古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

神戸神社

 都幾川は東松山市西側に位置する嵐山町鎌形地区で槻川と合流し、蛇行を繰り返しながら東行し、高坂・早俣・長楽・赤尾地区で越辺川に取り込まれる。嵐山町鎌形地区の都幾川・槻川合流地点の標高が40m程で、そこから下流域・赤尾地区の標高が15m程になり、そこまでの距離が直線方向でも20㎞余となる。河川の特性として、上流部の山岳地帯の標高が高いと河川の移動スピードは速くなり、中流域以降はその標高差が上流部ほど高くないため川の流れは遅くなる。すると真っ直ぐ流れようとする勢いが小さくなり、流れる場所を変えるようになる。これが「蛇行」という状態である。
 蛇行の外側においては流水の速度が速くなり、侵食がみられるようになり(侵食面)、蛇行の内側においては、上流から運ばれてきた砂や礫(れき)などが堆積するようになる(堆積面)。
 嵐山町大蔵地区から都幾川は南東方向に流れているが、東松山市神戸地区北西部には岩殿山地が聳え、その流路を遮り、進路が真東方向から南東方向に右カーブするような流れとなる。その結果神戸地区の都幾川左岸は蛇行の外側にあたり、流水の速度が速くなり、侵食が進むことから段丘崖となっている。一方右岸は上流から運ばれてきた砂や礫(れき)などが堆積する広い河川敷があり、そこには雑木林を伐採してできた田畑が広範囲に広がっていて、堆積面特有の低地が続くため、東西に長い堤防が築かれている。

 東松山市神戸地区は、都幾川が蛇行して形成された堆積面を、西側から南側まで岩殿山地が取り囲むような場所に位置し、その低地面と山地面との境界付近に鎮座しているのが神戸神社である。
        
              ・所在地 埼玉県東松山市神戸875
              ・ご祭神 素戔嗚尊
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 例祭72425日(獅子舞奉納)
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0196741,139.3453577,16z?hl=ja&entry=ttu
 葛袋神社から一旦北上して埼玉県道41号東松山越生線に合流後左折し、西方向に進路をとる。進路左側には岩殿山地の峰々が広がり、右側に目を移すと道路に沿って堤防が築かれている。堤防自体は都幾川が一旦北側奥に流路を移しているため途切れるが、雑木林を抜けると一面田畑が広がる風景となる。暫く進むと、神戸神社の社叢林が見えて来る。
 神社の隣には神戸公会堂があり、建物手前には駐車場も確保されているので、そこの一角に車を停めて参拝を行う。
        
                県道沿いに鎮座する神戸神社
        
                   神戸神社正面
             因みに地域名「神戸」は「ごうど」と読む。
            
        一の鳥居の手前右側にある社号標柱と「神戸の獅子舞」の案内板
        
                「神戸の獅子舞」の案内板

 神戸の獅子舞(市指定無形民俗文化財)
 神戸の獅子舞は七月二十四、二十五の夏祭に、神戸神社で奉納される。
 獅子舞の由来はつまびらかでないが、獅子の太鼓に「寛政三年(一七九一)六月吉日、太鼓屋三左衛門」と墨書されている。
 この獅子は、昔は善能寺から出たものだが、寺が焼けてからは総代の家から、やがて社務所から出るようになった。
 旱魃の年には鞍掛淵の河原で雨乞獅子を舞い、又伝染病の流行した年には悪魔祓いに獅子が村中を廻ったという。
 獅子は「メジシ」「ナカジシ」「ホーガン」と呼ぶ一人立ちの三匹獅子舞で、昇殿カグラ、メジシカクシ、トンビガエシ等を舞う。その特色は「村まわり」をし、「土俵」の中で舞うことである。
                                      案内板より引用


 神戸の獅子舞  昭和55年(1980年)110(東松山市指定文化財―無形民俗)
 この獅子舞は、修理した時、太鼓を修理した際に『寛政三年(1791)六月吉日・武州熊谷梅町・太鼓屋三左衛門』と墨書されていたことから、230年ほど前から始められたと考えられます。古くは神戸(かんべ)(旧善能寺)で支度を整え、神戸神社まで街道下りを行っていました。善能寺が焼失してからは総代の家より、昭和3(1928)からは社務所で支度を整え、地区内を回り街道下りを行います。昭和41(1966)頃には奉納が困難となり、獅子舞演技が中止となってしまいました。村には「獅子舞の風にあたると病気にならない」との言い伝えがありましたが、獅子舞を中止した途端、赤痢や疫病などが流行ってしまい、一転演技復活の機運が高まり、昭和47(1972)有志により保存会を結成し、復活を果たしました。数年の休止でしたが、多くの演技内容が忘れられ、演技に関わってきた人の記憶をたどり、現在の舞の形態があります。夏の禮大祭では、神社の境内に、16俵の俵で土俵を作り(直径4メートル40センチートル)、舞庭が作られ、前庭・後庭に分け、神社に奉納します。その他では、昔、干ばつの時「昭和26(1951)」、「鞍掛渕(現在のくらかけ清流の郷)にすりこむ」といって、「戌亥黒雷天(いぬいくろらいてん)」の旗を先頭に、竹製の神輿と共に鞍掛山の麓の都幾川に隊列を成し練り込み、雨乞いの舞を捧げたと言われ、その帰途途中から「雷雨」に見舞われたと、長老が伝えています。また、疫病の時も、舞が奉納されたとも言われています。三匹の「獅子頭」は、見事な顔立ちで、特に雌獅子は、「一本角」で、舌を出しているなど、ひょうきんな姿も表現しており、地区の宝として、後世に残すべき貴重な文化財です。
                                  東松山市公式HPより引用
 
