古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

西和田春日神社

 筆者は日頃より、越生町の代表的な社は、その地名を冠した「越生神社」であると、勝手な思い込みをしていた。確かに、武蔵七党の児玉党の一族たる越生氏が高取山に居館を構えた際に、鎮守として文治年間(1185年〜1190年)に氏神として「琴平社」を創建したことに始まった越生神社の歴史は確かに深く、越生町を一望できる高取山の麓に鎮座しているという地形的にも絶妙な場所でもある。
 が、今回参拝した西和田春日神社は、古来より越生十六郷の総鎮守として崇敬されてきた越生町の代表的な社であるという。越生十六郷とは「上野村・今市村・如意村・黒岩村・和田村・大谷村・鹿下村・成瀬村・津久根村・大満村・黒山村・小杉村・堂山村・上谷村・箕和田村・竜ケ谷村」の諸村の総称で、この地域を束ねる社がこの社であった。
 春日神社の創建年代等は不詳ながら、延暦元年(782)の創建だと伝えられ、征夷大将軍坂上田村麻呂東夷征伐の際に当地へ遷座し内裏大明神を祀り、平将門が当地に内裏を置いたといい、『新編武蔵風土記稿 和田村』の春日神社の記載では、左遷された藤原季綱(毛呂氏の先祖)が越生郷に幽棲、秩父郡高山の峯に放った光を内裡明神と称して祀ったともいう不思議な伝承が伝わる社でもある。
        
            
・所在地 埼玉県入間郡越生町西和田317
            
・ご祭神 天児屋根神 武甕槌神 斎主神 比売神 誉田分神
                 
木花咲耶比売神 菅原道真公 倉稲魂神 大己貴神
                 
太田神 大宮比売神 中筒男神 表筒男神 底筒男神
                 神功皇后 大日靈神(十六柱之神)
            
・社 格 旧越生十六郷総鎮守・旧村社
            ・例祭等 建国際 211日 祈年祭・勧学祭 43
                 例大祭 109日 新嘗祭 1123
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9697946,139.2967487,17z?hl=ja&entry=ttu
 古池鹿嶋神社から埼玉県道30号飯能寄居線を越生町・街中方向に2㎞程南下し、「黒岩」交差点を左折する。越辺川を過ぎてJR八高線の踏切を越えるとすぐ左側に西和田春日神社が見えてくる。
 社はJR八高線に沿って南向きに鎮座。駐車スペースは、社の正面に対して道路の反対側に専用駐車場があり、そこに停めてから参拝を行った。
        
                 西和田春日神社正面
『入間郡誌』による「西和田村」の解説
 西和田は如意の西北に接せり。其如意と境を接せる辺、山吹と称する地名あり。或は言ふ。太田道灌の山吹里なりと。然るに道灌山吹の物語は史実として殆ど信ずるに足らず。従て道灌優美の心情を形容せる一伝説とのみ解すベし。然らば此地を以て其古跡なりとするも可、なさゞるも不可なき也。
 西和田地域は、嘗ての今市村の北東、越辺川左岸低地と岩殿丘陵上に位置している。江戸時代の田園簿に村名がみえ、田高一二八石余・畑高四五石余で、幕府領であった。寛文八年(一六六八)に検地があり(風土記稿)、元禄郷帳・国立史料館本元禄郷帳では高一五五石余、旗本稲生領。田畑用水は越辺川から引水した。
 春日神社は古くは内裡(だいり)明神とも称し、越生郷の鎮守であったと考えられている。
        
              鳥居を過ぎて参道の先にある隋神門
        造りが新しいからか、門の両側にある阿吽の隋神像は見えない。
        
          隋神門の右側手前に設置されている「春日神社略記」
 越生総社 春日神社略記
 由緒
 延曆元年(七八二年)創建
 内裏山獅子岩の傍に祭祀されたるを征夷大将軍坂上田村麻呂東夷征伐の際、現在の地に遷し宮殿を築し内裏大明神を祀る。平将門が当地に内裏を置いたとされ、その後、延喜年中常陸大掾、平国香(將門の伯父)が修繕、松山城々主上田能登守の再建を経て、寛政十年四月内裏大明神を改称春日大明神改め、春日神社、越生十六郷総鎮守と定む。慶安三年将軍徳川家光より社領を賜う、明治四年上地令によりこれを奉還。
 猶、平安末期藤原季綱公、越生郷に居住し、阿諏訪山に遊猟せし時氏神秩父郡高山の峰に光を放ち、季綱公之を謹み拝し当社に祭ると伝承されている。
 内裏と称するは越生郷内、内裏宮常住、明応三年と有る、内裏の称累代社家石井氏の家号と同じくするもの也、昭和二十年以降国家の庇護を離れ氏子崇敬者皆様の基とし現在に至る。
 現在の社殿は今上陛下御大典(平成五年)の折改修されたものである。
 平成二十八年八月吉日 春日神社宮司記
                                      案内板より引用

