古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

三ヶ尻八幡神社

  三ヶ尻八幡神社が鎮座する熊谷市。その広さは武蔵国の21郡中、幡羅、大里2郡の大部分、榛沢、男衾2郡の一部と4郡にまたがる範囲を占める。特に幡羅郡は、『和名抄』によれば七郷一余戸という北武蔵最大規模の郡であった。広さだけではなく、熊谷市のあった荒川流域の北側は早くから開けた地域であり、古くは武蔵國が東山道に属していていた影響で、隣国の上野(群馬県)・下野(茨城県)とともに、早くから文化が発達し、稲作や養蚕・機織などがさかんで、人口も多かったものと思われる。
  熊谷市域の古墳は、石原・広瀬・肥塚・中西・箱田・柿沼・上之・玉井・別府・上中条・三ヶ尻・吉岡など、163基の古墳があったといわれている。おおよそ6~7世紀につくられた古墳が多いという。
 三ヶ尻周辺では荒川流域の北岸にあって、上流からの土砂の流入による肥沃な土地であったことから、早くから稲作が行われていたらしい。またこの地域の三ヶ尻古墳群にはかつて11カ所の古墳があったことが記録されていて周辺は宅地化が進み、ほとんどの古墳が消滅してしまったが、それでも数基の古墳は保存されている。

           
                      ・所在地 埼玉県熊谷市三ケ尻2924
                      ・ご祭神 誉田別命 (合祀)大日霊貴命 菅原道真
                      ・社 格 旧村社 延喜式神名帳 田中神社 武蔵国幡羅郡鎮座
                      ・例祭等 祈年祭 325日 例祭 415日 新嘗祭 128
                              *祭日は「大里郡神社誌」を参照
  三ヶ尻八幡神社は、埼玉県道47号線深谷東松山線で三尻中学校のすぐ南側、三尻公民館の奥に鎮座する。北側には三尻小学校があり、丁度2つの学校に挟まれた場所にある。駐車スペースはその三尻公民館を利用して参拝を行った。
             
                                         県道沿いにある三ヶ尻八幡神社社号標と一の鳥居
                           
                           一の鳥居より参道を望む
『日本歴史地名大系』での 「三ヶ尻村」の解説
 [現在地名]熊谷市三ヶ尻・御稜威(みいず)ヶ原
 幡羅郡深谷領に所属(風土記稿)。荒川左岸の櫛挽台地南東縁の櫛挽面と寄居面にまたがり、北は拾六間村、南は大里郡大麻生村。中世は三ヶ尻郷に含まれていた。「風土記稿」に「古ハ甕尻又尻トモカケリ、村名ノ起リ詳ナラス、或云当村ニ狭山トイヘル山アリ、其形瓶ヲ覆フニ似タルヨリ起リシ名ナリトイヘト、ウキタル説ニテウケカヒカタシ、(中略)又此村ハ当郡及大里・榛沢三郡ノ後ニ当レハ、今ノ名起レリナト土人ノ伝ヘアリ、是ハ今ノ文字ニ改メシヨリ附会セルコトナルヘク」とあり、二つの村名由来が載るが、「大日本地名辞書」は「村内なる狭山の形容、を覆せて、尻を見るが如くなれば、此名の起り明白なり」と前者の説をとっている。狭さ山とは現在の観音山で、標高七七・四メートルの新生代第三紀の残丘、櫛挽台地と沖積扇状地の接する地点に突出している。
 天正一八年(一五九〇)の三千石以上分限帳(「天正慶長諸大名御旗本分限帳」内閣文庫蔵)によると、三宅惣右衛門康貞は「武州見賀尻」で五千石を宛行われたが、慶長九年(一六〇四)に五千石を加増され三河挙母藩に移封となった(寛政重修諸家譜)。
                       
                                                      寛永6年(1629)築造の二の鳥居
             
                              
台地面に向かって参道が続く。
                                    実はこの参道は南(正確には南西)方向で、社殿は北向き

              
                                                     参道途中に設置されている案内板       
 八幡神社
 熊谷市三ヶ尻八幡神社社叢ふるさとの森  昭和59年3月30日指定(埼玉県)
 身近な緑が、姿を消しつつある中で、貴重な緑を私達の手で守り、次代に伝えようとこの社叢が、「ふるさとの森」に指定されました。
 この「ふるさとの森」八幡神社は、天喜4年(1156)、鎮守府将軍源頼義と、嫡男八幡太郎義家が、前九年の役出陣にあたり、特にこの地に兵をとどめ、戦勝を祈ったところであります。
 ここは、平成12年に新装となった本殿・拝殿を中心として、多くの大樹が緑豊かな社叢を形成し、中には、義家が愛馬をつないだといわれる杉の巨木も,神木として時を語っております。
 林相は、主に、スギ・ヒノキ・スダジイ・モミ・カシなどから構成されています。
 平成16年3月    埼玉県熊谷市
                                                        掲示板より引用

