古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

上新戒御嶽大神社


        
             ・所在地 埼玉県深谷市新戒1562
             
・ご祭神 大己貴命・少彦名命・大山祇命
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 210日 春大祭 218日 祈年祭 1115日 秋大祭
                  1
123日 勤労感謝祭 1229日 大祓

 上新戒御嶽大神社は深谷市新戒地区北西部に鎮座する。途中までの経路は内ヶ島神明社を参照。群馬県道・埼玉県道14号伊勢崎深谷線を北上するように進み、「大塚」交差点を右折、埼玉県道45号本庄妻沼線を道なりに直進する。1.5㎞進んだ最初の信号を左折し、北上して行くと右手側に御嶽大神社が見えて来る。但し駐車場が周辺にはないため、対向車の迷惑にならない場所に路駐して、急ぎ参拝を行う。
        
                                上新戒御嶽大神社正面
    新戒地区の長閑な田畑風景に馴染むような、ゆったりとした空間が広がっている。
 
       参道右側にある社務所         社務所の脇、道路沿いにある記念碑

 上新戒御嶽大神社社務所再建記念碑・趣意書
 御嶽大神社社務所は建立以来長きにわたり祭事及び集会所として上新戒の中心的な役割を果たしてきた。しかし逐年老朽化が進みここ十数年来再建が検討されてきた。このたび歴代の正副自治会長、氏子総代神社の役員を始め氏子各位の協力を得て再建の運びに至ったものである
 
平成十二年三月二十五日起工、同年十一月十五日落成
                                     記念碑文より引用


 社務所再建の事情を記されているだけで、石碑には神社のことは記されていないので、「埼玉の神社」での解説を紹介する。

 御嶽大神社
・神徳…農耕神、「往古より当社に祈願し雨乞いを為せば、如何なる大旱魃の年にても奇しく雨降らぬということ曾てなしと、霊験今尚然り」
当社の歴史を見ると開拓時に信州筑摩郡奥十山(木曾の御岳)を祀って蔵殿宮と称したのが当社の始まりで、正平21年(1366
)には、社殿を整え常陸国大洗の薬師菩薩を合祀の上、別当三薬寺を建てている。江戸期に入って蔵王大権現と号したが、維新後に今日の社号となった。
 
      参道左側には神楽殿         規模は大きくないので、鳥居をすぎると
                           社殿がすぐ近くに見える。
        
                                    拝 殿

 新編武蔵風土記稿において「新戒村条」には「新戒村・上新戒村・下新戒村」の3村を1セットで記載されている。
「新戒上下新戒の三村は古へ一村にて、正保の改にも新戒村のみ載せ、元禄の改に至て三村とす(中略)陸田のみの地なり、古は地名を新開と書しにや、新開荒次郎は当所の人なりと語り傳へて其舊蹟今に存す、按に【東鑑】新開荒次郎の外新開彌二郎・同左衛門尉等を載す。彌二郎及兵衛尉は承久年中の人なり 又岩松氏所蔵文書、享徳肆年閏四月八日、岩松右京大夫望申云文中に武州新開郷事新開加賀守蹟とのす、これ等其の支族にて此に住し、在名を用ひしものなるべければ、新開の名の舊きこと知るべし」

 また大里郡神社誌には以下の記載がある。
新開氏旧跡は、東西一町四間・南北一町四十二間、村の東に有りて堤濠の跡近時猶存せり、文政天保の頃迄漸次開墾して今は無し、畑となれり。新開氏は秦河勝の後裔、信濃国に住す、本領は同国佐久郡及び近江国新開荘也。荒次郎忠氏、鎌倉右幕に従ひ、丹党の旗頭たりと云ふ」
        
                               
上新戒御嶽大神社 本殿
 
 社殿の左側には境内社が横一列に並ぶ(写真左)。左から大手長男神社・八坂神社、天満宮・雷電神社、皇太神宮。また境内右側には社務所が設置されているが、その左側にも境内社、石祠が並んでいる(同右)。詳細不明。
        
