を克服して完成したと言われております。
 以来、諏訪神社の祭礼や農休みの年中行事として歌舞伎などが上演されて参りましたが、時代の変化とともに舞台を使用しての公演が困難になるとともに舞台も荒廃してまいりました。
 この舞台は秩父地方における農村歌舞伎舞台の典型的なものの一つで、その特色は二重・下座・セリ上げ装置・まわり舞台等内部構造は古い形をとどめています。
 昭和五十三年氏子の皆さんの浄財により一部補強修理を完了し、その保存をはかることになりました(以下略)
                                      案内板より引用

        
                                上影森諏訪神社本殿
 
 社殿の奥には幾多の境内社が祀られている。社殿左側奥に鎮座する境内社・椿森稲荷神社(写真左)。社殿正面奥にも境内社あり(同右)、こちらは由緒等不明。

 由緒等不明の境内社の並びには五基の境内社群が祀られているが(写真左)、こちらも詳細不明。また石垣祀られているいる「磐座」らしきものもある(同右)。 
        
            社殿右側に祀られている境内社・八坂神社
       
        境内社・八坂神社の奥に聳え立つ御神木である大杉(写真左・右)
 秩父市指定天然記念物 上影森諏訪神社のスギ一本
 秩父市大字上影森二二五~一番地
 昭和四五年九月四日指定
 このスギの木は、上影森諏訪神社の神木で樹齢六〇〇年から七〇〇年と推定され、地表より一〇メートル付近で八本の幹にわかれ特異な樹相を呈しています。
 幹の中には楢の宿木があり、子育ての名木として珍重されています。スギの木の大木としては市内最大です。
 樹高  四〇メートル
 目通り 五・六メートル
 枝張り ニ六メートル
 平成五年三月 諏訪神社 秩父市教育委員会
                                       案内板より引用

        
                境内から眺め見える武甲山


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「秩父市HP」Wikipedia
    「日本大百科全書(ニッポニカ)」「境内案内板・碑」等

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大野原愛宕神社

 
        
             
・所在地 埼玉県秩父市大野原3391
             
・ご祭神 軻具土命
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 例大祭 424日 七五三祈願祭 1115日 
                  新穀感謝祭 
1124日 大祓いの式 1231
 秩父市黒谷地域に鎮座する聖神社から国道140号線で南下すること4㎞程、「愛宕神社前」交差点の斜向かいに大野原愛宕神社は鎮座する。この社は秩父鉄道大野原駅から徒歩5分程度の国道沿いにあり、遠目から見ても境内一帯に広がる豊かな社叢林は、その社の神聖さを物語ると同時に、地域の方々が如何にこの社を大切に守っているかを推し量ることができよう。
 境内北側には社務所があり、「愛宕神社前」交差点を右折し、すぐ先には交差点角地付近に設置されている「多機能トイレ」と社務所との間に境内に入る道が見え、そこに入ると広々とした駐車スペースも確保されている。一応他の参拝等の客(と言っても参拝する者は筆者だけだが)に迷惑のかからない場所に停めてから参拝を開始した。
        
             大野原愛宕神社入口付近の社号標柱と鳥居
 交通量もそこそこに多い国道沿いに鎮座しているのも関わらず、境内はひっそりと静まり返っている。境内周囲を覆っている豊かな社叢林が下界との境界線を敷いているようにも感じた。午後の参拝時間で学生の帰宅時間に重なり、帰路を急ぐ学生や、境内の一角で語り合う数名の姿も見られたが、騒ぐこともなく雑談を交わしながら過ごされていて、何とも微笑ましい風景がそこにはある。不思議とこれ程広い境内にも関わらず、境内にはゴミ等も落ちていなく、日々の手入れも行き届いているようだ。
        
