古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

腰越熊野神社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡小川町腰越353
             
・ご祭神 伊弉冉命 速玉男命 事解男命
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 例大祭 1015
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0506104,139.2390118,17z?hl=ja&entry=ttu
 増尾白山神社から埼玉県道11号熊谷小川秩父線に合流後、左折して西方向に1.3㎞程進むと、進行方向右側で道路沿いに「村社 熊野神社」の石標柱が見え、そこのT字路を右折する。「自性院」の看板もあるので、住宅街の一角を曲がるのに目印になる。道幅の狭い道路を北上するとすぐ正面に腰越熊野神社の鳥居が見えてくる。
 社に隣接して、真言宗智山派 自性院がある。江戸時代には別当寺であり、当時の神仏習合の雰囲気を醸し出してくれる。
 駐車スペースも真言宗智山派 自性院の専用駐車場に止めてから参拝を行った。
        
                                 腰越熊野神社 一の鳥居

 一の鳥居から暫くはゆるい傾斜の参道が続く(写真左・右)。参拝時、地元の方々が参拝がてらウォーキングをしていた。日々の適度な運動にもなるし、足腰等の筋力維持にもこの参道は適しているのだろう。
 参道を進み始めると右側に広い空間があり、そこには「峯岸四朗翁顕彰之碑」や忠魂碑があった。「埼玉の神社」によれば、昭和9年から11年にわたり大規模な参道改修と神社前庭拡張工事が行われ、腰越熊野神社の氏子総代や自性院の檀徒総代を務めた峯岸四郎が中心となり、七百余名の寄附を募って行われた大規模なものだったようだ。
        
                    二の鳥居
           二の鳥居から先の参道石段は傾斜が急になる。

 地元の方々もウォーキング程度の適度な運動で終了するのであれば、二の鳥居付近で引き返し、元の場所に戻る方もいるし、この石段を登る方は本気で参拝をする人なのであろう。うまい具合にこの鳥居がその境界となっているようだ。筆者の憶測ではあるが。      
 
  二の鳥居の左側にある手水舎と庚申塔    傾斜の急な石段を登る。結構足腰にこたえる。
       
             石段が終わる手前に聳え立つ杉の御神木
                 樹齢二百年を超えるという
        
                  山腹に鎮座する拝殿
 熊野神社 小川町腰越三五三(腰越字北山)
「おくまん様」の通称で親しまれている当社は、氏子区域である腰越一・二区を一望できる山の中腹にあり、閑静なその境内は、樹齢二百年を超えるという大杉をはじめとする山林に包まれている。山の下から続く、境内に至る長い石段の途中には、江戸時代に別当であった自性院があり、神仏習合のころの名残が感じられる
 当社の創祀について、氏子の間では江戸時代中期の安永七年(一七七八)十二月の創建で、宏壮な社殿が造営され、熊野大権現と称して庶民の崇敬が極めて厚かったと言い伝えられている。檜皮葺の屋根を持ち、要所要所に彫刻が配され、古風な趣が感じられる当社の本殿は、棟札等がないため断言はできないが、安永七年の造営当時のものであろう
 神仏分離を経て、明治四年に村社になり、昭和九年から十一年にわたり大規模な参道改修と神社前庭拡張工事が行われた。この工事は、永らく当社の氏子総代や自性院の檀徒総代を務め、信仰心の厚いことで知られた峯岸四郎が中心となり、七百余名の寄附を募って行われた大規模なもので、当時の氏子一三五戸の各々三日間の勤労奉仕を得て竣工したことが境内の石碑から知られる。ちなみに、この工事に使われた石灰石は、腰越中区の落合山から切り出したものである。また、昭和四十四年には、老朽化した覆屋兼拝殿の再建も行われている
                                  
「埼玉の神社」より引用
 
   拝殿に掲げてある趣のある扁額      拝殿左側に鎮座する境内社。
天満宮・大黒天。
        
                   天満宮・大黒天の並びに鎮座する境内社・八坂社。
 
 八坂社から適度に離れてはいるが並びに鎮座する境内社・北山開運稲荷神社(写真左)。また少し離れて観音堂が並びに立っている(写真右)。

 拝殿もそうだが、山腹に鎮座しているので、境内は奥行きはなく、代わりに横に広がる配置となっている。丘陵地面に鎮座する宿命ともいえよう。但し北山開運稲荷神社は二の鳥居付近から稲荷神社特有の赤い鳥居から急な斜面を登る参道があり、実際に筆者は登ってみたが、手すりがついていないと意外と危ないと感じた。
 
