古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

小前田諏訪神社

 村上天皇の応和年中(961~964)、奥羽地方より藤田郷に移住した鈴木氏等は、「上の原」の地に祖神の諏訪神社を祭って、土着した。彼らの遠祖は、田村麻呂将軍に従って当国より奥州征伐に行ったものという。土着に際し、信州諏訪神社大前の水田にちなみ、社前の平野を御前田原と呼んだ。「御前田」または「小前田」の地名は、この時に始まる。
  文明年中(1469~87)花園城主・藤田掃部左衛門氏家公が、領地住民の為、信濃の国諏訪より正一位南宮法性大明神を分霊勧請し、社殿を整えた。その後藤田家の離散、鉢形北条氏の滅亡により神社は荒廃したが、永禄5年(1562)小前田の住人長谷部兵庫吉長が現在地に遷座し、小前田の鎮守となった。安政5年には現在の本殿が造立。


所在地    埼玉県深谷市小前田1
主祭神    建御名方命
          八坂刀売命
          大国主命
社  格    旧村社 

創  建    応和3年(963)
由  緒    
この一帯を支配していた花園城主藤田藤田掃部左衛門氏家が、領地領民の安寧の為に、
         信濃の国の諏訪大社より分霊を勧請し、お祀りしたのが始まりとされている。

例  祭         10月第2土曜日、日曜日 諏訪神社祭礼(小前田屋台まつり)

            
  地図リンク
  小前田諏訪神社は秩父鉄道・小前田駅の南西約200mの場所に鎮座している。久喜市鷲宮の鷲宮神社と同じく、住所が小前田1ということはこの神社を中心として町が形成されたのではないかと推測する。
 当社は桓武天皇の御代、坂上田村麻呂の蝦夷征討に際し、当地から徴募された軍士の中には、彼地に永住するものもあった。その子孫が、応和3年(963)、同族と共に当国に戻り、安住するに当り、塚を築き、その上に自ら信仰する諏訪の神を祀ったのが、その始まりであるという。
     
           鳥居の左側にある立派な社号標                                  入口にある靖国鳥居
 小前田諏訪神社は鳥居を潜ってしばらく参道を歩くが正面には社殿はなく、途中右に90度曲がっている。その曲がった先に社殿が存在する。
 
         

  文明年中(1469~87)この一帯を支配していた花園城主十一世藤田藤田掃部左衛門氏家が、領地領民の安寧の為に、信濃の国の諏訪大社、正確には諏訪神社上社より分霊を勧請し、お祀りしたのが始まりとされている。永禄5年(1562)小前田の住人長谷部兵庫吉長が現在地に遷座し、小前田の鎮守となった。安政5年には現在の本殿が造立される。明治15年には蚕影神社が合併されている。
       
          
                                  拝   殿
           
                                                                  本  殿
  当社を支配していた花園城主藤田氏は、武蔵七党の猪股党の出で、猪俣野兵衛尉時範の子政行が武蔵国榛沢郡藤田郷に拠って藤田を称したことに始まる。
 武蔵七党は、武蔵国に本拠をおいた同族的武士団の総称で、坂東八平氏と称される平氏の一門とともに坂東武者と称され、弓馬に通じて武蔵・相模二州の兵は、天下の兵に匹敵すると賞賛された。 七党の数え方は一定しないが、野与党・村山党・横山党・児玉党・西党・丹党・私市党などが挙げられる。猪股党は横山党と同族で、小野篁の後裔で武蔵守として下向土着した小野孝泰の孫時範が児玉郡猪俣に居住したことに始まる。