               参道途中に設置されている案内板
 御由緒
 愛宕神社は、一六一九(元和五)年未歳正月二十四日に現在地に建立し、杉や檜を植えて愛宕の森を作った 。祭神には、軻遇突智神と伊邪那美神を祭っている 。その後検地により、東西四十間南北五十二間の五反九畝十一歩に縮小された。
 そして、一七五五(宝暦五)年に現在の上屋を造営し、一八七一(明治四)年に大野原村の村社となる。また、一九二八(昭和三)年に拝殿を建設した。当神社は、大野原の鎮守として信仰されるとともに、火防火傷除けの神として近郷近在から信仰を集めてきた。
 当社の年中行事は、元旦祭・追難祭 (節分)・祈年祭・例大祭(四月二十四日)・七五三祈願祭(十一月十五日)・新穀感謝祭(十一月二十四日)・大祓いの式(十二月三十一日)となっている。中でも一番賑やかなのが、毎年四月二十四日の例大祭で、神楽などが行われる。
                                    境内案内板より引用
 大野原愛宕神社のご祭神である「軻具土命」は、日本神話にみえる神の名であり、火の神。『古事記』では迦具土神と記し、『古事記神話』ではヒノカグツチノカミ,ヒノカカビコノカミ,ヒノヤギハヤオノカミなど,火の光輝,燃焼などの機能に基づく異名を掲げる。
 この火神は伊奘冉尊(イザナミノミコト)が神生みの最後に生んだ神で,イザナミは陰部を焼かれて死ぬ。夫の伊邪那岐尊(イザナキノミコト)は怒って火神を斬る。その血(火の色)から刀剣,雷神,水神が生まれ,また死体から山の神々(山焼きの表象か)が生まれたという。
 母神に大火傷を負わせただけでなく、死に至らしめた神であり、生まれてすぐに父神に殺されてしまう、可哀想な神であるのだが、後世において火を扱う業者からの崇敬が高く、鍛冶業や焼き物業といった業者から高く崇敬され、防火の神、鍛冶の神、陶器の神の神格を持つ特異な神である。
 秋葉山本宮秋葉神社(静岡県浜松市)を始めとする全国の秋葉神社や愛宕神社、野々宮神社(京都市右京区、東京都港区、大阪府堺市ほか全国)などで祀られている。
       
           参道途中には1本の御神木が聳え立つ(写真左・右)
 
       参道左手にある神楽殿           右手には社務所もある。
『日本歴史地名大系 』「大野原村」の解説
 [現在地名]秩父市大野原
 
横瀬川を境に黒谷村の南、荒川右岸に位置する。南は大宮郷、東は山田村、西は荒川を境に寺尾村。秩父往還・川越秩父道の分岐点にあたる。地名は、原野が多かったことに由来するとされる(秩父志)。縄文時代中期・後期の集落跡、古墳群などがある。田園簿では高一八七石余・此永三七貫五八九文とあり、幕府領。寛文三年(一六六三)忍藩領となり、同領で幕末に至る。元禄郷帳では高四一七石余。天明六年(一七八六)秩父郡村々石高之帳(秩父市誌)によると反別は田三町一反余・畑一四七町五反余。
        
                                  静かな境内
 案内板によると嘗てはもっと広い社地であり、その後検地により縮小されたと記載があるが、今でも十分に広い。
 鎮座地大野原の地名は、『秩父志』に「此村古昔ヨリ原野多ケレパ名トナルベシ」とあり、また、『風土記稿』に「墾開の年代を伝へずといへども、原野の地をひらきし村なり」とあるところから、古くはこの地に原野が広がっていたことにちなんだものという
        
                                      拝 殿
 大野原愛宕神社は、口碑によれば、元来は村の東に位置する字峰沢にある前山の山上に祀られていたが、1619年に字宮崎にある現在の境内へ遷座したという。この話に出てくる前山には、往古、妙見宮(現秩父神社)が祀られていたと伝えられ、妙見宮は、その後、宮崎、柞の森と社地を移していったという。これらの伝説と、秩父神社文書の「嘉禎の火雷後妙見宮を柞森に祭祀されその宮籬の辺りに火神愛宕の神祠を営みける」という記事と合わせて考えると、当社は、四条天皇の嘉禎元年(一二三五)九月の落雷による秩父神社が社殿焼失のために遷座した妙見宮の跡地に火防の神として祀られた社で、妙見宮がその土地を移すにしたがって、当社も前山から宮崎に社地を移したと見ることもできるが、いまだ推論の域を出ないとの事だ。
 
