古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

森戸国渭地祇神社

 森戸地域に鎮座する国渭地祇神社の創建は不詳。延暦年間(782年~806年)に坂上田村麻呂が東征の帰途に社殿を造立したとも、奥州藤原秀平が創建したとも伝えられている。社号は「国一熊野大権現」が訛ったものではないかと言われ、江戸時代には「熊野社」と称し、江戸幕府から朱印地10石を下賜され、森戸村の鎮守とされた。明治初年に別当を務めた修験大徳院の大徳氏によって、現在の国謂地祗神社と改称された。また、別名「森戸神社」と呼ばれている。
 平安時代927年の『延喜式神名帳』に記載のある「武蔵国 入間郡 国渭地祇社 小」の論社とされているが、一般には北野天神社(埼玉県所沢市小手指元町)が有力とされる。しかし、当社の社地から鎌倉期と思われる古瓦が出土していることや、樹相が古いということを考えると、古社であることは間違いない。
        
              
・所在地 埼玉県坂戸市森戸616
              
・ご祭神 八千矛命 天照皇大神 伊弉諾尊 伊弉冉尊
              
・社 格 『延喜式神名帳』武蔵国入間郡・五座の一
                   「国渭地祇社」の論社。旧
森戸村鎮守 旧村社
              
・例祭等 例大祭 1015
    
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9352871,139.3551212,17z?entry=ttu

 厚川大家神社から一旦埼玉県道114号河越越生線を南東方向に進み、「一本松」交差点の五差路を右折する。同県道74号日高川島線に合流後、1.5㎞程南西方向に進むと、東武越生線・西大家駅の約100m手前で、進行方向右側に森戸国渭地祇神社の鳥居が見えてくる。
 因みに「国渭地祇」と書いて「くにいちぎ」と読む。変わった名称だ。
        
 今回所用があり、急ぎ参拝をしたこともあり、県道沿いに建つ鳥居や社号標等の撮影ができなかった中、「森戸の獅子舞」の看板のみ撮影していた。

 森戸の獅子舞  坂戸市指定無形民俗文化財
 秋になると豊年を祝う獅子舞が、市内の各地で行われます。竹で作った「ささら」と呼ばれる楽器を使って獅子舞を踊るので、「ささら舞」とも言われ、昔から地元の人々によって受継がれてきました。
 森戸の獅子舞は、江戸時代に始まったと伝えられ、国渭地祇神社と周辺の神社のお祭りに舞われます。
 獅子は悪霊払いの霊獣として崇められ、古来、祭りの主役として、獅子舞が全国各地で行われてきました。森戸の獅子舞は、江戸時代の安永六年(一七七七年)に始まったと伝わっていますが、記録などは残っていません。国渭地祇神社と周辺の神社へ、毎年十月十五日に奉納されます。
 獅子舞の演者は、雄獅子、雌獅子、中獅子の三頭で、これに山の神の天狗、軍配を振って舞いを盛り上げる配追い、花笠をかぶったささら子、これにほら貝、笛吹き、唄うたいが加わります。演目は「すり違い」、「竿がかり、「花すい」、「秋葉社の舞」、「宮まいり」があります。   獅子舞の当日は、ほら貝の合図で社殿を一周する「宮まいり」から始まり、境内で「すり違い」を舞います。四日市場、森戸の秋葉社へ行列を組んで行き、それぞれの神社に舞を奉納します。神社への行き来の間、国渭地祇神社の境内にもどり、「竿かがり」を舞い、最後に神社境内で「花すい」を奉納して舞納めとなります。行列の先頭を行く万燈には、天下泰平、五穀豊穣、風雨順調、氏子繁昌との願いが記されています。
 祭の当日に立てられるのぼり旗の文字は、巌谷修(児童文学者巌谷小波の父)の書によるものです。 平成十九年三月 坂戸市教育委員会
                                      案内板より引用 
      
        
               森戸国渭地祇神社  境内の様子
 高麗川の南側南岸に位置する。ここは川沿いが低地で、南に行くほどゆるやかに台地上になっていく。森戸国渭地祇神社はこの村の鎮守として鎮座し、社前の往来は旧鎌倉街道であると伝えている。
『日本歴史地名大系』 「森戸村」の解説
萱方(かやがた)村の南西、高麗川両岸にある。南東は中新田村・上新田村(現鶴ヶ島市)、西は市場村(現毛呂山町)。南西の四日市場村境を鎌倉街道が南北に、北寄りを川越越生道が東西に通る。小田原衆所領役帳には御馬廻衆久米玄蕃の所領として河越筋の森戸三五貫文がみえる。田園簿では田二九二石余・畑一七七石余、旗本藤掛領(二五九石余)と同朝比奈領(二〇九石余)。元禄一〇年(一六九七)川越藩領となり(「御知行替物控日記」大徳家文書)、宝永元年(一七〇四)上知され、その後一部が旗本深津領となる。残りは宝暦一二年(一七六二)から寛政七年(一七九五)まで三卿の清水領となり、「風土記稿」成立時には幕府領、文政五年(一八二二)下総古河藩領(「古河御家中并御加増地村高帳」比留間家文書)
        
