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古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

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野上下郷諏訪神社

 板碑は、五輪塔(ごりんとう)・宝篋印塔(ほうきょういんとう)とともに中世に盛んに作られた供養塔であり、石板卒塔婆ともいう。本来、塔とは五重塔・三重塔などの仏塔のことだが、その後、エジプト新王朝時に、ピラミッドの代わりに盛んに造られたオベリスクのような形の先端のとがった細長い建築物のことも塔と呼ばれるようになった。この板碑は鎌倉時代は地方豪族や僧侶によって立てられたが、南北朝・室町時代には庶民層による造立も盛んになったという。
 この板碑は北海道から九州まで日本全国に分布しているが、特に中世の関東地方で多く作られた。関東地方には4万基を数えるとされているが、その中にあって埼玉県には現在2万基以上の板碑が確認されていて、これは質・量ともに全国一といわれている。分類上「武蔵型板碑」とも言われ、原料の石材は荒川上流の長瀞や槻川流域の小川町下里などから産出される緑泥片岩と呼ばれる青色を帯びている石を加工して造っているため青石塔婆とも呼ばれていている。
 寄居から国道140号線沿いにある樋口駅手前200mに国指定史跡「野上下郷板石塔婆」がある。台上高約5,37m・幅約1m・厚さ13㎝のこの塔婆は現存する青石板塔婆としては日本一の大きさであり、1928年(昭和3年)国指定史跡に指定された。
 この野上下郷板石塔婆のある道を北上すると、山の斜面上に野上下郷諏訪神社は静かに鎮座している。
所在地    埼玉県秩父郡長瀞町野上下郷467
御祭神    建御名方神
社  挌    旧村社
例  祭    例大祭 3月17日

        
 野上下郷諏訪神社は国道140号を長瀞町方向に進み、「国指定史跡 野上下郷板石塔婆」と表示された看板の先のT字路を右折する。するとすぐ右側に野上下郷板石塔婆が見える。この板碑は高さ約5mの日本最大の板碑であり、地下の板の長さを加えると約7m余りの長さではないかと言われている。この野上下郷石塔婆の前の道を北に向かい、直進して長瀞小坂団地を過ぎたら右に曲がると左側にこの社の参道が見えてくる。
           
           
 傾斜地に鎮座している為であろうが、長瀞地方の豊富な石材をふんだんに使用して土台として石垣状にしているのが良く解る。また谷積みと言われる石材を斜めに使った石積み方法で積み上げているようだ。
            
 古くは諏訪大明神、仲山城のふもとにある。南北朝時代、仲山城を築いた阿仁和基保が、自ら帰依する信州の諏訪大明神を勧請したのが起源といわれる。後の鉢形城主北条氏邦も崇敬した。

    社殿前にある石段の左側にある手水舎             手水舎の奥にある案内板

 諏訪神社   所在地 秩父郡長瀞町大字野上下郷

 諏訪神社の祭神は建御名方神(たけみなかたのかみ)で、正和元年(1312年)、阿仁和兵助橘基保が仲山城を築き当地を支配した時、基保が常に厚い信仰をささげていた信州一之宮の諏訪大明神の分霊を勧請して、ここに祀ったのが始まりと伝えられる。
 基保が没してから後、鉢形城主北条氏邦は当社を厚く崇敬し、
拝殿や神楽殿を造営、神域を拡張して当地方の総鎮守としたが、北条氏の滅亡とともに社殿の修理等も行われないまま衰微した。
 その後、弘化元年(1844年)に、西光寺法印が広く浄財を募り、社殿を再建し、現在に至っている。
 昭和五十八年三月  埼玉県
                                                                案内板より引用
            
                                拝    殿
 野上下郷諏訪神社の
拝殿の彫刻は見事なもので、時間を忘れて見入ってしまった。この拝殿の彫刻に関しての詳細な記録は現在調べても解らない。残念。
            
              拝殿向背部の見事な彫刻。社殿の再建時は色彩も見事であったろう。

 若干色彩が残っている場所もあるが、その全体像までは解らない。この彫刻は拝殿側面部にまで施されている。野上下郷地区という正直閑散とした地にこの素晴らしい社が存在すること自体、驚きという以外ない。


