中小坂神明神社
その神仏習合形体の一つが「両部神道(りょうぶしんとう)」といい、仏教の真言宗(密教)の金剛界・胎蔵界の両部の理論をもって,日本古来の神と仏の関係を位置づけた思想である。真言の哲理をもって神道の神,神話,神社,および行事を説明しようとする。すなわち,大日如来を本地とし,諸神はその垂迹であるとする。両部とは不壊と智を意味する金剛界と,育生と理を意味する胎蔵界の大日であるとし,二でありつつ一体不二であると説き、日本特有の神仏調和を基として,中世以降,国民の思想と生活に大きな影響を与えた一連の宗教思想といえる。この思想は近世以降,新たに提示された神道説の基本と位置づけられたが,明治期になると神仏分離政策により衰退した。
坂戸市中小坂地域に鎮座する中小坂神明神社は、今でこそ「神明神社」との名称であるが、嘗ては「天照大神春日八幡相社」と称し、『新編武蔵風土記稿』中小坂の項には、「天照大神春日八幡相社 村の鎮守なり、村内慈眼寺持」と載せ、内陣には雨宝童子像・春日大明神像・八幡大明神像とそれぞれに祭神名を記す神鏡三面を安置している。
この中の「雨宝童子」とは「両部習合神道」の神であり、天照坐皇大神が日向に下生した際の姿とされ、大日如来が化現した姿とされることもあり、神仏習合思想の影響を未だに色濃く残している社ともいえよう。
・所在地 埼玉県坂戸市中小坂1
・御祭神 天照皇大御神
・社 格 旧中小坂村鎮守 旧村社
・例祭等 不明
埼玉県道269号上伊草坂戸線沿いに鎮座している横沼白髭神社から西方向に進路を取り、「三芳野小前」交差点を左折する。道沿いを1.6㎞程南下し、「さかど療護園」の看板が左側にある十字路を左方向に進み、100m程でT字路に到着するので、そこを右折すると、進行方向左手に「中小坂下集会所」があり、そのすぐ隣に中小坂神明神社の社号標柱が見えてくる。
駐車スペースは「中小坂下集会所」に数台可能であるので、そこに停めてから参拝を開始した。集会所の奥には緑豊かな社叢林が広がり、「神明社」の称号も合わさって、参拝も自然と厳かな気持ちとなった。
中小坂神明神社正面
こんもりとした社叢林が一際目立つ社
『日本歴史地名大系』 「中小坂村」の解説
[現在地名]坂戸市中小坂・東坂戸一―二丁目
紺屋(こうや)村の南にあり、南は高麗郡下小坂村(現川越市)、北西は同郡下広谷(しもひろや)村(現同上)。入間郡河越領に属した(風土記稿)。田園簿では田六九石余・畑八八石余・野高一石余、水損場と注記される。
幕府領(一二八石余)・川越藩領(二一石余)・旗本設楽領(一〇石)の三給。川越藩領分は寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高二七石余、反別は田一町七反余・畑一町五反余。元禄一五年(一七〇二)以前に全村が川越藩領となるが、村高は九四石と減少している(河越御領分明細記)。秋元家時代の郷帳では高九四石余、検地出高二〇四石余、反別は田一四町五反余・畑五一町余。
道路から少し入った場所に鳥居は立っている。
所在地は「坂戸市中小坂1」。この中小坂地域において、東側端に位置していながら、まさにこの地域の始点となる場所にこの社は鎮座している。
参拝中は全く気付かなかったが、後日グーグルマップで確認すると、この社は西向き(正確には南西方向)に社を構えている。
中小坂地域は東西が2㎞程で、南北に比べて非常に長い地域である。社の東方向には入間川や越辺川が合流する地点でもあり、肥沃なデルタ地域を形成する場所でもある。しかし肥沃な地域であるのも関わらず、『新編武蔵風土記稿・中小坂村条』にも記されているように「水田少なく陸田多し、天水場なれど村内に溜井あり、是をも用水の助とす、旱損あり」と、河川等の恩恵は少なく、むしろ干ばつ等の被害が出やすい地域でもあったようだ。
その地域において、この東端という位置に社が鎮座していることは非常に意味があり、嘗ての旧中小坂村の鎮守様であり、地域住民の方々の生活が困らないように日々見守ることができるこの西向き配置は納得できよう。
