古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

下小見野氷川神社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡川島町下小見野755
             
・ご祭神 素戔嗚尊
             
・社 格 旧下小見野村・梅ノ木・虫塚三村鎮守 旧村社
             ・例祭等

 川島町東北部に位置する下小見野地域。氷川神社としても、川島町では一番北に位置する。
 経路としては、上小見野氷川社から一旦東行し、コンビニエンスストアが見える十字路を左折する。埼玉県道76号鴻巣川島線合流し、暫く北上すること1.7km程、市野川に架かる「徒歩橋」の手前の十字路を左折し200m程進むと、進行方向右側に下小見野氷川神社の鳥居と境内が見えてくる。因みに「徒歩橋」と書いて「かちばし」と読むようだ
 社に隣接している社務所の駐車スペースの一角をお借りしてから参拝を開始する。
        
                 下小見野氷川神社正面
 下小見野(しもおみの)地域は埼玉県比企郡川島町の北部に位置していて、市野川がその境となし、その対岸は吉見町大串地域となっている。この地域は田畑が大部分を占めており、その中に住宅が点在していて、のどかな田園風景をいまだに残している。
 参拝当日はあいにくの雨交じりの天気だったが、それが却って神聖さを醸し出しているような雰囲気。
        
                  鳥居の前にある神橋
 
     下小見野氷川神社正面鳥居       鳥居の左側にある社号標柱
『日本日本歴史地名大系』では 「下小見野村」は以下の解説がある。
 [現在地名]川島町下小見野
 上小見野村の北東、市野川の右岸に位置する。集落は旧荒川筋の自然堤防上に細長く発達するが、村域は上小見野村や東方の加胡(かご)村・松永(まつなが)村と入組んでいる。
 近世は小見野一〇ヵ村の一。古くは上小見野村と一村で、小美濃本(おみのほん)村と称していたが、寛文年間(一六六一―七三)頃に分村した。元禄郷帳に村名がみえ、高六七二石余。分村以前から川越藩領であり、明和四年(一七六七)藩主秋元氏の移封に伴い出羽山形藩領となる。秋元家時代郷帳では元禄郷帳とほぼ同高で、ほかに野高並前々検地出高として高二三七石余がある。反別は四方六〇町四反余・畑方六三町八反余・野一一町余

 市野川が最終的に荒川と合流するこの地域、具体的には吉見町大串、川島町上小見野・下小見野・松永各地域は、『日本歴史地名大系』の解説にもあるように、行政区域が文字通り入り組んでいて、飛び地が多く存在する。
        
                 参道の先に拝殿が見える。
            緑豊かな社叢林の中にひっそりと鎮座する社。
        
                     拝 殿
 氷川神社 川島町下小見野七五五
 小見野は、中世末期から用いられたと思われる小美濃郷の遺名である。慶長十四年(一六〇四)の検地帳には「武州比企郡小美濃郷」と記されている。正保年中(一六四四-四八)の国絵図に見える「小美濃本村」が、寛文二年(一六六二)に上・下小美濃村に分村し、後に表記を小見野と改めたという。
 当社は、小美濃郷と記していたころには、既に武蔵国一の宮氷川神社の遥拝所として建立されていたが、後に改めて一社として勧請されたと伝えられる。宝暦二年(一七五二)の棟札によれば、下小見野・加胡・松永の三か村の総鎮守として本殿を再建した際、上小見野・梅之木・虫塚・一本木・谷中・戸羽井・戸羽井新田・大塚の八か村からも籾の寄附がなされており、これらの村々がかつて小美濃郷に属していたことをうかがわせる。ちなみに、大塚村を除いた十か村は、江戸期に「小見野十か村」と唱えられていたという。
 また、この棟札には「遷宮導師当村明光山法鈴寺法印教慧和尚」「別当当村普門山光西寺法印譽山」の名があり、往時の祭祀状況をうかがわせる。法鈴寺と光西寺は本末の関係である。
 明治四年に村社となり、同四十年には大字下小見野字上小見野家付の天神社と大字松永字矢代町の八幡社の村社二社を合祀した。天神社は「天神前」の屋号を持つ石川能男家の近くに鎮座していたという。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                                    本 殿