「ふるさとの森」の案内板が設置されている場所は、広い空間となっていて、現在は参拝用の駐車スペースとなっているが(写真左)、ここには「三尻村 靖国神社」の社号標柱が立ち、広いスペースの一番西側奥には靖国社がひっそりと鎮座している(同右)。
         
                              拝 殿          
         
                                                                        本  殿 
 
      拝殿手前左側にある手水社                        拝殿手前にある祓戸大神
                                                          瀬織津姫命と何か関係があるのだろうか。
 境内には数多くの石碑が並び祀られている。この地に鎮座している社に対して、昔から延々と今に至るまで、氏子・総代を初めとする多くの方々が崇高の念をもって祀り、奉納してきた歴史を垣間見る思いがする。
           
 八幡神社  
篆額 鶴岡八幡宮 宮司 吉田茂穂
 当社の創建は、第70代後冷泉天皇の御宇天喜4年、鎮守将軍源頼義・義家父子奥州出陣の砌、当地に旌旗を停め戦勝を祈願したことに溯る。寿永2年後の征夷大将軍源頼朝、当時の三ヶ尻郷を相模国鶴岡八幡新宮若宮御領として寄進されてより、当社は同宮の分祀として源家武士の崇敬篤く、更には三ヶ尻の里の総鎮守として庶民の尊崇を集めていたのである。
 寛永6年びは時の領主天野彦右衛門深く当社を崇敬し、八幡型大鳥居一基と鷹絵額五枚を献上している。天保年間、三河田原藩家老華山渡辺登、故あって当地に滞在し著した訪甕録は、当時の深厳な境内と総彫刻極彩色の本殿の威容を記し、往時の地域住民の崇敬深きを伺わせているのである。下って昭和20年、郷社列格の栄に浴し、昭和63年嘗て華山も紹介した明和5年建造の本殿が熊谷市の文化財に指定された。
 かくして氏子はもとより、近郷近在からの崇敬弥増し、神威は益々高まった、平成4年には由緒深き本殿の尊厳を維持するべく、覆殿改築に着手、工事は順調に進捗していた。ところが同年10月20日夜半、突然原因不明の火災に遭い、完成を目前としていた覆殿はもとより本殿以下全ての社殿を焼失するところとなった。まさに青天の霹靂、関係者は茫然と自失寸するばかりであった。しかし一同悲しみを乗り越え社殿再建への思いに結集し、八幡神社御社殿復興準備委員会を結成、計画の立案にとりかかった、平成6年には予て要望していた第61回伊勢神宮式年遷宮の古殿舎撤去古材譲与も聞き届けられろところとなり、約56石の桧材が平成6年7月の佳日を卜し遙か伊勢路より搬送された、また、本社鶴岡八幡宮には物心両面に亙る支援を忝のうし、社殿再建への気運はいやが上にも加速した、平成7年八幡神社御社殿復興奉賛会を設立、伏して広く浄財を募ったところ、赤誠溢れる氏子崇敬者等の暖かい協賛を賜り、遂に平成10年5月15日天高く響く着工の槌音を聞いたのであった。幸いにも本社との御神縁により卓越せる技術を誇る建設業者に工事を依頼し、加えて地元建築業者の協力を仰ぎつつ、本殿・拝殿・透塀の改築につき、懸案の境内整備事業も完了した。時恰も皇紀2660年、御祭神応神天皇降誕1800年の佳年であった。
  社殿完成により早一年、新緑目にしみる神域に思いを新たにし、いささか慶事の経緯にふれその概略を石に刻し、併せて赤誠を捧げし各位の芳名を後世へ伝えんとする次第である。
平成13年12月吉日
八幡神社宮司 篠田宣久謹書

                                                     境内石碑より引用
 この三ヶ尻八幡神社は鶴岡八幡宮と古くから交流があったらしい。
 天喜4(1056)年源頼義、義家父子は奥州争乱鎮定(前9年の役)に出陣の折、三ヶ尻に来て戦勝祈願を行っていることから始まる。今も境内には、義家が愛馬をつないだという杉の古木が神木として祀られている。続いて寿永2(1183)年、後の征夷大将軍源頼朝は当時の三ヶ尻郷を相模の国鶴岡八幡宮若宮御領として寄進し、同宮の分祀として尊崇を集める。所願成就のため武蔵國波羅郡内尻(みかじり)郷を相模國鎌倉郡内鶴岡八幡新宮・若宮御領として寄進する旨が記され、頼朝の花押のある寿永2年2月27日付の文書である。
 この縁で、三ヶ尻に奉納米を作るため神饌田を復活させ、三ヶ尻小学校、籠原小学校、鎌倉の鶴岡八幡宮子供会の子供たちが合同で田植えをし、稲刈りをし、刈り取った米は11月23日に鶴岡八幡宮で行われる新嘗祭に奉納される。三尻八幡神社の氏子さんたちもまた、毎年、大注連縄を編み鶴岡八幡神社に奉納している。このように、熊谷の三ヶ尻八幡神社と鎌倉の鶴岡八幡宮は我々が思う以上に深い関係があったようだ。
                                   
