古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

鉢形白山神社


        
            ・所在地 埼玉県大里郡寄居町鉢形468
            ・ご祭神 菊理媛命 伊弉諾損 伊弉冉尊
            ・社 格 旧村社
            ・例 祭 祈年祭 43日 例祭 1017日 新嘗祭 1123

 国道140号バイパス(彩甲斐街道)を寄居・長瀞方向に進み、玉淀大橋(北)交差点を左折する。玉淀大橋を南下し、荒川を越える。この橋の左方向で荒川下流域は「かわせみ河原」と呼ばれ、土日・祝日は勿論、平日でも暖かい季節ともなれば、水遊びやバーベキューを楽しむ人々で賑わっている。
 その後荒川を越えた最初の信号のある交差点を右折し、450m程直進すると「立ケ瀬集会所」に到着し、その隣に鉢形白山神社は鎮座している。立ケ瀬集会所の駐車スペースを利用して参拝を開始した。
        
              立ケ瀬集会所に隣接して鎮座する鉢形白山神社

 鉢形白山神社は荒川右岸の絶壁近くにある字立ケ瀬に鎮座している。同じく荒川右岸の絶壁上にある鉢形城は南西方向にあり、北東へ向かって流れて来た荒川はこの立ケ瀬地域で直角に曲がり東へ向かって流れ出す。その為か荒川左岸に比べて右岸には堆積作用で形成された立ケ瀬河原が存在している。
        
                             参道の先に拝殿が見える。
『大里郡神社誌』
「傳へ言ふ人皇九十八代後亀山天皇の御宇元中年間の勧請永禄年中鉢形城主北条氏邦同城鬼門除の祠として再建せりと明治二十五年三月三日類焼同年九月十五日現今の本社を再建す」

『新編武蔵風土記稿 男衾郡關山村条』
「關山村は白岩村の東南に續けり、家數十六軒御打入の後より御料所に屬し、延享年中まで猶かはらざりしに、其後逸見出羽守の加恩の地に賜はり、今子孫英介の知る所なり、検地は前村に異ならず
 小字 立ヶ瀬、中久保、庚申塚、五枚畠、猫岩、原、大塚、猿楽場」

       
         拝殿の手前で左側には御神木である椋の木が聳えている。
        
                     拝 殿

 鉢形白山神社の創建年代等は不詳であるが、元中年間(1384-1392)の勧請と伝えられ、太田道灌も当社を参拝、駒つなぎの桜と椋を植樹、椋の木は現存し、当社御神木となっている。その後鉢形城主北条氏邦は永禄年間(1558-1570)鉢形城を修築、城の表鬼門鎮守として社殿を再建したという。
        
              拝殿の左側には南北に走る道路があり、そこには石碑が並んでいる。

 奥宮再建記念碑
 白山神社祭神 菊理媛命 伊弉諾損 伊弉冉尊
 古書によればこの白山神社は人皇九十八代後亀山天皇の御宇元中年間の勧請永禄年中(四百拾年前)鉢形城主北条氏邦が同城鬼門除の祠として再建せるものであり偶々明治二十五年三月三日類焼同年九月十五日現在の社殿に改築せりという
 尚奥宮については永禄年間のものでその普及甚だしく更に類焼による損傷等これを看過するに偲びずこの度氏子等相謀り造営となる。
 茲にこの経緯を記録し長く後世に傳えんとす。
                                     記念碑文より引用
 
 社殿の右側には数々の石製の記念碑がある。    記念碑の隣には3基の石祠が鎮座する。

「大里郡神社誌」には境内社として
手長男神社・八坂神社・天神社が紹介され、それらは石祠であることも記されている。但し手長男神社(社殿 間口一尺一寸、奥行一尺九寸)、八坂神社(社殿 間口一尺六寸、奥行一尺六寸)、天神社(社殿 間口一尺七寸、奥行二尺一寸)と、大きさ的にみると、真ん中が天神社で、左右にそれぞれ八坂神社、手長男神社となるのであろうか。
        
