古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

本町千形神社

 天太玉命(あめのふとだまのみこと)は、日本神話に登場する天津神で、『古事記』では布刀玉命、『日本書紀』では太玉命との別名を持ち、忌部氏(後に斎部氏)の祖の一柱とされる。出自は『記紀』には書かれていないが、『古語拾遺』などでは高皇産霊尊(たかみむすび)の子と記されている。
 岩戸隠れの際、思兼神が考えた天照大神を岩戸から出すための策で良いかどうかを占うため、天児屋命とともに太占(ふとまに)を行った。 そして、八尺瓊勾玉や八咫鏡などを下げた天の香山の五百箇真賢木(いおつまさかき)を捧げ持ち、アマテラスが岩戸から顔をのぞかせると、天児屋命とともにその前に鏡を差し出した。
 天孫降臨の際には、瓊瓊杵尊に従って天降るよう命じられ、五伴緒の一人として随伴した。『日本書紀』の一書では、天児屋命と共にアマテラスを祀る神殿(伊勢神宮)の守護神になるよう命じられたとも書かれていて、また古語拾遺にも「豊磐間戸命・櫛磐間戸命の二柱の神をして、殿門を守衛らしむ。是並、太玉命の子也」とある。天太玉命は天皇家が居する皇城の門神、つまり門を守護する神ではなかったのではなかろうか
        
             
・所在地 埼玉県熊谷市本町118
             
・ご祭神 主祭神・天津彦火瓊瓊杵尊 
                  相 殿・天兒屋根命 天太玉命

             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 例祭 23日・101日 祈年祭 217日 新嘗祭 1123日
 本町千形神社は熊谷市街地である大字本町に鎮座している。高城神社からも近く、国道17号線沿いで、すぐ北側にある一の鳥居とその北側に伸びた参道の先に二の鳥居があるが、この鳥居を越えると東西に通じる道路があり、その十字路を左折してから200m程歩くと本町千形神社の正面鳥居が右側に見えてくる。
 高城神社周辺もそうだったが、周辺は一方通行の道が多く、車両を使用する際には注意して通行して頂きたい。また市街地になるので、人通りも多く、自転車や歩行している一般の方々の迷惑がかからないような配慮も必要だ。因みに筆者は市内に居住していて、市役所にて所用を済ませてから周辺の散策を行ったので、参拝場所の駐車場等の心配は今回はない
        
                  本町千形神社正面
 高城神社のご祭神は高皇産霊尊(タカミムスビ)で、本町千形神社は天津彦火瓊瓊杵尊(二ニギ)を祀っている。系譜上二ニギはタカミムスビの孫にあたり、相殿に祀られている天児屋根命と天太玉命は、ニニギの天孫降臨時に随伴した神でもあることから、本町千形神社は高城神社の系統に近しく仲の良い社ともいえよう
        
                                 本町千形神社参道
     国道17号線にも近く、街中にありながら、ひっそりと佇む静かな社という印象。
 参拝日は2022年4月13日で、既に桜は散っていて若葉が芽吹いていた。参道両側にある桜並木を見ながら、もう1週間程参拝が早ければ、綺麗な桜が見られたか…と少々後悔の念が広がったことを今でも頭の片隅に憶えている。
        
                                       拝 殿
 千形神社 熊谷市本町一-一八(熊谷字本町二丁目)
 中山道の熊谷宿の中心として栄えた本町の守護神として祀られ、天津彦火瓊々杵尊を祭神とする当社の由緒は、熊谷の町の歴史とかかわりが深く、次のような話が氏子の問に伝わっている。
 その昔、気の荒い大熊がこの地にいて、人々を悩ましていた。その熊を熊谷次郎直実の父親である直貞が退治したことによって、暮らしやすくなったので次第に大きな町になっていった。直貞は、殺した熊があまりにも大きかったので、熊の霊を慰めるために、その頭蓋骨を埋めた所に熊野権現を勧請して祀るとともに、熊の血が流れていった(飛んでいったともいう)所にも社を建て、血形明神と称して祀った。これが当社の起源である。
 右の話にあるように、当社の社名は、初めは「血形」と書いていたが、いつのころからか「千方」と書くようになり、それが更に「千形」と書く急うになったという。なお「熊谷寺縁起」によれば、熊谷直貞による熊退治は、永治年間(一一四一-四二)のことと伝えられている。
 江戸期においては、熊野権現杜と共に円照寺の持ちであったが、実際の社務は、当社の境内にあった当山派修験の万光院が行っていた。神仏分離の後、当社は明治七年二月に村社となったが、熊野権現社は無格社であったため、同四十年に高城神社へ合祀された。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
      拝殿に掲げてある扁額            扁額の左側にある奉納額
 奉納
 千形神社境内の土俵は宝暦年間より近郷力士が千形相撲として毎年二百年の永く草相撲が続けられた相撲歴史発祥の地である(以下略)
                                    境内奉納額より引用
 江戸時代中期の宝暦年間(1751-1764)より近郷力士が「千形相撲」として毎年十月初めに奉納相撲を行い二百年以上の永きに渡り草相撲が続けられた熊谷における相撲発祥の地とされる。神社にはその際の板番付が奉納されているという。拝殿の左側にはその土俵があったそうだが、確認できなかった。
     