                                      社殿
の左側には「八幡太郎義家公駒留めの杉がある。
 源頼義と幡太郎義家が、前九年の役出陣にあたり、この地に兵を留めて戦勝祈願をしたとされ境内には義家が愛馬をつないだとされる杉が神木としてのこっている。
                                
境内社 琴平神社(写真左側)・浅間神社(同右)   合祀社 八坂社、雷電社、稲荷社等

   琴平、浅間神社手前に鎮座している御嶽神社            社叢の奥に鎮座している境内社・産泰神社 
            
  
ヶ尻八幡神社の社殿横には「社日」と言われる石柱が存在し、各面には、五柱の神名が記されている。
 「天照皇大神、大己貴命、稲倉魂命、埴安媛命、少彦名命」。
天照皇大神が正面最上位で、その右面から上記の順で並ぶ。
            
                             社殿からの一風景
 ところで三ケ尻八幡神社はかつて「甕尻郷」が鶴岡八幡宮領となり、その遙拝のために勧請された社である」という。かつてこの地は三ヶ尻ではなく甕尻と呼ばれていた、ということだ。では「甕」とはなんという意味であろうか。
「甕
 貯蔵や運搬に用いられる容器としての日常生活道具と同時に、弥生時代中期には北九州、山口地方を中心に埋葬のために遺体を納める容器として甕が使用され、
甕棺墓の風習があったことが判っている。弥生時代の甕棺墓の特徴は、成人専用の甕棺が作られた点、青銅製武器類(銅剣・銅矛・銅戈など)や銅鏡などの副葬品が見られる点にあり、一般集落構成員の墓と有力者層の墓とは別に造られるようになった。青銅製品などの副葬品にも差が出てきたり、この地域社会にいくつかの階層ができあがっていったことがわかる。
  他の利用例として
 
(1)祈念祭の祝詞に「大甕に初穂を高く盛り上げ、酒を大甕に満たして神前に差し上げて、たたえごとを言った」とあり、祭祀用として重要な用具だったことが判る。
  
(2)「播磨国風土記」に丹波と播磨の国境に大甕を埋めて境としたとも伝えている。
 
これらの例から、大甕(おおみか)は、酒を入れた器で、神事に使われ、また何らかの境界に埋められることもあったことが知られている。
 
弥生時代中期に甕棺墓は最盛期を迎え、弥生時代後期から衰退し、末期にはほとんど見られなくなる。このような変遷は、地域社会の大きな変貌があったと考えられる。
  このように「甕」は、古代日本において、生活の中だけでなく、埋葬、祭祀の際にも重要な役割を果たす用具だったことが窺わせる。

 さてこの「甕」を冠した神々は記紀等に詳しく記載されている。
槌命
    雷神、刀剣の神、弓術の神、武神、軍神として信仰されており、鹿島神宮、春日大社および全国の鹿島神社・春日神社で祀られている。
   武(タケ)は美称、甕槌(ミカヅチ)は「甕ツ蛇(みかつち)」と訓む。香取の神は経津主 (ふつぬし)命で、フツヌシは「瓮ツ主(へつぬし)」と訓む。『常陸国風土記』のほ時臥山説話は、蛇神信仰   から甕の神(鹿島・香取神)信仰に移っていたことを物語る説話と考えられている。
速日神(ミカハヤヒノカミ)
 神産みにおいて伊弉諾がカグツチの首を切り落とした際、十拳剣「天之尾羽張(あめのおはばり)」の根元についた血が岩に飛び散って生まれた三神の一柱であり、火の神とされる。
  
建御雷男神と同様に刀剣の神であるとも言われる。『日本書紀』には武甕槌神の先祖であるとも記されているが、その後に樋速日神、甕速日神、武甕槌神が同時に生まれたとも記されている。
之多気佐波夜遅奴美神(ハヤミカノタケサハヤヂヌミ)
 大国主神の 子孫で、天之甕主(あめのみかぬしの)神の娘、前玉比売(さきためひめ)を娶す。
   (* 前玉比売は前玉神社の祭神)

天之主神 (アメノミカヌシ)
 前玉比売の親神
主日子神(ミカヌシヒコ)
 大国主神の 子孫の速甕之多気佐波夜遅奴美神と前玉比売との間に生まれた神

津日女命(アマノミカツヒメノミコト)
 出雲風土記などに記載されている出雲神話の神という。
天津(アマツミカボシ)
 「日本書紀」にみえる神。高天原(たかまがはら)にいる悪神。経津主神(ふつぬしのかみ)と武甕槌神(たけみかづちのかみ)が葦原中国(あしはらのなかつくに)を平定するためにつかわされる前に服従された。
 別名に天香香背男(あまのかかせお)。
 
日本神話に登場する星神で、悪神と明記される異例の存在である。


 このような「甕」を冠した神々と「甕尻郷」の甕とは何か関連性があるのか、それとも単なる偶然か。埼玉県美里町広木に鎮座する甕甕神社近くに鎮座する延喜式内社 田中神社の祭神、武甕尻命との関係にも興味が広がった。



 