  鳥居の正面に見えるお社は、森戸国渭地祇神社の社殿ではなく、境内社・八幡神社である。
 県道沿いにある鳥居の西側にも鳥居があり、そこからの参道正面に社殿が見える。もしかしたら本来はそこが嘗て正面入り口ではなかったのではなかろうか。

「埼玉の神社」において、当社は国一熊野大権現と称していた。この社名の国一は美称で、国で一番すばらしい社であるという意味が込められ、これが後に国渭地祇に転化されたものと思われる。このため社の創立は、越生の本山派修験山本坊と直接結びついていた別当三宮山大徳院の活動にかかわるものではないかと考えられる。
 社記には、延暦年中、坂上田村麻呂が東征の帰途、報賽のため社殿を再営し、下って奥州藤原秀衡が再建したと伝えている。
        
           境内社・八幡神社の右側に並ぶ「秋葉神社」「神庫」
 
        境内社・秋葉神社                神 庫
        
                     拝 殿
                    理由は不明だが、社殿は南西方向に向いている。
『新編武蔵風土記稿 森戸村条』
 熊野社
 當村の鎮守なり、慶安二年社領十石の御朱印を賜り、鎮守府将軍秀衡の勧請なりと傳るのみにて、證すべき記録もなければ信ずるに足らず、鳥居の前に一條の往来あり、往古は此街道を隔てて西に鳥居ありし由、今もそこを字して鳥居を云、往来北の方市場村より入、高麗川を渡て社の前に至れり、當村と四日市場村の間を過て、高麗郡中新田に貫けり、鎌倉古街道なりといへり、
末社。疱瘡神社、三島社、石尊社、秋葉社
 観音堂
 別當大徳院。三宮山と號す、本山修験山本坊の配下本尊不動を安ず、開山権律師月證と云、寂年は傳へず、されど本社の傍に觀應二年辛卯三月三日、右志者大檀那當住権律師月證逆修願予普及及法界自陀冏證無上菩提沙彌道妙彌尼妙安敬白と彫たる碑を建つ、此の月證當院の草創ならんには開山の年歴も推考すべし

             社殿右奥に聳え立つご神木の「シイの木」

 国渭地祇神社の社記には、延暦年中、「坂上田村麻呂」が東征の帰途、報賽のため社殿を再営し、下って奥州「藤原秀衡」が再建したと伝えている。何故奥州から遙かに離れた森戸の地に「藤原秀衡」が再建したと語られるようになったのだろうか。
 鍵となるキーワードは「国一熊野大権現」、つまり「熊野信仰」ではなかろうか。

 史実の上での藤原秀衡は平安後期の陸奥の豪族で、陸奥守・従五位上・鎮守府将軍。平家滅亡後は、源義経を匿って頼朝に対抗。奥州藤原氏の3代目として,奥羽一円に及ぶ支配を確立し、砂金の産出や大陸との貿易等により莫大な経済力を蓄え、京都の宇治平等院鳳凰堂を凌ぐ規模の無量光院を建立するなど、北方の地にまさに王道楽土を現出させるかの如き所業を遂げ、奥州藤原氏の最盛期を築いた人物である。
 藤原秀衡は冷静沈着にして豪胆な人物であったという。事実、秀衡が健在の間、頼朝は平泉に朝廷を通じて義経追討を要請し、「陸奥から都に貢上する馬と金は自分が仲介しよう」との書状を秀衡に送り牽制をかけるという書面上での行動しか起こしておらず、軍事行動には至っていない。これは頼朝が秀衡の君主としての器量を認めざるを得なかったことを示している。それほどまでに頼朝は秀衡を怖れていた。      
        
                    境内の様子

 東北地方では、平安時代末期から熊野信仰が広がったと言われており、全国に3000社以上ある熊野神社のうちおよそ700社が東北地方に存在する。ことに秀衡は信仰が篤かったと伝えられており、名取熊野三社(宮城県名取市に存在する熊野神社(熊野新宮社)・熊野本宮社・熊野那智神社の総称)と密接な関係を有していたという
 名取熊野三社は、東北地方の熊野信仰の中心的存在にあり、仙台湾を熊野灘、名取川を熊野川、高舘丘陵を熊野連山に模し、本宮・新宮・那智の三社が他の地域とは異なりそれぞれ別に勧請されている。紀伊熊野の三社それぞれを地理的・方角的に同様にセット状態で勧請しているのは非常に珍しく、全国の熊野神社の中でもここだけであるとされる
 三代藤原秀衡のとき、名取熊野別当の金剛別当秀綱が強大な武士団を率い、更に藤原泰衡の後見人になるなど、軍事的・宗教的に大きな力を持つようになった。奥州合戦の際も秀綱は平泉方につき、源頼朝の軍に抗戦した。伝承によると、秀綱は本吉四郎高衡(藤原高衡)や日詰五郎頼衡と共に高舘山の高舘城に籠り、20000の兵をもって頼朝を迎え撃ったという。最終的に泰衡が死亡した後も秀綱と高衡は生き残り、投降したのちに秀綱は赦され、高舘山に祭神を藤原秀衡とする高舘神社を建立したという。
 奥州藤原氏滅亡後も名取熊野三社は信仰を集め、多くの宿坊を擁する一大聖地として隆盛を誇った。特に熊野新宮社が中心を成すようになり、やがて新宮社には本宮社と那智社も合祀され、熊野神社と称するようになった。

