古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

江和井東光神社及び高尾新田照稲神社

江和井東光神社】
        
             
・所在地 埼玉県比企郡吉見町江和井7871
             
・ご祭神 素盞嗚尊 天照大御神
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等 夏祭 715日前の土・日曜日 新嘗祭 11月23日
 飯島新田稲荷神社から埼玉県道33号東松山桶川線を荒川方向に進み、「荒井橋(西)」交差点を左折する。交差点を左折後450m程北上すると
江和井東光神社の鳥居と境内が見えてくる。
江和井東光神社及び高尾新田照稲神社の参拝日は2023年2月19日。
        
                  江和井東光神社正面
 当社が鎮座する吉見町江和井地域は、明治8年に江川新田・大和屋新田・新井(荒井)新田の3村合併した。その時各村から1字ずつ取って地域名を「江和井」と命名したという。
 この周辺地域は嘗て「六ヵ新田」と呼ばれ、「江川新田・大和屋新田・新井(荒井)新田・高尾新田・須野子新田・蓮沼新田」とに分かれていて、江戸時代を通じて幕府直轄領(御料所もしくは御領)であったと思われる。というのも、困難を極めた「荒川の西遷」開発事業が、寛永十一年(1634)に完了し、河川改修の後は、次第に開発が進み、相次いで開発されたためだ。この幕府直営の新田開発は年貢量の増大のため直轄領の拡充を意図したものであった。
 但しこの「六ヵ新田」はその名前通り新たにできた耕作地であるため、「吉見領囲堤」の堤の外地に位置していた。現在の吉見町や川島町域の大部分は荒川流域の荒川低地に属し田園地帯となっているため、洪水対策で築造された「囲堤」があろうがなかろうが、洪水常襲地帯としての運命を背負って現在に至っていて、この地域相互の治水出入りも数多くあり、その歴史はそのまま荒川の治水の歴史であるといわれている。

    木製で白を基調とした鳥居            南北に広がる参道
  境内には案内板等はなく、また創建時期等資料等確認しても詳しい内容のものはなし。そこで、
『日本歴史地名大系』にて、「大和屋新田」「江川新田」「新井(荒井)新田」に関して調べてみた。
『日本歴史地名大系』 「大和屋新田」の解説
 [現在地名]吉見町江和井
 高尾(たかお)新田の南に位置し、南は江川(えがわ)新田。いわゆる六ヵ新田の一で、大和屋助左衛門という町人による開墾という(風土記稿)。元禄郷帳に新田名がみえ、高一三二石余。江戸時代を通じて幕府領であったと思われる(国立史料館本元禄郷帳など)。「風土記稿」によると家数二四、村内はみな畑地で、鎮守は太神宮
『日本歴史地名大系』 「江川新田」の解説
 [現在地名]吉見町江和井
 大和屋(やまとや)新田の南に位置し、南は新井(あらい)新田。六ヵ新田の一で、大里郡江川村(現熊谷市)の新兵衛なる者が開墾、新田名もこのことに由来するという(「風土記稿」など)。元禄郷帳では高一七〇石余、国立史料館本元禄郷帳では幕府領、以降同領で幕末に至ったと思われる(「郡村誌」など)。「風土記稿」によると家数二六、村内すべて陸田、鎮守は稲荷社、地内に薬師堂がある
新井(荒井)新田」に関しての説明はなし。
        
                  塚上に鎮座する拝殿
「江川新田」の解説における「大里郡江川村(現熊谷市)の新兵衛なる者が開墾、新田名もこのことに由来する」との記載があり、この大里郡江川村は現在熊谷市久下地域内にあたるという。
 また「大和屋新田」には「太神宮」が村内の鎮守で村持ちと記載され、「江川新田」には「稲荷社」が村内の鎮守で村持ちとなっている。因みに新井(荒井)新田には鎮守社は掲載されていない。「江和井」という地域名は3村が合併し、各村から1字ずつ取って命名したということからも、東光神社のご祭神は当然各村の祭神が当てられていると考えられる。「太神宮」ならば「天照大御神」「稲荷社」は「倉稲魂命」が祀られているだろうが、「素盞嗚尊」はどうであろうか。
 