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山田淡州神社

  伊古乃速御玉比売神社の周辺には淡洲神社が濃密に分布していて、その特徴は南北方向には広範囲だが、東西方向は狭い。淡洲神社は滑川町土塩、福田、山田に、大雷淡洲神社が滑川町山田に、阿和須神社が滑川町水房にある。因みに「淡州」と書いて「アワス」と読む。文字通り四国「阿波国」に関係する社である。不思議なことだが関東地方には「アワ」の名がついた神社が数多く存在する。千葉の「安房」が、徳島の「阿波」から来ていることは有名だが、阿波国は「粟国」と書かれた時代もあり、阿波国内に「粟島」「淡島」があり、「阿波」「安房」「粟」「淡」、みな「阿波国」発祥の地名だそうだ。
 この淡州神社が鎮座する比企郡も実は「阿波国」と親密な関係があった地帯のようで、平安時代に編纂された『延喜式』には武蔵国の郡名として比企が登場するが、「ひき」は日置が語源で、日置部(ひおきべ)という太陽祭祀集団と関係するという説がある。
  ところで『埼玉名字辞典』において日置部一族は忌部氏、齋藤氏と同族であるとの記述がある。忌部氏は大和時代から奈良時代にかけての氏族的職業集団で 、古来より宮廷祭祀における、祭具の製造・宮殿、神殿造営に関わってきた。祭具製造事業のひとつである玉造りは、古墳時代以後衰えたが、このことが忌部氏の不振に繋がる。アメノフトダマノミコト(天太玉命)を祖先とし、天太玉命の孫天富命は、阿波忌部を率いて東国に渡り、麻・穀を植え、また太玉命社を建てた。これが、安房社で、その地は安房郡となりのちに安房国となったと伝えられる。いま、安房神社は安房国一宮となっている。
 安房国長狭郡日置郷(鴨川市)に日置氏(ひき)が居住していて、安房国忌部の同族である日置一族は武蔵国比企郡に土着して、地名も日置の語韻に近い「比企」と称したという。この両国は古代から密接な関係があったらしい。「淡州神社」という一風変わった名称の社の存在こそ何よりの証拠ではないだろうか。
             
            ・所在地 埼玉県比企郡滑川町山田765                                                  ・ご祭神 誉田和気命 息長足日売命 素盞鳴命
            ・社 格 旧山田村鎮守 旧村社
            ・例祭等 祈念祭 315日 禦祭 51日 夏祭 714
                 秋祭 1016日 新嘗祭 1215日 大祓 1227
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0855273,139.3719081,18z?hl=ja&entry=ttu           
 淡州神社は埼玉県道250号線、森林公園停車場武蔵丘陵森林公園線を道なりに北上して行くと、山田交差点の西側、進路に対して左側に淡洲神社が鎮座している。駐車場は一の鳥居前に駐車できるスペースがあり、そこに車を停め参拝を行うことができる。
           
                         正面社号標柱と社の説明板
 淡洲神社 滑川村大字山田(上山田)
 祭神 誉田和気命 息長足日売命 素盞鳴命
 由緒 当社は神功皇后が三韓鎮定に大功があったのを里民尊崇して此の地に神霊を奉斎したと伝承される。神社所蔵の古書によれば創建の年代は応永二(西暦一三九五)年とあり、往古は邑の総鎮守であったと云う。明治四年三月村社の格に列す。境内地五百七十七坪あり老樹うっ蒼と茂り古社の風格を漂わせている。(以下略)                               案内板より引用

 
           山田淡州神社正面鳥居             斜面上に鎮座、石段を上ると境内が見える。      
              
              
                                      拝 殿
 淡洲神社  滑川町山田七六六(山田字宮前)
 当地は滑川左岸の駅開谷の低地と丘陵部に位置し、山田の地名は、この開析谷に聞かれた田に由来する。古来、水利が悪く、地内には天水を貯え耕作に供した溜池が多く点在しでいる。
 当社の創建は『明細帳』によると、「勧請年紀不詳、往古紀州神社御分霊ト言伝而已尤モ宝永七年(一七一〇)三月霊代ヲ改メテ鎮守たり」とある。この紀州神社とは、元の和歌山県海部郡加太町鎮座の式内社加太神社と思われる。俗に淡島明神と称し、近世になり「淡島の願人」と呼ばれる者たちが、淡島様の功徳縁起を説いて諸国を回り、関東にもその信仰が広まっていた。こうした背景により当社も勧請されたものであろう。また、当社内陣には、「正一位阿和能須大明神宝永七年庚寅九月吉日武州比企郡上山田村鎮守」と記された金幣が奉安されており、「霊代ヲ改メテ」の記載は正一位の神位拝受を機に金幣が納められたことを示している。
 別当は東光寺であった。同寺は医王山瑠璃光院と号した天台宗の寺院であったが、明治初年の神仏分離により廃寺となり、現在では当社の南方に小さな堂が建つのみとなっている。
 明治四年に村社となり、同四十年七月には字大沼に鎮座する無格社八雲神社を本殿に合祀した。昭和二十七年、拝殿の造営に伴い本殿並びに幣殿も大修理を行っている。
                                                       「埼玉の神社」より引用