                 拝殿の脇障子にも細かく多彩な彫刻が施されている。

 境内社が社殿の周りに鎮座している。ほとんど詳細不明。

   社殿の右側奥にある石祠、詳細不明。         社殿の左側にある境内社、こちらも不明。

    社殿左側に境内社と共にある恵比寿様             恵比寿様と並んである社日  


 長瀞町野上地区は、荒川左岸の狭い河岸段丘上に集落が点在している。ところでこの荒川の対岸である右岸地区は岩田、金尾地区であり、金尾地区は金上无の手により和銅(にぎあかがね)を発見した秩父市黒谷の和銅山の尾根続きの地であるし、更にまた金尾地域の荒川を隔てて東側には末野遺跡という古墳時代から窯で焼成された堅い土器(須恵器)を生産していた窯跡が発掘されている。この末野遺跡には須恵器生産に関連する窯跡群の他、須恵器を生産する工房の跡や材料の粘土を採掘した跡に加え、鉄生産の行っていた痕跡も残している。野上地区はその金属製造地帯に内包した地域といえる。
 またこの地域周辺には、金ケ嶽(かながだけ)、金石(かねいし)、金崎(かなさき)、金尾(かなお)など鉱石に関する地名が存在する。

 長瀞町に鎮座する宝登山神社の「ホト」は火床(ホド)、つまり溶鉱炉であり、タタラ師や鍛冶師の一大集団がその周辺に存在していた一つの証拠であろう。そしてその集団は朝鮮半島から渡来した技術者集団である可能性が高いと思われるが如何なものだろうか。

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小鹿野町小鹿神社

 埼玉県小鹿野町は秩父郡にある町で、埼玉県の西部に位置し、秩父盆地のほぼ中央に市街地を形成している。町域は東西約20㎞、南北14㎞、総面積は171.45㎢で、その83%が山林で占めており、秩父多摩甲斐国立公園、県立両神自然公園、県立西秩父自然公園等の自然公園や、日本百名山の「両神山」、日本の滝百選の「丸神の滝」、平成の名水百選の「毘沙門水」、日本の地質百選の「ようばけ」など、豊かな自然環境に恵まれた町である。県内では川越に次いで町制を施行し、平成17年10月に、旧小鹿野町と旧両神村が合併し現在に至っている。
 この町の西部は急峻な山間地で、東部の荒川支流である赤平川の河岸段丘上に平坦地が開けていて、その周辺に市街地が形成されている。小鹿野町小鹿神社はその町中の北側で河岸段丘上の麓に鎮座している。
所在地   埼玉県秩父郡小鹿野町小鹿野1432
御祭神   春日大神、諏訪大神
社  挌   旧郷社
例  祭   例大祭(春まつり) 4月第三土曜日、及びその前日

         
 小鹿野町小鹿神社は皆野町国神神社の参拝後に行った関係上、埼玉県道37号皆野両神荒川線を小鹿野町方向に進み、黒海土バイパス前交差点を左折、国道299号に移りそのまま直進する。小鹿野高校交差点を越えて300m弱先の十字路を左折すると小鹿野町小鹿神社の大鳥居が見えてくる。
           
                        小鹿野町小鹿神社の大鳥居
 小鹿野町の歴史は古く、約1000年以上前の平安時代中期に編さんされた「和名抄」に記されている「巨香郷こ(お)かのごう」が小鹿野の始まりといわれている。
 また小鹿野町は埼玉県では川越に続いて2番目に町制が施行された歴史ある町で、古い蔵や建物が多く残っていて、雰囲気のある町だ。中心部の小鹿野地区は県内でもいち早く教育・交通・産業の振興など各分野で近代化が進められ、西秩父地域の中心地として発展してきたという。
 
        
          大鳥居を過ぎて道なりに進むと小鹿野町小鹿神社の広い空間が広がる。
           
                石段を越えると二の鳥居があり、その先に社殿がある。
           
                              拝    殿
  小鹿野町は、オートバイのツーリングの盛んな場所でもあり、また、その点を町おこしのひとつにしている。そのため、小鹿野町小鹿神社では、全国でも珍しいオートバイの安全祈願を行っているという。