 写真ではあまり実感できないかもしれないが、社殿付近から見ると、意外と高い位置に鎮座していることを実感できた(写真左・右)。
 当日の天候も晴天で気持ちよく参拝できたし、何より静かな境内から見る腰越地域の街並みや、遠くに見える山々の美しさを肌で実感できたことは、心を潤す何よりの財産となった。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「小川町の歴史別編民俗編」等
        
       

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小川町 飯田神社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡小川町飯田681
             
・ご祭神 琴平神 貴布禰神(高龗神)菅原道真公                   
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 春季大祭 410日 夏祭り 715日 秋季例大祭 1019
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.058122,139.2414431,17z?hl=ja&entry=ttu
 小川町増尾地区に存在する「穴八幡古墳」から北西方向に進み、小川西中学校を左手に見ながら保育園角のT字路を左折する。道幅の狭い道路なので対向車両等に気を付けながら300m程進むと「飯田神社 入口」の看板が見えるので、そこを左折。すると今まで以上に道幅が狭く、鳥居前に到着するまで車両1台分位しか通れないような道となるので、鉢合わせには注意が必要だ。
        
                駐車場から社の入口方向を撮影。

「埼玉の神社」によれば、飯田神社は「琴平山」の頂に鎮座しており、境内の神楽殿付近からは氏子区域である飯田の集落が一望できるという。元来、飯田の鎮守は、『風土記稿』に記されているように字中島(現在の集落農業センター)に鎮座する貴布禰神社であり、この社は永禄五年(一五六二)に勧請されたと伝えられ、明治初年の神仏分離まではその別当であった長福寺の門前に鎮座していた。それを、大正元年十二月十四日に字打越に鎮座する天神社と共に、現社地にあった琴平神社に合祀されたことによって成立したのが飯田神社という。
 本来ならば村社である「貴布禰神社」の社号を継承すべきであったが、三社が合祀によって一体になったことや、一村一社にふさわしい社名をということで飯田神社と称することになった。
 
 写真を見るように、社周辺には住宅等もない静かな空間。また道幅の狭い道路ではあるが、鳥居前には駐車スペースは数台分確保されているので、路駐する心配はない。
 丘陵地に鎮座する社独特の適度な勾配のある石段に近づく間の興奮する気持ちを抑えつつ、平野部に鎮座する社では味わえない静寂感とある種の荘厳さを感じながら参拝を行う。
 現在の飯田神社自体の創建は大正元年であり、比較的新しい社であること、また飯田神社の創建に際して、時の政府による合祀制作の意向に従って行われたものであろうが、飯田地域住民の希望により、飯田の集落が一望できるこの琴平山」に鎮座させたことは、如何にこの地が地域の方々にとって重要な場所であったかを証明する事柄ではなかったろうか。

       飯田神社 一の鳥居          一の鳥居から石段を登ると二の鳥居が見える。        
「小川町の歴史別編民俗編」によれば、飯田神社は、「琴平様」の通称で知られていて、それは、かつては別々の場所にあった琴平神社・貴布禰神社・天神社の三社を大正元年十二月十四日に統合し、飯田神社として祀るようになった際、琴平神社の境内であった場所に飯田神社が設けられた。
 琴平神社は、創建の年代は不詳であるが、古くから現在の境内にあり、出世開運の神として信仰されてきた神杜である。これら三社を統合して祀る場所として琴平神社の社地が選ばれたのは、一つには琴平神社が小川の町場にも多く崇敬者を持ち著名であったことが上げられ、同時にこの山が飯田の南西端に位置し、大字全体を見渡せる地であったためと思われる。
 
         一の鳥居・二の鳥居を過ぎて、暫く真っ直ぐな石段を登る。
 途中踊り場も存在し、休みながら比較的長めの石段を登り続ける(写真左)。その後石段は一旦突き当たりとなり、やや右側方向に進路を変えて境内の空間に行きつく(同右)。
        
           長い石段の先に、やっと飯田神社の境内が見えてくる。
        
                       飯田神社 山頂ながら比較的広い境内
「埼玉の神社」によれば、合祀する前の琴平神社は境内が狭かったため、貴布禰神社を迎えるに当たり、氏子は日役で境内の造成を行ったという。地域住民の方々の苦労を鑑みると唯々脱帽するばかりだ。
 