 
隋神門を過ぎ、石段を登ると社殿が見えてくる。   石段を越えた右側奥に手水舎がある。
        
               拝殿の手前で右手にある神楽殿
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 和田村』
 春日社
 慶安二年社領五石の御朱印を賜ふ、天文十二年龍穏寺第七世僧良筠が書し緣起を閲るに、當社は昔藤原季綱と云人左遷せられ、此越生鄕に幽棲して、一日阿諏訪山に遊獵せしに、其氏の神はるばると慕ひ来り、秩父郡高山の峯に光をはなつ、これ則毛呂明神なり、季綱謹で拜し、やがて一體を二所に祝ひ祝り、當所に祭れるを内裡明神と稱せり、今按に此緣起の原本には、毛呂の先祖季綱を季綱親王と記せり又當國へ配流せられうと記せしは共に誤なり、季綱は毛呂太郎が名乗にて、【東鑑】にも此人のことをのす、殊に毛呂は藤原姓にて、皇別の家にも非ず、又當國は古より配流の例なし、緣起の妄なること知べし、されど内裡と稱することは舊きことにや、堂山村最勝寺の什物大般若經の櫃の裏書に、越生郷内裡宮常住也明應三年とあり、然るを慶安年中御朱印を賜んことを願し時、内裡の唱大内にふるる故書替しと云、又云此社は延暦元年村内願龍山と云所に鎭座せしを、永祿元年上田能登守今の地へ移せしと云、此説の如きは前の緣起と異なり例祭九月廿八日・廿九日の兩日、流鏑馬を修行す、此流鏑馬式の來由尋るに、近戸權現別當最勝寺古當社の別當職を兼し頃、當社の寶物大般若經を所望し、神職及氏子に請て最勝寺に送りし時、彼近戸權現の舊例に行はるる流鏑馬式と易しより、以來當社にて行ふと云ふ、されど今も社内に般若經二三巻あるは、そのかみ最勝寺へ移せし時、たまたま取道せしならん、此社今は今市・大谷・黒岩及び當村の鎭守となせり、
 攝社 太神宮 八幡社
 末社 八百萬神社 稻荷社 天神社
 神職 石井肥前 京都吉田家の配下なり、
 藤原季綱舊跡
 字内裡にあり、此地昔藤原季綱が配せられて謫居せし所なりと云、季綱後に横見郡吉見領御所村に移りしと云傳ふ、然に土人は季綱親王と號するは全く誤なるべし、配所と云も又うけがたき事前に辨ぜし如し、おもふに越生氏の祖、大納言藤原遠峯などの邸蹟などにや、

        
                    拝殿内部
 
   拝殿の左側に祀られている境内社     内裏大黒天社の隣には「古代祭祀遺蹟・虎石」
       内裏大黒天社          奥には注連縄で祀られたご神木らしき幹あり。
        
            拝殿の奥には本殿が独立して祀られている。
『入間郡誌』には、『新編武蔵風土記稿』に記されていない当社の解説があり、全文掲載する。
 春日神社
 大利にあり。宝永三年密僧天龍なるものゝ編せる記録によれば、社は延暦元年大和国春日大明神の分霊を祭りしものにして、内裏明神と称し、当時は大利山(願立山とも云ふ)上獅子岩の辺にありしを、大同元年阪上田村麿の今の処に移せるなりと。遽に信ずベからず。風土記に載する天文十二年龍穏七世良?
(竹冠に均)が記せし緑起に藤原季綱此地に左遷せられし時、其氏神慕ひ来りて、秩父高山の峯に光を放てり。之を毛呂明神となす。季綱依て二所に祀り、此社を内裡明神と称す。何れも採用すベからざる個処甚だ多しと雖、要するに毛呂氏の氏神にして、其古く此地に勧請せられたるを推知するに難からず。然れども毛呂臥龍山の飛来明神との関係明かならず。暫時一体二所分祀の説に従ふも不可ならず。内裡明神の称古くより行はれたり。永禄元年松山城主上田能登守再営、次で内裡明神の名を廃し、春日神社と称す。明治四十年大谷富士塚の浅間、天神、稲荷、同堀内の八幡、同房の神明、同仲ノ谷の住吉、西和田東尾崎の八坂等の諸社を合祀せり。
『入間郡誌』では、『風土記稿』にて表記されている「内裏(内裡)」に関して、その大元は「大利」であることを記している。この「大利」が何を根拠にしてこのような表記となったかの説明はない。この地域の小字も確認したが、『風土記稿』には残念ながら載っていなかった。
「内裏」(だいり)とは、基本的に古代都城の宮城における天皇の私的区域のことで、現在京都にある「京都御所」がこれに当たる。禁裏(きんり)・大内(おおうち)等の異称がある。
『新編武蔵風土記稿』に記載されている「春日社」の内容において、この地に嘗て「内裏(内裡)」があったという伝承に、『同風土記稿』の編集者たちも「緣起の妄なること」と記していながらも「内裡と稱することは舊きこと」と、その名称が古くからあったことについては、一定の理解を示している。これは『入間郡誌』の編者も同様である。

 由来不明の「内裏」の名称。その鍵を握るヒントは、武蔵国における修験霊山・霊場である「越生山本坊」ではないかと筆者は考える。
 越生山本坊は、越生町の黒山三瀧(男滝・女滝・天狗滝)及び熊野神社、本山派修験の道場であり、入間・比企・秩父三郡、常陸・越後(一部)の年行事職大先達であった。熊野神社は古くは「将門宮」と称し、平将門の13代目末裔との伝承が残る栄円により、関東の熊野霊場として応永五年(1398)に修験道場(越生山本坊)を開いたと伝えられていて、京都聖護院配下の本山派修験二十七先達の一つに数えられている。
 この山本坊栄円は「相馬掃部介時良」が本名であり、平将門の後裔といわれる相馬氏出身でもある。詳しくは「露梨子春日神社」参照。
     
            本殿の右手奥に聳え立つご神木(写真左・右)
        
                                社殿から眺める風景
 
 参拝が一通り終了し、帰路に向かう。帰路にも順路があるようで、隋神門から直接戻るのではなく、門手前で左側に進む道があり、隋神門の右側に祀られている境内社に向かう道を進む。そこには「若宮八幡宮」の石祠や、若宮八幡宮の右手には「藤原大納言遠峯・季綱邸蹟と平将門内裏蹟」の石碑もある。(写真右)
 西和田春日神社の正面にある鳥居から隋神門に向かう参道の右側には「西和田集会所・兼社務所」があり、そこには広い空間が確保されている。隋神門の右手にある「若宮八幡宮」や「石碑」の並びで、社務所の奥の角地には「天照皇大神」の掛け軸と共に幾多の境内社・石祠が祀られている。(同左)
             