 淡州神社の祭神が品陀和氣命というのも不思議な感じだ。八幡神社でよさそうなものだが、元々の御祭神は淡洲明神で、水の神様だったのだろう。伊古乃速御玉比売神社項でも書いたが埼玉県で溜池がとても多い比企郡滑川地方で、明治の明神号使用禁止で御祭神が差し替えられたのかも知れない。
               
 拝殿の左側に向かい、石段を上って行くと御嶽山大神の石碑と石斧群がある(写真左)。正面は御嶽山大神。八海山大神、覚明霊神、清龍祓戸大神、十二大神、毘古那神、火産霊神、塞三柱大神、一心霊神等神々の石碑が立ち並ぶ(同右)。
                
                                 拝殿の左側に向かうと奥に天神天満社が祀られている。
                           
                                        天神天満社の奥にひっそりと佇む石神らしき石

 磐座あたりかと考えたが、それにしてはあまりに寂しい状態で放置されていた。この淡州神社にはこのような石神がよく見ると多数存在しているようだ。人類の祖先が道具として、石を利用し始めたことは太古のことであり、人類の歴史が石器時代で幕を開けたように、石は人類と深い関わりを持ちながら共に歩んできた。日本でも多数のおびただしい旧石器時代からの石器が発掘されている。日本のみならず世界の文化の出発点として石は無くてはならない存在だった。現代でも石臼や漬け物石などの生活の道具として、あるいは石仏や墓石などの信仰の対象として、または伝説の素材としての巨石や奇石、建築土木においては礎石や石積みなど、あらゆる場で根強く信頼され利用されている。

 残念ながら、時代の急速な変化によって、石の文化は生活の場から急激に姿を消しつつある。特に近年は神仏に対する畏敬の念が喪失し、信仰の対象となっていた様々な石造物は人々の記憶から消失されようとしている。時代の変化と言ってしまえばそれまでだが、寂しいことである。

 

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稲乃比売神社

所在地    埼玉県大里郡寄居町鉢形2326
主祭神    稻田姫命 素盞嗚命 大己貴命 少彦名命
         『大日本地名辞書』保食神
         『神祇志料』宇加乃売神
         延経『神名帳考証』『神祇宝典』和賀宇加乃売命
社  格    旧村社  武蔵国 男衾郡鎮座        
由  緒     創立年代不詳 
例  祭       10月18日 秋祭り
                         


  地図リンク

  稲之比売神社は埼玉県道294号坂本寄居線を鉢形城を右側に見ながら南下し、最初の交差点の手前のT字路を左折し道なりに真っ直ぐ進むと、約200メートル位で到着する。専用の駐車場は無いが鳥居の前に空間があったのでそこに駐車し、参拝を行った。

稲乃比売神社

往古 土民のこの地を拓けるや、建国の神 稲田姫の命、素盞嗚命、大己貴命、少彦名命の四神を斎き祀りて崇敬し、以て泰平を楽しみたりき。人皇五十三代淳和天皇の御宇 天長年間に至り、相馬氏 祠官となりてこれを奉祀せり。由来、鉢形村は西に連山を控へて秩父の関門をなし、北に荒川の断屋を巡りて要害に適し、その地域高層にして関東平野の西を限り、一望にして四方に令するの地なり。従って日と共に開拓されて土民 相増し、豪族 相拠るに及び、当社は鉢形村総鎮守として厚く崇敬せられ、神徳益高く、以て異状なる発展をなしたりき。
 冨田永世輯録の『北武蔵名跡誌』に「武蔵国男衾郡木持村 延喜式内稲乃比売神社 戸数六十」と記され、『武蔵四十四座調』には「男衾三座の内 稲乃比売神社は鉢形領数釜の庄 鉢形町にあり 神主相馬氏」とあり、その鉢形領数釜の庄鉢形町は、元亀 天正年間に於ける鉢形城主の威望盛なる当時の町名にして、現在 鉢形村の前名なり。
 『武鉢形外曲輪名所記』に「惣社氷川大明神稲乃比売神社 祭神四座 櫛稲田姫命 素盞嗚命 大己貴命 少彦名命 武蔵四十四座の内男衾三座の一 城中の守護神たり 元亀年中城外より勧請す」とあり、その後 幾多の星霜を経るに従ひ、社殿の朽廃せるものあるを以て、安政年間これが改築を行ひ、以て現在に及べり

  今でこそ規模の小さい社だが、荒川に臨んだ絶崖の地に位置し、天然の要害をなしていた鉢形城の南に鎮座している。古代、中世にかけては地域の一拠点としては男衾郡の他の式内社である小被神社、出雲乃伊波比神社より格段の場所に社を構えていると言える。
  当地は渡来系氏族の「壬生吉志(みぶきし)」氏の在所でもあり、古代以来祭祀を司っていたとされる。のちに氷川信仰によって「氷川神社」と社名変更したそうだ。天正18年に鉢形城が落城した際(秀吉の小田原攻め)、兵火にかかって社殿および小記録を焼失してしまったという。
 
