古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

小茂田北向神社

 美里町小茂田地区は美里町の北部に位置している。美里町は南北に細長くやや長方形を示していて、中央部以北は平坦地で、南部にいくに従って高度を増し、ゆるやかな傾斜をなしている。南部山間地帯は標高100~500mに位置し、小茂田付近では標高60m程であり、畑及び水田はほとんどこの地域に分布している。地形をみると、秩父山地の山脚が北東の方向にのびて山地帯(標高150m以上)を形成し、さらに丘陵地帯(標高100~150m)・低地帯(標高100m以下)と大別することができる。秩父山地と関東平野とは、八王子構造線と呼ばれる断崖線(標高150m内外)ではっきり境されている。
 美里町の丘陵地帯は、山麓地帯やそして町の東部を北東から向かい諏訪山から山崎山にかけて走り、さらに、北西部には生野山から朝三山の間にかけてのびている。このことから小茂田地区を含む中央部から北部の低地帯は、南部は八王子構造線、北部は深谷本庄断層線によって境され、東西は丘陵によって囲まれ、盆地上低地帯を形成している。それ故に内陸性の気候の特徴をもち、夏は蒸し暑く、冬は乾燥し、湿度が低くなり、晴れの日が多く「からっ風」と呼ばれる北西の季節風が吹く。そんな小茂田地区の小高い場所の一角に小茂田北向神社は鎮座している。
所在地    埼玉県児玉郡美里町小茂田4-1
御祭神    大巳貴命、素盞嗚命、少彦名命
社  挌    旧村社、旧小茂田村鎮守
例  祭    春例祭4月5日、秋祭り10月15日
        
 小茂田北向神社は埼玉県道31号本庄寄居線と埼玉県道75号熊谷児玉線が交差する阿那志交差点を本庄方向に北上し、関越自動車道を過ぎた下十条交差点を右折するとすぐ左側に緑に囲まれた社叢が見える。周囲は田園地帯ながら、この社の周りだけ若干小高い丘陵地となっていて、その上に鎮座している。
            
                        小茂田北向神社一の鳥居
                  境内は綺麗に整備されていて、立派な神社。

        参道左手にある小茂田池               参道には比較的広い空間が広がる。
 延暦15年(796)7月に坂上田村麻呂が創建したと伝えられる五社(沼上北向神社・阿郡志河輪神社・北十条北向神社・小茂田北向神社・古郡北向神社)ののうちの一社と比定されている。江戸時代には小茂田村の鎮守社となっていた。明治40年に近在の神社を境内に遷座したという。
           
                               拝  殿

           拝殿前にある由来書                                                拝殿内部
北向神社 由緒書
北向神社は、古代から小茂田地区の鎮守様であるとともに、「北向様」と呼ばれて、近在近郷の人々からも広く崇敬されてきました。
 社伝によりますと、桓武天皇の時代である延暦20年(801)に、征夷大将軍坂上田村麻呂が、蝦夷平定のために東北地方に出陣した折り、当地を訪れておまつりしたといわれています。
当時、近くを流れる身馴川(小山川)には、周辺の村々の田畑を荒らし廻わり、人々を苦しめる大蛇が棲みついており、坂上田村麻呂は上野国(群馬県)赤城山の神霊である赤城大明神の霊威をいただき、みごと大蛇を退治することができたという伝説が伝えられています。坂上田村麻呂は、小茂田をはじめ、沼上・十条・阿那志・古郡の五か所に、赤城大明神の神霊を、赤城山に向かって、北向きにおまつりしたため、北向大明神とか北向神社と称されるようになったといいます。地元の人々は、五か所にまつられた北向神社を総称して、「五社の明神」と呼んでいます。
北向神社は、邪気を祓い、人々の幸福を願う節分蔡行事で有名ですが、五穀豊穣や厄除開運をはじめ、勝利祈願や安全祈願にも霊験あらたかといわれています。また、氏子の人々によって鎮守の森が保護され、自然環境を大切にしておまつりされています。
祭神 大己貴命、素戔嗚命、少名彦命(以下中略)

