古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

脚折雷電社

 脚折雨乞(すねおりあまごい)は、埼玉県鶴ヶ島市脚折地域に伝わる雨乞いの伝統行事である。巨大な蛇体を作って練り歩き、雷電池(かんだちがいけ)へ導くことで降雨を祈願する。かつては旱魃の年に行われていたが、近隣の住宅地化と専業農家の減少によって途絶の危機に瀕し、1976年(昭和51年)以降は4年に1度行うことで保存継承を図っている。1976年(昭和51年)に市指定無形文化財、2005年(平成17年)に国の選択無形民俗文化財に選択された。また、2000年(平成12年)55日には、埼玉新聞社の「21世紀に残したい・埼玉ふるさと自慢100選」に選出された。
 現在では、4年に一度、夏のオリンピックが開催される年に行われている。残念ながら2020年(令和2年)は新型コロナウイルス感染拡大防止のため開催中止となったが、2024年(令和6年)84日に8年ぶりの開催されている。
 先人たちの思いを今の人々が受け継ぎ、継承し、未来へ託すことへの苦労は並大抵なことではなかったはずである。現実この行事は、戦後の高度成長期、都市化や行事の担い手である専業農家の減少など社会環境の変化により、昭和39年(1964)を最後に一度途絶えてしまってしまう。しかし、昭和50年(1975)に、雨乞行事の持つ地域住民の結びつきや一体感を再認識した地元脚折地域住民が、「脚折雨乞行事保存会」を結成し、翌昭和51年、脚折雨乞を復活させたという。
 このように、嘗ては雨を神に願う行事から、現在では地域住民の絆を育む行事へと、「脚折雨乞」は時代の変遷の中で、その役割を変えながらも、地域の強い結びつきの中で確実に受け継がれていく事を願わずにはいられない。
 雷電池公園内に祀られているいささか小さい社ではあるが、地域の方々にとってはその存在自体の意義は極めて大きい。その尊敬の思いも含めて今回「社」として紹介した次第である。
        
             
・所在地 埼玉県鶴ヶ島市脚折町522                  
             ・ご祭神 大雷神
                          ・社 格 脚折白鬚神社摂末社
             ・例祭等 脚折雨乞神事88日(4年毎)
 脚折白鬚神社から日光街道を南下し、200m程先の信号のある丁字路を左折する。その後道なりに進み、国道407号線との交点である「雷電池(西)」交差点を直進し、300m程行くと「雷電池公園」に到着する。その公園内に脚折雷電社は静かに鎮座している。
        
                  公園内にある雷電池
       
                  因みに「雷電池」と書いて、「かんだちがいけ」と読む。 
 『鶴ヶ島市HP』による脚折雨乞の由来として、「昔から日照りのとき、脚折の雷電池(かんだちがいけ)のほとりにある脚折雷電社(らいでんしゃ)の前で雨乞いを祈願すると、必ず雨が降った。特に安永・天明(17721789)の頃には、その効験はあらたかで近隣の人の知るところであった。 しかし、天保(18301844)の頃には、いくら雨を祈ってもほとんどおしるしがなくなってしまった。それは、雷電池には昔、大蛇がすんでいたが、寛永(16241644)の頃、この池を縮めて田としたため、大蛇はいつしか上州板倉(群馬県板倉町)にある雷電の池に移ってしまった。そのため雨乞いをしても、雨が降らなかった。」
       
                              公園内から脚折雷電社を望む。
 明治7(1874)夏の干ばつの時、「畑の作物が枯れそうなので、近隣の人が脚折雷電社で雨乞いをしたが、そのしるしがなかった。そこで脚折のムラ人が協議して、板倉雷電社に行き、神官に一晩中降雨を祈願してもらい、翌日、傍らの池の水を竹筒に入れて持ち帰った。
 脚折雷電社で、白鬚神社の神官が降雨祈願をしていたが、そこに板倉の水が到着したとたん、快晴の空がたちまち曇りだし、まもなく雨が降った」という。
        
             雷電池のほとりに鎮座する脚折雷電社
 白鬚神社 鶴ケ島町脚折一七一五
 雷電様は、飛び地境内の雷電池の傍らに祀られ、古くから雨乞いで著名である。この池は、昔は広く大きなもので、池の主である大蛇が棲んでいた。ところが寛永のころ干拓され池が小さくなり、大蛇は上州板倉の雷電池に引越してしまい、以来ここに祈っても雨が降らなくなってしまった。このため雨乞いの時には板倉の雷電社に祈ってお水をもらい、大蛇を作って池に入れて祈ると雨に恵まれたという。
 池のほとりに大蛇を待つと、いずこともなく「ドン、ドン、ドン」と単調な太鼓の音が聞こえてくる。やがて三〇〇人余りの人波を乗り越えて物凄い形相の大蛇(この時には竜と呼ばれる)が現れる。人々は余りのことに声もない。パかっと口を開けた竜が池に入る。三周して担ぎ手が酒を飲み、再び池に入り二周する。三〇〇人の担ぎ手は「雨降れたんじゃく、ここえ懸れ黒雲」と叫ぶ。まことに勇壮な光景である。(中略)昭和二余年に雨乞い保存会が出来て、照り降りかまわず四年に一度行うことになっている。
                                  「埼玉の神社」より引用

