古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

西本宿浅間神社

人の体には、知らぬ間に疫病やら災厄やらが取りついていると信じられてきた。俗にいう「穢(けが)れ」が溜まっていき、それが害悪をもたらすのだ、と昔の人々は信じていた。
基本的に「フセギ」行事は、春から夏にかけて伝染病などの悪病が流行しないようにと村境にお札や藁で作った龍などの作りものを立てかける行事で、村境に立てるのは、こうした悪病が村内に入って来るのを防ぐ意味がある。
比企郡、入間郡内では様々なフセギ行事が行われている。その中に「後本宿のフセギ行事」があり、東松山市公式HPには以下のように紹介している。

後本宿のフセギ行事 平成18年(2006年)324日(東松山市指定文化財―無形民俗)
フセギは病気や災害などの悪いものが地区に入らないよう防ぐための民俗行事です。厄災除けの祈りを込めて作った藁のオブジェを地区の入口や辻などに取り付けて悪霊の侵入を防ぎます。
フセギに表現される様々な部材はそれぞれ大きな意味を持ちます。大きなわらじはその地区に悪霊をも倒せるほどの大男がいることを表し、同時に足腰が衰えないよう祈願する意味もあります。サイコロは侵入者に対し、いろんな「目」で見ていることを表しています。男女の生殖器の表現は、立ち入りをけん制する意味のほか、子孫繁栄などの意味も併せ持っていたと考えられています。後本宿のフセギ行事は2月の第一日曜日に行われ、字の入口にあたる5
か所の辻に設置します。桟俵(笠)とサイコロが特徴です。

 比企郡、入間郡内での「フセギ行事」の背景には、このように様々な工夫をこらして、集落内に流行病などの悪いものが入らないようにしたいという、人々の切実な願いがこもっている伝統ある行事と言えよう。
        
            
・所在地 埼玉県東松山市西本宿996
            ・ご祭神 木花咲耶姫命
            ・社 格 旧村社
            ・例 祭 春祭り 415日 初山祭 714日 例大祭 113
                 秋祭り 1214
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0099887,139.3915674,17z?hl=ja&entry=ttu
 葛袋神社から一旦北上して埼玉県道41号東松山越生線に合流後右折し、東方向に進路をとる。関越自動車道を潜り抜け、「葛袋」交差点を直進すると、344号高坂上唐子線と県道路線変更となるが、そのまま道なりに進む。県道は都幾川の流路に沿って南東方向になるが、800m進んだ十字路を右折し、暫く進むと左手に西本宿浅間神社の鳥居が見えてくる。実のところ県道の十字路右対角線上に広がっている森は社の社叢だったようだ。
        
                          道路沿いに鎮座する西本宿浅間神社
 
      木々の間に鳥居が屹立している。      鳥居の社号額「富士浅間神社」と見える。
        
                     境内は思った以上に広く、静寂な空間が一面に広がる。
              参道の先で石段上に社は鎮座している。
        
 都幾川と越辺川に挟まれた高坂台地北端に分布する諏訪山古墳群の36号墳。前方後円墳の後円部の上に富士浅間神社が鎮座しているので、別称・浅間神社古墳と言われる。東南方向に前方後方墳(諏訪山29号墳)、前方後円墳(諏訪山35号墳、市史跡)が並列している位置関係にある。前方部は削平されている。後円部の径27.1m。高さは4m程と考えられている。

諏訪山(すわやま)36号古墳
墳 形 前方後円墳 築造時期 5世紀? 規 模 径27.1m 高さ4
29号墳…全長約53m 前方後方墳 4世紀前葉(推定)
 1960年(昭和35年)の日本セメントの引込線の敷設工事による破壊とその後の崩落により北側の半分以上が失われている。当初は前方後円墳とみられていたが、1984年(昭和59年)の調査で墳長53mの前方後方墳であることが明らかにされた。出土した土師器から4世紀前半から中頃の築造とみられている。
〇35号墳…全長約68m 前方後円墳 4世紀後半末 県内の前方後円墳では最古級
 29号墳の前方部右前方に所在する前方後円墳で、1957年(昭和32年)1129日に東松山市指定史跡に指定された。墳長68m、後円部径40m、高さ9m、前方部幅30m、高さ4m。諏訪山29号墳との位置関係や埴輪、葺石が存在しないことから4世紀後半の築造と考えられる。
        
                           石段上に鎮座する西本宿浅間神社
 
 諏訪山古墳群はその連番が示す通り多くの古墳から構成されているが、29号墳と35号墳は前期の古墳として別格であり、それ以外の後期に群集する古墳とは別個に検討する必要があると考える。ただ、別個とはいっても大きな目立つ古墳のすぐ近隣に群集墳を築造しているわけであるから、それら後期の人々は前期の王と系譜的に繋がりがある者か、そうでなくても関連性を強調しようとしていた一族というのは間違いないと思われる。
        
