古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

毘沙門山古墳

羽生駅東口を下りて北へ向かい、最初の踏切に差し掛かると、右手に鎮座する「古江・宮田神社」が見えてくる。社殿は小高い微高地上に建っているが、これこそ毘沙門山古墳、別名毘沙門塚と呼ばれる前方後円墳である。
 この古墳の概要は以下の通り
  ・ 
墳丘長63m
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後円部径35m・高さ4.5m
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前方部幅40m・高さ4.5m 
 
前方部を西に向ける2段構築の前方後円墳。明治36(1903)年東武伊勢崎線の路線敷設のため、前方部西側の一部が切り取られた。この工事中に埴輪片が発見されている。明治41(1908)年には、前方部墳頂に古江官田合殿社が移築された。墳丘の傍らに「建長八年丙辰二月二十七日」紀年の板碑があるが、これは横穴式石室の天井石を再利用したものと考えられる。埴輪の存在から6世紀後半の築造と考えられる。
所在地     埼玉県羽生市西1
区  分     羽生古墳群 県選定重要遺跡
埋葬者     不明
築造年代    6世紀後半(推定年代)

       
 毘沙門山古墳は羽生駅東口を下りて北へ向かい、最初の踏切に差し掛かると、右手に鎮座する「古江・宮田神社」が見える。社殿は小高い丘の上に建っていて、この丘全体が実は毘沙門山古墳、別名毘沙門塚と言われる古墳である。まさに街の中にある古墳だ。
 実は日頃自家用車で参拝を行っている筆者としては非常に困った事態がここでは発生してしまった。この近辺に車を停める適当な駐車スペースが全く存在しないことだ。いやあるとしても、この羽生市街地の内情に疎い筆者にとっては仕方なく周囲を探し回るしかない。一時は今回諦めようと思ったが、羽生市の歴史を語る上においてもこの古墳を外すわけにはいかないので探し回った。そのうちやっと毘沙門山古墳沿いにある埼玉県道128号熊谷羽生線を西に進むこと約500m先にコンビニエンスがあり、そこに駐車して参拝できた。やはり前準備は必要だと、今回の参拝で肝に銘じた次第だ。
           
                                            東武伊勢崎線近くから古墳方面を撮影 
  『埼玉の古墳』によると、毘沙門山古墳の規模は次の通りだ。
 「憤長六三メートル、前方部幅約四〇メートル、前方部高四・五メートル、後円部径約三五メートル、後円部高四・五メートル、前方部を西に向ける二段築成の前方後円憤」とある。また、築造年代は6世紀後半代と考えられて、かつてはもう少し規模が大きかったようだが、明治36年(1903)の東武鉄道の工事のために前方部の一部が削り取られてしまった。また、古墳のまわりには堀が巡っていたという。これは一重か二重かは不明。これも都市の開発と共に埋め立てられ、住宅がどんどん軒を連ねていきた。

●毘沙門山古墳
 
全長63m、高さ4.5m、後円部直径約35m、前方部を西に向ける2段築成の前方後円墳です。
 明治36年東武鉄道の線路敷設のため前方部西側の一部が切り取られ、その際に埴輪の破片が発見されました。築造年代は、埴輪から6世紀後半代と考えられています。なお、毘沙門山古墳の東南方の毘沙門塚古墳(「塚畑」と呼ばれていた所)から、昭和32年に円筒埴輪が発見されています。
                                                                                                     羽生市ホームページより引用

 この毘沙門山古墳は2つの区画に分けることができる。一つはこの古墳を含め、古墳上に鎮座する古江宮田合殿社の区画である。
                        
                                                                 
                     線路沿いにある古江宮田合殿社参道
 
                                                                                       
        前方部墳頂にある古江宮田神社社殿                    社殿内部の石祠群
                                                                                 この社殿は複数の社の合祀社でもある。
 そしてもう一つの区画は古江宮田合殿社参道の北側に入口があり、そこには一見神社風の毘沙門堂がある。もともとの毘沙門堂は建長8年(1256)に北条時頼が創建したものと伝えられている。現在の毘沙門堂は宝永3年(1706)に新築され、その後何回か改修を経たものという。
       
                     埼玉県道沿いにある毘沙門堂の看板
 

            毘沙門堂正面                 何となく拝殿、幣殿、本殿形式に見えてくる。

                                            
くびれ部裾には、どう考えても毘沙門山古墳の横穴式石室の天井石を利用したとみられる、緑泥片岩の板碑がある。

  埼玉県行田市にはさきたま古墳群の他、真名板高山古墳、小見真観寺古墳、八幡山古墳等古墳が密集している地域だが、その北西部に位置する羽生市にも古墳がたくさん存在していてなかなか侮れない勢力が存在していたと想像できる。
  また不思議と埼玉県北部熊谷市から羽生市にかけて、利根川流域南側の前方後円墳は毘沙門山古墳や、羽生市下村君地区にある永明寺古墳、さらに真名板高山古墳、小見真観寺古墳、少し離れた熊谷市奈良地区にある横塚山古墳等や上中条地区にある帆立貝式古墳である鎧塚古墳(主軸長43m)は全て主軸を東西の方向に向いている。(但し前方部が東西逆方向に向いている相違点はあるが)
 何かしら関連性があるのであろうか。
                              

