古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

中曽根南市田神社

  中曽根南市田神社の北側50m位に東西に流れる通殿川(づうどの)は延長3.7km、流域面積 7.9km2の荒川水系の一級河川。河川管理上の起点は熊谷市中曽根~小泉に設けられていて、起点から県道257号線に沿って南下し、熊谷市津田で和田吉野川の左岸へ合流する。地元の人々は通殿川を[づうどの]ではなく、[つうどの]や[づどの]と呼んでいる。[づどの]とは頭殿の読みであり、通殿と同じく中世の地頭領を意味する言葉で、近世には官位名として使われた。例えば掃部頭殿(かもんのかみとの)や頭殿(かうのとの)である。
 この通殿川の周辺地域には、不思議と頭殿や通殿といった地名が多く存在し、また社も意外に多く分布している。

 現在の流路や周辺の地形から推測すると、通殿川は近世以前は荒川の派川だったと思われる。荒川が氾濫したさいの洪水流が、村岡付近から流れ込むことによって、次第に通殿川の流路が形成されたのだろう。村岡よりも上流の荒川右岸には、近世になるまで堤防は無かった。この荒川は寛永年間(1630年頃)の瀬替えによって、熊谷市久下から大里町玉作の方へ向かって新水路が開削され(開削ではないとする説もある)、和田吉野川へ繋ぎ替えられたわけだが、それ以前から荒川と和田吉野川は、通殿川を経由して繋がっていたといえる。
 すぐ南側には郷社吉見神社が鎮座する相上地区もあり、そういう意味からも南市田神社が鎮座する中曽根地区は、大里郡と吉見郡とを河川を通じて繋ぐ重要な地だったのかもしれない。

                             
              ・所在地 埼玉県熊谷市中曽根140
              ・御祭神 瀬織津姫命
              ・社 挌 旧中曽根村鎮守・旧村社
              ・例 祭 祈年祭 221日 春季例祭 4月中旬 
                   秋季例祭 10月中旬 新嘗祭 11月23日
  中曽根南市田神社は国道17号、佐谷田(南)交差点を右折すると埼玉県道257号冑山熊谷線となり、その道路を南下し久下橋を過ぎて最初の信号を右折する。市田小学校が左側前方に見える交差点を左折し道なりに真っ直ぐ進むと左側にJA市川があり、そこの駐車場の左側奥に南市田神社は鎮座している。
 また専用駐車場はなく、隣接する「JA市川」の駐車場を借りて参拝を行った。
                       
                         社号標柱から正面の参道を撮影
            
                               一の鳥居
 
     一の鳥居と二の鳥居の間にある神橋                   二の鳥居
            
                *(2022年3月参拝時)新しく案内板が設置されていたようだ。
 南市田神社
 市町村合併が明治二十二年(一八八九)に実施され、市田村が誕生した。このことにともない中曽根、小泉、屈戸、手島、沼黒、吉所敷、天水、津田新田に鎮座していた各社を遷座統合して明治四十三年(一九一〇)に市田村の中心的な社として創建された。社地は、中曽根の村社であった五社神社の境内が選ばれた。中曽根地区は市田村の行政的な中心地であった。
 社名の「南市田」は、荒川対岸の熊谷市久下に「北市田」の小名があり、これに対して南にある市田の一を表して、神社名がつけられた。(以下略)
                                                            案内板より引用

                 
       二の鳥居の先、右側にある神楽殿                 厳かな雰囲気のある境内                
                                                                         拝 殿
 南市田神社 大里村中曾根一五〇
 明治二十二年、中曾根・小泉・屈戸・手島・沼黒・吉所敷・津田新田・高本・上恩田・中恩田・下思田の一一か村を合併し、市田村が誕生した。村名は『和名抄』に見える市田郡にちなむものであった。
 当社は、明治四十三年にこれら旧村の内の中曾根・小泉・屈戸・手島・沼黒・吉所敷・津田新田に鎮座していた各社を遷座統合し、市田村の中心的な社として創建された。社地については、中曾根の村社であった五社神社の境内地が選ばれた。これは、中曾根地区に市田村の役場が置かれ、行政的な中心地であったことによるものである。社名の「南市田」は、荒川対岸の熊谷市久下に北市田の小名があり、これに対して南にある市田の意を表している。ちなみに、この「北市田」は、江戸初期の荒川開削以前は市田村と陸続きであったという。
 遷座統合によって、氏子数は増したものの、境内地の広さは三三五坪と従来のままであった。このため、例祭などの執行に支障を来すようになり、ついに大正二年に境内の西側の田畑三五五坪を整地し、新たな境内として編入し、総面積は六九〇坪に広められた。更に同三年には社殿を中央に移し、名実ともに地域の中心的な社としての体裁を整えた。なお、統合の中心となった五社神社については『風土記稿』に「村の鎮守なり、金胎寺持」と載る。金胎寺は当社東側にある真言宗の寺院で、名主茂右衛門の先祖によって開基されたと伝える。
                                                       「埼玉の神社」より引用