                     拝 殿

 浅間社 東松山市西本宿九九六(西本宿字富士原)
 富士浅間に見立てた前方後円墳の墳丘上に鎮座する当社は、木花咲耶姫命を祀り、本宿(元宿とも書く。明治十二年から西本宿)の鎮守として、住民から厚く信仰されてきた。
 大同年間(八〇六-一〇)、征夷大将軍坂上田村麻呂が東征の途中、岩殿山中に棲む悪竜が近郷の人畜を害していたことを聞きつけ、日ごろ崇敬する富士浅間の神体を当地に安置して祈願をしたところ、悪竜の居場所を知ることができ、見事これを退治したというはなしが、田村麻呂が奉安したという富士山の霊石とともに伝えられている。
 また、関東管領足利基氏が当社を深く崇敬し、貞治元年(一三六二)に社殿を建立したといわれ、更に元禄六年(一六九三)から正徳四年(一七一四)にかけて改築が行われている。
『風土記稿』は元宿村の項で、当社について「浅間社 村の鎮守なり、常安寺持」と触れている。ここに記された常安寺は、本宿の地内にあり、同じく『風土記稿』によれば「開山豪讃和尚文永三年(一二六六)二月十五日寂す」と伝えられる中世開山の天台宗の寺である。
 神仏分離の後、この常安寺の管理を離れた当社は、明治四年に村社に列し、同八年の屋根葺き替え、大正五年の社殿再建などを経て、現在に至っている。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
          本 殿            
本殿左脇には境内社・三峯神社が鎮座
        
                           墳頂から見た参道

 神社前の参道部分に円形の土俵のような土盛り部があり、相撲を奉納したのかもしれないが,土俵にしては土が薄すぎるので,詳細は不明。
 但し西本宿地区には「西本宿の獅子舞」あり、その獅子舞がこの社の土俵上で奉納されているかもしれない。

西本宿の獅子舞】
獅子舞に関する資料の中で「武士の家に行きしときの唄」というものがあることから、西本宿の獅子舞は江戸時代中期ごろから始まったと推測されています。
総代宅から富士浅間神社までの約1キロメートルを「街道」と呼ばれる笛の曲と「逸子」の「ほーい」という掛け声に合わせて獅子の行列が向かいます。
西本宿の獅子舞の特徴は「富士山の衣装」と跳ねて廻る「鹿獅子」と呼ばれる動きの激しい舞です。特に最後に行う頭を大きく振り、足を高くあげる「大狂い」と呼ばれる勇壮活発な舞は、西本宿の獅子舞の特徴をよく表しています。
3匹の獅子の見分け方は、背中の帯の色で、青が中獅子、赤が雌獅子、黄が宝冠獅子です。獅子の腰に差した帯の色と同じ2本の幣束は安産のお守りになると言われています。また、この神社では714日に子どもの成長を願う初山祭が行われており、子どもに関する云われが多い地区のようです。
西本宿の獅子舞では、舞の最中に舞の意味や流れを説明したナレーションがあり、物語のように見ることができます。
開催日 10月の最終週土・日曜日 開始時期 江戸時代中期頃

【三人獅子舞】
 獅子舞には、胴体部分に1人若しくは複数の人が入って舞うもの(伎学・神楽系獅子舞)と、1人が1匹を担当し、腹にくくりつけた太鼓を叩きながら舞うもの(風流系獅子舞)があります。前者は主に西日本で、後者は主に関東・東北地方で舞われることが多く、東松山市内でも後者の獅子舞が、神社の祭りなどで舞われています。また後者の獅子舞は、3匹で舞うことも特徴で、「三匹獅子舞」と呼ばれたりもします。
 東松山市は獅子舞が盛んな地域です。獅子舞は、五穀豊穣を祈願・感謝したり、地区の悪病退 治、雨乞いなど、様々な目的で舞われ、地域ごとに特色があります。
                                  東松山市公式HP
より引用


参考資料 「新編武蔵風土記稿」「
嵐山町Web博物誌」「東松山市公式HP」「Wikipedia
       

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上唐子白山神社

「菊理媛神(ククリヒメのカミ、ククリヒメのミコト、キクリヒメのミコト)」は加賀(石川県)の霊峰白山を御神体とする白山比売神社のご祭神である。
全国約三千社にのぼる白山神社の総本社である白山比咩神社(石川県白山市)の社伝では、「白山比咩大神(=菊理媛尊)」として以下の言い伝えを記述している。

『日本書紀』によると、天地が分かれたばかりのころ、天の世界である高天原(たかまのはら)に、次々と神が出現し、最後に現れたのが、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)と伊弉冉尊(いざなみのみこと)でした。この男女の神には、国土を誕生させる「国生み」と、地上の営みを司る神々を誕生させる「神生み」が命じられました。
伊弉冉尊が火の神を出産した時のやけどで亡くなってしまうと、悲しんだ伊弉諾尊は、死の国である「黄泉の国」へ妻を迎えにいきます。ところが、醜く変わった妻の姿を見て伊弉諾尊は逃げ出してしまい、怒った伊弉冉尊は夫の後を追います。
黄泉の国との境界で対峙するふたりの前に登場するのが菊理媛尊で、伊弉諾尊・伊弉冉尊二神の仲裁をし、その後、天照大御神(あまてらすおおみかみ)や月読尊(つくよみのみこと)、須佐之男尊(すさのおのみこと)が生れます。(中略)菊理媛の「くくり」は「括る」にもつながり、現在は「和合の神」「縁結びの神」としても崇敬を受けています。
                                   白山比咩神社HP
より引用