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とうかん山古墳

  とうかん山古墳(とうかんやまこふん)は、埼玉県熊谷市箕輪にある前方後円墳である。東平台地上で標高24メートルの地点に築造された。墳丘は宅地造成によって一部変形しているが、同地に残された唯一形のわかる前方後円墳である。
 正式な発掘調査はされておらず、墳丘で採集された埴輪片から、6世紀中頃から後半の築造と推定されている。古墳名は墳頂にある稲荷社(おとうか様)や十日夜碑に由来する。
所在地   埼玉県熊谷市箕輪
区  分   平成元年(1989年)3月17日 埼玉県指定史跡
埋葬者   不明
築造年代  6世紀中旬から後半にかけて(推定)

       
 とうかん山古墳は冑山神社、同古墳から北へ2㎞位進んだ箕輪地区にある前方後円墳である。冑山神社は国道407号線沿いに鎮座しているが、その国道の東側に走っている埼玉県道257号冑山熊谷線を熊谷市方向に北上すると右側に吉見小学校があり、その手前にとうかん山古墳が見えてくる。
 このとうかん山古墳は箕輪地区の住宅地の中にあり、大きさが分かりずらい古墳だが、登ってみるとくびれ部もハッキリあって、比較的良好な形状を保ってると思われる。また
甲山古墳と築造年代も距離も近いことから、関連性が唱えられている古墳でもある。
          
                    前方部にあるとうかん山古墳の案内板
                                            
埼玉県指定文化財 史跡 とうかん山古墳             
 指定   平成元年3月17日
 所在   大字箕輪字北廓
 この古墳の名称は、墳頂に稲荷社(おとうか様)や十日夜碑があることから、とうかん山古墳と呼ばれています。
 古墳の形は前方後円墳であり、規模は、全長74メートル後円部の高さ5,5メートル、前方部の高さ6メートルです。時期については、発掘調査が実施されていないので明確では有りませんが、採集された埴輪破片から6世紀中頃と考えられております。
 かつてこの地域には沢山の古墳が存在しており、本古墳はその中心的古墳だったと思われます。現在では周辺の古墳は失われ幾つかが残るだけですが、その残された古墳の中でも本古墳は当時の原型をとどめていることで大変貴重なものと考えます。
 平成3年3月   埼玉県教育委員会 熊谷教育委員会
                                              とうかん山古墳案内板より引用
                                                                                         
          

 とうかん山古墳は東平台地上に位置している。この東平台地は荒川扇状地に形成された櫛引台地・江南台地とは直接連続しないが、ほぼ同時期に形成されたものとされる。東平台地は西方に広がる比企丘陵と南方は比企丘陵の残丘と考えられている吉見丘陵に挟まれ、東方の大里沖積地で区分される。台地頂部は比較的平坦で標高50~30mを測る。沖積地との比高は10~15mである。台地を構成する基盤層は灰色砂質泥岩と青灰色砂岩からなる土塩層と呼ばれる新第三期層に当たる。台地下から荒川までの東部沖積地は荒川低地の上流部にあたり大里低地とも称される。沖積地はかつての利根川・荒川および和田吉野川・通殿川により自然堤防と後背湿地が形成されたもので、場所によっては10m以上の礫層・粘土層・シルト層が厚く堆積している。台地下から荒川までの東部沖積地は荒川低地の上流部にあたり大里低地とも称される。沖積地はかつての利根川・荒川および和田吉野川・通殿川により自然堤防と後背湿地が形成されたもので、場所によっては10m以上の礫層・粘土層・シルト層が厚く堆積している。

 現在は低平な水田地帯となっている低地部には古代の大里条里帯が設定されており、可耕地としての整備が比較的早くなされた一帯であるが、後世の荒川等の乱流と新田開発などによりその実態はほとんど不明である。だが、ときには2m以上の下面から古代の遺構が確認される場合があり、大半の古代面は埋没しているとも想定される。