                                                       案内板より引用
 
 境内社 左から八坂、神明、天満天神、稲荷神社       境内社 厳島、山之神、大国、三嶋、八雲神
            
                      社務所も兼務している惟神祖霊社
  当地は身馴川(小山川)と志戸川の問に位置し、条里制の遺構がある。古くは薦田(こもだ)と記し、真薦が繁茂している田を意味していたと思われる。文永11年(1274)11月の「大嘗会雑記配賦」には「薦田」と記されている。また、武蔵武士児玉党薦田氏の本質地と伝えられ、仁安3年(1168)には児玉党庄氏の家長庄太郎が社殿を再興し深く崇敬したという。元和3年(1617)5月には酒井下総守が徳川氏より小茂田村五百石を宛行われた。以後幕末まで旗本酒井氏の知行地となる。
 当社は身馴川の古い段丘状の微高地に位置し、いわゆる北向五社の一つである。社伝によると、桓武天皇延暦20年(801)に坂上田村麻呂が蝦夷征討の折、当地方に立ち寄り、身馴川宗鑑に棲みついて周辺村々の田畑を荒らし回る大蛇を退治しようとした際、上野国赤城明神の神霊を感じ、大蛇を退治できたという。よって児玉郡内五か所に赤城明神を勧請して祀り、北向明神と称したという。当社はその内の一社である。
 当社の祭神は、須佐之男命・大己貴命・少彦名命の三柱である。江戸時代初期から幕末まで領主旗本酒井家の信仰厚く社殿改修を進めたが、元文4年(1739)12月17日に「池魚〔古くより社有地に灌漑池あり)の災い」による大火に遭い、社殿・古文書類ことことく灰燼に帰した。その後、酒井家や氏子の努力で社殿が再興された。また、天明年間(1781-89)には天候不順や浅間山大噴火などで大飢饉に見舞われたが、鳥居を奉納することでその難から逃れられるようにと願った氏子たちが天明3年(1783)に石鳥居を建立したと伝える。
 安政5年(1858)に至り、白川家御近習関東出張所出役の中嶋数馬〔岡本一馬利貞)が、名神大社金鑚神社に派遣奉職し、併せて当社の神主となった。
 境内社は稲荷神社・神明神社(伊勢神社)・天満天神社(菅原神社)・八坂神社・阿夫利神社・八雲神社・三島神社・大国神社・山之神社厳島神社である。多くの境内社が明治40年4月23日に移転された。 稲荷神社は元来の境内社に字下児玉東の伊那利神社を合祀し昭和32年に外宇を改修した。神明神社は字日之待西の伊勢神社を移転し昭和19年に神明神社と改称した。天満天神社は字下児玉東の伊那利神社境内社菅原神社を移転し社号を改称した。八坂神社は大字南口の八雲神社を移転し社号を改称した。阿夫利神社は本社創立の際に勧請したといい、文久2年(1862)銘の石宮である。三島神社は宇三島南、大国神社は字権現塚、山之神社は字太子宮、厳島神社は字阿郡志境からそれぞれ移転したものである。明治時代以降の社殿等の改修は、明治12年に拝殿再建、昭和38年に石鳥居再建、同51年に外宇営繕、平成8年に社務所再建を実施している。
                                          埼玉県神社庁「埼玉の神社」より引用

       

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古郡北向神社

 美里町古郡地区の「古郡」の地名の由来は、律令時代に武蔵国那珂郡の郡家(郡役所)があったことに由来するそうだ。但し武蔵国で確認されている群家は都筑、橘樹、豊島、幡羅、榛澤の5郡だけであり、那珂郡の群家が古郡にあったという確証があるわけではない。ただ美里町は武蔵国の中でも早くから開発されていた地域の一つであり、町の東北部の諏訪山と呼ばれる丘陵の裾部に築かれた直径約50mの円墳である長坂聖天塚古墳を始め、近隣の十条地区には十条条里遺跡、また沼上地区の水殿瓦窯跡、広木地区にある「曝井(さらしい)」と呼ばれる遺跡等「埼玉の飛鳥」という呼称にふさわしい遺跡の宝庫でもある。
 ところで郡家の認定基準は、地理的条件、歴史的環境、遺構の種類・規模・配置・遺物等から総合的に判断される。出土遺物がほとんどなくとも大型建物群が規則的に配置されたり、建物群が貧弱でも、官衙に関わる木簡や墨書土器が大量に出土するなどすれば、それらの遺跡は群家かそれに近い官衙遺跡と判断される場合もあるようだ。
 上記の判断基準を参考に那珂郡の群家の立地地区を考えてみると、遺跡こそ多いが、群家に相当する大型建物群や、木簡および土器等の大量出土した遺跡がなく、絶対的な場所が特定できず、判断に苦しむところだ。わずかに「古郡」という地名だけが嘗てこの地に群家があったことをわずかに伝えている。  