 但し神話上において、この神は『古事記』や『日本書紀』正伝には登場せず、『日本書紀』の異伝(第十の一書)に「一書曰」と一度だけ出てくるのみであり、日本神話上の神でありながら、天津神であるか国津神であるか、どのような系統・系列の神様で、そもそもどこから来られたのか、全く謎の神様である。この説話でも日本神話らしい、曖昧で正直よく分からない流れである。因みに伊弉諾尊・伊弉冉尊を仲介した際に、菊理媛神が何を言ったのか、伊弉諾尊はどうして誉め、なぜその後去ったのかは不明で、一切書かれていない。ただし、菊理媛神により、伊弉諾尊・伊弉冉尊の夫婦喧嘩が収まったのは事実である
 伊弉諾尊・伊弉冉尊にとって菊理媛神はどのような立場に位置する神であったのだろうか。
 現在では伊弉諾尊・伊弉冉尊を仲直りさせたこの曖昧な説話をもって、菊理媛は縁結びの神として信奉されている謎多き女神である。

 上唐子白山神社の創建に関して、どのような経緯で、謎の多い「菊理媛神」を主祭神とした白山比咩神社を勧請したのかは不明である。但しその当時、この神の力が必要であった何かしらの切実な理由が創建当時前、この地にはあったのであろう。
        
             
・所在地 埼玉県東松山市上唐子1054
             
・ご祭神 菊理姫命・伊弉諾尊・伊弉那美
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 春祭り 42日 夏祭り 723日 秋祭り 1016日
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0358701,139.3437236,18z?hl=ja&entry=ttu
 神戸神社に隣接する神戸公会堂から東松山市市民健康増進センター方向に進む道路を北上し、今では懐かしい「冠水橋」である鞍掛橋を渡る。都幾川鞍掛橋周辺一帯は「くらかけ清流の郷」という緑豊かな自然が楽しめる場所で、埼玉県の「川のまるごと再生」事業で、川遊びや手ぶらでバーベキューが楽しめるスポットだそうだ。嵐山町「嵐山渓谷」の岩畳と槻川の清流・周囲の木々が織り成すみごとな景観と自然環境を持ち合わせ、同時に川遊びやバーベキューが楽しめる観光地でもあるが、嵐山渓谷やくらかけ清流の郷の存在自体、都幾川が埼玉県でも屈指の清流であることの証明でもあろう。
 因みに鞍掛橋の「くらかけ」という名前は
近くの山の形が鞍に似ているから
新田義貞が鞍を掛けた松があったから
川によって岩が削られて、岸壁を意味する「くら」が「欠け」ることから
 など、いくつかの話が由来だと言われている。
 鞍掛橋を渡りきり、そのまま道なりに進路を取り、埼玉県道344号高坂上唐子線に交わる「白山神社(南)」交差点を直進し、200m程進むと上唐子白山神社の白い社が見えてくる。
 社には駐車スペースはないが、南側近くに「上唐子集会所」があり、そこの一角に車を停めて参拝を行った。
        
                                上唐子白山神社 一の鳥居
        
      町中に鎮座する社。その為か二の鳥居までの参道途中に道路が横切る。
        
                              白を基調とした拝殿

 白山神社  東松山市上唐子一〇五四(上唐子字引野)
 社伝によると、当社の創建は寛文年間(一六六一-七三)のことで、当村の篠田三郎右衛門・堀越三右衛門の両名が尽力して加賀国の白山比咩神社を勧請し、社を建立したという。その後、享保年間(一七一六-三六)に社殿の再建を行った。嘉永二年(一八四九)の大火により類焼の憂き目に遭うが、安政四年(一八五七)に再興を果たした。
 往時の祭祀状況については明らかでないが、当社の西方三〇〇メートルほどの地にあった常福寺が、別当として祭祀を司っていたことが推測される。常福寺は無量山佛音院と号する天台宗の寺院で、阿弥陀如来を本尊としていたが、明治初年に廃寺となった模様である。
 現在、当社の隣接地にある阿弥陀堂は、この常福寺にかかわっていたものと考えられる。
 明治六年に村社に列せられ、昭和四年には隣接の畑五歩と宅地六坪余を境内に編入し拡張を行い、神饌幣帛料供進神社に指定された。同五十三年には社伝の再建を行い、現在に至っている。
 末社に三峰社がある。この社は、昭和四十年ごろまで氏子の間で結成されていた三峰講によって祀られていた社である。
                                  「埼玉の神社」より引用

 新編武蔵風土記稿、上唐子村条には
「当所は古く開けし地と見えて、【関東合戦記】永享十二年村岡合戦の條に、長棟庵主は七月八日、神奈川を立、野本・唐子に逗留し、八月九日小山庄祇園城に着玉ふ云々とあり、野本も近き邉の村名なれば、唐子は当村なること明けし」
 上唐子村の小名として「原屋敷 大林屋敷 比企野」の3カ所の地名があり、「比企野 村の北を云、当所に白山社ありて、(略)此地は古くは太田道灌が陣所となりしことありという。」と記されている。