          本 殿             本殿東側奥には秩父鉄道の線路が見える。
        
                 社殿を横側から見る。
 拝殿は基壇上にあり、また本殿に移るにつれて高台となっている。調べてみるとこの高台は古墳のようで、周辺には「大野原古墳群」と呼ばれる古墳群が存在している。
 大野原古墳群は、横瀬川左岸の段丘上に形成され、78基の古墳が確認されている。かつては「百八塚」とも呼ばれ、立地する地区の名前をとって「黒草支群」、「大野原支群」、「蓼沼支群」、「下小川支群」の4支群に分けられている。築造時期は7世紀後半から8世紀初頭と見られている。黒谷に鎮座する聖神社には大野原古墳群出土の鉄刀、鐔、鉄鏃、蕨手刀、円筒埴輪、和同開珎が保存されている。
 この古墳群の一つである大野原愛宕神社の基壇下周辺には「大野原24号墳」があり、径13.0mの円墳という。
        
             境内南東部に鎮座する境内社・王子稲荷社
 
  稲荷社特有の赤い鳥居の列が目を引く。          王子稲荷社
        
        鳥居の右側並びに祀られている「弁財天」「浅間大神」の石祠。
 屋根付きの「囲」に丁重に祀られている。「囲」と表現したが、正式名は何であろうか。知っている方はご教授願いたい。それにしても意外と立派である。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「秩父鉄道HP」「Wikipedia」
    「境内案内板」等

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大宮住吉神社

『日本歴史地名大系』 「大宮住吉神社」の解説
 [現在地名]坂戸市塚越
 越辺川右岸台地上にある。祭神は底筒之男命・中筒之男命・上筒之男命・息長帯比売命・品陀和気命。旧郷社。中世には大宮、近世には住吉大明神などとよばれた。天徳三年(九五九)長門国豊浦とようら郡楠乃(くすの・現山口県下関市)の住吉神社を当国住人山田長慶が勧請したと伝え、北武蔵一二郡の総社とされた(神社明細帳)。江戸時代に作成された「住吉社覚」には、源義家が奥州出陣の際に簸川大明神を勧請したこと、治承四年(一一八〇)に千葉常胤が参詣し歌を一首奉納したこと、永享元年(一四二九)足利持氏が社殿を再建したことなどが記録される。

       
              
・所在地 埼玉県坂戸市塚越254-1
              ・ご祭神 住吉三神(表筒男命 中筒男命 底筒男命)
                   神功皇后 応神天皇
              ・社 格 旧北武蔵十二郡総社 旧郷社
              ・例祭等 祈年祭 223日 例大祭 4月第1日曜日
                   新嘗祭 1123
 坂戸市石井地域に鎮座する勝呂神社から南東方向に直線距離でも500m程しか離れていない社である。石井勝呂神社散策中、偶々近所の方にこの社の由来等をご享受頂いた際に、大宮住吉神社が近くにある事を初めて聞いた次第だ。
 案内板によれば、大宮住吉神社は、天徳3年(959)当国の山田長慶が長門国の官幣社住吉神社をこの地に奉遷して創建、文治3年(1187)には源頼朝の命により北武蔵十二郡(入間・比企・高麗・秩父・男衾・賀美・那賀・児玉・横見・幡羅・榛沢・埼玉)の総社に選ばれ、神職勝呂家は触頭を務めたという由緒正しい社。江戸期には徳川家光より慶安2年(1649)社領6石の御朱印状を拝領、明治維新後には村社に列格、大正15年郷社に昇格した。
        
                  大宮住吉神社遠景
 冒頭では「大宮住吉神社」の紹介をしたが、『日本歴史地名大系』には「塚越村」の解説が載っている。
 [現在地名]坂戸市塚越・栄・千代田五丁目
 石井村の南にあり、北部を飯盛川が東流する。南は高麗郡戸宮村、南東から北西へ江戸秩父道が通る。古くは塚腰といい、奥州出陣の途中源義家が当地に陣して西方にあった古塚に腰を掛けたことから起こった地名だと伝える(風土記稿)。この古塚は現在義家塚とよばれる直径八メートル、高さ一・四メートルの円墳で、墳頂に源義家を祀る塚越神社がある。天文二四年(一五五五)四月一五日の紀年のある坂戸薬師堂の薬師如来立像の胎内首裏墨書銘に「武州入西郡勝郷之内塚越村小河新右衛門尉法名善了旦那也」とある。小田原衆所領役帳には、江戸衆伊丹右衛門太夫の所領として「入西勝之内 大宮分藤井共」一九貫一三二文があり、弘治元年(一五五五)に検地が行われていた。
 上記の解説では大宮住吉神社が鎮座する「塚越」の地名由来に関しての説明があり、康平年間(105865)、八幡太郎義家が奥州征討の際此地に訪れたが、越辺川・荒川の増水により、渡ることができぬまま滞陣し、村の西方にある古塚に腰をかけた。このため、此の地を「塚腰」と呼ぶようになり、後に変じて「塚越」と書くようになったと伝えている。
        