    拝殿手前左側に設置されている神楽殿          本 殿

 本町千形神社の創建の年代は不詳ながら、神社の由来については、平安時代末期に遡るという。その時期に、熊谷近辺に巨大な熊が出没して人々を脅かしていて、人々の不安が日々募る中、藤原千方と名乗る者が現れて熊退治を呼び掛けた。村人は賛同して数百名が思い思いの武具を手に集まり、山狩りを始めた。
 熊は山狩りを逃れて熊谷から姿を消したが、人々はなおも追跡して大谷村(現:東松山市)まで熊を追い詰めた。その地で千方は弓を取り、熊を射ち殺した。倒れた熊の死骸の巨大さに千方は神霊の存在を感じ、熊の霊を赤熊明神としてその地に祀った。人々は熊の霊を慰めるとともに千方の武勇をたたえ、熊谷の中央に「熊野山千方明神」として祀ることにした。一時期は鎮守社となり、後に千形神社と改称した。
 別説では、熊を倒したのは平直貞(熊谷直実の父)ともいう。この説に拠れば、熊が倒れたのは「くまん堂」(熊谷市内に石碑が現存)という場所で、熊の血が流れた場所に建てた社を「血形明神」(血形神社)と呼び、後に「千形神社」と改めたという。ただし、この説は熊谷氏が直貞の武勇伝を誇大に伝えるために熊を退治したのは直貞と言い伝えたことが史実であるとされる。熊を倒した千方は藤原秀郷の子であり、秀郷は武蔵守を兼任していたのでよく熊谷近辺を往来していた。その際に熊の害を聞き及んで退治に乗り出したものと伝わる。
        
               拝殿側から見た参道の一風景

 また別説では、『太平記』第一六巻「日本朝敵事」の記事によると、天智天皇の御代に、伊賀・伊勢の二国で、藤原千方が反乱軍を起した。千方は、「金鬼」「風鬼」「水鬼」「蔭形」という四鬼(四人の怪人)を配下に、都などでも変幻出没を繰返し、朝廷も手をこまねいていた。そこで紀友雄が勅命を戴いて当地に赴いた。
 友雄は、和歌を書いた紙を矢につけて射たという。
 ○土も木も我が大王の国なるを、いづくか鬼のすみかなるらん   紀友雄
 すると四鬼はこれを読んで、己が住むべき国ではないと、たちまち本物の鬼に化生して、奈落に落ちたという。その穴の跡は今も四つ残っていて、四つとも風が吹き抜け、どこかでつながっているらしい。今の名賀郡青山町付近だという。
 首謀者の藤原千方は、家城(いへき、現在の白山町)付近の雲出川の岸の岩場で酒宴をしているところを、対岸から紀友雄に矢で射られて死んだ。千方は首を切られ、その首は川を遡って、川上の若宮社の御手洗に止まったので、若宮八幡宮にまつられたという。
 この地方では節分に「鬼は外」とは言はない。鬼は人と神の仲取り持ちをする眷族とされるからで、伊勢・伊賀地方では鬼に関わる行事も多いという。

 更に藤原千方の四鬼は坂上田村麻呂伝説にも登場する。
『奥州南部岩手郡切山ヶ嶽乃由来』では、奥州達谷窟の岩屋に住む悪郎と高丸兄弟が苅田丸と田村丸親子を討って帝位に就き、先祖である藤原千方の無念を晴らそうと風鬼・水鬼・火鬼・隠形鬼も加えて謀議を企てていた。都に上った水鬼と隠形鬼は官女に化けて花見の宴に紛れて帝に近付いたが、田村丸に見破られて水鬼は討たれ、隠形鬼は逃げ帰った。勅命を蒙った田村丸は58千余騎を率いて奥州へと攻める。田村丸の弟・千歳君は城中深く攻め込み隠形鬼に囚われたが、山伏姿であらわれた秋葉山大権現が千歳君を救いだし、虚空より大磐石をふらせ、大地より火焔を湧き出させて殲滅させたという。
        
        
正面鳥居の右側に本町一、二丁目の有形文化財「山車」倉庫がある。

 伝説上の藤原千方は反乱の首謀者であり、「金鬼」「風鬼」「水鬼」「蔭形」という四鬼を引き連れて変幻自在に出没する悪党として出典され、またその子孫も同様に先祖の仇を討つことで、田村丸に滅ぼされるなど、大悪党としての印象としての印象が強いが、史実の上での本人はどのような人物であったのだろうか。
 平安時代の藤原氏の系図を探ると「尊卑分脈」に藤原北家魚名流とされ、藤原秀郷‐千常‐千方が載っている。
 秀郷は俵藤太ともいい、琵琶湖の三上山に住む大ムカデを退治したことで有名であり、元々は関東の豪族である。
 藤原秀郷は天慶3年平将門が関東に兵を挙げたときに朝廷側として将門側と戦火を交え、その首級を上げた。そして秀郷の子孫である千常やその嫡子文脩は、共に鎮守府将軍として関東地方に勢力を張る。千方は鎮守府将軍兼下野国押領使藤原文脩の弟であり、もし伝説の千方を秀郷の孫の千方とすれば、乱の首謀者である千方の縁者である文脩にも災いが及んでいたことは容易に想像できようが、そのような形跡は一切ない。史実の上での千方は叛乱を起こした事実はないし、当時伊賀・伊勢一志地方に叛乱が起こったことは正史には見ることは出来ない。史実での千方を初めとする秀郷流藤原家は、関東にあって父祖の所領をついで豪族として関東地方支配に努めていたはずである。『太平記』第一六巻「日本朝敵事」の記事での「天智天皇の御代」となると、全くの時代がずれまくっている。
 また同時に紀友雄も紀氏の系図には出ていない。伝説の千方が秀郷の孫でないことは明らかではあり、そこには伝説と史実の間にかなりの乖離がある。

