古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

東五十子若電神社

神社散策の目的の一つにその鎮座している地名の由来も含まれる。その地方の独特の名称の由来を自分なりに紐解くことで、その歴史の淵源を少しでも知ることができるからである。
 本庄市には一見変わった地名がある。「五十子」。仕事の途中で偶々通り過ぎた際に、その地名を知ったわけであるが、変に印象が強かった為、業務終了後調べてみると「五十子」と書いて「いかっこ、いかこ、いそこ」と読む。時には「いかご」」とも読まれるようだ。
 この地域は東流する女掘川の侵食により、段丘崖が形成され、その北方には利根川の低地帯が広がる。南には小山川があり、東南800m地点で志戸川と合流している。これにより、北・東・南の三方を河川の段丘崖に画された自然の要害地となっていて、段丘崖の比高差は37mになる。
 「五十子」地区はその地形上の特性から、室町時代中期に発生した『
享徳の乱』における激戦地の一つで、時の古河公方・足利成氏と関東管領・上杉氏一族の間で行われた戦いであり、長禄3年(1459年)から文明9年(1477年)にかけて断続的に続けられた合戦である。5代鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を暗殺した事に端を発し、室町幕府・足利将軍家と結んだ山内上杉家・扇谷上杉家が、足利成氏と争い、関東地方一円に拡大した戦いであり、享徳の乱は、関東地方における戦国時代の始まりと位置付けられている。
 ・所在地 埼玉県本庄市東五十子10
 ・ご祭神 別雷命
 ・社 格 旧村社
 ・例 祭 祈年祭 2月20日 春祭り 4月4日 天王祭 旧暦6月1日 秋祭り 10月19日
         
 
東五十子若電神社は国道17号を本庄方面に進み、17号バイパスと合流後、鵜森交差点を左折、そのまま道なりに進むと、「増上寺」が右側に見え、そのお寺の隣にこんもりとした古墳上にこの社は鎮座している。駐車スペースは社周辺にはなく、隣接するお寺の駐車場に停めて、参拝を行った。
         
            
東五十子若電神社正面の鳥居。左側には案内板あり。
         
                      案内板
 若電神社 御由緒
 本庄市東五十子一〇
 □御縁起(歴史)
 東五十子は、南を小山川、北を女堀川に挟まれた地域で、集落は台地上にある。中世には五十子のうちに含まれ、長禄三年(一四五九)ころ、関東管領山内上杉房顕が当地に砦を築いて自ら滞在して陣頭指揮を執ったので、これを五十子陣と呼ぶ。元禄年間(一六八八-一七〇四)に当村と西五十子村に分村したという。
 当社は、集落の西南端に鎮座し、高さ三・ニメートル、直径約二〇メー トルの古墳の上に祀られる。創建については『児玉郡誌』に「当社は古老の口碑に、三代実録に記載しある若電神社なりと云ひ伝ふ。天慶年中(九三八-九四七)平将門追討の際、藤原秀郷当社に来り戦勝を祈願し、武蔵守就任の後、報賽として、社殿を再建し、別当職として増国寺を創立す(以下略)」と記される。また、社家の諏訪家に伝わる口碑によると、当社は元来西五十子に鎮座する大寄諏訪神社と小山川を挟んで相対して祀られていたが、小山川の氾濫により当地に流れ着いたので、神聖な古墳上に祀ったという。更に『風土記稿』には「雷電社本地十一面観音を安ず、増国寺の持」と載る。
 明治初年の神仏分離により、当社は別当の増国寺から離れ、村社となった。『明細帳』によれば、現在の社殿は元和八年(一六二二)に三度目の建て替えをしたという。更に、明治四十二年一月に請負人大工本荘町小暮庄九郎、塗師請負坂本自作により改築修繕が行われた(中略)
                                    
境内掲示板より引用
 
    参道正面。古墳頂上部に社が鎮座          参道途中右手には手水舎
 五十子(いらこ・いかご)の戦いは、古河公方・足利成氏と関東管領・上杉氏一族の間で行われた戦いである。「享徳の乱」における激戦の一つであり、武蔵国の五十子周辺において、長禄3年(1459年)から文明9年(1477年)にかけて断続的に続けられた合戦で、
関東管領である上杉房顕が、古河公方である足利成氏との対決に際し、当地に陣を構え築いたものが五十子陣である。
 この「五十子」は本庄台地の最東端に位置し、利根川西南地域を支配していた上杉方にとって、利根川東北地域を支配していた足利方に対する最前戦の地として選ばれた。このように武蔵国五十子(現埼玉県本庄市)は上杉房顕&顕定が古河公方:足利成氏(しげうじ)と約
20年に渡って対峙し続けた場所であり、短期間とはいえ上杉方にとっては攻防一体の戦陣に適した戦略上の重要拠点でもあったといえる。
     