                      3基の石祠の奥に鎮座する境内社。詳細は不明。

 白山神社 寄居町鉢形四六一(鉢形字立ヶ瀬)
 当社は、荒川右岸の絶壁近くにある字立ケ瀬に鎮座している。立ケ瀬の地名は、荒川の川瀬に切り立つ地を示すもので、南西部には自然の要害を利用して築いた鉢形城の城跡がある。
 創建は社伝によると、第九九代の後亀山天皇の代、元中年間(一三八四-九二)である。祭神は、菊理媛命・伊弉諾命・伊弉冉命の三柱である。本地仏は、白山妙理大権現の化身である観音菩薩で、この像は現在も本殿に奉安されている。
 文明年間(一四六九-八七)太田道灌は鉢形城へ訪れる道すがら当社に参拝し、武運長久を祈願している。また、この折、境内に駒つなぎの桜と椋の二本の樹木を植えている。桜の木は、当社の春祭りのころ、毎年見事な花をつけ、境内で酒宴を開く氏子を和ませたが、残念ながら明治初期に枯れている。椋の木は現在も残り、神木として大切にされている。
 永禄年中(一五五八-七〇)北条氏邦は、鉢形城を自然の要害を利用しながら修築拡張し、北武蔵の要として備えを固めた。この時、当社は、城の表鬼門に当たることから重要視され、神の加護を得んとして社殿を再建している。
 江戸期は、関山村の小名立が瀬の鎮守として村人に信仰され、更に明治五年に村社となった。
                                  「埼玉の神社」より引用


参考資料「新編武蔵風土記稿」「大里郡神社誌」「埼玉の神社」等
        

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用土貴船神社

 用土貴船神社は八高線用土駅の東側、寄居町立用土小学校近郊に鎮座している。用土は寄居町北部に突出した地域で、飛び地のように見えるが、地続きになっていて、狭隘部は幅100mもなく南側にある鐘撞堂山(山ではあるが329.8mしかない低山で、山麓から同定できないほど目立たない山ではあるが)の峰があるので寄居町から用土地区への直通道路は存在しない。
 というのも昭和
30年に寄居町が用土村など周辺4村を編入したことで生じたようで、当時の寄居町と用土村の間に位置していた花園村(昭和58年町制)が合併に参加せず、平成18年に深谷市に編入されたため、現在の用土地区はほぼ寄居町の飛び地となっている。その為用土区域に住んでいる人が町役場や市街地に行くには、一旦深谷市区域を通らなければいけない交通環境となってしまった
 このような経緯もあり、寄居町は不思議な行政区域となっている。
        
             
・所在地 埼玉県大里郡寄居町大字用土2857
             ・
ご祭神 高龗神、闇龗神
             ・
社 格 旧村社
             
・例 祭 例祭 918日
        
                                 用土貴船神社正面
 淤加美神又は龗神(おかみのかみ)は、日本神話に登場する神であり、『古事記』では淤加美神、『日本書紀』では龗神と表記している。日本神話では、神産みにおいて伊邪那岐神が迦具土神を斬り殺した際に生まれたとしている。『古事記』及び『日本書紀』の一書では、剣の柄に溜った血から闇御津羽神(くらみつはのかみ)と共に闇龗神(くらおかみのかみ)が生まれ、『日本書紀』の一書では迦具土神を斬って生じた三柱の神のうちの一柱が高龗神(たかおかみのかみ)であるとしている。
この二神は同一の神、あるいは、対の神とされ、 その総称が淤加美神(龗神)であるとされている。 龗は龍の古語であり、「闇」は谷を、「高」は山を指す言葉であることから、 闇龗神は渓谷、高龗神は山峰の水や雨を掌る龍神として信仰されてきた。
『古事記』においては、淤加美神の娘に日河比売(ひかはひめ)がおり、須佐之男命の孫の布波能母遅久奴須奴神(ふはのもぢくぬすぬのかみ)と日河比売との間に深淵之水夜礼花神(ふかふちのみづやれはなのかみ)が生まれ、この神の3世孫が大国主神であるとしている。
               
                     社号標柱
 高龗神を祭神とする神社は京都の貴船神社を本源とする貴船社系を中心に全国に分布する雨乞い信仰の神社など約三百社にのぼる。
 貴船神社は古く朝廷から祈雨、祈晴の神として崇敬され、水の神とし農業、醸造、染織、料理飲食、浴場などの業種の関係者から信仰を集めている。
 用土地域に鎮座する貴船神社も、その中の一社であり、『用土村誌』には天平元年(巳年・西暦729年)3月とあり、「村社貴船神社誌」では貞観年間(859~877年)創建と云われる、歴史のある社でもある。
 