 
                         
                                本 殿
  南市田神社が鎮座する熊谷市中曽根地区は平安時代中期に編集された和名抄には大里郡市田郷を載せ、「以知多」と訓じていて地名としての歴史は古い。南市田神社はその名の通り、市田村(明治22年に誕生)の南半分の村々にあった神社を合祀した神社ではなかろうか。南市田神社に祀られている瀬織津姫も、その時に遷座されたのだと思われる。
 武蔵国郡村誌(明治9年の調査を基に編纂)の大里郡沼黒村と吉所敷村に記された滝祭社は、共に村社であり、祭神が瀬織津姫である。

 一方中曽根村の村社だった五社神社には、久々能知命、火御産需命、埴山比古命、金山比古命、弥都波売命という、五行の神(木・火・土・金・水を司る神々)が祀られていた。この五行とは陰陽道での宇宙を構成する要素である。なお、下恩田の諏訪神社に末社として金山大権現(明治23年に秋葉山神社と合祀して建立、再興か?)が祀られているが、その祭神は金属を司る金山比古命である。さらに小泉村の村社だった八尾明神社の祭神は、八ツ尾の大蛇だとの伝承があった。
            
                                                社殿の左奥にある末社群             
 この末社群は左から不明、天満宮、八坂神社、八坂神社、牛頭天王宮、不明、不明。特に左側の石祠は三つ星の神紋があるが、もしかしたらミカ星(天津甕星)かもしれない。勝手な妄想だが。 
            
                                                 中曽根南市田神社 社殿からの眺め
 ところで中曽根南市田神社の祭神である瀬織津姫(せおりつひめ)は、大祓詞(おおはらえのことば)に登場する神だが、「古事記」にも『日本書紀』にもその名前が掲載されていない。大祓詞では、瀬織津姫の名前は、後半の「遺る罪は在らじと祓へ給ひ清め給ふ事を 高山の末低山の末より佐久那太理に落ち多岐つ 早川の瀬に坐す瀬織津比売と言ふ神 大海原に持出でなむ」という部分に出てくる(「比売」は「姫」の万葉仮名的表記)。
            
 「大祓詞」の内容をごく簡単にまとめると、「神々が、世の中にある罪や穢れを、遠く山の上まで行って集めてきて、川の流れに流してやると、瀬織津姫が大海原の底にいる神様にまでリレーのバトンのように渡していって根の国(あの世、黄泉の国)に送りかえしてくれる。罪や穢れがなくなってこの世が清くなる。」という意味であり、瀬織津姫は日本の神道の「お祓い」や「祓え」の考え方をつかさどる重要な役割を果たす女神である。俗にいう祓戸四柱神と言われる神々だ。
・ 瀬織津姫、山中から流れ出る速川の瀬に坐し、人々の罪穢れを海原まで流してくださる神。
・ 速開津姫(はやあきつひめ)河と海とが合わさる所に坐し、罪穢れを呑み込んでしまう神。 
・ 気吹戸主(いぶきどぬし)海原まで流された罪穢れを、根の国の底の国まで吹き払って下さる神。
・ 速佐須良姫(はやさすらひめ)根の国の底の国に坐し、気吹戸主神が根の国の底の国まで吹き払った罪穢れを流失させる神。

 瀬織津姫命は、祓神や水神として知られているが、瀧の神・河の神でもある。その証拠に瀬織津姫を祭る神社は川や滝の近くにあることが多い。

 また変わったところではこの瀬織津姫は桜の神とも言われる。
 昔「桜の木の下には死体が沢山埋まっている」と聞いたことがある。桜の木の妖気に似た美しさの源は埋められた死体の養分からできている、とよく表現されるようだ。


