古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

下細谷天神社


               
             
・所在地 埼玉県比企郡吉見町下細谷313-1
             ・ご祭神 菅原道真公
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 春祭 325日 例祭 75日 秋祭り 1017

 吉見町下細谷地域は地域中央部には吉見町役場があり、南側に接している久保田地域と共に町の市街地に当たる場所で、行政区域も町役場を中心に東西約1.3㎞、南北約1.2㎞のやや正方形に近い地域である。
 地域全体低地帯に属している。地域の平均標高は12m15m。標高が高い下細谷天神社でも16.3m程。東西にはそれぞれ台山排水路、横見川が南北に流れていて「新編武蔵風土記稿」にも「吉見用水を引けど、水不足なれば大里郡恩田村より出る清水、及び和田吉野川の水を引て沃(そそ)く」と記載され、嘗て水の被害が多かった場所である事も地形を確認すると分かる。
 下細谷天神社は吉見町役場から北側250m程の場所に鎮座する地域の鎮守様である。
               
                                    下細谷天神社正面

 下細谷天神社は埼玉県道345号小八林久保田下青鳥線沿いにある吉見町役場を350m程北上し、変則的な十字路を左折し、暫く進むと進行方向左側で道路沿いに社は鎮座している。
 和名野芽神社からは一旦東方向に進路を取り、横見川沿いに進むとすぐ先に十字路が見えるので、そこを右折する。あたり一面長閑な田畑風景が広がる道を東行すること500m程で、またもや十字路に達し、左折し暫く進むと右側に下細谷天神社が見えてくる。
 社は道路沿いに鎮座し、社殿は東向き。鳥居のある正面周辺には駐車スペースはないが、西側社殿の奥に駐車可能な空間があり、そこに停めてから参拝を行う。
               
                社号標柱の先に鳥居が見える。
 
       下細谷天神社鳥居           鳥居の先には比較的長い参道が続く。
               
          境内は綺麗に整備されていて、手入れも行き届いている。
      また社殿の手前には広い空間があり、両脇には椅子も設置されている。
        吉見町唯一の「下細谷ささら獅子舞」が奉納される場であろう。

 下細谷ささら獅子舞  町指定無形民俗文化財
 通称「ささら獅子舞」と称する三頭の獅子による獅子舞で、このささら獅子舞は静岡県から東北地方にかけて広く分布している。県内では約200箇所で伝承されていることが確認されている。かつて吉見町内には下細谷・松崎・一ツ木に獅子舞があったが、後継者の問題などから、現在ではこの下細谷地区に伝わる獅子舞だけが残っている。
 下細谷ささら獅子舞は、今から400年前ほど前の江戸時代前期に東北地方から伝わったと言われている。吉見地域で飢饉があり、同様な飢饉に見舞われていた東北地方を視察に行った際に、疫病退散・豊作祈願の獅子舞があることを知り、習い伝えたのが始まりと言われている。かつては旧暦の72627日(現在の92627日)に行っていたが、現在では例年10月中旬の日曜日に行われている。
 獅子舞は獅子3頭(男獅子2頭・女獅子1頭)、花笠をかぶるザキッコ4人(小学生)、笛吹き10数人、山伏役1人(ホラ貝を吹きながら一人で行列の先頭に立つ。ホラ貝を吹くのは祭りの場を清める意味を持つ。)、棒使い16人で構成され、全員で40人ほどになる。
 古代、田植え行事には屋根に菖蒲を葺き、早乙女たちは身を清め忌みごもりして田に入り、神を祭る心で厳粛に田植えを行ったと言われている。平安時代になると、早乙女たちが苗を植える間、男たちは笛や鉦・太鼓を叩きササラを摺って田の神を祭る行事が営まれるようになった。これが田楽の起こりで、その後、田楽は神社の祭礼にも取り入れられるようになった。下細谷のササラ獅子舞もこの田楽の流れを汲むものである。
                                   「吉見町HP」
より引用
               
                                 拝 殿

 天神社 吉見町下細谷三一三-一
 社伝によると、当社の創建は寛文元年(一六六一)七月五日のことである。その後、天保十四年(一八四二)十一月に本殿を、嘉永四年(一八五一)三月に幣殿・拝殿をそれぞれ造営した。
 造営史料としては、本殿の石造台座に刻む銘文がある。これには「天保十四癸卯年十一月吉祥日」の年紀があり、別当照明寺をはじめ、同じ地内にある明王院の法印盛秀の名や世話人らの名が見える。現在の本殿はこの時のものと伝え、精緻な彫刻が施された秀逸な造りである。内陣に奉安する神牌には、中央に「十一面観世音菩薩」、その左右に「天満宮本地佛」「彌勒菩薩」と刻まれ、神仏習合の模様を伝えている。
『風土記稿』下細谷村の項には「天神社 村の鎮守なり、照明寺持」とある。この照明寺は幕末に火災に遭い廃寺になったと伝えられる。
 明治四年に村社に列し、同四十年には字東上の無格社熊野社を当社に合祀し、併せて字中の無格社愛宕社と字諏訪の無格社諏訪社を境内に移転した。
 なお、当社には、寺子屋教育の模様を描いた奉納額(天文元年・一八六四)があり、往時地内で寺子屋が行われていたことがわかる。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
拝殿に掲げてある扁額は「天神社」「諏訪神社」        本 殿
     の二社。不思議な配列だ。
               
             境内に設置された「天神社 改築記念碑」

 平成23年3月11日に発生した「東日本大震災」により、天神社の屋根が崩壊した。総代・氏子一同の話し合いにより、社殿を新しく建て替えることになったという。
 細谷天神社のみならず、多くの寺社が先の震災により被害を被り、未だに補修、改築されていない所もある。自然災害であるのでどうしようもないが、痛ましいことだ。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「吉見町HP」「埼玉の神社」等

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