        
             ・所在地 埼玉県児玉郡美里町古郡257
             ・御祭神 大巳貴命 素盞嗚命 少彦名命
             ・社 挌 旧古郡村鎮守 旧指定村社
             ・例祭等 春祭り 415日 秋祭り 1015日 新嘗祭 1123
     地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.180719,139.1865344,16z?entry=ttu

 古郡北向神社は埼玉県道31号本庄寄居線阿那志交差点を寄居方向に南下し、しばらくすると左側に当り一面田園風景の中にポツンとこの社の社叢林が見える。
 但し社に進む進入路が途中から舗装されてい無く、また車一台が進むほどの車幅しかないのには少々驚いた。また専用駐車スペースもないようなので、一の鳥居を越えた場所にお地蔵様を祀るわずかな空間に停めて参拝を行った。
        
                            入口付近に設置されている案内板
        

      古郡北向神社正面一の鳥居は狭い空間上にあり、その中に社殿は存在する。
        
                                     拝 殿                           
北向神社 
御由緒   美里町古郡二五七
御縁起(歴史)
 当社の鎮座する大字古郡は、その地名が表すように、古代の那賀郡(なかぐん)の郡役所としての郡家が置かれたことに由来するという。また、武蔵七党の猪俣党の一族、古郡氏の本拠地でもあった。
 当社は社号が示すように真北を向いて鎮座しており、この向きは霊峰赤城山の最高峰黒檜山(一八二八メートル)を見据える形になっている。
 創建を明確にする記録は伝えられていないが、当地黄檗宗日光山安光寺に残る寛延元年(一七四八)の鐘銘及び宝暦元年(一七五一)の「武蔵国那珂郡古郡村日光山安光寺記」には次のように記されている。
 坂上田村麻呂が征夷大将軍として蝦夷征討へ赴く途次、上野国緑野郡勅使河原に陣を設けた折、身馴川の十丈の淵に棲む神竜(大蛇)が川を渡る者を水死させることから、人々が往来に困っていることを聞き、日光山(同寺の裏山か)より赤城大明神に誓願をなし、大蛇を退治できた。よって、誓願の通り川上に江の浜の虚空蔵、川下に薬師四仏、北向大明神五社(古郡・阿那志・小茂田・沼上・北十条)を建立し、大蛇の尻尾を埋めた跡に同寺を建立した。なお、同寺は永禄年中(一五五八‐七〇)に焼失したため、当社の別当は真言宗光明寺が務めていた。現在の安光寺は元文年中(一七三六‐四一)の再興である。
 明治四〇年に宇森浦神明神社、字下耕地二柱神社、字六所六所神社を本殿に合祀、字森浦の愛宕・諏訪・雷電の三社を境内に移転した。
                                      案内板より引用
        
     拝殿向拝部・蟇股部付近には金で飾られた煌びやかな彫刻が施されている。
 
     拝殿上部に飾られた彩色豊かで煌びやかな彫刻が目を引く(写真左・右)。
  この社は、規模はさほど大きくはないが、拝殿部の煌びやかさは他の北向神社を凌駕する。 
        
                                         本 殿

 社殿の奥周辺には、多数の境内社・合祀社・末社・石祠・石碑等鎮座している。板版にて説明文も掲示されていて、参拝中大変参考となった。
 
  愛宕神社 聖天社 諏訪神社 天手長男社        秋葉神社 八坂神社
     雷電社 八幡大神 弁天社
 
       
               社殿の右側にある社日        社殿の奥にある磐座(陰陽石)
 
        社殿の左側奥に鎮座する明神社        天神神社、琴平神社、御霊神社
       
                           ご神木

 丹党古郡氏は、那賀郡古郡村より起る。字上耕地の志戸川の支流堤防上に古郡氏の館跡があり、書物等にも古郡氏の歴史の一旦を垣間見られる。
武蔵七党系図「中村三郎右馬允時経―古郡入道時員」
吾妻鑑巻四十「建長二年三月一日、古郡左近が跡」
典籍古文書「建治元年五月、武蔵国・古郡左近将監跡七貫を京都六条八幡宮の造営役に負担す」
等の記載がされている。
「古郡」という地名は県北に居を構える筆者にとって、多少ならず馴染みある地名であるが、日本全国ではなかなか見つけることのできない珍名でもある。しかしその語源は律令時代前から続く由緒ある地名でもあり、神社参拝と同時に地名由来を調べている筆者にとっては、価値のある参拝となった。            
                     