         
                              脚折雷電社社殿
 脚折での雨乞いに関して最も古い資料は、江戸時代の文化10年(1813)に記された「申年村方小入用帳(さるどしむらかたこにゅうようちょう)」で、その中に「壱貫四百文 右是ハ雨乞入用ニ御座候」と出てくるのが初見である。その後、弘化5年(1848)、文久2年(1862)の史料に、雨乞いの経費に関する記述が出てくる。
        
       脚折白鬚神社の境内に掲示されてあった「脚折雨乞」のパンフレット

「脚折雨乞」の主役である巨大な龍神は「龍蛇(りゅうだ)」と呼ばれる。前年から用意される竹や麦藁で作られる蛇体は、長さ36 m、重さ3 tになる巨大なものである。かつて脚折村の鎮守であった白鬚神社で祈祷を行い、途中善能寺を経由しておよそ2 kmの行程を練り歩いて脚折5丁目の雷電池に至る。龍蛇は板倉雷電神社の神水とともに池に導かれた後、担ぎ手により解体され、その一部を持ち帰れば幸が訪れるとされている。



参考資料「鶴ヶ島市HP」「鶴ヶ島市デジタル郷土資料」「Wikipedia」等

拍手[1回]


脚折白鬚神社

『鶴ヶ島市HP』によると、地名「鶴ヶ島」発祥の地の周りは昔、脚折村の鶴ヶ島という地名であったという。このあたりは、雷電池方面から流れ出る湧水により水田や沼地が広がっていた。その中に、小高い島のようなところがあり、そこにあった松に鶴が巣をつくったことが「鶴ヶ島」の発祥と言われている。太田道灌という室町時代の戦国武将が川越城を築いた(1457年)頃と伝わっている。
 この鶴ヶ島発祥に深く関わりのある「脚折」という地域名は、日本で鶴ヶ島にしかない大変珍しい名称である。地域名由来には諸説あるが、日本武尊の東夷征伐の折に人馬が脚を折ったことから名付けられたという伝承がある。又は、砂礫の多い地という意味で砂居(すなおり)または曽根居(そねおり)の転訛との説もあり、詳細は定かではない。ともかく、高倉・太田ヶ谷などは元脚折郷に属しており、この近辺の中心的集落であった。
        
             
・所在地 埼玉県鶴ヶ島市脚折町61020
             
・ご祭神 武内大神 猿田彦命
             
・社 格 旧七ヶ村(膝折・太田ヶ谷・羽折・和田・高倉・
                  大六道・小六道)總鎮守・旧村社
             
・例祭等 初午祭 2月 祈年祭 43日 雷電様 88
 下新田、中新田、上新田を一直線に貫いている「鉄砲道」を道なりに直進し、1.1㎞程先にある「日光街道」と交わる交差点を右折する。南北に走る街道沿いには一戸建て住宅街が軒を重ねている中、350m程進むと、進行方向正面左手にこんもりとした脚折白鬚神社の社叢が見えてくる。
       
                  
脚折白鬚神社正面
『日本歴史地名大系』 による「脚折村」の解説では、「高倉村の北にあり、東は入間郡関間新田・片柳新田(現坂戸市)、北は同郡浅羽村・浅羽新田(現同上)。飯盛川が北東へ流れる。ほぼ南北に日光脇往還が通り、南方でほぼ東西に走る川越越生道と交差する。村名は臑折とも記される。
小田原衆所領役帳には小田原衆六郷殿の所領として河越筋の「折」二〇貫文がみえ、弘治元年(一五五五)に検地が行われていた。近世には高麗郡加治領に属した(風土記稿)。寛永五年(一六二八)の名寄帳(田中家文書)によると田九町二反余・畑一八町二反余・屋敷一町余、名請人は寺院一を含めて四七名。慶安元年(一六四八)の川越藩による検地で田一九町八反余・畑六一町三反余・屋敷二町五反余となり、名請人六三名、うち屋敷持四四名(「検地帳」同文書)」と記され、江戸時代当時「臑折村」と称していた。
 また『新編武蔵風土記稿 
臑折村』では「用水は西の高倉村の溜井よりひけり、又村内の溜井よりも沃げり、まゝ旱損を患れども水損の害なし」と、近世各地に起こる用水不足からくる水害はこの地域にはあまりなかったことも記されている。