 享徳3年(1454年)から文明14年(1482年)までの期間、古河公方足利成氏(しげうじ)と、山内・扇谷上杉氏との間で30年近くに渡って続いた享徳の乱では、上杉一門は一致協力して足利成氏と戦ってきた。しかし文明8年(1476年)山内上杉顕定(あきさだ)の重臣である長尾景春(かげはる)が叛旗を翻し、翌文明9年(1477年)正月、長尾景春は五十子の陣を急襲し、山内顕定、扇谷定正は大敗を喫して敗走すると、長尾景春に味方する国人が続出して上杉氏は危機に陥った。
 これを鎮めたのは扇谷上杉家の家宰であった太田道灌(どうかん)である。道灌の東奔西走の活躍により景春は早々に封じ込められた格好になり、抵抗を続けていた長尾景春も文明
12年(1480年)6月、最後の拠点である日野城(埼玉県秩父市)を道灌に攻め落とされ没落。そして文明14年(1482年)、古河公方成氏と両上杉家との間で「都鄙合体(とひがったい)」と呼ばれる和議が成立。30年近くに及んだ享徳の乱は終わった。

 太田道灌は自ら30回以上も出陣しながら1敗もしていていない。不敗の理由の一つとして、兵同士の一騎打ちが戦の主流だった当時、太田道灌は集団で戦う「足軽戦法」を駆使したことにより、常勝を果たしたともいえ、また「築城の名人」とも言われ、戦において多くの計略をめぐらしてきたが、その要となる「城」が最も大事と気付いたのだろう。江戸のみならず、河越(埼玉県川越市)、岩槻(埼玉県さいたま市)など、多くの城を築いた。

 太田道灌は戦の天才のみならず、和歌の名人としても知られ、「山吹の花」でのエピソードはつとに有名である。詳しい内容は省かせていただくが、潜在的な才能もあり、自ら実践し、吸収してしまう努力家でもある、いわば「有言実行型」の典型的な人物であったろう。
 戦いに関しても、自ら現地に赴き、その場を視察し、その場での空気を読み、策を巡らし、果敢に勝利をつかみ取るような人物であったのではなかろうか。

「新編武蔵風土記稿・上唐子条」に記されている道灌が作った陣所もその類いではなかったのではと考察する。
 
   拝殿左側には石祠が鎮座。三峰社か。      拝殿右側にある「白山神社建築記念碑」

 白山神社建築記念碑
 当社の御創建は古く、寛文年間(1661-1672年)当地在住の信仰厚き人々相集い、菊理媛命、伊邪那岐命、伊邪那美命を御祭神に迎え祭り白山神社を創建す。
 享保年間(1716-1735年)更に再建されしが嘉永二年(1849年)大火により類焼の難を受く。安政四年新たに社殿を建立され緒人の信仰と崇敬を集め守護し来りしが百有余年の星霜を経て社殿の朽廃甚だしく氏子一同相計りて浄財を歓請し、昭和五十二年三月吉日 社殿を建築せしものなり。
                                       碑文より引用

        
   上唐子白山神社の道を隔てて南側にある、別当の常福寺にあったとされる阿弥陀堂。

 当社の西方300m程の地にあった常福寺が、別当として祭祀を司っていた事が推測される。常福寺は無量山佛音院と号する天台宗の寺院で、阿弥陀如来を本尊としていたが、明治初年に廃寺となった模様である。現在、当社の隣接地にある阿弥陀堂は、この常福寺にかかわっていたものと考えられるようだ。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「東松山市公式HP」「埼玉の神社」白山比咩神社HP」
    「Wikipedia」等


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神戸神社

 都幾川は東松山市西側に位置する嵐山町鎌形地区で槻川と合流し、蛇行を繰り返しながら東行し、高坂・早俣・長楽・赤尾地区で越辺川に取り込まれる。嵐山町鎌形地区の都幾川・槻川合流地点の標高が40m程で、そこから下流域・赤尾地区の標高が15m程になり、そこまでの距離が直線方向でも20㎞余となる。河川の特性として、上流部の山岳地帯の標高が高いと河川の移動スピードは速くなり、中流域以降はその標高差が上流部ほど高くないため川の流れは遅くなる。すると真っ直ぐ流れようとする勢いが小さくなり、流れる場所を変えるようになる。これが「蛇行」という状態である。
 蛇行の外側においては流水の速度が速くなり、侵食がみられるようになり(侵食面)、蛇行の内側においては、上流から運ばれてきた砂や礫(れき)などが堆積するようになる(堆積面)。
 嵐山町大蔵地区から都幾川は南東方向に流れているが、東松山市神戸地区北西部には岩殿山地が聳え、その流路を遮り、進路が真東方向から南東方向に右カーブするような流れとなる。その結果神戸地区の都幾川左岸は蛇行の外側にあたり、流水の速度が速くなり、侵食が進むことから段丘崖となっている。一方右岸は上流から運ばれてきた砂や礫(れき)などが堆積する広い河川敷があり、そこには雑木林を伐採してできた田畑が広範囲に広がっていて、堆積面特有の低地が続くため、東西に長い堤防が築かれている。

 東松山市神戸地区は、都幾川が蛇行して形成された堆積面を、西側から南側まで岩殿山地が取り囲むような場所に位置し、その低地面と山地面との境界付近に鎮座しているのが神戸神社である。
        
