古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

北堀久下塚飯玉神社

 北堀字「久下塚」という地名。熊谷市に住む筆者にとって、「久下」は熊谷市東側の荒川左岸にある地域でもあり、馴染みある名前である。
「地名の研究〕では文武天皇の世(701年)大宝律令によって定められた土地制度で、全国の国、郡、各々に国司、郡司、里長が置かれた。郡司の治所(郡役所のあるところ)を郡家と書き、訓読みでは“コオリノミヤケ”、音読みで“クゲ”“グウケ”と読んだところから転じて郡家の所在地を久下と書くようになったという説に対して、「埼玉県地名誌」では「崩潰」を意味する古語であり、“クケ”とは、水が漏って貫ける意味となり、洪水のために堤が崩壊された為にこの名が生じたと解釈している。久下地域を地形的に見ると、古くは荒川の氾濫地域であった。よって、久下の名は、荒川堤の崩潰によって生じたという説もある
        
              ・所在地 埼玉県本庄市北堀1602
              ・ご祭神 倉稲魂命
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 祈年祭 219日 大祓 715日 例祭 1019
                   新嘗祭 1214
 北堀久下塚飯玉神社は本庄・早稲田駅の北側に鎮座する。埼玉県道86号花園本庄線と駅前通りが接する交差点を北側に進むと、次の信号のある交差点手前左側に北堀飯玉神社が鎮座する場所に到着する。周囲は本庄早稲田駅開業に伴う開発が進み、大型ホームセンターや外食産業も立ち並び、現代風に環境整備されていて、明るい環境の中にこの社はある。境内は小ぢんまりしていますが、手入れは良くなされていて、気持ちよく参拝ができた。
        
                           社号標柱及び正面朱の両部鳥居        
 北堀久下塚飯玉神社の創建年代等は不詳ながら、一ノ谷の合戦でも活躍した児玉党の久下塚庄二郎弘定が崇敬したと伝えられ、当地一帯久下塚が村として独立していた頃は鎮守社として祀られていたともいう。昭和13年に村社に列格している。
        
                                 入り口付近にある案内板
 飯玉神社 御由緒 
□御祭神 
倉稲魂命
□御縁起(歴史)
 鎮座地の久下塚は、武蔵七党児玉党の久下塚氏の名字の地と考えられており、元来は独立した村であったが、中世の末期に北堀に繰り入れられるようになったようである。また、地名の「久下」は古代の役所である「郡家」が転じたものであるとの説もあるが、これを裏付ける遣跡は現在のところ発見されていない。
 当社は、久下塚の産土として祀られてきた神社で、『児玉郡誌』によれば、創立の年代は不詳であるが、児玉党の支族である公家塚庄二郎弘定が崇敬した最も古い社であるという。この公家塚庄二郎弘定とは、「児玉党系図」(諸家系図纂)によれば、一ノ谷の合戦で源氏方に属して戦功があったと伝えられる家長の弟で、その息子の親弘は公下塚本太郎と称している。境内には存しているならば樹齢七二〇年位の目通り周囲一二・七メートルほどの欅の御神木があったことから、古社であることがうかがえる。
『風土記稿』北堀村の項に「飯玉明神社 日光院の持」と記されているように、江
時代には日光院が別当であった。この日光院は、一説には京都から小幡中納言某という公卿がこの地に流されて来た際に開いた寺であるといわれ、公家塚古墳と呼ばれる県内第四位の大きさの円墳の麓にあったが、神仏分離によって公家塚氏墓所となった。不動堂は、その名残である。
                                      案内板より引用
       
           参道左側にある大黒天の石板と老木(写真左・右)
        
                                   拝 殿
 久下塚氏は児玉党の支族で、北堀村字久下塚より起っている。武蔵七党系図に「庄権守弘高―庄二郎弘定―久下塚本太郎親弘―三郎左衛門尉重能―太郎重綱(弟に三郎時国、四郎重経)―太郎三郎景春、重能の弟四郎弘盛―太郎盛氏(弟四郎朝盛)」。冑山本に「久下塚庄二郎弘定―久下塚本太郎親弘(弘重に改名)」と見える。吾妻鑑卷二十九にも「貞永二年正月三日、久下掾(塚)源内・同三郎」と記されていて、苗字はその地域の地名を基に唱える場合が多く、久下塚地名起源は平安時代後期以前にまで遡ると思われる。
 