   鳥居の手前でJR八高線の踏切近くに設置されている「春日神社の流鏑馬」の案内板
 春日神社の流鏑馬
 毎年十月九日のハツグンチ(初九日)に、大谷から「一の馬」、西和田から「二の馬」が出て、この直線道路に設けた馬場を騎馬が駆け抜けていた。幕末のころまでは、今市村(現大字越生)の「三の馬」も参加していた。
 当地の流鏑馬は、坂上田村麻呂が東征の折に奉納したのが起源で、長く途絶えていたのを戦国時代に松山城主の上田能登守が再興したと伝えられている。また、堂山の最勝寺に伝来していた流鏑馬と、春日神社が所蔵していた大般若経を交換したとの伝承もある。
 大谷と西和田、各々数十軒で組織するマトウ組(的組=流鏑馬組)が永く伝統を継承していた。 昭和三十四年(一九五九)を最後に大谷が退いてからは西和田だけで続けられていたが、昭和四十一年に台風で中止され、以来中断されたままになっている。
 平成二十七年三月  越生町教育委員会
                                      案内板より引用

        
               駐車場側から見た境内の風景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「入間郡誌」「日本歴史地名大系」「越生町HP
    「Wikipedia」「境内案内板」等
      

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越生神社

 越生町(おごせまち)は、埼玉県の西部にあって、入間郡の北西部、秩父山地の東麓に位置し、東は比企郡鳩山町、南東から南は毛呂山町、西は飯能市、北は比企郡ときがわ町に接しており、東西に9.5㎞、南北に7.9km、総面積40.39km2を有していて、人口 110292020。入間川支流越辺川の谷口集落として発展した町で、中心部は同川の河岸段丘上にある。
 当地は古くから仏教文化が栄え、如意(ねおい)観音寺の如意輪観音像、堂山最勝(どうやまさいしよう)寺の釈迦如来像、越生法恩寺の大日如来像など平安期の仏像が残り、中世は越生郷の中心地で、同郷を領した越生氏の本貫地でもある。関東三大梅林の
1つである越生梅林を有している。
『新編武蔵風土記稿 今市村』
「當村は越生郷十六村の本村にして、古くより市場となせし所なれば、越生の今市とも唱へ、又越生とのみも呼べり、現に寛永十年毛呂郷前久保村八幡へ、材木を賜りし時の記録に、市川孫左衛門御代官所越生村と書したれば、此頃はかく唱へしこと知らる、今市と改めし年代は詳ならざれど、正保の改めに高室喜三郎が御代官所今市町と出たれば、此以前より唱へしこと知らる、元禄年中の郷帳には町を改めて、今の如く今市村と記せり(中略)當所は相州及び八王子邊より上州へ通ふ往來の宿驛なり」
 中心地区の越生は越辺川の谷口集落で,鎌倉時代から既に市が開かれていたことから、嘗ては「今市村」との村名であったという。「今市村」は現越生町の南東部、大高取山の東麓の山裾で、越辺川右岸台地に立地し、古くから上野国と相模国を結ぶ街道上の要衝であった
        
             
・所在地 埼玉県入間郡越生町越生1015
             
・ご祭神 誉田別命 大山咋命 素盞嗚命 倉稲魂命
             
・社 挌 旧村社
             
・例祭等 越生まつり/神輿・山車 7月下旬
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9625121,139.2959214,17z?hl=ja&entry=ttu
 JR八高線越生駅西口から西側に南北に通る埼玉県道30号飯能寄居線を北上し、最初の丁字路を左折し250m程進み、突き当たりから正面に見える細い路地を道なりに進むと、越生神社が左手に見えてくる。
 社の創建年代は不詳としながらも、元来は武蔵七党の児玉党の一族たる越生氏が高取山に居館を構えた際に鎮守として文治年間(1185年〜1190年)に氏神として琴平社を創建したことに始まるという。その後、明治42年(1909年)に、近在の小社として旧越生村村社の八幡神社、日吉神社、八坂神社、旧黒岩村村社の八坂神社、他各地に点在していた稲荷社を合祀し、現在の形となったとの事だ。
        
                細い道沿いに建つ社号標柱
                 社号標の左手には庚申塔を始めとする石碑等が建っている。
 
    社号標柱付近にある一の鳥居      一の鳥居から参道を進むと二の鳥居が見える。
 越生氏は武蔵七党・児玉党の一派にして、有道姓、児玉惟行より出たと称し、鎌倉時代の始より戦国の頃まで存続した。その本拠地は今の越生神社(大字越生)の付近という。
『武蔵七党系図』
「有大夫弘行―河内権守家行、弟資行(入西)―有行(越生三郎、新大夫)―右馬允有弘―左馬允有高―藤内左衛門尉太郎有信―新馬允信高(弟三郎頼氏)―太郎左衛門尉弥太郎季信(弟二郎高綱)、有信の弟二郎兵衛尉有直―太郎長経―弥太郎経高、有直の弟民部丞有綱―太郎有茂(弟五郎有信)―又太郎信茂―弥太郎。右馬允有弘の弟別当二郎有頼―中務丞三郎頼季―右近将監頼員―右近将監頼清(弟四郎時景)、頼員の弟二郎左衛門尉頼高―太郎景高(弟二郎季高)、頼季の弟左馬允頼高―太郎親景―小太郎為長―弥太郎幸綱、親景の弟二郎光景―二郎太郎時景、左馬允頼高の弟刑部丞時光―時仲―五郎信員。別当二郎有頼の弟四郎有平―岡崎四郎二郎有基―有氏―又太郎経氏」
        
             木々に囲まれた厳かな雰囲気のある境内
 越生(おごせ)氏の祖としては、入西資行の四男である入西有行が、越生に居館を構えて越生新太夫を名乗ったとされている。
 因みに入西資行の長男・入西行成は浅羽氏、次男・入西遠弘は小代氏の祖となった。
 その後、越生館に入った越生有行の子には、越生有弘、越生有頼、越生有平の三兄弟がいて、越生有弘は越生氏を継ぎ、越生四郎有平の子・越生有年は鳴瀬氏(成瀬氏)とにり、越生有光は黒岩氏を、越生有基は岡崎氏へと分家したという。
        
       社は高取山麓の緩やかな斜面上に鎮座していて、石段上にある拝殿。
             この背後に越生氏の詰めの城とされる高取城跡のある高取山がある。
 明治421909、越生氏の氏神といわれる八幡社を中心に、越生市街地に点在していた神社を統合して高取山麓に造営された。社自体は決して古くはないが、越生氏が高取山に居館を構えた際の鎮守社として平安時代末期ごろに創建されたというその歴史が醸し出す雰囲気は十分に感じ取ることができた。
        