        
               正面両部鳥居              鳥居の手前で左側にある
   柱を支える「控え柱」が変形していて、     「伊勢神宮第六十二式年遷宮記念」
    逆に歴史の古さを感じさせてくれる。
            の案内板
 伊勢神宮第六十二回式年遷宮記念
 むらの鎮守の貴舩神社の創建は、『用土村誌』には天平元年(巳年・西暦七二九年)三月とあり、「村社貴船神社誌」では貞観年間(八五九~八七七年) のこととしています。
 延暦年間(西暦七八二~八〇六年)坂上田村麻呂東夷征伐に際し、この地に立ち寄り土質の適したるを賞し、土偶を作るに「此の土を用いたり、よって『淀』を改めて『用土』となす。」とあります。
 用土元郷地区の熊野神社には、当時この地域を支配した猪俣党藤田氏の一族と思われる用土新三郎小野業国により天文五年(一五三六年)に鰐ロが寄進されており、村の鎮守であった当社にも同様の崇敬が寄せられたことが推測されます。元禄年間に神祇管領の執奏により正一位に叙せられ、安政二年(一八五五年)には「藤田神社貴布禰大明神」の社号を授けられました。(中略)
『風土記風土記稿』には、「貴舩神社 村の鎮守なり、例祭九月十八日、末社天王・八幡・天神・八大竜王・金毘羅 別当不動寺 当山派修験、江戸青山鳳閣寺の配下、貴舩山と号す、本尊不動」とあります。
 境内
神には、青面金剛神・明仙元大菩薩・庚申・天神宮が祀られています(以下省略)
                                      案内板より引用
       
            参道を挟んで案内板の向かい側に聳え立つ巨木
『伊勢神宮第六十二回式年遷宮記念』案内板に記されている「用土新三郎小野業国」という人物、本名は用土業国と云い、武蔵国北部の豪族、藤田氏の一族で、この時の当主は藤田康邦。官位は右衛門佐。
 藤田康邦は大里・榛沢・男衾・秩父・那珂・児玉・賀美に及ぶ広域を領有していた
在地領主であり、当初は山内上杉家に仕え、天神山城を守っていたが、天文15年(1546年)の河越城の戦いの後、北条氏康の攻撃を受けて降伏し、その家臣となった。このとき、氏康の四男・乙千代丸(氏邦)を幼少から養子として育て、娘の大福御前を娶らせて藤田氏の家督を譲っている。そして自らは用土城に居城を移し、用土氏を称した。名を重利から新左衛門康邦に改めたのもこの頃とされる
 但し、以上の事蹟については異説も多く存在し、生没年など康邦の実像は解明されていない部分も多い。
 藤田氏を継いだ氏邦は藤田重氏を名乗り、その後、天神山城から鉢形城に移り藤田氏領を支配した。氏邦の所領はのちに鉢形領と称され、氏邦は北方の上野方面にも進出し、その領国は北方に拡大していったのである。
 康邦の子には用土重連や藤田信吉がいたが、彼らは北条氏にとっては邪魔な存在であり、重連は沼田城代に任じられたものの氏邦に毒殺され、信吉は武田勝頼に寝返っている。
               
                                参道の先に社殿が鎮座する。
 小野篁の子孫を称する武蔵七党猪俣党の猪俣政行(1155年に花園城を築いとたいわれる)が武蔵国榛沢郡藤田郷(埼玉県寄居町)に拠って藤田を称し、1590年豊臣秀吉による小田原征伐まで武蔵国北部の有力国衆として400年余り栄えた。政行の子・藤田行康は源平合戦(治承・寿永の乱)の一の谷生田森の戦いで討ち死している。その子能国・孫能兼は承久の乱で活躍し、このとき能国が院宣を読み上げ、文博士といわれた。一族は幕府の問注所寄人であった。
 
              神楽殿          貴船貴船神社「本殿の屋根瓦修理
                         旗竿の新調」事業記念碑
        
                                        拝  殿
 
          本 殿             本殿奥に鎮座する境内社。詳細不明。
        
                 社殿左側奥にある社日神を中心に配列された庚申塔・仏像等

 猪俣党藤田氏の一族と思われる用土新三郎小野業国が、用土元郷地区の熊野神社に鰐ロを寄進したのが天文5(1536)。当時破竹の勢いで関東を席巻していた後北条氏は、翌年当主上杉朝定の居城・河越城を攻め、この戦いで川越城は落城、扇谷上杉家は滅亡寸前まで追いつめられる。またその翌年には国府台の戦いにおいて、扇谷上杉家と協力関係にあった小弓公方足利義明を滅ぼして房総半島方面へも進出を始めていた。
        