 平安時代は正に藤原北家独占の時代。正面切って藤原家の悪口は言えないため、「物語」を創作して少しでも気持ちの鬱憤を晴らしたい気持ちは理解できる。例えば「竹取物語」では7人の求婚者のうち、「車持皇子」には厳しい要求をしたというが、この「車持皇子」には実際史実上のモデルがいて、「藤原不比等」と言われている。
 しかし一体どうしてこのような残虐非道な人物に仕立て上げる必要があったのだろうか。勝手な推測するに伝説地のどこかで大規模な叛乱があり、その事件が千方と重なり合い伝説化されたのではないかとも考えられるが、そのような事件は「平将門の乱」「平忠常の乱」以外は見当たらないと思われるが、しかし実際は定かではない。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「大里郡神社誌」「歌語り風土記」「奥州南部岩手郡切山ヶ嶽乃由来」
    「埼玉の神社」「Wikipedia」「境内奉納額文章」等

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上唐子氷川神社

 東松山市唐子地域は、市西端部に位置し、すぐ西隣は嵐山町菅谷地域となる。この地域は地形的に見ても経済的な交流も東松山市街地よりも国道254号線、埼玉県道344号児玉往還道を通じて西隣の嵐山町や北側に接している滑川町月輪地域との繋がりのほうが古くから強かったのではないかと思われる。
 地域の南部には嵐山町との町境ともなっている都幾川(ときがわ)がゆったりと蛇行しながら南東方向に流れている。都幾川は比企郡ときがわ町大野付近から流れ、途中、比企郡嵐山町大字鎌形で槻川が合流し、最終的には川島町長楽 (坂戸赤尾の白山神社付近) で越辺川に合流する。
 前々から気になっていた事項であるが、この都幾川とその支流である槻川は、前者は「トキガワ」、後者は「ツキガワ」と読み、似通った名称で正直まぎらわしい。嘗て『源平盛衰記』でも「月田川」と記していたが、風土記稿にはそのことに関して、「月田川とは槻川を槻田川と間違って記しただけで、青鳥村を流れるのは都幾川である」ことも補足として説明している。
        
             
・所在地 埼玉県東松山市上唐子1674
             ・ご祭神 須佐男命
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 夏祭り723日に近い土日曜日 七鬼神社の祭典827
                  秋祭り(おくんち)1017
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0352261,139.3352844,16z?hl=ja&entry=ttu
 埼玉県道47号深谷東松山線を南下し、東武東上線・森林公園駅付近を通過する。その後関越自動車道合流地点目を左斜め方向に進み、「インター前」交差点を直進し、その後650m程進んだ「南中学校前」交差点までは前項下青鳥氷川神社と同じ。この交差点を右折し、埼玉県道344号児玉往還道に合流後、4㎞程東方向に進行し、「上唐子」交差点を左折、今度は同県道172号大野東松山線に入り、そこを道なりに南西方向に600m程進んだ右側に上唐子氷川神社が鎮座している場所に到着することができる。
 周辺には広い駐車スペースがあり、そこから社が鎮座している場所に移動する。
 県道沿いに鎮座しているとはいえ、高台上に社はある為、一見すると分かりづらい。県道から右側に伸びる道幅の狭い道があり、徒歩にて移動し、参道正面の鳥居に到着する。
        
                        高台上に鎮座する上唐子氷川神社

 写真で見る通り、県道沿いにありながら社の手前に立つと、周囲は樹木に囲まれた静寂な空気が日頃の喧騒を振り払うように包みこみ、階段下から境内方向を眺めると厳かな雰囲気が漂ってくる。
 暫く社前で挨拶、今回の出会いに感謝し、頭を下げてから参拝を開始する。今まで何度となく書いているが、高台上・丘陵地面に鎮座する社は、平野地に鎮座する社とは違う独特な雰囲気が周辺を包みこみ、そのどれも「色」が違う。筆者の少ない経験上からいうこともおこがましいことだが、その「色」の違いを感じることもまた社参拝の意義であると信じている。
        
                 一段目の階段を登りきるとまずは神明系の鳥居に達する。
鳥居の先には、参道の階段の両脇に杉の大木が屹立し、鳥居の門の間からは拝殿が見える構図。
     このような配置一つ取ってみても、社の神格を自然におし上げることができる。
        
              鳥居の手前右側に設置された案内板
 上唐子氷川神社 案内板
 所在地 東松山市上唐子字沼端一六七四
 由緒
 氷川神社は上唐子の鎮守として祀られている神社です。 ご神体は須佐男命です。いつ頃の創建か明らかではありませんが、「新篇武蔵風土記稿」に「氷川神社、村の鎮守なり。近き頃までに社内に慶長十年(一六〇五年)再建の棟札ありしが今失へり、常福寺の持」と記されていることから、一六〇五年以前であったようです。
 慶安三年(一六五一年)に唐子村が上下に分村していたことが分かっていますから、この分村を機会に、氷川神社が上唐子の鎮守になったと思われます。
 明治五年六月、上唐子村の村社となりました。
 近年の大きな出来事として昭和六十一年六月二十二日、不審火によって本殿が全焼しました。又平成二十年八月二日、放火により再び本殿を焼失しました。氏子一同再建に力を合わせ、平成二十一年十二月十二日、本殿のの竣功祭、遷座祭を執り行いました(以下略)
                                      案内板より引用