 藤田氏の祖藤田五郎政行は平安時代末期、保元の乱源氏勢として戦に参加し、その嫡男三郎行康も源平合戦では源氏勢として参加して元暦元年(1184)の一の谷生田森の合戦で先陣をはたし戦死した。頼朝は行康の功を賞し、嫡男の能国に遺跡を安堵している。鎌倉時代を通じて常に藤田氏は時の幕府から信頼を受け、幕府問注所の寄人に召されて幕政にも参加、建治三年(1277)、問注所の寄人に召し出された藤田左衛門尉行盛は奉行人として活躍した。その後元弘元年(1331)、後醍醐天皇による元弘の変が起り、その後の動乱によって鎌倉幕府は倒れ北条氏も滅亡した。元弘三年のことで、後醍醐天皇親政による建武の新政が開始された。その間、藤田氏がどのように行動したのか、その動向は明確ではない。
  南北朝の争乱期に藤田氏がどのように行動したかは史料が少なく、必ずしも明確ではないが当初は新田義貞を大将とする尊氏討伐軍に藤田六郎左衛門、三郎左衛門、四郎左衛門らが従っていたが、尊氏方に属した者もいたようで藤田一族は二派に分かれたようだ。ただし、当時の武士団の一般的な傾向で、その背景には惣領制の崩壊がもたらした嫡庶の対立があり藤田氏もその例外ではなかったのである。その後、関東に幕府の出先機関ともいうべき鎌倉府が置かれ、藤田氏は上杉方として行動したものと見られる。
  応永二十三年(1416)、前関東管領上杉禅秀が関東公方足利持氏に反乱を起した。禅秀の乱で、上野・武蔵の武士の多くが禅秀に味方し、藤田氏一族と思われる藤田修理亮も禅秀方に属して所領を没収されている。関東は永享の乱、結城合戦と戦乱の時代を迎え、翌嘉吉元年(1441)ようやく終結する。

 藤田氏はそれ以降後北條氏の関東進出まで、山内上杉勢の四家老の一家として参加した。その勢力は現在の寄居町の天神山城を拠点として、最盛期には大里・榛沢・男衾・秩父・那珂・児玉・賀美に及ぶ広範囲であり、小前田諏訪神社もその所領内に入る。

    
八衢比賣神、久那斗神、八衢比古神             浅間神社                            天手長男神社

                           
                                     
白山神社                          その他本殿の奥の祠群

  その他和魂神社、八坂、琴平神社、蚕影神社、神明社、春日神社等が諏訪神社境内に鎮座している。

 戦国期、ついに後北條家の関東進出が顕著になる。北條氏綱・氏康親子による天文六(1537)年の川越城夜戦では、関東管領・山内上杉憲政、扇谷上杉朝定と、古河公方・足利晴氏の軍総勢八万の軍勢の一軍として参加し、敗北を喫する。これにより主家を失った藤田重利は北条氏の軍門に降り、氏康四男・氏邦を養子に迎え、その家督を譲った。同時に名も「康邦」と改めたという。北條氏邦は1560年(永禄3)以降、鉢形城(大里郡寄居町)を整備して天神山城から居城を移し、北関東の最前線の拠点として、また甲斐・信濃からの侵攻への備えとして重要な役割を担った。

 天正18年(1590)の豊臣秀吉による小田原攻めの際には、後北条氏の重要な支城として、前田利家・上杉景勝等の北国軍に包囲され、激しい攻防戦を展開した。1ヶ月余りにおよぶ籠城の後、北条氏邦は、6月14日に至り、城兵の助命を条件に開城し北條小田原家は滅亡する。そして同時に藤田氏本流としての400年の歴史が終結することを意味していた。
         

                                  諏訪神社祭り屋台の案内板が道路沿いにある。
 諏訪神社で例年催される例祭は「小前田屋台まつり」別名「アルエット祭り」といい、その屋台は3台ながら秩父市の秩父神社に負けず素晴らしいものだ。   
 
諏訪神社祭礼(小前田屋台まつり)
  旧花園町小前田地区には3台の屋台があり、いずれも明治初期に造られたもので、その雄大な造りや彫刻により、昭和52年には有形民俗文化財に指定されています。この3台の屋台を毎年10月の第2土曜・日曜日に引き出し、国道140号線の秩父往還で屋台囃子を演じながら曳(ひ)き回します。また、祭礼期間以外でも「道の駅はなぞの」にて、常時屋台を展示しています。
                                                                                                     深谷市観光協会より引用