 小鹿神社は、江戸時代初期に、現在の小鹿神社がある上の森の諏訪明神と、町並の入口であった旧本殿がある町役場裏の小鹿野明神両社を、小鹿野地区の鎮守として町の東西に祀ったのが起源とされる。その後、明治43年に小鹿神社が洪水により境内が陥没したため、本殿の建物だけを残し、諏訪神社に合祀し、社号も小鹿神社になった。現在でも古くからの慣例通り、小鹿神社の例大祭では、小鹿神社と旧本殿の間を神輿の渡御、屋台・笠鉾の巡行が1年ごと交替で行われる。

 
             本   殿                                                 神楽殿
  小鹿野といえば歌舞伎の町として知られていて、役者・義太夫・裏方にいたるまで、スタッフのすべてが地元の住民で、「町じゅうが役者」といわれている。寛政4年(1793年)に歌舞伎を上演した記録も残る。町内では、十六・小鹿野・津谷木・奈倉・上飯田・両神小森に伝承され、それぞれ地元の神社の祭に氏子が中心となって歌舞伎を演じている。町内には常設舞台が10箇所程度残り、掛け舞台や祭り屋台(山車)に芸座・花道を張り出す舞台もある。近年は子ども歌舞伎、高校生の歌舞伎、奈倉女歌舞伎などの活躍も見られる。衣装・かつら・下座・化粧・振り付けなどすべて町民でこなし、地芝居のデパートとも言われている。
  小鹿野歌舞伎は昭和50年には県指定無形文化財、昭和52年に県無形民俗文化財の指定を受けている。

 ちなみにこの大鳥居は祭りの際、10mを超える笠鉾がくぐるためにわざと大きくしてあるそうだ。

 社殿の左側奥には豊守稲荷神社があり(写真左)、その更に奥には境内社がまとめられて祀られている(同右)。左から水速女神社、天満天神社、古峰神社、三峯神社、八幡神社、大山祇神社の六社。
             
                            国道から見える武甲山
 
           

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皆野町国神神社

 皆野町は、埼玉県の西北、秩父郡の東北に位置し、東は東秩父村に、北は長瀞町と本庄市に、南・西は秩父市にそれぞれ接している。面積は63.61km2。標高は町の中心街で海抜160m、最も高い城峯山頂で1,038mと、町の大部分は林野で占められている。四方を山々に囲まれた秩父盆地の一角に位置し、町の中央を荒川が東流し、その右岸の川岸段丘を中心に市街地が形成されている。
 皆野町の歴史は意外に古く、町の中央を流れる荒川流域に多くある遺跡の発掘調査によって、古代人の集落等が確認されたり、古墳が各地に点在することなどから、遠い時代から先住民や豪族が居住していたことがうかがえる。国の名勝・天然記念物に指定されている「紅簾片岩」の露頭などの文化財も多く、自然・歴史・文化に触れることのできる、魅力を秘めた町である
 また調べて初めて解ったことだが、、埼玉を代表する民謡「秩父音頭」発祥の地がこの皆野町で、毎年8月14日には、秩父音頭まつりが盛大に開催されている。「合歓の盆」とも呼ばれ,“流し踊りコンクール”には 皆野町内だけでなく 県内各地からの多数のグループが参加して, 多数の観客を集めているという。

 皆野町国神地区は荒川左岸に位置していて、丁度皆野町の中央部に位置し、古来から交通の要衝として多くの歴史を語る数々の遺跡がある。その荒川と日野沢川が合流する河岸段丘上に国神神社が鎮座している。
所在地    埼玉県秩父郡皆野町国神709
御祭神    大物主神 他二十社合祀
社  挌    不明
例  祭      十月十日 国神神社獅子舞 

       
 皆野国神神社は国道140号を長瀞町から皆野町方向に進み、荒川を渡り切った親鼻橋交差点を右折すると埼玉県道37号皆野両神線となり、その道を荒川沿いに進むと栗谷瀬橋側道橋を通って荒川を渡る。その道を約300m位進むと埼玉県道44号秩父児玉線に分岐する国神交差点にぶつかり、その北側角地に国神神社は鎮座する。国神交差点の脇に専用駐車場があり、そこに数台停められるスペースがあるので、そこに車を停めて参拝を行った。
           