      鳥居に掲げてある社号額         入り口付近に設置されている案内板
 白鬚神社
 白鬚神社は、滋賀県高島市に鎮座する白鬚神社を総本社とする神社で、全国に約三百社が祀られています。
 当社は奈良時代に武蔵国に移り住み、この地を開拓した高句麗人が崇敬した旧入間郡内二十数社のうちの一社とされます。
 当社の祭神は天孫降臨の道案内をした国津神の猿田彦命と五代の天皇に仕えた伝承上の忠臣とされる武内宿彌の二柱です。両神とも老翁の姿で現れることから、長寿の神ともいわれています。
 神域は棟札によると、臑折(脚折)、太田ヶ谷・針[うかんむりに居](羽折)・和田、高倉、大六道(上新田)、小六道(中新田)に広がり、七ヶ村の総鎮守でした。
 御神木は社叢裏手にそびえる樹齢約九百年といわれる県指定天然記念物の大欅です。
 また、四年に一度行われる国選択無形民俗文化財「脚折雨乞」の巨大な龍神は当社で入魂された後、渡御に向かいます。
 令和五年三月  鶴ヶ島市

                                      案内板より引用 
        
            手入れが綺麗に行き届いた参道、及び境内
 奈良時代に創建された由緒と歴史がある神社。街道沿いに鎮座しているにも関わらず、鳥居を過ぎると、木々に囲まれた参道、及び境内は静寂な雰囲気に包まれている。時に聞こえる小鳥のさえずりさえも筆者の五感を燻らせられているように感じられ、何とも心地よい。
 
     参道左側にある手水舎         参道を進む左手に祀られている社家祖霊社
       
                                   拝 殿
『新編武蔵風土記稿 臑折村』
 白髭社 村の鎭守なり、例祭九月廿九日、往古は臑折・太田ヶ谷・羽折[此村今はなし]・和田[臑折村の小名]・高倉・大六道[今の上新田村なりと云]小六道[今の中新田村なりといふ]七ヶ村の總鎭守たりしと云、明暦の棟札の裏に、この七ヶ村の總社と載たれど、今は當村及び當村の新田の鎭守となれり、社後に大槻一株あり、圍一丈七尺に餘れり、本山修驗正福院の持、
 正福院 八幡山と號す、本山修驗、篠井村觀音堂配下なり、

白鬚神社 鶴ケ島町脚折一七一五(脚折字下向)
脚折は越辺川の支流飯盛川上流にある。縄文期から平安期にかけての集落跡が八幡塚・宮田・上山田をはじめ数か所あり、古くから開けた所である。
社記に「天智天皇の御代、朝鮮半島の戦乱を避け一族と共に我が国に渡来した高麗若光王は、霊亀二年西武蔵野を賜り、高麗郡を設けて東国七ケ国に居住する高句麗の人々一七九九人を集めた。若光王は日頃崇敬していた猿田彦命と武内宿禰を白鬚大神と称して高麗郡の中央に祀り郡内繁栄を祈り、また郡下に数社を祀る。当社はこのうちの一社」とある。
社蔵の棟札に「白鬚大明神本地十一面観音七ケ村惣社臑折大田谷針宮和田高倉大六道当所之鎮守・于時天正二甲戌年九月吉日」があり、広く崇敬されていたことがうかがえる。
社蔵文書「年貢皆済目録」に鎮守御供米二俵とあり、領主の崇敬が厚かったことが知られる。
一間社流造りの本殿は、宝永七年の再建であり、内陣に白幣及び十一面観音を安置する。
明治五年に村社となり、同四〇年には字若宮の八幡社、天神下の天神社を合祀する。
                                   「埼玉の神社」より引用
「鶴ヶ島町史(民俗社会編)」によると、当社の祀職は別当本山派修験正福院の裔、宮本家が代々務めている。宮司宅に所在する「源氏家平野系図」によると、文明二年(一四七〇)より四代にわたり八幡山世代と称される人々が続き、元亀二年(一五七一)に平野弥次郎源重朝がそれを継いでいる。平野弥次郎は落ち武者で、兄弟である後の脚折村前方組の名主家の祖とともに、平野イツケの祖となっている。明治二年に復職し、平野姓を宮本に改めた。屋敷内にあった不動堂は脚折村新田の当山派修験者の庭に移された。社家に対する呼称としてはオミヤンチ(=お宮の家)、当主などがある。
       
             拝殿に掲げてある「白鬚神社」の扁額
        
                            拝殿左側には境内社の合殿が鎮座
  向かって左から神明社、愛宕社、八幡社、疱瘡社、天神社、諏訪社、稲荷社が祀られている。
       
           本殿奥に一際目立って聳え立つご神木である大欅
 この
ご神木である大欅(ケヤキ)は樹齢900年余りで、現在の樹高は約17m幹周りは約7mの巨木である。昭和7年に指定された当時は樹高が約36mで、枝も四方に生い茂っていた。しかし、昭和47年に風雨と自らの重さにより枝周り3mもの大枝が折れてしまった。このため幹の空洞部分を覆い、さらに東面の残った大枝を鉄柱で支える措置を講じられている。また、平成67年度にわたり樹勢回復のため腐朽部分の除去や樹脂補填等を行い、その後、平成18年度には、木の成長とともに前回の樹勢回復業務における樹木と樹脂の接合部分に剥離が生じた箇所の補修や、菌などの繁殖を抑えるため、日照、風通しを良好に保つための周辺環境も整備し、今日に至っているという。
なお、この大欅は「脚折のケヤキ」との名称で、昭和7年3月31日 埼玉県指定天然記念物に指定されている。
        