                          上新戒御嶽大神社 遠景


 上新戒御嶽大神社の由来は、「埼玉の神社」によれば、「開拓時に信州筑摩郡奥十山(木曾の御岳)を祀って蔵殿宮と称したのが当社の始まり」と記載されている。推測するに、「新編武蔵風土記稿」や「大里郡神社誌」に登場する「新開荒次郎」は秦河勝の後裔で、本領の信濃国佐久郡及び近江国新開荘から上新戒地区に移り住み、その際に「木曽のおんたけさん」と呼ばれる信仰の山「御嶽山」から神様を勧請したものと思われる。主祭神は、国常立尊・大己貴命・少彦名命。
 一方、江戸期には「蔵王大権現」と号したらしいが、蔵王権現は本来日本独自の山嶽仏教である修験道の本尊で、インドに起源を持たない日本独自の仏といわれ、奈良県吉野町の金峯山寺本堂(蔵王堂)の本尊として知られている。権現とは「権(かり)の姿で現れた神仏」の意味。仏、菩薩、諸尊、諸天善神、天神地祇すべての力を包括していて、神道において、蔵王権現は大己貴命、少彦名命、国常立尊、日本武尊 、金山毘古命等と習合し、同一視された。その為蔵王権現を祭る神社では、主に上記の5組の神々らを祭神とするようになった。
 蔵王山は宮城県と山形県との県境にあり、古くから刈田嶺(かったみね、かったね、かりだのみね)、または、不忘山(わすれずのやま)と呼ばれていた山岳信仰および歌枕の山であったが、吉野から蔵王権現が勧請され、平安時代には修験者が修行するようになったため蔵王山とも呼ばれるようになったとされる。

 つまり、創建当時信州木曽御嶽山から神様を勧請したが、時代が下るにつれ、神仏習合思想により、東北地方の「蔵王権現」を取り入れ、現在の信仰スタイルとなったと考える。
 日本は歴史が古い国であり、信仰形態も「受容」が基本にあり、この形態は自分の信仰を押し付け、以前の信仰を根こそぎ否定・根絶する他の諸外国にはない平和的で、全てを包み込む極めて優しいものであり、そして諸外国から不思議がられる独特のスタイルである。



参考資料 「新編武蔵風土記稿」「大里郡神社誌」「埼玉の神社」「Wikipedia」等



拍手[2回]


上手計二柱神社

 日本では漢字の伝来以来、万葉仮名のように当て字をつけていったり、佳字(かじ)地名として、めでたい意味の単語を地名に当てるなどのことが1000年以上にわたって行われ続けてきた。地方によって同じ綴りや漢字を別の読み方をしたり、同じ音に別の綴りや字を当てる、方言によって音が変化する、歴史に由来して常用漢字外の漢字を当てる等、今で言う「難読地名」が出てきてしまった。
 数多くの言語表現の中でも難読語が数多く存在するのは日本語くらいといわれていて、同じ漢字圏内でも中国語では漢字の読み方は規則的であり、日本同様に別の言語体系に対して漢字を使用した朝鮮語でも、ほとんどは一つの漢字に対して一つの読み方しか用いられていないようだ。
また昔からその地域に住んでいる住民の方々や、その地域をよく知っている人たちは特に難読地名とは思っておらず、外部の人間から指摘されて初めて難読地名だと分かるような例も少なくない。

 深谷市にもそんな読むことが難しい「難読地名」が幾つも存在していて、今までに紹介した神社では血洗島上敷免」「長在家」等で、江戸時代の村単位では、武蔵野足高神社は「猿喰吐(さるくいど)村」、上野台八幡神社地区内には「鼠(ねずみ)」という字名も嘗て実際にあった。
 今回紹介する「二柱神社」が鎮座する「上手計」地区も、「難読地名」の一つといえる。本来の地名の読み方は「てばか」で、現在は下手計と上手計にわかれている。 では、この不思議な地名の由来は何かというと、後三年の役で源義家が奥州に向かう際、この地で負傷を負った家臣の片腕を切り落として埋葬した場所が「手墓(てばか)」という地名になったのがルーツという。また別説では、手計の「はか」は、崖地を意味するアイヌ語の「ハケ」が転じたもので、上手の崖・下手の崖とする見解もあるようだ。
        
             
・所在地 埼玉県深谷市上手計216
             
・ご祭神 伊耶那岐命、伊耶那美命
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 不明

 上手計二柱神社が鎮座する深谷市上手計地区は、矢島地区北側で、小山川左岸に位置する矢島神明社を起点に群馬県道・埼玉県道355号中瀬普済寺線を北上し、1㎞程進むと「血洗島」交差点に達する。埼玉県道45号本庄妻沼線との交点となり、そこを右折し、4番目の十字路を左折し、暫くすると左側に上手計二柱神社の社叢、並びに鳥居が見えてくる。
        