              ・所在地 埼玉県東松山市神戸875
              ・ご祭神 素戔嗚尊
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 例祭72425日(獅子舞奉納)
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0196741,139.3453577,16z?hl=ja&entry=ttu
 葛袋神社から一旦北上して埼玉県道41号東松山越生線に合流後左折し、西方向に進路をとる。進路左側には岩殿山地の峰々が広がり、右側に目を移すと道路に沿って堤防が築かれている。堤防自体は都幾川が一旦北側奥に流路を移しているため途切れるが、雑木林を抜けると一面田畑が広がる風景となる。暫く進むと、神戸神社の社叢林が見えて来る。
 神社の隣には神戸公会堂があり、建物手前には駐車場も確保されているので、そこの一角に車を停めて参拝を行う。
        
                県道沿いに鎮座する神戸神社
        
                   神戸神社正面
             因みに地域名「神戸」は「ごうど」と読む。
            
        一の鳥居の手前右側にある社号標柱と「神戸の獅子舞」の案内板
        
                「神戸の獅子舞」の案内板

 神戸の獅子舞(市指定無形民俗文化財)
 神戸の獅子舞は七月二十四、二十五の夏祭に、神戸神社で奉納される。
 獅子舞の由来はつまびらかでないが、獅子の太鼓に「寛政三年(一七九一)六月吉日、太鼓屋三左衛門」と墨書されている。
 この獅子は、昔は善能寺から出たものだが、寺が焼けてからは総代の家から、やがて社務所から出るようになった。
 旱魃の年には鞍掛淵の河原で雨乞獅子を舞い、又伝染病の流行した年には悪魔祓いに獅子が村中を廻ったという。
 獅子は「メジシ」「ナカジシ」「ホーガン」と呼ぶ一人立ちの三匹獅子舞で、昇殿カグラ、メジシカクシ、トンビガエシ等を舞う。その特色は「村まわり」をし、「土俵」の中で舞うことである。
                                      案内板より引用


 神戸の獅子舞  昭和55年(1980年)110(東松山市指定文化財―無形民俗)
 この獅子舞は、修理した時、太鼓を修理した際に『寛政三年(1791)六月吉日・武州熊谷梅町・太鼓屋三左衛門』と墨書されていたことから、230年ほど前から始められたと考えられます。古くは神戸(かんべ)(旧善能寺)で支度を整え、神戸神社まで街道下りを行っていました。善能寺が焼失してからは総代の家より、昭和3(1928)からは社務所で支度を整え、地区内を回り街道下りを行います。昭和41(1966)頃には奉納が困難となり、獅子舞演技が中止となってしまいました。村には「獅子舞の風にあたると病気にならない」との言い伝えがありましたが、獅子舞を中止した途端、赤痢や疫病などが流行ってしまい、一転演技復活の機運が高まり、昭和47(1972)有志により保存会を結成し、復活を果たしました。数年の休止でしたが、多くの演技内容が忘れられ、演技に関わってきた人の記憶をたどり、現在の舞の形態があります。夏の禮大祭では、神社の境内に、16俵の俵で土俵を作り(直径4メートル40センチートル)、舞庭が作られ、前庭・後庭に分け、神社に奉納します。その他では、昔、干ばつの時「昭和26(1951)」、「鞍掛渕(現在のくらかけ清流の郷)にすりこむ」といって、「戌亥黒雷天(いぬいくろらいてん)」の旗を先頭に、竹製の神輿と共に鞍掛山の麓の都幾川に隊列を成し練り込み、雨乞いの舞を捧げたと言われ、その帰途途中から「雷雨」に見舞われたと、長老が伝えています。また、疫病の時も、舞が奉納されたとも言われています。三匹の「獅子頭」は、見事な顔立ちで、特に雌獅子は、「一本角」で、舌を出しているなど、ひょうきんな姿も表現しており、地区の宝として、後世に残すべき貴重な文化財です。
                                  東松山市公式HPより引用
 
   一の鳥居のすぐ先にある二の鳥居        鳥居上部には「牛頭天王宮」と
   木製両部型鳥居形式で、朱の鳥居           記載されている。
        
                                  拝 殿

 神戸神社 東松山市神戸八七五(神戸字天王)
 当地の人々は、初め村の西方の山上に谷地田を開いて集落をなし、ここに当社も鎮まっていた。その旧社地は、東松山グリーンセンターの西側にある山林内で、今に「天王山地」の地名で呼ばれている。これがいつのころか生産性の高い麓の平坦地に耕地を開いていくようになり、当社も集落と共に麓に移ってきた。
 当社の創建については、一木から三体の像を彫り、一つは尾張国津島の地に、一つは上野国瀬良田の地に、一つは武蔵国神戸の地に祀られ、いずれも牛頭天王と称したとの伝承が『明細帳』に記されている。氏子の間には「世良田の天王様は当社の兄弟だ」「津島神社が本社で、この地に分祀されたためにお札が本社から頒布されていた」との口碑が残されており、この記事を裏付ける。
『風土記稿』には、善能寺持ちの社として載る。善能寺は天王山と号する真言宗の寺院で、当社の西方四〇〇メートルの地に堂を構えていた。昭和初年まで当社の祀職を務めた神戸栄松は、この善能寺法印の裔であった。ちなみに、同寺跡地には歴代法印の墓石が残り、「法印権大僧都阿闍梨□及」の延宝五年(一六七七)とある墓が最も古い。
 明治初年に八雲神社と改称し、更に明治四十年には字中道の氷川社、字杉ノ台の愛宕社、字山王の日吉社を合祀して神戸神社と改めた。
 祀職は、神戸家の後を渡辺好平・渡辺一夫と継いでいる。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                              境内の様子
      残念ながら参拝当日には参道にあるはずの「土俵」が見つからなかった。
 但し参道の石敷の通路が途中途切れている部分があり、そこの空間に盛り土をして「土俵」としているかもしれない。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「東松山市 観光情報HP」等
        