                        境内に設置されている指定文化財の案内板
 市指定有形文化財(彫刻)
 脚折白鬚神社十一面觀音菩薩立像  昭和六十二年十二月二十四日指定
 白鬚神社の十一面観音菩薩立像は、宝冠を被り、頭上に変化面を十面備え、右手は垂下し、左手に花瓶を執り蓮台上に立つ像である。眼と額の百毫には水晶が使われ、全身には金泥が塗られ、衣の部分には金箔が貼られている。
 白鬚神社所蔵の棟札・銘札から、室町時代より同社の本地仏として祀られていることが判る。また、作製技法は数材を合わせる寄木造りで、しかも正中矧ぎといって、合わせ目を正面にしている。これは万一割れが生じると正面に傷がくるので普通は側面にするのであるが、相当に自信のある作者によるものであろう。
 この十一面観音菩薩立像は傷みがはげしかったため、指定当時に修復を行っている。
像高 四ニ・〇センチメートル 製作時期 室町時代

 市指定有形文化財(歴史資料)
 白鬚神社 棟札・銘札  平成六年二月二十四日指定
 白鬚神社は霊亀年間(七一五~七一七)高麗人帰化の際、郡内に勧請した白鬚神社数社の内の一つであるといわれている。
 白鬚神社の境内にそびえる樹齢約九〇〇有余年の大けやき(県指定天然記念物)は、同社の古さを示す古木である。
 同社の収蔵庫には、天正二年(一五七四)から享保十二(一七二七)年におよぶ八点もの棟札・銘札 が所蔵されている。
 これらの棟札・銘札からは、七か村の総鎮守であった白鬚神社の信仰圏、神仏淆潰時代の本地仏などに関することのほか、地元の職人のてがみなど、さまざまな歴史的な事柄について知ることができる。また、一五〇年余りの期間に本地仏や社殿の造立、修復が頻繁に行われていることが判り、同社に寄せられた信仰の厚さをも窺うことができる。
 現在県内においては、神社の大半は確固たる由緒書を持っておらず、棟札やさまざまな奉納物の銘札などに記された銘文によって、その歴史を知り得る場合が多い。白鬚神社の棟札及び銘札についても同様であり、しかも安土桃山時代から江戸時代中期にかけて、これだけまとまって、保存されている例は県内の各神社をみても決して多いとは言えない。
 この棟札及び銘札は同社の歴史はもちろん、鶴ヶ島の歴史や埼玉県の宗教史を考える上でもたいへん貴重な歴史資料である。
                                     境内案内板より引用
        
                                  社殿からの一風景


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「鶴ヶ島市HP」
    「鶴ヶ島町史(民俗社会編)」「Wikipedia」「境内安案内板」等


拍手[1回]


羽折稲荷神社

 神社形式の一つで、社殿の配置上、本宮(ほんぐう)または本社より奥に位置する社殿または独立の社を「奥宮」と呼ぶ。神社には山麓祭祀(さんろくさいし)を起源とする場合が多く、神体山の山腹や山頂に社殿を配して同一祭神出現または降臨の本源とする。地方によって里宮(さとみや)に対する山宮(やまみや)、下宮(しものみや)に対する上宮(かみのみや)と称する場合もある。
 基本、同一の神社に複数の社殿があり、かつ社殿と社殿の間が非常に離れていて一見すると別のものにさえみえるような場合にこの名称を用いられることが多いようだ。
 使用の最も典型的な例として、山裾と山頂の二社に同一の祭神を祀る場合、山裾の神社(本社・本宮・下宮)に対して山頂の神社を奥宮・奥社・上宮という。
 鶴ヶ島市・羽折稲荷神社は、市域の大部分が平坦な台地となっているにも関わらず、「上社」「下社」に分かれて鎮座していて、実に不思議な形態の社でもある。
羽折稲荷神社上社】
        
             
・所在地 埼玉県鶴ヶ島市下新田428
             ・ご祭神 倉稲魂命
             
・社 格 旧指定村社
             ・例祭等 元旦祭・初午祭(2月初旬)・秋祭り(101415日)                        
 中新田神明社から「鉄砲道」に戻り、その道を1.1㎞程北東方向に進行する。下新田・中新田・上新田各地域を一直線に貫くこの道路が、大きく右カーブし始める信号付き5差路を埼玉県道114号川越越生線方向に右折し、300m程進んだ「下新田」交差点を左折、暫く進むと左手奥に羽折稲荷神社上社の朱色の鳥居が見えてくる。
 周囲に適当な駐車場はないので、心ならずも鳥居は潜り、その先にある社殿、その東隣の下新田会館の専用駐車スペースに停めてから参拝を開始した。
        