         神楽殿                   拝殿付近
                      傾斜を均すためか、ここも石段で整地されている。
       
                                    拝 殿
 飯田神社(飯田六八一)
 飯田神社は、「琴平様」の通称で知られている。それは、かつては別々の場所にあった琴平神社・貴布禰神社・天神社の三社を大正元年十二月十四日に統合し、飯田神社として祀るようになった際、琴平神社の境内であった場所に飯田神社が設けられたためである。
 琴平神社は、創建の年代は不詳であるが、古くから現在の境内にあり、出世開運の神として信仰されてきた神杜である。貴布禰神社は字中島(現在の集落農業センター)に祀られており、江戸時代から飯田の鎮守として祀られてきた神社であったことから明治以降は村社となっていた神社である。最後の菅原道真公を祀る天神社は、字打越に祀られていた神社で、学問の神として信仰されてきた。
 これら三社を統合して祀る場所として琴平神社の社地が選ばれたのは、一つには琴平神社が小川の町場にも多く崇敬者を持ち著名であったことが上げられ、同時にこの山が飯田の南西端に位置し、大字全体を見渡せる地であったためと思われる。また、末社の石船社は、明治二十七年まで長福寺の裏山に把られていたもので、戦前神体の石船を用いた雨乞いがしばしば行われていた。
                                                        「小川町の歴史別編民俗編」より抜粋

       境内に祀られている石祠(写真左)、また鎮座する境内社(同右)
 拝殿左側奥には火光天等の石碑が祀られている(写真左)。飯田神社では10月に秋の大祭(収穫祭)があり、秋の大祭の前日には宵宮祭(よいみやまつり)が執り行われる。この宵宮祭では「火光天」という神様に捧げものを並べ祀る。この火光天の前で神主が祝詞をあげ、その後捧げ物等を蠟燭の火で燃やすという、所謂「火祭り」が行なわれているという。
 境内に設置されている「飯田神社本殿改築記念碑」には火光天に関して、「昔から十月の秋祭りの宵の晩に氏子の家から集めた粗朶薪を焚く火祭りが行われている昭和の中頃一時中止されたがその後間もなく地区内に大火が発生したため復活した」と記載されている。
 この「火光天」は仏教の護法善神である「天部」の諸尊12種の総称である「十二天(じゅうにてん)」の中に存在する「火天(かてん)」と思われる。
 十二天は四方(東西南北)四維(北西・南西・北東・南東)の八方を守護する八方天、上下の二天、日天・月天の十二の天部、つまり東・帝釈天、東南・火天、南・焔魔天、南西・羅刹天、西・水天、西北・風天、北・多聞天、北東・伊舎那天、上方・梵天、下方・地天、日天、月天である。

 拝殿右側に並んで鎮座する境内社(同右)。左側から「日枝神社」、「合祀 稲荷神社・石船神社・天手長男神社」、「津島神社」。
                 
            拝殿右側に鎮座する境内社群の並びにある
昭和十四年秋建立の蠶桑之碑」
           この地域も養蚕業が生活の糧の一つととなっていた。
        
                    境内に設置されている「
飯田神社本殿改築記念碑」
「飯田神社本殿改築記念碑」
 由来
 この飯田の集落には字中島に永禄五年勧請と伝えられる鎮守の貴布祢神社を始め 字打越に天正三年勧請と伝えられる天神社 字日附田で現在地の琴平神社に 大正元年十二月十四日政府の合祀政策により上記三社を合祀し飯田の集落が一望できるこの琴平山を鎮座地として選定し同時に社号を村社飯田神社と改称したといわれる
 また境内社は 明治二十七年に地内各所から貴布祢神社境内に集められていた石船神社 津島神社 天手長男神社 稲荷神社 日枝神社の五社が大正元年の合祀の際移転され末社として祀られ さらに本殿の裏山に二つの祠に祀られている 一つは火光天という火防せの神で もう一つの神は定かでない
 火光天については 昔から十月の秋祭りの宵の晩に氏子の家から集めた粗朶薪を焚く火祭りが行われている昭和の中頃一時中止されたがその後間もなく地区内に大火が発生したため復活したといわれる
 当社はもともと現在地に琴平神社があったことや三社のうち琴平神社が開運招福の神樣として有名であることから通称こんぴら樣と呼ばれて毎月十日に行われる月並祭には開運や商売繁盛のご利益にあやかろうと遠近より参詣者が訪れる
 合祀以来八十余年の歳月を風雪に耐えてきた本殿も老朽が著しく氏子の中から改築の声があがっていた 昭和六十二年にプリムローズカントリークラブが当地域にゴルフ場開發を計画することになり 同社と飯田区ゴルフ場対策委員会の協定により飯田神社本殿の改築工事が行われる運びとなり改築工事は平成四年十月着工され翌五年三月三十一日に落成した 同年四月十一日春季大祭にあわせて遷座祭を挙行し清水宮司を祭司とし多ぜいの神官を始め建築関係者近隣の崇敬者氏子を招いて盛大に行われた 改築にあたり、プリムローズカントリークラブを始め多ぜいの崇敬者から多額の浄財を神納いただいたので 諸祭具を新調したほか諸行事を行うことができた ここに関係者各位に感謝の意を表し神社の由来並びに改築経過を記念碑に刻して後世に伝える(以下略)
                                      案内板より引用
        