              県道交差点にある専用駐車場から皆野国神神社正面を撮影
       
 皆野国神神社一の鳥居の先に銀杏の大木があり、黄葉の時期とも重なり、参道には銀杏の落ち葉が一面に広がっていた。近郊には「国神の大銀杏」と呼ばれる樹齢700年程の老大木があり、その大きさは埼玉県では第9位、埼玉県のイチョウでは第4位の巨木という。埼玉県の指定天然記念物をうけている。
 境内は決して広くはないが、どこか懐かしさを感じ、気持ちを落ち着かせてくれる優しい社だ。
           
                              拝    殿
 参道を進むと石段があり、そこを登ると正面には社殿がある。その石段の向かって右側には案内板があり、その案内板によると、かつては金毘羅社、琴平神社と称し、創建は不詳だが天正年間(1573~1592年)に北条の家臣、多比良丹波守忠平が此の地を領地としていた時に、武運長久を祈願して大物主神を勧請したと伝えられている。1907年(明治40年)に金崎上郷の各社を合祀して、社号を国神神社に改称したという。

     正面石段の手前右側にある案内板         拝殿上部に飾られている社号の書かれた額

国神神社 由緒
 元、琴平神社(それ以前は金毘羅社)と称した。
 古記録は備わっておらず、創立年代は不詳であるが、天正年間(1580年頃)北条の家臣、多比良丹波守忠平(たひらたんばのかみただひら)がこの地を領地としていた時、武運長久を祈願して大物主命を勧請したと伝えられる。
 本社伝来の古刀には「奉納金比羅宮平治元年三月(1159)施主」と刻印があり、その他、古代石器、古鏡等もほぞんされている。
 明治40年7月、金崎上郷の各社を合祀して、社號を國神神社と改称した。(中略)御社殿造営当時の「金比羅坂」は秩父新道で、秩父盆地のシルクロードであった。その影響を受けて、装飾を多用し彫刻も立派なものが造られた。秩父新道沿いの名所で彫刻を眺めて悦に浸った人々も少なくなかったと思われる。
 元は金毘羅社であり、四国の金毘羅大権現の縁起や道中記などの彫刻が多いとされる。(中略)
                                                            
案内板より引用
        
                       拝殿向背部の素晴らしい彫刻              
        
   拝殿のそこ彼処にある究極的な匠の技にただ溜息と感動を覚えるのは自分だけではないと思う。

 御祭神である大物主神(おおものぬし)は日本神話に登場する神であり、有名なな三輪山の大神神社の神格であり、また三輪山の別名、御諸山にいた蛇体の神ともいう。さらに水神または雷神としての性格を持ち、稲作豊穣、疫病除け、酒造り(醸造)などの神として篤い信仰を集めている。
 このように国の守護神である一方で、祟りなす強力な神ともされている。記紀の崇神天皇の条では、国に疫病をもたらす祟り神として登場する。崇神天皇は、大物主神の子孫意富多々泥古を探して祀らせることによって、大物主神の祟りを鎮めたという。
    


日本書紀 巻第五 崇神天皇紀 

 この天皇(崇神天皇)の御世に疫病多に起りて、人民尽きなむとしき。ここに天皇愁へ歎きたまひて、神牀(カムトコ)に坐しし夜、大物主大神(オオモノヌシノオオカミ)御夢に顕れて曰りたまはく、「こは我が御心なり。かれ、意富多々泥古を以ちて、我が前を祭らしめたまはば、神の気起らず、国も安平くあらむ」とのりたまひき。ここを以ちて駅使(ハユマヅカヒ)を四方に班ちて、意富多々泥古(オホタタネコ)といふ人を求めたまひし時、河内(カフチ)の美努村(ミノノムラ)にその人を見得て貢進りき。ここに天皇、「汝は誰が子ぞ」と問ひ賜へば、答へて曰さく、「僕は大物主大神(オホモノヌシノオホカミ)、陶津耳命(スヱツミミノミコト)の女、活玉依毘売(イクタマヨリビメ)を娶して生みましし子、名は櫛御方命の子、飯肩巣見命の子、建甕槌命の子、僕 意富多々泥古(オホタタネコ)ぞ」
                                        