                    拝 殿
        
               境内に設置されている案内板
 越生神社と高取山城跡  越生町越生
 越生神社は明治四十二年(一九0九)に、神社合祀令を受けて、琴平神社に、旧越生村村社八幡神社、日吉神社、八坂神社、旧黒岩村村社の八坂神社、ほか市街地に点在していた稲荷社を合祀して造営された神社である。
 七月下旬に催される「越生まつり」は、牛頭天王を祀る八坂神社の祭典、祇園祭(天王様)の系譜を引いている。神社を出立した神輿が町内を渡御し、夕刻から曳行される六台の山車の上では、華やかな江戸天下祭の名残を今に伝えている。
 越生神社の奥宮がある高取山には中世の山城跡がある。標高約百七十mの頂上が平らに削られ、空堀と土塁で画された郭(曲輪)が数段残されている。江戸時代の地誌『新編武蔵風土記稿』には「越生四郎左衛門屋敷跡」と記されている。越生四郎左衛門は『太平記』に登場する、南朝の北畠顕家を討ち取った武将である。越生神社下方の平坦地付近と推定されている越生氏館背後の高取山に築かれた「物見砦」や「詰城」であった可能性がある。
 一方、現存する遺構は室町期後半から戦国期のものであり、太田道真・道灌父子と長尾景春の戦いを中心とした時期のものとみる見解もある。
 令和二年三月三十一日 越生町教育委員会
                                      案内板より引用
 
   拝殿手前で左側に鎮座する境内社・     拝殿の右側に鎮座する境内社・日吉神社
       稲荷神社
と石祠群

   拝殿手前にある越生神社神輿(三基)        越生神社神輿の案内板
 越生町指定文化財(民俗文化財・有形)
 越生神社神輿(三基) 平成二十三年九月二十八日指定
 越生神社神輿
 越生神社は大字越生の八幡神社、八坂神社、日吉神社、大字黒岩の八坂神社ほかの神社を当地の琴平神社に合祀して、明治四十二年(一九〇九)に造営された神社である。
 毎年七月の越生まつり(天王様)に渡御する三基の神輿のうち、本宮は越生の八坂神社、中宮(置宮)は黒岩の八坂神社で維持されてきたと伝えられている。本宮の台輪には八坂神社(祇園社)の社紋「祇園守紋」の餝金具が付けられている。若宮には八幡神社の社紋「三巴紋」が飾られており、元来、越生の八幡神社の神輿があったとことが推測される。中宮には両方の紋が配されている。
 制作年や製作者は不明であるが、合祀の前年に撮影された写真に二基の神輿が写っていることから、少なくとも百年以上の星霜を経ていると思われる。
令和四年三月 越生町教育委員会
                                      案内板より引用


        
                     一の鳥居の右手には、越生子ノ権現が祀られている。
 
    
越生子ノ権現の案内板が設置されている。     足腰の神様である事からか、
                           草鞋が供えられていた。
 越生子ノ権現
 飯能市の子ノ権現(天龍寺)は、足腰の病に験のある神仏として各地に勧請されている。越生に子ノ権現が祀られたのは古く、鎌倉時代以前と推測される。『法恩寺年譜』文治四年(一一八八)の条、越生一族・倉田孫四郎の妻・妙泉尼に関わる記事に「子権現」という言葉が出てくる。また大字上野との境には「子の神」という地名が残っている。
この地に社が建立された年代は不明であるが、文化四年(一八〇四)に、越生村の新井源四郎が再建したという記録が残る。
「ひじりだいごんげん」として越生の人々の信仰を受けていたが、越生神社の創建後はその境内に取り込まれ、その後には日吉神社に合祀され、社を失った。しかし、地元の熱意により、平成二十七年十月十八日、遷座祭を行い、旧観を取り戻した。
 平成二十八年三月 越生町教育委員会
                                      案内板より引用




参考資料「
武蔵七党系図」「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「越生町HP」
    「Wikipedia」「境内案内板」等

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下真下金佐奈神社

『児玉飛行場』は、嘗て埼玉県児玉郡児玉町(現本庄市)・上里町にあった陸軍の飛行場であり、太平洋戦争中の1943年(昭和18年)10月に完成。1944年(昭和19年)10月に児玉基地と改称し、各分科飛行部隊および特別攻撃隊の基地となった。帝都防衛と硫黄島への攻撃を担った。現在大部分が児玉工業団地となっており、一角には飛行場の記念碑と第四教育飛行隊鎮魂碑が建っている。また、当時の兵舎をそのまま流用した立野南公民館にも児玉開拓農業協同組合による石碑が建つ。2016年までは排水路の遺構も残っていたが、撤去された。
 下真下金佐奈神社の旧社地は現在地から西北に1km程行った、小字「金佐奈」にあったようで、昭和17年、陸軍児玉飛行場の開設にあたって現在地に遷座されることになったという。
        
             
・所在地 埼玉県本庄市児玉町下真下149
             
・ご祭神 天照大御神  素盞鳴尊  日本武尊
             
・社 格 旧下真下村鎮守
             
・例祭等 祈年祭 43日 例大祭 1015日 新嘗祭 1210
                  
大祓 1225
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2137175,139.1406306,16z?hl=ja&entry=ttu
 本庄市・児玉町下真下地域は、上真下地域の北東部に位置する。「真下」を共有するこの地域は、児玉党真下氏の名字の地とされ、元々は一村であったが、のち真下が当村と上真下村に分村した。その経緯は不明ながら、本庄市・今井の鈴木家文書によると、「真下左京亮」と「下真下新六郎」の名前が見られ、戦国時代には児玉党真下氏の系譜を引く武士がいて、この時期には既に「下真下」の名称があり、また分村していた事を示唆させる書き方をしている。
『日本歴史地名大系 』「下真下村」の解説
上真下村の東に位置し、北は賀美(かみ)郡立野(たての)村(現上里町)・原新田(現神川町)。児玉党真下氏の名字の地とされ、のち真下が当村と上真下村に分村。慶長一六年(一六一一)の検地帳写(下真下地誌)では田方一四町二反余・畑屋敷二〇町七反余。元和五年(一六一九)佐久間府官(正勝か)の知行地となる(下真下地誌)。田園簿によると田方二三七石余・畑方一四八石余、旗本日向領二八六石余・同加藤領一〇〇石。国立史料館本元禄郷帳では旗本加藤・大岡の二家の相給。