   一の鳥居のすぐ先にある二の鳥居        鳥居上部には「牛頭天王宮」と
   木製両部型鳥居形式で、朱の鳥居           記載されている。
        
                                  拝 殿

 神戸神社 東松山市神戸八七五(神戸字天王)
 当地の人々は、初め村の西方の山上に谷地田を開いて集落をなし、ここに当社も鎮まっていた。その旧社地は、東松山グリーンセンターの西側にある山林内で、今に「天王山地」の地名で呼ばれている。これがいつのころか生産性の高い麓の平坦地に耕地を開いていくようになり、当社も集落と共に麓に移ってきた。
 当社の創建については、一木から三体の像を彫り、一つは尾張国津島の地に、一つは上野国瀬良田の地に、一つは武蔵国神戸の地に祀られ、いずれも牛頭天王と称したとの伝承が『明細帳』に記されている。氏子の間には「世良田の天王様は当社の兄弟だ」「津島神社が本社で、この地に分祀されたためにお札が本社から頒布されていた」との口碑が残されており、この記事を裏付ける。
『風土記稿』には、善能寺持ちの社として載る。善能寺は天王山と号する真言宗の寺院で、当社の西方四〇〇メートルの地に堂を構えていた。昭和初年まで当社の祀職を務めた神戸栄松は、この善能寺法印の裔であった。ちなみに、同寺跡地には歴代法印の墓石が残り、「法印権大僧都阿闍梨□及」の延宝五年(一六七七)とある墓が最も古い。
 明治初年に八雲神社と改称し、更に明治四十年には字中道の氷川社、字杉ノ台の愛宕社、字山王の日吉社を合祀して神戸神社と改めた。
 祀職は、神戸家の後を渡辺好平・渡辺一夫と継いでいる。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                              境内の様子
      残念ながら参拝当日には参道にあるはずの「土俵」が見つからなかった。
 但し参道の石敷の通路が途中途切れている部分があり、そこの空間に盛り土をして「土俵」としているかもしれない。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「東松山市 観光情報HP」等
        

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葛袋神社

 境内碑 社碑
 当社は川北山根大平の三郷を以って葛袋となし、其の中央山頂に五社大神と南方に白髪大神を守護神として祀り、明治五年両社を合祀し村社に列せらる。明治三十三年社殿を改築し、同四十年愛宕神社及び八坂神社を合祀し。社号を葛袋神社と改称す。
 昭和六十一年十一月二十七日不慮の火災により、社殿を焼失し、氏子一同再建を誓い多額の浄財を寄進し、平成元年四月十六日竣工壮麗清浄なる神殿に神霊を奉安す。
 仍って茲にその梗概を誌し永く後世に伝えんとする。

        
              ・
所在地 埼玉県東松山市葛袋853
              ・
ご祭神 五社大神、白髪大神
              ・
社 格 旧村社
              ・
例 祭 春祈禱328日、夏祭り728日
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.02187,139.3699435,16z?hl=ja&entry=ttu
 葛袋神社は関越自動車道東松山インターから南西方向の都幾川中流域右岸に鎮座している。
埼玉県道47号深谷東松山線を東松山方向に進む。関越自動車道東松山インター付近で国道254号と交差し、同県道41号東松山越生線に変更となるが、関越自動車道に沿うような形で南下し、「高坂」交差点を右折し、道なりに500m程西行する。都幾川の土手が見える付近で左方向に曲がる細い道があり、そこを左斜め方向に進み、次の十字路を左折すると右側に葛袋神社の鳥居が見えてくる。
 社の隣には葛袋公会堂があり、その前には広い駐車場があるので、そこの一角に車を停めて参拝を行う。
        