拝 殿
神明神社 坂戸市中小坂一(中小坂字神明)
当社は越辺川右岸、中小坂の東端に集落を望むように西南向きに鎮座し、境内は白樫・椚などからなるこんもりとした杜である。
『風土記稿』中小坂村の項には「天照太神春日八幡相社 村の鎮守なり、村内慈眼寺持」と載せ、内陣には雨宝童子像・春日大明神像・八幡大明神像とそれぞれに祭神名を記す神鏡三面を安置している。なお、神鏡には「正徳三癸巳建立」の墨書が見られる。また、大昔は神明様一柱だけであったという口碑がある。
このようなことから当社は、初め天照大御神一柱を祀っていたが、室町末期から広く庶民信仰として普及した三社託宣により、正徳三年に春日・八幡の二社を相殿に奉斎して三柱となったものと考えられる。『明細帳』では、社号を神明神社と改め、主祭神を天照皇大御神のみとして、ほかの二柱については載せていないが、これは明治維新の影響を受けた結果と推察される。
明治五年に村社となり、同九年には慈眼寺境内の津島神社、同四〇年には字原の白山社・字中戸の愛宕社・同境内社の浅間社・字大滝の稲荷社を合祀したが、このうち津島神社と白山社はそのまま社殿が残り、祭りも続けられている。
「埼玉の神社」より引用
本 殿
社を覆うように広がる社叢林(写真左・右)
この中小坂神明神社の社叢林は、埼玉県の鎮守の森リストにも登録されていて、高木層にシラカシが優占しているだけでなく、亜高木層や低木層に、シラカシの若木や、ツバキ、アオキ、ネズミモチ、ヒイラギ、サカキ、シロダモ等の照葉樹の小高木や低木が、それぞれの層に優占している。草本層にも、ジャノヒゲ、ヤブコウジ、ヤブラン、キヅタなどの照葉樹林の構成種が多い。林の規模が小さいため、シラカシ林構成種のほか、他の落葉樹等も混生しているが、森林の各層に照葉樹が優占したシラカシ林となっている。
地域の貴重な一つの文化的遺産として、後世に残したいものだ。
社殿左側奥には石祠群が祀られている(写真左)。また拝殿手前で左側には、3基の境内社が並列して祀られていて、一番手前には八坂神社・天神天満宮合祀社(写真右)が祀られている。
八坂神社・天神天満宮合祀社の左隣の境内社 その隣には境内社・大口眞神が鎮座
詳細不明
静かな社の一風景
冒頭にて両部神道の解説をしたが、これに関連した「こぼれ話」を偶然知るに至ったので、この項を拝読している方々にも共有したいと思う。
鳥居とは、神社などにおいて「神域」と人間が住む「俗界」を区画する結界というものであり、神域への入口を示すものでもあり、一種の「門」である。
神社における鳥居にはいくつかの形式があり、笠木のみで島木がなく、笠木に反りがない直線的な「神明鳥居(しんめいとりい)」と、笠木と島木があり、笠木に反りがある「明神鳥居(みょうじんとりい)」とに大別でき、神明鳥居からの派生として「靖国鳥居」が、明神鳥居からは「鹿島鳥居」「「春日鳥居」「八幡鳥居」等とに分派されたという。しかしながら、一つの神社で複数の形状の鳥居が存在する例があることからも祭神によって鳥居の形状が決まるものではなく、鳥居に定められた形状は無い。また寄進者の意向によっては特徴が融合していることもあり、それらの分別は目安でしかないので、あくまで参考知識として知るにとどめた方が良いと思う。
鳥居の種類にも色々あるが、その中でも「両部鳥居」は一際目を引く外観である。この「両部鳥居」は、本体の鳥居の柱を支える形で稚児柱(稚児鳥居)があり、その笠木の上に屋根がある構造の鳥居であるが、名称にある「両部」とは密教の金胎両部(金剛・胎蔵)をいい、神仏習合を示す名残りともいい、神仏混交の神社に多く建てられたようだ。
参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」
「日本歴史地名大系」「鶴ヶ島市立図書館/鶴ヶ島市デジタル郷土資料HP」
「Wikipedia」等