                                        

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北十条北向神社

 旧東児玉村の村域(下児玉村、小茂田村、阿那志村、関村、沼上村、南十条村、北十条村、根木村)には、北向という変わった名前の神社が多く鎮座するが、その本拠地が実は北十条地区である。
 『新編武蔵風土記稿 児玉郡十条村』に”薬師堂:鎮守北向明神の本地なり、貞享五年、時の住僧記せし縁起に、坂上田村麻呂将軍、上州赤城明神の本地薬師へ祈誓し、十条淵の大蛇退治の後、郡内当村及沼上・阿那志・小茂田・下児玉村の五村に彼明神を崇て、本地薬師を当寺に勧請せしなど云事を載たり…以下略”とある。当寺とは慶昌寺のこと。
 また『武蔵国郡村誌』には、下児玉村を除く四村と那珂郡古郡村に北向神社が記されていて、その祭神はスサノオ、大己貴、少彦名である。

        
            ・所在地 埼玉県児玉郡美里町北十条695
            ・ご祭神 大巳貴命 素盞嗚命 少彦名命 大雷命
            ・社 挌 旧十条村鎮守 旧村社
            ・例祭等 春祭り 43日 大祓式 81日 秋祭り 1019
                 新嘗祭 1125日 他
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2020011,139.1652408,16z?entry=ttu
  
 北十条北向神社は沼上北向神社の北側、埼玉県道75号線を身馴川公園交差点から熊谷方面に向かい、最初の交差点(コンビニエンスが斜向かいにある)を左折し300m位進むと右側に見えてくる。ちなみにこの県道75号線を熊谷方面に進むと左側脇に十条条里遺跡(県指定史跡)の碑が建っている。条里とは律令時代の班田収授の法に基づく土地の区画整理のことであり、北十条から南十条の一帯には昭和20年代まで、条里の跡が残っていた。
 十条という地名も条里制に由来するのだという。残念なことに現在は、耕地整理によって条里は消滅している。
             
                             北向きとなっている鳥居
             
                             北十条北向神社拝殿
             
                                  案内板
 『風土記稿』十条村の項に「北向明神社 鎮守なり 慶昌寺持」と載る。その創建については、貞享五年(1688)の奥書のある慶昌寺薬師堂の縁起に「昔、坂上田村麻呂が上州赤城明神の本地仏である薬師如来に祈誓し、身馴川(現小山川)の十条淵の大蛇を退治した後、郡内五か所に赤城明神を崇めて祀った」旨が記されており、当社はその内の一社であるという。

北向神社  御由緒   美里町北十条六九五
御縁起(歴史)
 北十条の鎮守である当社には、主祭神に素盞嗚命・大己貴命・少彦名命、合祀神に大雷命を祀る。『風土記稿』十条村の項に「北向明神社 鎮守なり、慶昌寺持」と載る。その創建については、貞享五年(一六八八)の奥書のある慶昌寺薬師堂の縁起に「昔、坂上田村麻呂が上州(現群馬県)赤城明神の本地仏である薬師如来に祈誓し、身馴川(現小山川) の十条淵の大蛇を退治した後、郡内五か所に赤城明神を崇めて祀った」旨が記されており、当社はその内の一社であるという。
 以来、当社は村民の厚く崇敬するところとなり、享保十三年(一七二八)には神祇管領吉田家から正一位の神階を受けた。 内陣にはその添状と女房奉書及び古色を帯びた金幣が安置されているが、この神階拝受を機に社殿も再建されたものと見え、別当の慶昌寺が願主となり、惣氏子五三名の寄附を受けて「奉成正一位御神官北向大明神并宮殿建立」を行った旨を記した享保十三年五月吉日付の棟札が現存する。
 明治五年に村社となり、同四十年に字重の村社大天雹神社(「明細帳」 に「大天電神社」とあるのは誤記)を合祀したとある。この大天雹神社は、『風土記稿』に載る慶昌寺持ちの「雷電社」のことで、合祀に際しては、享保十三年に正一位の神階を受けた際の吉田家添状と女房奉書及び金幣が当社の本殿に移された。これらはいずれも当社のものと同様で、享保十三年に社殿を再建した旨を記した棟札もある。
                                      案内板より引用
 