                             境内から石段方向を撮影。
 残念ながら現在木々に遮られて、案内板等に書かれているように、飯田地域を見渡せることはできなかった。
        
                            参道の石段から鳥居方向を撮影


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「小川町の歴史別編民俗編」「Wikipedia」等
                  

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諏訪神社古墳

諏訪神社古墳
        
             ・所在地 群馬県藤岡市藤岡495(字東裏)
             
・形 状 前方後円墳
             ・規 模 墳丘長57m 高さ4m(後円部)
             ・埋葬施設 両袖式横穴式石室(切石積み)
             ・出土品 人骨・装飾付大刀・武器・武具・馬具・須恵器・埴輪
             ・築造時期 6世紀後半
             ・史 跡 藤岡市指定史跡

 上州藤岡諏訪神社の基底部には、墳丘長57m 高さ4m(後円部)の前方後円墳である諏訪神社古墳が存在する。神流川西岸の沖積地に築造された古墳で、築造時期は6世紀後半と推定されている。昭和49326日市の史跡に指定された。
        
             墳丘上に上州藤岡諏訪神社社殿が鎮座する。
 正面が前方部で、社殿の背後が後円部。右手が南方向で後円部の石室は南西面に開口している。
        
                   墳形は前方後円形で、前方部を西方向に向けている。
          社殿から参道を撮影した方向が丁度前方部先端にあたる。
        
                                 後円部の北東側にある池
    嘗て墳丘周囲には周濠が巡らされ、現在も北側に池がその名残りとして存在している。
 墳丘外表では円筒埴輪(朝顔形埴輪含む)・形象埴輪(靫形・鞆形・人物埴輪など)が認められているが、葺石は明らかでないとのことだ。

 その池の先には「諏訪神社北古墳」と云われる古墳が存在する。現在は墳丘上に高山長五郎頌徳碑・町田菊次郎頌徳碑(いずれも藤岡市指定重要文化財)が建っている。残念ながらこちらの古墳はカメラの容量の関係で近くで撮影できず、遠くから古墳の形態を感じ取るしかない。
 墳形は円形で、直径25m・高さ2mを測る。墳丘外表で葺石・埴輪の有無は明らかでない。埋葬施設は両袖式の横穴式石室で、南南西方向に開口する。截石切組積みによって構築された整美な石室であり、石室内からは多数の遺物が出土したという(現在は所在不明)。築造時期は古墳時代後期の6世紀後半頃と推定され、諏訪神社古墳と同時期の築造と位置づけられている。
 埋葬施設は両袖式横穴式石室で、南南西方向に開口する。石室の規模は以下の通り
 石室全長 3.8m
 玄室 長さ3.4m、幅1.71.8m、高さ1.651.7m
 石室壁の石材は凝灰岩の切石で、切組積みによって構築される。奥壁は一枚石で、奥壁・側壁とも内傾する。玄室の床面は羨道よりも0.18m低く、拳大の転石の上に川原砂を敷く。天井石は牛伏砂岩。
 石室内からは多数の遺物が出土し、県庁に届けられたというが、現在は所在不明となっている。
 
 社殿の奥に鎮座する境内社(三峯社・阿夫利社・大神宮・豊受社・稲荷神社)付近が丁度後円部となり、社殿を右回りに進むと下る石段が見え、そのルートを素直に進むと境内社・大国神社に到着するが、石段が終わり、鳥居を過ぎてから左方向に進むと古墳の開口部に到着する(写真左)。石段終了地点から社殿方向を見上げると、朱色の境内社群が見える(同右)。
        