                 
葛袋神社正面一の鳥居
               
 東向きにある参道。参道の両脇には伐採された木々の幹が残っている。伐採される前は、緑豊かな社叢に囲まれていたのだろう。工業団地の造成に会わせて整備されたというが、社は社殿周辺が存在していれば良いという箏ではない。鳥居から参道を含む境内全体の荘厳な雰囲気もまた社の「品格」という意味において必要ではないかと感じた。
 但し陽光を浴びた「明るい社」という印象も同時に感じ、良い意味でさわやかな気持ちで参拝には望めたことも事実である。新しく改築された葛袋公会堂に隣接し、同時にその周囲の環境に合わせた社の整備をしているようで、新しい「社」の在り方をも感じた次第だ。
        
              比較的長い参道の先にある二の鳥居
        
                                     拝 殿

 葛袋神社  東松山市葛袋八五三(葛袋字山根)
 葛袋では、かつて村の中央にそびえる坂東山(標高八五メートル)中腹に五社権現宮、村の南方に白髭神社・愛宕神社・八坂神社をそれぞれ祀っていた。このうち白髭神社が村の鎮守であった。
 明治五年、白髭神社を坂東山の五社権現社に合祀して相殿となり、「五社大神・白髭大神社」と号して村社となった。更に同四十年、愛宕神社と八坂神社をこれに合祀し、同四十五年に村名を採って葛袋神社と改めた。次いで、大正五年には、坂東山の麓の現在地に社地を移した。この坂東山は、昭和二十九年からセメント材採掘のために秩父鉱業によって切り崩され、現在では跡形もなくなっている。
 このように、当社の中心となっているのは五社権現社と白髭神社である。五社権現社は、その社名から察するに、熊野十二所権現社の内の熊野五所王子と呼ばれる若一王子(天照大神)・禅師(忍穂耳尊)・聖(瓊々杵尊)・児宮(彦火々出見尊)・子守(鸕鶿草葺不合尊)の五柱を祀る社と考えられ、恐らく熊野修験により奉斎されたものであろう。一方、白髭神社については「(隣村の)下唐子の白髭神社(現唐子神社)が当社の兄さんである」との口碑が伝えられている。下唐子の白髭神社は、応永十八年(一四一一)の創建と伝えられることから、当社の創建もこのころまでさかのぼるのであろうか。
 昭和六十一年に社殿を焼失したが、平成元年に再建が果たされた。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
  拝殿に掲げてある「葛袋神社」の扁額   社殿裏に境内社。左から大黒天・金毘羅大権現
                            金刀比羅神社・大黒天。


 ところで葛袋地区の中央部は、岩殿丘陵が張りだし、裾を都幾川が流れている。その丘陵の突端部に「坂東山」があった。坂東山一帯には、セメント原料で粘土の一種「頁岩(けつがん)」が埋蔵されている。昭和29(1954)7月粘土質原料の供給を目的として、粘土の採掘が始まる。粘土採掘場は「葛袋」とその西3kmに隣接する「高本」地区の2か所で最盛期には 60,000トン/月前後採掘、輸送していた。その後セメントの需要が減るのと海外製品に押されて原料採掘量の減少などから、平成20(2008)6 月葛袋採掘場の採掘は終了、また、高本採掘場跡地も平成5(1993)に清澄ゴルフ倶楽部に衣替えしている。
 坂東山の標高が 明治21(1888)発行の迅速測図では93.25m であったが、採掘等により、昭和36(1961) は採掘が始まって6年程しか経過していないが、既に坂東山は姿を消していた。
        

 平成21(2009)8月「東松山都市計画事業葛袋土地区画整理事業」が始まり、2年の歳月をかけて葛袋産業団地が誕生、大手配送センターなどの物流の拠点となっている。工場建設などに伴う建設投資による経済波及効果は 370 億円、操業開始後の生産活動等に伴う経済波及効果は、毎年255億円になるとの報告があるという.
 工業団地東側の「ばんどう山第2公園」内には、平成28(2016)41日「化石と自然の体験館」が開館されている。坂東山の姿は消えたが、跡地は産業団地として、また、「化石と自然の体験館」として活用され、廃線跡も遊歩道として有効活用されることになっている。

「化石と自然の体験館」は県内唯一の室内で化石発掘体験が出来る施設である。現在埼玉県は「海なし県」のひとつであるが、嘗て1500万年前はこの地域一帯は海であった。その証拠に同地ではサメの歯の化石がたくさん見つかっている。

 尚平成 26(2014) 7 月地名更新があり、葛袋産業団地の住所が「埼玉県東松山市坂東山(ばんどうやま)〒355-0067」となり、ここに坂東山が地名で復活した。