                     社殿の両側にある境内社(写真左、及び右)

 ところで北十条地区の東側には「阿那志(あなし)」という変わった名前の大字がある。中世からの郷名であり、この地の阿那志は慶長期(1600年頃)まで穴師郷穴師村と表記していた。穴師とは鉱山などで金属の採掘を業とした人々を指すのだという。その関係だろうか、児玉町金屋は鋳物製造が盛んであったという。
 
 阿那志 アナシ 
 阿部族の首領を阿部志、磯族の首領を伊蘇志、渦族の首領を宇都志、阿那族の首領を阿那志と称す。すなわち穴族の渡来集団居住地を穴郷、穴師村、阿那志村と云う。近江国安那郷(草津市穴村)に安羅神社あり、アナはアラとも称す。アナベ、アナホ、アラ参照。児玉郡阿那志村(美里町)あり、当村、根木村、関村は阿那志郷を唱え、穴師とも記す。金沢文庫に¬文永十一年十一月、冨安新里・同阿那志村」と見ゆ

                                                           埼玉苗字辞典より引用

 不思議とこの付近には金鑚神社が多く分布している。武蔵国ニ宮 金鑚神社(神川町ニノ宮)は、祭神は金山彦或はスサノオであり、金山彦命は鍛冶職や鋳鉄業者の信仰を集めた神であり、金属精錬との関連が深い。
 「金鑚」の語源は砂鉄を意味する「金砂(かなすな)」に求められ、神流川周辺で、刀などの原料となる良好な砂鉄が得られた為と考えられている。また、御嶽山から鉄が産出されたという伝承もある。『神川町誌』に記述される一説として、砂鉄の採集地である「鉄穴(かんな)」を意味するものという説もある。これは金鑚神社の西方に神流川が北流している事による説である。語源については諸説あるが、古代に製鉄と関わりがあったとする点は一貫していて、現在も神流川は砂鉄が多い。
 ただ砂鉄は鉱山を必要としないので、その遺跡を求めることは難しい。又たたら(小規模製鉄所)の発見もされていない。児玉党の児玉は、「鋼の塊」を意味すると言う説もある。だが、どれも決定的証拠にはなり得ず、「噂」の域を超えない。真相はいかがなものだろうか。
  

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沼上北向神社

 神社は通常風水によって「子坐午向」に造られる。したがって真南または真東を向いているものがほとんどである。太陽信仰ともアマテラス信仰からであろうが古くから「天子南面す」と言われるように玉座は南、太陽の方角を向いていた。しかも、神社のほとんどが本殿に神の依り代として「円形の鏡」を置いている。正円の鏡は、その形はもちろん、輝きという意味でも太陽を模している。つまり「アマテラス=鏡=太陽」という構図が成立するわけだ。ゆえに社の方角も同じように南を向くのが多い。
 しかし中には真北に方向を向いている社も少数ながら存在することも事実で、特に有名なのは茨城県鹿嶋市に鎮座する鹿島神宮だ(但し断っておくが鹿島神宮の場合、社殿は北向きだが、本殿は東向きとなっている)。時の朝廷の権力が届きにくい東北地方を神威によって治めるという意味もあるらしい。
 児玉郡美里町沼上地区に鎮座している沼上北向神社も、数少ない北側に社殿を向けている社だ。赤城大明神を祀る北向神社五社のうちの一社と言われ、延暦15年(796年)に坂上田村麻呂が創建したと伝えられる古社だ。
        
             ・所在地 埼玉県児玉郡美里町沼上1
             ・ご祭神 大巳貴命、素盞嗚命、少彦名命
             ・社 挌 旧沼上村鎮守 旧村社
             ・例祭等 祈年祭 329日 大祓祭 731日 例祭 1019
                  新嘗祭 1129日 他
    地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1889308,139.1570971,17z?entry=ttu 。                   
 沼上北向神社は埼玉県道75号熊谷児玉線を旧児玉町方向に進み、身馴川公園交差点を左折して道なりに真っ直ぐ進むと、左側にこんもりとした北向神社の社叢が見えてくる。
 旧別当の長福寺の西脇から参道が始まり、50mほど進むと、美里町で最も大きいといわれる木造の両部鳥居〔高さ5.5m、幅3.65m)があり、正面に「正一位北向大明神」の社号額が掛かっている。
                  