 途中までの経路は蛭川駒形神社を参照。蛭川駒形神社の東側隣にある「平重衡の首塚」から北方向に伸びる脇道を進み、女堀川を過ぎた一本目の十字路を左折し、350m程進行、その後丁字路を右折してそのまま道なりに進む。周囲一帯長閑な田園風景を愛でながら2㎞程北上すると、斜め左方向に進路が変わり、そのまま進行すると、左側に下真下金佐奈神社の赤い鳥居が見えてくる。
        
                 
下真下金佐奈神社正面
 下真下地域には古代末期から既に児玉党。真下氏が存在していた。真下氏の館は上真下地域の字東と中内而付近にあったと考えられるが、下真下地域にも数カ所の館跡が存在し、児玉工業団地造成の際の発掘調査でも中世の遺構が検出されている。下真下地域内字石橋にある観音堂は真下氏が建立したとの伝承がある。
一の谷合戦で真下基行が乗っていた馬に平家方の放った矢が当たり、基行は最後と観念したところ、突然馬は空を飛び、安全なところまで飛んでいき基行は命拾いをした。これは日頃より金鑚神社を深く信仰していたためのご神徳によるものと思い、所領に観音堂を建立した
 嘗てこの地域にあった小字名である「金佐奈」は、現在工業団地内に入っており、消滅している。昭和18年(1943)の陸軍児玉飛行場の造成以前はこの地に金佐奈神社があったが、非工場の造成に伴って南部の現在地に移転した。尚江戸時代の名寄帳には「金皿」「かなさら」と記載されていることから、昔は「かなさら」と発音していたかもしれない。
 
     鳥居に掲げてある社号額         境内の様子。
規模は大きくはないが、
「金鑚」ではなく「金佐奈」と表記されている。  手入れはしっかりとされていている様子。
        
                    拝 殿
        
             赤い鳥居の右側に設置されている案内板
 金佐奈神社 御由緒  本庄市児玉町下真下一四九
 □御縁起(歴史)
 下真下は、古くは隣接する上真下と共に一村であったが、天正のころ(一五七三-九二)二つに分かれたものと推測されている。下真下の字石橋五六四には真下氏の館跡があるように、この地は武蔵七党児玉党の真下氏の本貫地であり平安・鎌倉のころから開発が行われていた古い村であることがうかがえる。『児玉郡誌』が、「元暦元甲辰年(一一八四)八月十五日・児玉党支族にして当地の豪士真下太郎基行の勧請せし社なりと云ふ(中略)其後永禄元亀の頃(一五五八‐七三)・下真下新六郎と云ふ人あり、社殿を再興して崇敬せりと云ふ」と記しているのも、当社とこの真下氏との関係の深さを示すものである。
 当社の境内は、元来は現在地から西北に一キロメートルほど行った所(字金佐奈)にある金佐奈山(平山ともいう)にあった。ところが、昭和十七年、彼の地が陸軍の児玉飛行場開設に当たり、その用地となったため当社は移転を余儀なくされ、新たな社地を検討した結果、中屋敷の中央部に近いこと、桑畑で造成も容易であることを理由に、中島隆治家から有償で土地の譲渡を受け、現在の場所に遷座した。
 江時代には、『風土記稿』下真下村の項に「金鑽神社 村の鎮守にて、竜泉寺持」とあるように、臨済宗の竜泉寺が当社の別当であった。同寺もまた真下太郎基行を開基とする古い寺院で、明治三十年に火災で堂宇を焼失したが、間もなく復興され、現在に至っている。(以下略)
                                      案内板より引用


 社殿の左手には「猿田彦」と刻まれている石碑が一基。またその奥には合祀社が二社、中に二基の石祠が祀られ、その右手にも石段上に二基の石祠が祀られている。
             
                 社殿左手にある石碑。
        読みづらかったが「猿田彦」と刻印されているように見えた。
        
              社殿奥で、一番左側にある合祀社。
     二基の石祠は、左側は「大年神」、その隣には「伊勢神社」の看板があり。
 年神(としがみ、歳神とも)・大年神(おおとしのかみ)は、日本神話・神道の神で、「とし」は、元々穀物などの実り、収穫を意味したが、その収穫に1年を要するところから年を意味するようになった。よってこの神名は本来豊かな実りをもたらす神の意。国津神に属する。
『古事記』には、須佐之男命と神大市比売との間に生まれ、また伊怒比売,香用比売などの女神との間に多くの子をもうけた神と伝えられている。また『古語拾遺』には、大地主神(おおとこぬしのかみ)の田の苗が御年神の祟りで枯れそうになったので、大地主神が白馬・白猪などを供えて御年神を祀ると苗は再び茂ったという説話がある。
 生まれたすぐあとに、穀物神である宇迦之御魂神が生まれていることや、この神の子として御年神が生まれていることなどに、稲のゆたかな稔りをもたらす穀物神としての性格がよく表れている。
 民俗学者である柳田國男は、一年を守護する神、農作を守護する田の神、家を守護する祖霊の3つを一つの神として信仰した素朴な民間神が年神であるとしている。
 
  真ん中に祀られている合祀社・石祠二基     一番右側に祀られている石祠二基
左側は「天神社」その隣は墨が薄くて解読不能     こちらも墨が薄くて解読不能



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「本庄の地名②・児玉地域編」
    「朝日日本歴史人物事典」「Wikipedia」「境内案内板」等