           古墳前であり、社の階段前に聳え立つ御神木。
 もともと
この乱の発端は、南北朝時代から始まるという。本拠地が関東でありながら、南北朝の混乱のために京都の室町にて幕府を開く事になった初代室町幕府将軍・足利尊氏が、将軍は常時京都に滞在せねばならない為、留守になってしまう関東を統治するため、自身の四男である足利基氏(もとうじ)を鎌倉公方として、関東に派遣した事に始まる。
 以来、将軍職は尊氏嫡男の足利義詮(よしあきら=2代将軍)の家系が代々継ぎ、鎌倉公方は基氏の家系が代々継いでいき、鎌倉公方の補佐する関東管領(当初は関東執事)には上杉(うえすぎ)氏が将軍家の命により代々就任する事になったが、徐々に、鎌倉公方は将軍家、並びに将軍家のお目付け役であり、後見的存在でもあるである関東管領とも対立し、独立政権として、自らの道を歩み始めようとするようになった。この対立構造は年々顕著になっていき、これを話し合いという平和的な解決方法ではなく、軍事的な行動により決着させようとした、俊才でありながら「籤(くじ)引き将軍」とも「万人恐怖の独裁者」と言われた6代将軍足利義教は、前関東管領上杉憲実を討伐しようと軍を起こした第4代鎌倉公方足利持氏を、逆に憲実と共に攻め滅ぼした(永享の乱)。その後、義教が実子を次の鎌倉公方として下向させようとすると、結城氏朝などが持氏の遺児の春王丸、安王丸を奉じて挙兵する結城合戦が起こるが、これも鎮圧され、関東は幕府の強い影響の元、上杉氏の専制統治がなされた。
 しかし、嘉吉の乱により将軍義教が赤松満祐に殺害されると、幕府は関東地方の安定を図るため、上杉氏の専制に対抗して鎌倉府の再興を願い出ていた越後守護上杉房朝や関東地方の武士団の要求に応え、持氏の子永寿王丸(足利成氏)を立てることを許し、ここに鎌倉府は再興された。
         
                 社殿。墳頂部に鎮座する。
 再興後の鎌倉府では、持氏が滅ぼされる原因となった憲実の息子である上杉憲忠が父の反対を押し切り関東管領に就任し、成氏を補佐し始めたが、成氏は持氏派であった結城氏、里見氏、小田氏等を重用し、上杉氏を遠ざけ始めた。当然、憲忠は彼ら成氏派に反発し、関東管領を務めた山内上杉家の家宰である長尾景仲、扇谷上杉家の家宰太田資清(太田道灌の父)らは、結城氏等の進出を阻止するため、宝徳2年(1450年)に成氏を攻めた。この合戦は間もなく和議が成立したが、これにより鎌倉公方と上杉氏との対立は容易に解消し得ない状態となった。
 鎌倉を辞していた憲忠は間もなく許され鎌倉に戻ったが、成氏により景仲方の武士の所領が没収されたことを契機に、成氏と景仲ら憲忠家臣団との対立は所領問題に発展したとされている。
   社殿に掲げてある「若電神社」の扁額        社殿手前には神楽殿あり
 享徳31227日(1455115日)、長尾景仲が鎌倉不在の隙に鎌倉公方・足利成氏は、関東管領・上杉憲忠を謀殺。里見氏、武田氏等の成氏側近が長尾実景・憲景父子も殺害した。在京していた憲忠の弟上杉房顕は兄の後を継いで関東管領に就任、従弟の越後守護上杉房定(房朝の従弟で養子)と合流して上野平井城に拠り、「享徳の乱」が勃発した。
         
 この「五十子」地域は河川等が合流して形成される段丘上に位置する地形上の要衝地である以外にも、
鎌倉時代からの主街道である「鎌倉街道・大道」が武蔵国南部から北西方向に続き、上州に至る結節点でもあり、古利根川以西を掌握していた関東管領家側にとって、この道を奪取される事(分断される事)は戦力に大きな影響を与える事になる。武州北西部の辺りで、前橋方面、児玉山麓方面、越後方面への分岐点があり、ちょうどこの分岐点の南側前面に本庄は位置していて、この大道を守護する必要性が生じた事も五十子陣が築造される事となった一因である。
 東西を分け断つ地理的な要因と南北へと続く軍事面での道路の関係上、武蔵国の北西部国境沿いに位置した本庄・五十子は、山内上杉家と古河公方家が対立する最前線地の一つと化したわけである。

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