参考資料 「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「東松山市 化石と自然の体験館公式HP」等

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八幡山種池神社及び雉岡城

八幡山種池神社】
        
             ・所在地 埼玉県本庄市児玉町八幡山336-2
             ・ご祭神 倉稲御魂命
             ・社 格 不明
             ・例祭等 初午 2月初旬 祈年祭 315日 例大祭 1013
                  新穀感謝祭 1210日
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1939455,139.1280878,18z?hl=ja&entry=ttu
 埼玉県道75号熊谷児玉線を児玉町市街地方向に進み、八高線「第二深谷街道踏切」を越えて「児玉小学校」交差点を右折すると、JR八高線児玉駅に到着する。児玉駅を起点として西方向に伸びる駅前通りである埼玉県道191号児玉停車場線に左折して合流、そのまま道なりに進む。国道462号線との合流地点である「児玉駅入口」交差点を右折し、その後「児玉高校入口」を左折し、100m程進むと左側に八幡山種池神社の社号標柱が見えてくる。
 
現在は八幡山公園となっている「雉岡城」の東側に鎮座していて、城の陣屋口の通りに面しているという境内の立地から、時の城主等から深く崇拝されたという。
 社の境内は南北に長いが決して広くない。しかし社殿から見て右側手前には駐車スペースも確保されているので、そこの一角に停めてから参拝を行う。
       
        入口に置いてある社号標柱         南北に位置する社
        
                                           八幡山種池神社正面
 
      石段上に鎮座する拝殿            石段脇にある案内板

 種池神社 御由緒  本庄市児玉町八幡山三三七
 □御縁起(歴史)
 当社の創建の年代は定かではないが、かつては境内に霊水として知られる湧水があり、近辺の住民の間には四季を問わず湧出するこの池の水によって生活している者が多く、氏子は籾を播く前には必ずここで種籾を洗ったものであった。よって、この湧水に神威を感じ、五穀の祖神である稲荷大神を勧請したのが当社の始まりで、「種池」の称もこの湧水に由来する。
 また、延徳年間(一四八九九二) に雉岡城を当地に築き、その城主となった夏目豊後守定基も深く当社を崇敬し、社殿を再興したという。更に、横地左近将監吉晴、松平玄蕃頭清宗、地頭田備後守といった、その後の城主や地頭も当社を厚く崇敬した。雉岡城の陣屋口の通りに面しているという境内の立地も、こうした城主らによる崇敬のあったことを感じさせるものである。
『風土記稿』や『郡村誌』に「稲荷社」と載るように、当社は元来は稲荷神社と称していたが、明治四十年五月に字城内の厳島神社・伊勢神社・秋葉社、字円良岡の金鑚神社の四社を当社に合併したのを機に、社号を種池神社と改めた。しかし、昭和五年ごろ、当社の象徴であった湧水は諸般の事情から埋め立てられ、その後は跡に井が設けられて飲み水などに用いられていたが、衛生上の理由から近年はそれも廃止された。ちなみに、境内左の駐車場が湧水のあった場所である。
 □御祭神と御神徳
 ・倉稲御魂命…五穀豊穣、商売繁昌
                                      案内板より引用
 

        
 拝殿の周囲には多くの境内社が鎮座する。『風土記稿』や『郡村誌』では、明治四十年五月に字城内の厳島神社・伊勢神社・秋葉社、字円良岡の金鑚神社の四社を当社に合併したと記載されている。これらの境内社もそのうちのどちらかであろう。


「古は当国七党の一、児玉党の所領する事は児玉町に弁ず。文明の頃は夏目豊後守定基領し、其後永禄中に至ては、横地左近忠春の所領にして、天正十八年御打入ありて松平玄番頭清宗に賜り、慶長六年三州へ得替さられて、同七年戸田藤五郎に賜り、天明六年子孫中務の時上りて御料となりしより今に然り」と『新編武蔵風土記稿』は記している。
 慶長七年戸田藤五郎重元(5千石)の知行地となった際に八幡山町に陣屋を設け、支配をすることとなったというが、現在はそのころの遺構等ない。


【雉岡城】
        
             ・所在地 埼玉県本庄市児玉町八幡山446
             ・遺 構 曲輪、土塁、横堀(空堀)、横堀(水堀)等
             ・分類・構造 平城 戦国時代初頭築造(推定)
             ・指定文化財 埼玉県史跡(雉岡城跡)

 雉岡城(きじがおかじょう)は、埼玉県本庄市児玉町八幡山446他に所在していた日本の城。丘陵地に築かれており、旧字雉岡の地名をとってつけられた城のため、別名を八幡山城(はちまんやまじょう)と言う。

 45郭で構築された平城で、『武蔵国児玉郡誌』『新編武蔵風土記稿』等によれば、築造時期は戦国時代初期といわれ、当初は山内上杉氏の居城として築かれたが、地形が狭かったゆえに、上杉家は上州平井城へ移ったものと考えられ、代わりに有田豊後守定基(城主となってからは夏目を称す)を雉岡城主として配備した。因みに定基は赤松則村(円心)の裔孫であり、元は平井城に在城していた武将とされる。
 その後永禄年間には北条氏邦によって攻略され鉢形城の属城となったようで、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めの際には前田利家により落城した。徳川時代には松平家清が居城していたが慶長6年(1601)に三河吉田城に移ると廃城になったと伝えている。
        