  拝殿手前の石段右側にある石碑と燈篭       拝殿左側に祀られている境内社
                             稲荷社であろうか。
       
                                     参道の一風景


高尾新田照稲神社】
        
             ・所在地 埼玉県比企郡吉見町高尾新田154
             ・ご祭神 素盞嗚尊 倉稻魂命 國常立尊
             ・社 格 旧高尾新田村鎮守
             ・例祭等 例祭  725日 新嘗祭 11月25日
 江和井東光神社の西側に接する南北に通じる道路をそのまま北上、1㎞程進むと左手に高尾新田照稲神社が見えてくる。
 旧高尾新田村鎮守、「高尾新田」の地域名由来として、高尾の新井門太郎が開墾したと伝わる。河岸場のあった高尾から独立したという。
*現在江和井東光神社と高尾新田照稲神社は北本高尾氷川神社の兼務社となっている。
        
                 高尾新田照稲神社正面
この社にも案内板や、資料等はない。江和井東光神社同様に『日本歴史地名大系』にて「高尾新田」「蓮沼新田」についての解説を載せたい。因みに「須野子新田」に関しては解説はない。
『日本歴史地名大系』 「高尾新田」の解説
 [現在地名]吉見町高尾新田
 蓮沼(はすぬま)新田の南、荒川右岸に位置する。六ヵ新田の一。「郡村誌」などによると当村は、足立郡高尾(たかお)村(現北本市)の新井治郎左衛門(「風土記稿」によると荒井門太郎)が開墾、その後、新井家より分家を出し、しだいに一村をなしたとされる
『日本歴史地名大系 』「蓮沼新田」の解説
 [現在地名]吉見町蓮沼新田
 荒川の大囲堤(現文覚排水路)を挟んで蚊斗谷(かばかりや)村の東、荒川右岸の低地に位置する。南は高尾新田。同新田のさらに南に展開する須野子(すのこ)・大和屋・江川・荒井の各新田および当新田・高尾新田は「荒川ニソヒシ空閑の地」をしだいに開拓して成立した新田で、各新田の地形が入会、田地相交錯していたため「各村ヲ以テ広狭及四隣ノ村々等ハ弁シ難」かった。これら新田の開墾の年代はつまびらかではないが、寛文一二年(一六七二)に幕府代官中川八郎左衛門の検地があったといわれている。また「六村ヲ合セテ六ケ新田ト唱ヘ」「公務以下スヘテ一村ノ如シ」であった(以上「風土記稿」)。当新田は蓮沼徳兵衛が開墾、地名はこれによる
       
            参道左側に聳え立つ立派な巨木(写真左・右)
        
                     拝 殿
 明治四十年十二月二十二日、須野子新田の「大神社」と蓮沼新田の「稲荷神社」を当地高尾新田の氷川神社に合祀することになり、遷座の後、社名を照稲神社と改めたという。
『新編武蔵風土記稿』
「須野子新田村 大神宮八幡諏訪合社 當所の鎮守とす、村民持」
蓮沼新田村 聖天社 村の鎮守なり、村民の持」

須野子新田の大神社の祭神は、『新編武蔵風土記稿』には「大神宮八幡諏訪合社」とあるところから、本来は天照大神が祭神であったと思われ、照稲神社の社名は、この天照大神の「照」と稲荷神社の「稲」を採り、両者の名残としたものではないかと思われるが、この「稲荷神社」はどこの地域のご祭神をまつったのであろうか。
        
                                  参道からの風景
           近くには荒川の旧河川跡と堤防が眼前にみえる。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「日本歴史地名大系」「北本高尾神社HP」
    「ふるさと吉見探究HP」等

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飯島新田稲荷神社

 荒川は、その名前が示すとおり、「荒ぶる川」が語源とされ、氾濫を繰り返してきた。戦国時代が終わり、徳川家康が江戸(東京)に幕府を開くと、江戸を水害から守ること等を目的として、利根川と当時利根川の支流であった荒川を切り離し、利根川を太平洋に流す、「利根川の東遷、荒川の西遷」が実施された。
 寛永61629)年に伊奈忠次により荒川の瀬替え(荒川の西遷)が行われ、和田吉野川および市野川を経由して入間川の本流に接続され、現在の荒川に近い流路となった。但し元々の流路は元荒川として今でも残っている。
 荒川の河川舟運にとってはこの瀬替えによって水量が増えたことにより物資の大量輸送が可能となり、交通路としての重要性を高めたが、荒川中流域、特に市野川の下流域周辺では水害が増え、「吉見領囲堤」や「川島領囲堤」といった大囲堤の堤防(輪中堤)や水塚等が作られた。
 現在でもさくら堤公園の土手や、市野川大橋より西の川島こども動物自然公園自転車道線の築堤として遺構が残っている。
        