 ところでとうかん山古墳がある熊谷市箕輪地区は標高10m内外の台地を侵食した細長い谷に取り囲まれた低平な丘状の畑地に広がっている地域で形成されている。この「箕輪」の地名の由来を調べてみると川の曲流部や曲がった海岸などの半円状の台地のことで、つまり水の輪(=みのわ)に囲まれているような状態だそうだ。
 地名語源辞典(山中襄太著、校倉書房)に的確な表現があるので、引用してみる。
『箕という農具はヘリが深い弓形に曲がっている。その曲線を、箕輪、箕曲、と書いてミノワという。川、堤防、土手、道などが、そういう曲線になっているところをミノワという。弓のツルにあたるところを直線に通れないで、弓の曲線のところを遠まわりしなければならぬような場合、こういう地形は大きな関心を持たれて、こういう地名がつけられた』。三ノ輪、三輪、三野和、蓑輪、等とも書く。
 
そこから発展して、中世武士の居館を中心として、周囲に農民が居住して発展した集落のことを指すようにもなったという。


 不思議なことに行田市和田地区に鎮座する和田神社の「和田」も同様な意味があり、この「和田」は「輪+田」で川の曲流部内の平らな場所という由来があるそうだ。「和田」も「箕輪」の地名と同じく「輪」を共通とする地名ではないだろうか。



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和田神社

 一般的に「和田(わだ)」は各地に存在する地名である。「和田」は現在、縁起の良い漢字を使っているが、輪(わ)や処(と)が訛った「わた」が語源で、周囲を山で囲まれた小平地や河川の曲流部にあたる場所で、曲がっている田、輪のような地形の田、丸田から来ている。また、よい田、実りのある田、良田のこと。渓谷のやや広がった所を意味する。昔の人は海や川が湾曲しているところを「わだ(輪処)」と呼んでいたことから、この地名がうまれ、こういう場所は港に適していたことから各地に存在するのはある意味当時の人々の共通の認識だったのだろう。
 また「わだ(和田)」は「港・津」を意味し、「渡」にも通じているらしく、例えば昔の大阪には「わたなべのつ(渡辺津)」があり、いまは「渡辺橋」に名残りをとどめている。さらに、海や川に祈りを捧げる場所である「わたらい(渡会、度会)」の地名ともつながっており、三重県には伊勢神宮にまつわるその地名がいまも残っている。
所在地     行田市和田192
御祭神     大己貴命・少彦名命
社  挌     旧村社
例  祭     不明

       
 行田市和田神社は国道17号バイパス線を熊谷、行田方面に進み、上之(雷電神社)交差点を左折し、道なりに真っ直ぐ進む。ちなみにこの道路は埼玉県道128号熊谷羽生線で、熊谷市筑波交差点を起点として羽生駅東口交差点が終点の約15kmの県道で、国道125号バイパス線に並行して造られているのだが、上之(雷電神社)交差点から新道の合流交差点までの約930メートルの区間が、熊谷羽生線の指定を外されているという。もっともそれによって走行上は何も影響はないことなのだが、和田神社のルートを説明する際に細かく説明すると厄介なので前置きをさせていただいた。
この埼玉県道128号線は南側には国道125号バイパスがあり北側には忍川が流れ、和田神社付近まで丁度この間を並行している格好になっている。
 とにかくこの埼玉県道128号線を道なりに真っ直ぐ進むと約10分くらいで左側に和田神社の社号標が見えるT字路があり、そこを左折すると、正面突き当りに和田神社の鳥居が見えてくる。
     
      県道128号線上、左側にある社号標         真っ直ぐ進むと和田神社一の鳥居がある。
           
                            和田神社正面
           
                      一の鳥居のすぐ先にある二の鳥居
 和田神社の創建年代は不詳だが、江戸時代には蔵王社と称していたという。明治維新後御嶽神社と改称、明治2年には村社に列格、明治41年には和田村内の八坂神社(伊森明神社)を合祀したという。関東大震災により全壊、和田地区の中心にあたる当地に遷座・再建したとのことだ。
             
                             拝    殿
 この和田神社が鎮座する和田地区は忍川が起点である熊谷市平戸から東へ向かって流れ、行田市の市街地を経由し、秩父鉄道を横断した付近から流路を南へ変え、最後は吹上町袋で元荒川の左岸に合流するのだが、その曲流部の南側に位置している。まさに「和田」という地名にピッタリな地形だ。 
           