 また熊野信仰の布教的な役割を担う「山伏」の存在も忘れてはならない。平安末に熊野山の末端機構の一員として、関東・東北の熊野信仰の発展を、主として山伏が広汎に地方に散在していたからこそ、短期間に、同時に大規模にその信仰を広げたのではなかろうか。

「義経記」によれば
…越後直江の津は北陸道の中途にて候へば、それより比方にては、羽黒山伏の熊野へ参り下向するぞと申すべき、それより彼方にては、熊野山伏の羽黒に参ると申すべし…
とあり、羽黒、熊野間を結ぶ山伏の多かった事を伝えている。叉修験道では、日本総国66ヶ国を東西に両分し、西24ケ所は熊野、東33国は羽黒権現鎮護の地となすとあり、羽黒山との関係が東北地方の熊野信仰の発展を考える上に無視しがたい。

『新編武蔵風土記稿 森戸村条』には「観音堂」は「別當大徳院」で別名「三宮山」と呼ばれていた。この「三宮」とは熊野三神であり、越生の本山派修験山本坊と直接結びついていた別当三宮山大徳院の活動は、つまり「熊野信仰」の出先機関ではなかったのではないだろうか。その信仰の過程で「藤原秀衡」という強力な信仰心のある大物が社記に記されてしまったのではないかと考察する次第である。




参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「坂戸市HP」
        「Wikipedia」「境内案内板」等

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坂戸神社

 坂戸市は、埼玉県のほぼ中央に位置し、地勢はおおむね平坦であり、秩父山系から清流として知られる高麗川が南西から東へ流れている。
 昔から交通の要衝に位置し、江戸時代には八王子から日光に至る街道の宿場町として繁栄していた。その後、肥沃な土地を活かした農業が盛んとなり、明治2912月に町制が施行された。昭和297月には、坂戸町、三芳野村、勝呂村、入西村、大家村の5町村が合併して新生坂戸町となり、この後、人口は安定的に推移し、農業中心の町として順調な発展を遂げてきた。昭和40年代の後半には、都心から45キロメートル圏という利便性から、大規模な住宅団地などの相次ぐ開発で人口増加は著しくなり、昭和50年から昭和55年までの人口の伸びは、市の中で全国一となる。
 そして、昭和5191日に埼玉県で39番目、全国で644番目の市として坂戸市が誕生した。市制施行時55,000人であった人口は、都市化とともに増加し、平成1810月には、10万人都市の仲間入りをした。
        
            
・所在地 埼玉県坂戸市日の出町726
            ・ご祭神 
白髪武広国押稚日和根子天皇(清寧天皇)
            
・社 格 旧坂戸村鎮守 旧村社
            
・例祭等 例祭 415日 天王様 715日を中心とした土・日曜日
    
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9592817,139.3900288,18z?entry=ttu

 国道407号線を坂戸市街地方向に進み、「坂戸陸橋」交差点を右折、1㎞程先の「日の出町」交差点を左折し200m程進むと、進行方向右側に坂戸神社の鳥居や境内が見えてくる。地図を確認すると、東武東上線坂戸駅(北口)や、市役所などもすぐ近くにあり、市の中心部に鎮座しているようだ。駐車場は神社の敷地内にあるのだが、程々に交通量もあり、駐車場での出入りの際には周囲の道路状況を確認する等の注意が必要だ。
        
                    坂戸神社正面
「坂戸」地名由来として『新編武蔵風土記稿 坂戸村条』では、「勝呂郷浅羽庄に属せり、村名の起りを尋るに康平の頃、坂戸判官教明といへる人住せしより始れる由を云と、坂戸教明のことを據(よりどころ)とすべき記録なければ、今よりは考べからず」「常泉寺 薬師堂 本尊薬師は木の立像にて、胎中に長二尺許の薬師を納り、こは坂戸判官教明と云し者守り本尊なりしを、康平六年に此處へ安置せしとのみ傳へて、この外のことは詳ならず」「常泉寺蹟 村の南小名道願山にあり、往古坂戸判官教明の開基なりしに、しばゝ兵火の為に烏有となりし後は廢寺となる」との記載がある。
 