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「日本歴史地名大系 」「埼玉県HP」
    
Wikipedia」等

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上小見野氷川神社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡川島町上小見野320
             ・ご祭神 素戔嗚尊
             
・社 格 旧小見野郷鎮守
             ・例祭等 

 一本木神明神社の北方400m程の場所で、上小見野地域の南方境に鎮座する上小見野氷川社。鳥居から100m程東側にある「虫塚集落センター」に車両を駐車させてから参拝を開始する。
        
              農道沿いに建つ上小見野氷川社一の鳥居
 
     一の鳥居から長い参道が続く。     参道の先に木製の朱色の鳥居が見えてくる。
 社の周辺は一面長閑な田畑風景が広がっている。当然だが参拝客は筆者のみ。但し日の光を燦々と浴びているので、社特有の寂しさ等は感じられない。
 一の鳥居から北に延びる舗装されていない参道は、不定期的な改修等は行っているであろうが、なぜか一時代前の懐かしさを感じさせてくれる、そんな不思議な社だ。
 
 二の鳥居前には用水路と表現するにはもったいない位の綺麗な小川が東西に流れていて(写真左・右)、参道から社までに神橋が架かっている。この神橋は「中瀬橋」という。
        
              朱色が映える上小見野氷川社二の鳥居
 かつての「小見野郷」は、市野川の下流右岸、現川島町上小見野・下小見野を遺称地とし、その一帯に比定される。小美濃・尾美野などとも記した。児玉党系図(諸家系図纂)によると浅羽小太夫行業(入西資行の子)の子四郎盛行が小見野氏を名乗っている。
*武蔵七党系図
「浅羽小大夫行業―小見野四郎盛行―三郎行景、弟四郎行員、其弟五郎実光―五郎四郎有行(兄五郎大夫教信)―四郎五郎広行(弟又四郎行盛)。五郎実光の弟六郎行則―中務丞行重―太郎経行(弟四郎員行)。六郎行則の弟七郎行泰―二郎行直(行則子トモ云)―弥二郎近行」
 その後建久元年(一一九〇)一一月、源頼朝が上洛した際の後陣随兵三一番に小見野四郎の名がみえる(「吾妻鏡」同月七日条)。
吾妻鑑卷十「建久元年十一月七日、頼朝上洛随兵に小見野四郎」
武蔵志「東鑑に三保谷四郎を小美濃四郎とも出る」
米良文書(室町時代)「越生一門名字書立、越生、小見野、留田」
 横山党大串氏族小見野氏とは姻戚関係となっているようだ。
*小野系図「大串次郎重保(東鑑文治五年)―広隆―広行―女子(小見野弥次郎妻)―大串孫次郎行忠」

 また享徳二年(一四五三)四月一〇日の十郎三郎目安案(鑁阿寺文書)によると、この頃当郷および八林郷と、近隣の戸守郷との間で用水争論が起こっている。この用水は都幾とき川の水を長楽ながらく付近で取入れるもので、上流にあたる戸守郷が用水を止めたために「尾美野・八林」両郷が武蔵国府中(守護所)に訴えたものである。
          