                 諏訪神社古墳開口部地点
 説明板と標柱が立っていて、標柱には「藤岡市指定史跡 諏訪古墳」と記されている。埋葬施設は両袖式の横穴式石室で、南西方向に開口しているという。
       
                 「諏訪古墳」案内板
諏訪古墳
所在地 藤岡市藤岡495
所有者 諏訪神社
古墳は、全長57メートル、後円部径37メートル、高さ4メートルの前方後円墳で、墳頂部に諏訪神社社殿が建てられている
明治39年、柴田常恵氏により発掘調査が行われ、西南に開口する両袖型横穴式石室が確認された。石室は全長5.9メートルの切石積みで、玄室の奥に棺座を区画する間仕切り石、玄室入口には二石の框石が設置されている。石室内からは、人骨、銀環、単鳳環頭大刀・直刀・刀子・衝角付冑・挂甲小札・鉄鏃・弓弭(ゆはず)金具・須恵器・馬具などが出土している。また、後円部北側から東側の墳丘にかけて埴輪(円筒・朝顔・靫・鞆・人物)が出土している。石室の構造や出土品から6世紀後半に造られたと推定される。
藤岡市教育委員会
                                       案内板より引用


参考資料「藤岡市公式HP」「Wikipedia」等
    

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上州藤岡諏訪神社

 藤岡市は群馬県の南西部に位置し、東は埼玉県上里町・神川町、西は高崎市・甘楽町・下仁田町、南は神流町・埼玉県秩父市、北は高崎市・玉村町と隣接。総面積は180.29平方キロメートル。鮎川(あいがわ)や神流川(かんながわ)が運んできた土砂が堆積してできた扇状地で、真ん中に庚申山丘陵 (独立丘陵) が分布していて、緑と清流に恵まれた山紫水明な地である。
歴史は古く、古墳時代の史跡も多く発見されている。室町時代には関東管領職にあった上杉憲実が平井城を築城した。江戸時代は日野絹の集散地として栄え、明治以降は高山社に代表される養蚕業の先進地、また木材の集積地として発達してきた。
 明治22年の町村合併の際に、藤岡町と小林村が合併してできた「藤岡町」が基になっていて、その後昭和29年、藤岡町と神流村・小野村・美土里村・美九里村の隣接14カ村が合併して市制を施行、翌年には平井・日野両村を編入、平成1811日に鬼石町と合併し、現在の藤岡市となっている。
 この「ふじおか」という地名の由来には諸説あるが、日蓮上人が大きく関わっているとされている。日蓮上人は、流刑地である佐渡に向かう途中、この地に立ち寄り地元の名士であった長谷川長源の屋敷に宿泊した。文応11年(1274年)、日蓮上人が佐渡から京に帰る際、再びこの地に立ち寄ると、長源の屋敷は「長源寺」というお寺に変わっていて、その立派さに感激した日蓮上人は、当時の常が岡 鮭塚(ときがおか さけづか)に八軸の経をおさめ、富士山の分霊を呼び奉った。このことから、「富士岡」(ふじおか)と呼ばれるようになったと言われている。
        
              
・所在地 群馬県藤岡市藤岡495
              
・ご祭神 健御名方神 八坂刀売神
              
・社 格 不明
              
・例 祭 諏訪神社春季例大祭 48日 夏越大祓 630日 
                   
諏訪神社秋季例祭 1017日 年越大祓 1231
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2403546,139.0810539,17z?hl=ja&entry=ttu

 本郷土師神社から十石街道を1.5㎞程北上すると藤岡市街地内に鎮座する上州諏訪神社。訪問時間は夕方で車両の交通量も多い時間帯であり、十石街道自体は決して道幅が広い道路ではないので、進行方向に対して右側に鎮座している社の専用駐車場に入る際に対向車両の関係で少し手間取ったが、街中にありながら境内は広く、駐車スペースも完備されている。後日確認すると藤岡市では一番大きな社であるそうだ。
 但し当日参拝場所が多く、当初本郷土師神社で終了する予定であったこと、偶々藤岡市市街地に立ち寄ったところ、この社を確認したが、残念ながらカメラの容量が残り少なく、撮影できる枚数が少なくなっている。心配しながらも参拝を行った。
            