     鳥居の右側に建つ社号標柱            鳥居上部の社号額
        
             社号標の近くに設置されている社の由来書

 ご祭神である白髪武広国押稚日本根子天皇は、22代清寧天皇である。大泊瀬幼武天皇(雄略天皇)の第三皇子で、母は葛城韓媛(かつらぎのからひめ)。生来「白髪」という身体的な特徴であったため父帝・雄略天皇は霊異を感じて皇太子にしたという。但し白髪皇子は末子であり、異母兄には吉備稚媛の子の磐城皇子と星川皇子がいた。
 雄略天皇238月に大泊瀬天皇は崩御する。吉備氏の母を持つ星川稚宮皇子が権勢を縦(ほしいまま)にしようと大蔵を占拠したため、大伴室屋・東漢直掬らにこれを焼き殺させ、(星川皇子の乱)翌年正月に即位する。
 即位2年、皇子がいないことを気に病んでいたところ、大泊瀬天皇(雄略天皇)が即位前に暗殺した市辺押磐皇子の子で行方不明になっていた億計王(後の仁賢天皇)・弘計王(後の顕宗天皇)の兄弟が播磨で発見されたと報告を受ける。翌年に天皇のはとこに当たる二人を宮中に迎え入れ億計王を東宮、弘計王を皇子とし、即位5年正月に崩御する。『水鏡』に41歳、『神皇正統記』に39歳といい、陵(みささぎ)の名は河内坂門原陵(こうちのさかどのはらのみささぎ)という。
 実際に行政を行った記録は全く無く、存在感の大変薄い天皇でもあるが、生来の「白髪」という身体的な特徴であるがため、多くの伝説が後代尾ひれをつけて伝承された人物でもあろう。
        
                            独特の形状をした石製の二の鳥居
 白髪神社は調べると大きく3系統の由来があり、またそれぞれ「白鬚」「白髭」「白髪」等記載も微妙に違っている。詳しくは「上原白髭神社」を参照。

「坂戸神社御由緒略記」によると、以前は「白髪社」と称し、元坂戸に鎮座していた。創建に関して、源頼義が奥州討伐(前九年の役「永承六年(一〇五一)~康平五年(一〇六二)」の際に従軍した家臣、坂戸判官教明(坂戸判官後藤太教明)によって、白髪明神が奉斎されたと伝えられている。
 また『風土記稿』には「村名の起りを尋ねるに康平の頃、坂戸教明といへる人住せしより始れる」とあり、更に「教明の生国は河内国坂門原(坂戸原)で、この地には清寧天皇の御陵があり、古くから天皇を白髭明神と崇敬して来たことから、当地移住に伴い同神を氏神として勧請した」という。
        
                     拝 殿
 坂戸神社御由緒略記  お拾神(とかみ)の宮
 主祭神 清寧天皇(白髪武広国押稚日和根子天皇)・猿田彦命
 合祀神 神祖熊野大神櫛御気野命・建御名方命・菅原道真公・大山咋命・菊理姫命
     須佐之男命・倉稲魂命・誉田別命
 鎮座地 埼玉県坂戸市日の出町七の二六(坂戸字日枝前)
 交 通 東武東上線:坂戸駅(北口)より徒歩五分
 例 祭 四月十五日
 由 緒
 当神社は、高麗川・越辺川右岸の台地部分にあたる市街地中心部に鎮座します。
 社伝によると、ご創建の来由は第七十代後冷泉天皇の御代、朝廷軍である鎮守府将軍、源頼義が奥州討伐(前九年の役「永承六年(一〇五一)~康平五年(一〇六二)」の際に従軍した家臣、坂戸判官教明(坂戸判官後藤太教明)によって、白髪明神が奉斎されたと伝えられています。
 白髪社創祀のことは、『新編武蔵風土記稿』に「村名の起りを尋るに康平の頃、坂戸判官教明といへる人住せしより始れる」とあり、「教明の生国は河内国坂戸原で、この地には清寧天皇の御陵があり、古くから天皇を白髭明神と崇敬して来たことから、当地移住に伴い同神を氏神として勧請した」と記載され、平安時代末期の康平年間(一〇五八〜一〇六五)と伝えています。
 創建当時、白髪社は元坂戸に鎮座し、古来より郷人たちの尊崇に篤き一村の鎮守であることから、明治五年(一八七二)には太政官布告の社格制定により、村社に列せられました。

 また、同一七年(一八八四)には、坂戸駅付近の導願山に遷座して清寧天皇(白髪明神)・猿田彦命(白髭明神)の二神を主祭神とし、同時に稲荷前の熊野社、堀ノ内の諏訪社、天神前の天神社の三社を合祀し、五社様と尊称され、氏子区域も広がり盛大に祭祀を営みました。更に、同四十年(一九〇七)には日枝前の日枝・白山社、八坂社、これに加え、粟生田の稲荷社、上吉田の諏訪社・天神八幡社を合祀し、現在の鎮座地である字日枝前に遷座し、氏子区域は広大となり、祭祀も更に増え、厳粛・盛大に執行されました。本殿は神明造りで御扉が五箇所ある、いわゆる相殿五座で一座ごとに二神を奉斎します。第一座は主祭神、壱番神「清寧天皇」、弐番神「猿田彦命」。第二座よりは合祀神、参番神「神祖熊野大神櫛御気野命」、四番神「建御名方命」。第三座は五番神「菅原道真公」、六番神「大山咋命」。第四座は七番神「菊理姫命」、八番神「須佐之男命」。第五座は九番神「倉稲魂命」、拾番神「誉田別命」の十神(拾神 とかみ)です。そして、同年には社号も「白髪社」から現在の「坂戸神社」に改められ、境内も一段と整備されました。(中略)
                              「坂戸神社御由緒略記」より引用