                                  静かに佇む境内
 平安時代から代々大里郡周辺の広大な地を支配してきた藤田氏だったが、天文15年(1546)の河越夜戦で仕えていた山内上杉氏が北条氏に敗れると、形式上は氏邦を養子に迎えて体裁は保ったとはいえ、実質的には北条氏康に降伏し、屈辱的講和をせざるを得なかった。家の存続の為、氏邦に家督と居城を譲った康邦は祖先から受け継いでいた「藤田」姓を捨てて、用土新左衛門と名乗り用土城を築いて自らの隠居城とした。
 栄枯盛衰は世の常とはいえ、藤田氏にとって「用土」の地は、何百年も続いた名家の終焉の地でもあり、今の寄居町にとって用土地区の行政上の立ち位置にも通じる所でもあって、やや複雑な気持ちにもなる、そんな参拝となった。



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用土諏訪大神社

 寄居町大字「用土」の地名由来としては2説あり、第1にはあまり肥えていない田に植える「モチダ」(糯田)の転化という説。第2は古くは淀(よど)村と称し坂上田村麻呂の蝦夷征定の折、土質の適しているのを賞し、ここの土を用いて土偶を作らせたことに因むという。
『新編武蔵風土記稿』の用土村の項には「村内に鎌倉古道あり、小前田村の方より入り、児玉郡八幡山町へ通ず」とあり、現在の埼玉県道175号小前田児玉線伝いがそのまま鎌倉街道上道であっと思われる。加えてこの道は江戸時代には川越から上州に抜ける、中山道の脇往還としても継続して使用されていた。
        
             
・所在地 埼玉県大里郡寄居町用土1695
             
・ご祭神 建御名方命
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 例祭10月第3土・日曜日
 用土諏訪大神社は東武東上線「用土駅」南側近郊に鎮座する。埼玉県道265号寄居岡部深谷線と同県道175号小前田児玉線が交わる「用土郵便局前」交差点から県道175号線沿いに北西方向100m程進むと社に到着できる。
 県道沿いでもあり、社務所もない。周囲には駐車スペースはないので、「用土郵便局前」交差点角地にはコンビニエンスもあり、そこに停めてから参拝を行う。
               
                用土諏訪大神社 社号標柱
        
                    正面鳥居
 
   鳥居を過ぎてすぐ右側にある神楽殿    鳥居の先、左側には「獅子舞」の案内板がある。

 町指定文化財 獅子舞               指定 昭和三七年一二月一日
                          所在 寄居町大字用土一六九五
 この行事は、江戸時代から始まったとする説があり、雨乞いや悪病流行の際に行われたほか、恒例としては、10月の第三日曜日とその前日に行われている。
 獅子舞の役所は、「アバレ」「オジイ」の二頭の男獅子と一頭の女獅子、「ササラ」二人、「笛方」「ほら貝吹き」各一人に、さらに観衆の中からおどけた面をかぶった「道化」が飛び入りで加わる。
 舞は「道中」「三拍子」「笹掛り」「花掛り」「まりあそび「橋わたり」「女獅子がくし」の七庭である。
 美しい笛、太鼓の音につれて勇壮な獅子舞とおどけた道化とが入り乱れて舞うさまは、いかにも村の祭りらしい情景である。 平成九年三月  寄居町教育委員会
                                      案内板より引用

        
                         明るい空間の中、参道先に拝殿が鎮座する。
          境内は広く、清々しく、手入れもしっかりとされている。
        
                        参道途中左側にある「諏訪神社改築記念碑」

 諏訪神社改築記念碑
 当神社は応和年間武州用土諏訪山に建御名方神を祀る社として創建された。以来地域の守護神として広く崇敬を集めてきたが、慶長の頃神社を護持する氏子崇敬者により現在地に遷座された。この間幾多の社会変動等困難な時局の中にあっても敬神崇祖の年に変わることなく、祭りの厳修をはじめ獅子舞その他数々の神賑行事を斎行してきた。元文五年に神殿を、明治二十九年に拝殿をそれぞれ改築した。その後長い歳月を経て社殿の破損が甚だしく、改築の機運が高まり、皇紀二千六百六十一年の吉き年をも記念して、氏子崇敬者の多数の寄進により改築を実施、平成十三年九月十六日めでたく完成、竣工遷座祭が厳かに斎行された。ここに諏訪神社改築記念碑を建立し概要を記して後世に伝う。
                                     記念碑文より引用