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葛袋神社

 境内碑 社碑
 当社は川北山根大平の三郷を以って葛袋となし、其の中央山頂に五社大神と南方に白髪大神を守護神として祀り、明治五年両社を合祀し村社に列せらる。明治三十三年社殿を改築し、同四十年愛宕神社及び八坂神社を合祀し。社号を葛袋神社と改称す。
 昭和六十一年十一月二十七日不慮の火災により、社殿を焼失し、氏子一同再建を誓い多額の浄財を寄進し、平成元年四月十六日竣工壮麗清浄なる神殿に神霊を奉安す。
 仍って茲にその梗概を誌し永く後世に伝えんとする。

        
              ・
所在地 埼玉県東松山市葛袋853
              ・
ご祭神 五社大神、白髪大神
              ・
社 格 旧村社
              ・
例 祭 春祈禱328日、夏祭り728日
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.02187,139.3699435,16z?hl=ja&entry=ttu
 葛袋神社は関越自動車道東松山インターから南西方向の都幾川中流域右岸に鎮座している。
埼玉県道47号深谷東松山線を東松山方向に進む。関越自動車道東松山インター付近で国道254号と交差し、同県道41号東松山越生線に変更となるが、関越自動車道に沿うような形で南下し、「高坂」交差点を右折し、道なりに500m程西行する。都幾川の土手が見える付近で左方向に曲がる細い道があり、そこを左斜め方向に進み、次の十字路を左折すると右側に葛袋神社の鳥居が見えてくる。
 社の隣には葛袋公会堂があり、その前には広い駐車場があるので、そこの一角に車を停めて参拝を行う。
        
                 
葛袋神社正面一の鳥居
               
 東向きにある参道。参道の両脇には伐採された木々の幹が残っている。伐採される前は、緑豊かな社叢に囲まれていたのだろう。工業団地の造成に会わせて整備されたというが、社は社殿周辺が存在していれば良いという箏ではない。鳥居から参道を含む境内全体の荘厳な雰囲気もまた社の「品格」という意味において必要ではないかと感じた。
 但し陽光を浴びた「明るい社」という印象も同時に感じ、良い意味でさわやかな気持ちで参拝には望めたことも事実である。新しく改築された葛袋公会堂に隣接し、同時にその周囲の環境に合わせた社の整備をしているようで、新しい「社」の在り方をも感じた次第だ。
        
              比較的長い参道の先にある二の鳥居
        
                                     拝 殿

 葛袋神社  東松山市葛袋八五三(葛袋字山根)
 葛袋では、かつて村の中央にそびえる坂東山(標高八五メートル)中腹に五社権現宮、村の南方に白髭神社・愛宕神社・八坂神社をそれぞれ祀っていた。このうち白髭神社が村の鎮守であった。
 明治五年、白髭神社を坂東山の五社権現社に合祀して相殿となり、「五社大神・白髭大神社」と号して村社となった。更に同四十年、愛宕神社と八坂神社をこれに合祀し、同四十五年に村名を採って葛袋神社と改めた。次いで、大正五年には、坂東山の麓の現在地に社地を移した。この坂東山は、昭和二十九年からセメント材採掘のために秩父鉱業によって切り崩され、現在では跡形もなくなっている。
 このように、当社の中心となっているのは五社権現社と白髭神社である。五社権現社は、その社名から察するに、熊野十二所権現社の内の熊野五所王子と呼ばれる若一王子(天照大神)・禅師(忍穂耳尊)・聖(瓊々杵尊)・児宮(彦火々出見尊)・子守(鸕鶿草葺不合尊)の五柱を祀る社と考えられ、恐らく熊野修験により奉斎されたものであろう。一方、白髭神社については「(隣村の)下唐子の白髭神社(現唐子神社)が当社の兄さんである」との口碑が伝えられている。下唐子の白髭神社は、応永十八年(一四一一)の創建と伝えられることから、当社の創建もこのころまでさかのぼるのであろうか。
 昭和六十一年に社殿を焼失したが、平成元年に再建が果たされた。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
  拝殿に掲げてある「葛袋神社」の扁額   社殿裏に境内社。左から大黒天・金毘羅大権現
                            金刀比羅神社・大黒天。


 ところで葛袋地区の中央部は、岩殿丘陵が張りだし、裾を都幾川が流れている。その丘陵の突端部に「坂東山」があった。坂東山一帯には、セメント原料で粘土の一種「頁岩(けつがん)」が埋蔵されている。昭和29(1954)7月粘土質原料の供給を目的として、粘土の採掘が始まる。粘土採掘場は「葛袋」とその西3kmに隣接する「高本」地区の2か所で最盛期には 60,000トン/月前後採掘、輸送していた。その後セメントの需要が減るのと海外製品に押されて原料採掘量の減少などから、平成20(2008)6 月葛袋採掘場の採掘は終了、また、高本採掘場跡地も平成5(1993)に清澄ゴルフ倶楽部に衣替えしている。
 坂東山の標高が 明治21(1888)発行の迅速測図では93.25m であったが、採掘等により、昭和36(1961) は採掘が始まって6年程しか経過していないが、既に坂東山は姿を消していた。
        