                 大宮住吉神社正面鳥居
        
              入り口付近に設置された大宮住吉神社の案内板
 大宮住吉神社 坂戸市塚越二五四-一
 社伝によると当社は、平安時代(天徳三年・九五五年)に長門国豊浦郡(現在の山口県下関市)の住吉神社の御分霊を山田長慶という人が勧請したことに始まるといわれ、祭神として、住吉三神(海・航海の神)、神功皇后、応神天皇を祀っています。
 当社は、室町時代中期(永享元年・一四二九年)に、鎌倉公方の足利持氏によって社殿が再建されたといわれており、永享元年銘の棟札が現存しています。後に、江戸入府を果たした徳川家康からは、自社の所領を確定させた公的文書の御朱印状を賜り、以後代々の将軍に社領を認められ、将軍家光の代には朱印高六石を賜わったといいます。
 当社は、かつては、北武蔵十二郡(入間・比企・高麗・秩父・男衾・賀美・那賀・児玉・横見・幡羅・榛沢・埼玉)の総社であり、宮司家勝呂氏は触頭として、配下の神職をまとめており、江戸時代には、武蔵国の総社である府中市の大國魂神社の祭事に出席し、神楽を奉納した記録があります。近代には、近隣で唯一の郷社となり、氏子を中心に広く信仰を集めてきました。主な祭りは、祈年祭(二月二十三日)、例大祭(四月第一日曜日)、新嘗祭(十一月二十三日)であり、中でも例大祭は最も盛大で、多くの神楽が奉納され、午後に行われる「天下祭」では、天狗(猿田彦命)を先頭に行列が参道を歩み、神話の天孫降臨になぞらえて五穀豊穣・家内安全を祈願します。
 境内には、本社とは別に、複数の神社が合祀されている「境内社」があり、合わせて十七社が祀られています。道を挟んで境内の南側にある「神泉」といわれる池には中央に島があり、「市杵島比売命」を祀る厳島神社が鎮座しています。厳島神社の石祠(ほこら)には水の神ともいわれる「弁財天」の文字が刻まれており、かつては干ばつが続くと氏子が桶を持ち寄り雨乞いをしたといいます。
                                      案内板より引用

        
             同じく入り口付近にある坂戸の大宮住吉神楽の案内板
 坂戸の大宮住吉神楽 (坂戸市塚越二五四-一)
 国選択無形民俗文化財・埼玉県指定無形民俗文化財
 大宮住吉神楽は、江戸里神楽の影響を色濃く残した神楽で、物語を身振り手振りで表現する無言の劇のようなところがあり、演劇性の高い神楽です。神楽の持つ豊かな物語性によって、永く土地に根付き、人々に伝承されてきたものと考えられます。
「坂戸の大宮住吉神楽」は、埼玉県指定無形民俗文化財(昭和五十二年三月指定)であるとともに、平成二十二年三月十一日には、国により「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」として選択を受けた大変貴重な神楽です。
 大宮住吉神楽は、天照大神までの神話を題材にした「十二神楽」とその他の神話や茶番狂言のような十座の「座外神楽」の演目で構成されています。
 古い記録によると、県内の児玉郡神川町の金鑽神社を中心とした金鑽神楽が、宝暦年間(一七五一~一七六四)に大宮住吉神楽から古代神楽を伝授されたと伝わっており、大宮住吉神楽の成立は少なくともそれ以前にさかのぼるものと考えられます。
 当初は神主によって神楽が奉納されていましたが、明治以降、氏子男子の有志によって引き継がれ、現在は「大宮住吉神楽保存会」が組織されて氏子を始めとした神楽師によって、神楽の保存・継承が図られています。
 神楽の奉納は、祈年祭(二月二十三日)、例大祭(四月第一日曜日)、新嘗祭(十一月二十三日)で行われ、中でも四月の例大祭は最も盛大で、午前中から夕方まで様々な神楽の座(演目)が色とりどりの面と衣装を身に付けた神楽師により奉納されています。(以下略)
                                      案内板より引用
        