        
                            階段下からのアングルがまた良い。
 
   階段を登りきると広い境内に達する。       再度階段下の鳥居方向を撮影。
        
                                    拝 殿
 氷川神社 東松山市上唐子一六七四(上唐子字沼端)
 当社は大字上唐子の鎮守として祀られている。鎮座地は、上唐子の西方の高台にあり、林に囲まれた静寂な地である。
 創建については明らかでないが、『風土記稿』には「氷川社 村の鎮守なり、近き頃まで社内に、慶長十年(一六〇五)再建の棟札ありしが今失へり、常福寺の持」と記されている。
元禄元年(一六八八-一七〇四)までには、唐子村が上下に分村していたことから、この分村を機に上唐子村の鎮守となったものであろう。
 別当の常福寺は、下青鳥村浄光院門徒で、無量山佛音院と号する天台宗の寺院であったが、明治 初年の神仏分離により廃寺となった。その跡地は、当社の東方三〇〇メートルほどの所である。
 明治六年、古くから村の鎮守であったことから村社に列した。
 造営については、慶長十年の再建の後、慶応二年(一八六七)に社殿大破に付き新たに建立されたことが『明細帳』に記されている。近年では、昭和六十一年六月二十二日に不審火によって社殿が全焼したため、二年後の同六十三年四月に氏子崇敬者の協力のもと、再建がなされている。
                                  「埼玉の神社」より引用

 上唐子氷川神社が鎮座する地は、都幾川が
蛇行しながらも南東方向に流路を変える左岸高台上にあり、直線距離にして1.5㎞程上流部は支流である槻川が都幾川と合流していて、河川としても流水量が増え、河口幅が広がる地域である。当然この地に社を創建した目的も「水難からその地域の民を守る」為に氷川様を勧請・創建したのであろう。
        
               拝殿左側に並んで祀られている境内社群。
      左から「七鬼神社・疫神様」「八雲神社」「天神社・日吉神社」「稲荷神社」

 実のところ、県道沿いに社があることは、参拝日前日に確認していたが、当地に行ってみて、駐車スペースから参拝を行う際に、ちょっとしたミスを犯してしまった。
 参拝する際に、県道沿いに見えた石段があったので、そこを上がってみると、そこは社務所らしき建物に通じるルートで、正面の鳥居がある場所ではなかった。
 
 県道から見える石段(写真左)。その石段を登ると「飯縄大善神」と刻印された石碑がある(同右)。「飯縄」とは信濃国上水内郡(現:長野県)の飯縄山(飯綱山)に対する山岳信仰が発祥と考えられる神仏習合の神で、一般的には炎を背にし、利剣を持ち、白狐の上に乗る烏天狗めいた姿で描写されていて、関東以北の各地で熱心に信仰され、特に高尾山薬王院は江戸時代には徳川家によって庇護されていた。
 
一般に戦勝の神として信仰され、足利義満、管領細川氏(特に細川政元)、上杉謙信、武田信玄など中世の武将たちの間で盛んに信仰されたという。
 その飯縄信仰とこの地にどのような経緯があり、このように祀られたのだろうか.
 
「飯縄大善神」の石碑から県道側の斜面上に設置されていた「富士浅間神社」の石碑(写真左)。基礎部分には「登山記念」と刻印されている。またその奥にも祠があるが(同右)、詳細は不明。


 ところで冒頭で掃海したこの都幾川とその支流である槻川は、前者は「トキガワ」、後者は「ツキガワ」と読み、似通った名称だ。『新編武蔵風土記稿』にもそのことに触れ、「比企郡之一 郡国 総説」には以下の記載を載せている。

【都幾川】
 郡の中程を流る。水源は秩父郡大野村の山間より出、郡中慈光山の渓澗より湧出する清水と合して一条の川となる。慈光山を都幾山と号す故に此川を都幾川と号すと云ふ。又郡西別に槻川ありて下流、この川に合す。ときとつきとは音も近く似てまぎれやすし。
『源平盛衰記』に木曾越後へ退きにし頼朝勝に乗に及ずとて武蔵国月田川の端あをとり野に陣取とあり、
 今下青鳥村は郡の中央にて則この川槻川と合せしより遙に下流の崖にあり。されば彼記に月田川と記せしは此川をさすこと明なり。田の字もし衍字ならんにも当時下流までつき川と号せしならん。されど今は槻川と合てより下流はすべて都幾川と号して槻川とはいはざるなり。此水流都幾山の下より艮へ流れ、鎌形村の北にて槻川とあひ、東流して又巽にをれ、上伊草村の西にて越辺川に入る、川路七里ばかり、上流は山間なり。下流平地の間には堤を築きて水溢にそなふ。河原の濶二百間、水清浅なれば所々に歩行渡する所あり。冬春の間ばかり橋を架して往来を通す、
槻川】
西の方にあり。水原は秩父郡白石村の山間より出、郡中腰越村にいり、東の方へ屈曲して小川村に至る、此所にて兜川と云小流と合して一となり、鎌形村の北に至りて都幾川に入,
水源よりこゝに至リて三里ばかり、川幅大丁五十間,