        
                                  拝 殿
 
          本 殿              社殿奥、右側に鎮座する境内社
                         左から手長神社、稲荷神社、稲荷神社

 諏訪神社  寄居町用土一六九五(用土村字下宿)

 当社は、用土の集落の一つである下宿に鎮座している。境内に接してかつての鎌倉街道が走る。この道は中世、鎌倉から武蔵国府を通り、上野・信濃・越後方面に至る主要道であった。
 社伝によると、坂上田村麻呂東征の折、その道々で兵を募り、軍を整えた。この時、当地からも多数の援軍が加わった。東征を終えて東山道から京へ上る途次、当地から参加した郎党は信州諏訪の地に土着した。その後、五代を経た孫が、故郷の当地に戻るに当たり、諏訪大神を勧請した。時に応和三年(九六三)のことであった。
 これとは別に、「当社は東使家の先祖によって同家の土地に祀られた」との口碑がある。系図によると、東使家の先祖は藤原鎌足の末裔で、東使政房の時に坂上田村麻呂の東征に従い、鎌倉期に至り常貞が鎌倉殿に仕え功績により鹿毛馬の御幕を賜る。更にその孫時仲が関東公方足利基氏に仕え、戦国期に入り後裔重政は川越夜戦に上杉方として参戦し、その孫重貞は鉢形城主北条氏邦の家臣となったとの伝承を有する。
 また、江戸期には名主役を務めていた。明治二十八年の「取調書」には「天正年中(一五七三-九二)弾正重貞当社ニ祈誓シ正ニ神徳アリ同十九年二月獅子三頭ヲ作リ当社ニ奉納シ現今保存有之」との記事が見える。ちなみに、同家は当社の北東に居を構え、その近くの御手洗池は氏子の耕作地を潤していたという。
                                  「埼玉の神社」より引用


資料参考・『新編武蔵風土記稿』「Wikipedia」等

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西古里矢弓神社

 岩松氏は、新田義重孫女と足利義康の孫義純との間に生まれた時兼が祖で、岩松郷(尾島町岩松)を本拠として岩松氏を名乗り、新田本宗家没落後、新田荘を支配するようになる。
 岩松満純(いわまつ みつずみ)は、室町時代前期の武将で、上野新田荘の国人領主。正平23/応安元年(1368年)に戦死した新田義宗のご落胤と云われ、本人もそのように自称した。幼名は容辻王丸、法名は天用入道。新田本宗家の血筋は義貞⇒義宗⇒貞方⇒貞邦と継続しているが、応永16年(1409年)722日、鎌倉七里ヶ浜で貞方・貞邦親子は共に刑死し、直系の新田本宗家の血筋はここで事実上断絶した。因みに新田義宗を実父とする説が事実ならば、貞方と満純は兄弟となるが、同母兄弟かどうかは不明。
 大里郡寄居町西古里地区に矢弓神社は鎮座している。新田氏一族の岩松直国が、当社参詣の際、新田義宗の遺児と出会い、その遺児を長子満国の嫡嗣岩松満純と名乗らせ、随一の弓取りとなることを願って矢弓神社と改号したともいう。
        
            ・所在地 埼玉県大里郡寄居町西古里124-3 
            ・ご祭神 日本武尊
            ・社 格 旧村社
            ・例 祭 春祭り417日、秋祭り1017

 西古里矢弓神社は本田八幡神社の南3.5㎞程、埼玉県道69号深谷嵐山線の道路沿いに鎮座している。鎮座地は県道に対して左側に面する高台にあり、駐車場は社の北西側で、社号標柱の手前に数台停められるスペースがある。当日は小雨が降る中での参拝となったが、風情もあり、事前には新田氏関連の社としての由緒等も確認していたので、厳かな気持ちで参拝に臨めた。
        
                                 西古里矢弓神社正面
             
               雨の為に濡れている社号標柱
      名前は似ているが、東松山市の箭弓稲荷神社とは直接関係は無いようだ。
 
   石段の先には鳥居があり(写真左・右)、その先に西古里矢弓神社社殿が見えてくる。
       県道沿いであるので、車両の往来は多いが、この空間は静か。
    参拝が夏時期でもあり、雑草等が多く、小雨の中湿度も高く、蚊等の小虫も多い。
        