                                                                                                                 

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瀧宮神社

 滝宮神社が鎮座する幡羅郡の郡範囲は、江戸時代の新編武蔵風土記稿によれば、今の深谷市東部(旧幡羅村、明戸村)、熊谷市北西部(旧別府村、三尻村、玉井村、奈良村、大幡村の一部)、妻沼町全域とされる。
 しかし西の榛沢郡との境界にかんしては、深谷市大字国済寺の国済寺の梵鐘(康応二年、1390年)に刻まれた「幡羅郡深谷庄」の文字から、時代によっては旧深谷町も幡羅郡に含まれていたようだ。

 滝宮神社の鎮座する西島地区は櫛引台地と妻沼低地の境目に位置し、その豊富な湧水から唐沢川の谷に流れ落つるが如く瀧に因んで、 いつしか「瀧の宮」と称して神社を祀ったという。

所在地     埼玉県深谷市西島5ー6-1
主祭神     天照大神
          豊受大御神
          彦火火出見尊
例  祭          11月3日 例大祭、12月5日 酉の市  

          
 
  深谷駅のすぐ南側に鎮座する瀧宮神社。境内は駅南口の立地にありながら広く静寂な空間が広がる。駐車場も数台止めることができるスペースが道を隔てた向かい側にある。
 
    唐沢川をはさんで南側に鎮座する     春の唐沢堤は桜で満開になる。深谷市では有名だ
       実は北向き社殿でもある
 
      一の鳥居の左側にある案内板               
拝殿に続く参道 広い空間がそこにある

滝宮神社
 古くは滝宮大明神といわれ、御祭神は天照大神、豊受媛命、彦火々出見命です。康正二年(1456)上杉房憲が深谷城を築いてより代々この神社を崇敬し、江戸期になっても代々の城主が尊信しま した。 西土手にあった八幡神社、豊受神社、侍町にあった天神社も合祀されています。
 御嶽神社
  旧城内越中曲輪になった御嶽神社を近郷近在の信者の協力によって奉遷されています。
 八坂神社
  旧城内の三社天王を天和元年(1681)宿民の総意で市神様として中山道上に奉祀されていましたが、時勢の変遷により御遷宮。昭和二十七年小学校庭より現在地に奉安。旧来の通り毎年七月二十七日深谷のぎおんと称され盛大な神輿の渡御が行なわれています.                                                                                                                                                                                                         案内板より掲載
                  
           
                               拝     殿
 創立年代は不詳。北武蔵を支配していた庁鼻和上杉氏が古河公方の度々の攻撃に本拠を移転させ康正2年(1456)に4代目の上杉房憲が深谷城を築城して以来、城の裏鬼門の守護神として深谷上杉氏が代々信仰されたという。
 境内には瀧宮神社のほかに深谷城内に鎮座していた御獄神社・深谷祭りで有名な八坂神社などが両側に祀られている。