 埼玉県比企郡ときがわ町にある天台宗の寺院である慈光寺(じこうじ)は、山号を都幾山(ときざん)といい、都幾川の由来ともなっている。慈光寺は江戸時代平村に所在し、平村と雲河原村は嘗て都幾庄(とき)を唱えていて、慈光寺の山頂にある標高540mの都幾山 (ときざん) からその庄名もきたという。
 但し同時に平安時代中期に作られた辞書として有名な『和名類聚抄』には、比企郡都家郷を載せているが、「つけごう」と読み、更に平安時代末期に写本された『高山寺本』に「豆計」、室町時代中期の『東急本』、17世紀初頭の版本である『元和古活字本』に「都介」や高山寺本の系統に近いといわれる名古屋市博物館本にはわざわざ「ツケ」の訓がふってある。

 つまり都幾川の「都幾」は「とき」よりも「つき」と読む可能性が高い書簡が多く存在することは確かであるだろう。
 またこの「つき」地名に関しては、浦和市に鎮座する「調神社」にも関連する事項ではあるが、今回はかなり長くなったので、ここらで筆を下ろしたい。



参考資料「和名類聚抄」「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」  
    Wikipedia」境内案内板」等

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下青鳥氷川神社

 東松山市青鳥地域、この地域名である「青鳥(おおどり)」地名由来は今一つハッキリとは分からないが、一つの説として、比企郡総社である「伊古乃速玉比売神社」が関係しているという。『新編武蔵風土記稿 伊子村条』には以下の記載がある。

「伊古乃速玉比売神社 一に淡州明神と云、今は専ら伊古乃御玉比賣神社と唱へり、此社地元は村の坤の方小名二ノ宮にありしを、天正四年東北の方今の地に移し祀れり、祭神詳ならず、左右に稲荷・愛宕を相殿とす、当社は郡中の総社にして、【延喜式神名帳】に、比企郡伊古乃速御玉比売神社とあるは、即ち当社のことなり、往古は殊に大社にて一の鳥居は近隣石橋村の小名、内青鳥と云所に立りしと云、按るに比内青鳥と云所は、「小田原役帳」に青鳥居とあり、されば古へ鳥居のありしより、地名にもおひしなど云はさもあるべけれど、當社の鳥居なりしことは疑ふべし、ことに間二里餘を隔てたり、また比社式内の神社と云うこと、正しき證は得ざれども、村名をも伊古といひ、且此郡中総社とも崇ることなれば、社伝に云る如く式社なるもしるべからず、ともかく旧記等もなければ詳ならず、例祭九月九日なり」

 ここで「青鳥」という地名は伊古乃御玉比賣神社の一の鳥居があった石橋村小名内青鳥であり、「鳥居(とりい)」が「青鳥居(あおとりい)」→「青鳥(おおどり)」と語音が変化してできた地名であるような説明がされている。
        
              
・所在地 埼玉県東松山市下青鳥64
              
・ご祭神 素戔嗚尊
              
・社 格 旧下青鳥小名金谷鎮守
              
・例 祭 不明
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0201599,139.3940381,16z?hl=ja&entry=ttu
 下青鳥氷川神社は東松山市下青鳥地域内に鎮座する。この下青鳥地域は東西に長く『新編武蔵風土記稿』にも「四隣、東は上下押垂の二村に隣り、南は都幾川を隔て元宿村に接し、西は石橋村の内、小字宿青鳥に続き、北は野本村なり、東西十五町、南北五町許、家敷六十、水損の地にして、用水は都幾川の水を沃げり(中略)」。と記載がある。「町」とは江戸時代以前に用いられた「条里制」を基本とした距離測定方法で、日本では古来「尺貫法」で長さや面積を表現した。「尺貫法」は東アジアで広く使用されていて、尺貫法という名称は、長さの単位に「尺」、質量の単位に「貫」を基本の単位とすることによる。ただし、「貫」は日本独自の単位であり、したがって尺貫法という名称は日本独自のものである。
 条里制においては6尺を1歩として60歩を1町としていたが、太閤検地の際に63寸を1間とする60間となり、後に6尺を1間とする60間となった。メートル条約加入後の1891年に、度量衡法によりメートルを基準として1200 m11町と定めた。したがって1町は約109 mとなり、風土記稿に記されている「東西十五町、南北五町」は現代の距離に直すと「東西1.6㎞、南北0.5㎞」程になる。
 更に風土記稿では小字「金谷」に関しても「当所は廣き地にて、土人は一村のごとく金谷村と云へり」と記述されていて、この「金谷」の鎮守様が下青鳥氷川神社である。
        
                             
下青鳥氷川神社正面
 埼玉県道47号深谷東松山線を南下し、東武東上線・森林公園駅付近を通過する。その後関越自動車道合流地点目を左斜め方向に進み、「インター前」交差点を直進する。650m程進んだ「南中学校前」交差点を左折し、350m先のT字路を右折し、道幅の狭い農道を進むと「上郷公会堂」が左手に見え、その東隣に下青鳥氷川神社は鎮座している。
 社に隣接している上郷公会堂の駐車スペースを利用してから参拝を行う。
        
       珍しい瓦つきの両部鳥居、彩色もない素朴なフォルムが逆に美しく感じる。
 鎮守地はインターチェンジ付近であるにも拘らず、どこか懐かしさも覚えるほどの田畑風景の中に民家が立ち並ぶ地域一帯。社周辺は静かで道路も昔基準の道幅が狭い農道。参拝する地元の方々も筆者が参拝中全く出会うことなく、心静かにお参りすることができた。
       