                  
上手計二柱神社正面
「深谷市 上手計自治会HP」には「地区の鎮守として、二柱神社があり、元旦祭春の大祭秋の大祭など年間を通して行事を行っている」との記載があったが、その詳しい日程が書かれていないため、例祭日を「不明」として掲載するには至らなかった。
 
   鳥居より参道を望む。田畑風景が広がる中、 鳥居の左手側に徳大勢至菩薩と大黒天等の石碑
    社周辺のみ、社叢林が広がる。       午後に参拝したゆえに逆光気味。
       
               参道先、左側に聳え立つご神木
        
                        南北に長い参道。参道の先に鎮座する社殿。
                 長いにも関わらず、参道一面には敷石が敷き詰められている。
        
                     参道脇に設置された「二柱神社改築の記」の石碑

 二柱神社改築の記
 深谷市上手計に鎮座する二柱神社は、古くは「聖天社」と称していました。
 その創建は長井荘の総鎮守聖天宮(熊谷市妻沼)より勧請され、およそ四百年~四百五十年前と伝えられています。神仏分離令により明治二年に二柱神社と改めました。伊耶那岐命、伊耶那美命の二柱を御祭神として祀り、象頭人身の大聖観喜天像(聖天像)を御神体としています。
 当地区の護り神、心の拠り所として先人達により長きに渡り伝えられてきた御社殿が、昭和三十年代の台風による倒木の為、拝殿を失い、祭典を幣殿で執り行う事態となりました。また老朽化も甚だしく、成りゆく様を憂慮し改築に向けて、平成十八年、氏子各位の総意のもと御社殿改築が決議され建設委員会を設立するにいました。
 建設費用は五年間の積み立てを行い充当するものとし、平成二十三年建設を着工し平成二十四年二月に竣工を迎えることができました。
 この喜びを後世に伝えるべき偉業として、御奉賛いただいた氏子崇敬者の名をここに刻し記念碑として残すものであります。
 平成二十四年五月吉日 二柱神社宮司宮壽邦夫 上手計二柱神社建設委員会
                                      記念文から引用

        
                              南向きに鎮座する二柱神社拝殿
 
  拝殿には渋澤栄一書の扁額が掲げられている。             本 殿
 
   拝殿左側に鎮座する境内社・石祠2基        拝殿右側には境内社・稲荷神社が鎮座。
         詳細不明
        
         静寂の境内、手入れも行き届き、気持ち良い参拝となった。

 上手計地区を含めた周辺地域は昔より「八基(やつもと)」地区と呼ばれている。というのも明治22年町村制施行により,旧八村<血洗島村・南阿賀野村・北阿賀野村・横瀬村・町田村・上手計村・下手計村・大塚村>の合併時、当所は手計村であったが、翌23年八基村と改称。大八州(おおやしま)の基(もとい)として、日本の模範となるような村となるよう名付けられ、その名付け親は渋沢栄一と言われている。      
                   
参考資料 「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」「深谷市HP・自治会連合会」等           

拍手[1回]


内ヶ島熊野大神社


        
                            ・所在地 埼玉県深谷市内ケ島650
                           ・ご祭神 伊弉冉命、速玉男命、事解男命
                           ・社 格 旧村社
                           ・例 祭 祈年祭 2月27日 例祭 4月15日 新嘗祭 12月5日

 内ヶ島熊野大神社は深谷市内ヶ島地区に鎮座する。内ケ島地区は群馬県道・埼玉県道14号伊勢崎深谷線が東境となり、南北にはそれぞれ小山川、国道17号バイパスが、西側は備前渠用水 矢島堰から東に600m程先にある南北に走る農道が境となっていて、東西南北と1㎞程の行政区域で、こじんまりとして纏まった地域である。
 国道17号バイパスを岡部方向に進み、「大塚」交差点を右折し、群馬県道・埼玉県道14号伊勢崎深谷線を北上するように進む。途中左側に地域の和菓子屋(西間堂本舗)さんがあるが、実父の月命日には必ずそこのお饅頭を購入する貴重な和菓子屋さんで、味も素朴で美味しく、値段も手ごろなので、立ち寄る機会があるならば、ぜひ購入して頂きたいと思う。
 因みに本店は県道に接していて店舗前には駐車場はないが、道路を挟んだ向かい側には新館があり、筆者はいつもそこの駐車スペースを利用している。
        