                 羽折稲荷神社上社正面
『新編武蔵風土記稿 下新田村新田』には「享保年中下新田村淸寶院と云る、當山派修驗開發せし新田なり」と記され、村の開発に修験の関与が大きかったことがわかる。
「稻荷社 華厳院の持
 華嚴院 當山修驗、入間郡小久保村教法院の配下なり、下同、
 淸寶院
 常福院 當山修驗、入間郡大仙波萬仁坊の配下なり、
 南蔵院 當山修驗、同郡入間村延命寺の配下なり」
 また「埼玉の神社」によると、現在は中止している祈年祭は、春祈祷と呼ばれ、大正期までは社前に注連を張り御幣を立てて、中央に湯の入った釜を据え、法印が榊を湯につけて参拝者を祓う「湯立神楽(ゆたてかぐら)」が行われていた。なお、荒神祭もこれと同様の祭事であった。
法印は地元の者が務めたという。江戸期、当地には華厳院のほかにも、同じ当山派修験の常福院、南蔵院があったことから、修験の活動が盛んな地であったことがうかがえよう。
        
                    拝 殿
 羽折稲荷神社上社の創建年代等は不詳ながら、明暦年間(16551658)頃に成立した下新田村の開発が進み、享保年間(17161736)には本山派修験清宝院が更に新田を開発、下新田村新田の鎮守として羽折稲荷神社下社を分祀して創建したとされる。羽折稲荷神社という名称から見ても分かるように、古くから祀られていたのは下の社である。明治維新後の社格制定に際して羽折稲荷神社下社が村社とされたものの、いつしか当社が「上の社・遥拝社」と認識されるようになり、祭礼の一切が当地で行われているという。
       
                                  境内の一風景
 年中行事は、元旦祭・初午祭(2月初旬)・秋祭り(101415日)の年3回。
 初午祭は、豊作を祈る祭りとなっている。この日の神饌は宿になる家を用意し、米の粉で作った粢(しとぎ)・小豆飯・鰯(いわし)・油揚げが神前に沿えられる。なかでも粢はさつま芋ほどの大きさで三方に載せる。
 また神饌は上の社と下の社と二膳用意する。これは、祭典が終了すると縁起ものとして子供たちに分けられる。粢の食べ方は上から押さえて煎餅のように薄くし、醤油をつけて食べると珍味であるといわれている。祭典後の直会は宿になった家で行い、昼は飯、夜は手打ちうどんが用意される。
*粢…もち米と米粉を楕円形に固めた餅のことで、神前などのお供物として使われていた。
 秋祭りは、以前は101617日であったが、戦後1415日に変更された。これは豊作感謝祭で「お九日(おくんち)」と呼ばれている。祭りの日の夕刻からは宵宮と称し、氏子は家の戸口や境内に灯籠を飾る。以前は、この日、子供たちが氏子を回り薪を集め、上の社の境内に積み上げて燃やした。15日の早朝、氏子は「藁(くさかんむり+包)(わらづと)」に赤飯を入れて神前に供え、豊作を祈願するとの事だ。

羽折稲荷神社下社
       
 羽折稲荷神社上社から北東に走る道路を650m程進む。周囲一帯広がる住宅街の中、進行方向右手にこんもりとした森が見えてきて、その中に羽折稲荷神社下社の朱色の鳥居が道路沿いに立っている。
 交通量の多い道路沿いに鎮座している故に路駐は不可。近くに「鶴ヶ島市北市民センター」があり、そこの駐車スペースをお借りしてから参拝を開始した。
 
   鳥居前で一礼し、森の中の参道を進む。   参道は途中左側に緩やかにカーブしている。

 羽折稲荷神社下社の創立は不詳であるが、羽折稲荷神社という名称から見ても分かるように、古くから祀られていたのは下の社である。慶安元年(1648)の検地帳に「宮地七反八畝二六歩林稲荷免」とあるのは下の社の境内地である。字羽折周辺には古代及び中世の遺跡が広がっており、下の社の創立も中世にさかのぼると推定される。
        
              参道途中に建つ「
官林下戻記念之碑」
                        官林下戻記念之碑
         夫敬神者皇國之大本須臾為弗可忽者也此地有名祠来由頗古
         彌羽折稻荷為村鎮守羽折蓋古地名著于文獻江戸世慶安元年
         境内二千三余百坪以除地奉祀明治初除地総上知焉為官林同
         三年列村社後會廟議設官林下戻特典之制以三十三年二月氏