          県道191号を西方向道なりに進むと雉岡城跡に到着する。
   正面入り口付近に設置されている「「県指定史跡 雉岡城跡と周辺の文化財」の掲示板
        
             正面入口にある「雉岡城跡」の看板
             看板周辺には駐車場も完備されている。

  地形的に見ても、この城の東側には鎌倉街道上道が南北に通っており、築城目的として、鎌倉街道の交通要衝を押さえ、関東管領上杉家の最前線地となっていた五十子陣(児玉郡北部)への兵站を確保する事であり、そうした経済的側面があったものと考えられているつまり、当初は五十子陣の支城としての役割があり、五十子陣の解体後、上野国平井城の支城として活動し、後北条氏の時代では鉢形城の支城として活動したとされる。
 
 現在は公園として整備されているが、城跡という箏で、いたる所に 曲輪、土塁、横堀(空堀)、横堀(水堀)等の遺構が見える(写真左)。
 思った以上に城跡は広い。また途中見かけた案内板(同右)に見入ってしまった。

 埼玉県指定史跡 雉岡城跡  昭和十三年三月三十一日指定
 雉岡城は、八幡山城とも呼ばれ、十五世紀頃に時の関東管領であった山内上杉氏によって築城されたと言われています。東西約二百七十メートル、南北約四百三十メートルに及ぶ城域を持ち、鎌倉街道上道と上杉道の分岐点という交通の要衝に立地しています。
 十四世紀初めまでに成立した歌謡集「宴曲抄」には「者の武の弓影にさはぐ雉が岡」という歌が収められています。このことから、十四世紀までに雉が岡の地に武士の居館が存在していたと推定されます。
 雉岡城は、築城後、関東管領山内上杉氏及び夏目定基(なつめさだもと)、定盛(さだもり)を城主としていましたが、後北条氏の武蔵進出に伴って雉岡城も後北条氏の支配下におかれました。そして鉢形城主北条氏邦の命により横地左近忠春が雉岡城の城代となりました。
 天正十八年(1590)の豊臣秀吉による後北条氏討伐に伴って落城し、徳川家康の関東入国後、松平氏が城主となりました。その後、城主の松平家清が慶長六年(1601)に三河国吉田城(愛知県豊橋市)に転封となり、雉岡城は廃城となりました。
                                      案内板より引用


 散策途中、本丸南側の曲輪を囲む堀の底に、「夜泣き石(親子石)」と呼ばれる石があり、案内板はその曲輪の脇に設置されていた。「夜泣き石」と言われる悲しい言い伝えである。 

 夜泣き石(親子石)
 この石には、次のような伝説があります。
 昔、殿様の夕餉に針が入っており、怒った奥方は側女お小夜の仕業だと思い、取り調べもしないで、お仕置井戸に生きたまま沈めさせてしまいました。
 そのとき、お小夜のお腹には、生まれるばかりの赤ちゃんがいたそうです。お小夜の死後、お城ではお乳がにじみ、飲み水も池の水も白く濁り、夜になるとお小夜の泣き声が、どこからともなく聞こえてきたそうです。
 また、井戸からお小夜の棺桶を引き上げてみると、大きな石になったお小夜は、子供石を抱いていたそうです。子供を思う親の心に、奥方はお小夜に対する仕打ちを後悔し、お堀端にこの二つの石を祀り、女達に慰めの言葉をたやさぬようにと頼み、髪を切って喪に服したと言い伝えられています。(児玉の民話より)
                                      案内板より引用


参考資料「新編武蔵風土記稿」「本庄市の地名② 児玉地域編」「Wikipedia」等
       

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稲沢稲聚神社

 本庄市児玉町稲沢地域は、本庄市南西部端部に位置し、「本泉地区」の北部にあり、小山川支流稲聚川の北側斜面に集落が存在している。近世では上稲沢村・中稲沢村・下稲沢村の三村に分かれていた。
 稲沢という地名の由来に関して、確かな記録もないため、はっきりとは分からないが、中稲沢に鎮座する古社の稲沢稲聚神社との関係も考えられる。稲沢稲聚神社の社伝によれば、稲聚川の水源付近に昔から豊富な湧き水があって、下流の住民が水田耕作に多大な恩恵を受けたことから、この地に稲聚神社を創建し、社周辺一帯を稲沢と呼ばれるようになったと云われている。
 上記
稲沢稲聚神社はその稲沢地域に根を下ろした鎮守様であり、阿那志河輪神社同様に、「式外社」別名国史現在社(げんざいしゃ)」「国史所載社(しょさいしゃ)」とも称されている由緒ある社でもある。
        
             
・所在地 埼玉県本庄市児玉町稲沢360
             
・ご祭神 倉稲魂命
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 初午 2月初午 春祭り 415日 秋祭り 1015
                  