                十石街道沿いに社は鎮座していて、社号標柱が目印となる。
    古くから「お諏訪様」と呼ばれ、氏子九ヶ町の氏神として信仰されてきたという。
        
                    参道の様子
 境内は広く、整然としている。周囲の手入れも行き届いていて、気持ちよく参拝ができた。
        
        鳥居を過ぎると正面に石段が見え、その高台上に社殿が見える。
            どうやらこの社は社殿が西向きであるようだ。
       
               参道右側に聳え立つご神木(写真左・右)
 
     ご神木の右並びにある神楽殿           石段の手前で左側に「由緒」と記
                           した石碑がある。
        
                     拝 殿
 拝殿左右にある天水桶が大釜の形状になっているのが面白い。またその前の狛犬の形が変だと思ったら「狛虎」と呼んでいるようだ。

 歴史・由緒
 およそ1100年前、上野国緑埜郡正四位椙山明神として、明神の荒魂と和魂をそれぞれにお鎮めし、上、下の2社としてお祀りされていました。
 永享3年(1431年)、有田大舎人小属定景が常岡城に居城するにあたり、諏訪大社の上社・下社を勧請して、上社は男神、下社は女神として、2社を崇敬祭祀していました。
 永禄9年(1566年)、芦田下野守信守が藤岡城に居城するにあたり、同年727日、信濃国一之宮諏訪大社の上社、下社から剣一口、鏡一面を請い受け、神霊として南山に上社、当社(現在の諏訪神社の場所)に下社を奉斉しました。
 天正18年(1590)、信守の孫、右衛門大夫康貞が居城するや、祖父の発祀せる上社、下社を以て牙城の守護となし、社殿を造営し祭田を寄進して別当をも定めました。
 慶長5年(1600年)、芦田氏故あって藤岡城を廃されたが、郷民はなお崇敬し祭祀を継続しました。芦田氏奉斉依頼、御神威は四方に輝き、藤岡領すなわち、当所他17ヶ村の総鎮守として崇拝せられてきました。
 しかし、明治初年の神社制度改正の砌、各町村に村社が置かれることとなり、当町を除く他の17ヶ村は氏子と称せず信徒として、祭礼には獅子舞や神楽舞等を奉納し、当社より各村毎戸に神符を頒布するを例としました。
 明治の神社制度改正に倣い、上社は下社に合祀されました。
また、明治元年(1866年)~明治34年(1901年)12月迄、当社はその地域の名から、「高山神社」という社名でした。
                              「上州藤岡諏訪神社HP」より引用

        
                           本殿より社殿全体を撮影
               現在の本殿、幣殿、拝殿及び神楽殿は、嘉永3年(1850)の建立
        
          社殿の左奥に水天宮を祀る池があり、朱塗りの太鼓橋が景観的に美しい。

 太鼓橋を渡った奥には「高山長五郎功徳碑」がある。養蚕改良高山社を創始した高山長五郎の生前の功徳を伝えるために明治24年に建てられた。その左には、「町田菊次郎頌徳碑」がある。高山長五郎亡き後、養蚕改良高山社の二代目社長として高山社の名声を高めた町田菊次郎の功労をたたえたものだ。いずれも市指定重要文化財になっている。
        
                       本殿の奥に境内社が並んで鎮座している。
       左から「三峯社」・「阿夫利社、大神宮、豊受社」・「稲荷神社」
         
                  社殿から参道を撮影

 上州藤岡諏訪神社の鳥居近くにある一対の石燈籠は、天保2年(1831)三井越後屋から奉納されたもので、中段には三井の紋がある。手水舎は、安政4年(1857)、三井八郎右衛門から奉納されたものだ。「藤岡市まちなか絹市歴史散歩まっぷ」によると、「藤岡の絹市は京都や江戸、大阪から多くの商人が集まり、東西の動堂町(ゆるぎどうちょう)通りと南北の笛木町(ふえきちょう)通りが交替で、上州最多の12回の市が立ちました。」と書かれているので、江戸時代の豪商三井家と藤岡地域は深い関係があったようだ。


 乗数藤岡諏訪神社の社殿南側には、鳥居のある立派な境内社である・八坂神社、大國神社、天満宮など多くの末社が鎮座している。残念ながらカメラの容量の関係で、大国神社しか撮影できなかった。
 
               境内社・大国神社(写真左・右)


