北堀久下塚飯玉神社
「地名の研究〕では文武天皇の世(701年)大宝律令によって定められた土地制度で、全国の国、郡、各々に国司、郡司、里長が置かれた。郡司の治所(郡役所のあるところ)を郡家と書き、訓読みでは“コオリノミヤケ”、音読みで“クゲ”“グウケ”と読んだところから転じて郡家の所在地を久下と書くようになったという説に対して、「埼玉県地名誌」では「崩潰」を意味する古語であり、“クケ”とは、水が漏って貫ける意味となり、洪水のために堤が崩壊された為にこの名が生じたと解釈している。久下地域を地形的に見ると、古くは荒川の氾濫地域であった。よって、久下の名は、荒川堤の崩潰によって生じたという説もある。
・所在地 埼玉県本庄市北堀1602
・ご祭神 倉稲魂命
・社 格 旧村社
・例 祭 祈年祭 2月19日 大祓 7月15日 例祭 10月19日
新嘗祭 12月14日
北堀久下塚飯玉神社は本庄・早稲田駅の北側に鎮座する。埼玉県道86号花園本庄線と駅前通りが接する交差点を北側に進むと、次の信号のある交差点手前左側に北堀飯玉神社が鎮座する場所に到着する。周囲は本庄早稲田駅開業に伴う開発が進み、大型ホームセンターや外食産業も立ち並び、現代風に環境整備されていて、明るい環境の中にこの社はある。境内は小ぢんまりしていますが、手入れは良くなされていて、気持ちよく参拝ができた。
社号標柱及び正面朱の両部鳥居
北堀久下塚飯玉神社の創建年代等は不詳ながら、一ノ谷の合戦でも活躍した児玉党の久下塚庄二郎弘定が崇敬したと伝えられ、当地一帯久下塚が村として独立していた頃は鎮守社として祀られていたともいう。昭和13年に村社に列格している。
入り口付近にある案内板
飯玉神社 御由緒
□御祭神 倉稲魂命
□御縁起(歴史)
鎮座地の久下塚は、武蔵七党児玉党の久下塚氏の名字の地と考えられており、元来は独立した村であったが、中世の末期に北堀に繰り入れられるようになったようである。また、地名の「久下」は古代の役所である「郡家」が転じたものであるとの説もあるが、これを裏付ける遣跡は現在のところ発見されていない。
当社は、久下塚の産土として祀られてきた神社で、『児玉郡誌』によれば、創立の年代は不詳であるが、児玉党の支族である公家塚庄二郎弘定が崇敬した最も古い社であるという。この公家塚庄二郎弘定とは、「児玉党系図」(諸家系図纂)によれば、一ノ谷の合戦で源氏方に属して戦功があったと伝えられる家長の弟で、その息子の親弘は公下塚本太郎と称している。境内には存しているならば樹齢七二〇年位の目通り周囲一二・七メートルほどの欅の御神木があったことから、古社であることがうかがえる。
『風土記稿』北堀村の項に「飯玉明神社 日光院の持」と記されているように、江戶時代には日光院が別当であった。この日光院は、一説には京都から小幡中納言某という公卿がこの地に流されて来た際に開いた寺であるといわれ、公家塚古墳と呼ばれる県内第四位の大きさの円墳の麓にあったが、神仏分離によって公家塚氏墓所となった。不動堂は、その名残である。
案内板より引用
参道左側にある大黒天の石板と老木(写真左・右)
拝 殿
久下塚氏は児玉党の支族で、北堀村字久下塚より起っている。武蔵七党系図に「庄権守弘高―庄二郎弘定―久下塚本太郎親弘―三郎左衛門尉重能―太郎重綱(弟に三郎時国、四郎重経)―太郎三郎景春、重能の弟四郎弘盛―太郎盛氏(弟四郎朝盛)」。冑山本に「久下塚庄二郎弘定―久下塚本太郎親弘(弘重に改名)」と見える。吾妻鑑卷二十九にも「貞永二年正月三日、久下掾(塚)源内・同三郎」と記されていて、苗字はその地域の地名を基に唱える場合が多く、久下塚地名起源は平安時代後期以前にまで遡ると思われる。
社殿左側に鎮座する境内社・稲荷社 社殿の右側には子供の遊具と共に末社が鎮座
詳細は不明
北堀久下塚飯玉神社が鎮座する北堀「久下塚」付近には古墳が多くあり、現在はそのほとんどは消滅しているが、公卿塚古墳は昭和年代2回調査した結果、西側に突出部が存在する全長70mの大型古墳と判明した。円筒埴輪や形象埴輪も採集されていて、円筒埴輪は格子目叩き整形の野焼きで朝鮮南部に見られる技法。これら遺物から、5世紀初から中期の築造と思われ、嘗てこの古墳に埋葬された人物はかなり高貴な人ではないかと考えられ、久下=公卿としてこの字をあたえたと考えられているという。