大祓 1229
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1642982,139.0759228,15z?hl=ja&entry=ttu
 河内金鑽神社から南西方向に進路を取り、埼玉県道44号秩父児玉線合流後400m程県道を進むと、押しボタン式の信号があるT字路に到着する。そこを右折し、道なりに進む。道幅が狭い道路で右側は崖が続くため、進路があっているのか、時に心細くなる時間帯もあるが、そこは辛抱。暫く進むと稲沢地域の集落が見え、尚も西方向に進路をとる。小山川支流稲聚川に沿って道路が続いているようだが、その川の上流部が右方向に進路が変わる地点に稲沢稲聚神社は鎮座している。
 社周辺には大きな杉の大木が多数聳え立ち、遠目からも目視できるので、県道から右折する道さえ間違わなければ、社までは1本道である。県道から社までの距離は1.4㎞ほどであろうか。
 社の東側には「稲澤山村センター」があり、駐車スペースもしっかりと確保されており、そこの一角に車を停めてから参拝を開始する。
        
                  稲沢稲聚神社 正面
       
        鳥居の手前には社号標・社碑が立つ。 社号標の奥にある稲聚神社碑。

「稲聚神社碑」には創立年代から碑文設置当時までの歴史等が記されていたのだろうが、残念ながら長年の風雪等により、半分以上文字欠損状態となっている。それでも僅かな文字等の確認によると、「稲聚神社のご祭神は稲荷の大神にして倉稻魂神」「六国史の一つである日本三代実録における神階は文徳天皇の天安元年正六位上」「清和天皇貞観十七秊從五位下」「稲澤と全く同じきなり古書に稲取と書」「後小松天皇の應永の頃大旱魃」あたりが記されている。
        
                     案内板
     自然災害の影響か、御由緒案内板の一部が剥がれ、一部解読が不可能な部分がある。
     一部欠損した部分は、ほかのHPを確認することにより、対応できた。

 稲聚神社 御由緒  本庄市児玉町稲沢三六〇
 □御縁起(歴史)
『郡村誌』が「四方に山を帯ひ渓水村の中央を貫流す。地形高低あり運輸車を用ゆ可からす唯馬を用ゆ」とその地勢を描写しているように、稲沢に身馴川(小山川)の支流である稲聚川の流域に位置する山村である。その地内は、かつては上稲沢・中稲沢・下稲沢の三村に分かれていたが、明治五年に合併して一村となった。
 当社は、この上・中・下稲沢三か村の鎮守であり、また『三代実録』に載る稲沢郷池田庄稲沢鎮座の稲聚神社であるといわれている。その由緒は、境内の「稲聚神社伝来碑」によれば「大同三年(八〇八)の創建で、天安元年(八五七)に神階正六位上に列し、貞観十七年(八七五)には従五位下に昇格した。その後、応永六年(一三九九)の旱魃の際、丹生神社を合祭した」という。 更に『明細帳』は、丹生神社の勧謂は、この旱魃で流末の各村から「当社の位置は大和(現奈良県)の吉野川における水徳の神丹生川上神社と同じである」との声があったことを契機とするものであり、尊崇が深いためついには稲聚神社は客社のようになっていると記している。『風土記稿』にも、当社は上稲沢村の項に「丹生社 上中下稲沢村の鎮守とす、満福寺持」と載り、古くから丹生神社としての信仰の方が強かったことがわかる。明治維新後は、神仏分離により満福寺の管理を離れ、社号を稲荷神社と改称して村社となり、明治二十 八年には社号を稲聚神社に改めた。
 □御祭神と御神徳

 倉稲魂命…五穀豊穣、商売繁盛
                                      案内板より引用
        
                                一の鳥居
 
 鳥居の社号額には「稲聚神社・丹生神社」と記載がある(写真左)。一の鳥居の先には石製の二の鳥居があるが、そこの社号額にも一の鳥居同様に「稲聚神社・丹生神社」と書かれている(同右)。
        
                                       拝 殿
 
  拝殿の扁額も「稲聚神社」「丹生神社」        拝殿の右側には九頭竜神が鎮座。 
     と並列に掲げられている。

 案内板によると、応永6年(1399年)に干ばつを鎮めるため、大和国の丹生川上神社を勧請、合社した。よって、稲聚神社には稲聚神社と丹生神社が記載されている。当時は丹生神社の信仰がより強かったため、以降社名が「丹生社」に改称される。
 その後明治元年(1868年)の神仏分離により社名を「稲荷神社」に改称するが、明治28年(1895年)には創立当初の社名「稲聚神社」に復称したという。
       