             
・所在地 埼玉県比企郡吉見町飯島新田563
             
・ご祭神 倉稲魂命
             
・社 格 旧飯島新田鎮守
             
・例祭等 例祭(天王様)  714
 吉見町飯島新田地域は町南東部にあり、「吉見領囲堤」の最南端にあたり、荒子地域の東側に位置する。飯島新田稲荷神社は東には文覚川が、西からは台山排水路が、その真ん中には中堀がまさに合流する三角点の丁度北側に社は鎮座する。
 この社へのアクセスは説明しずらい。途中までの経路は荒子八幡神社を参照。埼玉県道33号東松山桶川線を北本市方向に進み、「さくら堤公園」の看板がある道を左折、そこから道なりに北上する。左手後ろ側には社の鳥居は小さく見えるが、直接社に到達する一本道はないため、一旦さくら堤公園の土手を走行し、一本目の曲がり角を左折して左カーブを描くように南東方向にある細い道を進むとその先に飯島新田稲荷神社は見えてくる。
        
                 飯島新田稲荷神社正面
 周囲一帯明るい境内だが、周辺には民家はほぼない。のんびりした中にも寂しさも漂う場所だ。
 木製の両部鳥居は朱が基調となり、如何にも社らしい風格があるのだが、周りに鎖が敷かれている。崩落の危険性が高いのであろうか。

朱色の一の鳥居のすぐ先にある新しい石製の鳥居  真っ直ぐ進む参道の先に社殿が見えてくる
        
 一旦目を南側に向けると、そこには「南吉見排水機場」がある。文覚川、中堀、台山排水路等の水を市野川へ強制的に排水する施設で、このような施設がある場所の近くで、安心して日常生活を営むには躊躇があろう。地域住民にとって生活基盤となる大切な「水」の恩恵が、逆に「洪水等の災害」に陥らないように、社をこの河川の合流場所にあえて鎮座させ、日々祈りを捧げていた。
…この施設を眺めながら、なんとなくそのような風景が筆者の頭の中で過った。

新編武蔵風土記稿』には「飯島新田」に関して以下の記載がある。
「飯島新田」
飯島新田は飯島惣左衛門と云者、開墾せし所なれば直に村名とせし、この惣左衛門が事詳ならず、當村元禄の改に始て記したれば、開発の年代も推て知らる、東は大和屋新田、南は古市ノ川を限て比企郡松永村、西は郡内荒子村、北は蚊斗谷村なり、東西六町、南北三町許、吉見用水の末流を引て水田を耕植すれど水損の地なり」
「稲荷社 村の鎮守なり、成就院の持」

 やはり日常的に洪水等の災害が発生する常襲地帯であったのだろう。近代的な土木技術を持った今でも、時に洪水災害は起こりえる。その技術を持ちえない当時の方々には、最終的には「祈り」を捧げること以外なかったのではなかろうか。
        
                                塚上に鎮座する拝殿
『日本歴史地名大系 』「飯島新田」の解説
 [現在地名]吉見町飯島新田
 大和屋(やまとや)新田の西、市野(いちの)川の左岸に位置する。同川を挟み南は比企郡松永(まつなが)村(現川島町)、西は荒子(あらこ)村。六ヵ新田と同様に荒川右岸の低地を開発して成立した新田村で、地名は飯島惣左衛門なる者が当地を開墾したことに由来するという(風土記稿)。元禄郷帳では高三八七石、国立史料館本元禄郷帳では幕府領、以降も同領で幕末に至ったと思われる(「郡村誌」など)

 飯島惣左衛門によって開発されたと伝えられる飯島新田地域。創建時期は不明ながら、正保年間から元禄年間にかけて(1644-1688)開発された飯島新田の鎮守として、耕地の安泰を祈って奉斎したそうだ。但しその創建に「飯島惣左衛門」が関わっていたかは不明。
 
  拝殿右階段手前の 狛犬(狐)の並びには    同じく拝殿右階段手前の 狛犬(狐)の
     幾多の石祠・石碑あり。          すぐ右側に置かれている「力石」
        