   社殿左側に鎮座する境内社・稲荷社    社殿の右側には子供の遊具と共に末社が鎮座
                                                          詳細は不明

 北堀久下塚飯玉神社が鎮座する北堀「久下塚」付近には古墳が多くあり、現在はそのほとんどは消滅しているが、公卿塚古墳は昭和年代2回調査した結果、西側に突出部が存在する全長70mの大型古墳と判明した。円筒埴輪や形象埴輪も採集されていて、円筒埴輪は格子目叩き整形の野焼きで朝鮮南部に見られる技法。これら遺物から、5世紀初から中期の築造と思われ、嘗てこの古墳に埋葬された人物はかなり高貴な人ではないかと考えられ、久下=公卿としてこの字をあたえたと考えられているという。

    

拍手[1回]


奥宮東本庄稲荷神社 

 かつて盛んであった養蚕との関わりが深く、例祭と八十八夜祭で植木を売る露店がでるのは桑苗の市が立っていたころの名残である(平成二十年頃植木屋の廃業で途絶)。また、八十八夜では氏子が銘々に米の粉でこしらえた繭玉を重箱に入れて神前に供える習わしがあった。この繭玉1粒は繭10貫を意味しており、養蚕をしている家では祭典後にこれを借りて帰り、養蚕の神札と共に神棚に上げ、その後下げて火であぶって食べた。借りた繭形は翌年に倍にして返すのが例で、通常は10粒(100貫)を借りたものであったが、養蚕の衰退にしたがい平成元年ごろには行われなくなった。しかし、東本庄稲荷神社に隣接する総合体育館の名称がシルクドームであることからも、この地域と養蚕の深い関わりが今も伺われる。繭玉作成は平成24年に先代の宮司の意志を現宮司から聞いた総代長萩原満氏により再興された。例祭の神楽は金鐕神楽筆頭の忍保組であったが、途絶により一時カラオケなどに代わっていたが現在は祭祀舞の豊栄舞(巫女舞)が行われている。
 出典「埼玉の神社」埼玉県神社庁、宮司より聞きとり          参考資料 Wikipedi
a
        
             ・所在地 埼玉県本庄市北堀41
             ・ご祭神 宇迦御魂命
             ・社 格 不明
             ・例 祭 祈年祭 220日 八十八夜祭 52日 新嘗祭 1115                   
 東本庄稲荷神社は、若泉稲荷神社の奥宮で、若泉稲荷神社から東南へ少し行った所で、本庄総合公園のシルクドームの道を隔てた西側に鎮座している。シルクドームの正式名は本庄総合公園体育館だが、嘗て絹産業で栄えた本庄市の歴史にちなんだ愛称であるという。
 社周辺には駐車スペースが十分に確保されていて、今回は神社前にあるシルクドームの駐車場に停めてから、参拝を開始した。
      
     「奥宮 東本庄稲荷神社」社号標柱    社号標柱の近くにある
                       東本庄稲荷神社御社殿御造替記念碑
 東本庄稲荷神社御社殿御造替記念碑
 東本庄稲荷神社は、今より八百二十年前、安徳天皇御宇治承四年荘太郎藤原家長が勧請したのを縁起とします。
 御祭神は 倉稻魂命。相殿神として 天照大神ともう一柱の神を奉斎しています。 倉稻魂命は、食物の神格としてものを生り成す御神徳をお備えになられ、それ故に産業一般の広い御威徳の輝く神におわします。殊に農業はその大稜威の根本、商業はその御恩頼の精華であり、その分野に多くの尊崇を集めておいでなのは自然といえましょう。また、御眷族たる白狐は崇敬の家に一体宛派遣され、その力を尽くして守護にあたるため、同じく御眷族の多くおわす 大山祇神に相並び立つ篤い信仰が寄せられるもととなっております。
 今次本庄総合運動公園整備にあたり、神社境内地も整地し直すこととなり、御社殿の老朽も併せ鑑み、御造替をなすことと決しました。篤信の崇敬者、若泉稲荷神社の氏子一同の神忠を得て新社殿落成し、ここにその志を記念して碑とします。
 平成十一己卯年十二丙子月十八甲辰日(以下略)
        
