野渡熊野神社
埼玉県深谷市上敷免地域にある「旧煉瓦製造施設」は、工場の一部として「ホフマン輪窯六号窯」「旧事務所」「旧変電室」が残り、専用線であった「備前渠鉄橋」とともに平成9年5月、国重要文化財に指定されていて、ホフマン輪窯は、深谷市の旧煉瓦製造施設ホフマン輪窯六号窯の他には、栃木県下都賀郡野木町、京都府舞鶴市、滋賀県近江八幡市にそれぞれ1基が現存するのみで、全国では4基しか残されていない貴重なものである。
この野木町煉瓦窯の300m程南側という近距離に野渡熊野神社は鎮座しているのだが、東側に隣接する光明寺と道路を挟んで社側の壁面には大正13年(1924)3月に野木町煉瓦窯で製造されたであろうレンガが道路沿いに南北に続いている。
・所在地 栃木県下都賀郡野木町野渡752
・ご祭神 伊弉諾尊
・社 格 旧野渡村鎮守・旧村社
・例祭等 例祭(ささら獅子舞) 4月15日 小祭 11月15日
神嘗祭 12月15日 他
*2025年1月21日参拝
栃木県野木町野渡地域は、渡良瀬遊水地の東側にあり、渡良瀬川とその支流である思(おもい)川の合流点南側に位置する。因みに「野渡」と書いて「のわた」と読み、古くは「野和田」と記していたという。
野木神社の一の鳥居がある栃木県道・茨城県道261号野木古河線を600m程南下した丁字路を右折する。この丁字路の左側にはコンビニエンスストアがあり、反対側には「曹洞宗 満福寺950m」と書かれた看板も見え、分かりやすい。右折後、800m程進んだ「光明寺」の西側隣に野渡熊野神社の一の鳥居が見えてくる。野木神社から直線距離にして1㎞程南西方向に当社は鎮座していて、比較的近距離に位置している。
野渡熊野神社 一の鳥居正面
『日本歴史地名大系』 「野渡村」の解説
渡良瀬川と思(おもい)川の合流点左岸に位置し、北は本野木(ほんのぎ)町、南は下総国葛飾郡古河町。古くは野和田と記したといわれる。中世には小山庄に含まれた。天文五年(一五三六)と推定される一一月二七日の小山高朝伊勢役銭算用状写(佐八文書)に上郷分として「のわた」とあり、伊勢役銭一貫三九〇文を負担している。
慶安郷帳では田七四石余・畑四〇四石余、ほかに満福(まんぷく)寺領二〇石。享保八年(一七二三)野木宿の定助郷となり勤高四七八石(「日光街道野木宿助郷帳」坂本重通文書)。
鳥居手前左側にある祭典日程を記した案内板 鳥居手前で右側にある由来を記した案内板
御祭神 伊弉諾尊
創立年月日 大宝三年(七〇三)と伝う
御由緒
紀州熊野の人 川島対馬 故ありて諸国を歴遊 当地に至りて 住居を定め 開墾して一村落を起こし次第に人口を増やしたるも 土地を鎮むる神社なきを以って 生国紀州なる熊野神社を分霊奉戴して此所に祀れるなりと
熊野神社祭典日程
三月十五日 事始めの祭
四月八日 出社祭
四月十四日 歸社祭
四月十五日 例祭
四月十六日 雹祈祷祭
四月二十五日 後祭
十一月十五日 小祭
十二月十五日 神嘗祭
各案内板より引用
南北に伸びる参道
参道途中に建つ二の鳥居 三の鳥居
しっとりと落ち着いた境内
栃木県野木町野渡は、嘗て「野和田」と記していたという。行田市の和田神社でも紹介しているが、一般的に「和田(わだ)」は各地に存在する地名である。「和田」は現在、縁起の良い漢字を使っているが、輪(わ)や処(と)が訛った「わた」が語源で、周囲を山で囲まれた小平地や河川の曲流部にあたる場所で、曲がっている田、輪のような地形の田、丸田から来ているという。昔の人は海や川が湾曲しているところを「わだ(輪処)」と呼んでいたことから、この地名がうまれ、こういう場所は港に適していたことから各地に存在するのはある意味当時の人々の共通の認識だったのだろう。