参考資料「上州藤岡諏訪神社HP」「藤岡市まちなか絹市歴史散歩まっぷ」
    「藤岡市公式HP」「藤岡市役所 企画部 地域づくり課」「Wikipedia」等
 

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本郷土師神社

『日本書紀』によれば、垂仁天皇の時に、野見宿禰(のみのすくね)が出雲から300人余りの土師部(はじべ)を呼び、土で人馬やいろいろな器物を作り殉死を防いだことが記載されています。これが埴輪起源説と伝えられています。現在、「野見」や「土師」と呼ばれる地域には埴輪を焼いた窯が多数確認されています。10世紀ごろに成立したとされる『和名類聚抄』によれば、藤岡市域は緑野郡と呼ばれ、土師郷があったことが記されています。おそらく野見宿禰を祭神とする土師神社が鎮座する地域が土師郷と推定されます。祭神は野見宿禰(のみのすくね)で、上野国神名帳に正五位上土師大明神とあります。
 境内には市指定の土師の辻
(相撲壇)や歌碑「土師の杜」等があり、参道の脇には欅や杉の大木がそびえています。春祭りに太々神楽、秋祭りに獅子舞が奉納されます。また、平成13年に花馬、平成14年に流鏑馬が復活しました。
 *藤岡市公式HPより引用
        
               
・所在地 群馬県藤岡市本郷164
               
・ご祭神 野見宿禰
               
・社 格 旧郷社
               
・例 祭 秋祭り 10月第3日曜日
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.229473,139.0754979,16z?hl=ja&entry=ttu

 本郷椿社神社から北方向に十石街道沿いを1.3㎞程進むと本郷土師神社に到着できる。地図を確認すると、小林風天神社と本郷椿社神社との丁度中間に位置するようである。社の東には、埼玉県との県境の神流川が流れていて、肥土廣野大神社の西側、直線距離にして1㎞程しか離れていない。この肥土地区は元々上野国粶野郡村波爾(土師)郷内に属していた。神流川も今より東側の平野部を流れていたが、洪水等の災害により、流路が現在の場所に移り、元禄十四年(1701)から武蔵国に属するようになり、賀美郡肥土村に改称したという経緯がある。肥土廣野大神社のご祭神は野見宿禰の先祖と云われている天穂日命で、本郷土師神社と文化圏を共有する社と言えそうであり、古代の土師部の集団である出雲族の一族で、出雲から信州へ、そして東山道経由で上野国にたどり着いた一派と考えられている。
 というのも10世紀ごろに成立したとされる『和名類聚抄』によれば、藤岡市域は緑野郡と呼ばれ、土師郷があったことが記されている。因みにここでは「波爾之(はにし)」と註していて、嘗て「土師」は「波爾之」とも呼ばれていた。考察するに、おそらく野見宿禰をご祭神とする土師神社が鎮座する地域の多くは土師郷と推定されているのであろう。
        
               十石街道沿いにある朱の両部鳥居
 この社は「土師」と書いているので、「はじ」または「はに」と読むとばかり思っていたが、当社は「どし」と読むそうだ。古代の外来語起源の語であるかもしれない。地形や川の流れとの相対的位置関係等から見て,土師神社お鎮座地一帯には,古代においては,埴輪窯や関連施設等が存在した可能性が高い。土師神社の北東約150mのところには,本郷埴輪窯址の遺跡がある。
        
                                  長く続く参道
 100m程は有りそうな砂の参道。馬場になっているようで、流鏑馬などの神事が行われるらしい。
        
      参道を進むと右手に「土師の辻(相撲辻)」と呼ばれる相撲の土俵がある。

 土師の辻 
 所在地 藤岡市本郷一六四  
 所有者 土師神社
相撲辻とは、屋外で行った相撲の土俵とその場所を意味している。土檀(土俵)は伏せたすり鉢状で、高さ一六〇センチ、上円部径四九五センチ、基底部一三〇〇センチ、傾斜二二度、斜長四五〇センチを測る。
「日本三辻の一」と称される。他の二辻は摂津国(大阪)住吉神社と能登国(石川)
羽咋神社である。
明治以降は使用されていないが、それ以前は出世力士が披露相撲を行うのが例で勧進相撲が奉納されたが、幕内力士でなければ相撲檀に上がれなかった。
                                      案内板より引用
 
   参道を進むと正面に割拝殿があり。         割拝殿内部(天井部撮影)
        
                               参道左手にある神楽殿
 10月に行われる土師神社の秋祭りでは、地元では有名な伝統芸能が披露されている。古くから執り行われていた「獅子舞、花馬、流鏑馬」の伝統芸能で、一時期は継ぐ者がおらず、長らく中止となっていたが、それを平成13年ごろに復活させ、現在まで大切に守り継いでいるという。
        