             鳥居上部に掲げられている「北武蔵総社 大宮住吉大明神」の社号額
        
               鳥居を過ぎた直後の参道の様子
       嘗ての北武蔵総社という格式からか、風格が漂う荘厳たる境内が広がる。
       
                         鳥居を過ぎるとすぐ右手にある手水舎
        
   参道は鳥居を過ぎて暫く真っ直ぐ進むが、左側に神楽殿がある地点で右側直角に曲がる。
 国選択無形民俗文化財・埼玉県指定無形民俗文化財「坂戸の大宮住吉神楽」を奉納する舞台であり、神楽殿は社殿に対して正面にある。
     
  神楽殿付近で参道は曲がるが、その参道右手にはご神木が聳え立っている。(写真左・右)
       
                     拝 殿 
 塚越村 住吉社
 村の鎮守なり、慶安二年社領八石の御朱印を賜ふ、祭神は表筒男中筒男底筒男三神にて、村上天皇の御宇天徳三年己未二月二十三日長門國山田邑より爰に遷し祟り、其後永享元年己酉九月十五日、關東管領左兵衛督持氏再興ありし時、底通日女明日登日止の神を配祀す、此若三神は普通に祀ると異なりといへども、當社神秘にて斯の如しと云、村内に永享元年の棟札及び慶長十五年、地頭村越與惣左衛門と記せし棟札あり、永享の棟札は左之如し(中略)
此紗は古へ勝呂郷の惣鎮守にて、勝呂大宮と唱へしと云傳ふ、前にも出せし如く【北條役帳】に入西郡勝之内大宮分と有は、當社の事なるべし、
本社。中央に住吉明神、右に和歌三神、左に東照宮鎮座あり、(以下略)
                               『新編武蔵風土記稿』より引用
 
         拝殿内部            拝殿に掲げてある特徴ある扁額

 坂戸市は、埼玉県のほぼ中央に位置し、地勢はおおむね平坦であり、秩父山系から清流として知られる高麗川(こまがわ)が市の南西から北東へ流れ、越辺川(おっぺがわ)に注がれる。 
 坂戸市の北東部に広がる坂戸台地は古くから開けた土地だったようで、古代官道である東山道武蔵路が南北に通っているといわれ、台地上は古くから古墳が数多く築かれた場所でもあったようだ。
 東山道武蔵路の成立は7世紀後半という。埼玉県下でその遺構として発掘されている場所は、所沢市内「久米・東の上遺跡」「下富・柳野遺跡」、川越市内「的場・八幡前、若宮遺跡」「的場・女堀遺跡」で、この女堀遺跡が現在確実に武蔵路の遺構として考えられている最北の遺跡との事だ。
 比企郡吉見町南吉見地域で2001年(平成13年)発掘された「西吉見条里遺跡」は、官道級の幅員を持つ古代道路跡で、その後も道路跡の延長上の遺跡で同様の発見があった。武蔵路の遺構との推測がなされているが、向きが北東に傾いているため、郡衙同士の連絡道、または常陸国へ通じる間道という説もあって確定していない。
        
                                    本 殿

 女堀遺跡以北の地域では、古代道路跡の遺構はまだ発掘はないが、遺構の北方向延長線上は勝呂廃寺や宮町遺跡がある。
 勝呂廃寺は坂戸市石井に所在し,
7世紀末から9世紀までの寺院跡で、県内最古・最大級の古代寺院跡と言われている。金堂や講堂などの主要建物とは異なる寺院の関連施設と考えられている。大溝は寺の周囲を巡るように掘られていると考えられているが、調査範囲が限られているため寺域の確認はできていない。大型の堀立柱建物跡は大溝同様に全体の調査が行われていないが、四面庇の建物であったと確認されていて、この寺の創建は渡来系氏族の勝氏が深く関わったものと考えられていて入間郡寺に比定され、武蔵路の延長ライン上にあるこの寺は駅路に近接して建てられたのではないかと考えられている。
 というのも、塔の相輪の一部や多量の瓦が出土していて、この寺跡の瓦は7世紀から南比企窯跡群で生産されている。南比企窯跡群は、各時期、上野国からの影響を受けるが、同時に武蔵国分寺の瓦を焼成している所から、上野国一勝呂廃寺(南比企窯跡群)一武蔵国分寺の関係は道路跡を介していたことが想定できよう。
 また坂戸市大字青木字堀ノ内の「宮町遺跡」では、平成元年(1989)に発掘調査が行われていて竪穴住居跡や堀立柱建物跡などが発見されているが、そこでは「樟秤」の金具とそれに使用した石製の錘が出土して注目されたが,墨書土器の中に道路を推定する「路家」が11号住居跡から出土していて、おそらく宮町遺跡付近を道が走っていたと推測されている。
        