        稲荷神社だけあって、稲荷系列独特な朱色の鳥居が奉納されている。
        
                 鳥居に掲げてある社号額。
 案内板(縁起等の記載がない)では、「正面からの撮影を禁ず」と書かれており、斜めから撮影を行う。本庄市内で、最近建てられた案内板には、多く表記されている。神様に対しての最低限のモラルとも感じ、案内板を作成した側の思いを深く受け止めた次第だ。
        
                            旧来の案内板は社殿左側手前にある。
 東本庄稲荷神社  所在地 本庄市北堀四一
 男堀川と小山川にはさまれた徴高地上に所在する。東本庄稲荷神社の祭神は宇迦御魂命であり、武蔵七党の一党で児玉党の一族である本庄氏の氏神であった。
 当地周辺は東本庄館跡と推定され、埋蔵文化財も多く残されており、本庄城の前身であると伝えられているが、詳しい資料もなく不明な点が多い。
 なお、栗崎集落内には栗崎館跡、西北方の本田には北堀本田館跡があり、現在も所々で堀跡を見ることができる。
                                      案内板より引用
        
                                        拝 殿
 
          社殿の左側に並んで鎮座する末社群。詳細は分からず。
 東本庄稲荷神社が鎮座する北堀地区字「東本庄」の地名由来として、この地が「本庄」という地名が起こった土地である事を意味しているという。
・安保文章
「応永二十五年、本庄左衛門入道・号西」。「永享十二年十二月一日、安保信乃入道の信州勢退治出陣の時、西本庄左衛門尉は金田(現厚木市)より帰宅の由承候、驚入候」
・日光輪王寺
「応永三年代般若経奥書」に「西本庄栗崎宥勝寺」と記載。
・小茂田村勝輪寺文章
「児玉郡栗崎村無量寿院宥勝寺は建仁二年有道宿祢五世孫庄太郎家長嫡男小太郎頼家元暦元年一ノ谷戦に戦死す為に創立す。西本庄三郎朝次の子薦田次郎時次・勝輪寺創立す」
 
    社殿の奥にも境内社あり。稲荷社か。       社殿から鳥居方向を撮影。

 上記文章等の記載から、西本庄の位置が栗崎付近である事が分かる。また栗崎地区字「宅地村」という場所は、集落があることを示す地名で、地名だけからは一見新しく感じられるが、この地域内には嘗て「堀の内」という場所があり、嘗て児玉党庄氏の館跡ではないかと推測されている。
 このように北堀地区から栗崎地区にかけての周辺地域が、中世前期までは本来の「本庄」であったと考えられる。
        
                                  社を遠くから撮影
        
    社の周辺は本庄総合公園及び体育館(シルクドーム)もあり、整備も行き届いている。 
         ウォーキング活動しながらの神社散策もまた良いものだ。
 
                小山川、旧名称の身馴川(みなれがわ)の支流男堀川の流れ。       

拍手[1回]


北堀若泉稲荷神社

 若泉稲荷神社が鎮座する「北堀」地域は、字本田の「堀ノ内」と南方に接する栗崎地域にある「堀ノ内」との位置関係から「北の堀ノ内」が省略されて「北堀」となったという説と、集落北側に流れる用水堀からついた地名ではないかという説がある。
 どちらにしてもこの地区の北端部には九郷用水の用排水路である女堀川が流れており、九郷用水に関連した地名と考えた方が妥当だろう。この「北堀」の地名は中世の資料には出ていない。若泉稲荷神社の南東約
750mに鎮座する東本庄稲荷神社周辺は、現在字「東本庄」という小さな地域となっているが、嘗ては武蔵七党の一党で児玉党の一族である本庄氏の氏神であり、周辺は東本庄館跡と推定され、埋蔵文化財も多く残されており、本庄3丁目5番の城山稲荷神社の周辺にあった本庄城の前身であると伝えられている。
 
北堀地区と栗崎地区周辺が中世前期頃までは本来の「本庄」であった事を物語っている。
        
               ・所在地 埼玉県本庄市北堀209
               ・ご祭神 倉稲魂命
               ・社 格 旧指定村社
               ・例 祭 春季大祭 44日 大祓 旧暦六月晦 
                    新嘗祭 
1215
 北堀若泉稲荷神社は本庄総合公園の西側約900m程、南北に走る埼玉県道31号本庄寄居線沿線上に鎮座している。「JA埼玉ひびきの」のすぐ南側に社の社叢が見えるので、分かりやすい位置にある。
 地形を確認すると南側には
男堀川も含む小山川、北側には女堀川に挟まれた社の周辺標高57m~58mに比べて60mと若干の高台に位置している。高台と記載したが実は古墳で、調べてみると、若泉稲荷神社古墳と呼ばれる径38×21m、高さ2.5m程の古墳墳頂に鎮座していて、円墳の形状のようなのだが,かつては前方後円墳とする見解もあったようだ。西五十子古墳群に属する古墳。
 因みに「小山川」は地元では、旧名称の身馴川(みなれがわ)で呼ばれることもある。
        