 話の本筋から少々脱線した所もあるが、とにかく謎の多い神である。

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行田桜町久伊豆神社

所在地   埼玉県行田市桜町2-20-35
主祭神   大己貴命、事代主命
社  格   旧村社  
例  祭   秋祭り9月18・19日

       
地図リンク
 久伊豆神社は東行田駅の北約100m、埼玉県道7号佐野行田線に面して鎮座している。
 創立は文明年中(1469-1487)とされているが、一説に応永年中(1394-1428)に成田家時が武運長久を祈ったのに始まるともいう。成田顕泰が忍城鬼門の守護神として隣接する長久寺と共に創建したという。旧村社。明治42年に町内の26社を合祀、さらに昭和30年に楯場にあった赤飯稲荷神社が摂社として合祀されている。
          
                        県道沿いにある一の鳥居
          
              一の鳥居を越えてすぐ右側にある久伊豆神社の案内板
久伊豆神社    
 
所在地 行田市桜町
 
久伊豆神社の祭神は、素盞嗚尊の子大己貴命である。
 創立は文明年中(1469-1487)で、成田下総守顯泰が忍城築城に際し、城の鬼門の守護神として当神社を祀り、隣接する長久寺を別当とした。これに合わせ、城の裏鬼門の守護神として城の南西大宮口に、やはり久伊豆神社をおいている。
 境内には15m四方の枝張りを有する藤があり、市指定天然記念物となっている。
 この藤は、境内にある赤飯稲荷を合祀する際に、市内若小玉にある「紫藤庵の野田藤」を根分けして植えたものである。野田藤は、日本原産の藤であるが、花房が1.5mもあるのは珍しい。
 なお、本社には市指定書籍の勝海舟書「大幟」原本も保存されている。
                                                    境内案内板より引用
 
              二の鳥居                 二の鳥居を過ぎると左側に神楽殿がある。
  
 神楽殿の向かい側、参道の右側には15m四方の枝張りを有する市指定文化財である九尺藤(写真左)、また近くには案内板(同右)もある。境内にある赤飯稲荷神社を合祀する際に植えたものだ。但し藤の見頃である4月の下旬から5月の上旬にもう一回参拝に来たいと正直思った。

市指定文化財 
九尺藤    昭和39年1月31日指定

 原木は長野字林の堀口和三郎方にあり、往時忍藩主より藤の肥料として搾粕二俵の下賜があったと言われています。その後、若小玉の内田牧之助方に移植され、久伊豆神社が村内合社となるに及んでその苗を譲り受け境内に移植したものです。
 目通り1.3m。
                                                      行田市教育委員会
                                                      案内板より引用
             
                              拝   殿
           
                              本   殿
 
 本殿の手前にある赤飯伊奈利大神等の石祠群      同じく本殿の奥にひっそり鎮座する稲荷社等

  また社殿の南側隣には摂社として赤飯(せきはん)伊奈利大社が鎮座 している。摂社の定義は通常、本社の 境内外にわたって配置され、多くは本社の祭神の妃神・御子神・荒魂(あらみたま),また地主 神など縁故の深い神を祀っている小規模神社の呼称であり、大宮氷川神社内に存在する門客人神社や、玉敷神社の宮目神社のような配置形態だが、この久伊豆神社に対する赤飯伊奈利大社のそれは、摂社というよりはむしろ並立神社といっても良いような立派な赤飯伊奈利大社の規模だ。
           
               摂社赤飯伊奈利大社の鳥居とその左側にある社号標
           
摂社赤飯伊奈利大社の御祭神は宇迦之御魂神。本殿真下の地下に御神体が安置してあり、真っ暗の中を参拝するという胎内参拝の儀というのがあるそうだ。
           
                              拝殿内部
 赤飯伊奈利大社の鳥居の左側には「勝海舟閣下書記念」の石碑があり、勝海舟が書いた「大幟原本」がこの社にあった。長さ10m、幅1.2m。書かれた経緯は、従来の幟は汚損し、明治維新により神号も改正されたので、明治17年11月氏子総代三氏が中心となり、東京大伝馬町の松雲堂主人の紹介で、前海軍郷参議正四位勝安芳公に依頼して書かれたものだということだ。現在は行田市郷土博物館に寄託している。ちなみにこの勝海舟書 大幟原本は市指定有形文化財となっている。