          長福寺の西隣のT字路沿いにある北向神社の社号標
        
              美里町最大の一の鳥居という大鳥居
 
  一の鳥居を200m程進むと社の社叢が見える。           神楽殿
         
                      
拝 殿             
        
                       
本 殿

     境内に設置されている案内板      拝殿上部にも「北向神社の大要」の額あり        
北向神社 御由緒    美里町沼上1
□御縁起(歴史)

 
沼上の地は身馴川南岸の水田地帯に位置する。地内にはかつて条里制遺構が見られたほか、地内の水殿と呼ぶ辺りに水殿瓦窯跡(国指定史跡)がある。
当社は主祭神として素盞嗚命・大己貴命・少彦名命の三柱を祀り、地内の一番南にある字宮上に北向きに鏡座している
社伝によれば、延暦15年(796)に坂上田村麻呂将軍が東征の途次、身馴川の水底に棲む大蛇を退治しょうとした時、上野国(群馬県)赤城明神の神霊を感じて児玉郡内に五社の北向神社を勧請し、当社はその内の一社であるという
「風土記稿」沼上村の項に当社は 「北向明神社 村の鎮守にて長福寺の持、末社 諏訪愛宕金毘羅 山神 牛頭天王 八幡 弁天 天神」とある。更に別当の長福寺については「新義真言宗、那賀郡広木村常福寺末、瑠璃光山薬師院と号す、本尊大日を安ず、又傍に北向明神の本地薬師を置り、当寺は名主利右衛門が先祖、九左衛門義長なるもの逸見上総介光長の苗裔にて、武田家滅亡の後当所に跡をかくし、かの明神の本地崇信のあまり、慶長2年(1597)一宇の堂を創建せり、因てこれを開基と称す(後略)」とある。当社は明治5年に村社となり、同40年には宇桑中の稲荷神社を合祀した。更に、大正2年には字上宿の玉手長男神社と字南の稲荷神社を境内に移転した

                                      案内板より引用
        
          稲荷大明神                               天手長男神社
        
                    社殿奥に祀られている
末社群                           
                           
 この美里町沼上地区にはかつて条里制遺構が見られたほか、地内の水殿と呼ぶ辺りに水殿瓦窯跡(国指定史跡)がある。この窯跡で生産された軒平瓦・平瓦は鎌倉永福寺(注、廃寺)の寛元-宝治年間(1243-49)の大修理に使用されており、一三世紀中ごろに操業していたと推定されている。
                      
                水殿瓦窯跡(国指定史跡)
 この窯跡で生産された軒平瓦・平瓦は鎌倉永福寺(注、廃寺)の寛元-宝治年間(1243-49)の大修理に使用されており、一三世紀中ごろに操業していたと推定されている。更に、字宮下には奈良・平安期の集落跡があり、土師器・須恵器が出土しており、古くから開かれた地であったことをうかがわせる。
        
                   
十条条里遺跡       

 

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堀の内羽尾神社

 羽尾神社の祭神の一柱である藤原恒儀は、「藤原」姓を称しているが特定不明は人物である。案内板等ではこの人物は青鳥判官と称し、隣地東松山市の青鳥にある青鳥城蹟の城主で、天長六年(829年)九月二十日に卒した人と伝えられている。新編武蔵風土記稿にはこの藤原恒儀はこの地に在住していた在地豪族であり、卒して後に産土神とした、とも書かれている。
 この藤原恒儀という人物は別名「恒儀様(ゴウギサマ)」と呼ばれ、昔から親しまれ、非常な力持ちで角力、つまり相撲が強かったと伝承もあり、土師氏の始祖野見宿禰を暗に連想させる。

        
             ・所在地 埼玉県比企郡滑川町羽尾4806
             ・御祭神 日本武尊 藤原恒儀
             ・社 挌 旧指定村社
             ・例祭等 春祭り 4月吉日 例大祭 10月吉日 秋祭り 10月吉日            
 羽尾神社は埼玉県道47号深谷東松山線を東松山方向に進み、滑川消防分署交差点前の信号を右折するとすぐ右側に鎮座している。右折する交差点は大型ショッピングモールが左側にある交差点なので、経路を説明する際には、まず迷うことのない解りやすい社と言える。
 社に隣接してすぐ北側には小さいながらも公園の駐車スペースもあり、身障者用の駐車スペースも設置されている駐車場もあり、そこに停めてから参拝を開始する。
                   