                             本    殿
              よく見ると本殿のすぐ先、つまり北側に忍川が流れている。
和田神社 由来
 和田はかつて条里制水田が広がっていた地域で、現在も水田の中に位置する。
 「風土記稿」和田村の項には「伊森明神社 村の鎮守とす。宝珠院持。蔵王社 同持。宝珠院 新義真言宗、上之村一乗院末、和光山と云、本尊地蔵を安ず」と載せ、このうち「蔵王社」が当社であり、往時、蔵王権現と称していたという。
 明治初めの神仏分離により寺の管理を離れ、社名を御嶽神社と改め、明治二年に村社となった。同四一年、字北屋敷の八坂神社及び境内社八幡社を合祀し、社号を和田神社と改めた。八坂神社は「風土記稿」に載る「伊森明神社」である。
 大正一二年の震災により本殿・幣殿・拝殿が全壊したため、これを機に従来の社地が偏狭なことから、和田の大地主竹田恒太郎所有の地が和田の中心地であるとして、この地を求め大正一四年社殿を新たにし一段と尊厳を加えた。この移転及び造営のために要した費用は七千八百円余りといわれ、氏子一同がこの再建に尽くした並々ならぬ熱意がうかがえる。
本殿は一間社流造りで、大己貴命・少彦名命の二柱を祀る。
                                          埼玉県神社庁「埼玉の神社」より引用
 
    拝殿の左側にある石祠、石碑(写真左)、そして本殿の右側奥にひっそりとあった石祠(同右)
                          どちらも由緒不明だ。

 日本は大昔から山や川等の自然や自然現象を敬い、それらに八百万の神を見い出す多神教国家だった。それ故に西洋国家のように「自然を支配する」ことを嫌い、「自然の造形美」を人間の手によって造りだし、左右対称性、幾何学的な池の配置や植栽の人工的整形などを特徴をもつ「西洋的庭園」方式をせずに、その土地の気候や風土にあった仕事や家づくりをするなど、自然と生活が互いの一部として存在していて、自然に人の営みが加わることがそのまま美しい景観になっていた。
 それは地名にも当てはまり、自然との共生から培った古代の人々の知恵からくるものだったのだろう。この「和田」という地名一つとってみてもそれが分かるものだ。埼玉県には行田市和田以外にも「和田」のつく地名は意外と多い。

 最後に埼玉苗字辞典にも「和田」について以下の記述があり、それを紹介したい。

和田 ワダ 綿(わた)・和田(わた)は、海(ばた、はた)の転訛にて、海(あま)族居住地を称す。ベトナムから中国雲南省附近に居た海洋民は黒潮暖流に乗って沖縄・九州・太平洋岸へ、また中国沿岸部や朝鮮半島・日本海岸へ土着した。海洋民のことはウツミ・コシ・斎藤・鈴木・秦・渡辺等参照。先代旧事本紀巻一陰陽本紀に「伊弉諾、伊弉冉の二尊、海神(わたつみのかみ)を生む。名は大綿津見神(おおわたつみのかみ)」とあり。大綿津見神の子宇津志日金折命は別名穂高見命とも云い、安曇族の祖神なり。此の海神は慶尚南道釜山港附近にあった委陀(わだ)・和多から渡来す。金官・須奈羅は今の金海。背伐(はいばつ)・費智(ほっち)・発鬼(ほっき)は今の熊川。安多(あた)・多多羅(たたら)は今の多大で、四村(村は今日の郡程度)は対馬海峡・朝鮮海峡に面した南加羅の地である。日本書紀継体天皇二十三年条に「新羅は四村を攻略す、金官・背伐・安多・委陀、是を四村とす。一本に云はく、多多羅・須奈羅・和多・費智を四村とするなりといふ」。敏達天皇四年条に「新羅は、多多羅・須奈羅・和陀・発鬼、四村の調を進る」と見ゆ。南加羅の和多村の渡来人集落を和田と称す。
○男衾郡折原村字和田及び立原村字和田(寄居町)は古の村名にて、今の寄居運動公園附近なり。鉢形古城跡内郭案内記に「武州鉢形の古城跡追手は立原村也、続て諏訪の神社あり、此社の南堀の上に御金倉と言所有是なり、北の方は和田村なり鉢形へ通る小路あり、和田坂の東に巻渕あり」と。鎌倉浄光明寺嘉慶三年文書に浄光明寺領武蔵国男衾郡内和田郷事、応永二十七年文書に武蔵国男衾郡内和田郷、享徳二年文書に武蔵国男衾郡和田郷と見ゆ。和名抄の男衾郡幡郷の地か。
○秩父郡下飯田村字和田(小鹿野町)は、平村慈光寺元禄八年棟札に「和田村、飯田村、須々木村」と見ゆ。元応二年丹党中村文書に「秩父郡三山郷小鹿野の和田の屋敷一所」と見ゆ。下飯田村は小鹿野村より分村す。
○那賀郡中沢郷駒衣村字和田(美里町)は、丹波国中沢文書に「明徳元年、武蔵国中沢郷内和田村藤三郎入道在家・同田一町・同名々寺の事」。「永正四年、武蔵国中沢郷内和田村藤三郎入道有宗同田一町の事」と見ゆ。
○高麗郡脚折村字和田(鶴ヶ島市)は古の村名にて、天正二年白鬚社棟札に「白鬚大明神七ヶ村惣社、臑折、太田ヶ谷、針宮、和田、高倉、大六道、小六道」と見ゆ。
○大里郡和田村(熊谷市)、入間郡入西領和田村(坂戸市)、越生郷和田村(越生町)、埼玉郡和田村(行田市)あり。
○小名和田は、葛飾郡神間村、埼玉郡久喜町、足立郡大牧村、入間郡上谷村、高倉村、二本木村、下安松村、高麗郡平沢村、栗坪村、高倉村、比企郡玉川郷、上古寺村、横見郡御所村、幡羅郡弥藤吾村、秩父郡久長村、河原沢村、下吉田村、長留村、日尾村、日野村、薄村、横瀬村、中野上村、下名栗村等にあり。また、葛飾郡花和田村、宇和田村、足立郡大和田村、新座郡大和田町、入間郡箕和田村、横見郡大和田村、児玉郡沼和田村等あり。此氏は海岸部の常陸国、海神安曇族の渡来地信濃国に多く存す。