また「わだ(和田)」は「港・津」を意味し、「渡」にも通じているらしく、例えば昔の大阪には「わたなべのつ(渡辺津)」があり、いまは「渡辺橋」に名残りをとどめている。さらに、海や川に祈りを捧げる場所である「わたらい(渡会、度会)」の地名ともつながっており、三重県には伊勢神宮にまつわるその地名がいまも残っている。
それに対して、「野(の)」は、一般的に「平担な地形」と解釈するが、奈良時代以前には「奈良」の「奈」は「乃(な)」と書き、「野」も同義語で「な」と呼んでいた。日本書紀継体天皇二十一年条に「近江の毛野臣(けなのおみ)」とあり、一方、「和名抄」伊勢国度会郡田部郷を多乃倍(たのべ)と訓じていた。このように、乃(な)は、ノに転訛して後代に佳字の野(の)を用いたようで、海洋民の渡来集落を「野」と記したかもしれない。
拝 殿
『下野神社沿革誌』四巻四五丁
下都賀郡野木村大字大字野渡鎭座 村社 熊野神社 祭神 伊弉諾命 建物本社二間半四方 拝殿間口四間半奥行二間半 末社三社 氏子百四十八戸
本社は大寶三年三月の創立にして川島對馬の勧請なり
社傳に曰く 往古紀州熊野郷の人川島對馬(子孫今尚連綿たり)故ありて日本諸國を歴遊し下野の原野に至る 土地肥饒にして水運の宜しきを見て此土を開墾し泥濘を疎通し以て一の村落を起す 此時に當りて土地を鎭する神社なし 故に吾生國紀州熊野神社は氏神なるにより本社に到り自ら神璽に誓ひて御分霊を奉戴して土地鎭護の神と齋ひて祀りたる社にして累世閎村人民崇信して鎭守神とす 社域二千六百三十一坪宏寛の境を有し字神山の瀟洒の地に鎭す
本 殿
境内にある神興庫らしき倉庫
神輿や山車が納められているのだろう。
野渡のささら獅子舞
野渡の鎮守、熊野神社は約1200年前の文武天皇の大宝3年(703年)に紀州熊野から移されたといわれる由緒ある神社です。
この神社の祭礼として披露される「ささら獅子舞」は、今から500年前の古河公方足利成氏の時代に、病気などの魔よけや豊作を祈って始められたという伝承があります。
ささら獅子舞の行列は、毎年4月上旬に行なわれる春季大祭で、昔さながらの木ぐるまをつけた「山車」が、彩りも鮮やかに飾り立てた笠鉾を揺るがせながら先導します。
獅子舞の獅子頭をかぶる踊り手や棒や太刀使いはすべて小学生で、昔は長男が獅子に選ばれました。最近では、この地区の小学生の数が減少してきており、踊り手が不足しています。少子化の波は少なからず伝統行事にも影響を与えているようです。
「野木町観光HP」より引用
本殿奥に祀られている石祠・石碑等
左から羽黒山・湯殿山・月山、(?)、愛宕山・秋葉山、神明塚・帯屋塚
稲荷神社、(?)、伊勢太々御神楽講碑
参道右手側に祀られている境内社・大玖(大杉)大神(写真左・右)
大玖大神の石碑の台座にはレンガが使用されている。
境内社・神明宮
参道左手側で、二の鳥居と三の鳥居の間に祀られている境内社・浅間神社
境内は、笹林に覆われているので参道からは分かりずらいが、御嶽山大神・白龍神・冨士守稲荷神社等の石祠・石碑や、離れた場所には小御嶽神社石碑が祀られている。但し、浅間神社の左側奥にある古い建物は詳細不明。
境内にある二宮金次郎像 参道左側にある力石(石神)
「當村住人長澤久藏持之」と刻まれている。
一の鳥居から社殿方向を撮影
参道に沿って伸びる道との間には、高低差があり、その段差をレンガ壁にて補強・維持している。
既に100年以上も経っている今でも健在で、一帯趣ある風合いを漂わせている。
参考資料「下野神社沿革誌」「日本歴史地名大系」「深谷市HP」「野木町観光HP」
「ウィキペディア(Wikipedia)」「境内案内板」等