 境内には杉の巨木・老木が多数あるが、その中でも社殿右側手前にあるご神木は圧倒的な存在感がある。


 ところで稲沢稲聚神社は六国史の一つである『日本三代実録』《卷二十七貞觀十七年(八七五)十二月五日甲寅》によると、「五日甲寅。授長門國從四位下住吉荒魂神四位上。近江國從五位下小丈神從五位上。正六位上坂神從五位下。武藏國正六位上河輪神。稻聚神。飛騨國正六位上本母國都神。釼緒神。上野國正六位上丹生神並從五位下」と記載があり、貞觀十七年(875)に正六位上の神階を阿那志河輪神社と共に受けていて、それが根拠となり、「国史見在社(こくしげんざいしゃ)」別名「式外社」の社として時の朝廷から承認されている。

 国史見在社(こくしげんざいしゃ)は六国史(『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』)に記載があるが、『延喜式神名帳』に記載がない神社をいう。国史現在社(げんざいしゃ)、国史所載社(しょさいしゃ)、式外社(しきげしゃ)ともいった。 式内社とともに朝廷の尊崇厚く、由緒ある神社として重んじられてきた。
 六国史は延喜式神名帳以前に成立、編纂された歴史書、または勅撰史書であり、日本において単に国史と言えば、六国史のことを指す場合がある。各史書の成立年は以下の通りとなる。
『日本書紀』…養老4年(720年)
『続日本紀』…延暦16年(797年)
『日本後紀』…承和7年(840年)
『続日本後紀』…貞観11年(869年)
『日本文徳天皇実録』…元慶3年(879年)
『日本三代実録』…延喜元年(901年)

『延喜式(えんぎしき)』は、六国史の後に編集された、平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)で、律令の施行細則をまとめた法典であり、成立年は延長5年(927年)。『延喜式神名帳』は『延喜式』に纏められた巻九・十のことを指し、当時「官社」に指定されていた全国の神社一覧であり、延喜式神名帳に記載された神社(式内社)は全国で2,861社、鎮座する神の数は3,132座である。

 式内社は、延喜式が成立した10世紀初頭には朝廷から官社として認識されていた神社で、その選定基準には当然ながら、当時の政治色意図が強く反映されていると考えられる。一方、延喜式神名帳に登載されていない神社を式外社(しきげしゃ)という。式外社には、朝廷の勢力範囲外の神社や、独自の勢力を持った神社、正式な社殿がなかった神社等と思われるが、正確にはその選定の定義は分からない。
 その中でも、『日本書紀』から『日本三代実録』までの六国史に神名・社名の見える神社を国史見在社(こくしけんざいしゃ・国史現在社とも)といい、式内社とともに由緒ある神社として尊重されている。
             
 社の入口・社号標柱の右隣には、おそらく古い年代に製造されたであろう柱があり、そこには「国史現在」、その右脇には同じ式外社である「河輪」と刻印されている。


 旧武蔵国に式外社・国史見在社として認識されていた社は五社で、以下の社となる
倭文一神社…埼玉県比企郡吉見町久米田鎮座。現在久米田神社。旧村社。
若雷神社…神奈川県横浜市港北区鎮座。旧村社。
伊多之神社…東京都あきる野市五日市鎮座。現在阿伎留(あきる)神社。旧郷社。
河輪神社…埼玉県児玉郡美里町阿那志鎮座。旧村社。
稲聚神社…埼玉県本庄市児玉町稲沢鎮座。 旧村社。


 式内社・式外社共に1100年前に史書等で官社として記載されている社という箏は、当然それ以前からの創建であり、社自体も歴史を綴っていたことを朝廷が認めたわけであるのだから、延喜式が成立以前、少なくとも数百年単位の由緒は必要と思われる。
 稲沢稲聚神社の案内板による縁起(歴史)にも、創建時期は「大同三年(808)と記しているが、もしかしたら妥当な年代かもしれない。1000年前という途方もない年代を経た由緒ある社という箏だ。
        
 県道から稲沢地域に向かう途中に建てられている石碑群。周辺手入れもなされていて、また社日様も紙垂等で祀られていて、その四方には縄を巻き、結界を成しているのであろう。当然縄には紙垂を巻いていたと思われる。
 道路の向かい側には稲聚川が流れていて、この集落と河川との深いかかわりもこのような石祠群のおかれた場所を鑑みると、地域の方々の、信仰の深さを垣間見た気がして、思わず車を停めて手を合わせた次第だ。

参考資料「本庄市の地名② 児玉地域編」「新編武蔵風土記稿」「
Wikipedia」等

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藤木戸諏訪神社


        
             