                       参道の左手には境内社が纏めて祀られている。
 荒掃除神・荒神社・山王権現社・和歌宮神社(若宮明神社)・東照宮・木造神社・杉本神社・八重垣神社・子安神社・八坂稲荷社・天神社(天満宮)・国分神社(国分明神社)・疱瘡神社・総前神社・塚越神社・八幡神社等。

 東山道武蔵路は文献において、続日本紀』神護景雲2年(768)の奏勅、その後『続日本紀』にみえる宝亀2年(771)大政官の奏により、武蔵国は東山道から東海道へ所属替えとなり、東海道も相模国から海路で上総国に向かうルートから武蔵国の沿岸を通るルートに変更されて国府への支道もつくことになることにより、東山道武蔵路は官道から外れ、間道に降格されることになった。また律令制度の衰退により、道路の整備も行き届かなくなり、次第に道としての機能を果たさなくなったが、11世紀頃までは道として使用されていたようで、中世には、嘗ての東山道武蔵路と並行するような形で鎌倉街道上道が主要な道路として利用されたという。

 どちらにせよ、律令制度時期当時は、坂戸市北東部一帯は市内でも古くから開発されていた地域であり、その中に塚越地域は内包されており、北武蔵総社として大宮住吉神社がこの地に鎮座していることの意味は大変大きいと筆者は考える。
 
 境内一帯には深い社叢林が覆っており(写真左・右)、また社殿の右手には屋根付きの休憩スペースも設置されていて、地元の方々にとって憩いの場ともなっているようだ。 

 大宮住吉神社・正面鳥居の道路を挟んで反対側には「弁天池」があり、その赤い神橋を渡った先には厳島社が鎮座している。大宮住吉神社の境内社であろう。
       
                              厳島社正面 

   赤い神橋の先に厳島社は鎮座する。         弁天池の一風景

 追伸にて
 大宮住吉神社と関連する項目として、『増補忍名所図会』には平安時代後期の武士で、寿永
3年一ノ谷の戦いに弟の河原盛直とともに源範頼に従い、兄弟で平氏の陣に迫ったが、備中の真名辺(まなべ)五郎の矢に射られ、同年27日ともに討ち死にした「河原(川原)兄弟」に関して以下の気になる記載がある。

「勝呂大明神は南河原村民家の東にあり、川原太郎高直の造立と云。高直摂州より出し人にて往古明神を信仰す、此地に来りて、後川越領勝呂村の住吉を爰に移す、依て勝呂明神といふと云へり」

 河原明戸諏訪神社で取り上げた「河原兄弟」の出身地が実は「摂津国生田庄」付近で、この兄弟の祖先が武蔵国に目的を以って東行する際に、住吉神社の海上ネットワーク、または当時の武蔵国塚越地域に一大拠点を築いていた大宮住吉神社に神職、または社人(今でいう事務職員)として派遣されたのではないか、と推測している。
 もしこの推測が正しければ、平安時代当時の住吉神社系列のネットワーク網は現代を生きる我々が考えている以上に規模大きもので、驚かされるばかりだ