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立原諏訪神社及び鉢形城

  神社に参拝すると度々「○○の氏神様」とか「○○鎮守様」という看板等を見かけることがあり、いつも不思議に思うことがある。氏神と鎮守様は何がどう違うのだろうかと。これに産土神(うぶすなかみ)が加わると厳密な線引きが非常に難しくなり、浅学な筆者の頭の中は混乱をきたしてしまう。
 辞書やインターネット等で調べると、本来の氏神は古代にその氏人たちだけが祀った神であり、そのほとんどが祖先神であったようだ。また産土神はその土地の本来の守護神であり、その地を生んだ神様であるに対して、鎮守神は、氏神や産土神等の祖先神や地主神を押さえ込み、服従させるために新たに祀られた神であるそうだ。つまり鎮守様(鎮守神ともいうが)が人間がある土地に人工物を造営したとき(荘園や寺院、城郭等)、その土地に宿る神霊が人間や造営物に対して危害を加える祟りを起こさせないように、その地主神よりも霊威の強い神を新たに勧請してその土地を守るために祀った神であり、室町時代の頃に荘園制が崩壊すると信仰は衰退し、氏神に合祀され今日に至っていることが多い。
  そういう意味では現在において氏神、産土神、鎮守神は同じ意味で扱われることになったが、「「○○鎮守様」などと書かれているとついそこへ行ってみたくなるのは深層心理を突いたなかなかずる賢い一手だとふと最近思うこともある。だからと言っていやな意味ではないが。
 今回取り上げる立原諏訪神社は鉢形城の一郭に守護氏神として信仰された社故、今回氏神や鎮守様などについて感じていたことを冒頭で取り上げた次第だ。
所在地     埼玉県大里郡寄居町立原2701
御祭神     建御名方命 誉田別命
社  挌     不明
例  祭     不明
                       

 立原諏訪神社は鉢形城の三の曲輪、通称秩父曲輪の外郭に位置し、神社の敷地内全体も諏訪曲輪とも大手馬出しにあたるとも言われており、城の西南部を形成していて周囲には藪化しているものの、空堀、土塁等の遺構がよく残っている。
 この社の創建は戦国時代末期、武蔵国日尾城(埼玉県小鹿野町)の諏訪部遠江守が北条氏邦の家老として出仕した時に信濃国にある諏訪神社を守護氏神として分祀、奉斎したと案内板に記されている。
 ちなみにこの諏訪部遠江守は諏訪部氏の家系であり、諏訪部氏は清和源氏満快流で信濃源氏の一族であり、当時から信濃国を中心に武士から武門の神として御諏訪様は深く信仰されていた。

 
                   社の東側にある社号標                   参道を進むと正面に鳥居がある。
 

  鳥居を過ぎると右側に大黒天や石祠等がある。              元諏訪神
           
                             拝    殿
  
       拝殿の手前で左側にある天手長男神社                    拝殿の近くには案内板がある。
諏訪神社
 諏訪神社は、武州日尾城主(小鹿野町)諏訪部遠江守が鉢形城の家老となって出仕したとき、信州にある諏訪神社を守護氏神として分祀奉齋しました。
 やがて天正十八年(1590)鉢形城の落城により、この近辺から北条氏の家臣たちが落ちていき、人々も少なくなりました。しかし城下の立原の人たちは鎮守様と崇敬し、館の跡を社地として今日の神社を造営したものです。
 本殿は宝暦年間、その他の建造物は天保年間に造営されていて、年に三度の大祭を中心に、人々の心のよりどころとなっています。
 なんどかの台風にあいましたが、空堀御手洗池に深い面影を落している欅の大木は、400年にわたる歴史の重みを語りかけているようでもあります。
 祭神は建御名方命、相殿に誉田別命が祀られています。これは明治42年萩和田の八幡神社が合祀されたものです。
                                                       案内板より引用                                     