                     

 この記述をみると、当時この大物主神は天照大神と対等に並び祭られていたという。俗にいう天神地祇という概念だ。天神地祇とは天神(天津神)、つまり、征服者側が信奉している神に対して地祇、その土地に代々祀られていた神(国津神)で、そのパワーバランスで国土の統一を図る考え方だ。しかし、崇神天皇紀では疫病が流行し国が乱れたのは地祇の神である大物主の意志であり、この間天照大神の力で国の乱れを抑えたという記述は全く見られずこの大神はまったく沈黙している。天照大神は天津系の最高神であるはずであるにも関わらず、一方の神の力に屈服されたような書きようだ。この時期にパワーバランスが乱れた一つの証拠であり、地祇のみを祀らざるをえない状況に陥ったことになる。ここで考えられることは、崇神天皇が収めていた土地は、元々地祇(大物主神)を祀っていた場所であり、さらに天皇の領土以上に大物主神を祀る大勢力が隣接して存在しているのではないか、ということだ。

 考えてみると当たり前のことで、崇神天皇の始祖である神武天皇は元々九州出身の外来者であり、長髄彦(ながすねひこ)を滅ぼし、東征から6年目で橿原の地に宮を築き、即位する。その即位とて順調だったわけではない。最初生駒山の方から大和に入ろうとしたが、そこで大和の長髄彦の激しい抵抗に合い、進路を阻まれ、このとき、神武天皇の長兄の彦五瀬命(ひこいつせのみこと)は傷を負い、それが元で亡くなったり、その後熊野方向に迂回する際には、暴風雨に遭い、少しも前に進むことが出来ず、この状態を嘆き、次男の稲飯命(いなひのみこと)は海に入って亡くなってしまう。最終的に土地の豪族の協力を得て、長髄彦の勢力に勝利(古事記と日本書紀の記述の違いがあるがここでは省略する)し、橿原の地の一区画に宮を築いた(造らせていただいた、という言葉のほうが正しいかもしれないが)という苦労続きの連続だった。だからこそ神武天皇は自身の出身神である天照大神と共に地祇である大物主神をも祀ったといえるのであり、後代崇神天皇もその故事に倣ったといえるのではないだろうか。
            

 
大物主神とは一体何者だろうか。大物主神の「物」とは万物に宿る霊を意味するという。すべての物の背後に霊あるいは魂の存在を認めた古代人の世界観をストレートに、また簡潔に表わした神名であり、あらゆる神々の主神であるという説もあるが、その詳細まで解明した説はなかなかないのが今の現状だ。

 大物主神の別名も多数あり(大物主櫛甕玉尊、賀茂別雷大神、日本大国魂大神、事解之男尊、大国主神、大己貴命、八千戈神、顕国玉神等)、その神挌も同様だ。『出雲国造神賀詞』では大物櫛甕玉といい、大穴持(大国主神)の和魂(にきみたま)であるという。また同書には「皇御孫命(スメミマノミコト)の近き守り神」とあり、『日本書紀』には高皇産霊尊(タカミムスヒノミコト)が大物主神に対して「宜しく八十萬神をひきいて、ひたぶるに皇孫の為に護り奉れ」と皇孫側近の神になれと命令していて、ここでは皇室に対して格下の守護神としての性格も持ち合わせている。現在では金毘羅神社や大神神社、三輪神社、美和神社のように全国に御祭神としている社も多く、国土生成をはじめ、医薬の神、酒造りの神、男女の結びつきや、死にまつわることなど、目に見えない運命など様々なこと(幽事 かくりごと)を司る神とされていて、多種多様な神である。

 話は変わるが、平安時代に活躍した陰陽師安倍晴明は大物主神を祀っている三輪山を眺めながら、こうつぶやいたという。
 ここには我が国において、文字や数字や楽や舞や風習行事の中にそのすべてを象徴として隠し、その本性は記紀においても隠された〝知恵と魔術の神〟が封印されている。