         子胥議請之于官當時現籍為三十一戸氏子總代及有志者俣共
         協力當事而衆議院議員福田久松斡旋最努及三十七年十一月
         廿四日清浦農商務大臣允可之而七段九畝六歩地 復帰社境
         衆抃躍而更營社殿大整植林以益頌神徳之隆今也境内風氣自
         清氏人金寧蕃殖計五十戸而先人努力敬神漸顯於世於是厥子
         厥孫祖謀欲建碑以傳父祖功績於不朽來請余文乃為銘(以下略)
       
        
                       社叢林の中にひっそりと佇む
羽折稲荷神社下社
 その後、近世の開発によって集落の中心が上に移ると、羽折稲荷神社も上に分霊されていったものであろう。上の社の創立は、新田開発の時期や境内の石仏の銘文、ご神木(現在は二代目)の樹齢などから、近世前半を下らないと推定される。現在、氏子は下の社を奥社、上の社を遥拝社と意識しており、下の社の多くは上の社へ移行しているという。
        
                                 
羽折稲荷神社下社社殿
 稲荷神社  鶴ケ島町下新田四二八(下新田字羽折)
 当地は『風土記稿』によると、明暦のころ高倉村に属していた原野を開墾、分村して下新田村とした。次いで享保年間には、本山派修験清宝院が、更に新田を開発したという。
『風土記稿』下新田村の項には「稲荷社 村の鎮守なり、二月初午の日を例祭とす、村持」とあり、下新田村新田の項には「稲荷社 華厳院持」「華厳院 当山派修験、入間郡小久保村、教法院の配下なり」と載せている。
 現在、前者の稲荷社は“下の社”後者の稲荷社は“上の社”とも呼ばれていることからも、おそらく下新田村の開発に際し、五穀の実りを祈願して稲荷社を祀り、次いで枝村の新田開発に伴い、親村の鎮守であった同社の分霊を祀ったものと考えられる。
 明治期に入り、親村の稲荷社は古来一村の鎮守であったことから村社となった。しかし時代が下るに従い、集落状況や地理的条件、氏子の意識の変化などにより歴史的経緯が忘れられ、本来、新田の守り神として祀られた稲荷社を鎮守として仰ぐようになり、現在、氏子は下の社を奥社、上の社を遥拝社として意識しており、下の社の祭りの一切は上の社へ移行している。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                              道路沿いにある鳥居方向を撮影
          現在下社の境内林は「ふるさとの森」に指定されている。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「鶴ヶ島市デジタル郷土資料」
    「日本大百科全書(ニッポニカ)」「Wikipedia」「境内石碑文」等
 

拍手[1回]


中新田神明社

「お九日 (おくんち)」とは、いわゆる旧暦の99日を「重陽の節句」ともいい、平安時代初めに中国から伝わったとされていて、別名「菊の節句」ともいわれる。本来は年間にわたり様々な節句が存在していたのだが、江戸時代に、時の幕府がそのうちの5つを公的な行事・祝日として定めた。それが「人日」「上巳」「端午」「七夕」「重陽」の五節句である。
五節句は以下の日となる。
17日:人日(じんじつ) [七草の節句]
33日:上巳(じょうし) [桃の節句、ひな祭り]
55日:端午(たんご)  [菖蒲の節句]
77日:七夕(しちせき)   [七夕祭り、星祭]
99日:重陽(ちょうよう)[菊の節句]
 日本では昔から奇数は陽の数字とされ、なかでも一の位の最大である「九」が重なる99日は陽が重なるのでめでたい日とされ「重陽の節句」として呼ばれ、お祝いしたという。
 関東地方では,3度の9日を〈みくんち〉といい,それぞれ初九日,中の九日,しまい九日と称していずれも重要な節目とした。またこの時期は収穫期にあたるところから、一般においては収穫祭りと結びつけて祝うことが多く、その日に行われる祭りのことを「おくにち」「おくんち」と言うようになった様である。
        
              
・所在地 埼玉県鶴ヶ島市中新田180
              
・ご祭神 天照大御神
              
・社 格 旧中新田村鎮守・旧村社
              
・例祭等 春祈祷 315日 お九日 1014日 
                   新穀感謝祭 
1123
 上新田日枝神社から「鉄砲道」を北東方向に500m程進む。「新町小学校入口」交差点のすぐ先の路地を左手前方向に曲がり、道幅の狭い道路を道なりに進むと、進行方向ほぼ正面に中新田神明社の社叢林、及び鳥居が見えてくる。
 鳥居脇の境内の一角が公園化されて、そこのスペースに車を停めてから参拝を開始する。
        
                                 
中新田神明社正面
 鶴ヶ島市・中新田地域は、上新田地域の北東に接していて、嘗ては一帯
農村地帯であったが、近年建て売り住宅が増えて、兼業農家も五割となっているという。
 中新田神明社は、宅地化の進んだ当地域にあって、唯一僅かに昔の田畑風景が残っている南西部端にひっそりと鎮座している。
        