          二の鳥居の手前で左側に    鳥居を過ぎてすぐ左側に祭られている
            ひっそりと建つ社号標柱              境内社 厳島社
        
                境内左側には神楽殿あり。
         思っていた以上に立派な神楽殿。拝殿より目立つような貫禄。
        
                     拝 殿
 氷川神社 川島町上小見野三二〇(上小見野字家附二番町)
 当地「上小見野」は、下小見野と共に古くから「小小見野郷」の本村というべき地にある。また、この二村のほかに隣村の加胡・松永・谷中・梅ノ木・虫塚・一本木・鳥羽井・鳥羽井新田の八か村を併せて俗に「小見野十か村」と呼ぶ。これがかつての小見野郷の郷域である。
 当社は、武蔵国一の宮氷川神社から小見野郷の本村に勧請され、郷の総鎮守として崇敬を受けた。しかし『風土記稿』上小見野村の項に「氷川社 当村及び梅ノ木・虫塚三村の鎮守」と記されるように、江戸後期には既に三か村の鎮守となっていた。往時の神社運営には、名主を務めた上小見野の長谷部家、梅ノ木の堤家・岩淵家らが当たったものと思われる。
 享保元年(一七一六)九月、町田氏により当社に金幣が奉納されている。ただし、この町田氏の在所については明らかではない。
 別当は隣村の下小見野にある真言宗明光山法鈴寺で、同寺は入間郡越生郷松渓山法恩寺の末寺である。延享三年(一七四六)の本殿再建の際、これを喜んだ法恩寺二十四世貞範が、聖武天皇と光明皇后の御宸筆なる経文を当社に法鈴寺の教慧を通じて奉納したと伝えている。
 なお、嘉永二年(一八四九)
に「氷川大明神」の扁額が当社に奉納されているが、この揮毫は一の宮氷川神社神主「角井家」によるものである。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
境内社厳島社と神楽殿の間に祀られている境内社    社殿の左奥に祭られている境内社
        詳細は不明。            左側より稲荷社、右側の石祠は不明。


参考資料「新編武蔵風土記考」
「埼玉の神社」「武蔵七党系図」「吾妻鑑」「武蔵志」「米良文書」
    「日本歴史地名大系」等
 

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白井沼氷川社


        
              
・所在地 埼玉県比企郡川島町白井沼219
              ・ご祭神 素戔嗚尊
              ・社 格 旧白井沼村鎮守 旧村社
              ・例祭等 春祭 47日 夏祈禱 714日 101415
                   例祭・秋祭り127日

 吉原宮原神社から埼玉県道339号平沼中老袋線を西方向に600m程進行し、信号のある十字路を右折、通称「さくら通り」を川島町役場方向に進む。「首都圏中央連絡自動車道」の高架橋下を潜りぬけ、160m先のT字路を右折する。川島町立川島中学校を過ぎたその先に白井沼氷川社が鎮座する場所に到着する。
        
                  白井沼氷川社正面
『日本歴史地名大系』では、「川島町白井沼村」の概要として以下の内容が記載されている。
 紫竹(しちく)村の北にあり、集落は畑中(はたけなか)村の南に続く自然堤防上に発達。小名に浮沼(うきぬま)・猿ヶ谷戸(さるがいと)と・要ヶ谷戸(かまめがいと)などがあり、元来、沼地・谷地であったことを伺わせる。田園簿では田高二九九石余・畑高三八石余、川越藩領。秋元家時代郷帳では高四一〇石余、ほかに前々検地出高として高七一石余がある。
 反別は田方五五町八反余・畑方一二町九反余。明和四年(一七六七)藩主秋元氏の移封に伴い出羽山形藩領となったが(「川島郷土史」「風土記稿」など)、のち再び川越藩(慶応二年、藩主移転により上野前橋藩となる)領となった(天保一二年「川越領村高書上」猪鼻家文書など)。
        
                   石製の神明鳥居
        
                     拝 殿
 氷川神社 川島町白井沼二一九(白井沼字宮後)
 万治三年(一六六〇)にこの辺りは大飢鐘に襲われ、加えて悪疫が流行したことから村は疲弊した。このため、当地の重立七家が相諮り、翌寛文元年(一六六一)に真福寺の境内地を卜して社を建て神霊を奉斎した。これが、口碑に伝えられる当社の創建である。
『風土記稿』には「氷川社 村の鎮守なり、寛文年中に勧請すと云、真福寺持、末社 天神社・諏訪社・稲荷社」と載せられている。
 神仏分離を経て、当社は明治四年に村社となった。その後、明治二十六年に真福寺の本堂と共に社殿を焼失したが、翌二十七年には再建が果たされた。明治四十五年には字中下の無格社稲荷社を合祀した。
 太平洋戦争後、当社は維持に困窮したが、当地出身の遠山元一氏の多額の寄附と氏子一同の協力によって運営基盤を立て直し、現在に至っている。近年では、昭和五十三年に拝殿の再建が行われている。
 明治初年に廃寺となった真福寺は、その本堂が明治三年から同五年にかけて川島郷学校の校舎として利用された。この学校は、「学制」発布以前に前橋藩の働き掛けによって設立された郷学校で、近代における川島の庶民教育の先駆的役割を担ったことで知られている。
 なお、明治二十六年の火災で焼失を免れた真福寺の本尊不動尊は、今も境内の一画に祀られており、近くには「権大僧都法印宥範・延宝三年(一六七四)をはじめとする歴代法印の墓石五基が残る。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                     本 殿