           鳥居を過ぎて参道を進み、その先に鎮座する社。 
境内は綺麗に手入れもされていて、参道周辺にある樹木もしっかりと剪定されている。また境内の所々に花も植えられていて、周辺の方々の社を大切に守ろうとする日々の努力も、実際に参拝することによって実感することができた。
        
                     拝 殿
                 拝殿の手前周囲にも花が植えられていて、気持ちが和む。

『新編武蔵風土記稿 石橋村条』において、嘗てこの村の小字には「宿青鳥」「内青鳥」「石橋」の3区に分かれていて、昔は「宿青鳥」「内青鳥」それに「下青鳥」を合わせて一村であったが、後分けて「宿内下」が3村となり、その後又「宿青鳥」「内青鳥」が石橋村に属し、「下青鳥」は元のごとく、1村として至っているとのことだ。

「宿青鳥」
村の北を云、土人の説に昔宿駅ありし地にて今も町割の跡残れり、よりて宿青鳥の名もありと云、
「内青鳥」
村の中程を云、当所に城蹟あり、山林にして反別凡二町許、今も西南の方には殻堀の跡あり、相傳ふ青鳥判官藤原恒儀と云人住せしと、是いかなる人といふことを知らず、按に隣村羽尾村の鎮守に恒儀の社あり、是れ青鳥恒儀の霊社にて天長六年九月廿日卒せし人なりと云、又当所の東に長さ一丈余、幅二尺五寸許の古碑あり、表面に応安二己酉卯月、施主〔敬白〕、右志者、引上道善〇霊七ヶ年之忌日〇〇件とあり、いかなる故にや、土人はこの碑をさして虎の御石と云、

 上記「宿青鳥」の地名に関して、昔昔宿駅ありとして「宿」の謂れは記載しているが、肝心の「青鳥」に関しては全く説明がない。
「内青鳥」に関しても、「青鳥」に関しての説明はないが、青鳥判官藤原恒儀が住んでいた城跡があって、その人物の本拠地は滑川町・羽尾地域に鎮座する堀の内羽尾神社との事だ。
        
                         拝殿から眺める境内の一風景

 下青鳥氷川神社から北西方向で、関越自動車道の左手・国道254号線北側には「青鳥城跡」がある。市内石橋に所在する青鳥城跡は東松山台地の南縁に位置し、南面を天然の崖、その他三面を土塁と堀で守る平城で、本郭を取り囲むように二の郭・三の郭が造られており、一部土塁と堀が現存している。
        
                  青鳥城跡 案内板

 青鳥城跡の築城時期と城主については諸説あり、はっきりとはわかっていない。もっとも古くは青鳥判官恒儀が築城したとの伝説があり、城名の由来となっています。ただ青鳥判官恒儀が没したのが天長6年(829)とされ、近年の調査成果や周辺の同時期の状況を踏まえて考えると築城時期がここまで遡るとは考えにくのが現状である。
『源平盛衰記』には源頼朝が寿永2年(1183)に出陣した際、「青鳥野に在陣」との記述があるが、城跡や館跡の存在を示す記述はない。
 
    本丸付近にある「青鳥城址」の石碑      本丸付近 想像した以上に広大な敷地        
市内神戸(ごうど)地域に所在する妙昌寺の縁起によると、同寺を開基したのが青鳥城主・藤原利行とされ、日蓮上人が文永8年(1271)に佐渡へ流罪となった際、青鳥城に宿泊したと書かれている。また『鎌倉大草紙』などの複数の文献には上杉憲実が永享12年(1440)の結城合戦の際、「野本・唐子に逗留」したとの記載があり、この場所を青鳥城とする意見もある。
 また「太田道灌状」によると文明10年(1478)に青鳥城に在陣したとの記述がある。
       
             
二の郭外側の堀(写真左・右)。堀は深く、強固な造りとなっている。

 様々な文献にみえる青鳥城の痕跡と、発掘調査で出土した遺物、現存する遺構の状況などから青鳥城跡の築城経過を推定すると、13世紀初頭から14世紀初頭ごろ(鎌倉時代)に、青鳥城跡の前身となる武士の館が整備され、その後15世紀初頭から16世紀末頃に、関東の覇権をめぐる争いが激化したことを受け、現在のような複数の郭・土塁・堀をそなえた城へと拡充再整備されたと推定されているようだ。


参考資料「新編武蔵風土記稿」
Wikipedia」等

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おくま山古墳


        
            ・所在地  埼玉県東松山市古凍86
            ・形 状  帆立貝形古墳
            ・規 模  墳丘長62m。後円部径40m・高さ7.0m、
                  前方部幅20m・高さ1.5m
            ・築造年代 六世紀前半(推定)
            ・指定日  昭和46年(1971年)64日(東松山市指定文化財-史跡)
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0194596,139.4279718,17z?hl=ja&entry=ttu