                県道沿いに南北に位置する社
 
         参道正面              鮮やかな朱が基調の両部鳥居
 若泉稲荷神社の歴史は治承4年、武蔵守継行六世孫荘太郎家長が東本庄に館を構えた際、鎮守として勧請したことに始まる。天正18年に本庄氏に代わって小笠原掃部太夫信嶺が本庄城主になった時に、旧領主が勧請した社であるとの理由からこの神社を最も崇敬し、現在の社地に社殿を建立して奉遷した。明治にいたり、村社としてその庄名を冠して当時の埼玉県令千家尊福卿より若泉稲荷神社と名付けられた
                                    Wikipediaより引用
 
       参道左側には境内合祀社           境内合祀社の先には御嶽社あり
    左から秋葉社・手長社・琴平社         御嶽社の手前右側には護国社が鎮座 
        
                              参道途中にある案内板
 若泉稲荷神社  所在地 本庄市北堀二〇九
 若泉稲荷神社の祭神は、倉稲魂命である。
伝来の口碑によれば、一ノ谷の合戦(一一八四)で、源氏に従い平重衡(たいらのしげひら)を生捕った庄太郎家長は、その館を現在の小字東本庄に構えたが、治承四年(1一一八〇)当社を勧請建立し、この地の鎮守としたと言われている。
 その後、天正十八年(一五九〇)小笠原掃部太夫信嶺が本庄氏に代わって領主となったとき、旧領主勧請の古社であるので、最も崇敬を加え、あらたに社殿をこの地に建立奉遷したと伝えられている。

 昭和六十一年三月    埼玉県  本庄市
                                      案内板より引用
        
                                        拝 殿
 
      拝殿に掲げてある扁額          社殿左側には旧東本庄社が鎮座
        
      拝殿は素朴な雰囲気が漂うが、奥の本殿は絢爛豪華な彫刻が施されている。
 
 参拝日は冬時期であったため、枯れていた状態     神池の手前に天神社が鎮座
          の神池
 北堀若泉稲荷神社の社殿部は,若泉稲荷神社古墳と呼ばれる古墳の墳頂部と言われ、西五十子古墳群に属する古墳。直径南北38m×東西約21m・高さ2.5mの円墳とのことなのだが,かつては前方後円墳、もしくは帆立貝式古墳とする見解もあったようだ。
 旧児玉町を含む現在の本庄市は、利根川南側に位置し、北側には古墳時代、東国の雄である毛野国に接する区域でもあり、舟を利用した経済の流通も活発に行っていたであろう。
        
                       北堀若泉稲荷神社 静かな境内  
 本庄最古の遺物は、小島石神境遺跡と西五十子田端屋敷遺跡で発見された、今から約15000年前の旧石器。本庄に最初にきた人々は、信州の和田峠付近で産出する、黒曜石製のナイフ形石器を、その証として残していった。
 また本庄市内には、かつて200基近くの古墳があった。小島三杢山古墳は、全国第20(20万基中)の超大型円墳だった。また、北堀の公卿塚古墳からは、全国で5ヵ所しか出土していない、珍しい技法の埴輪が発見されている。小島御手長山古墳から出土した坊主頭の人物埴輪は、市指定文化財。そして、近くの前の山古墳からは、全国唯一の大耳でしゃくれあご、歯を表現した盾持人物埴輪が発見されている。
                              参考資料 本庄市 ホームページ

拍手[1回]