 嘗て日本の村や集落には、それぞれの地域ならではの伝統的な芸能が盛んに行われていた。しかし、職業の多様化や少子高齢化の流れによる後継者不足により、活動を続けられなくなる地域も現実多くあるのが実情だ。
そのようななか、数百年の歴史ある「獅子舞」を共に踊り、奏でることで、地域の絆や、一致団結する心、故郷への思いを今もなお守り続けている地域もある。
川島町の獅子舞は江戸時代に始まったとされている。農業が中心で生活が厳しい時代、集落のみんなで力を合わせて乗り越えていくため、「五穀豊穣」「無病息災」「家内安全」を願い、神社へ奉納していた。また、うたい、踊り、心を充足させるために行われていた。
獅子舞は、3頭の獅子と、宰領または猿若という道化役、頭に笠を被り、ササラという竹の楽器を奏でる花笠、短い詩を長くひっぱるように歌う唄によって構成されている。これらの獅子・笛・唄が一体となり獅子舞となる。
町内7か所で行われるなど、地域の方々のなじみの行事として親しまれてきた。その伝統は、伊草と白井沼の2か所で今なお受け継がれ、毎年祭りが行われている。
 
 社殿左側に鎮座する境内社 天神社・諏訪社    社殿右奥に鎮座する境内社・稲荷社

 白井沼の獅子舞
 白井沼の獅子舞は江戸時代に始まったとされる記録が残されている。昔、2年続けて伊草の獅子が村回りの途中で川に落ち流された。これも神のおぼしめしと考え、縁起の良い先獅子、女獅子を伊草の大聖寺から白井沼の真福寺がもらい受け、後獅子と宰領をそろえて夏祈祷を行ったのが白井沼獅子舞の始まりという言い伝えがある。
 白井沼獅子舞は、毎年7月と10月の第3日曜日に、夏祈祷・秋祭りが行われる。「四方固め」「花見」「女獅子隠し」「花散の舞」「岡崎」という演目があり、それぞれの笛に合わせて獅子が舞い踊る。
                          「広報かわじま 201712
月号」より引用
        
 白井沼氷川社の東側に隣接している「白井沼集落センター」側に祭られている「不動明王」の祠。神社の境内に仏系統のお不動様が祭られていること稀であろう。
        
                          境内の一風景
   
 桶川市三田原地域には市指定文化財「三田原のささら獅子舞」が当地の氷川社等で奉納される。この桶川市三田原地域と白井沼氷川社とは「氷川社」以外は一見何も共通事項がないように思われるが、この三田原のささら獅子舞」は、嘗て文化年間の頃には、比企郡白井沼へ教授したこともあったそうだ。

 三田原のささら獅子舞(無形民俗文化財)
 三田原のささら獅子舞は、その系譜については明らかでないが、延宝から元禄の頃、雨宮武休という人が獅子舞を中興し、芸が整えられ、その後次第に盛大になり今に伝えられるといわれている。現在は三田原の氷川神社で演じられているが、かつては柏原の獅子組の人たちによって、八幡神社の祭礼で演じられていたとのことだ(「三田原」とは、三ツ木、田向、柏原の3地区を意味する)。その後、戦中から戦後にかけて中断されたが、昭和40年代になって地元の熱意により復活を遂げた。
 五穀豊穣、万民快楽を祈願して行なわれるこの獅子舞は、道中行列を含め約2時間にもなる長いもので、12の「場」から成っている。道中の行列が社前の舞庭に到着すると、まず宰領が舞庭に入り場を清める。その後、法眼(先獅子)、後獅子、雌獅子の順で舞庭に入り拝礼、そして、三頭は宰領の導きによって舞いを始める。
 複雑で、多様な変化のある優美な舞いが特徴で、かつて文化年間の頃には、比企郡白井沼へ教授したこともあったそうだ。衣装にある「三つ柏」の紋はこの地を領した牧野家の紋で、これは川田谷に残る三つの獅子舞に共通している。祖先が守り伝えてきた昔の舞、曲、歌を崩さず、本来の姿で伝えていくことを重んじているとのことだ。
 10月の三田原氷川神社の秋祭りに、氷川社及び八幡社の前で奉納、当日には朝から村廻りも行なわれる。
                                   「桶川市
HP」より引用