                        鳥居の左側に設置されている「顕彰記念碑」
        
                              杉の大樹等に囲まれた参道        

        
                    拝 殿
 神明神社  鶴ケ島町中新田一八〇(中新田字中方)
 当地は高麗郡浅羽庄に属した。社伝によると社の始まりは、「往古、内大臣藤原伊周公の一子武蔵守の後裔浅羽下総守小田原陣に戦没し、居城である浅羽城も落城、家系の廃絶を恐れた長子左京は、秩父高篠山に潜んで名を高篠隼人と改め時節の到来を待つうち宿願かない、元和九年故山に帰って高篠三家を再興する。高篠喜一・俊・辰生の先祖である。村も治る慶安二年に喜一家の祖が愛宕神を、俊の祖が稲荷神を、辰生の祖が伊勢神を、それぞれ勧請して家の神とする。これを当社の創め云々」とある。また『武州高麗郡中新田村家伝集』に「慶安二年第六殿御縄入相成上新田唱ヒ、小六殿中新田ト唱、庄兵衛永久両村支配役仰付、左兵衛ノ氏神稲荷神明勧請申ス、愛宕山之神都合四ケ所勧請申ス、別当宝蔵院、氏寺清林寺也、延宝二甲寅年三月二十六日、高篠隼人死ス」とある。
 氏寺であるといわれる清林寺は、当社の東二〇〇メートルほどにあったが明治期廃寺となると伝える。ただし『風土記稿』には「神明社 村の鎮守、村持」とのみある。
『明細帳』に「当社古記録等伝フル無ク創立年紀詳カナラズ明治五年村社ニ列ス、明治四十年十二月廿四日同大字字東山稲荷社、字大山ノ山の神、字愛宕ノ愛宕社ヲ合祀スル」とある。合祀跡地は当社で所有し小作地としていたが、農地開放により失った。
                                  「埼玉の神社」より引用

       
                       本殿奥に聳え立つ「中新田神明社大桧」
       
                  入口付近に設置されている「
中新田神明社大桧」の案内板       
 中新田神明社大桧(しんめいしゃおおひのき.
 市指定天然記念物(昭和五十七年三月十五日指定)
 神明社が江戸時代の慶安2年(1649)に造営された際に御神木として社殿の裏側に植え付けられたものと推定される。
 往時より、氏神信仰の習わしとしていずれの社にも御神木があった。この大桧も信仰の対象として生まれたものと考えられる。
 桧は一般にその成長が遅く、これだけ大きい桧は近隣には見受けられない。
 樹齢三百余年、幹回り二m六十五㎝、樹高約二十五m
 平成五年三月三十一日     鶴ヶ島市教育委員会
                                      案内板より引用

 
本殿東側の境内社。「神明社由緒之碑」に記され     境内にある「神明社由緒之碑」
 ている
稲荷社・愛宕社・山ノ神であろうか。
 神明社由緒之碑
 荒漠たる武蔵野台地の一角を拓き中新田村ができたのは元和九年(一六八三)のことである。
 往古内大臣藤原伊周公の一子、武蔵守の後裔、浅羽下総守小田原陣に戦死母城浅羽城落城の悲運にあい其の子、家系廃絶を防ぐため逃れ秩父高篠山に入り浪々の身長きにわたる、後に左京改め高篠隼人となり、此の地に来り三家を創立、慶安二年氏神、神明、稲荷、愛宕、山ノ神を勧請し神明社を創建す。
 御神木大檜は昭和五十七年鶴ヶ島町天然記念物指定を受く。樹幹八尺七寸余(二、五六米)樹勢盛んなり。
 隼人婦寛文七年、隼人延宝二年この地に眠る、これ中新田墓地の始まりにして後年地蔵堂建立される。

        
                  社殿からの風景

 ところで、「埼玉の神社」によると、当社の行事は、元旦祭・春祈祷・勧学祭・お九日・新穀感謝祭・竈注連(じめ)分けである。
 春祈祷は315日で、本来は種籾(たねもみ)を沿えて稲の無事成長を祭りであったが、生業の変化に伴い、現在は家内安全など種々の祈願をする祭りに変わっている。これは、祭典が終わると、拝殿で神社会計報告・三峰講の代参くじ引き・神社年番の引き継ぎが行われる。
 4月上旬に勧学祭がある。これは国民学校時代からの行事で、前もって氏子に回覧板が回り、小学校に入学した子供とその親が参拝する。
 お九日は1014日で、大正の末までは境内に灯籠を飾り幟を立てていた。以後は祭典直会だけの簡素な祭りとなっている。
 新穀感謝祭は1123日である。これは昔のお日待(おひまち)をお上の命令で変えたもので、祭典後拝殿で直会をする。
 竈注連(じめ)分けが12月下旬に行われる。これは、神職家にある氏子の帳面を基にして行われ、歳迎えの注連縄や幣を作って、総代が各家に配布するとのことだ。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「改訂新版 世界大百科事典」「Wikipedia」
    「境内案内板・記念碑文」等
                   