                    拝殿覆堂
(男衾郡西古里村)弓矢明神社
 當村及び鷹巣村の鎮守にて、兩村の持なり、相傳ふ當社は往昔日本武尊東國下向の時、憩息の古跡へ當社を勧請す、其後岩松治部大輔直國、足利家へ仕へて、鎌倉へ往来の折から、去し頃討死せし武蔵守義宗の事など思ひ合せ、當社へ参拝して丹誠をこらせしに、折ふし前庭に女ありて、小童を抱て立り、是を問へば義宗朝臣の忘形見にて妾は朝臣に召仕はれし女なり、義宗朝臣去し頃、越後國村松の邊にて討死したまひしより、亂を避てこの山里に忍び住るよし答ふ、直國悦て上州に伴ひ歸り、生長の後己が嗣子として、岩松治部大輔満純と名乗しむ、是より社號を矢弓と號すと云々、村老の傳ふる所かくの如し、今岩松家系附考を按るに、新田義貞滅亡の後、新田の地に殘る所の同姓の内、岩松治部大輔直國、始て足利直義に仕へてより以来、尊氏に從ひ別て基氏へは昵近して屡加恩あり、直國の子岩松左馬介満國、相續きて好く基氏に仕ふ、其嫡子治部大輔早世して、養子治部大輔満純を以て名跡を立、此萬純實は新田武蔵守義宗の子にて、童名容辻王丸と稱す、今【鎌倉大草紙】に據て考ふるに左馬介満國は本新田一家の人なり、如何なる心にや敵方の義宗が子を竊に養ひ置しに、一子治部大輔早世の後、彼容辻王丸を己が實子と披露し、岩松治部大輔満純と號して、家を相續せしめしと云、已上の説によりて考れば、満純を養ひて嗣とせしは、直國のこ満國にて、直國にはあらず、是土俗の傳へ誤れるなり
                                 新編武蔵風土記稿より引用
      
 矢弓神社 寄居町鷹巣三五三(西古里字屋敷附)
 当社には、二つの由来がある。一つは『風土記稿』に述べられている。当社は日本武尊が東国下向の途次休息した地に勧請した。下って、新田氏一族の岩松直国が鎌倉へ向かう時、同族新田義宗の死を悼み当社に参詣した。すると境内に不思議にホ赤子を抱く女が現れたので、直国がその女の素姓を問うと「私は亡き義宗公の侍女で、この子はその忘れ形見です。戦を逃れてこの山里に身を潜めております」と答えた。直国は、この出合いを神の思召しと思い、侍女と赤子を上州に連れ帰り、赤子を自らの嫡嗣として岩松満純と名乗らせた。これにより、満純が随一の弓取りとなることを願い、当社を矢弓神社と号した。ただし、この話に登場する直国の嫡嗣満純は、実もう一つは『大里郡神社誌』に述べられている。
 創建は『風土記稿』と同様に日本武尊東征伝説により語られているが、社号は、新田義重がこの地で流鏑馬を行った際、用いた弓矢を当社に納めたことから矢弓神社と称するようになったとある。また、初めは鷹巣字明神の地に鎮座していたが、正保年間
(一六四四-四八)に西古里村の千野某と横瀬某の両氏が相計って西古里と鷹巣境に遷座し、更に明治四十年(実際は大正六年)に今の地に移転したといわれる際は直国の子満国の嫡嗣である。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
          社殿手前左側にある「肇国二千六百年聖地巡拜記念碑」
      
 岩松満純は『系図纂要』には、義宗と満国の妹との間に生まれたとあるが、前半生ははっきりとはわかっていない。兄に満氏がいたが、早くに亡くなったため、満純が岩松氏の後継となった。 後に犬懸上杉家出身で関東管領となる上杉禅秀の娘を娶る。応永23年(1416年)の上杉禅秀の乱では舅の上杉禅秀に味方し、鎌倉公方足利持氏追放に功績を挙げた。この際に義宗の落胤として新田姓を自称したという。
                                                    社殿から鳥居、参道方向を撮影

 しかし、翌年持氏が室町幕府の援助を受けて反攻してくると、新田荘に敗走した。しかし隣の佐貫荘の国人領主舞木持広の追討を受け、武蔵入間川の戦いに敗れて捕縛され、応永24年(1417年)に鎌倉の竜の口で斬首された。
 満純の動向に対して、父の満国は同調せず静観したままで、満純が処刑された後に、突如に満純の甥でもある孫の持国(満純の弟の満春の子)に家督を譲って、その後を継がせ、もうひとりの孫の家純(満純の子)は、祖父によって廃嫡された挙句に出家させられた。