 平成21(2009)8月「東松山都市計画事業葛袋土地区画整理事業」が始まり、2年の歳月をかけて葛袋産業団地が誕生、大手配送センターなどの物流の拠点となっている。工場建設などに伴う建設投資による経済波及効果は 370 億円、操業開始後の生産活動等に伴う経済波及効果は、毎年255億円になるとの報告があるという.
 工業団地東側の「ばんどう山第2公園」内には、平成28(2016)41日「化石と自然の体験館」が開館されている。坂東山の姿は消えたが、跡地は産業団地として、また、「化石と自然の体験館」として活用され、廃線跡も遊歩道として有効活用されることになっている。

「化石と自然の体験館」は県内唯一の室内で化石発掘体験が出来る施設である。現在埼玉県は「海なし県」のひとつであるが、嘗て1500万年前はこの地域一帯は海であった。その証拠に同地ではサメの歯の化石がたくさん見つかっている。

 尚平成 26(2014) 7 月地名更新があり、葛袋産業団地の住所が「埼玉県東松山市坂東山(ばんどうやま)〒355-0067」となり、ここに坂東山が地名で復活した。


参考資料 「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「東松山市 化石と自然の体験館公式HP」等

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八幡山種池神社及び雉岡城

八幡山種池神社】
        
             ・所在地 埼玉県本庄市児玉町八幡山336-2
             ・ご祭神 倉稲御魂命
             ・社 格 不明
             ・例祭等 初午 2月初旬 祈年祭 315日 例大祭 1013
                  新穀感謝祭 1210日
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1939455,139.1280878,18z?hl=ja&entry=ttu
 埼玉県道75号熊谷児玉線を児玉町市街地方向に進み、八高線「第二深谷街道踏切」を越えて「児玉小学校」交差点を右折すると、JR八高線児玉駅に到着する。児玉駅を起点として西方向に伸びる駅前通りである埼玉県道191号児玉停車場線に左折して合流、そのまま道なりに進む。国道462号線との合流地点である「児玉駅入口」交差点を右折し、その後「児玉高校入口」を左折し、100m程進むと左側に八幡山種池神社の社号標柱が見えてくる。
 
現在は八幡山公園となっている「雉岡城」の東側に鎮座していて、城の陣屋口の通りに面しているという境内の立地から、時の城主等から深く崇拝されたという。
 社の境内は南北に長いが決して広くない。しかし社殿から見て右側手前には駐車スペースも確保されているので、そこの一角に停めてから参拝を行う。
       
        入口に置いてある社号標柱         南北に位置する社
        
                                           八幡山種池神社正面
 
      石段上に鎮座する拝殿            石段脇にある案内板

 種池神社 御由緒  本庄市児玉町八幡山三三七
 □御縁起(歴史)
 当社の創建の年代は定かではないが、かつては境内に霊水として知られる湧水があり、近辺の住民の間には四季を問わず湧出するこの池の水によって生活している者が多く、氏子は籾を播く前には必ずここで種籾を洗ったものであった。よって、この湧水に神威を感じ、五穀の祖神である稲荷大神を勧請したのが当社の始まりで、「種池」の称もこの湧水に由来する。
 また、延徳年間(一四八九九二) に雉岡城を当地に築き、その城主となった夏目豊後守定基も深く当社を崇敬し、社殿を再興したという。更に、横地左近将監吉晴、松平玄蕃頭清宗、地頭田備後守といった、その後の城主や地頭も当社を厚く崇敬した。雉岡城の陣屋口の通りに面しているという境内の立地も、こうした城主らによる崇敬のあったことを感じさせるものである。
『風土記稿』や『郡村誌』に「稲荷社」と載るように、当社は元来は稲荷神社と称していたが、明治四十年五月に字城内の厳島神社・伊勢神社・秋葉社、字円良岡の金鑚神社の四社を当社に合併したのを機に、社号を種池神社と改めた。しかし、昭和五年ごろ、当社の象徴であった湧水は諸般の事情から埋め立てられ、その後は跡に井が設けられて飲み水などに用いられていたが、衛生上の理由から近年はそれも廃止された。ちなみに、境内左の駐車場が湧水のあった場所である。
 □御祭神と御神徳
 ・倉稲御魂命…五穀豊穣、商売繁昌
                                      案内板より引用
 

        
 拝殿の周囲には多くの境内社が鎮座する。『風土記稿』や『郡村誌』では、明治四十年五月に字城内の厳島神社・伊勢神社・秋葉社、字円良岡の金鑚神社の四社を当社に合併したと記載されている。これらの境内社もそのうちのどちらかであろう。