・所在地 埼玉県児玉郡上里町藤木戸138
             ・ご祭神 建御名方命
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 新年祭 13日 春祭り 43日 秋祭り 1019日
                  新嘗祭 1211
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2386362,139.1161543,18z?hl=ja&entry=ttu
 上里町藤木地域は、利根川支流の神流川右岸に位置する。「藤木戸」という地名の由来は、地内の観音堂に藤の古木があったためであるという。
 藤木戸諏訪神社はその藤木地域西部に鎮座している。途中までの経路は大御堂浅間神社を参照。大御堂浅間神社から埼玉県道・群馬県道131号児玉新町線を900m程北上し、「三町」交差点を左折する。その後群馬県道・埼玉県道23号藤岡本庄線、通称「下仁田街道」に合流、西進し、1㎞程進んだ先のT字路を右折する。その後進路上右側に長幡小学校が見えるのだが、その学校を過ぎた地点の進行方向に対して左側に が鎮座する場所が見えてくる。
 但しこの通りには社の境内に通じる入口が残念ながらない。長幡小学校を通過する地点に十字路があり、そこを左折し、その後突き当たりを右折すると社の鳥居が見えてくるので、鳥居近くの境内の一角に車を停めて参拝を行った。
        
                                                           藤木戸諏訪神社正面
 鳥居は境内西にあり拝殿の向きに対して直角に位置している。加えて拝殿は南向きで、祭事にたてる上り用の柱は社の正面にあり神橋をはさむ。拝殿に対して正面には鳥居は現在ない。
 鳥居だけ移動したのか、不思議な立ち位置にある社ではある。
 
  鳥居の右側に並んで立っている庚申塚。     鳥居の先に鎮座する境内社
                             厳島神社
       
 厳島神社の隣には同じく境内社・八坂神社が鎮座(写真左)。その隣には秋葉神社(?)が鎮座している。この3社は横に並んで建てられている。
 
 境内社3社の向かい側には案内板が設置されている(写真左)。その境内社の並びに社殿が建っている。神橋の南側が本来の参道となるのだが(同右)、そこには鳥居らしいものはなく、石製の柱があるのみ。

諏訪神社 御由緒  上里町藤木一三八
□御縁起(
歴史)
藤木は、利根川支流の神流川右岸に位置する。地名の由来は、地内の観音堂に藤の古木があったためであるという。当社は村の中央に鎮座し、西隣には真言宗真福寺がある。
『児玉郡誌』には「当社の創立は後花園天皇の御宇長禄年中(一四五七~六〇)当地に一社を勧請して本村の鎮守とす、其後社殿頽破せるを以て天正年間(一五七三~九二)村民協力して再建せりと云ふ、また、明和年間(一七六四~七二)に至り領主松平大和守の崇敬あり、社殿を再興せられたり(以下略)」と載せられている。
また、本殿に奉安する木製の神璽には、「諏訪大明神社頭壹宇 維時文政二己卯(一八一九)仲春廿七日鎮座 藤木・並木・新堀・沖惣氏子中 別当真福寺現住如海代」との墨書が見える。このうち、並木・新堀・沖は現在藤木戸村の小字名となっている。
別当の真福寺は『風土記稿』藤木村の項に「新義真言宗、大御堂村吉祥院末、藤木山不動院と号す、本尊薬師」と載る。同寺は、大永年間(一五二ー~二八)の創建と伝わり、寺内には天文十五年(一五四六)二月十五日銘をもつ逆修五輪塔がある。
当社は、明治初年の神仏分離により真福寺から離れ、村社となった。明治三十九年には、字並木に鎮座する無格杜日宮神社とその境内社である八幡神社と菅原神社を合祀した。
□御祭神 建御名方命…五穀豊穣、厄除、開運
                                      案内板より引用
        
                                      拝 殿
       
           社殿の右側で、道路沿いに立っているご神木
 藤木戸諏訪神社の南側には「楠川(しょうかわ)」という河川が東西に流れている。楠川は、神流川が乱流していたころの支流で、その痕跡は今でも曲流地形として残されている。古代はこうした曲流地形の脇にある自然堤防上に集落を営み、その下に耕作地を作って、開発を進めてきた。藤木戸地区には楠川を分水するための堰が数多くみられるという。
 因みに上里町には、塩川や小川と書いて「しょうかわ」と読む小字名がみられるが、これらはすべて楠川が流れる流域にあって、楠川に由来する地名と考えられている。
        
         社殿の右側に鎮座する境内社。菅原神社・稲荷社・三峯神社
 この諏訪神社の辺りは、字関邸といい、もとは楠川の堰を守る屋敷があったといわれている。今でも、神社の境内には水路があり、楠川(上流)と御陣場川(下流)の分岐点となっている。道路を隔てて諏訪神社の反対側、藤木戸公会堂の脇に「一級河川御陣場川起点」の石碑が建っている。楠川は、御陣場川と名前を変え、ここから下流は県管理の一級河川となっている。
 因みに御陣場という地名は、滝川一益と北条氏直とが戦った神流川合戦の際に北条方が陣を敷いたところといわれている。
        
                                「楠川」の流れ 


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉県北部地域振興センター本庄事務所HP」「境内案内板」等 

                

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