 
        御嶽神社                演舞台                八坂神社

 今から五百有余年前の康正二年上杉房憲氏が深谷城を築造するにあたり、重臣秋元越中守の進言により城地鎮護の守護神として天地開闢の尊神、国常立尊を奉斎して城内に御嶽社を祀る。その尊厳神域はいつか城跡と共に、人々の念頭から去り荒廃その極みに達し年度の祭祀をすることさえ能わず、明治三十八年勅命により之を瀧宮神社の末社に遷座する。昭和九年深谷小学校新築敷地になり現在小学校東端の塚はこの所である。昭和二十六年GHQの神道指令により「ツゲ」の古木に神秘を留めた御嶽神社を百日潔斎の修法の下に、瀧宮神域に本殿拝殿を建設し奉斎遷座して五十一年。以来信奉者は日に日に増し霊験次々と顕れ普く御神徳を浴するものが多くありました。しかし平成十四年一月二十六日、心無い何者かによる不祥事で神社を焼失してしまいました。火災の折には、瀧宮神社、近隣の皆様をはじめ信奉者各位に多大のご迷惑をおかけしましたが、温かくその後の再建に物心両面でご協力を頂きましたことが再建の励みとなりました。以来信奉者の方々から早く再建をとの声が高まり、御嶽神社再興の主旨をご理解いただき多くの方々に過分なる御浄財の奉納を賜りました。お蔭様で茲に立派な本殿、拝殿を完成することが出来ましたので皆様の御篤心に感謝申し上げ記念碑を建立致します。
 平成十七年五月吉日
                                            御嶽神社完成記念碑より引用                                                                                
                      
      境内社殿の奥には大山阿夫利大神、八意思兼命、富士浅間大神、稲荷神ほか多数の柱、石祠が並ぶ。また社殿の手前階段右側にも多数の境内社が存在する。 
 
             
豊受神社                       左八幡神社、同右天神社
 ところで滝宮神社が鎮座する深谷市西島は利根川が運んだ土砂等でできた肥沃な低地(妻沼低地)と、荒川が運んだ土砂等でできた乾燥した台地(櫛引台地)との境界に位置していて、低地と台地の境界付近にJR高崎線が東西に走っている。滝宮神社はJR高崎駅のすぐ南にあり、この櫛引台地の北端部に位置していて古来から湧水が豊富な地として「霊泉の社」、そして「瀧の宮」と言われるようになったという。
            
  この櫛引台地は、構造的には武蔵野面に比定される櫛引面(櫛引段丘)と、南東側の立川面に比定される寄居面(御稜威ヶ原(みいずがはら)段丘)とで段丘状に形成されている。

 櫛引面は、JR高崎線沿いの崖線で比高差5~10mをもって妻沼低地と接しているが、寄居面は高崎線より北へ1.5~1.8mほど延びていて、比高差2~5mをもって妻沼低地と接している。接線付近での標高は櫛引面が40~50m、寄居面が32~36m、妻沼低地が30~31mである。
櫛引面は標高70m付近より発する上唐沢川、押切川、戸田川、唐沢川あんどが北に向かって流れしていて、櫛引面北端部は南北に台地を開析する浅い谷が発達したものと考えられる。
 その一方滝宮神社は櫛引台地と妻沼低地との境界線、つまり言い方を変えると「活断層」の境界線上に鎮座しているとも言える。事実この一帯は有名な「深谷断層」、正式名称では「関東平野北西縁断層帯」が存在し、その断層帯の一つがこの深谷断層であるとのことだ。深谷市による地震ハザードマップには「関東平野北西縁断層帯主部」において、全体が1つの区間として活動する場合、マグニチュード8.0程度の地震が発生する可能性があり、また、その際には南西側が北東側に対して相対的に5~6m程度高まる段差や撓みが生じる可能性も指摘されている。
 またこれも関東平野北西縁断層帯のうちの一つの断層帯である平井-櫛挽断層帯では、全体が1つの区間として活動する場合、マグニチュード7.1程度の地震が発生する可能性があり、またその際には2m程度の左横ずれを生じ、北東側が南西側に対して相対的に高まる段差や撓みを伴う可能性があるとのこと。

 本断層帯の最新活動後の経過率及び将来このような地震が発生する長期確率は不明という。日本は温泉や湧水など自然の恩恵を受ける利点だけでなく、火山大国であり、地震大国であるマイナスファクターもこの社を散策するによって学ぶことができる。なんとも複雑な気持ちだ。