 大物主神を祀る奈良県桜井市にある大神神社は、日本で最古の神社の1つと言われている。  三輪山そのものを神体(神体山)としており、本殿をもたず、拝殿から三輪山自体を神体として仰ぎ見る古神道(原始神道)の形態を残している。自然を崇拝するアニミズムの特色が認められるため、三輪山信仰は縄文か弥生にまで遡ると想像されているほどその淵源は深い。

                
                        社殿の左側にある御神木か
            
                       その大木の根元にある3基の石祠

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久保田横見神社

 吉見町は埼玉県中部、比企(ひき)郡にある町で、比企丘陵の東端吉見丘陵から荒川低地に位置し、北から東にかけて荒川、南に市野川が流れる穀倉地帯だ。この町は東西で地形上の区分がはっきりしていて、比企丘陵の東に位置する吉見丘陵地と、荒川沿いに発達する荒川低地に大きく区分される。特に田甲・黒岩・和名・久米田地区付近を境に、西部は山地・丘陵地、台地が発達し、東部側ははん濫平野、旧河道が多く見受けられ、旧河道に沿って自然堤防が発達していることがわかる。また、旧河道が自然堤防の間に認められ、荒川低地が荒川のはん濫などにより形成されたことがうかがえる。
 律令時代には横見郡があり、大略において現在の吉見町と同じ区域であったらしい。武蔵国にあっては早くから開発が進んでいた地域で、国指定史跡の吉見百穴(6世紀末〜7世紀の横穴墓群)や松山城跡、国指定天然記念物の吉見百穴ヒカリゴケ発生地、吉見観音(かんのん)として知られる安楽寺など史跡や文化財が多い.。
所在地   埼玉県比企郡吉見町久保田117
御祭神   素戔嗚尊、櫛稲田姫命 宇迦之御魂神
社  挌   旧村社
例  祭   境内社八坂神社 7月18日 
           

久保田横見神社は埼玉県道345号小八林久保田下青鳥線を吉見町町役場方向に進み、町役場を越えて埼玉県道27号東松山鴻巣線と合流する吉見町役場前交差点を右折しそこから約400m位行った十字路を左折すると右側に社叢が見えてくる。
 久保田横見神社の東側と南側には現在ではコンクリート舗装された横見川が流れており、この社の四方半分が川岸近くにに建てられている地形となっている。社殿の石段の高さを見ると、コンクリート舗装されていなかった古代において、度々水害の被害を受けたであろうことは十分に推測でき、この久保田の地に延喜式内社であり、旧郷社である御所横見神社と同名の横見神社が鎮座する理由もまさにそこにある。
 ちなみに駐車スペースはどこを探しても見つからず、社殿北側の道路脇に路駐し急ぎ参拝を行った。
           
                           正面参道と一の鳥居
 「新編武蔵風土記稿」によれば、横見神社は旧八ヶ村(久保田・上細谷・下細谷・御所・中新井・谷口・和名・小新井)の鎮守であった。また、慶長17年(1612年)夏の洪水で、吉見町大字御所地内の横見神社がこの地に流れた為に祀られたと伝えられている。 境内には稲荷社・八坂社・天神社・八幡社・熊野社があり、覆殿内にある本殿が、町指定の建造物である。
 但し1953年(昭和28年)に編纂された「武蔵国郡村誌」では建長年間(1249年~1255年)の洪水の際に漂流し本村に着いたと書かれている。「慶長」と「建長」は一字違いで、編集時のミスとも思ったが、「建長」の洪水は時期も「~年代」という曖昧な記述であり、まして「口碑」、つまり言い伝えという書き方になっているのに対して、「慶長」時の洪水は「~17年」、「夏」と年代も時期もハッキリと書かれている。結論から言うと洪水で御所横見神社は「建長」時と「慶長」時、少なくとも2回は押し流されたことになろう。
 吉見町は地形上、荒川中流域にあり、西側比企丘陵地を除く一帯は平野部が広がり、その東側に荒川が町の東側を南東方向に流れている。護岸工事が発達した現代と比べ、嘗ては荒川や吉見町の西側に流れる荒川支流の市野川の氾濫による水害は度々起こったであろう。昔の人々の苦労が偲ばれる。
           