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」
「広報かわじま 201712月号」「桶川市HP」等
  

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須賀熊野神社


        
              
・所在地 埼玉県行田市須賀4533
              
・ご祭神 家都御子神 熊野夫須美命 速玉男命
              
・社 格 旧須賀村鎮守社 旧村社
              
・例祭等 例祭日 715

 北河原十二社神社から埼玉県道59号羽生妻沼線を東へ4km程進むと、進行方向左手に須賀熊野神社の鳥居が見える。地図を確認すると「利根大堰」の東側500m程の場所に位置する。県道沿いでも目立つ社号標柱と、整備された長い参道が北方向に延びて、その先に拝殿が僅かに望める。
 須賀集落は県道沿いに集中しており、少し民家が途切れると美しい田畑と利根川の果てしなく長い堤防が見られる。社は須加の集落の中央に鎮座している。
        
                         県道側から参道正面を撮影
               
                    社号標柱
 
         鳥居の額名は「熊野大権現」               コンクリートで整備された参道が
                                                        一直線に延びている。
        
           鬱蒼とした森が背後に控え、利根川の堤防を背に社殿は鎮座している。

 ○須賀村 
 熊野社 
村の鎮守なり、本地佛弥陀を安ず、
  末社。大黒天、子安権現合社、
 別当利益寺 当山派修験、山城国醍醐三宝院末、加納院と号す。本尊不動を安ず、
                               「新編武蔵風土記稿」より引用
        
                     拝 殿
 熊野神社
 須加の地名は、川州に形成された土地であることに由来する。社伝によれば、建武年中、山城国愛宕郡当山派修験醍醐三宝院末加納院宥長がこの地に社を勧請したというが、古記録等は天正十八年の火災により焼失している。祭神は家都御子神(けつみこのかみ)・熊野夫須美命(くまのふすみのみこと)・速玉男命(はやたまおのみこと)である。また、神仏習合時代の本地仏である阿弥陀如来立像を安置している。(中略)
 明治六年には村社となり、同四二年舟戸の神明社、大稲荷の大伊奈利社、小稲荷の小伊奈利社、矢倉の塞神社、雷電の雷神社、久保の雷神社、中郷の愛宕社、久伊豆の久伊豆社、砂原の八坂社・諏訪社、富士宮の浅間社の十一社が合祀された。しかし、大伊奈利社・小伊奈利社を除くすべての社が現在も各耕地にあり、現在も祭りが続けられている。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
                   拝殿部挙鼻の龍
                         龍はかなり動きのある精緻な造りである。 
 
                木鼻部の獅子(写真左・右)