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上真下金鑚神社

 九郷用水は、群馬・埼玉県境の神流(かんな)川から取水する用水。埼玉県北部を灌漑(かんがい)する。開削の時期は不明だが,古代の条里制施行時に開削されたとする説や,平安末期から武蔵(むさし)七党のうちの児玉党によって開削されたとする説などがある。
 神川町新宿字寄島から分水した九郷用水は、神流川の河岸段丘縁辺を神川町小浜付近から等高線に沿って徐々に段丘上に導き、神川町中新里地域付近で東方向に向きを変えて、本庄台地面の植竹集落(南)、児玉町保木野(北)を流下し、児玉町上真下地域を通り、上真下金鑚神社から東方向350m先で、北東方向に流れる女堀川と合流する。
 江戸時代、上真下村は九郷用水の南北分流点の地に位置していることから、922ヵ村用水組合の割元村を蛭川村と共に務めていた。この流域での石高は7,817石で、全長は約8,640間とされていて、この膨大な石高を生産し、尚且つ用水の管理や維持するため、ほぼ一手に引き受けたのがこの用水でもあり、割元村である当村と蛭川村の苦労は計り知れない。
 現に嘉永6年(1853)に九郷用水組合内で大きな水争いが起きているなど、たびたび水争いが発生していたというのも想像に余りあることであろう。
        
             
・所在地 埼玉県本庄市児玉町上真下186
             ・ご祭神 天照大御神  素盞鳴尊  日本武尊
             ・社 格 旧上真下村鎮守・旧村社 
             
・例祭等 祈年祭 414日 秋祭り 1015日 新嘗祭 1214
                  大祓 1225
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2091225,139.1298314,17z?hl=ja&entry=ttu
 本庄市児玉町上真下地域は、旧児玉町共和地区内にあり、北部は児玉工業団地があり、南部から東部にかけては条里水田地帯で、上真下地域の中央を女堀川が東西に流れ、地域一帯は低地帯となっている。また中央西寄りを南北に嘗て「本庄道」と呼ばれた埼玉県道131号児玉新町線が通っている。
 途中までの経路は保木野御霊稲荷神社を参照。この社から北東方向に2㎞程進行し、上記県道131号線に達した後、右折するとすぐ先に「上真下」交差点があり、交差点右側に上真下金鑚神社は鎮座している。
 残念ながら周辺には駐車スペースはなく、正面鳥居の近くに路駐し、急ぎ参拝を行う。
        
                               上真下金鑚神社正面
『日本歴史地名大系 』での「上真下村」の解説によれば、「吉田林(きたばやし)村・八幡山町の北に位置し、北は下真下村、西は賀美(かみ)郡八日市村(現神川町)。児玉党真下氏の名字の地とされ、かつては当村および下真下村一帯は真下と称されていたとみられる。児玉党系図(諸家系図纂)によると、武蔵権守児玉家行(児玉党の祖と伝える有道遠峯の孫)の弟基行は真下五郎大夫、基行の子弘忠は真下太郎を称している。建久元年(一一九〇)一一月七日の源頼朝入洛の際に真下太郎、暦仁元年(一二三八)二月一七日の将軍藤原頼経入洛の際には真下右衛門三郎が供奉した(吾妻鏡)」との事だ。
 因みに「真下」と書いて「ましも」と読む。
        
                   境内の様子
 真下地域は武蔵七党児玉党に属していた真下氏の本貫地である。児玉党系図(諸家系図纂)によると、武蔵権守児玉家行(児玉党の祖と伝える有道遠峯の孫)の弟基行は真下五郎大夫、基行の子弘忠は真下太郎を称している。
『新編武蔵風土記稿 上真下村』では、真下氏に関して以下の記載がある。
 眞下は古く聞えし地名にして、當國七黨の枝流眞下二郎弘忠等の住せし地なり、【七黨系圖】に兒玉當の祖、遠峯有大夫弘行の三男、基行の子眞下二郎弘忠とみえたり是當郡に住せし兒玉氏の屬なれば、此地を領して在名を名乗しこと知らる、又【東鑑】に眞下右衛門三郎・同太郎等あり、且前村舊家忠右衛門所藏天正十八年の文書にも眞下左京亮・眞下新六郎など見ゆ、これによれば上下に分れし年代も大抵推て知べし、
『風土記稿』に記載にある「天正18年の文書」の他に、本庄市今井の「鈴木家文書」には、「眞下左京亮・下眞下新六郎」という名が見え、どちらにしても、児玉党真下氏の系譜を引く武士がこの地にいたことは確かである。上真下には古代末期から既に児玉党・真下氏が存在し、治承4年(1180)源頼朝が石橋山合戦で敗れたとき、平家方に「真下四郎重直」という武士がいたことが『平家物語』に見える。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿』以外での真下氏の記述は以下の通り。(*埼玉苗字辞典参照)
『武蔵七党系図』
「有大夫別当弘行―真下五郎大夫基行―三郎有弘(兄太郎弘忠、弟四郎弘親・其子中務丞弘常・其子小太夫)―弘長―兵右衛門尉重盛―太郎成胤―弥太郎成氏(弟胤氏)―又太郎成実。成胤の弟三郎某―重親―孫太郎重延(直延トモ)」
『平家物語』
「篠原合戦。平家方に長井斎藤別当実盛・浮巣三郎重親・真下四郎重直、我等は東国では皆人に知られて名ある者でこそあれ」
『吾妻鑑巻十』「建久元年十一月七日、頼朝上洛随兵に真下太郎」
『同巻三十二』「嘉禎四年二月十七日、真下右衛門三郎」
『典籍古文書』
「建治元年五月、武蔵国・真下右衛門尉跡四貫を京都六条八幡宮の造営役に負担す」
『新編武蔵風土記稿 秩父郡野上下郷』
「滝上十郎道信(正応年中の人)は、児玉党に真下の五郎太郎と闘論す」
        