        
                拝殿左側手前にある神楽殿
 
         社殿の奥には数多くの山車屋台格納庫が並ぶ(写真左・右)。
 坂戸神社では毎年7月15日を中心とした土曜日・日曜日に「天王様」と呼ばれる祭礼が執り行われている。山車を引き廻し、神輿がねり歩く。指定は一丁目から四丁目に分かれている。一丁目の囃子は日の出町・本町で、昭和23年(1948年)夏、消防団員を中心とした一心会が結成された。越生町本町から伝授された神田囃子大橋流。二丁目の囃子は仲町で、昭和24年(1949年)越生町黒岩から伝授された。三丁目の囃子も仲町で、昭和23年(1948年)川島町から伝授され、翌年「三若会」が組織された。四丁目の囃子は昭和3年(1928年)に塚越から伝授された。昭和12年に戦争のため解散、昭和21年に再組織した。
 坂戸市無形民俗文化財 指定年月日 昭和49211日。
        
     
拝殿手前で、参道右側には手水舎と共に「重軽石(おもかるいし)」がある。
         石を持ち上げて思ったより軽く感じると願いが叶うといわれているとの事だ。
        
                     本 殿
 本殿は神明造りで御扉が五箇所ある、いわゆる相殿五座で一座ごとに二神を奉斎している。第一座は主祭神、壱番神「清寧天皇」、弐番神「猿田彦命」。第二座よりは合祀神、参番神「神祖熊野大神櫛御気野命」、四番神「建御名方命」。第三座は五番神「菅原道真公」、六番神「大山咋命」。第四座は七番神「菊理姫命」、八番神「須佐之男命」。第五座は九番神「倉稲魂命」、拾番神「誉田別命」の十神(拾神 とかみ)である。
        
                      社殿左側隅にひっそりと鎮座する「皇国神社」
 
        参道右側にある手水舎奥に聳え立つご神木(写真左・右)



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「坂戸市HP」
    「Wikipedia」「境内案内板・御由緒略記」等

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坂戸八幡神社


        
              
・所在地 埼玉県坂戸市山田町585
              
・ご祭神 誉田別尊
              
・社 格 旧片柳新田村鎮守 旧村社
              
・例祭等 不明
    
地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9585773,139.3998195,18z?entry=ttu

 国道407号線を坂戸市街地方向に進み、「坂戸陸橋」交差点を右折し、その後コンビニエンスのある丁字路を右折すると、すぐ正面左側に坂戸八幡神社の鳥居が見えてくる。
 
鳥居の左隣には参拝者専用駐車場もあり、そこに停めてから参拝を行う。
        
                街中に鎮座する坂戸八幡神社
『日本歴史地名大系』 「片柳新田」の解説
片柳村の南にあり、西は坂戸村。享保期(一七一六―三六)代官川崎平右衛門の計画で片柳村民によって開墾された。名主役は片柳村名主が兼帯した(風土記稿)。開墾後は幕府領。明和九年(一七七二)検地が行われている。化政期の家数二〇(同書)。文政四年(一八二一)の小前名寄帳(関口家文書)によると高四四石余・反別三五町一反余
新編武蔵風土記稿 片柳新田村条』
片柳新田は元原野にして東西十町餘、南北も大抵同じ程の地なるを、享保年中川崎平右衛門計ひにて、片柳村の民新開して一村と成り」  
        
                             こじんまりと纏まっている境内
 坂戸八幡神社は、江戸時代・享保年中に新田開発された片柳新田の鎮守として八幡社と号して建立、別当は片柳村の日蓮宗休臺寺が務めた。明治5年には村社となったが、昭和15年旧陸軍による坂戸飛行場建設のため、当地へ遷座したという。
        
                     拝 殿
 八幡神社 坂戸市坂戸八一八
 当社の鎮座する片柳新田は、越辺川右岸の台地上に位置する。地内には縄文から平安期にかけての遺跡が確認されており、古くから人が居住した地域であると思われる。しかし、村が成立し、行政的に一村をなしたのは江戸期の新田開発からで、それまでは原野であった。これを開いたのが川崎平右衛門を中心とする片柳村の人たちであったため、片柳新田の名が付けられた。
このことから当社の創立は享保のころと考えられ、村人が鎮守として社を建立したものであろう。また、新田開発の地であることから作神としての信仰もあったといわれる。
 祭神は、誉田別尊で、内陣に騎乗の八幡大明神像を安置している。
 別当は神仏分離まで片柳村の日蓮宗休臺寺が務め、明治五年には長く村鎮守であったことから村社となった。
 下って太平洋戦争開戦の前年である昭和一五年二月五日には、当社は政府の政策により、社殿の移転を余儀なくされた。これは坂戸飛行場建設のためで、当時、境内地約六反を一千五百円で買収された。このため現在の神社地を坂戸市本町に住む井上とよから譲り受け、氏子二〇戸は移転のために勤労奉仕をした。村人たちは長く祭りを続けた社の敷地から戦闘機が舞いあがるのをみて、武運長久を祈ったという。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
  拝殿左側奥に祀られている境内社・山王神社    
拝殿右側奥に祀られている境内社・稲荷神社

 坂戸八幡神社は江戸時代の享保年間に新田開発された新しい村の鎮守様として創建、社の管理は江戸時代を通じて片柳村鎮守・片柳飯盛神社と共に「片柳村の日蓮宗休臺寺」が務めたという。