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忍諏訪神社

 関東七名城に数えられる忍城は「忍の浮城」とも称されるように利根川と荒川に挟まれた湿地帯に築かれた平城である。江戸時代の利根川、荒川の改修工事以前この二つの大河は下流域で一つに合流していたらしい。もっとも支流レベルで交わっていた可能性もあり、埼玉県東部の湿地帯と沼地の多い独特の地形も手伝ってこの忍城は守るに適して攻めるに難渋を極めた堅固な城だった。
 この忍城は沼地があったところに島が点在する地形を利用してつくられた城であり、沼を埋め立てず島に橋を渡す形で城を築いているので、橋を破壊すればその島自体は孤立し、その区域の損害は大きいが、逆に解釈すると被害はその一区画、つまり最小限度に済むという解釈も成り立つ。真に守りに重点を置き、親泰・長泰・氏長の三代にわたって戦国時代100年を巧みに生き抜いた成田氏らしい築城術だ。
 忍城本丸郭の北部に「諏訪曲輪」が存在していた。もちろん忍城を守る多くの曲輪の内の一つだが、そこには忍城築造の際に持田村鎮守諏訪社を遷座して、城鎮守とした。また成田氏代々の崇敬があったと伝えられている。
所在地   埼玉県行田市本丸12-5
御祭神   建御名方命、八坂刀売命
社  挌   旧村社、行田総鎮守
例  祭   7月26・27日


地図リンク
 忍諏訪神社は、建久(1190年頃)年間、忍三郎・忍五郎家時等一族が当郷へ居住した頃に創建されたとも、成田親泰が延徳3年(1491)に忍城を構築した際に持田村鎮守諏訪社を遷座したとも伝えられいる。明治維新後、忍城内にあった神社を当社境内に遷座したという。

       国道125号からみた諏訪神社正面の社号標石

 利根川と荒川の流れによって形成された沼湿地の中にある台地上に、忍氏は館を築いていたが、成田下総守親春がこれを攻略し、この辺一帯を統一した。成田氏は延徳年間に忍城を構築し、この時、持田村の鎮守諏訪社を城鎮守として移したのが当社であると伝えている。
 そのため持田村は新たに鎮守を勧請したという。現在の持田字竹ノ花の諏訪社がこれである。その後、成田氏代々の崇敬があり、城は、天正18年石田三成の 水攻めにも耐えたが、やがて開城し徳川家康入国後は江戸北方の防衛拠点として親藩や譜代の大名が入った。寛永16年城主となった阿部忠秋は城郭を修築し、 併せて正保2年当社の本殿を再営、寛文一二年拝殿を新たに建立した。
 文政年中松平忠義は伊勢桑名から移封するに当たり、城内字下荒井の地へ東照宮を、更に城内へ多度社と一目連社を勧請した。これらは明治6年城郭取り壊しの 際、当社境内に移される。また、城内各所にあった小祠、科斗社・八幡社・久伊豆社・荒神社・春道稲荷大明神・神明社・二ノ丸稲荷大神・天神社・両棟稲荷大 明神の九社も同時に当社へ合祀された。
                                          埼玉県神社庁「埼玉の神社」より引用
                                                                                                         

 
                忍諏訪神社拝殿
 この忍諏訪神社、特に東照宮の北側には周囲には土塁が巡らされていて水堀の痕跡もはっきり分かり、特に東照宮西側から北側には水堀がほぼ旧状のまま残っている。 
 
  
 忍諏訪神社は境内が非常に狭く本殿を撮影          本殿の左奥には御神木
            できない。
 
東照宮の北側に社務所があり、そこには諏訪神社、東照宮の案内板があった。

忍諏訪神社
 御祭神 建御名方命、八坂刀売命
 例  祭  7月27日 

 当社の鎮座したのは、82代後鳥羽天皇の建久(1190年頃)の昔、忍三郎・忍五郎家時等の一族が、館・塁等を築き居住した頃、と言い伝えられている。又「持田村誌」 には、成田親泰が延徳3年(1491)に忍城を構築し、この時、持田村鎮守諏訪社(持田諏訪神社)を城鎮守としたのが、当社であると伝えている。その後、成田氏代々の崇敬があり、寛永16年(1639)城主となった阿部忠秋は城郭を修築し、併せて正保2年(1645)、当社の本殿を造営、寛文12年(1672) 拝殿を新たに建立した。現在の社殿は昭和36年の造営である。
文政6年 (1823)、松平忠義は伊勢桑名から移封するに当たり、城内字下荒井の地へ東照宮を、史に城内へ多度杜と一目蓮杜を勧請した。これらは明治6年、城郭取り壊しの際、当社境内に移される。又、城内各所にあった小両、科斗杜(風の神)・八幡杜・久伊豆社・荒神社・春遺稲荷大明神・神明杜・二の丸稲荷大神・天神社・両棟稲荷大明神の9社も同時に当社へ配祀された。
                                                    境内案内板より引用