                                        拝 殿
 
      拝殿に掲げてある扁額         拝殿手前左側には「相撲額」も設置
  「正五位上土師明神」と記されている。
 相撲額
 所在地 藤岡市本郷下郷一六四
 所有者 土師神社
 土師神社祭神野見宿禰は相撲の神様と仰がれていた。
 この境内にある相撲辻は日本三辻の一つと称され、古来出世力士はこの辻で披露相撲を行った。又勧進相撲も行われたがその折、祭神にお礼と相撲の上達を祈願して相撲額を奉納された。
 この相撲額はこれらを証するもので、文化史の上からも貴重である。
                                      案内板より引用
       
                   社殿の奥に聳え立つご神木(写真左・右)
         
                     本 殿

 土師氏(はじうじ、はじし)は、「土師」を氏の名とする氏族で、天穂日命の後裔と伝わる野見宿禰が殉死者の代用品である埴輪を発明し、第11代天皇である垂仁天皇から「土師職(はじつかさ)」と土師臣姓を賜ったと言われている。
 この天穂日命は天照大御神と須佐之男命が誓約をしたときに生まれた五男三女神の一柱であり、天孫の父である天忍穂耳尊とは兄弟である。『古事記』『日本書紀』では、葦原中国平定のために出雲の大国主神の元に遣わされたが、大国主神を説得するうちに心服して地上に住み着き、
3年間高天原に戻らなかったという。一方、出雲の豪族である出雲国造が朝廷に参内して披露する『出雲国造神賀詞』の中では、きちんと任務を果たし、子の天夷鳥命らを天降らせたりして、大国主神に国を譲らせるのに功があったことになっている。また『日本書紀』でも一書(別伝)では、国譲りののちのこととして、大国主神を祭る神として指名されたりしている。
 天穂日命は天津神の中でも毛並の良い直系統に当たる神でありながら、上記のような二面性が生じている原因について確固たる説はないが、その背景となる状況を推測するならば、おそらくこの神は、元来出雲氏一族が祭っていた出雲の地方神であり、記紀神話ができ上がっていく過程で出雲地方を舞台とする神話が重要度を増し、膨れ上がっていくのに連れて、高天原の神として取り込まれるようになった可能性も否定できない。

             境内に祀られている石祠群(写真左・右)
       
                      社殿北側にも朱の鳥居が設置されている。


*本郷土師神社の北方150m程、十石街道沿いに「本郷埴輪窯址」がある。
       
 本郷埴輪窯址  国指定史跡
 指定日  昭和191113
 所在地  藤岡市本郷
 県内の埴輪生産については、太田地域と藤岡地域の2地域が一大生産地として知られています。藤岡地域では、神流川流域の本郷埴輪窯址と鮎川流域の猿田埴輪窯跡の2地点があります。このうち本郷埴輪窯については、明治39(1906)に柴田常恵氏により発見されました。そのあとの発掘調査により、5世紀後半から6世紀末まで操業していたことが確認されています。
 この窯址は昭和1819(19431944)に発掘調査が行われ、2基の窯址が発掘調査されました。このうち、もっとも依存状態が良かった1基が覆屋で保護され、見学することができます。
 窯の構造は全長約10メートル、幅1.8メートルの大型の登り窯で、窯の中から多くの埴輪が出土しています。
                                   
藤岡市公式HPより引用

なお文化庁はこの窯跡について、次のように解説している。

「丘陵の東南面傾斜地に營まれたるものにして二箇所ありて孰れも登窯の形式を示せり一は前部と後部との二分に分たれ前部は喇叭口状に擴がれり、後部は約30度の傾斜をなし長さ約135寸幅約4尺を有し略々圓筒状をなせる如く側壁及底床は堅緻なる粘土を以て構成せられたり、前部は長さ約18尺幅約6尺を有し約10度の傾斜をなし後部に近き区域は焚口部をなせるものと認められ埴輪馬を初め各種の形象埴輪破片等散乱せり、一は其の北方約13尺の位置に位し略々同様なる形式を示し後部の長さ約16尺幅約5尺あり前部の区域より埴輪圓筒破片、埴輪馬破片、埴輪武器破片等出土せり。 我国に於ける上代埴輪窯の構造を示すものとして価値あるものとす。」
                          「文化庁 文化遺産オンライン」より引用



参考資料「文化庁 文化遺産オンライン」藤岡市公式HP」「日本歴史地名大系」
    Wikipedia」等

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