西五十子大寄諏訪神社

 現在五十子地区は東五十子と西五十子に分かれているが、分村したのは江戸時代初期と思われる。『新選武蔵風土記稿』の『正保年中改訂図』には「五十子村」とあり、『元禄年中改訂図』には「東五十子村・西五十子村」と分かれて記載されている。現在「五十子」を「いかっこ」と発音しているが、『地名と歴史』『埼玉地名誌』では江戸時代後期の国学者である小小田与清の日記を引用して、そこには「イカコ」と呼んだことを紹介している。
 鎌倉時代正和3年(1314)の「関東下知状」では、武蔵国本庄内生子屋敷を巡って、本庄左衛門太郎国房と由良八郎頼久が争ったという。ここに記されている「本庄内生子屋敷」の詳細は分かっていないが、当時の本庄地区が北堀と栗崎付近を中心とした地域といわれていることから、隣接地である「五十子」もその候補地に含まれていたかもしれない。
 またこの史料は「本庄」地名が資料に初めて登場した例で、本庄左衛門太郎国房も児玉党・本庄氏の武士で、五十子の地も児玉党・本庄氏の重要な所領の一地域だった可能性もある。
                                   「本庄市の地名」を引用

        
              ・所在地 埼玉県本庄市西五十子647
              ・ご祭神 建御名方神 菅原道真(天満宮)
              ・社 格 旧指定村社
              ・例 祭 祈念祭 2月第3日曜日 夏祭 715日 
                   例大祭 
10月第3日曜日 新嘗祭 12月第2日曜日
 西五十子大寄諏訪神社は国道17号を本庄方面に進み、17号バイパスと合流後、鵜森交差点を左折、そのまま道なりに600m程進むと、東五十子若電神社が鎮座する地に到着する。そのまま進む続け、JR高崎線の踏切を通過し、北泉保育所を過ぎると左手に西五十子大寄諏訪神社の社叢と社の看板が見える。
 社の西側から南側にかけて囲むように本庄総合公園や多目的グランドがあり、そこの駐車場の一角に停める。東側にある「多目的グランド」北に隣接する「わんぱーく」脇にある道沿いにすすむと左手に社叢並びに鳥居が見えてくるので、そちらからのアプローチをお奨めする。
        
                             西五十子大寄諏訪神社 正面鳥居
 正面東側は「わんぱーく」という子供達の遊び場があり、まるで社が子供たちを守り、その成長を暖かく見守っているかのような位置関係だ。
 
    鳥居の右側には社号標柱あり     
社号標柱の右脇には御手長神社と秋葉神社が鎮座
       
           鳥居のすぐ右側にはご神木が聳え立つ(写真左・右)
        
                     案内板
 大寄諏訪神社 御由緒   本庄市西五十子六四七
 □
御縁起(歴史)
 当社の由緒は、社伝によると天慶二年(九三九)常陸国(茨城県) を占拠した平将門の討伐に際して、藤原秀郷の要請で、信州諏訪の地から出陣した大祝貞継が五十子に陣をかまえ、この地に諏訪大社のご分霊をお祀りしたことによる。平将門の乱後、下野・武蔵国の国府の長官となった藤原秀郷は、神社の社殿を整え、新田を寄進した。
 寛正年中(一四六〇- 六六)、室町幕府鎌倉府の上杉兵部太輔房顕が社殿を再興する。
 天正十八年(一五九〇)、信州(長野県)諏訪大社の当主であった諏訪小太郎頼忠は、徳川家康から領地を与えられた際に、当社の由緒をただした社殿を修繕し、修験の理聖院に仕事をまかせた。その後、明治維新の際に、理聖院は復職して、諏訪大角と名乗り、当社の神職となった。
 昭和三年(一九二八) 本殿改築、幣殿拝殿新築。平成十五年に手水舎、平成十六年に社務所新築。平成十九年墓地を新設し、分譲をはじめている。
 なお、境内に「学問の神様」である菅原道真公をお祀りする天満宮もあり、広く信仰をあつめている。
                                       案内板より引用
        
                綺麗に整備されている参道
 
        参道途中には手水舎            手水舎の先にある神楽殿
        
                                       拝 殿
 案内板に記されている上杉兵部太輔房顕が社殿を再興した寛正年中は、「享徳の乱」といわれる古河公方・足利成氏と関東管領・上杉氏一族の間で行われた戦いの最中であり、関東管領である上杉房顕が、古河公方である足利成氏との対決に際し、当地に五十子陣を構え築いた頃に必勝祈願の為、この社を再興したと考えられる。
        