参考資料「新編武蔵風土記稿」「増補忍名所図会」「日本歴史地名大系」「坂戸市HP」
    「Wikipedia」「武蔵国内の東山道について」「境内案内板」等    
   

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中小坂神明神社

 神仏習合(しんぶつしゅうごう)とは、日本土着の神祇信仰(神道)と仏教信仰(日本の仏教)が融合し一つの信仰体系として再構成された宗教思想形体である。
 その神仏習合形体の一つが「両部神道(りょうぶしんとう)」といい、仏教の真言宗(密教)の金剛界・胎蔵界の両部の理論をもって,日本古来の神と仏の関係を位置づけた思想である。真言の哲理をもって神道の神,神話,神社,および行事を説明しようとする。すなわち,大日如来を本地とし,諸神はその垂迹であるとする。両部とは不壊と智を意味する金剛界と,育生と理を意味する胎蔵界の大日であるとし,二でありつつ一体不二であると説き、日本特有の神仏調和を基として,中世以降,国民の思想と生活に大きな影響を与えた一連の宗教思想といえる。この思想は近世以降,新たに提示された神道説の基本と位置づけられたが,明治期になると神仏分離政策により衰退した。
 坂戸市中小坂地域に鎮座する中小坂神明神社は、今でこそ「神明神社」との名称であるが、嘗ては「天照大神春日八幡相社」と称し、『新編武蔵風土記稿』中小坂の項には、「天照大神春日八幡相社 村の鎮守なり、村内慈眼寺持」と載せ、内陣には雨宝童子像・春日大明神像・八幡大明神像とそれぞれに祭神名を記す神鏡三面を安置している。
 この中の「雨宝童子」とは「両部習合神道」の神であり、天照坐皇大神が日向に下生した際の姿とされ、大日如来が化現した姿とされることもあり、神仏習合思想の影響を未だに色濃く残している社ともいえよう。
        
              
・所在地 埼玉県坂戸市中小坂1
              
・御祭神 天照皇大御神
              
・社 格 旧中小坂村鎮守 旧村社
              
・例祭等 不明
 埼玉県道269号上伊草坂戸線沿いに鎮座している横沼白髭神社から西方向に進路を取り、「三芳野小前」交差点を左折する。道沿いを1.6㎞程南下し、「さかど療護園」の看板が左側にある十字路を左方向に進み、100m程でT字路に到着するので、そこを右折すると、進行方向左手に「中小坂下集会所」があり、そのすぐ隣に中小坂神明神社の社号標柱が見えてくる。
 駐車スペースは「中小坂下集会所」に数台可能であるので、そこに停めてから参拝を開始した。集会所の奥には緑豊かな社叢林が広がり、「神明社」の称号も合わさって、参拝も自然と厳かな気持ちとなった。
        
                  中小坂神明神社正面
                           こんもりとした社叢林が一際目立つ社
『日本歴史地名大系』 「中小坂村」の解説
 [現在地名]坂戸市中小坂・東坂戸一―二丁目
 紺屋(こうや)村の南にあり、南は高麗郡下小坂村(現川越市)、北西は同郡下広谷(しもひろや)村(現同上)。入間郡河越領に属した(風土記稿)。田園簿では田六九石余・畑八八石余・野高一石余、水損場と注記される。
 幕府領(一二八石余)・川越藩領(二一石余)・旗本設楽領(一〇石)の三給。川越藩領分は寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高二七石余、反別は田一町七反余・畑一町五反余。元禄一五年(一七〇二)以前に全村が川越藩領となるが、村高は九四石と減少している(河越御領分明細記)。秋元家時代の郷帳では高九四石余、検地出高二〇四石余、反別は田一四町五反余・畑五一町余。

        
                        道路から少し入った場所に鳥居は立っている。
 所在地は「坂戸市中小坂1」。この中小坂地域において、東側端に位置していながら、まさにこの地域の始点となる場所にこの社は鎮座している。
 参拝中は全く気付かなかったが、後日グーグルマップで確認すると、この社は西向き(正確には南西方向)に社を構えている。
 中小坂地域は東西が2㎞程で、南北に比べて非常に長い地域である。社の東方向には入間川や越辺川が合流する地点でもあり、肥沃なデルタ地域を形成する場所でもある。しかし肥沃な地域であるのも関わらず、『新編武蔵風土記稿・中小坂村条』にも記されているように「水田少なく陸田多し、天水場なれど村内に溜井あり、是をも用水の助とす、旱損あり」と、河川等の恩恵は少なく、むしろ干ばつ等の被害が出やすい地域でもあったようだ。
 その地域において、この東端という位置に社が鎮座していることは非常に意味があり、嘗ての旧中小坂村の鎮守様であり、地域住民の方々の生活が困らないように日々見守ることができるこの西向き配置は納得できよう。
        