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波羅比門神社

 寄居町保田原にある波羅伊門神社からそれ程遠くない場所にこの波羅比門神社は鎮座する。この二つの神社の名前はどちらも 同じ「はらいど」と言う名前で、地元の人からは「バラモン様」と呼ばれているという。祭神である瀬織津姫は、禍事・罪を川から海へ流し込む神で、祓戸四柱大神のひとつと言われている。ということは本来の神社名は「祓戸」神社ということになる。しかし、寄居という小さな街に、加えてそれ程遠くない場所に、ほぼ名前の同じ神社が鎮座しているということは何を意味しているのだろうか。
 この瀬織津姫は歴史的にその神名を伏せられ封印されてきたためか、不明なことばかりで、その神秘さと、正逆相反する神性といい、封印され続けてきたという儚さなどから、知る人にとっては大変魅力的な神だ。ある本ではこの神の淵源は遠く縄文時代に遡るとも言われる。
 瀬織津姫を祀る神社は日本全国で500社ほど存在するが、その大半は配神か合祀で、主祭神としている神社は極めて少ない。この極めて少ない社の内の二社がこの埼玉県、そしてこの寄居町に存在している事実は重要なことだ。
・所在地    埼玉県大里郡寄居町西ノ入738

・主祭神    瀬織津姫(禍事・罪を川から海へ流し込む神、祓戸四柱大神のひとつ)
・社  格     旧村社         
・由  緒   
 不明

・例  祭    不明 

                 
  波羅比門神社国道140号線を寄居方面に進み、「末野陸橋交差点」で左折し、埼玉県道30号飯能寄居線を鉢形城方面へ道なりに直進する。途中消防西分署前の次の交差点を右折し荒川を越えて、2番目の交差点を右折して、南方向へ道なりに真っ直ぐ進み、折原駅前を抜けて約500m程で右手に静かに鎮座している。
 祭神は瀬織津姫で、通称川の神と言われていて、
波羅比門神社
の北側には荒川が流れ、また一方、正面、西側方面には深沢川が流れているのも関係があるとも考えられるがの近くにある関係で祭神が瀬織津姫というのであれば、国土が狭く起伏にとんだ日本の国土はほぼこの神様だらけになってしまうのでその他の深い由緒、由来があるに違いないと考える。
 
        鳥居から見た神社の風景              鳥居の額には三匹の青龍が絡み付いている。
       鳥居の前は道路をはさんで深沢川が流れる
                        
                                                               拝          殿
                                           山の傾斜を利用して社殿が建てられている
                        
                                                               本          殿
                                               朱と白を基調とした女性的な雰囲気
 波羅比門神社の両側には右手側に八坂神社、左手側に稲荷神社がある。右側の八坂神社に近づこうとしたところ、突然警報音が鳴ったので驚いた。見れば、拝殿の角にセンサーが設置されており、このスロープを上ろうとすると警報が鳴り出すようだ。おかげで八坂神社には近づかず、望遠にて撮影した。
 
         拝殿左側にある稲荷神社               拝殿右側、坂を上った先にある八坂神社

 波羅伊門神社波羅比門神社も同じ「はらいど」と言う名前だ。祭神である瀬織津姫は、禍事・罪を川から海へ流し込む神で祓戸四柱大神のひとつと言われているということは本来の神社名「祓戸」神社ということになる。しかし、寄居という小さな街に、それ程遠くない場所に、ほぼ名前の同じ神社が鎮座しているということはどういうことなのか
 また瀬織津姫を祭祀する神社は全国に500社以上あるという。調べれば調べるほど謎の多い、同時に魅力的な女神だ。不思議なことに日本最古の歴史書である『古事記』にも『日本書紀』にもその名前が掲載されていないが、「大祓詞(おおはらえのことば)」という祝詞の文句の中に登場する「瀬織津姫(セオリツヒメ)、速秋津姫(ハヤアキツヒメ)、速佐須良姫(ハヤサスラヒメ)」の三女神として登場する。「大祓詞」は現在でも重要な祝詞と考えられていて日本全国の神社で六月と十二月の晦日に「大祓(おおはらえ)」という儀式が行なわれるが、その際に必ず唱えられるほど、重要な女神である。(後年この三女神は瀬織津姫として習合される。)
 瀬織津姫は歴史的にその神名を伏せられ封印されてきたためか、不明なことばかりで、その神秘さと、正逆相反する神性といい封印され続けてきたという儚さなどから、知る人にとっては大変魅力的な神だ。ある本ではこの神の淵源は遠く縄文時代に遡るとも言われる。
  もしかしたら
瀬織津姫はこれまで思われてきた以上に奥深く、日本の古代史を解明するための鍵になるかもしれないと勝手ながら推測しているがいかがなものだろうか。