 
      拝殿向拝部(写真上)、木鼻部位(写真下左・右)の彫刻が素晴らしい。

 この五十子地域は東流する女掘川の侵食により、段丘崖が形成され、その北方には利根川の低地帯が広がる。南には小山川があり、東南800m地点で志戸川と合流している。これにより、北・東・南の三方を河川の段丘崖に画された自然の要害地となっていて、段丘崖の比高差は37mになる。
        
                 拝殿に掲げてある扁額
 鎌倉時代からの主街道である「鎌倉街道・大道」が武蔵国南部から北西方向に続き、上州に至る。古利根川以西を掌握していた関東管領家側にとって、この道を奪取される事(分断される事)は戦力に大きな影響を与える事になる。武州北西部の辺りで、前橋方面、児玉山麓方面、越後方面への分岐点があり、ちょうどこの分岐点の南側前面に本庄は位置していて、この大道を守護する必要性が生じた事も五十子陣が築造される事となった一因である。

 東西を分け断つ地理的な要因と南北へと続く軍事面での道路の関係上、武蔵国の北西部国境沿いに位置した本庄・五十子は、山内上杉家と古河公方家が対立する最前線地の一つと化したわけである。
        
                               境内社 天満宮
 
         金鑽神社                                蚕養神社
 
   社殿の右側にある合祀群。詳細不明       合祀社の隣には二宮神社が鎮座
「いかこ」という地名の由来としては、洪水の起こりやすい平地、低湿地帯を意味するという他に、江戸時代の古語用例集である『雅言集覧(がげんしゅうらん)』や幕末から明治期にでた近代的国語辞書である『和訓琹(わくんのしおり)』等に、「五十日をイカと読むのは、子生まれて
50日目に祝事となる為」とあり、『源氏物語』にも見える。

 この社が鎮座する地に隣接し、このようなお子様たちが楽しめる空間を設けた理由として、もし行政側がこの「五十子」の歴史的な地名由来を理解して、意図してこの地に作ったものであるならば、かなり歴史に深く精通された方々の存在を感じざるを得ない。 

拍手[1回]


将軍沢日吉神社

  岩殿丘陵のほぼ中央に位置し、鳩山町と嵐山町の行政境にある「笛吹峠」。標高は80m。かつて鎌倉街道の中で唯一の峠で、鎌倉時代には数多くの武士団等が行き来した所でもある。
 北方に上州の山々、西方に秩父連山、眼下に須江の集落が広がる、眺望のすばらしい笛吹峠は、慈光観音と岩殿観音の巡礼道も交差する鎌倉街道で一番の難所であり、要衝の地であったようだ。正平7年(1352年)閏2月新田義貞の三男新田義宗らが宗良親王を奉じて武蔵野の小手指原で足利尊氏の軍勢と戦った(武蔵野合戦)が、最終的に戦いの決着がついたのがこの峠であった。しかし尊氏軍8万、義宗軍2万という明らかな差のもとに惨敗。敗れた義宗らは越後へ、親王らは信濃国に落ちていき、尊氏はこれ以後関東を完全に制圧していった道路工事をした際に人骨が大量に出土したそうで、当時の合戦が如何に激戦だったかを裏付けるものである。
 峠の由来については正平7年(1352)に新田義貞の子義宗が、南朝の宗良親王を奉じてここに陣をしき、足利尊氏と戦った。このとき親王が名月の陣営で笛に心を慰めたことによると伝える。

 笛吹峠から北に1.5㎞程行くと、日吉神社が鎮座する「将軍沢」という地名があり、平安初期には、坂上田村麻呂が地に寄った時に一堂を建立したことに由来するという。
        
              ・所在地 埼玉県比企郡嵐山町将軍沢425
              ・ご祭神 大山咋命
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 春季大祭410日 秋季大祭102021
 将軍沢日吉神社は大蔵神社の南方に位置し、経路途中は大蔵神社と同じである。国道254号線を嵐山駅方面に向かい、月の輪駅交差点の次の交差点を左折し、真っ直ぐ進むと埼玉県道344号高坂上唐子線に合流する「上唐子」交差点にぶつかる。この交差点を真っ直ぐ進むと埼玉県道172号大野東松山線になるので、県道に沿って南西方向に進路をとり、都幾川を越えて400m程行くと、信号のある交差点となり、直進すると右手に大蔵神社となり、そこを左折し700m程進むと左側に将軍沢日吉神社の鳥居が見える
        