 


鉢形城
 寄居町は荒川の扇状地の楔(くさび)に位置していて交通の要衝でもあり、また歴史的に見ても多くの文化遺産を有する魅力的な町である。中でも鉢形城を外すことはできない位有名な城で、「日本100名城」にも掲載されている。
所在地     埼玉県大里郡寄居町鉢形2496-2
区  分     国指定史跡
城郭構造    連郭式平山城
築城年、主   文明8年(1476) 長尾景春
主な城主    長尾景春 上杉顕定 北条氏邦
           
 鉢形城(はちがたじょう)は、埼玉県大里郡寄居町大字鉢形にある戦国時代の城跡であり、構造は連郭式平山城。現在は国の史跡に指定され、鉢形城公園(はちがたじょうこうえん)として整備されている。園内には鉢形城歴史館(はちがたじょうれきしかん)が建てられ、往時の鉢形城の姿を紹介している。
 鉢形城は、深沢川が荒川に合流する付近の両河川が谷を刻む断崖上の天然の要害に立地し、その縄張りは唯一平地部に面する南西側に大手、外曲輪、三の曲輪(三ノ丸)の三つの郭を配し、両河川の合流地点である北東側に向かって順に二の曲輪(二ノ丸)、本曲輪(本丸)、笹曲輪と、曲輪が連なる連郭式の構造となっている。搦手、本丸、二ノ丸、三ノ丸および諏訪曲輪には塹壕をともない、また北西側の荒川沿岸は断崖に面する。
 初めて鉢形城を築城したのは関東管領山内上杉氏の家臣である長尾景春と伝えられている。その後、小田原の後北条氏時代に北条氏邦によって整備拡張され、後北条氏の上野国支配の拠点となった。その後、下野国遠征の足がかりともなったが、その滅亡とともに廃城となった。
 関東地方に所在する戦国時代の城郭としては比較的きれいに残された城のひとつと云われ、1932年、国の史跡に指定された。1984年からは寄居町による保存事業が開始された。現在は鉢形城公園として整備され、鉢形城歴史館が設置されている。
           
                       鉢形城のすぐ北側にある荒川。
                断崖の地形は今も昔もそれほど変わらなかっただろう。

 鉢形城の始まりは、1473年6月、山内上杉氏の家宰であり、同家の実権をふるった長尾景信が古河公方足利成氏を攻める途中、戦闘は優位に進めたものの景信自身は五十子において陣没した。長尾家の家督を継いだのは景信の嫡男長尾景春ではなく弟長尾忠景であり、山内上杉家の当主上杉顕定も景春を登用せず忠景を家宰とした。長尾景春はこれに怒り、1476年、武蔵国鉢形の地に城を築城し、成氏側に立って顕定に復讐を繰り返すこととなる。
 その後上杉家の城として栄えた。室町末期、上杉家の家老でこの地の豪族であった藤田康邦に、小田原の北条氏康の四男氏邦が入婿し城主となった。北条氏邦は城を整備拡充して現在の規模にし、北関東支配の拠点および甲斐・信濃からの侵攻に対する防備の要とした。しかし、天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻めの際、前田利家、上杉景勝らに包囲攻撃され、一ヶ月の籠城の後、北条氏邦は城兵の助命を条件に降伏・開城した。その後、徳川家康の関東入国に伴い廃城となった。
           
                            鉢形城俯瞰図
 この城の最大の特徴はその立地にある。鉢形城は、深沢川が荒川に合流する付近の両河川が谷を刻む断崖上の天然の要害に立地し、その縄張りは唯一平地部に面する南西側に大手、外曲輪、三の曲輪(三ノ丸)の三つの郭を配し、両河川の合流地点である北東側に向かって順に二の曲輪(二ノ丸)、本曲輪(本丸)、笹曲輪と、曲輪が連なる連郭式の構造となっている。搦手、本丸、二ノ丸、三ノ丸および諏訪曲輪には塹壕をともない、また北西側の荒川沿岸は断崖に面する。
 
     二の曲輪から三の曲輪方向を撮影             二の曲輪の南側にある馬出
鉢形城の歴史
 
鉢形城跡は、戦国時代の代表的な城郭跡として、昭和7年に国指定史跡となりました。指定面積は約24万㎡です。
 城の中心部は、荒川と深沢川に挟まれた断崖絶壁の上に築かれていて、天然の要害をなしています。この地は、交通の要所に当たり、上州や信州方面を望む重要な地点でした。
 