                              拝    殿
 この久保田横見神社は元々飯玉氷川明神社といい、歴とした氷川系神社であり、祭神も氷川系の素戔嗚尊、櫛稲田姫命に飯玉神社系の宇迦之御魂神(保食神)の三柱が並立して祀られている。

比企郡神社誌
 横見神社
 御鎮座地 吉見村大字久保田字赤城
 御祭神   素盞鳴尊 奇稲田姫命 宇迦之御魂命
 御由緒  
  本社の創立は明記を闕くも旧久保田村及び上下細谷村、御所、中新井、谷口、和名、小   新井、八村の鎮守にして元同郡御所村に鎮座せしが慶長十七年夏大洪水の砌り現在の地に移祀せるものにして(新編武蔵風土記稿参照)
           
                             本    殿
                吉見町町指定文化財で安永五年(一七七六年)建立。
 
 社殿の左側並びには境内社が鎮座する。八幡神社、天神社合祀社(写真左側)。その右側にある八坂神社、稲荷神社(同右側)。
           
 社殿の右側にある一見古墳と思わせる高台の上に鎮座する愛宕神社。元々この久保田鎮守社であったというが、建長年間に御所横見神社のご神体である石剣がこの地に漂着したものを住民たちが祀り、愛宕神社は摂社として今に至っているという。

 

 

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金尾白髪神社

 金上无(こん・じょうがん)は新羅系渡来人で、鉱業に関する鉱山技術者として時の朝廷から招かれ、日下部宿禰老や津島朝臣堅石と共に、秩父に視察に出かけ「黒谷」地区で「銅山」を発見し、その自然銅の塊は朝廷に送られた。時の元明天皇(在位707年~715年)は大いに喜ばれ年号を慶雲から和銅と改め鋳銭司長官多治比真人三宅麻呂と朝鮮半島からの鉱山技師を派遣し和銅採掘に従事させたという。その時の朝廷の喜びはいかばかりであったろう。金上无は和銅献上時点では無位であったにもかかわらず、一躍他の2人と共に、従5位以下に叙せられたことからも伺がわせることができ,同時にいかにその貢献度が高かったかということを示す事実と考えられる。

 この寄居町金尾地区は金上无の手により和銅(にぎあかがね)を発見した秩父市黒谷の和銅山の尾根続きの地であるし、更にまた金尾地域の荒川を隔てて東側には末野遺跡という古墳時代から窯で焼成された堅い土器(須恵器)を生産していた窯跡が発掘されている。この末野遺跡には須恵器生産に関連する窯跡群の他、須恵器を生産する工房の跡や材料の粘土を採掘した跡に加え、鉄生産の行っていた痕跡も残している。「埼玉の神社」によると、当地に入植した渡来系氏族の関与があったとの指摘もあり、ますますこの地域の興味は尽きない。
所在地   埼玉県大里郡寄居町金尾256-1
御祭神   猿田彦命・大己貴命・保食命・菅原道真公
社  挌   旧村社
例  祭   10月19日 例大祭

       
 金尾白髪神社は国道140号線を寄居町から長瀞町方向に進み、波久礼駅手前の駅前交差点を左折し、寄居大橋を渡るとすぐ右側に鎮座している。但し駐車スペースはこのルートにはないので、寄居大橋を渡り切ってT字路にぶつかり、そこを右折するとすぐ右側に社に通じる道があり、社務所あたりに停めることができる。境内右側はすぐ下に荒川が流れ、参拝も初秋期ということもあり、四季の移り変わりをそこはかとなく感じさせてくれる趣のある社である。
          
                           正面一の鳥居
           
                           参道から見た神門

  参道左側にある白髪神社獅子舞の案内板     獅子舞案内板の向かい側にある白髪神社由来碑

町指定文化財 白髪神社獅子舞
 指定  昭和五十八年一月一日
 所在  寄居町大字金尾 白髪神社内
 この行事がいつ始まったか明らかではないが、現存している獅子頭が、文久二年(一八六二年)に奉納されたという記録があり、それ以前からこの行事が始まっていたことが分かる。
 この獅子舞は、古来より十月十九日の大祭のつけ祭りとして奉納されたものと言われている。
 獅子舞の内容は、四方固め・剣の舞・奉納神楽の神事舞・まり遊び・のみとり及びひょっとこの道化舞の六座である。
 かね・笛・太鼓の囃しに口上が加わり、ときに静かに、また勇壮に、ユーモアもまじえた、古き良き、むら祭りにふさわしい素朴なものである。
平成十一年三月   寄居町教育委員会
                                                        