一間社流造中々に立派な彫刻が施されている本殿

  稲之比売神社は城南中学校西に鎮座する。神社の前方50mの地点他に湧泉があり、この地を開拓して集落を形成した古代の人々が、豊穣なる収穫を祈つて稲魂を地主神として祭り、祠を立てたものと思われる。

  中世、氷川社・氷川大明神と称したが、明治維新に際して稲乃比売神社と改称した。
  神職は天長元年(824)6月28日以降代々継承して今日に至っている。






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出雲乃伊波比神社

 出雲乃伊波比神社は埼玉県に二社ある。「男衾郡・式内社・出雲乃伊波比神社」の論社は熊谷市板井に鎮座している社の他に同名で寄居町赤浜に存在する。出雲族の末と称する武蔵国造物部氏が祭る神社だそうだが、元々は「八幡神社」と呼ばれていた。
 この社は延喜式内社小被神社に非常に近く200mくらい、道路一本で結ばれており、男衾郡の中でも当時は非常に栄えた地帯だったのだろうと推測される。


所在地    埼玉県大里郡寄居町赤浜723
主祭神    須佐之男命
         (配祀)三穗津姫命 誉田別命 天児屋根命 天太玉命 天穗日命
         (合祀)天照皇大神 軻遇突智命
社  格    旧郷社  武蔵国 男衾郡鎮座        
由  緒    創立年代不詳 
                                                                                             例  祭      10月20日 大祭

                 
地図リンク
  国道140号彩甲斐街道(140号バイパス)を寄居方面に進み、花園橋北交差点を左折、荒川を抜け、最初の信号である花園橋(南)交差点を右折すると埼玉県道81号熊谷寄居線に入る。その道を真っ直ぐ行くと約300mくらいで右方向に出雲乃伊波比神社が見える。
  
木目調で歴史を感させてくれる黒く重厚な鳥居       出雲乃伊波比神社の参道 

 出雲乃伊波比神社から小被神社までは南に約200m、道路一本で結ばれており、わずか数百メートルに式内論社が2社存在するとは正直驚いた。と同時に、延喜式当時、またそれ以前にこの男衾の地はさぞかし栄えていたのだろうと、感じながら参拝を行った。
           

                       拝殿 明治14年に再建
           
                     本  殿 文政3年(1820)に再建
 出雲乃伊波比神社の御祭神は須佐之男命で、三穗津姫命、誉田別命、天児屋根命、天太玉命、天穗日命が配祀され、天照皇大神、軻遇突智命が合祀されている。
由緒
出雲乃伊波比神社

八幡塚御由緒
 赤浜の歴史は、出雲乃伊波比神社を軸として、千数百年の歩みを続けてきました。天正8年、荒川の度重なる大水害に抗し難く現在の地に集落一体となって、大移動を決行しました。その際境界決定について両者合議の上、精密なる境界構図が現存していることは往時の事実を物語る証拠であります。赤浜にとって、これ程重大な事業は以後四百年ありません。移転後、生活した下河内は肥沃に恵まれ比較的平坦でまとまった農地で赤浜地区の重要な基盤でした。しかし個々の耕作となりますと長短大小入り混じり、荒川に接近しながら用排水に難渋し、耕作道も狭くて不便でありました。昭和56年10月、農業の近代化を図るため、赤浜土地改良総合整備事業が進められ、由緒深い八幡塚も農地として整備せられしめたため、三代に渡る氏子総代、初穂組合長の協力を得て、記念碑を設立し、次の通り碑文を記しました。
宮乃井の由来

 旧郷社出雲乃伊波比神社の鎮座地は、鉢形庄、赤浜村と云われ、古は、字下河内の八幡塚に鎮座され、天正8年、度重なる大水害により、今の地に鎮座されました。旧社地の南方を宮乃東、北を宮後川端と称し、東南に宮乃井がありました。宮乃井は、神助により、豊かな水量に恵まれて、一年中、水の枯れる事はありませんでした。昭和8年、稀有なる大旱魃がありました時、赤浜の各戸の井戸水がすべて干しあがり、飲料水に欠乏したる時も、この宮乃井及び神水の根元より冷水こんこんと湧出し、赤浜は勿論、隣村富田より家内の飲み水として、更に牛馬の飲み水に至るまで使用したと伝えられていました。昭和56年10月、この宮乃井も、農業の近代化を図るため、赤浜土地改良総合整備事業により、土地基盤用排水、道路の整備、更に県道(菅谷・寄居線)高架橋が、かけられ、その存在も忘れ去られようと、しているため、私財をもって記念碑を建てました。碑文は次の通りです。