     諏訪神社、東照宮の案内板の隣にあった忍城俯瞰図
            

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忍東照宮

 東照宮は、東照大権現たる徳川家康を祀る神社である。
 江戸幕府によって建立された栃木県日光、静岡県久能山などをはじめとして、各地の徳川・松平一門大名家、さらには譜代大名や徳川家と縁戚関係がある外様大名家も競って建立し、全国で500社を超える東照宮が造られた。
 当初は東照社、東照大権現などと称していたが、1645年(正保2年)に宮号の宣下があり、以降は東照宮と称するようになった。その後明治時代以後に廃社や合祀が相次ぎ、現存するのは約130社とされる。
 忍東照宮は、建久(1190年頃)年間、忍三郎・忍五郎家時等一族が当郷へ居住した頃に創建されたとも、成田親泰が延徳3年(1491)に忍城を構築した頃に創建されたとも伝えられている。明治維新後、忍城内にあった神社を当社境内に遷座、明治期には村社に列格した。
所在地   埼玉県行田市本丸12-5
御祭神   徳川家康公、松平忠明命、八幡大神
社  挌   旧村社
例  祭      4月17日

       
地図リンク
  忍東照宮は国道125号を熊谷市から行田市方向に進み、忍城、及び行田市郷土博物館の国道を挟んで北側、道路沿いに鎮座している。但し国道沿いには専用駐車場はなく、忍東照宮の北側「諏訪曲輪御紋跡」の石碑のある場所に十数台停めることが可能な専用駐車場はあるが、細い道を通るので初めての方には分かりづらいかもしれない。またこの北側の駐車場は社の裏手に位置するため、そこから参拝するためには一旦行動沿いにある正面にあたる鳥居まで遠回りをしなければならない。時間があまり無かったので今回は失礼ながら境内を突っ切り一旦正面にあたる鳥居まで小走りに通り、改めて参拝を行った。
          
                         忍東照宮正面一の鳥居 
                    
                  鳥居の先やや右側には御神木が聳えている。
 当社の鎮座は後鳥羽天皇の建久年間(1190)に忍三郎ら忍一族が創建したという。成田親泰が忍城を構築した際に当社を城鎮守とした。
 文政6年(1823)に松平忠堯が伊勢桑名から移封するにあたり東照宮と桑名鎮守の多度・一目連社を勧進。これらは明治6年に当社境内に移されるとともに、その他の社を配祀した。
 社殿は昭和26年の造営。村社。
 照宮祭神: 徳川家康命・松平忠明命・八幡大神
 忍東照宮は家康の娘、亀姫が父の肖像を頂き、それを子の松平忠明に伝え、忠明が大和国郡山城で社殿を造営したことに始まっており、のちに当社に合祀された。
            
                      
                         二の鳥居から拝殿を撮影
  忍東照宮は、松平忠明公が寛永2年(1625)、大和国郡山城内に創建、松平家の移封に伴い各地に遷座、文政6年(1823)に桑名藩より忍藩への移封により、忍城内に遷座した。代々100石の社領を拝領していたが、明治維新に伴い、明治7年当地へ移っている。
                                  
          
                             拝   殿
             社頭の扁額は、芝東照宮と同様に、16代徳川家達公筆。
忍東照宮
 当社は、家康公の娘、亀姫が父の肖像を頂き、後に子の松平忠明公に伝え、忠明公が寛永2年(1625)、大和国郡山城内に社殿を造営して、肖像を安置したことに始まる。以来、藩主・藩士崇敬の社となった。その後、移封の都度遷座され、慶応4年(1868)鳥羽・伏見の戦の折、大坂蔵屋敷内の東照宮を、当社に合祀した。
 社領は、郡山当時より百石を受け継ぎ、明治維新まで続く。その地は、埼玉古墳群の辺りであったと・伝えられている。
 明治4年(1871)、藩主東京移住のために祭祀断絶の危機を迎えるが、旧藩士ら相計り、同7年に下荒井の地より、本丸の一部である諏訪郭内の忍東照宮境内一隅に本殿を移し、同33年に藩祖、松平忠明公を配祀した。現在の拝殿は昭和五年の造営である。
                                                    境内案内板より引用
                               