 おくま山古墳は、国道254号線と埼玉県道27号東松山鴻巣線が交わる「柏崎」交差点の約200m東に位置している。埼玉県道27号東松山鴻巣線から国道に合流する約100m手前には「おくま山古墳」の標識が見えるので、すぐ先の路地を左折する。道幅の狭い道路に変わり、300m先の路地を右折、その後200m程南下してからT字路を右折してから暫く進むと右側におくま山古墳の案内板と鳥居が見えてくる
「柏崎」交差点の東側200m程しか離れていないが、進路を説明するとこのようなややこしくなってしまうのは、この交差点から直接古墳に進む単純な道がなく、上記のように右回り方向に進むか、又は国道254号線を直進してから左斜め方向に進む道を進んでから、その先の変則的なT字路を左折、北上し、その後左方向に進むルートの2パターンしかないためである。筆者が紹介したルートは県道沿いに「おくま山古墳」の標識もあったので、今回はそのルート紹介をしたが、国道からアプローチするほうは距離的には短いし、決して難しくないので、もし行く機会があった場合は、どちらでも良いので是非お試しして頂きたいと思う
        
                  おくま山古墳正面
 おくま山古墳は都幾川と市野川に挟まれた東松山台地の南東部で、台地が川島方向へ舌状に張り出した中央に立地しているという。都幾川と市野川が過去どのような流路であったかは、考古学的な詳しい調査が必要だが、古墳がどのような場所に築造されたかは何百年経とうが決して変わるのもではない普遍的な存在だ。謂わば古墳は「生きた歴史の証人」ともいえよう。
        
                           「市指定史跡 おくま山古墳」の標柱
        
                     案内板
 東松山市指定文化財
 おくま山古墳  昭和四六年六月四日指定
 この古墳は、都幾川と市ノ川に挟まれた東松山台地の南東部で、台地が川島方向へ舌状に張り出した中央に立地しています。周辺には円墳など十三基の古墳が残っており、柏崎古墳群と呼ばれています。この古墳を代表する古墳のひとつです。
 古墳は、丸く高い後円部(円丘)と低く裾を拡げる前方部(方丘)からなる、前方後円墳と呼ばれるものです。墳丘の規模は全長六二m、高さ七m、この周りに幅が広い濠(約一〇m、深さ一.七m)が巡らされ、現在でもその西側には、濠跡が窪んでみえています。 昭和六一年と平成七年の二回、濠の部分の発掘調査が行われ、人物埴輪(盾持ち人四体)や円筒埴輪が出土しました。盾を構えて立つ武人の埴輪は、この古墳に葬られた主人を守っていたと考えられます。
 平成七年の調査では、群馬県榛名山二岳の噴火による火山灰が、古墳を巡る濠跡に薄く積もっていたことが確認されました。この火山灰は六世紀のはじめ頃、関東の南東地域に広く積もったことがわかっています。 この火山灰や出土した埴輪などから、この古墳が造られたのは、六世紀はじめ頃までと推定されています(以下略)
                                        案内板より引用
        
             鳥居を過ぎると真っ直ぐな参道が続く。
        
       参道の先はおくま山古墳の墳頂部にあたり、古凍熊野神社が鎮座する。
 古凍熊野神社の創建年代等は不詳ながら、「須長家由緒書」によれば、家督を譲った須長長春が孫の義清を連れて古氷村に移り住み、義清は古氷定右衛門尉と名乗り、村の鎮守として熊野大権現(現在須長一族の氏神)と鷲宮大明神(当社)を勧請したという。

「おくま」という名称由来は、当所全く分からなかったが、古墳墳頂に鎮座している社が古凍「熊野」神社であり、この古墳の別名も「熊野神社古墳」というところから、
「おくま」⇒「①おん+②くま」
敬意やていねいさを表す接頭辞である「御(おん)」の省略形。
熊野神社の頭字である「熊」。
 ではないかと勝手ながら推測した。
        
                後円部から前方部を撮影

 東松山市には古墳時代に築造された古墳が多数確認されている。その多くは高坂台地・松山台地・大谷丘陵地に築造されている。東松山市を含む比企丘陵地内には、北武蔵のなかでも古墳遺跡の多いところで、北埼玉や児玉地方とともに古墳時代には北武蔵のなかでも古くから発達した地域であった。多くは10m30m程の小古墳であるが、その中にあって大型と言われる古墳もある。
野本将軍塚古墳 前方後円墳  全長115m。後円部の高さ15m、前方部の高さ8m
雷電山古墳   帆立貝形古墳 全長85m。高さ7m、後円部径73m、前方部幅39m
諏訪山35号墳  前方後円墳   全長68m。後円部径40m・高さ9m、前方部幅30m
おくま山古墳  帆立貝形古墳 全長62m。後円部径40m・高さ7.0m 前方部幅20m
天神山古墳   前方後円?  全長57m。後円部高さ2.4m 前方部高さ1.4m

 これらの古墳は台地・丘陵地上に築造されているケースが多いが、何よりも「河川」に近い場所に古い古墳は造られている。筆者の勝手な推論だが、嘗て東京湾から荒川の支流を遡った集団がいた。東海地方(現在の岐阜、愛知、静岡)の集団が、小さい舟に乗って東京湾に入り、荒川を遡って、更にその支流を遡って居を定めたのではないだろうか。そこが小規模ながらまとまりのよい耕地を見つけることができる場所だった。

 というのも比企地域に築造された前期古墳はふじみ野市の権現山古墳や東松山の根岸稲荷神社古墳ら「前方後方墳」であるが、この「前方後方墳」の起源は東海地方であるという。
 また東松山市内の柏崎地域、及び五領町、若松両地域内に発掘された「五領遺跡」で発掘された土器から、また古墳時代前期に県内最大規模の集落だった反町遺跡からは、東海地方で作られた外来系土器などが水運を通じて搬入されていて、東海地方や西日本の影響が強く反映されて成立したと考えられている。