 休臺寺は戦国乱世も真っただ中の天正8年(1580)に長柳山妙慶寺として開山された古刹であり、江戸時代に横田次郎兵衛述松(のぶとし)という人物が中興開基したという。
「日蓮宗、房州小湊誕生寺の末、正覺山と號す、本尊三寶祖師を安ず、開山日慶天正八年八月十三日示寂、中興開基横田次郎兵衛延寶七年正月廿三日卒す、法名正覺院一乗日臺居士と云」
 ところで横田次郎兵衛の先祖は、武田二十四将にも名を連ねた猛将横田(備中)高松である。
『寛政呈譜』
「横田備中守高松(武田信玄につかへ、天文十五年信濃国戸石合戦討死す)―十郎兵衛綱松(信玄・勝頼につかへ、天正三年長篠の役に戦死)―甚右衛門尹松(武田家没落後、天正十年家康に仕へ、武蔵国高麗、比企、入間郡等五千石知行、寛永十二年死す、法名道本)―次郎兵衛述松(法名日台、入間郡片柳村日蓮宗休台寺に葬る、のち代々葬地とす)―由松(法名日松)―清松(法名日翁)―準松(九千五百石、法名日能)―以松(法名日通)。家紋、四目結、釘抜、矢羽車」
        
                          街中にありながら静かに佇むお社

 横田高松(たかとし)は、戦国時代の武将で甲斐武田氏の家臣。武田の五名臣の一人として有名な人物である。武田信虎、晴信(信玄)2代に仕え、信虎の代では足軽大将、信玄の代では敵の動きを察知し、戦術を先読みする軍師的な重鎮であったようだ。しかし天文1999日(1550年)に信濃村上氏の拠点である砥石城攻略の際、先鋒として参加するが、戦局は不利となって殿で退却中、追撃を受け戦死した。享年64歳。後に当主信玄は「武偏者なら横田や原美濃のようになれ」と話していたという。
 共に信玄の重鎮であった原虎胤の長男・康景(綱松)は高松の婿養子となってその跡を継ぐ。
武田信玄の没後は勝頼に仕えたが、天正
3年(1575年)521日、長篠の戦いで戦死した。享年51。
 横田氏は康景(綱松)の子・尹松の時に江戸幕府の旗本となり、5000石を領し、述松、由松(側衆・従五位下備中守)、栄松と続き、準松(のりとし、側衆・従五位下筑後守)の時、加増され9500石を領し、旗本最高位となっている。


参考資料「寛政呈譜」「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」 
    「鶴ヶ島市立図書館/鶴ヶ島デジタル郷土資料Wikipedia」等



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新田大根神社


           
            
・所在地 群馬県太田市新田大根町407
            
・ご祭神 宇迦之御魂神
            
・社 格 旧大根村鎮守 旧村社
            
・例祭等 春祭 43日 秋祭(大祭) 1118
                *参拝日 2023726
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.3168428,139.2795175,16z?hl=ja&entry=ttu

 大根地域は、太田市北西部に位置し、大間々扇状地藪塚(やぶづか)面の扇端部とその南方の沖積地を占めている。因みに「大根」と書いて「おおね」と読む。この大根という地名由来としては、中世・新田庄に属していた頃は「嘉応二年(一一七〇)の新田庄田畠在家目録写(正木文書)に「あふねの郷 田三町二反四十五たい 畠八反 在家一う」、西迎(さいごう)寺(現長野県下水内郡豊田村)の延慶三年(一三一〇)四月二〇日の阿弥陀仏像背銘には「上野国新田庄青根郷 大檀那義季・見阿」とあり、当時は「青根」「あふね」「相根」等表記されていたようだ。
 また「吾妻鏡」承久三年(一二二一)六月一八日条に記す宇治川の合戦で負傷した上野武士の一人に青根三郎の名がみえる。
        
 新田上江田勝神社の東側に群馬県道69号大間々世良田線が南北方向に通っているが、「やすらぎ団地」交差点を左折し、上記県道沿いを暫く北上する。1.5㎞程先の丁字路を左折すると進行方向左手に「ほたるの里公園」が見えるが、その公園を直進した400m程先に新田大根神社の境内が見えてくる。
       
           拝殿前に真っ直ぐに伸びる欅のご神木(写真左・右)
        
              境内に設置されているご神木の案内板
 大根神社の大欅の由来
 大根神社の大欅は神社本殿に向かって左前に在り、樹齢は定かではないが、古老の口述に依ると、三十年以前にこの大欅を買いつけに来た業者の説によれば、当時でも推定三百年は経過しているとのことであった。
 現在、根回り八・五メートル、目通り五・五メートル、主幹は真っ直ぐに伸び、太い枝は三、四本であったが、一本は落雷によって落下したしたものの樹勢は益々旺盛で、春の芽吹きの頃、幹に耳をつけると大量の水を吸い上げる音が聴きとれるとの言い伝えもあります。
 大根神社は、大根、大の六〇〇戸の住民の守り本尊としての氏神であり、その社の御神木である 大欅は戦時中、大欅の長寿に肖りたいとの思いから、召集され戦地に赴く兵士が秘かに欅の皮を剥がし、軍服に忍ばせて出征したとの話題も伝えられています。
 平成十七年 三月 新田町観光協会
                                       案内板より引用
        