  案内板によると忍東照宮は、家康公の娘・亀姫が父の肖像を譲り受け、それを自分の息子・松平忠明公に譲ったものを安置するため、1625年(寛永2年)大和国郡山城内に社殿を造営したことがはじまりであると伝えられている。それ以降、東照宮は藩主によって祭祀され、松平家が移封されるたびにその都度遷座され、1868年(慶応4年)鳥羽・伏見の戦いの折、大坂蔵屋敷にあった東照宮を忍(おし)城内の下荒井に合祀した。
 1871年(明治4年)松平家が東京に移住することになり、廃社の憂き目に遭ったが、旧藩士たちの尽力により、1874年(明治7年)下荒井から本丸の一部であった諏訪郭(くるわ)内の諏訪神社の境内に本殿を合祀することで難を免れたという。つまり、もとからあった諏訪神社の境内に、東照宮が移された、ということのようだ。
                
                     諏訪神社に隣接した二の丸稲荷社
 
          多度社・一目蓮社                  多度社・一目蓮社の案内板
境内社多度社・一目蓮社
 御祭神 天津彦根神、天目一固神
現在の場所より西北に200m程の所に文政6年(1823年)、松平忠堯は、伊勢国多度山より城内に勧請。当時の境内は300坪程あり、例祭(5月5日)には神楽殿で「能」が演じられたという。
忍藩は忍宝正の名があり、宝正流の能が盛んだった。
明治6年、現在地に遷座。
折雨や海上の風難、水火の災いに霊験あるとされる。
                                                        案内板より引用


 
  

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姥宮神社

   寄居の市街地から西に峠を越えたところに『風布』地域がある。『風布』、何と優美でありながらどこか神秘的な響き、そして名前だろうか。この『風布』という地名の由来ははっきりとしないが、山に囲まれた地形から暖かい空気が空中に漂い、風が布を引いた様になる現象がみられることから付いたものと言われている。またこのフウプ(フップとも読まれる)の名はアイヌ語とも言われていて、この地形から地域全体に強風がさえぎられ非常に温暖な気候だ。  
 この風布地域は秩父鉄道波久礼駅から風布川沿いに歩いて約1時間の小さな盆地で、日本におけるみかん栽培の北限地域の一つとされている。風布みかん栽培は天正年間(1573~92)まで遡り、時の領主である鉢形城城主北条氏邦が本拠地「小田原」からみかんの木をこの地に植えたのが起源で、400年以上の歴史を持つ。
  10月中旬から12月中旬までのみかん狩りシーズンには、この地区合わせて延べ4万人もの観光客で賑わうという。

 また地区の中央を、釜伏山を源とする「風布川」が流れていて、水源の水は大変おいしく甘い水で、「日本水(ヤマトミズ)」といわれ日本名水百選に埼玉県から唯一指定されている。その風布川流域で風布地域集落に鎮座する社が姥宮神社だ。

所在地   埼玉県大里郡寄居町風布125
御祭神   石凝姥命(いしこりどめのみこと)
         ※[別称]鏡作神(かがみつくりのかみ)
社  挌   不明
例  祭   不明
       
 姥宮神社は国道140号彩甲斐街道を長瀞方面に進み、波久礼駅手前の駅前交差点を左折して寄居橋を渡るとT字路にぶつかる。そのT字路を左折して真っ直ぐ道なりに進むと15分くらいで右側に姥宮神社が鎮座する風布地域に到着する。本来ならば皆野寄居バイパスを利用して最初の寄居風布ICで降りたほうが時間は半分以下で着くことができたが風布の山林道の風景を楽しみたかったので今回は下の道路を使った。(金銭的な関係も勿論あるが、それより子供が小さかった十数年前にサワガニ取りやバーベキューを行うため、また後述するが名水である「日本水」に通じる一本道でもあるため、よくこの風布地域の清流に何度も足を運んだ思い出があった為だ。)

 姥宮神社は山間の谷間の神社で切り立った斜面に鎮座している為、これといった専用駐車場はない。但し神社の隣に社務所(?)らしい建物があり、その手前に車が駐車できるスペースがあったのでそこに車を止め参拝を開始した。

  
          姥宮神社正面鳥居                   屋根つきの立派な社号額
                                                                         貫には幾何学模様が彫られ、笠木には屋根があり、