               境内に設置されている案内板
 金鑽神社 御由結  本庄市児玉町上真下一八六
 □御縁起(歴史)
 真下は武蔵七党児玉党に属した真下氏の本貫地で、天正のころ(一五七三~九二)に上下に分かれたものと推測されている。真下氏の館跡は下真下の字石橋にあり、下真下の鎮守である金佐奈神社は真下太郎基行が元暦元年(一一八四)に勧請したものと伝えている。したがって、下真下と元は一村であった上真下の当社は、その時期は明らかでないが、この金佐奈神社から分 かれた社であると考えられる。
 当社の境内は上真下の集落の中心地にあるが、元来は村の北端の丘の中腹(字金鑽西)にあった。この丘は、神川町に鎮座する武蔵二宮の金鑚神社が遥拝できる所である。『児玉郡誌』によれば、宝永年間(一七〇四~一一)に社殿が炎上したため、字神西の日枝神社に一旦合祀され、宝暦年間(一七五一~六四)に至って、社殿を再興し、旧社地に戻ったという。この日枝神社が、現在の社地に元からあった神社で、無格社であった。ところが、一村一社を目指して行われた政府の合祀政策に基づき、この日枝神社に明治四十一年をもって村社であった当社が合祀され、その結果、日枝神社は社号を金鑚神社と改め、村社となった。このような経緯をたどって、当社は現在のような形になったのである。
 本殿は、日枝神社が春日造りで明和四年(一七六七)
の造営、金鑚神社が流造りで宝暦年間の造営である。(以下略)
                                      案内板より引用
 
   社殿左側に祀られている石祠三基           社殿右側にも境内社。

         詳細不明              
内部に石祠二基と三体の御幣あり。
 社殿右側に鎮座する境内社の中に二基の石祠があるが、向かって右側の石祠の屋根正面部に「八坂・大〇」と刻印されているようにも見える。
       
              境内に屹立するご神木(写真左・右)


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「本庄の地名②・児玉地域編」
    「埼玉苗字辞典」「境内案内板」等
             

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保木野御霊稲荷神社

 わが国における視覚障害を有する者の生活手段確保の原点は「当道座」にあるといわれている。当道座とは、盲人の自治的相互扶助組織であり、その起源は古代に遡り、平安時代前期、仁明天皇の子である人康(さねやす)親王は盲目(眼疾による中途失明)であったが、山科に隠遁して盲人を集め、琵琶、管弦、詩歌を教えたのがその起源であるという。
 鎌倉時代、『平家物語』が流行し、多くの場合、盲人がそれを演奏した。その演奏者である平家座頭は、源氏の長者である村上源氏中院流の庇護、管理に入っていく。その後、室町時代に足利尊氏の従弟で、検校明石覚一が『平家物語』のスタンダードとなる覚一本をまとめ、また足利一門であったことから室町幕府から庇護を受け、当道座を開いた。
 江戸時代にはその本部は「職屋敷(邸)」と呼ばれ、京都の佛光寺近くにあり、長として惣検校が選出され、当道を統括した。一時は江戸にも関東惣検校が置かれ、その本部は「惣禄屋敷」と呼ばれ、関八州を統括した。座中の官位(盲官と呼ばれる)は、最高位の検校から順に、別当、勾当、座頭と呼ばれていたが、それぞれはさらに細分化されており合計73個の位があった。さらに地方の出先機関として「仕置屋敷」があり、その末端に組が置かれたという。
 官位を得るためには京都にあった当道職屋敷に「官金」と呼ばる多額の金子を持っていく必要があり、官金は高官たちに配分され、低官者は吉凶に際して施し物を受け、その配当を貰うことが慣行として公に認められていた。昔テレビで放送されていた「座頭市」のような物語の背景もそこにあったようだ。
 但し、江戸幕府は、当道座を組織させることで、それを統括する惣禄屋敷の検校(惣禄検校)に自治の権限や一定の裁判権を認めたが、当道座は男性のみが属することが出来る組織であり、盲目の女性のための組織としては瞽女座があり、また、盲僧座とよばれる別組織も存在し、しばしば対立することもあったらしい。
 当道座は江戸時代になっても幕府より庇護され、寺社奉行の管轄下に置かれていて、組織もしっかりと整備され、京都に職屋敷が置かれ、総検校が当道座を支配した。のちに6派に分かれたらしいが、それぞれ「座」として存在し、「検校・別当・勾当・座頭」の4官、内訳は16階と73刻みの位階で構成される当道制度が確立したが、官位はあくまで私官であった。この組織は明治4年(1871年)に廃止された。
 江戸時代中期、失明のハンデを負いながら学問の道に進み、大文献集「群書類従(ぐんしょるいじゅう)」等散逸する恐れのある貴重な文献の校正を行った塙保己一も、同時に当道座社会の最高位である「総検校」に就任している。その保己一の故郷がこの現本庄市・保木野地域であり、生家に近い場所にその地域の鎮守社である保木野御霊稲荷神社がある。
        
             
・所在地 埼玉県本庄市児玉町保木野314
             
・ご祭神 素盞鳴尊 倉稲魂命
             
・社 格 旧保木野村鎮守・旧村社
             
・例祭等 初午祭 211日 春祭り 415日 秋祭り 1015
                  
新穀感謝祭 1215
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1977266,139.1184574,16z?hl=ja&entry=ttu
 本庄市・保木野地域は旧児玉町「金屋地区」に属し、地区内最北部に位置している。途中までの経路は金屋白髭神社を参照。国道462号線を本庄市児玉町地区より神川町二ノ宮の金鑚神社の方向に進み、「金屋保育所」交差点を直進し、450m程先の信号のある十字路を右折、そこから北方向に約1.4㎞道なりに進むと、一面田畑風景の中、正面方向にポツンと保木野御霊稲荷神社の社叢林が見えてくる。
        
                                                    保木野御霊稲荷神社の社叢林
 保木野地域は北を九郷用水、東を赤根川に挟まれていて、一帯は概ね平地である。集落は地域中央部にあって南部には「金屋条里水田」が広がっていて、現在はこの条里地帯も農地の区画整理、農道の整備、農業用用排水路等の整備を総合的に行われ、嘗ての土地区画は変化しているという。北側に九郷用水が東西に流れていて、保木野地域の水田もこの用水を用いている。
『本庄の地名②・児玉地域編』によれば、保木野の地名由来として、広がっていた野原とそこに映える自然林から起こったと推測され、保木野の「ほき」は植物がよく茂る(ほきる)様をあらわした言葉の意味との事だ
        
