古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

下浅見八幡神社

「児玉党」は平安時代末に出現した武蔵武士団である武蔵七党の一派である。かれらは神川町の阿久原牧という牧場に派遣されてきた別当 (牧場を管理する職務)の貴族藤原氏と主従関係(或いは血縁関係)を結び、自ら開いた土地を「児玉庄」という庄園を作り貴族に寄進して中央権力の庇護を得た。
 児玉町域内にいた児玉党の一族は「庄・児玉・蛭川・塩谷・阿佐美・河内・真下氏」等がいた。その彼らの党祖とも言える児玉弘行・経行兄弟は八幡太郎義家に従い奥州合戦に従軍し、その後も義家の命で上野国多胡氏を討ち滅ぼしたりして活躍し、武家の棟梁たる源氏と児玉党と塩屋氏館跡推定地の深い繋がりを築いた。
 児玉党の一派である阿佐美氏(あさみし)は、武蔵国児玉郡入浅見村(現在の埼玉県本庄市児玉町入浅見)発祥の氏族で、武蔵七党中最大の武士団とされた児玉党を構成する氏族である。
 ・所在地 埼玉県本庄市児玉町下浅見879
 ・ご祭神 誉田別尊
 ・社 格 旧村社
 ・例 祭 春祭り44日  秋祭り1015日  新嘗祭1210日 他
         
 
下浅見八幡神社は埼玉県道352号児玉町蛭川普済寺線を児玉町方向に進む。小山川を越えて暫く道なりに進み、下児玉交差点を右折してしばらく進むと、進行方向に対して左側にポツンと独立した大きな鳥居が見えてくる。参拝時刻は午前中で快晴であったが、鳥居正面に対して太陽を正面に浴びる状態になり、逆光状態での撮影となってしまった。
         
 そこで以前参拝して撮影した写真を載せる。因みに撮影日は平成26年8月4日の午後。撮影する時刻も考慮する必要もあると反省したと同時に、カメラ機能の調整(ISO感度は少し低めに調整するか露出補正で明るさ調節等)により、逆光状態でも十分に対応できることも、参拝終了後改めて知った。


         
                 撮影日 平成26年8月4日(午後)
 鳥居を過ぎると正面にこんもりとした社叢が見える。
神社境内地の大部分が元は古墳だったのではないかと思ったが,案内板等では近郊の館である「関根氏館」に対して見渡せる小高い丘を選んで館の守護神として鎮座しているとの事だ。
 因みに「関根氏館」は阿佐美実高の館があったと伝っているが、「関根氏」の館の名称からも後代に関根氏が住んでから付けられたと考えられ、阿佐美氏とどのような関係があったかは現在判明していない。明治の地籍図でも確認されているが70mほどの方形区画に水路として使用されたと思われる外堀跡もみられ、一説によると外堀は幾重にも設けられていたと伝わるそうだ。
 駐車スペースは社殿外に確保されており、そこに停めて参拝を行った。
   
   大鳥居を過ぎてから社殿前の鳥居を撮影        鳥居の近くにある案内板
        
                     拝  殿
○八幡神社 御由来 
 御縁起(歴史)   
 下浅見は、かつては入浅見と共に阿佐美といわれ、児玉党阿佐美氏の本貫の地とされる。 児玉党系図(諸家系図纂)によると、児玉庄大夫家弘の末男弘方が、阿佐美氏を称している。弘方の子実高は、文治五年(一一八九)の奥州征伐に従軍し、翌年の源頼朝上洛の際にも供奉したことが『吾妻鏡』に見える。 地内の字新堀には「関根氏館」と呼ばれる館跡があり、一辺が七   〇メートル前後の正方形の内堀が現存する。この地をかつては「二重堀」と呼んだことから、外堀もあったと考えられるが、現状では確認できない。明治期に書かれた「下浅見地誌」には、浅見実高が居住したとある。
 当社は、『児玉郡誌』によれば、浅見実高が奥州征伐の帰陣の際、鶴岡八幡宮を当地に勧請して産土神としたという。当社は、館跡から見て南東で、館に続く街道沿いの小高い丘の上に鎮座することから、館を見渡せる場所を選んで、館の守護神として祀ったのであろう。
 『風土記稿』によれば、当社は村の鎮守で、地内の成就院持であった。 成就院の開山頼元は、元禄七年(一六九四)寂と伝えられる。
 明治に入り、当社は別当成就院を離れて、村社となった。明治四十年には字雷電山の無格社雷電神社を本殿に合祀した。なお、『明細帳』によれば、現在の社殿は正保五年(一六四八)の再興である。本殿には、木造の騎乗八幡大明神像(高さ二二センチメートル)が奉安されている。
                                        案内板より引用
  
    拝殿に掲げている「八幡宮」の扁額           本  殿
        
      社殿の左側には広い空間があり、その周りには境内社等が鎮座している。
  
        境内社  名称不明
         社殿の左奥で丘の上に鎮座する末社群
  
       社殿奥の丘上に鎮座する                社殿の奥で丘上に鎮座する末社群
   
御嶽大神、三笠山大神、八海山大神等            名称不明

 児玉党は、平安時代後期から鎌倉時代にかけて武蔵国で割拠した武士団の一軍団で、主に武蔵国最北端域全域(現在の埼玉県本庄市・児玉郡付近)を中心に入西・秩父・上野国辺りまで拠点を置いていた。
 武蔵七党の一つとして数えられる児玉党は諸々の武士団の中では最大勢力の集団を形成していたという。氏祖は、藤原北家流・藤原伊周の家司だった有道惟能が藤原伊周の失脚により武蔵国に下向し、その子息の有道惟行が神流川の中流部にあった阿久原牧を管理し、ここに住して児玉党の祖となった有道氏である。また「有」とは、有道氏の略称として伝わる。子孫の多くは神流川の扇状地に広がって、猪俣党と共に児玉の条里地域を分けていた。牧に発し、子孫が条里地域に広がっている。
 古書などでは、児玉党を「武蔵七党中、最大にして最強の武士団」と書いているが、集団の規模が大きかったために滅びにくかったというだけのことであり、負け戦も少なくはない。但し他の武蔵国の中小武士団と比べれば、長続きしたのも事実でもある。
          
                 駐車場から撮影、やはり逆光。

 「浅見」との地名の由来は、埼玉県本庄市児玉町入浅見・下浅見発祥。戦国時代に「阿佐美」の表記で記録のある地名で、苗字としても同地で平安時代末期に阿佐美姓を称したと伝えている。「浅見」という苗字は埼玉県特有の苗字らしく、秩父地方を中心に奥多摩から群馬県の南部にかけて、全国の半数が分布する。

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