                     拝 殿
 
  境内に並んで設置されている「
皇太子殿下行啓90周年記念・大根神社の沿革」(写真左)と、「大根神社改築記念碑」(同右)。皇太子殿下行啓90周年記念・大根神社の沿革」記念碑によるこの社の由来としては、創立は不詳ではあるが、創建は古く秋葉様又は稲荷神社と称して、新田公一族である綿打太郎為氏以下氏義氏頼等の崇敬厚いお宮であると伝えられ、新田氏衰退後も大根村の鎮守様として地域の住民を始め多くの人々の崇敬をうけてきたという。
 明治四十一年十月二十六日、許可を得て本社境内の末社秋葉社及び字矢太神の無格社、矢神社、字一丁畑無格社雷電神社同境内末社稲荷神社、諏訪神社、字大宮村社、赤城神社を合併して村社大根神社と改称した。
 大正四年八月二十四日更に許可を得て同村大字大上ノ町村社赤城神社、境内末社秋葉社、大山祇社を合併して大根、大、両地区の鎮守となる。
 大正七年十月十八日(明治三十九年勅令第九十六号)神饌幣帛料供進神社として指定されている。

 大根地域は、太田市北西部に位置し、大間々扇状地藪塚(やぶづか)面の扇端部とその南方の沖積地を占める。その扇端部の標高60mの地点を中心として多くの湧水が見られ、矢太神水源(やだいじんすいげん)は、これらの中でも最も豊富な水量を誇っている。
 現在、周辺は「ほたるの里公園」として整備されており、公園北西側に湧水点が、またこの湧水点の南側には東西15m、南北80mの沼(矢太神沼)がある。
 湧水点では湧水が砂を舞い上げる自噴現象を観察することができ、この地点には「ニホンカワモズク」という、貴重な紅藻類が生息している。これはかつてこの地が海であった時代に陸に閉じ込められたものが、次第に環境に適応して現在の姿になったと考えられていろという。
 仁安3年(1168)の「新田義重置文」(長楽寺文書、国重文)は、「空閑の郷十九郷」を頼王御前(世良田義季)の母に譲ることが書かれた古文書で、新田荘が開発された様子を知ることができる。ここには「上江田・下江田・田中・小角・出塚・粕川・多古宇(高尾)」などの郷名が書かれている。これらの郷は石田川水系に立地していることから、新田荘の開発に石田川の水が利用されたことが分かる。矢太神水源は石田川の源流であり、新田荘の開発に湧水地の水が利用されたことを証明する貴重な史跡である。
 矢太神水源は平成12111日国の指定史跡[遺跡地]に指定されている。


参考資料「
日本歴史地名大系」「太田市公式HP」「おおた観光サイト」「境内案内板・碑文」等
 

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赤堀町八幡宮


        
              
・所在地 群馬県太田市新田赤堀町341
              
・ご祭神 品陀和気命(応神天皇)
              
・社 格 旧村社
              
・例祭等 大祭1015日 中祭1115日 小祭415
                  (15日に一番近い日曜日とする)
                  *参拝日 2023年7月23日
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2907735,139.2926919,17z?entry=ttu 

 中江田町矢抜神社から一旦南下し、群馬県道312号太田境東線に合流後左折する。この県道は通称日光例幣使街道とも呼ばれ、江戸時代の脇街道の一つで、徳川家康の没後、東照宮に幣帛を奉献するための勅使(日光例幣使)が通った道である。例幣使とは、天皇の代理として、朝廷から神への毎年のささげものを指す例幣を納めに派遣された勅使のことであり、その例幣使が日光へ詣でるために通ったことから、つけられた呼び名である。街道は西国の諸大名の日光参拝にも利用され、賑わうこととなったという。
 県道合流後、暫く東行し、「新田木崎町」交差点を左折する。同県道311号新田上江田尾島線を道沿いに北西方向に1.4㎞程進んだ丁字路を右折すると、ほぼ正面に赤堀町八幡宮の社号標柱が見えてくる。
        
                  赤堀町八幡宮正面
『日本歴史地名大系』「赤堀村」の解説
 木崎台地の北東部を占め、西は上江田(かみえだ)村、南は中江田村、南東は木崎村、北東は反町(そりまち)村。北西から南東に元禄期(一六八八―一七〇四)以降の銅山(あかがね)街道が走る。
 中世には新田庄下江田村に属し、新田世良田家から岩松家に相伝された。正和二年(一三一三)一二月二一日付の妙阿売券(新田氏根本史料)によると、「新田庄下江田村赤堀」内の在家一宇・田三町四反小が一七〇貫文で、江田頼有の孫岩松政経の妻妙阿の手から由良景長妻紀氏に売却されている。売却された田・在家には同月日付の坪付注文(同書)が残されており、「木崎境 きさきさかい」「つかた」「ふけた」「はらつくり」等がみえる。この地は、のちに紀氏の父で娘の名字を借りて買得したという大谷道海によって、長楽寺(現尾島町)の三尊・本尊に寄進された(嘉暦三年一一月八日「大谷道海寄進状案」長楽寺文書)。
        