 将軍沢地区は、嵐山町の最南端に位置して中央を旧鎌倉街道が通り、歴史的にも坂之上田村麻呂氏の伝説があり、みどり豊かな環境の農村集落を形成している。
 春と秋には日吉神社に宮司と遺幣使をお迎えして、五穀豊穣を祈願する。かつて昭和30年代迄は、秋の大祭はササラ獅子舞が奉納されて、賑わっていたが、現在は獅子頭を奉納するのみに留まり、静かなお祭りになっているという。
        
                                将軍沢日吉神社 正面鳥居
 将軍沢日吉神社の創建年代等は不詳ながら、坂上田村麻呂が東征の際の延喜10年(910)に天台宗明光寺を建立、明光寺の鎮守として山王社を創建したのではないかとも推測されている。将軍沢の鎮守として祀られ、明治維新後地内の大宮権現社(現将軍神社)、神明社、愛宕社、稲荷社を当社境内へ遷している。
 
 参道がほぼ東側に伸びていて(写真左)、参道の先には将軍沢農村センターが見える(同右)。そして農村センターの左隣には、境内社・将軍神社が鎮座している。
 因みに将軍神社から左側へ直角に曲がった先に将軍沢日吉神社社殿が鎮座しているので、社殿は南側という位置関係となる。
        
                              境内社・将軍神社
 将軍社 祭神 坂上田村麿
 由緒

 當社古記録等傳フル無ク創立年紀詳カナラス。唯古老ノ口碑ニ傳フルハ往古坂上田村麿将軍東夷征伐ノ際近傍岩殿山に毒龍アリテ害ヲ地方ニ加フ。将軍之ヲ退治シテ土人ヲ安カラシム。其時夏六月一日ナリシモ不時降雪寒気強カリシヨリ土人麦藁ヲ将軍ニ焚キテ暖ヲ與ヘリ。其后土人将軍ノ功徳ヲ賞シ之ヲ祭祀崇敬セリト云フ。現今年々六月一日土人麦藁ヲ焚キテ祭事ヲナスハ古ヨリ例ナリ。当社古来本村旧字大宮ト唱フル地ニ鎮座アリテ坂上田村麿将軍大宮権現ト稱セリ(本村々名及旧字大宮ノ地名蓋当社ニ因テ起リシナラン)御一新ニ至リ明治七年(1874)三月當所ニ奉遷シ将軍社ト改称セリ
                                   嵐山町Web博物館より引用

『新選武蔵風土記稿』においては違った記載もある。
 大宮権現社
 高さ三尺許の塚上にあり、利仁将軍の靈を祭れり、相傳ふ昔藤原利仁、此地を經歴して、此塚に腰掛て息ひしことありし故、かく號すと云、明光寺の持
        
                                         拝 殿
日吉神社 嵐山町将軍沢四二五(将軍沢字東方)
大山咋命を祀る当社は、鎌倉街道上道と呼ばれる街道脇に鎮座する。住宅やゴルフ場などの開発が進み、樹木が次々と伐採される中にあって、当社の境内は杉を主として樹木が多く、緑豊かな環境を守り続けていることから、平成三年には町の保護木の指定も受けている。また、社殿の裏手には、松の大木があったが、近年、松食い虫にやられ、枯死してしまった。かつて、当社の付近は『風土記稿』に「此辺二町許の松林あり、不添の森と云」と載るように、松林であったが、開発や松食い虫の害のため、既に当時の面影はない。
当社の創建の年代は定かではないが、江戸時代には山王社と呼ばれ、明光寺の持ちであった。明光寺は、寺伝によれば、延喜十年(九一〇)三月五日、坂上田村麻呂が東征の際、当地に寄った時に一堂を建立したことに始まり、元弘・延元のころ(一三三一-四〇)には兵火にかかって塔堂を焼失したという。明光寺が天台宗の寺院であることを考えると、当社は、その寺鎮守として創建された可能性もある。
将軍沢の地名は、村内字大宮に坂上田村麻呂(一説には藤原利仁)を祀る大宮権現社があることに由来するといわれる。『風土記稿』よれば同社は、藤原利仁が当地を通った時に腰掛けて休んだ「高さ三尺許の塚上」にあったが、神仏分離により将軍神社と改称し、明治七年に当社の境内に移された。
                                   「埼玉の神社」より引用