                               飯島新田稲荷神社遠景

ところで、東松山市古凍地域に「古凍祭ばやし」といわれる伝統芸能が今に伝わっている。「東松山市HP」にもその祭ばやしに関しての説明がある。

「古凍祭ばやし」
 囃子には江戸時代から演奏されていた古囃子と、明治初期に演奏技術の変革が行われて以降の新囃子とがあります。明治30(1897)代は古囃子が盛んでしたがその後中断し、昭和3(1928)頃、吉見町の飯島新田地区で伝承されていたものが川島町の小見野神楽連を経て伝えられ復活しました。明治の頃使われていたと思われる太鼓が残っており、墨書きから「東京浅草区亀岡町」の太鼓商「高橋又左衛門重政」の太鼓であることが分かります。太平洋戦争中は10年ほど中断し、昭和23(1948)に復活しました。昭和29(1954)には屋台が新調されましたが、昭和35(1960)頃になると字内を貫通する川越-熊谷線の交通量が激しくなり、屋台の曳き廻しは中止、根岸地区とのひっかわせも断念(根岸地区も屋台を所有していた)することとなりました。現在は屋台を所有せず、トラックで代用しています。地元鷲神社の祭礼の他に、今泉の鷲神社祭礼でも演奏を行っています。

 つまり明治期に古囃子を演奏していたが、その後中断し、昭和3年に吉見町の飯島新田地区で伝承されていた囃子を川島町の小見野神楽連を経て今に伝えられるという。本家である飯島新田地域の古囃子はどのようなものであったのだろうか。稲荷神社は毎年7月15日に例祭が行なわれるが、その際にお囃子が奉納されているのであろうか。であるならば是非拝見したいものだ。
        
                                社殿から鳥居方向を撮影


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「日本歴史地名大系」「北本高尾氷川神社HP」
    「Wikipedia」等

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古名氷川神社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡吉見町東野3156
             
・ご祭神 
             
・社 格 旧村社
             
・例祭等
 吉見町古名地域は丸貫地域の南部にあり、荒川と市野川の間にある自然堤防と低地に位置する。途中までの経路は北下砂氷川神社及び丸貫熊野神社を参照。丸貫熊野神社前の道路を200m程南下し、十字路を左折する。その後埼玉県道76号鴻巣川島線に交わる十字路を右折、県道合流後450m程道なりに進み、十字路を右折すると「古名」交差点が見えてくる。その交差点左手に古名集会所が見え、その集会所の奥手に古名氷川神社が鎮座する広い空間が現れる。
        
                  古名氷川神社正面
『日本歴史地名大系 』での「古名村」の解説
 [現在地名]吉見町古名
 丸貫(まるぬき)村の南に位置し、東は幕末に当村から分村した古名新田、南は大和田(おおわだ)村。地内には文永一二年(一二七五)の画像板碑、応安二年(一三六九)の阿弥陀一尊板碑、寛正六年(一四六五)の阿弥陀三尊板碑などがある。古くは北下砂(きたしもずな)村・丸貫村と一村で下砂村と称していたが、元禄郷帳・元禄国絵図作成時頃までに北部が北下砂村として分村、残余の下砂村がその後、当村・丸貫村の二村に分れた。
        
          境内は思いのほか広く、社殿は塚のような高台上にある。
 参拝日は10月上旬。社殿の前にあるキンモクセイが開花し、甘い香りが境内を包みこんでいた。

 吉見町古名、「古名」と書いて「こみょう」と読む。なかなか意味深さ地域名だ。この不思議な地域名の由来に関して『新編武蔵風土記稿』の編者は意外と長めに、更に2通りの説明している。因みに旧字には(*)をつけて筆者が現代語に直している。

「村(古名)の沿革を尋るに、正保の国圖(*図の旧字・ず)に下砂村あり、元禄改定の圖に下砂・北下砂の二村あり、又古名・丸貫の二村を載せて、下砂村之内と記し、(中略)然れば古名・丸貫の二村は、下砂に隷するものにして、別に村落をなしたるにはあら其後何の年にや、下砂村の地を二分して、當村丸貫の二村に配當し、(中略)【小田原役帳】松山衆知行の内に、狩野介二十貫文吉見郡下須奈(*下砂の旧字体)卯檢見辻とのす、是下砂村なるべし、按に元禄以前分村せざる間は、古名・丸貫の地名は下砂村の小名なりしを、後に各一村となりしかば、下砂の名亡びしなるべし」
「又當村古は横見村と號(*号の旧字・ごう)せしが、洪水にかゝり一旦退轉(*転の旧字・てん)
せしを、丸貫村より再び開墾し、村名を古名と改む云説あれど、今土人は傳へず(中略)」

