今市瀧尾神社
面積は関東地方で最大、全国の市でも岐阜県高山市、静岡県浜松市に次いで全国第3位となり、栃木県全体の約22%を占めている。
ところで体裁上、「日光市」という名称は残っているが、市町村合併後の日光市街とは、旧今市市の中心市街を指している。
筆者も知らなかったことだが、2006年3月、合併前旧日光市の人口は、16,301人で、同じ時期の今市市の人口(61,998人)と比べて少なく、また旧足尾町(人口3,220人)、旧藤原町(人口10,545人)、旧栗山村(人口1,916人)と、旧藤原町を上回る程度の人口規模だった。市町村の経済的な基盤は基本的には人口数で決まる。国際観光都市として「日光」は認知されている反面、旧日光市の人口は減少傾向にあり、「消滅可能性都市」のひとつに挙げられていたという。
どちらにせよ、新たな日光市の中心地域は紛れもなく今市地域であり、現在の日光市役所の西側に、嘗ての今市総鎮守である今市瀧尾神社がどっしりと鎮座している。
・所在地 栃木県日光市今市531
・ご祭神 田心姫命 大己貴命 味耜高彦根命
・社 格 旧今市総鎮守 旧郷社
・例祭等 節分厄除け祭 2月3日 例祭 4月第2土・日曜日
八坂祭 7月7日~14日
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.7253236,139.6862282,17z?entry=ttu
森友瀧尾神社から一旦南下し、国道119号線との交点である「森友」交差点を右折する。その後国道119号線を西行し、3.8㎞先の「今市小前歩道橋」に到着すると、ほぼ正面に今市瀧尾神社の立看板と社号標柱が見えてくる。地図を確認すると東武日光線・上今市駅の南側に位置し、社の南側に今市小学校がある。専用駐車場は神社左側にあり、十分なスペースが確保されている。古社の貫禄を醸し出している旧今市市の総鎮守である。
風格すら漂う今市瀧尾神社正面。
文化財の石鳥居が壮大にそびえ立つ。
『日本歴史地名大系』 での「今市市」の解説では、「県中央から西北寄り、日光山塊南東麓に広がる。北は塩谷郡栗山(くりやま)村・藤原町、東は同郡塩谷町・河内(かわち)郡上河内村、南は宇都宮市と鹿沼市、西は日光市。塩谷町との境界を鬼怒川が東流する。栗山村との境は赤薙(あかなぎ)山・大笹(おおざさ)山など標高1,000~2,000mの女峰(によほう)連山東端部にあたる。栗山・日光・今市三市村境界赤薙山(2,010m)が最高点で、市域は南東に下る一方の広い傾斜面にある。中央部は東へ横断して流れ鬼怒川に入る大谷(だいや)川の形成した今市扇状地、北部は女峰連山の東端から渓谷を流れて鬼怒川に入る板穴(いたな)川と、それに合流する小百(こびやく)川・砥(と)川のつくる狭い河岸段丘と扇状地。南東部は今市扇状地の南側面から湧水して南東へ流れ、鬼怒川へ合流する田川とその支流赤堀川などの形づくる河岸段丘、南西部は行(なめ)川の沖積小平野。気候は夏冬の気温差は大きいものの、七―八月でも平均気温摂氏21~22度と冷涼で、夏期には雷雨が多く、局地的豪雨や、降雹をみることもある。市域の60%は山林・原野で、農地は20%、宅地は三分足らずにすぎない。なおかつて市域西半は都賀(つが)郡、東半は河内郡に属していた」との地形多岐な特徴を解説している。
国道沿いに建つ今市瀧尾神社社号標柱
因みに「たきお」ではなく「たきのお」と読むそうである。
鳥居近郊に設置されている「今市瀧尾神社 案内碑」
今市総鎮守 瀧尾神社
御祭神 -大己貴命(大国主命)田心姫命 味耜高彦根命