                            参道右側にある社号標
            
                                    参道正面の石鳥居
            
                      鳥居の右側に設置されている案内板          
 羽尾神社由緒
 一 御祭神 倭建命 藤原恒儀
 一 由緒
 当神社は、往古より「恒儀様」と尊称され、町崇敬の産土神社である。 
 また、伝来の古書に「倭建命、天長六(西暦829年)年鎮座」と明記されている。

 また、別の祭神「藤原恒儀」は、青鳥判官と称し、隣地東松山市に在る青鳥城址の城主で、天長六年九月二十日の卒した人と伝えられる。
 後年に至り当社に合祀されたと云う。 
 そして、当社は、藤原恒儀の嫡子恒政と家臣藤原竹連によって創建されたと伝承されている。

 明治四年村社となり、大正五年四月指定村社に昇格した。
                                                            案内板より引用
羽尾村 恒儀
村内の産神なり、土人の話に當社は、青鳥判官藤原恒儀の靈を祀る所なり、恒儀は天長六年九月廿日卒せし人なり、今隣村石橋村の内、字内青鳥と唱ふる地に、恒儀の住せし城蹟といふものあり、享保年中當の神官を附んとて、京都吉田家へ請しに、恒儀は力ある人にて、相撲のことにつき、清原熊鷹と云るものを撲殺せしにより、勅勘の身となりし由、王政玉と云書にも見えたれば、位階は進めがたし、是まで號をつねきと唱へ来れど、この後はこふきと稱すべしといひしよし改號せりと、按に王政玉と云書名うたがはし、又恒儀のことも他の書に所見なければ、つまびらかならず、姑く傳るままを記せり、
                                                              『新編武蔵風土記稿』より引用

             
                                                             羽尾神社 参道
 羽尾神社は比企丘陵の尾根の微高地先端に建てられており、一の鳥居から決して高くはない2つの石段を登ると社殿が見えてくる。この羽尾神社は今でこそ社として鎮座しているが中世には羽尾館、つまり城的機能を持つ館があったのではないかと言われている。、
 現地を訪れると確かに神社背後にわずかに土塁や空堀らしい跡が確認でき、台地先端を掘り切っているように見える。ただはっきりとした明確な遺構とは言えないことも確かで、神社の建立・改築の際に相当手が入っている可能性もある。
             
                                    拝  殿
 
        拝殿の額には「鎮護宮」と書かれている。                  本 殿
 ところで羽尾の「羽」は羽生の地名の由来とと同じく「埴輪」の「埴」、つまり、土師族出身の移住民がこの羽尾地方に住んできたことをこの地名は意味するのではないだろうか。土師氏は土器を製作する集団を土師部といい、ハゼ、ハニシとも称していた。この滑川町を含む比企地方の地名「比企」は日置が語源で、日置部(ひおきべ)という太陽祭祀 ...と関係するという説が有力で、この日置部は太陽祭祀を司り、暦に精通している。暦の精通は、当初は豊漁に通じ、農耕の発展で豊作に通じて、祭事の中心になる。つまり、日置部は、一部をシャーマンに残し、祭事の道具の埴輪や土偶に関わる土師氏になっているという。
            
                                                           社殿からの一風景
 この日置部集団は太陽を祀る祭祀集団であり、測量をする と共に、また、製鉄や土器製作の新しい方法を身につけた技術集団である。
 6世紀後半から7世紀にかけて、桜山(東松山市)、五厘沼(滑川町)、和名(吉見町)の埴輪窯、須恵器窯で、須恵器が生産がはじまっており、8世紀になると、南比企丘陵-鳩山町を中心に、嵐山町、玉川村の一部に多くの須恵器窯がつくられて、須恵器と瓦の生産がさかんに行われるようになった。このことはある高度の技術者集団の移住が考えられる。
                       
 
 また羽尾神社の祭神である藤原恒儀は滑川村誌 民俗編によると、この人物は大麦の穂で目を突いて、片目になってしまったことから、羽尾地区では大麦は禁忌作物であり、また恒儀にまつわる片目の伝承があるという。また武蔵国郡村誌の比企郡羽尾村によれば、羽尾村の琴平社(現在は羽尾神社に合祀か?)の祭神は金山彦命だった。金山彦命は金属精錬との関わりが深い神なので、羽尾地区の片目伝承との関連性が興味深い。
 つまり藤原恒儀はこの地域の古代鍛冶集団の長であった可能性が非常に高いのではなかろうか。



参考資料 「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「滑川ふるさと散歩道HP」等
    

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