 つまり、最初の内容では、当所古名・丸貫の二村は下砂村に属していて、その後分村したと記されていて、古名・丸貫の地名は下砂村の小名(小字)であり、それが後年「古名」と変化して地域名となったという。別説では、この地は元々横見村と名乗っていたが、洪水の為一旦避難し、その後再び開墾して吉見の地名のルーツにもなっている古の名前(横見)は使わずに、「古い名=古名」としたという。但しこの別説には尾ひれがついていて、「云説あれど、今土人は傳へず」と本当かどうかはわかりません、と注釈はついている。
『新編武蔵風土記稿』の編者は、この地域名の由来に対してよっぽど興味があったのか、それともこの地域の伝承等を、手抜きをしないで正直に編集しようと真面目に取り組む日本人としての勤勉さからきているのかどうかは不明だが、この小さな地域名にこれだけの活字を使用して説明しているのも面白く、興味深いことだ。
        
                     拝 殿
 氷川神社 吉見町古名一〇四
 当地は荒川と市野川の間にある自然堤防と低地に位置する。『風土記稿』によれば、古名はもと下砂村の小名の一つであったが、元禄年間(一六八八-一七〇四)以降に分村した。一説に、古くは横見村と呼んでいたが、洪水により荒廃したのを、丸貫村より村民が来て再び開墾し、村名を古名と改めたという。
 旧家は久保田家と秋葉家である。久保田家は京から三兄弟がこの地にやって来て開発の鍬を振るったと伝え、また秋葉家は久保田家よりやや下ってこの地に土着し、江戸期を通じて名主職を務めたと伝えている
 社伝によれば、当社の創建は宝暦三年(一七五三)のことである。分村から五〇年余を経たこの時期に村としての形を整え、久保田家や秋葉家が中心となって、「一の宮」として一般に名を知られ、また水神としても名高い氷川神を鎮守に勧請したものであろう。
『風土記稿』は「氷川社 村の鎮守なり、妙音寺持」と載せる。これに見える妙音寺は今泉村金剛院門徒の真言宗の寺院で、当社の北側に隣接して堂を構えていたが、幕末に火災に遭い焼失した。この時、当社も類焼したため、嘉永四年(一八五一)に至り、当地から分村した古名新田の氷川神社から分霊を受け再興を果たした。
 明治四年に村社となり、同四十年に古名新田の伊勢社を合祀した。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
                 境内社 稲荷社・天神社
 
 境内は広く、社殿は東側の一角にひっそりと鎮座しているが、その南側並びには一対の灯篭の先に仏様立像が厳かに祀られている(写真左)。冠やブレスレットを身に付けてないシンプルなお姿から、薬師如来(同右)なのかもしれない。
             
        仏様の立像が祀られている近くにある青面金剛・馬頭尊の石碑。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「日本歴史地名大系」等



        
 

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本沢熊野神社


        
              
・所在地 埼玉県比企郡吉見町本沢115
              
・ご祭神 伊邪奈岐尊 伊邪奈美尊
              
・社 格 旧本沢村鎮守 旧村社
              
・例祭等 夏祭り 714日
 吉見町の本沢地域は荒川右岸の町北部中央域に位置し、南北に通る「みどりの道」と埼玉県道343号小八林久保田下青鳥線に挟まれた南北に長い地域であり、集落は旧荒川筋の自然堤防上に点在している。
 本沢熊野神社は同地域中央部西側に鎮座する。途中までの経路は地頭方天神社を参照。埼玉県熊谷市と比企郡川島町を結ぶ農道である大里比企広域農道・通称「みどりの道」を吉見町方面に進む。埼玉県道345号小八林久保田下青鳥線と交わる交差点を直進し、暫く進むと大きく右回りにカーブし、その回り終わったあたりに手押しボタン式信号の交差点があるので、そこを右折する。因みにこの交差点を左折すると吉見町立北小学校、並びに地頭方天神社が鎮座する場所に到着する。
 その後300m程進んだ十字路を左折すると右側前方に本沢熊野神社の社叢林が見えてくる。
        