                                                                     全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年

 
                 妙見社御由緒の案内板(写真左側)と妙見社
妙見社御由緒
 赤浜地区の妙見社は、天正年間(西暦一五七三年~一五九一年)以前の遠い昔より妙見講を組織して、厚く信心して、今日なお「妙見様」の通称で親しまれていました。近年まで十二月三日の例祭日には、講中の家を順番に祭礼の準備やお祝の宿として集まり、幟が立ち先達様の祈願が終ると団子を配り、にぎやかな社頭となりました。
 諸般の事情により昭和五十年(一九七五年)三月三日を以って一時中止することになりました。長い年月で社殿の傷みも進み、倒壊寸前となり平成三年(一九九一年)二月十六日講中一同相談の結果、改築することに決定しました。四月三日仮殿遷座祭を斎行し社殿を解体したところ束木に「嘉永六年(一八五三年)癸丒孟春(みすのと丑年旧暦正月)奉造立講中為安全也」裏面には「大工 浅次良 又八」の二名が記録されていました。壁面の横板には「妙見宮殿修繕寄付連名及紀元二千五百五十五年 明治二十八年(一八九五年)と記されていました。
 平成三年四月十二日 上棟 六月二日 本殿遷座祭を斎行しました。
             
                  境内社 八坂神社 右側の石碑は不詳
 出雲乃伊波比神社は元々「八幡社」と言われていたという。由来を考えるに、「前九年の役の際、源頼義が白籏八幡社と改称した」 とのことだが、前九年の役は11世紀中期の事件で延喜式内社というのであればその当時には存在していただろう。では延喜式神名帳ができた時点での社名はどのような名称だったのだろうか。天正8年(1580)の荒川洪水の際に、古史料は流失、社史の詳細は不明となってしまったという。その後明治時代に元の名前に戻したというが、何の文献を根拠に今の社名に変えたのだろうか。
 また出雲乃伊波比神社という名前のわりに伊波比主神(経津主神)が祀られていないのはどういうことなのだろうか。




 


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小被神社

 男衾郡は郡政制度における「中」郡で,比企地方ではもっとも大きく、榎津郷・雁倉郷、郡家郷・多笛郷・川原郷・幡々郷・大山郷・中村郷の8郷で、今の大里郡江南町・寄居町・川本町など荒川右岸一帯の地域と小川町・嵐山町・滑川町など比企郡の北部地域にあてはめられていた。
 *郡政制度・・・大宝令の規定では, 郡はその管轄する里の数に応じて大郡・上郡・中郡・小郡の5等級に分類されていた。
 男衾の地名は、古く奈良時代正倉院に伝わる白布(麻布)の墨書銘に『武蔵国男衾郡狩倉郷笠原里飛鳥部虫麻呂調布一端、天平六年十一月』とある。文字情報として最古の記録。約千三百年も前の正倉院宝物の中に、男衾郡という名があり、今に伝えられているといわれている。
所在地    埼玉県大里郡寄居町富田1508
主祭神    瓊瓊杵尊  (配祀)木花咲耶姫命  彦火火出見尊
社  格     旧村社  武蔵国 男衾郡鎮座 
 
      
由   緒   
 
安閑天皇の御宇創立(531年~535年) 寛文9年(1669)現地へ遷地
         元治元年(1864)3月9日宗源神宣で正一位大明神 
                   明治4年11月11日村社
               明治41年7月1日神饌幣帛料供進
例  祭        
4月14日

                
 地図リンク
  第27代安閑天皇の時に、土地の豪族富田鹿(とみたろく)が地主神である
小被神
を祀ったことにはじまるという。恐らくは男衾郡の部民を支配した壬生氏の祭祀する神社とされる。しかし壬生氏の本拠地摂津難波から持ち込んだ神ではなく、古くからの土地神を土地豪族が祭祀していたのを壬生氏が政治的に協力する立場にあったのだろう。
                 
                     社殿の南側少し離れた場所に一の鳥居はある。
 
     少し歩いていくと二の鳥居が見えてくる。           二の鳥居を超えると左側に案内板がある。
小被神社 略誌
鎮座地  埼玉県大里郡6寄居町大字富田字宮田1508番地
御祭神  主神 瓊瓊杵尊
      相殿 木花咲耶姫命
      相殿 彦火火出見尊
由  緒 
・ 富田邑は、第27代安閑天皇の朝.1470年前郡家郷富田鹿、塚越に居住せしに始り、富川鹿が郡内鎮護のため創祀せりと、伝承。
・ 延喜式内社 第60代醍醐天皇延長5年平安時代中期に編纂された有名な書物に登載されて居ると云事。本年より数えて1081年前。
・ 男衾郡総鎮守
・ 旧村社
御神徳 
・ 瓊瓊杵尊は皇祖天照大神の御孫にて豊葦原の瑞穂国を最初に治められた神、農耕殖産興業等日常生活を営む上に欠くことの出来ぬ御神徳を有する神様。
・ 相殿 木花咲耶姫命、主祭神の奥方、燃ゆる火のなかでお産をなされた故事にあやかりてお産の神様。また美麗なる神様。富士浅間神社の御祭神。
・ 相殿 彦火火出見尊、彦は男子の美称、火火は稲の穂の豊かな形容詞、主神瓊瓊杵尊の御子神様で御父神様の後を継ぎ、国土経営をなされた神様。
祭  日 
・ 1月1日       新年祭 年頭にあたり幸先を祈念し,氏子社に互礼を交す。
・ 4月第二日曜日  春祭 神社本庁より幣饌料供進、祈年祭を併せ行う。五穀豊穣諸産業隆盛氏子豊楽入学児童の安全を祈願する。
・ 10月第二日曜日  秋祭 以前の新嘗祭を併せ行う。本年中の生業の安泰を感謝する祭典。
・ 12月31日       大祓 年間思はずも積ったてあらふつみ汚を祓い消め清潔な心身にて新年を迎える神事。
                                       平成18年10月吉日   小被神社社務所
                                                      案内板より引用
                