『行田郷土史研究会2012 HP』には「忍の行田の昔ばなし」が紹介され、その中に須加地域の昔話もある。興味深い内容であるので全文紹介する。

 第三十話「須加の熊野神社」
 昔から、利根川べりにある須加に住む人々は、妻沼町の人との縁談は必ず不縁になると信じられておりましたので、近年になってもこの二つの町村との婚姻はなかったということであります。なんでそんなことになったのか、昔むかしのお話を紐解くことにいたしましょう。
 須加には拝殿の拳鼻彫刻龍と、木鼻彫刻による端正なお顔をした狛犬で有名な熊野神社がございます。趣のあるこの熊野神社は、社伝によりますと建武(けんむ)年中といいますから一三三四年ごろ、山城国愛宕郡当山派修験醍醐三宝院末加納院宥長がこの地に社を勧請したといわれております。御祭神は、家都御子神、熊野夫須美命、速玉男命、でございます。
 この神社には富士塚もあり、浅間大社、三峰神社その他たくさんの末社が祀られております。
 この中に、昔は聖天さまも祀られていたそうであります。
 縁結びの霊験あらたかな聖天さまでございますが、妻沼の聖天さまは、もともとはこの須加の熊野神社の境内を借りて祀られてあったのだそうでございます。
 縁結びのお力は人々の心を大変引き付け、だんだんと熊野神社では聖天さまの方が人気さかんになってしまいました。
「肝心の熊野神社の方がすたれていってしまい、このままでは熊野神社が聖天さまに取られてしまう」ということで、或る日のこと、熊野神社の氏子たちが皆で聖天さまを松葉を焚いていぶり出してしまったということでございます。
 いぶり出されてしまった聖天さまは、妻沼郷大我井の森に移転することになりました。その移転の道中、北河原村まで来たところ、嵐のような大雨に遭ってしまわれました。
 奥墨某という家でなんとか雨宿りをしましたが、雨はなかなか降りやまないので、一夜泊めてもらうことにしました。そこでこの地は「雨の袋」と地名が付き、今では「天の袋」と書きますが現在の小字にもある「天袋(あまぶくろ)」というようになりました。
 翌日この地から旧奈良村へ出て道中の休息をしたところから、ここに「時華」という地名もあるそうです。そしてようやく妻沼の大我井の森にたどり着き、安住の土地である妻沼に落ち着かれたのだということであります。
 聖天さまは須加で松葉いぶしにあってしまわれたのですが、「この世の中に松の木がなかったらこんなひどい目に会わなかったであろう。」と、それからというもの、聖天さまは松の木を非常に嫌ったといいます。一説には、聖天さまは、太田の呑龍さまと戦ったことがあるそうで、その時、金山の松で左の目を突ついて怪我をしたので、松が嫌いになったともいわれておりますが、松嫌いの聖天さまのお話はこれまたいろいろございますので、別のところでお話しいたしましょう。
 縁結びの神様がいなくなってしまった須加の熊野神社ですが、神社の風格や凛とした構えの鳥居など、本当に心が浄められる美しい神社でございます。見事な社殿彫刻をご覧になりたい方はぜひ一度訪れてみてはいかがでしょう。

 妻沼の聖天様だけでなく、日本全国に松が嫌いな神様がおられるそうだ。例えば鴻巣市安養寺八幡神社も同じ説話があり、人々から厚く信仰される神仏でも、不思議と人間くさい一面が伝承・伝説では語られている。慈悲深い神様や仏様とはいえ、争いごと等をすることもあるかと感慨深いエピソードであるが、「神様の松嫌い」この伝承・伝説にはもっと深い何かが隠されているようにも思えて仕方がない。
 

           本 殿            社殿左側には「御嶽社」・「浅間社」

 「御嶽社」・「浅間社」の右隣には倉庫らしき施設あり、神興庫であろうか(写真左)。その並びには石祠群がびっしりと並ぶ(同右)。「埼玉の神社」に記されている「舟戸の神明社、大稲荷の大伊奈利社、小稲荷の小伊奈利社、矢倉の塞神社、雷電の雷神社、久保の雷神社、中郷の愛宕社、久伊豆の久伊豆社、砂原の八坂社・諏訪社、富士宮の浅間社の十一社」であろうか。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「行田郷土史研究会 忍の行田の昔ばなし」
    「
Wikipedia」等

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北河原十二所神社

 天神七代とは日本神話で天地開闢のとき生成した7代の神の総称であり、神世七代(かみのよななよ)ともいう。国之常立神、豊雲野神、宇比地爾神(ういじにのかみ)、角杙神(つのぐいのかみ)、意富斗能地神(おほとのじのかみ)、於母陀流神(おもだるのかみ)、伊邪那岐神。それに対して地神五代とは「天神七代」と神武天皇以後の天皇を意味する「人皇」の間に位置する5柱の神々を称していう。天照大御神、天忍穂耳命、邇邇芸命、彦火火出見命(山幸彦)、鵜葦草葦不合命(うがやふきあえずのみこと)の5柱の神々、及びそれらの神々の時代をいう。
 総じて初代神武天皇の前12代の天神地祇を総じて十二所神社と称していて、何とも贅沢な社といえよう。
        