                            
 内ケ島熊野大神社正面

 内ヶ島熊野大神社は上記の和菓子屋さんを左手に見ながら北上し、すぐ先にある手押しボタン式信号のある十字路を左折、250m程進むと左手に内ケ島熊野大神社が見えてくる。
 
駐車スペースは、道路を挟んで北側に「内島自治会館」があり、会館前には適度な空間があるので、そこの一角に車を停めてから参拝を行う。
 
      内ヶ島熊野大神社鳥居           境内は手入れも行き届いていて、
                                   清楚な印象
        
                             拝 殿

 内ヶ島地区を開発したのは武蔵七党の猪俣党に属した内ヶ島氏であるという。内ヶ島氏は一ノ谷の合戦で平忠度を討取ったとされる岡部六弥太忠澄と同族の猪俣党岡部氏から五郎国綱の時にこの地に居館を構え内ヶ島氏を名乗ったとされている。
小野氏系図「岡部六大夫忠綱―五郎国綱―内島三郎忠俊―二郎兵衛尉盛忠―三郎景忠、盛忠の弟左近将監盛経(法名寂阿)、其の弟左衛門尉俊盛―新左衛門泰俊―五郎左衛門俊綱(弟六郎左衛門尉経俊)、俊盛の弟左衛門尉忠季―為忠」
畠山牛庵本の小野氏系図「岡部忠綱―内島五郎国綱―三郎忠俊」
吾妻鑑卷二十五「承久三年五月二十二日北条泰時十八騎を率いて京に先発す、随兵に内島三郎あり。六月十四日宇治合戦、敵を討つ人々に内島三郎、味方の討死する人々に内島七郎」。卷四十「建長二年三月一日、内島三郎が跡」。卷四十三「建長五年十月十一日、内島左近将監盛俊入道」
 内ヶ島熊野大神社の北側には、永光寺という寺院があり、平安期猪俣党の内ヶ島氏の居館跡と言われている。永光寺は内ヶ島五郎国綱が醍醐天皇(在位は897930年)の時代に当地に館を構え、紀伊国熊野権現の分霊を勧請し合わせて開基となった伝わる天台宗永光寺本堂。江戸時代の慶安2年には寺領として15石を幕府から下賜されている。
 内ヶ島館跡と永光寺
 平安時代の末、猪俣党の子国綱が、内ケ島五郎と称してこの地に住み、内ヶ島氏の祖となった。 内ヶ島氏館跡は、永光寺付近と言われ、近年まで遺構があったが、現在は残っていない。面積は約2町歩くらいと考えられる。
 地内の小字に西廓・東廓・南廓などの館跡に関連する地名が残されている。
 永光寺の開山は了慧法印、開基は内ヶ島五郎と伝えられる。
                                 永光寺現地案内板より引用

 
    拝殿に掲げてある「熊野大神社」扁額               
社殿左側奥には境内社なのか、
                                                     神興庫なのか不明な建物あり。
 
  社殿右側奥に鎮座する合祀社、石祠群。    合祀社・石祠群の右並びに石碑、祠群が鎮座。
     資料が乏しく、詳細不明。      石碑は左側浅間神社、右側は
古峰神社と刻印。
        
                  社殿から境内を撮影

 時代は下り、内ヶ島氏は内ヶ島季氏のときに室町幕府の命を受けて飛騨白川郷へ入国し、鉱山から得られる収入で莫大な財を成し、帰雲城(かえりくもじょう、きうんじょう)を居城として戦国大名としての道を歩む。
 度々姉小路頼綱や上杉謙信などの侵攻を受けるが、その都度撃退に成功し、織田、豊臣の時代も巧みに渡り歩き、ついに天正
13年(1585)豊臣時代に大名として存続が許される。そして祝宴を翌日に控えた1129日に、白川郷一帯を天正大地震が襲い、帰雲城は山ごと崩壊し城下町も土砂に埋もれて領国ごと滅亡した。

 その時の被害は、埋没した家300戸以上、圧死者500人以上という。確証はないが、ここで紹介した内ヶ島氏は、猪俣党内ヶ島氏の末裔であったという説がある。
 この猪俣党内ヶ島氏説が正しいのであれば、悲劇的な結末となったことにより、北武蔵の小豪族が結果的に後代に名を残したという歴史の皮肉さを感じざるを得ない。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「
Wikipedia」「吾妻鑑」等

拍手[1回]