拍手[1回]


上新田日枝神社


        
            ・所在地 埼玉県鶴ヶ島市上新田104
            ・ご祭神 大山咋命
            ・社 格 旧上新田村鎮守・旧村社
            ・例祭等 不明
 高倉日枝神社から一旦埼玉県道114号川越越生線に戻り、同県道との交点である「高倉派出所」交差点を左折し、800m程進んだ変則的な十字路を左折する。通称「鉄砲道」と呼ばれる道路を南西方向に1.7㎞細進むと、進行方向右手に上新田日枝神社は鎮座している。
 実のところ、上新田地域は鶴ヶ島市南西部に位置し、北は東武越生線北側に沿って坂戸市森戸地域と接している。西大家駅北側に鎮座している森戸国渭地祇神社と直線距離にしても600m程しか離れていない。 
        
                 上新田日枝神社正面
    鳥居の先にある一対のイチョウの大木は、大正御大典記念植樹であるという。
『日本歴史地名大系』 「上新田村」の解説
 [現在地名]鶴ヶ島市上新田・高倉
 町屋村の北東にあり、北は入間郡森戸村(現坂戸市)。高麗郡松山領に属した(風土記稿)。慶安二年(一六四九)の川越領高倉之内上新田村検地帳(高篠家文書)があり、中新田村・下新田村と同様に高倉村内の地を開墾して成立した新田とみられる。高倉上新田ともよばれた(元禄七年柳沢保明領知目録)。慶安二年の検地帳によれば畑二八町六反余・屋敷地四町七反余。名請人二四名、うち村内居住者二二名で全部が屋敷持だが、これらの百姓たちは村外の名請人二名の分付百姓となっている。検地当時は川越藩領。元禄二年(一六八九)から四年の年貢割付状(高篠家文書)では高一四九石余。
        
                                   境内の様子
          まさに「村の鎮守様」というイメージピッタリなお社
 ところで「鉄砲道」とは不思議な名称である。調べてみると、埼玉県道114号川越越生線から西に向かう一直線の道路は、古来「中新田鉄砲道」の名で呼ばれていて、江戸時代に、夜間竹槍の先に提灯を付けて立て見通し、測量をして作った道と語り継がれる道である。この道は下新田・中新田・上新田各地域を一直線に貫いているという
 道路沿いの民家にも、所々に一時代前の臭いと懐かしさが残っている道である。
        
                    拝 殿
 日枝神社  鶴ケ島町上新田一〇四(上新田字会立東)
 当地は初め高倉村に属していたが、明暦二年の検地水帳に「武州高麗郡高倉内上新田開検地水帳」とあることから、このころ開発された村であることがわかる。また、当地は水田に適さず畑作地として耕作され、時折襲う日照りに村人の苦労は多かった。
 当社の創立も村の開発とほぼ同じころと思われ、近江一の宮の日吉大社より勧請したものである。日吉大社は、古事記の大年神の系譜に「次に大山咋神、亦名は山末之大主神、此神は近淡海国の日枝山に坐す。」とあるように、古くは日枝山に鎮まる山神であった。山神は生活を支配する神で、水ともかかわりを持ち雷神としての性格もあったと考えられ、当地において、このような神威を持つ神を勧請したことは、干損地で生活する村人の切実な祈りがあったことがうかがえる。
 鎮座地は初め村の西に当たる字山王前で、村鎮守として古くは例祭を九月二九日と定めていた。また、境内には槻が数株あり、大きなものは周囲一丈九尺もあったと伝える。
 明治四年九月、当社は山王前から現在地に遷座し、同五年に村社となった。移転理由は、鎮座地が氏子居住地からやや離れているため祭祀に不便を感じたからと伝えている。なお、遷座に際しては、本殿に担ぎ棒を付けて氏子が力を合わせ神輿のように運んだという。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
                                       本 殿
『新編武蔵風土記』には上新田村(現大字上新田)山王社について「村の鎮守にて例祭は九月二十九日、村持なり、社地に槻数株あり、其の大なるもの囲一丈九尺許り」と記されている。また『入間神社誌』には「字山王前、林地八畝二十四歩、一村共有地鎮座」と記されている。現在の上新田字会立東104番地鎮座の日枝神社は、元は上新田村の西方山王前に祀られてあった。
 嘗て、この社で不吉な人身事故があったと言う。事の真偽は遠い時代のことで定かでないが、場所替の理由としてこのことが人々に語り継がれている。明治4年(18719月字山王前から字会立東の現在地に遷し祀られたとの事だ。
 
 拝殿の左側に祀られている境内社・三峰社   拝殿右側には境内社・稲荷社を祀っている。
        
             「鉄砲道」沿いに立っている庚申塔


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」
    「鶴ヶ島デジタル郷土資料HP」等
        

拍手[0回]