 社殿手前、左側に境内社・山神社・神明社・稲荷社が鎮座している。
 
           山神社                                   神明社

          稲荷社
                 
                 参道に聳え立つ巨木群
  今なお古き武蔵野の面影を残している自然豊かなこの景観を何時までも残して頂きたいものだ。

*追伸として
 将軍沢地区にある笛吹笛吹峠は古くは「ウスエ峠」といわれて、古代人が須惠器を峠越しに運んだ土器の道であったともいう。というのも奈良・平安時代前期のおよそ200年余りの間、嵐山町南部の将軍沢地区からときがわ町・鳩山町にかけての丘陵地は「須恵器」の一大生産地帯で、関東でも最大規模であったとの事だ。
 数多く築かれた須恵器の窯は、比企地方の南部丘陵地帯に広く展開し、「南比企窯跡群」と呼ばれていて、この地域で生産された須恵器は、洗練されたたいへん美しい焼物という。

 岩殿丘陵地独特のなだらかな傾斜があちらこちらに広がり、その丘陵地に奈良時代以降多くの人々が入植し、山野を切り開き須恵器づくりのための「集落」を形成し、関東屈指の須恵器生産地として発展した。
 将軍沢近辺は高低差を必要とする登り窯には、まさにうってつけの景観であり、良質の粘土と薪としての森林資源、そして地形などの好条件が合致し、沢山の登り窯が築かれ大量の須恵器が生産されていたという。また製品の出荷には丘陵の南北を挟むように流れる越辺川と都幾川が舟を通して利用され、同時に丘陵を縦断する東山道武蔵路、あるいは後の鎌倉街道は、武蔵国府(東京都府中市)や国分寺に須恵器と瓦を届けるために開かれたものであったのだろう。


「嵐山町教育委員会」資料の中で、 将軍沢地域は13世紀半ばから新田系氏族である世良田氏の領地となっていたという。世良田氏は上野国新田4分家の1つで、寛元2年(1244)長楽寺を創建した義季が新田の遺領であった当地を継ぎ、その後弥四郎頼氏・教氏(沙弥静心)・家時(二子塚入道)・満義(宗満)と領した。長楽寺には教氏と満義が寺に宛てた寄進状が今も残されている。

 同時に「中世嵐山にゆかりの武将と地名/嵐山町」では将軍沢地域と世良田氏の関係について以下のように記している。
将軍沢郷と世良田氏(せらだし)
畠山重忠没後の鎌倉時代後半の嵐山町の様子を伝える資料は非常に少なく、わずかな手がかりをとどめるにすぎません。その中で群馬県新田郡尾島町の長楽寺に所蔵されている文書に興味深い資料があります。将軍沢は大蔵から笛吹峠に向う途中にある集落ですが、この文書によるとここは当時世良田氏の領地で将軍沢郷と呼ばれていたことがわかります。世良田氏は清和源氏の一門である新田氏の一族で、頼氏のとき上野国(群馬県)世良田を領し世良田の姓を名乗りました。文書は二通あり、一通は頼氏の子教氏(のりうじ)(法名静真・せいしん)が、亡息家時の遺言により比企郡南方の将軍沢郷内の田三段(たん)を上州世良田の長楽寺に灯明用途料(とうみょうとりょう)として寄進するという内容です。
また、もう一通は家時の子満義のとき、将軍沢郷内の二子塚入道の跡の在家一宇(ざいけいちう)と田三段、毎年の所当(しょとう)八貫文を長楽寺修理用途料として寄進するというものでした。長楽寺は世良田氏の氏寺であり中世には多くの学僧を集めた大寺院として栄えました。

 熊谷市・万吉氷川神社の項でも触れたが、万吉地域周辺も嘗て新田氏の領地が存在していたりと、自分の母方の本家筋が本拠地である上野国・新田荘のみならず、武蔵国内に多くの所領を持っていたことに関心を持つ。新田氏本宗家は頼朝から門葉と認められず、公式の場での源姓を称することが許されず、官位も比較的低く、受領官に推挙されることもなかった。早期に頼朝の下に参陣した山名氏と里見氏はそれぞれ独立した御家人とされ、新田氏本宗家の支配から独立して行動するようになり、新田氏の所領が増えることはなく、世良田氏や岩松氏の創立などの分割相続と所領の沽却により弱体していく一族、という今までの通説で語られてきた歴史観をもう一度再検討する良い機会ともなった。

拍手[1回]