                     拝 殿
 神明神社 坂戸市中小坂一(中小坂字神明)
 当社は越辺川右岸、中小坂の東端に集落を望むように西南向きに鎮座し、境内は白樫・椚などからなるこんもりとした杜である。
『風土記稿』中小坂村の項には「天照太神春日八幡相社 村の鎮守なり、村内慈眼寺持」と載せ、内陣には雨宝童子像・春日大明神像・八幡大明神像とそれぞれに祭神名を記す神鏡三面を安置している。なお、神鏡には「正徳三癸巳建立」の墨書が見られる。また、大昔は神明様一柱だけであったという口碑がある。
 このようなことから当社は、初め天照大御神一柱を祀っていたが、室町末期から広く庶民信仰として普及した三社託宣により、正徳三年に春日・八幡の二社を相殿に奉斎して三柱となったものと考えられる。『明細帳』では、社号を神明神社と改め、主祭神を天照皇大御神のみとして、ほかの二柱については載せていないが、これは明治維新の影響を受けた結果と推察される。
 明治五年に村社となり、同九年には慈眼寺境内の津島神社、同四〇年には字原の白山社・字中戸の愛宕社・同境内社の浅間社・字大滝の稲荷社を合祀したが、このうち津島神社と白山社はそのまま社殿が残り、祭りも続けられている。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                     本 殿
 
            社を覆うように広がる社叢林(写真左・右)
 この中小坂神明神社の社叢林は、埼玉県の鎮守の森リストにも登録されていて、高木層にシラカシが優占しているだけでなく、亜高木層や低木層に、シラカシの若木や、ツバキ、アオキ、ネズミモチ、ヒイラギ、サカキ、シロダモ等の照葉樹の小高木や低木が、それぞれの層に優占している。草本層にも、ジャノヒゲ、ヤブコウジ、ヤブラン、キヅタなどの照葉樹林の構成種が多い。林の規模が小さいため、シラカシ林構成種のほか、他の落葉樹等も混生しているが、森林の各層に照葉樹が優占したシラカシ林となっている。
 地域の貴重な一つの文化的遺産として、後世に残したいものだ。
 
 社殿左側奥には石祠群が祀られている(写真左)。また拝殿手前で左側には、3基の境内社が並列して祀られていて、一番手前には八坂神社・天神天満宮合祀社(写真右)が祀られている。
 
 八坂神社・天神天満宮合祀社の左隣の境内社    その隣には境内社・大口眞神が鎮座
         詳細不明 
        
                  静かな社の一風景

 冒頭にて両部神道の解説をしたが、これに関連した「こぼれ話」を偶然知るに至ったので、この項を拝読している方々にも共有したいと思う。
 鳥居とは、神社などにおいて「神域」と人間が住む「俗界」を区画する結界というものであり、神域への入口を示すものでもあり、一種の「門」である。
 神社における鳥居にはいくつかの形式があり、笠木のみで島木がなく、笠木に反りがない直線的な「神明鳥居(しんめいとりい)」と、笠木と島木があり、笠木に反りがある「明神鳥居(みょうじんとりい)」とに大別でき、神明鳥居からの派生として「靖国鳥居」が、明神鳥居からは「鹿島鳥居」「「春日鳥居」「八幡鳥居」等とに分派されたという。しかしながら、一つの神社で複数の形状の鳥居が存在する例があることからも祭神によって鳥居の形状が決まるものではなく、鳥居に定められた形状は無い。また寄進者の意向によっては特徴が融合していることもあり、それらの分別は目安でしかないので、あくまで参考知識として知るにとどめた方が良いと思う。
 鳥居の種類にも色々あるが、その中でも「両部鳥居」は一際目を引く外観である。この「両部鳥居」は、本体の鳥居の柱を支える形で稚児柱(稚児鳥居)があり、その笠木の上に屋根がある構造の鳥居であるが、名称にある「両部」とは密教の金胎両部(金剛・胎蔵)をいい、神仏習合を示す名残りともいい、神仏混交の神社に多く建てられたようだ


参考資料「
新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」
    日本歴史地名大系」「鶴ヶ島市立図書館/鶴ヶ島市デジタル郷土資料HP」
    「Wikipedia」等

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