                          小被神社 本殿見世棚造
 小被神社は寄居町大字富田と大字赤浜のちょうど境界線上に立地している。天正年間(1573~1591)北條氏邦が当地の領主であった頃、、荒川の大洪水により、赤浜村民が標高の高いこの地北に耕作地を与えられて移転してきて土地の領有権争いが起こり、寛文9年(1669)に赤浜村との村境にこの神社を鎮座させることによって、境界を明らかにさせ、隣村の横領を防いだという。
                                                                                               
「おぶすま」という名前の本源はなぜ「小被」なのであろうか。

埼玉苗字辞典には「おぶすま」についてこう書かれている。

  
男衾 オブスマ 意部郷大(おぶ)郷に関係あるか。二項に男衾大須磨と記す。和名抄に男衾郡を乎夫須万と訓ず。平城京跡出土木簡に「天平十八年十一月、武蔵国男衾  郡余戸里、男衾郡川面郷」と見ゆ。当郡富田村に小被(おぶすま)神社あり、此地が本郷か。また、足立郡篠葉村字男衾、宿篠葉村字大伏沼(おぶすま)あり。両村(草加  市)は慶長十一年に分村す。
1 男衾郡大領の阿部族壬生吉士 古代氏族系譜集成に「孝元天皇―大彦命―波多武日子命―建忍日子命―勝目命―知香子―白猪―日鷹(雄略九年紀、難波吉士)―万里―山麻 呂(安閑二年、主掌屯倉之税)―鳥養―葛麻呂(推古十五年、為壬生部、壬生吉志)―諸手(持統四年、武蔵国居住)―富足―老―鷲麻呂(正六位上、男衾郡大領)―糟万 呂(外従七位上、郡主政)―松蔭(外正八位下、延暦十二年、補軍団大毅)―福正(外従八位上、男衾郡大領、男衾郡榎津郷戸主)―継成(三田領主)」と見ゆ。子孫は多 摩郡三田領主となる。承和八年太政官符に「男衾郡榎津郷戸主外従八位下壬生吉士福正」。続日本後紀・承和十二年条に「前男衾郡大領外従八位上壬生吉志福正」あり。
2 男衾三郎 前項の後裔か。大須磨三郎絵巻は観音霊現記物語で永仁年間の作とされている。男衾三郎絵詞に「昔、東海道のすえに、武蔵の大介といふ大名あり、其子に吉見 二郎、をぶすまの三郎とて、ゆゝしき二人の兵ありけり。吉見の二郎は、姫君一人いでき給へり、観音に申たりしかハ、やがて慈悲といはんとて、さぞなづけ給ける、慈悲 に上野国難波の権守が子息、難波の太郎をむこになさんとする。をふすまの三郎は、久目田の四郎の女を迎て、夫妻とぞたのまれける、男子三人、女子二人、いでき給へり  。吉見次郎兄弟、大番つとめにとて京上せられけり、一千余騎にてのぼり給、吉見のめのと、こうとう大夫正広というもの、三百余騎先陣の兵ニうちのぼる、吉見郎等荒 権守家綱といふものあり、正広・家綱には中田下郷をたまふべし」と見ゆ。
3 猪俣党男衾氏 富田村小被神社は、風土記稿に「延喜式神名帳に載る武蔵国男衾郡小被神社是なりと云。不動寺の持」と。无動寺氏は、一説に不動寺氏かと云う。小野氏  系図に「猪俣野兵衛尉時範―重任(男衾野五郎)―某(无動寺)」と見ゆ。富田村が本拠地か。
4 丹党男衾氏 丹庄阿保地誌に「丹党五十余家の内、男衾」とあり。本朝武家諸姓分脈系図(冑山文庫)に「秩父四郎冠者武峰―秩父太郎元房―直時(男衾二郎、改勅使河原 )―常直(男衾太郎)」と。男衾氏の本名は高麗郡(飯能市)出身の本橋氏なり。本橋条参照。源平盛衰記に男衾二郎あり。
5 畠山氏流男衾氏 幕臣飯塚氏は、寛政呈譜に「畠山庄司重能が三男男衾六郎重宗が後裔、兵部少輔重世・秩父郡飯塚の郷に住せしより家号とす」と見ゆ。また、吉川英治本 ・新平家物語に川越重頼の臣男衾源次が登場する。

 「おぶすま」に関する地名の歴史は思った以上に淵源が深い。それゆえに簡単に答えが出るはずもない。また地名の歴史と同様に小被神の存在にも興味をそそる。地主神というが祭神にも祀られていない。一体何者なのだろうか。

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