 後に、家純は祖父の死後に6代目将軍の足利義教(義持の同母弟)の後盾を得て、還俗して勢力を持ち、岩松氏は家純流(礼部家)と持国流(京兆家)に分裂したという。


資料参考・「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」等

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今市兒泉神社

        
              ・所在地 埼玉県大里郡寄居町今市460
              
・ご祭神 木花開耶姫
              
・社 格 旧村社
              ・例 祭 不明
 埼玉県道69号深谷嵐山線を嵐山方面に進み、吉野川を越えた先のY字路を斜め右方向に進む。埼玉県道184号本田小川線に合流後、暫く道なりに直進し、関越自動車道を越えてから「今市地蔵」交差点を直進する。今度は埼玉県道296号菅谷寄居線に合流直後のY字路を斜め右方向に進むと、市野川に沿って続く道路があり、そのまま200m程進むと、今市兒泉神社鳥居が右手に見える。
 道幅は狭い道路の為、駐車スペースは周辺見当たらない。鳥居前の路肩がやや1台分ほど駐車できそうなので、そこに停めて急ぎ参拝を行う。
                          
               社号標柱      昭和56年建立の「今市地区土地改良記念碑」
        
                  今市兒泉神社正面
 地形を確認すると、市野川左岸は右岸に比べて標高が高い。右岸の平均標高は約78mに対して、左岸に鎮座する今市兒泉神社の標高は約86mと、一段高い場所にある。
 社の西側には舗装されていない掘割状の細い道(小道というよりは廃道のようである)があるが、嘗て鎌倉街道上道(かみつみち)に比定されている。また「今市」という地名は、嘗て鎌倉街道が主要街道だった時代、この市が立てられたことに由来するという。
        
                              鳥居より参道を望む。        
「今市地区土地改良記念碑」
 今市土地改良総合整備事業は、昭和五十四年八月地区関係者総意のもとに、農業近代化と市野川改修を合わせ実施する事を目的に発足した。地区内は道路用排水の不整備の上、狭い小田畑が多く、これらの悪条件の為生産性が極めて悪く、その上、毎年集中豪雨により厳しい災害に悩まされて来た。本事業の実施については、当地区では長い間の願望であった町の基本構想に基づき、男衾地区での土地改良事業第一号として、国県並びに町当局の積極的な指導のもと、地区内地権者、役職員一体となり、此の事業に取り組み、総面積四四.ヘクタールを改善、整備した。(中略)本事業の実施により、農業重労働から解放され、効率的で明るい近代的農業への脱皮に成功したことは、地域一同限りない喜びである。この歴史的な完成に当り、関係ご当局に対して謹んで感謝申し上げると共に、地権者一同の卓見とその共同精神をもたたえ、こヽに事業碑竣工を記念して記念碑を建立して末永く後世に伝えんとするものである。
                         記念碑文より引用  一部句読点は筆者で加筆
        
                奥深い森林が周囲を包む静寂な空間。参道の先に社殿が見える。
             
                参道途中左側にある記念碑
 神林取得記念
 男衾村今市字富士山一一八三番の二は村社兒泉神社の境内神社なる淺間社の旧境内引裂上地林なりしを大正六年十二月十四日拂下げの手續をなし農商務省より買受け七年一月七日兒泉神社基本財産として登錄するを得たり氏子等再び神林となりしを抃ち欣び協力して記念せん為めに花崗岩鳥居一基を建設し且事由を記して不朽に傳ふるものなり
                                      記念碑文より引用

        
                                         拝 殿
 児泉神社 寄居町今市五九九
 当地は、かつて鎌倉古道にあった宿駅の一つで、物資を江戸方面へは隣村の奈良梨村、上野方面へは赤浜村へ継ぎ送った。地名の今市は中世新たに設けられた市にちなみ名付けられた。現在、宿駅の中央には当社と高蔵寺が、宿駅の二つの入口にはそれぞれ地蔵堂・薬師堂が祀られている。また町並みの南西には物見山がある。
 社伝によると、当社は、物見山の尾根続きの地に、こんこんと湧き出る泉に坐す神を、児泉明神として祀ったことに始まる。また、口碑によれば、鎮座地は、初め明神台という地であったが、江戸期、別当を務める天台宗高蔵寺住職が、祭祀及び氏子の参拝の使を図り、寺の西一〇〇Mほど離れた現在地に社を移したという。明神台の地については、現在、どこを示すのか明らかでないが、物見山の麓の泉立寺近辺が、かつて湧き水がよく出た地であったことから、この辺りにあったことが考えられる。
 当社には、児泉明神の本地仏として十一面観音菩薩像が祀られていたが、化政期(一八〇四-三〇)に高蔵寺に移されている。現在、本殿には、白幣を奉安している。
『明細帳』によると、明治四十年五月に字冬住の冬住神社、字富士山の浅間神社、字天神原の天神社の無格社三社を合祀している。