矢島神明社

 矢島堰は、埼玉県最古級の農業用水路である備前渠用水の取水堰の一つである。この矢島堰は備前渠用水の開削時(約400年前)から存在する古い歴史を持つ堰であり、自然をうまく利用した技術で小山川の河道を一部利用して、上流からの流水を受け、下流に貯留する溜井方式の矢島堰を設け、堰上流地域の排水も利用する効率的な施設計画で当時の最先端技術である関東流(伊奈流)の水利技術が用いられていた。
 現在の備前渠用水路は、埼玉県本庄市大字山王堂地先の利根川の支川神流川・鳥川の両河川が利根川と合流した利根川右岸より取水し、堤外の河川敷を2,200mの導水路によって導水し、本庄市仁手地先の第3樋管より堤内に入る。その後南東方向に流路は進み、岡部町で一旦小山川に合流し、小山川を利用して1㎞程下流にある深谷市の矢島堰で再び取水。矢島樋門を経由して流路を変え、深谷市、妻沼町の潅漑地域を東へ流れ、妻沼町弥藤吾の観静寺堰において、福川へ流入している。またその末流は中川水系の北河原用水や羽生領用水にも繋がり、山地水源を持たない埼玉県南東部地域の水田の貴重な水源としても現在でも多大に寄与している。
        
             ・所在地 埼玉県深谷市矢島1003
             ・ご祭神 天照大御神
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 例祭 1019日
 矢島神明社は埼玉県深谷市西部の矢島地区に鎮座する。国道17号バイパスを岡部方向に進み、「矢島」交差点を右折する。埼玉県道355号中瀬普済寺線を300m程北上すると、左手側に「村社 神明社」の社号柱が見える。
 県道沿いに鳥居や旗ポールが見えるが、正確に言うと、境内社である「摩二天稲荷神社」のそれであり、左隣に矢島神明社が並列して鎮座している配置となっている。
 駐車スペースは社号標柱の先に社務所があり、駐車できるスペースが確保されており、そこに停めてから、参拝を行う。
 
       矢島神明社 正面鳥居         鳥居を過ぎて、南北に長い参道が続く。

 深谷市は大略として、国道17号バイパス南側を境として、北は妻沼低地面、南は櫛引台地面に分かれていて、矢島地区はその中で利根川中流域・妻沼低地に属している。
 矢島神明社の北東800m程先に備前渠用水・矢島堰がある。この備前渠用水路は、江戸時代初期に伊奈氏の関東流による工法によって開発されて以来、時代的背景や技術の進歩により改修が行われてきた。しかし現在においても、用排水系統、溜井による配水方法等、根本的な水利用形態は大きく変わることなく、現役でその機能は存続している。

 数百年後の未来まで継続して運用できる技術や英知には驚きを隠せない。嘗ては技術大国であった日本の素晴らしさを物語る施設ともいえよう。

『新編武蔵風土記稿・矢島村条』には矢島堰に関して以下のように記載されている。
・矢島村
「村内小山川十八間の堰あり、是を矢島堰と唱ふ、延寛年中水論のことありし時、官栽により富村にては此水を用いず、西田村堰より身馴川の水を引沃ぐ事になれりと」
・小山川

「村北を流、幅十間、堤あり、この川流の間に矢島堰あり」
       
                手水舎の右側に聳え立つご神木
        
             参道を挟んで手水舎の向かいにある「神明社造営記念碑」

 神明社造営記念碑
 神明社は郷土の産土神として、永く氏子の信仰の拠りどころであります。
この度、県道中瀬普済寺線の拡幅工事に伴い、平成十四年一月十一日境内土地四一四二平方メートル中七二八平方メートル並びに稲荷神社、鳥居、社務所、玉垣等の移転保障として埼玉県熊谷市土木事務所より、七二○○萬円を受領いたしました。
 氏子役員協議の上、同額にて歳月を経て老朽化しておりました、神明社本殿、拝殿、稲荷神社、鳥居、社務所を新築し併せて、幟旗、旗竿を新調し、富士嶽大神、十二祖大神、御嶽山をはじめ十余の末社を新たに合祀し玉垣ならびに外柵を設置したしました。
 誠に氏子の敬神の念篤く、郷土の発展と子々孫々の繁栄を守護されんことを願い、工事完成を記念して當碑を建立するものであります。
 神明社建設委員会 平成十五年十月十九日
                                      記念碑文より引用