                保木野御霊稲荷神社正面
 日本歴史地名大系 「保木野村」の解説
 八幡山町の北西に位置し、東は賀美(かみ)郡八日市(ようかいち)村(現神川町)。文永一一年(一二七四)一一月の大嘗会雑事配賦(金沢文庫文書)によると、大嘗会に際して「保木野村」に布三丈六尺・白米六升八合・酒二升・秣一束・菓子一合が賦課されている。
「風土記稿」は新義真言宗(現真言宗豊山派)龍清(りゆうせい)寺境内に応永三二年(一四二五)銘をもつ「妙西尼」と刻された石碑があったと記す。永禄六年(一五六三)二月二六日、用土新左衛門尉に旧領である「保木野之村」などが宛行われた(「北条氏康・同氏政連署判物写」管窺武鑑)。天正一九年(一五九一)の八幡山城主松平家清知行分を示した武州之内御縄打取帳(松村家文書)によれば村柄は下之郷で、田方一一町八反余・畑方一〇町五反余(うち屋敷四反余)、俵高三一六俵余。
        
              保木野御霊稲荷神社 一の鳥居
 塙 保己一(はなわ ほきいち、延享355日(1746623日)~文政4912日(1821107日))は、江戸時代後期に活躍した全盲の国学者。武州児玉郡保木野村(現在の埼玉県本庄市児玉町保木野)に生まれる。姓は「荻野」。武蔵七党横山党の一族で、荻野氏の後裔といわれている。
 7歳のとき、病気がもとで失明したが、15歳で江戸に出て、学問の道に進む。多くの困難の中、驚異の暗記力で様々な学問をきわめ、大文献集「群書類従(ぐんしょるいじゅう)666冊をはじめ、散逸する恐れのある貴重な文献を校正し、次々と出版する。
 48歳のとき、国学の研究の場として現在の大学ともいえる「和学講談所(わがくこうだんしょ)」を創設し、多くの弟子を育てる。生涯、自分と同じように障害のある人たちの社会的地位向上のために全力を注いだという。
 そして、文政4年(18212月、盲人社会の最高位である「総検校」につき、同年9月に天命を全うした。享年76歳。
        
                                                            境内の様子
 保己一の幼名は丙寅にちなみ「寅之助(とらのすけ)」、失明後に「辰之助(たつのすけ)」と改める。また一時期、「多聞房(たもんぼう)」とも名乗る。雨富検校に入門してからは、「千弥(せんや)」、「保木野一(ほきのいち)」、「保己一(ほきいち)」と改名した。「保木野一」という名前は、自身が宝暦13年(1763)、18歳にして「衆分」の位に昇格した際に、名を中国の故事と共に、自らの出身地である「保木野」に因んだからといわれている。
 因みに「塙」の苗字は、保己一が江戸に出て修行を積み、当時の師であった須賀一の本姓「塙」を名のり、塙保己一を称したという。
*衆分…当道座の73もの階級の内、大きく分けた検校・別当・勾当・座頭の4官の座頭に相当し、衆分は15の階級に分かれている座頭の一番下の位という。
        
                    拝 殿
 
      拝殿に掲げてある扁額           境内に設置されている案内板
 御霊稲荷神社 御由緒    本庄市児玉町保木野三一四
 □御縁起(歴史)
 保木野は、北を九郷用水、東を赤根川で限られた平地である。文永十一年(一二七四)の「大嘗会雑事配賦」(金沢文庫)に保木野村の文字が見える。
 御霊稲荷神社の名が示すように、当社は御霊神社と稲荷神社の合殿である。御霊神社は新里村との村境に鎮座した神社で、『風土記稿』保木野村の項によれば、往時の村鎮守で、龍清寺の持ちであった。「文政六癸未歳(一八二三)十一月吉祥日、別当東方龍清寺」と墨書された再建時の棟札が伝わる。ちなみに、龍清寺は、境内に応永三十二年(一四二五)の石碑がある古刹である。一方、稲荷神社は元々現在地に祀られ、『風土記稿』によれば福泉院の持ちであった。『児玉郡誌』によれば、貞治年中(一三六二-六八)に福泉院の開祖道栄が当地に居住して修験道を修行し、当社を勧請したという。本殿には「奉納稲荷大明神守護、元禄十六年(一七〇三)癸未天九月吉旦、願主武州児玉郡保木野村法印袋等」と刻まれた金幣や「正一位稲荷大明神、安永九年(一七八〇)子二月」と墨書された神璽などが奉安されている。
 明治初年の神仏分離により両社はそれぞれの別当から離れ、明治五年に稲荷神社が村の中央に位置することから村社となり、御霊神社は無格社とされた。同四十年には御霊神社を稲荷神社に合祀し、これに伴い社名を御霊稲荷神社と改めた。(以下略)

 また御霊稲荷大明神に奉納されている「塙保己一の奉納刀」があり、天明31783)年、塙保己一が検校(けんぎょう)に就任した時に奉納されたもので、糸巻き太刀拵えと呼ばれる形式の「飾り太刀」だそうだ。

拝殿左側手前に祀られている石祠群・詳細不明      社殿右側に鎮座する境内社
                             こちらも詳細不明
     
            境内には巨木・老木が聳え立つ。(写真左・右)
     左側は入り口付近で、鳥居の右側にある巨木。右側は社殿の右側にあるご神木。
   これら巨木・老木・ご神木の存在は、この社の歴史の深さを証明する生き証人でもある。
  境内入口付近左側にポツンとある社日神    鳥居の右側に並んで建つ庚申塔・石碑等
       
               社殿から見た秩父山系の風景


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉県HP」「本庄の地名②・児玉地域編」
    「本庄の人物誌① 盲目の国学者 塙 保己一の生涯」「Wikipedia」「境内案内板」等
   



 

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