白髪神社由来
 むらの鎮守、白髪神社は、第二十二代清寧天皇(白髪武広国押稚日本根子天皇)を祀り、猿田彦命・大己貴命・保食命・菅原道真公の四柱の御神が合祀されて居ります。清寧天皇は行田市稲荷山古墳の鉄剣で知られる雄略天皇の第三子にあたります。 
 『日本書紀』によりますと天皇は生まれながらにして白髪で有られたことから、白髪の名が冠せられ、長じては民をことさら慈しまれ、又、幼少の頃より獅子舞に興ぜられたと言い伝えられています。
 故に、在位(四八○~四八四)中の徳が慕われ、古くは戦国の武将北条氏邦公(?~一五九七年)、要害山城主金尾弥兵衛の祈願所とされ、五穀豊穣・家内安全・長寿の神として、氏子をはじめ、広く信者の崇敬を集めて居ります。(以下中略)
                                                             案内板より引用
             
                          石段を登ると神門がある。
             
                              拝    殿

 境内は比較的広く、開放感がある。社殿の向かい側には「金尾山」と題する漢詩が彫られた石碑があり(写真左)、社殿の向かって右側には「日露戦没記念碑」を含む石碑群があり、その中に浅間大神、水速女命と彫られている石碑(同右)がある。
 この水速女命(みずはやのめ)は伊耶那美火之迦具土(かぐつち)を生んでやけどして伏せていた時の尿から誕生した神で、通説によれば別名「岡象女神」とも言い、日本神話に登場する代表的な水の神であるが、水速女命は岡象女神とはまったく別の神である説もあるそうだ。

境内社 金毘羅神社(写真左)と八坂神社(同右)         社殿の左側奥にある境内社
           
                      殿蔵の渡しの由来が書かれた案内板
           
 寄居町金屋地区は、荒川扇状地の先端部にあたり、丁度この地域を起点として東側に平地が深谷、熊谷両市方向へ扇状に広がる。この扇状地の特性は.低地に比べ水はけがよく,地盤も安定しており,土地として利用価値が高い地域である。また,場所によっては水を得るのが容易であるため,古くから農地として利用されてきた。

 しかし,扇状地はもともと河川が氾濫を繰り返して形成された地形であり,また,山地から平地へ勾配が急変化する場所であることから,大雨が発生した際に洪水氾濫が起こる危険性の非常に高い地域でもある。実際,記録だけでも1742 年(寛保2 年),1859 年(安政6 年),1910 年(明治43 年),1947 年(昭和22 年)などに大洪水を起こした.特に寛保2 年の洪水は,最大の洪水と考えられており,埼玉県長瀞町樋口(地点2)には,当時の高水位を示した寛保洪水位磨崖標(標高約128m)がある。
 この洪水は下流側で数多くの決壊を発生させ,熊谷市大麻生においては,延長約1100m の破堤が生じたという。殿蔵の渡しの案内板にも洪水に関しての記述があり、当時の悲惨さが案内板を通して垣間見られる。

 ところで金尾白髪神社の「金尾」地区の頭につく「金」という名前にも気になることがある。金尾地区は前出秩父市黒谷の和銅山の尾根続きの地であることや、荒川を挟んで隣村末野には、奈良期、多くの須恵器や国分寺瓦を製造した末野窯群が存在していることは何を意味するのだろうか。律令時代以前から秩父地域の交通は荒川の河岸段丘上の狭まれた一本の線が武蔵国平野部に通じる主道であったろうことから推測されることは、この黒谷から末野までのルートには共通する文化圏が存在していたのではないか、ということだ。
 黒谷の和同塊を発見した人物の一人は「金上无」という。「金上无」と「金尾」、この「金」が共通する両者には何かしらの関連性があるのだろうか。

 

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