                  本沢熊野神社正面
 恐らくはこの一対の柱は嘗て鳥居が立っていたのであろう。駐車スペースもこの場所に確保されているので、この一角に停めてから参拝を行った。
 この参道は陽光が周囲を照らす明るい場所ではあるが、その先には社叢林が生い茂っていて、この微妙なコントラストが規模は小さいながらも社特有のものではないだろうか。
        
            長閑な田畑風景が広がる中に静かに鎮座する社    
        
                                参道の先に立つ石製の鳥居
『日本歴史地名大系 』での「本沢村」の解説
 [現在地名]吉見町本沢
 松崎(まつざき)村の東に位置し、集落は旧荒川筋の自然堤防上に発達。地内に弘長元年(一二六一)の板碑がある。田園簿では田高六五石余・畑高八三石余、幕府領。日損場との注記がある。元禄郷帳では高三二〇石余。「風土記稿」成立時には旗本渡辺領。同書によると渡辺領となったのは宝暦四年(一七五四)のことで、以後同領で幕末に至ったと思われる(「郡村誌」など)。検地は慶長年間(一五九六―一六一五)伊奈忠次により行われ、寛文一二年(一六七二)にも新田検地が、延宝六年(一六七八)には本検地が幕府代官中川氏により行われた。
『新編武蔵風土記稿』
本澤村 熊野社
「村の鎮守とす、別當を南光院と云 當山修験 一ツ木村龍海寺の配下 正當山と號し 本尊不動を安ず」
        
                                        拝 殿
 熊野神社 吉見町本沢四八六(本沢字北屋敷)
 口碑によると、当社は元和元年(一六一五)に豊臣氏の家臣石川九郎左衛門が戦に敗れて本沢の地に土着し、兜の鉢金の中の守り本尊を氏神として祀ったのが創祀であるという。元和元年といえば、大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡した年であり、各地に豊臣の残党が帰農落居しており、この石川九郎左衛門もその一人であったと思われる。ちなみに、この九郎左衛門がとうもろこしに馬がつまずいて落馬したとの言い伝えから、その子孫である石川実家では今もとうもろこしを作ることを禁忌としている。
 棟札によれば、延宝七年(一六七九)に本殿を建立し、宝永元年(一七〇四)に幣殿・拝殿を造営した。
『風土記稿』には「熊野社 村の鎮守とす、別当を南光院と云、当山派修験、一ツ木村竜海寺の配下、正当山と号し、本尊不動を安ず」とある。これに見える別当南光院は、かつて当社の南側に隣接して屋敷を構えていた。その末裔は野口憲夫家である。
 明治四年に村社となり、同十五年に本殿・拝殿を再建した。更に、昭和三十六年・同四十八年に社殿の改築を行い、同五十六年には本殿屋根の葺き替えを行った。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
 
 拝殿向拝部(写真上)、及び木鼻部(同下・左右)の彫刻がこの規模の社としては精巧である。
 
  社殿右側奥に祀られている御嶽神社の石碑   社殿右手前に鎮座する境内社。詳細不明。
        
                 境内に立ち並ぶ石碑群

 ところで後日地図を確認してから分かった事だが、本沢地域は「みどりの道」を挟んで地頭方地域に接していて、この道路を対象軸とすると、ほぼ同じ距離で東に地頭方天神社があり、西には本沢熊野神社が鎮座しているような不思議な配置となっている。
 更に地頭方天神社は西向きの社に対して、当社は東向きと、お互い向き合っているようにも見える。単なる偶然か、それとも何かしら曰くがあるのであろうか。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「広報よしみ 2023年7月」等
        


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平沼氷川神社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡川島町平沼323
             
・ご祭神 素戔嗚尊
             
・社 格 旧平沼村鎮守 旧村社
             
・例祭等
 国道254号線を南下し、首都圏中央連絡自動車道(圏央道)の川島IC付近で交じる「つばさ・みらい通り」を左折し、最初の信号のある交差点を右折する。埼玉県道76号鴻巣川島線合流後、300m程進んだT字路を更に左折すると、平沼氷川神社の境内に通じる場所に到着する。
 社の東側に隣接している「平沼集落センター」の駐車スペースをお借りしてから参拝を行う。
        
                  平沼氷川神社正面
 周囲は北側にICの洗練された高架橋が、そして西側には近代的な大型モールが遠くから見える中、対照的に東・南側は川島町特有の沖積低地帯の田畑風景が広がり、集落がその一帯に寄り添いながら点在し、その集落内の真ん中に鎮座する、まさに「鎮守の社」といったような印象。
 