        
                     拝 殿
 
   拝殿に掲げてある「神明社」の扁額                      矢島神明社 本殿

 矢島神明神社に隣接して境内社・摩二天稲荷神社が鎮座している。
 
  県道沿いにある摩二天稲荷神社の鳥居        境内社・摩二天稲荷神社
                       「摩二天」という社号の意味はなんであろうか。
 
摩二天神稲荷神社の裏に石祠、庚申塚、末社等が並んで鎮座する。左から十二祖大神、富士嶽大神、三笠山大神(写真左)。八海山大神、大黒天、青面金剛、庚申塔等(同右)
        
          上記写真左、右の写真の真ん中に鎮座する石祠、石碑等。
          左側手前には一心霊神・弘徳霊神。右側手前は不動明王。
 
     摩二天稲荷神社の鳥居近郊に鎮座する2基の石祠(写真左・同右)。詳細不明。



参考資料 「新編武蔵風土記稿」「Wikipedia」「本庄市HP」等

拍手[1回]


秋山(風洞)天神社

 秋山天神社が鎮座するこの地域は嘗て「風洞(ふとう)」と呼ばれていて、『新編武蔵風土記稿』には「天神社二宇 上天神下天神ト云上ノ社ハ元龜年中ノ勸請ト云下ノ社ハ詳ナラス其後二社トモニ慶長三年田又兵衞再興ス 東照宮 上社ノ社地ニアリ勸請セシ來由詳ナラス 上社 末社 白太夫社 八幡 赤司明神 子ノ神 稻荷 神職 吉野伊豫 吉田家配下ナリ先祖ヲ掃部ト云元龜年中ノ人(那賀郡秋山村枝郷風洞分)」と記載されている。
 この地域には「風洞」地名の由来に関する昔話(民話)があり、坂上田村麻呂による大蛇退治の話がある。長文で、時代背景が細かく、時代設定がしっかりしている事も特徴である。

 風洞の地名
児玉の風洞には、余り知られていない大きな穴があり、その洞穴から常にゴウゴウと嵐の様に不気味な風が吹き出し、止まる事がなかった。このゴウゴウと言う音は、身馴岸沿岸を荒らしていた大蛇が、川の入江の近くの洞穴に隠れ住んで呼吸をする息が風となって吹き出したものであった。
この大蛇、女、子供はもとより、人だけでなく家畜まで喰うなど数限りなく悪事を重ね、また農作物を荒らしまわり、人々は嘆き、悲しみの底にうち沈んでいた。しかし、この話が時の天皇であった平城天皇の耳に入り、大蛇の退治を坂上田村麻呂に命じた。将軍田村麻呂は早速この地方に出向き、大蛇退治の準備にとりかかった。まず北向きに五社(沼上、小茂田、新井、十条、古郡の五ヵ村)の大明神を勧請し、また八仏薬師を安置するほか、数多くの神仏に祈念した。特に自分の守りの本尊である大日如来とゆかりのある十二天に登り、霊地を選び、ここに山籠りをして、秘密に僧を招き、37日間、夜の護摩修行をなし、大蛇退治の願いをかけると共に、これより568万年の後まで、この山より身馴川の末まで守り給え、との願をかけた。また、小平に入江の様になっている所があり、江の浜と呼ぶ場所に、一本の大きな柳の木があった。将軍はこの柳の木に向かって静止し、「われ願わくば、この地の大蛇を退治して、人々の災難を救い給え、もしこの願いが届くなら、すぐにこの柳に花を咲かせ給え。もし、この願いがかなわなければ、この柳をたちどころに切り倒し、たきぎとしてしまうものなり」と虚空に向かって大声に呼ばわると、ありがたいことか、恐ろしいことか、虚空がにわかに振動して、しばらく暗夜の如くにうち変わり、やがて明るくなると、不思議な事に柳は桜となって、満開の花が咲いた。よって将軍は、この地に虚空蔵菩薩を建立した。柳の木が化して枝垂れ桜となり、現在も栄えているが、柳の大木があった所から地名を「高柳の虚空蔵」と言い、霊験あらたかな霊場となっている。
このようにして、大蛇の住む洞窟に田村麻呂が出向くと、殺気を感じたのか、オスメス二匹の大蛇がものすごい眼光を放ちながら出て来た。驚くことにこの大蛇は、それぞれ二つの頭を持ち、太さ3m、長さ20m余りもあった。しばらく将軍達と睨み合いの末、戦いが始まり、一匹を現在の東小平の地に追い詰めたが、田村麻呂に次ぐ勇者椚林小平成身と言う者がこの大蛇の毒気にかかり、遂にこの世を去ってしまった。この事を知った武士達は、この勇者の名をとって椚林と言い、成身院は小平が名乗り、字名を院号とした。やがてメスの方は、田村麻呂の神変通力仏意自在の弓矢によって、射とめられた。一方、オスの大蛇は、川上に身を隠して潜んでいたが、将軍は夜になって舟を出し、大蛇が出て来るのを待った。現在、その場所を待屋と言い、舟をつないで置いた所を船山と呼び伝えられている。夜明けと共に出て来た大蛇は、将軍に追われ、間瀬峠に逃げ延び、峠の頂上から将軍を振り返り、まんじりと見つめた事から、この峠をまんじり峠と呼んだ(後世、間瀬峠と言い伝えるようになる)。こうして児玉の山麓一帯には、平和が訪れた。
将軍が退治した大蛇の骨は百駄あり、この骨を埋めて長泉寺が建立された。よって寺の境内を骨畑と呼び、百駄あった骨にちなんで山号を百駄山と呼ぶようになった。大蛇の住家の風の吹き出た洞穴は埋められ、この地に神を祀って、次来地名を風洞と呼ぶようになったが、その昔は単に洞(あな)と呼んでいたとされる。
        