 鉢形城は、文明8年(1476)関東管領であった山内上杉氏の家宰長尾景春が築城したと伝えられています。後に、この地域の豪族藤田康邦(やすくに)に入婿した、小田原の北条氏康(うじやす)の四男氏邦(うじくに)が整備拡充し、現在の大きさとなりました。関東地方において有数の規模を誇る鉢形城は、北関東支配の拠点として、さらに甲斐・信濃からの侵攻への備えとして重要な役割を担いました。
 また、鉢形城跡の周辺には、殿原小路や鍛冶小路などの小路名が伝わっており、小規模ながら初期的な城下町が形成されていたことが窺えます。
 
 天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めの際には、後北条氏の重要な支城として、前田利家・上杉景勝等の北国軍に包囲され、激しい攻防戦を展開しました。1ヶ月余りにおよぶ籠城の後、北条氏邦は、6月14日に至り、城兵の助命を条件に開城しました。
 開城後は、徳川氏の関東入国に伴い、家康配下の成瀬正一・日下部定好が代官となり、この地を統治しました。
                                                       案内板より引用                                                                                          
           
 

 関東地方に所在する戦国時代末期の城郭としては比較的きれいに残された城のひとつと云われ、1932年(昭和7年)、国の史跡に指定された。1984年(昭和59年)からは寄居町による保存事業が開始され、現在は鉢形城公園として整備され、鉢形城歴史館が設置されている。



 ところで余談になるが寄居町折原には壱岐天手長男神社(あめのたながおじんじゃ)が鎮座している。この社は先祖が壱岐よりこの地に土着した折に、壱岐の天手長男神社を勧請したものと伝えられていて、地元では「お手長さま」と呼ばれているという。同町小園にも壱岐天手長男神社があり、こちらはその分社らしい。
 この社の総本社は長崎県壱岐市郷ノ浦町にある壱岐天手長男神社であるが、「鉢形山」、または「鉢形嶺」と呼ばれる古くより神奈備山として信仰の対象になっていた山上に鎮座している。「鉢形山」と「鉢形城」と全く同じ地名だ。

 寄居町の「鉢形城」の名前の由来は幾つかあり、以下のようである。
1 「円錐形の山」で文字通り鉢の形を見たてた名称とされる(『地名用語語源辞典』)。
2 ハチはハシ(端)の転で台地のヘリの意となって崖地を指すとし、形[かた]は 「方」で、すなわち、方向・場所の意となる。鉢形(本田)の西部には谷津が走り、また反対側 の東方にも、二流の浸食谷が鉢形の北東部で合流して、台地(鉢形中坪)を大きく湾曲しながら 南下し、鉢形の南突端で西流の谷津と合流するなど、谷、崖、湿地に関連する地形、流れが多数 あって鉢形はそれらに囲まれた台地上にある。
3 鉢は、仏具の応器(応量器)のこととされる。それは、僧が托鉢[たくはつ]の時に 使う鉢のことを言い、僧尼が玄関先で経文を読み、布施される米やお金を受け取る時の器をいう。

 対して壱岐天手長男神社の「鉢形山」の由来は、神功皇后が朝鮮出兵の折、兜(かぶと)を鉢(境内地)に治めて、戦勝を祈願したことからこの名がついたといい、何となく寄居町の「鉢形城」と同じようにも思える。壱岐島という武蔵国から大変離れた場所ながら同神社は寄居町小園地域や深谷市萱場地方にもあり、別名天手長男神社として境内社、末社まで含めると埼玉県北部には思った以上に存在し、当時の海上による交流が我々が考えている以上に豊かだったのではないかと考える。

 この壱岐島の「鉢形嶺」と寄居町の「鉢形城」、はたして名前の一致は偶然なのだろうか。



                                                                                                       

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下忍神社

 
 下忍神社が鎮座する行田市下忍地区は、その昔、忍城の下(外れ)といい戦国時代以前からの名称であったそうで、口碑には「下忍の地名の下は、上(殿様)に対するもので、当地は武士が住んでいたところから、忍城に対して下忍と呼ぶようになった」とある。
 この「忍」という地名は戦国時代以前よりかなり古くからこの地方で使用されていたようだ。その由来として忍は磯辺(オシベ)の転化とか、鴛(オシドリ)がすんでいたからであるといわれ、河川や沼地が多かったこの地らしい口伝がある。また文献上では鎌倉時代の東鑑という本に忍五郎、鴛三郎が活躍していることが出ているから、その当時から用いられていたのだろう。そして1050年頃、忍氏がこの地域を開拓し、「忍荘」として交通の要路となったと言われている。
 またこの社は古くから久伊豆社と称して鎮座していたと伝えられ、旧下忍村の鎮守となっていた。明治2年村社に列格、高畑の塞神社、東谷の天神社をを合祀、明治42年に下忍神社と改称、さらに同年中京田の山神社、高畑の琴平神社を合祀したといわれる。
所在地   埼玉県行田市下忍1160
御祭神   大己貴命
社  挌   旧村社
例  祭   不明
 