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波羅伊門神社

 波羅伊門神社の御祭神である瀬織津姫は大祓詞に登場する「祓戸四神」の内の一柱で、災厄抜除の女神である。神名の名義は川の早瀬の穢れを清めるとある。
 祓神や水神として知られるが、瀧の神・河の神でもある。その証拠に瀬織津姫を祭る神社は川や滝の近くにあることが多く、日本全国で約500弱とも言われている。

・所在地    埼玉県大里郡寄居町保田原18
・主祭神    瀬織津姫(禍事・罪を川から海へ流し込む神、祓戸四柱大神のひとつ)
・社  格     旧村社        
・由  緒   
 文化十二年(1845年)に建立

・例  祭    不明

              
 波羅伊門神社は県道81号線熊谷寄居線をひたすら西へ進み、塩沢交差点で国道254号線に合流したら、更に西へ。露梨子交差点で埼玉県道30号飯能寄居線を北上したら鉢形郵便局先の交差点で右折、東武東上線の踏切を越えるとすぐ右側に浄恩寺があるので、その手前を右折し進んで行くとやがて左側に波羅伊門神社が見えて来る。場所的には概ね
「さいたま川の博物館」南側にある。鳥居のすぐ隣に駐車場があり、そこに止め参拝を行った
       

 
              
一の鳥居                 鳥居を抜けると正面に神門が見える
 一の鳥居の前にある石垣の配置状況を見ると、男衾の小被神社(おぶすまじんじゃ)も以前はこんな造りだったようだ。それにしても鳥居の前が交通止めのように石垣造りになっているのは不思議だ。また鳥居を抜けると正面に神門が見えるが、このような場所にこのような門を構える神社があるとは正直驚きだ。
                             
       
              神門を抜けると広い空間がひろがり、境内が一望できる。
          また写真右側に「波羅伊門神社神宝狐稲荷社改築記念碑」が見える。

『波羅伊門神社神宝狐稲荷社改築記念碑』
  波羅伊門神社は、文化十二年(1845年)に建立されました。
 歳月の経過により老朽化著しく年々氏子間で改築か話し合われ機熟して早期改築のご賛同を得ました
 歴史的なこの大改築に巡り合わせた機縁を先人に感謝し併せて子孫長久の願いを籠めて本事業を計画し壱千六百万円の貴重な神社の財産を基に、氏子の皆様にご奉賛のご協力をご依頼申し上げ、百拾余名の皆々様の温かいご支援に依ってこの改築を成し遂げたのです。
 神宝狐稲荷社については、曽て大字保田原一二八杉山いと様がその土地を贈与により社有地として奉献された経緯があり孫に当たる大字保田原三七九杉山正徳様が改築奉献されました。
 茲に両事業の経過を略記すると共にご奉賛いただいた方々のぎ芳名を記し永久に後世に伝えようとするものです。
                                          平成十二年十月吉日
       
                           
拝  殿
      
                         拝殿とその奥にある本殿                  
波羅伊門神社の御祭神は
祓戸四神の一柱である瀬織津姫命。瀬織津姫命は禍事や穢れを川から海に流す役目を受け持つ神である為、神社は川の近くに建てられることが多いようだ。