天応二年(七八二) 勝道上人 日光二荒山(男体山)上に 二荒山大神を 祀ると同時に 当所 琵琶ヶ窪 笄の森に 之を祀るに始まる その後 人皇第百弐代 後花園天皇寛正元年(1460) 正月十五日改築 今日の神域整う。 明治十年七月 近郷十八ヶ村(現在の日光今市市)の郷社に列せらる。(以下略)
西方向に伸びている参道
国道沿いに鎮座しているにも関わらず、境内は静寂に満ちていて、とても穏やかな雰囲気の中、気持ちよく参拝することができた。正面には朱を基調とした神橋が見える。「叶願橋」という。
参道途中左右に祀られている石祠群・境内社(写真左・右)。左手にはお稲荷さんの狛犬があることから一基は稲荷社であろう。右側の境内社は不明。
参道途中にある手水舎(写真左)。手水舎には、花がたくさん飾られていた(同右)。
境内前に建つ二の鳥居。一の鳥居と共に市重要文化財である。
二の鳥居の左側にある案内板
日光市指定文化財 今市瀧尾神社石造明神鳥居
種 別・・有形文化財(建築物)
員 数・・二基
規 模・・「二の鳥居」棟高四〇〇センチ、棟間四一〇センチ
「三の鳥居」棟高二八〇センチ、棟間二三五センチ
材 質・・石造
建築年代・・未詳
旧瀧尾権現社の鳥居、制作年代については、鳥居そのものの表面がかなり風化しているために、刻銘が判読できず、特定できない。しかし、日光二荒山神社との関連などから、約四〇〇年~五〇〇年前と推定される。「二の鳥居」棟高四〇〇センチ、棟間四一〇センチ。
「三の鳥居」棟高二八〇センチ、棟間二三五センチ。鳥居の形式は、明神鳥居の典型で格調高い。また、鳥居上部の「貫」上下端切込面は類例を見ない。石材は地元大谷川から採取したものと思われる。
平成七年三月十日 日光市教育委員会
案内板より引用
重要文化財として指定されている鳥居は、「二の鳥居」「三の鳥居」と記されている。つまり当然「一の鳥居」があったはずである。どこにあったのであろうか。
重厚感のある拝殿
今市総鎮守 瀧尾神社 勝道上人 御創祀の古社
天応二年(七八二)勝道上人が日光二荒山上男体山に二荒山大神を祀ると同時に当社にもこれを祀るに始まる。その後、人皇百弐代後花園天皇寛正元年、正月十五日に改築、明治十年七月に近郷十八カ所(今の日光市の一部と今市)の郷社に列せられる。
例大祭は四月十四日に神輿を中心に氏子区内十八カ町を供奉、約二百五十人により盛大に執り行われる。また、この祭の期間には氏子町内の屋台の引回しがある。桜花が咲き誇る中、大鳥居前には山岡鉄舟筆の関東一の大幟が奉掲され、まさに春迎えの先駆けの祭りである。
また七月七日~十四日には当社、末社八坂神社の八坂祭が執り行われる。この祭りには関東一とも言われる神輿が氏子青年会多数の奉仕により奉舁され日光街道に御神威赫々、幻想幽玄の世界が現出し多くの氏子崇敬者に感動を与える。
「栃木県神社庁HP」より引用
拝殿前にある賽銭箱。神紋は「左三つ巴」。
社殿の左手前には、ご祭神の大己貴命(父・大黒さま)、田心姫命(母)、味耜高彦根命(子・恵比寿さま)の石像がある。
本殿。彫刻や彩色はなく、シンプルな造りである。
社殿左手奥には鳥居の先にある小さな石祠が一基。今市瀧尾神社の奥社という(写真左)。またその隣には木々に囲まれた中に境内社が並んで祀られている。天候も雨は上がったが、決して良いわけでもなく、また夕方でやや薄暗い参拝時間で、また境内社のある辺りは木に覆われ、少し独特な雰囲気を醸し出していた(同右)。稲荷神社・菅原神社・雷電神社・琴平神社・八坂神社・宇佐八幡宮・正八幡宮等。
静まり返った境内
*追伸
実は去年11月に家族旅行を兼ねて日光方面の神社を参拝したのだが、この「今市瀧尾神社」の掲載を忘れてしまい、今になって気づいて紹介した次第である。かなり唐突の登場となったことをお詫びしたい。
参考資料「日本歴史地名大系」「栃木県神社庁HP」「Wikipedia」「境内案内板等」等