             
・所在地 埼玉県本庄市児玉町秋山2813
             ・ご祭神 菅原道真公
             ・社 格 旧指定村社
             ・例 祭 祈年祭 225日 例大祭 1015
                  
下天神祭並びに新嘗祭 1125

 秋山天神社は本庄市児玉町秋山地区西側、小山川の一支流である小平川の東側に鎮座している。埼玉県道287号長瀞児玉線を児玉町から長瀞方向に進み、小山川を越える。その後「総合運動公園 ふるさとの森公園 観光農業センター」の看板が見えるY字路を左折する。300m程進み、最初のT字路を左折すると道幅の狭い道路となるので、対向車量等に気を付けて暫く進むと左側に舗装されていない道があり、そこを左方向に進むと正面に秋山天神社が鎮座する場所に到着できる。
        
                     秋山天神社 正面
 境内の規模は思った以上に広く、手入れも行き届いている。参拝の途中では、近郊に住んでおられる方とも気軽に挨拶を交わすことも出来て、気持ちも安らぐひと時を味わえた。

 案内板によれば、鎮座地である風洞は、当初は秋山村に属したが、元禄八年(一六九五に枝郷風洞分として分村した。その後、明治七年に再度秋山村と合併し、同村の一部となった。当社は、その鎮守として祀られてきた社であり、創建以来、風洞の人々から厚く信仰されてきたという。
             
                鳥居の右側にある社号標柱
 
     鳥居の手前で左側にある社務所       木製の鳥居。社号額には天神社と表記。
        
                              秋山天神社 案内板

 天神社 御由緒 本庄市児玉町秋山二八一三
 □御縁起(歴史)

 鎮座地である風洞は、当初は秋山村に属したが、元禄八年(一六九五) に枝郷風洞分として分村した。その後、明治七年に再度秋山村と合併し、同村の一部となった。当社は、その鎮守として祀られてきた社であり、創建以来、風洞の人々から厚く信仰されてきた。
 この当社の創建の年代は不明であるが、『明細帳』によれば、神職であった吉野家の系譜に、久安三年(一一四七)正月宮居再建とあり、その後しばしば修造や建て替えが行われた旨が記されている。 また、文政五年(一八二二)に、林大学頭の諮問に対して神主吉野伊予が提出した文書には、当社の神体は一尺二寸の木像で、古くから天満宮森に鎮座していたが、慶長三年(一五九八) に地頭の田又久が宮を建立し、更に後年、漢長老賛の天神の絵像を奉納したこと、寛永十三年(一六三六)には、田三平が宮を建立したこと、田美作守の代にも度々修繕がなされたことなどが記してある。
 現在は、棟札や「漢長老賛の天神の絵像」は見当たらないが、右の文書で神体として林大学頭に報告された木像は現存しており、かなり朽ちて手足も欠けている状態であるが、冠を被り、装束を付けた立姿の神像二体が内陣に安置されている。なお、神像はこのほかにも、像高十七、八センチメートルという小振りな座像二体と、それより一回り小さい漢人風の像四体及び像高六八センチメートルの随身像二体がある。
 □御祭神 菅原道真公…学問成就、家内安全、五穀豊穣