             
・所在地 埼玉県行田市北河原1510
             
・ご祭神 天神七代命 地神五代命
             
・社 格 旧十二所権現社・北河原村鎮守 旧村社
             
・例祭等 初拝み 112日 春祭り 415日 風祭り 828
                  秋祭り 99日 おたき上げ 1231
 斎条剣神社から埼玉県同199号行田市停車場酒巻線を700m程北上し、「酒巻」交差点を左折する。同県道羽生妻沼線を西方向に進み、1.7km程先の「北河原小学校前」交差点を右折すると、進行方向右側で、丁度北河原小学校の校門向かい側に北河原十二所神社が鎮座している。
 この付近は福川の下流部であり、神社の北200mには福川の右岸堤防があり東50mには酒巻導水路、東200mには福川水門が設けられている。福川の北側は熊谷市妻沼俵瀬地域であり、利根川との合流地点でもある。
        
                                  
北河原十二所神社正面
              
                                   社号標柱
 嘗て五穀豊穣を願い熊野大社より勧請したといわれている北河原地域の鎮守様。残念ながら令和4年(20223月にこの小学校は閉校となってしまったようだが、位置を確認するに、地域の大切な児童を見守り、時には傍に寄り添いながら守ってもらいたい、という行政側の気持ちからこの社の正面に小学校を建てたと考えることもできよう。
        
          
          拝殿の前に聳え立つ立派な巨木・老木(写真左・右)
       
                                       拝 殿
 十二所神社
 北河原小学校の道を隔てた北側に鎮座している。創建された年代は明らかではないが、言い伝えによれば、この地に人々が入った当時、五穀豊穣を願い熊野大社より勧請したといわれている。祭神は「天神七代命」「地神五代命」。江戸時代までは十二所権現と呼ばれ、現在でも「ごんげんさま」と呼ばれている。
 社殿の覆屋の棟札に来迎院とあり、寺と神社が一緒であった江戸時代までは、修験との関りがあったようだ。
 この神社では八月二十八日(現在は近い日曜日)に行われる「風祭り」は二百十日の風に稲がもまれると実をつけなくなるので、これをさける祈りをこめた祭りであるが、嘗ては境内に芝居小屋をつくり、白河戸・皿尾地域などから地芝居を招き、盛大に行われていたという。
 神社がある北河原は、南河原とあわせ、河原氏の所領で鎌倉時代初期に南河原を兄の河原高直が、北河原を弟忠家(平家物語では盛直)が領していたと伝えられている。いつ頃から南北に分けて呼ばれていたかは明らかではない。記録の上では十六世紀中頃に北河原の地名が出てくるという。
 河原兄弟は源氏と平氏の一の谷の戦いの中、源氏方に属して「生田の森(神戸市)」の戦いで、先陣を駆け討ち死にしたことが「平家物語」に出てくる。南河原の観福寺にある板碑は兄弟の供養塔であるという伝承がある。
                             「ぎょうだ歴史系譜100
話」より引用 
       
                     本 殿
       
 本殿の奥には拝殿前にある巨木と同じくらい立派な木が聳え立ち(写真左・右)、その根元付近には石祠がひっそり祀られている(同左)。稲荷社のようだ。元々土手の切所近くにあって「きりっと稲荷」と呼ばれたが、ある年大水で稲荷様が流されてこの名がついたという。

 北河原十二所神社の西方直線で約250mに「大池(おおいけ)」というその名前通りの大きな池がある。池の周囲は土崩れ防止の護岸がなされているが、形状はほぼ昔のままの姿が残されている。南東方には行田市立北河原小学校が位置していた(20223月閉校)。大池の北方には福川が流下しており、大池と福川との間には二重堤防が所在している。池の周囲ではほぼ水面に近づくことが可能である。
 所在地周辺は主に水田などの農地となっており、その外側に集落が位置している。また、池には釣り場が設けられており、池の北側には駐車スペースが存在する。池の南部では2条の水路と接続しており、そのうち南へと延びる水路は北河原用水へと至っている。
 大池は切所沼・切戸池とも称され、福川の堤防が決壊した際の跡地である。今日では池の周囲は約400mとなっているが、明治期の記録では東西85間(約155m)・南北60間(約109m)・周囲6町(約655m)と記されている。

 大沼は嘗て「切所沼・切戸池」=「きりと」と言われていた。社の石祠も「きりっと稲荷」と呼ばれていたようだが、大水で流される前にはこの大沼付近に祀られていたのであろう。



「参考資料」「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「ぎょうだ歴史系譜100話」「Wikipedia」等
 
    

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