         
 下忍神社は下忍愛宕神社から埼玉県道148号騎西鴻巣線を北方向に進む。道なりに進み、途中県道と別れる変則的な十字路を直進する。そのまま北上すると4,5分くらいで左側に下忍神社が鎮座する場所に到着する。駐車スペースは神社の南側にあるのだが、入口付近は鎖で塞がれていていたので、北側に路上駐車して急ぎ参拝を行った。
            
                            下忍神社 正面
 
            右側には手水舎                                           拝殿の手前にある力石
           
                              拝    殿
 
  拝殿上部にある「久伊豆神社」と書かれた扁額                拝殿内部
           
                             本    殿
下忍神社の由来 
 「武蔵志」には「下忍、境地ノ南ニテ士町足軽町アリ」と載せ、口碑には「下忍の地名の下は、上(殿様)に対するもので、当地は武士が住んでいたところから、忍城に対して下忍と呼ぶようになった」とある。
当社の創始は、口碑に「下忍神社は晋、久伊豆社と呼んでいた。久伊豆社は武蔵七党の一つ私市党の氏神で、私市城の鎮めに祀った社である」というが、私市城との関係は明らかにできない。また「明細帳」には「昔ヨリ下忍村上組総鎮守ト仰キ云々」とあり、「風土記稿」には「久伊豆社 村の鎮守とす、明光寺持」と載せている。
 明治初めの神仏分離により寺の管理を離れ、明治2年に村社となり、同3年高畑の塞神社を境内に合祀し、同42年には東谷の天神社を本殿に合祀して、社号を下忍神社と改める。更に、同年中京田の山神社、高畑の琴平神社を境内に合祀する。
合祀社のうち塞神社は、古くは道六神と称し、既に「慶長13年検地水帳」(島崎隆家所蔵)にその名が見えることから古社であることが分かる。また、琴平神社は、旧別当明光寺の本山、行田遍照院の金毘羅大権現であり、神仏分離により下忍飯田萬吉家に移され、次いで当社に合祀したものである。内陣に、「弘化四年開眼供養」の墨書がある金毘羅権現像(24cm)を安置している。
                                         埼玉県神社庁 「埼玉の神社」より引用

 この下忍神社の隣には明治2年に合祀した高畑の琴平神社が二社並列という形で鎮座している。
          
                        合祀社 琴平神社正面
            
                           琴平神社 拝殿
 

   下忍神社と琴平神社の間にある石祠群        琴平神社の拝殿手前にある「新川早船絵馬」 
                                               の案内板
新川早船絵馬
  本絵馬は明治6年に琴平神社に奉納されたもので、江戸時代から明治初頭頃にかけて賑わった新川河岸に関わる人々が奉納したものである。
絵師は岩田霞岳で、中央には早船の様子、左上には河岸問屋の様子が描かれ、下半部には奉納者の名前と国・村名が列記されている。当時の荒川舟運や新川河岸の様子、金比羅信仰の様相等を示す貴重な資料である
                                           行田市教育委員会掲示板より引用
   
 この絵馬は、明治6年(1873)に琴平神社(下忍神社境内)に奉納されたもので、作者は絵師の岩田霞岳(かがく)、願主は芝崎鉄五郎です。桐板6枚を繋げて造られ縦77.5cm、横104.7cmの額装です。新川とは新川河岸(かし)の事で、寛永6年(1629)の荒川開削以降に開かれ、主に忍藩の年貢米や御用荷物の運送で賑わいましたが、鉄道の開設により衰退し、大正末頃には消滅してしまいました。
 画面中央には早船の様子、左上には河岸問屋の様子が描かれており、船、問屋の家屋、波頭が見事な筆致で描かれています。下半部には本絵馬の奉納者の名前と国・村名が列記されていますが、その構成は埼玉県の外、栃木、千葉、茨城、群馬県にまで及んでいます。奉納者は、問屋仲間や船頭仲間として新川河岸とつながりのあった者と考えられ、彼らが商売繁盛と航行の安全を祈願して、船運の神として信仰されていた琴平神社に奉納したものと思われます。当時の船運、新川河岸の様子や金比羅神社信仰の様相を示す貴重な資料です。
                                           行田市教育委員会掲示板より引用

 新川早船絵馬は荒川の新川河岸の様子を描いた絵馬であり、行田市指定文化財(歴史資料)となっている。
 新川河岸とは現在の熊谷市久下付近の荒川に明治初期まであった、河岸場(やっちゃば、舟運の荷降しのための中継所)である。荒川からはかなり遠方である下忍村にまで、舟運関係者が在住していたようで、この絵馬は当時の新川河岸の規模の大きさと賑わいぶりを示している。

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