 移動手段として「船」の活用はある程度の集団ならば、陸上より容易であるし、食料等の運搬も遥かに便利である。当時の船がどの程度の技術であったかは別問題として、現代の我々が考えている以上に海上や河川を利用した移動・運搬・交易は盛んであったと考えられる。
 さて真相や如何に。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「東松山市HP」「埼玉の神社」「Wikipedia」「現地案内板」等
             

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今泉鷲神社


        
              
・所在地 埼玉県東松山市今泉278
              
・ご祭神 日本武尊(推定)
              
・社 格 旧村社
              
・例 祭 不明
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0110294,139.4341625,18z?hl=ja&entry=ttu
 古凍鷲神社から一旦県道、国道254号線へと戻り、そこから国道を川島町方向に東行する。
650m程進み、「流通センター入口」交差点を右折し、更に200m程先のT字路を右折すると「今泉公会堂」が右側に見えるが、その北側に隣接して今泉鷲神社の社叢林が目視でも見えてくる。
 今泉公会堂には駐車スペースも数台分確保されていて、そこの一角に車を停めてから参拝を行った。
               
               
正面鳥居の右脇にある社号標柱
 正面にある鳥居は残念ながら改築中でネットが一面張り巡らされ、撮影することができなかった。
 昭和の初め頃はこの一帯は一面うっそうと山林が広がり、氏子からは「鷲山」と言われていたという。当時当社を管理していたのは真言宗鷲宮山宝蔵寺で、「鷲宮山」と号していた。明治の初めの神仏分離令により宝蔵時からわかれ、明治の終わり頃に今泉村村社になった。
 今泉・古凍・柏崎地域には鷺・鷲神社が3社、比較的隣接して存在する。創建由来はそれぞれ不明ながらも当地域では必要な事象等あったのであろう。
        
               社叢林の中に鎮座する今泉鷲神社

 古凍地域に古くから伝承されている祭りに「古凍祭ばやし」がある。
・ 指定日 
昭和55年(1980年)110(東松山市指定文化財-無形民俗)
 囃子には江戸時代から演奏されていた古囃子と、明治初期に演奏技術の変革が行われて以降の新囃子とがある。明治30(1897)代は古囃子が盛だったがその後中断し、昭和3(1928)頃、吉見町の飯島新田地区で伝承されていたものが川島町の小見野神楽連を経て伝えられ復活した。明治の頃使われていたと思われる太鼓が残っており、墨書きから「東京浅草区亀岡町」の太鼓商「高橋又左衛門重政」の太鼓であることが分かる。太平洋戦争中は10年ほど中断し、昭和23(1948)に復活した。昭和29(1954)には屋台が新調されたが、昭和35(1960)頃になると字内を貫通する川越-熊谷線の交通量が激しくなり、屋台の曳き廻しは中止、根岸地区とのひっかわせも断念(根岸地区も屋台を所有していた)することとなった。現在は屋台を所有せず、トラックで代用している。地元鷲神社の祭礼の他に、今泉の鷲神社祭礼でも演奏を行っている。
・上演日
 415日に近い日曜日(お獅子渡御祭・おしっさま)
 715日に近い日曜日(神輿渡御祭・天王様)
        
                                     拝 殿
 鷲神社 東松山市今泉二七八(今泉字東町)
 今泉の名は『小田原衆所領役帳』に見え、弘治元年(一五五五)に検地が行われたことがわかる。このころには既に村落が形成されていたものであろう。
 当社の社叢は、今でこそ境内を覆うだけのこぢんまりとした杜であるが、昭和十年ごろまでは、その周辺一帯にまで広がる山林で松や杉の大木が林立し、氏子から「鷲山」の名で呼ばれていた。
 社伝によると、当社は大永二年(一五二二)に鷲宮町の鷲宮神社から勧請したことに始まり、その後、天和元年(一六八一)をはじめとして江戸期に五度の社殿造営を行ったという。『風土記稿』にも「社内に天和元年の再興の棟札あり」と記されている。享保十二年(一七二七)には、宗源宣旨により正一位の神位を授けられた。
 往時の別当は、真言宗鷲宮山宝蔵寺である。開山の忠祐が天正二年(一五七四)に示寂していることから、当社と同じころに創建されたものであろう。
 明治初年の神仏分離により宝蔵寺の手を離れた当社は、明治三十二年に村社となった。
 神仏分離の後、神職は野口儀助・沢田豊・沢田豊行と継いでいる。
 なお、隣村の古凍でも鎮守に鷲神社を祀っており、当社の創建と何らかのかかわりがあると考えられる。
                                    「埼玉の神社」より引用

今泉村  
鷲宮
「村の鎮守なり、勧請の年代詳ならず、社内に天和元年再興の棟札あり、寶蔵寺持」
寶蔵寺
「新義真言宗、横見郡御所村息障院末、鷲宮山と号す、開山忠祐天正二年の示寂といふ、本尊は薬師を安ず」
                                『新編武蔵国風土記稿』より引用

 

    
拝殿の左側に鎮座する境内社      拝殿右側に鎮座する御嶽山・八海山・三笠山
      
大六天神社の石祠等               並びに板石神群


参考資料「新編武蔵風土記稿」「高坂丘陵ねっと」「埼玉の神社」等
 

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