    石製の鳥居(写真左)を過ぎると玉砂利が敷かれた綺麗な境内が広がる(同右)。
    日頃からの手入れも行き届いているようで、気持ちよく参拝を行うことができた。

『日本歴史地名大系 』より「平沼村」の解説
 [現在地名]川島町平沼
 白井沼(しろいぬま)村の西にあり、北は上八ッ林(かみやつばやし)村。小田原衆所領役帳には小机(こづくえ)城(現神奈川県横浜市港北区)城主北条氏秀の所領として、「卅五貫文 比企郡平沼」とあり、弘治元年(一五五五)に検地が行われている。天正一八年(一五九〇)五月日には「伊草 中山 平沼」に前田利家の禁制(写、武州文書)が下されている。
 田園簿では田高五一五石余・畑高五三石余、旗本酒井領。ほかに氷川明神領高一石二斗、大福だいふく寺領高八斗。その後川越藩領となり、秋元家時代郷帳では高五六四石余、ほかに検地出高として高三四七石余がある。
        
                     拝 殿
『比企郡神社誌』において、「大字平沼氷川神社由緒。後鳥羽天皇の頃、足立郡より当地に来住開拓せるもの数家あり、氷川大神を勧請す。永正十二年に至り宮祠の腐朽したるを恐れて矢部伊賀一族主宰となり再興す。慶長三年、名主矢部七郎兵衛・同与七郎、主任となり本社を改築す。寛永十九年、名主矢部七郎右衛門・同三郎右衛門・外氏子一同にて改造す。明治十六年、村長矢部杢太郎主導者となり拝殿及び玉垣を建造す」と記されている。
 平沼氷川神社の創建年代等は不詳ながら、平安時代後鳥羽天皇の御代(1183-1198)に足立郡から移住して当地を開拓した矢部氏を中心とした集団が大宮氷川神社を勧請したという。
 この矢部氏は、平沼地域及び三保谷郷山ヶ谷戸を開発した時から今に至るまでも多く存在している。
・平沼地域
上記『比企郡神社誌』参照
・三保谷郷山ヶ谷戸地域
『八ツ林村道祖土文書』
「天正六戊寅年卯月七日、三保谷郷検地書出、二十三貫八百三十二文・養竹院分(表村)、十九貫五百六十五文・福島給田、三貫七百七十文・矢部大炊助給田、三保谷代官道祖土土佐守百姓中、江雪奉之(板部岡融成)」
『道祖土系図』
「道祖土図書康満は後福島与右衛門満吉と号す。比企郡老袋村(川越市)にて五十貫の地を給ふ。天正十八年岩付落城に付武州登戸村(鴻巣市)に来り住居す。功臣矢部刑部は兄土佐守康玄に仕ふ」
        
                      境内に設置されている「神社改修記念碑」
 神社改修記念碑
 當平沼氷川神社社殿は明治十六年五月氏子七十五名により総額二百十七圓七十銭の寄附金を得て創建せしものなり
 以来百余年を経過し近年その腐朽甚だしく氏子これを憂慮し協議の結果昭和五十九年二月総意に基づき改築することに決定し直ちに建築委員会を組織し資金の積み立てを開始諸準備に着手する
 改築は位置面積共に旧来通りであり総工事費は八百三十一萬三千圓で氏子百四戸の同額積立寄付金と特別奉納金等により昭和六十一年一月十七日起工、同三月末完工せり
 また社前の石囲石段は明治三十七年氏子の寄進なれど本村町議歴代区長これを新たに奉献す、今ここに荘厳な鎮守の杜に新装の香漂う社殿と周辺を目前に拝し一同の深い敬神の念と相互協力に結ばれ栄えて今事業が達成せられし事は誠に喜びと感激の極みである依ってこれを記念し後世のためにこの碑を建立す
 昭和六十一年十二月吉日 氏子中
 
           拝殿左側には境内社2社が並列して祀られている。
       境内社・津島神社               境内社・天神社
        
     社の東側に隣接している「平沼集落センター」前に聳え立つ立派な松の大木。


参考資料「比企郡神社誌」「八ツ林村道祖土文書」「道祖土系図」「日本歴史地名大系」
    「境内神社改修記念碑」等



 

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