         境内社 祭神は不明                  左は金毘羅宮。右は不明
    
社殿奥にある境内社、扁額を見ると「桜宮社」とも読め      右側の石碑は大黒天を祀る
 るが。その社の奥にある中国風の境内社は不明。

 波羅伊門神社の御祭神は祓戸四神の一柱である瀬織津姫命瀬織津姫命は禍事や穢れを川から海に流す役目を受け持つ神である為、神社は川の近くに建てられることが多いようだ。また桜の神様とも言う。
 全国で瀬織津姫を祀る神社は500弱あると言われている。しかし別名に(ミズハノメ神、アマサカルムカツヒメ神、ヤソマガツヒ神、オオマガツヒ神、梓川大神、倭姫、 天伯神、弁財天、市杵嶋姫、紫波姫、オシラ様など、)の説があるが、 それらを含めるとその倍以上になると思われる。
祓戸の四神の名前『古事記』や『日本書紀』には直接登場しませんが、いくつかの古い文献にはその名が見られ、謎の多い神々とされている。
 


 

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末野神社

 寄居町は埼玉県の北西部、都心から70km圏に位置している。荒川の中流域、長瀞のすぐ下流に位置し、その左岸に街が発達する。古く秩父住還の街道筋にあり、宿場町として栄えた。また、街の対岸にはかつて鉢形城があり、その城下町でもあった。寄居から山よりは秩父山地と上武山地に挟まれた渓谷となっている地形から、古くから地の利を生かした要害であった。現在でも国道140号、国道254号及びJR八高線・東武東上線・秩父線が接続する交通の要衝地となっている。国道140号線は今でも秩父に至る主要道路であり、律令国家以前の古代において秩父国造はこの地の重要性を認識していただろうし、この地の確保は自国の命運を握っていたと推測する。

 
所在地    埼玉県大里郡寄居町末野495-1
 主祭神    
豊宇気昆売命、建御名方命、宇迦之御魂命 他10神
  
 社  格     不明 後述 「大里郡神社誌」によると社格は旧村社であったのでここに訂正する。)
 
      
 由  緒    
末野神社は、諏訪神社、稲荷神社七社、天御中主神社、天神社、他11社が合祀・移転
                     され飯玉大明神と命名され,後明治43年2月3日末野神社と改称された。
 行  事
       元旦祭(1月1日)・記念祭(4月4日)・しんなめ祭(12月8日)他

          
地図リンク
  末野神社は国道140号線を長瀞方向へ向かい、寄居末野郵便局先の末野交差点を右折し踏切を越えすぐに左折し、道なりに直進し5分位で左方向にこんもりとした社が見える。線路脇で道路沿いの神社だが、森のある静かで落ち着いた雰囲気を持つ神社だ。付近の山麓には埼玉三大窯跡のひとつである奈良期の「末野窯跡群」もあり、神社自体も重厚感のある落ち着いた社であるにも関わらず、案内板がないため、主祭神も由緒も創建年代も全くの不明。
 ただ末野の名前の由来としては、須恵器を生産した野であったとも、荒川扇状地の行き詰まりの地であるという地形的な意味あいから付けられたとも云われている。
 
            社号標と鳥居                       参道より社殿を望む
    社殿は鳥居をくぐって右側に鎮座している                   
               

           
                            拝       殿 
 由来等の案内板が全くない。これほどの社殿なのに残念。また拝殿の彫刻が目を見張るほど素晴らしく、拝殿の左側の壁面には神殿改修記念の額にも龍と狛犬が飾られている。
 
             鞘堂内本殿             荒川に地形的に近いせいか土台がしっかりしている 
                                     石垣と間違えるような男性的な外観

  末野神社は国道140号線沿いに鎮座している。ゆえに荒川、またその支流である逆川に地理的に近く、鎮座地の標高も他の地域よりも低いように見える。社殿の基礎部分寄居の隣町長瀞の岩畳で有名な結晶片岩を使用しているようなので、社というよりも、城のイメージが強く、印象深かった。
                                                                             