「古は当国七党の一、児玉党の所領する事は児玉町に弁ず。文明の頃は夏目豊後守定基領し、其後永禄中に至ては、横地左近忠春の所領にして、天正十八年御打入ありて松平玄番頭清宗に賜り、慶長六年三州へ得替さられて、同七年戸田藤五郎に賜り、天明六年子孫中務の時上りて御料となりしより今に然り」と『新編武蔵風土記稿』は記している。
 慶長七年戸田藤五郎重元(5千石)の知行地となった際に八幡山町に陣屋を設け、支配をすることとなったというが、現在はそのころの遺構等ない。


【雉岡城】
        
             ・所在地 埼玉県本庄市児玉町八幡山446
             ・遺 構 曲輪、土塁、横堀(空堀)、横堀(水堀)等
             ・分類・構造 平城 戦国時代初頭築造(推定)
             ・指定文化財 埼玉県史跡(雉岡城跡)

 雉岡城(きじがおかじょう)は、埼玉県本庄市児玉町八幡山446他に所在していた日本の城。丘陵地に築かれており、旧字雉岡の地名をとってつけられた城のため、別名を八幡山城(はちまんやまじょう)と言う。

 45郭で構築された平城で、『武蔵国児玉郡誌』『新編武蔵風土記稿』等によれば、築造時期は戦国時代初期といわれ、当初は山内上杉氏の居城として築かれたが、地形が狭かったゆえに、上杉家は上州平井城へ移ったものと考えられ、代わりに有田豊後守定基(城主となってからは夏目を称す)を雉岡城主として配備した。因みに定基は赤松則村(円心)の裔孫であり、元は平井城に在城していた武将とされる。
 その後永禄年間には北条氏邦によって攻略され鉢形城の属城となったようで、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めの際には前田利家により落城した。徳川時代には松平家清が居城していたが慶長6年(1601)に三河吉田城に移ると廃城になったと伝えている。
        
          県道191号を西方向道なりに進むと雉岡城跡に到着する。
   正面入り口付近に設置されている「「県指定史跡 雉岡城跡と周辺の文化財」の掲示板
        
             正面入口にある「雉岡城跡」の看板
             看板周辺には駐車場も完備されている。

  地形的に見ても、この城の東側には鎌倉街道上道が南北に通っており、築城目的として、鎌倉街道の交通要衝を押さえ、関東管領上杉家の最前線地となっていた五十子陣(児玉郡北部)への兵站を確保する事であり、そうした経済的側面があったものと考えられているつまり、当初は五十子陣の支城としての役割があり、五十子陣の解体後、上野国平井城の支城として活動し、後北条氏の時代では鉢形城の支城として活動したとされる。
 
 現在は公園として整備されているが、城跡という箏で、いたる所に 曲輪、土塁、横堀(空堀)、横堀(水堀)等の遺構が見える(写真左)。
 思った以上に城跡は広い。また途中見かけた案内板(同右)に見入ってしまった。

 埼玉県指定史跡 雉岡城跡  昭和十三年三月三十一日指定
 雉岡城は、八幡山城とも呼ばれ、十五世紀頃に時の関東管領であった山内上杉氏によって築城されたと言われています。東西約二百七十メートル、南北約四百三十メートルに及ぶ城域を持ち、鎌倉街道上道と上杉道の分岐点という交通の要衝に立地しています。
 十四世紀初めまでに成立した歌謡集「宴曲抄」には「者の武の弓影にさはぐ雉が岡」という歌が収められています。このことから、十四世紀までに雉が岡の地に武士の居館が存在していたと推定されます。
 雉岡城は、築城後、関東管領山内上杉氏及び夏目定基(なつめさだもと)、定盛(さだもり)を城主としていましたが、後北条氏の武蔵進出に伴って雉岡城も後北条氏の支配下におかれました。そして鉢形城主北条氏邦の命により横地左近忠春が雉岡城の城代となりました。
 天正十八年(1590)の豊臣秀吉による後北条氏討伐に伴って落城し、徳川家康の関東入国後、松平氏が城主となりました。その後、城主の松平家清が慶長六年(1601)に三河国吉田城(愛知県豊橋市)に転封となり、雉岡城は廃城となりました。
                                      案内板より引用


 散策途中、本丸南側の曲輪を囲む堀の底に、「夜泣き石(親子石)」と呼ばれる石があり、案内板はその曲輪の脇に設置されていた。「夜泣き石」と言われる悲しい言い伝えである。 

 夜泣き石(親子石)
 この石には、次のような伝説があります。
 昔、殿様の夕餉に針が入っており、怒った奥方は側女お小夜の仕業だと思い、取り調べもしないで、お仕置井戸に生きたまま沈めさせてしまいました。
 そのとき、お小夜のお腹には、生まれるばかりの赤ちゃんがいたそうです。お小夜の死後、お城ではお乳がにじみ、飲み水も池の水も白く濁り、夜になるとお小夜の泣き声が、どこからともなく聞こえてきたそうです。
 また、井戸からお小夜の棺桶を引き上げてみると、大きな石になったお小夜は、子供石を抱いていたそうです。子供を思う親の心に、奥方はお小夜に対する仕打ちを後悔し、お堀端にこの二つの石を祀り、女達に慰めの言葉をたやさぬようにと頼み、髪を切って喪に服したと言い伝えられています。(児玉の民話より)
                                      案内板より引用


参考資料「新編武蔵風土記稿」「本庄市の地名② 児玉地域編」「Wikipedia」等
       

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