                                   『埼玉の神社』より引用
 
 社殿手前左手に鎮座する今市兒泉神社境内合祀社(写真左)。左から手長神社、冬住神社、天満神社、稲荷神社、浅間神社、天照大御神。また社殿奥右側には石祠(同右)あり。詳細不明。


 ところで今市兒泉神社の北東近郊には「高蔵寺」がある。天台宗の寺で十一面観音菩薩像が祀られていて、嘗て児泉明神の本地仏として十一面観音菩薩像が祀られていたが、化政年代(180430)に高蔵寺に移されている。
 高蔵寺から東側近郊の地蔵堂に祀られてる地蔵様には「いぼとり地蔵」という昔話が伝わっている。

 約800年前源頼朝の妻、北条政子は行基菩薩の作といわれる6体の小さな地蔵尊を本尊とし、いつも持ち歩いていました。ある年、政子は病気になり、伊香保の温泉に湯治に出かけ温泉で病気が治り、近くのお稲荷さんにお礼参りをしていました。
その時ふと思いついたのが「自分のおでこにある大きなイボを取ってもらいたい」それから毎日お参りにいった満願の7日目のこと、大事にしてる6体の地蔵尊の1体が夢に出てきて、お告げをしました。「帰り道の鎌倉街道沿いの宿場町に桜の大木がある。その木で私と同じ姿の地蔵を彫れば、願いをかなえてやろう」って・・・。次の朝早く、鎌倉街道に急ぎ今市の宿の白坂の茶店で店の主人に尋ねました。「のう、主。この宿場に桜の大木はあるか?」。すると主人は「その先の地蔵窪にありますよ!立派な桜の大木が・・・。」と行って見るとそれは立派な桜の大木が・・・。
「これに間違いない」。政子は鎌倉から彫り師を呼び地蔵尊を彫らせた。その地蔵尊の胎内に自分の大事な地蔵尊を納め、地蔵堂を建てそこに祀りました。すると政子の大きなイボは跡形も無くなったのです。それから人々はこの地蔵尊を『いぼ取りの一体地蔵』と呼ぶようになったということです。今じゃ『子育て地蔵』とも呼ばれたくさんの白いよだれかけが壁に掛けられてるそうです。

 日本各地に「いぼとり地蔵」なるものが多数存在していて、1000か所以上とも言われている。不思議とお地蔵様の近くには「こんこんと湧き出る清水」があって、その清水の効能(?)により、いぼが完治するような説話が多くみられる。


 またこの地域は室町時代中期、同族同士が戦いを繰り広げた地でもある。この戦いは『長享の乱』と言う。長享元年(1487)から永正2年(1505)にかけて、山内上杉家の上杉顕定(関東管領)と扇谷上杉家の上杉定正(没後は甥・朝良)の同族の間で行われた戦いの総称である。この戦いの中に長享2年(14881115日武蔵国の現在の比企郡小川町高見・大里郡寄居町今市辺りで「高見原の合戦」と呼ばれる合戦があった。
 上杉定正(修理大夫・相模国守護・扇谷上杉家当主)が2000余騎を率いて、高見原へ出兵した。それを上杉顕定(関東管領・上野、武蔵、伊豆守護)が3000余騎の兵で対陣し、戦いは15日にも及んだが、顕定が敗れて山内上杉氏は鉢形城に敗走したという。
 今市地区には「首塚」という小字があり、『新編武蔵風土記稿』によれば、「村の北にあり、高二三尺の小塚にて、上に稲荷の小社あり、村民の持、此塚を掘ば髑髏多く出る故此名ありと云(中略)此塚は当時討死せしものの骸を、埋めたる印なるべし」と生々しく当時の惨状を「首塚」という地名で後世に残している。



資料参考・「埼玉の神社」「新編武蔵風土記稿」「Wikipedia」等
     

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