                                                             更に額束を守るようにそこだけ取り付けられた唐破風

 この風布の地域は秩父の黒谷(和銅採掘)から連なる山なので、かじやの神様、石凝姥命を祀ったそうだ。石凝姥命とは、石の鋳型を使って鏡を鋳造する老女の意だが、天照大神が天の岩屋戸に隠れたとき、外へ迎え出すのに用いた「八咫(ヤタ)の鏡」(大鏡)を造ったのがこの命である。
 ちなみに姥宮と書いて「とめのみや」と言うらしいが、「姥」は「ウバ」とも読むので地元の人たちには「うばみやさま」ともよばれている。当地では、大蛙を蟇蛙「おおとめひき」、つまり「ヒキガエル」であり、当社の社名と同じ響きで、蛙が神使とされており、巨大なカエルの神使像が狛犬に代わって鎮座している。

 ウィキペディア「トベ」によれば、石凝姥を石凝戸辺とも書き、古くは「トベ」とも言ったようで、「トメ」(つまり後代の乙女)の語源で、ヤマト王権以前の女性首長の名称らしい。また「老」という字は、中世惣村では村の指導者(オトナ、トシヨリ)になり、江戸時代にも老中とか若年寄という職務になることを思えば、女の首長ならば姥の字を当てたのは十分納得できる。
 
  参道の石段を上ると両サイドにある神使の蛙で、写真には見えないが背には子供が3匹乗っている。
 
 姥宮神社拝殿の向かって左側には神楽殿(写真左)があり、拝殿の正面、石段の手前に不思議な石塊(写真右)があり、形状からさざれ石かもしれない。よく見ると石塊の両側には嘗て鳥居か石柱があったらしい礎石跡もあり、ある意味御神体だった可能性もある。風布地域の地形、また社殿の奥にある巨石群といい、姥宮神社の本来の御神体とはこのような石神だったのではないかと考えられる。
                        
                              拝   殿
         拝殿の屋根には十六菊の紋章がある。何故十六菊の紋章なのかは不明だ。

  この姥宮神社は元はうぶすな山という、風布みかん山のてっぺんの方にあり、そこから今の場所に移転したらしい。また宮司の姓は岩松氏という。歴とした清和源氏新田流の出であるという。筆者の母方の三友氏も新田氏の家来の子孫であり、殿様と家来の関係で恐縮であるが、どこか共通性があると人情的には親しみやすく感じるものだ。
           
                  
                                            姥宮神社拝殿の脇障子にある見事な彫り物
           
  拝殿部にも細やかで素晴らしい彫刻物が施されていた。見るとわずかに彩色が残り、往時の煌びやかな様子が偲ばれる。
          
 また社殿の向かって左側、神楽殿の隣にはこれもまた見事な御神木である「富発の杉」が存在する。
 最初は鳥居の先、石段の左側にある大杉を富発の杉と勘違いしたが、その石段左側にある大杉もまた見事だ。
     
  社殿の奥で、大杉の脇を通り、奥へ行くと胎内くぐり(写真左)という不思議な石穴があり、神潜りの岩穴と言われ、潜ると疱瘡や麻疹、罹患することはないという。胎内くぐりの岩穴の上に行くとそこにも巨石(写真右)がそこ彼処にもあった。 
   
 境内の右側、つまり道路側には境内社が存在する。2社あり、手前は稲荷社のようだが奥は判別できなかった。 
            
                        
  鳥居の左側にはこのような巨石(写真上)が。よく見ると蛙に見える。またその隣には「忠魂碑」がある(写真下)。この忠魂碑は何を意味しているのか。戦争中の戦死者を祀っているのか、それともそれ以前の明治時代のあの事件の関係か。あの事件の際にはこの風布の集落の全戸が参加し最後まで結束し勇敢に戦ったとある。考えてみると風布地区や金尾地区は今でこそ寄居町の一地区だが昭和18年に合併する以前は秩父郡であった関係で秩父と関わりが深いのもうなずけるところだ。

 この姥宮神社は決して広くない社だが、空間をうまく使って創られており、見どころも非常に多い。社の周囲は緑が生い茂り、川のせせらぎが聞こえるのどかな山里神社であるが、歴史的な重さも相まって参拝にも厳粛な気持ちで行うことができ、有意義な時間を過ごすことができた。 記憶に刻みたい素晴らしい社をまた一つ発見した、そんな思いだ。



  

 

 

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