『埼玉の神社』 末野神社について
 ≪元来末野には鎮守が三社あり、それぞれ氏子区域を異にしていた。その三社とは、西から飯玉神社(江戸時代には飯玉明神社)、箱石神社(江戸時代には箱石権現社)、諏訪神社で、いずれも創建の年代は不明ながら、古くからそれぞれの地区の住民に厚く信仰されてきた。
 これらの鎮守三社を政府の合祀政策に従って地内の各地に祀られていた他の無格社と共に
明治四十二年に飯玉神社に合祀し、更に同社を末野神社と改称した。

 末野神社の境内にある石碑「末野神社」に、明治四十二年の合祀にかかわったすべての神社が記載している。その二十四社は以下のとおり。


 字金場の村社飯玉神社、字諏訪東の村社諏訪神社、字関根の稲荷神社・八坂神社、字蔵屋敷の稲荷神社、字関口の天御中主神社・稲荷神社、字羽場の山神社・水神社・大天白社・稲荷神社、字上大正寺の稲荷神社・白山神社、字浦山の稲荷神社・八幡神社、字八王子の山神社・天手長男神社・琴平神社、字箱石の浅間神社、字竹原の天神社、字日山の二柱神社・稲荷神社、字東日山の神明社、字山神の山神社。       
 
           学問の祖・大木之森天神宮                                 末社二社
        
     
         社殿北側奥にあった社日
  末野神社から真北に円良田湖がある。円良田湖は逆川を堰き止めた人造湖であるが、逆川流域の窯跡群は、末野窯跡第2支群といい、円良田湖南端付近から末野神社付近まで、逆川によって開析された谷の東傾斜面に位置し、奈良から平安期にかけて、須恵器窯として使用されていたようだ。

末野窯跡
  飛鳥時代(七世紀)から平安時代中期(十世紀)へかけて、須恵器や瓦が盛んに焼かれた登り窯跡で、付近に九十基近く存在していたことが判明しており、末野窯跡群と総称されている。古代の 一大焼き物産地だったわけで、近くに原料の粘土採掘坑跡も確認されている。ここで焼き上げられた製品は、荒川の水運を利用して、各地へ運ばれていったに違いない。奈良時代前期(八世紀 前半)に創建された武蔵国分寺(国分寺市)の屋根瓦も、ここで焼かれている。今も須恵器片や瓦片の出土例があり、地名の末野も、須恵、陶から出たものという。登り窯による焼成法は、五世紀の 中ごろ大陸から伝えられたといわれる。末野には、早い時代に、朝鮮半島から渡来した須恵器づくりの技術をもつ集団が住みつき、大陸文化を広めていったということだろうと推測される。

 末野遺跡は、「すえの」の名が示すとおり古墳時代から窯で焼成された堅い土器(須恵器)を生産していた場所でした。そもそも古代武蔵の国(現在の神奈川県の一部と 東京都及び埼玉県  全域)には、四大窯跡と呼ばれる須恵器生産の拠点がありました。南から、南多摩窯跡群(東京都八王子市)、東金子窯跡群(埼玉県入間市)、南比企窯跡群(埼玉県東松山市、鳩山町他)、  末野窯跡群(埼玉県寄居町他)の4か所で、内3か所が埼玉県西部に集中しています。
  末野遺跡では、窯跡群の一部が調査され、古墳時代後期(1400年前)から平安時代の須恵器窯が調査されています。生産されていたのは、須恵器甕・皿・坏などの食器類のほか、瓦、埴輪   など多彩な製品が確認されています。さきたま古墳群の中の山古墳で使われている埴輪もここから供給されていたことが分かっています。また末野遺跡は、須恵器生産に関連する窯跡群の他、 須恵器を生産する工房の跡や材料の粘土を採掘した跡に加え、鉄生産の行っていた痕跡も残しています。 
                                                                                                埼玉県教育委員会ホームページより引用
                                                                                    


            

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