        道路沿いにある社号標に対して左方向に向いている鳥居、及び参道
 現在の群馬県道311号新田上江田尾島線は、江戸時代『銅山街道(あかがねかいどう)』と呼称されていた。この街道は、下野国(栃木県)足尾銅山から渡良瀬川沿いの渓谷を下り、上野国(群馬県)笠懸野(大間々扇状地)を経て、利根川沿いの河岸までを結ぶ街道である。
 道筋は現在の国道122号・群馬県道69号大間々世良田線・群馬県道311号新田上江田尾島線に相当しており、水沼(黒保根町水沼)で根利道(群馬県道62号沼田大間々線・群馬県道257号根利八木原大間々線)と、深沢(大間々町上神梅)で大胡道(群馬県道333号上神梅大胡線)と、木崎(新田木崎町)で日光例幣使街道(群馬県道312号太田境東線)と接続していた。
 幕府直営の足尾銅山で精錬された御用銅を江戸へ運ぶために整備された街道である。慶長15年(1610年)に足尾山中で銅が発見、幕府直轄機関である「銅山奉行」を設け、慶安2年(1649年)に街道を整備して各宿に銅蔵を置いたと伝わり、延宝・天和年間(1673年〜1684年)の頃が足尾銅山街道の最盛期であり、毎年35万貫から40万貫までの銅が運ばれたという。
        
                          境内の様子。参道右手にある「赤堀会館」
 
境内左手に設置されている「赤堀獅子舞」案内板       拝殿左手に鎮座する
                            境内社・
八坂神社、菅原神社
 新田町指定重要無形文化財 赤堀獅子舞
 指定  平成九年三月三十一日
 所在地 新田町赤堀三四二
 赤堀獅子舞は、およそ三百年前の元禄年間に成立したと伝えられている。法眼(ほうがん)・雌獅子(めじし)・雄獅子(おじし)と呼ばれる三頭の獅子が笛と唄に合わせて勇壮に舞う姿は、本物の獅子の動きを思わせるものである。昔から塗り替えることをいましめられている三体の獅子頭は、それぞれ異なった表情に作られている。
「法眼」は長(おさ)としての風格を持ち、「雌獅子」は優しさ、気品を、「雄獅子」は雄としての荒々しさを持っている。この特徴は舞の中でも表現され、おそれ、おののきや雌をいたわる優しい仕草も見られる。これは他の獅子舞には見られない特徴であり、専門家の間でも高く評価されている。
 毎年、十月中旬の秋祭に赤堀八幡宮で実施されている。
平成十二年三月 新田町教育委員会
                                      案内板より引用

        
                     拝 殿
        
                          社殿右側に設置されている案内板
赤堀八幡宮
一、御祭神 品陀和気命(応神天皇)
  南無八幡大菩薩とも呼ばれる源氏の神。武家の崇敬弓矢の神
一、御神徳 五穀豊穣 天下泰平 四海静穏 家内安全等
一、例 祭 大祭十月十五日、中祭十一月十五日、小祭四月十五日
      (各十五日に一番近い日曜日とする)
御由緒
建久年中(一一九〇~一一九八年)京都の石清水八幡宮より、新田義貞が勧請した。
別当瑠璃山大方坊薬王寺(大方坊四三九番地に二反壱畝廿九歩の土地を保有、現在は上江田分)は、新田氏族江田兵部大輔行義公(一三三〇年代活躍。鎌倉攻めに参戦している)江田郷(赤堀は江田郷の内)に住し、これを管理する新田氏累代の崇敬社となった。本村の乾の方向(北西)にあったが、安永年間(一七七二~一七八〇年)の間に廃絶し、その後現在の地に建立された。天明四年(一七八四年)名主
役場で火災が発生し一社の記録が焼失したが、獅子頭のみ焼失をまぬがれた。(中略)
木崎の村々の出現と変遷
嘉暦三年(一三二八年大谷道海寄進状)長楽寺三尊本尊に寄進の中に(下江田村内赤堀在家壱間等)新田義貞根本資料のなかに正和二年(一三一三年)の売券があるが、ここでは年号の下限が参考になるので省略した。ここでは赤堀は村として独立していない。日記の中では村になっている何時頃からか。   「長楽寺永禄日記」より
旧別当瑠璃山大方坊薬王寺と末社八社
行義公は赤堀本郷地区を中心として村づくりをするための礎として建立した。南無八幡大菩薩(仏に救われたいと言う願いをかける)武運長久、息災延命、天長、地久、安穏等を願い新田氏族江田、赤堀領民が神仏を信仰することにより、救われたいという願いをかけるとともに領主領民が一体となってこの地の繁栄、無事で長続きするよう願い建立したのではないか。
                              平成二十六年十月吉日 宮田晃和
                                      案内板より引用
   
         
           本 殿                                 社殿右手に鎮座する           
                             境内社・塞神社・神明宮・石神社
        
                                社殿から見た境内の一風景


参考資料「日本歴史地名大系」「太田市HP」「境内案内板」等

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