                                      案内板より引用
        
                     拝 殿
 
 拝殿上部に掲げてある「風洞天神社」の扁額   向拝部位にも凝った彫刻が施されている。
        
        
                色鮮やかな風洞天神社 本殿

 冒頭でも紹介した「風洞」の地名由来の伝承・伝説は幾つかの段落に分かれていて、時代背景、周辺地域の坂上田村麿呂伝承、地域の名称由来も交えて構成されている。

①昔このあたりを荒らしまわっていた大蛇がその洞穴に住み、その息が嵐のような音をたてたから、「かざあな」から風洞と呼ばれるようになったという。この大蛇は人畜を喰い、田を荒らす悪蛇の主で、困窮した民の話を聞き、平城天皇がこの退治を坂上田村麿呂将軍に命じた。

②坂上田村麿呂将軍が来てみると、被害は大きく人心は動揺し、何も知れないので、まず十条沼周辺の古都・新井・小茂田・十条・沼上に産生神と赤城に向って北面する末社を建て、また八つの薬師を安置し、他にも多くの神仏を祀り、まず村人を安心させ、悪蛇に向かった。

③将軍はなお大日如来に祈願し、十二天神の加護を得ることになり、共に祈祷を行っていた高僧に、霊示があった。曰く、江の浜というところに神木があり、これに申し上げるように、と。そこで将軍はそこへ赴き柳の大木に、願いを通すならすぐ花を咲かせよ、さもなくば直ちに伐り倒さん、と宣言した。するとただちに花が咲き、意を強くした将軍は洞穴に向かった。するとそれぞれ二つの頭をもつ二頭雌雄の大蛇が襲いかかってきた。このとき、その毒息にかかって将軍第一の勇将・椚林小平成身が死んだ。

④夜明けとともに再度現れ出た大蛇は、将軍の弓で一頭の目を射抜かれ、戦意をなくし、追われて馬瀬峠(今の間瀬峠)から甲州へ逃げた。峠からまんじりと将軍を見据え、助けをこうたことから、まんじり峠と言っていたという。

解説すると、①では平城天皇の御代にこの伝説が成立したと記載されている。この平城天皇の在位期間は806年から809年(9世紀初頭)と短く、設定年代が曖昧な伝承が多い中でも、明確な昔話と言えよう。
②児玉地域には坂上田村麻呂が大蛇を退治する民話がいくつか伝えられて、ここでは現美里町、十条沼周辺の「北向神社」の創建に関しての伝承も交えている。
③更に「十二天神の加護を得る」「椚林(くぬぎばやし)小平成身」では秋山十二天社を登場させ、更に秋山地区に隣接する「小平」地区の地名の成り立ちをも紹介している。因みに「椚林」は秋山地区の小字の一つでもある。
④結局のところ、此の大蛇は征伐により、戦意を失い、甲州(現山梨県)に逃げる。この説話は、本庄市宮内・若宮神社の「雨乞屋台」大蛇族の説話にも似ている。
 
「風洞」の地名由来となった説話ではあるが、上記以外のもこの地域周辺の地名の由来に関しても細かく記載されていて(骨波田・間瀬峠等)興味深い伝承・伝説でもある。
 
     拝殿手前で左側には神楽殿        神楽殿の並びには数多くの境内社が並ぶ。
 
 社殿右奥にも境内社や石碑、石祠が鎮座する。   立派な石組みの上には石祠が1基鎮座。
                  
                「村社 天神社」境内碑

村社 天神社
本社殿創立年代不詳然藏近衛天皇御宇久安三年正月宮殿再興古文書及元龜二年改造棟札其古社可證爾後屡加修理慶長三年地頭戸田又久再建寛永十三年有地頭戸田三平改造之擧云王政復古庶績咸熙至明治三十九年被勅定神社神饌幣帛料供進之事四十五年三月十八日本社亦從本縣知事被指定神饌幣帛供進村社之叙其概要以傳後人云爾
大正二年十一月 埼玉縣兒玉郡長從五位勲四等白倉通倫撰并題字 
        秋平尋常小學校訓導吉川鍋六謹書
                                   境内碑 碑文より引用

       
                社殿右側に聳え立つご神木



参考資料 「新編武蔵風土記稿」「
Wikipedia」「埼玉の神社」等

拍手[1回]