瑳珂比神社(石剱稲荷大権現)
利根・広瀬両川の河川交通の便があったので古くから住民の土着があったと考えられ、繩文文化時代や弥生土師住居趾が多数あり、何百の古墳群が存在している。奈良朝時代には附近の三村を含めたこの一帯を「朝日の里」といった。鎌倉時代には隣村世良田にあった新田氏の領有するところであり、戦国時代には太田金山の城主由良氏に属している。由良氏の部将小此木左衛門長光が境城に拠った。この城はまた仮宿城とも呼ばれるが、その頃、境、仮宿の両地名が使われていたとみられ、境という名称はこの頃にいたって唱えられたと考えられる。
江戸時代には半分を伊勢崎藩酒井氏が領有、半分は旗本領および天領であった。
赤城山噴火の火山灰が降り積った大間々扇状地帯の南端にあたるため、町の大凡70%を占める北部地帯が関東ローム層で、水利を得る水田と桑園であり、米麦二毛作と養蚕を行う。南部の30%に当る地域は広瀬川氾濫原の堆積地で沖積底地にのぞむため、肥沃な畑地や桑園をなしている。特に養蚕と野菜栽培には最も適した地であったという。
1889年4月1日、市制町村制施行により、境町、境村と下武士村の一部が合併して佐位郡境町が誕生し、その後、平成17年(2005)1月1日に(旧)伊勢崎市、赤堀町、東村とともに新設合併し、伊勢崎市となったため消滅した。
・所在地 群馬県伊勢崎市境493
・ご祭神 (主)倉稲魂命
(配)火産霊命 建御名方命 素盞鳴命 大物主命
菅原道真命 鎮西八郎為朝 誉田別命 大日孁命
・社 格 旧境村鎮守・旧村社
・例祭等 瑳珂比夜まつり(酉の市) 12月10日
県道142号線と同県道14号線が旧境町市街地で交わる「境萩原」三又路を東行し、その後「境町駅入口」交差点を右折し250m程直進すると、正面に瑳珂比神社が見えてくる。地図を確認すると東武伊勢崎線境町駅の南側にあり、社の東側には長光寺が、また社の北側と南側にそれぞれ小学校・高校とに囲まれた場所に社は鎮座している。
因みに、長光寺は、「天台宗・小柴山」と号し、江戸時代には札所として観音霊場めぐりの巡拝者でにぎわったという。寺宝としては鎌倉期の作と伝えられる県の重要文化財に指定されている「懸仏」がある。さらに境内には、有名人の墓も多く蘭医の村上随憲や儒家の常見浩斉の墓石、芭蕉の句碑、酒井忠国の寄贈になる1681年(延宝9)の大きな石燈籠などがある。
瑳珂比神社正面
『日本歴史地名大系』「境村」の解説
新田郡に属し、西は佐位郡境町で、日光例幣使街道が通る。平坦地。元亨二年(一三二二)一一月二〇日の尼浄院寄進状案(長楽寺文書)にみえる「新田庄南女塚村」は当地に比定される。元禄郷帳では高二六八石余、幕府領。近世後期の御改革組合村高帳では上総貝淵(請西)藩領、家数五一。世良田村(現新田郡尾島町)に東照宮が創建されると、その火防役を課せられた。足尾銅山役も勤め、大原(現同郡藪塚本町)の銅問屋まで人馬を出し利根川の前島河岸(現尾島町)に銅を運んだが、文政九年(一八二六)免除された。村内を日光例幣使街道が通っていたため、東隣の女塚(おなづか)村との境界にある土橋の普請・整備役も課役されていたという。
江戸時代当時、境は例幣使街道の宿場町(境宿は間の宿)としてより、六斉市(糸市)が開かれた市場町として近在の伊勢崎と共に産業経済の発達していた地域であった。これは、宿の南を流れる利根川沿いに平塚河岸中瀬河岸などが設けられ、水運を利用して江戸との物質交流が盛んであったためと思われている。
入り口付近に設置されている社の案内板
正面一の鳥居とその先に見える二の鳥居
遠くに見える社殿は、参道に対して横を向いている。
拝 殿
瑳珂比神社
一、所在地 佐波郡境町大字境四九三番地
一、祭神
主祭神 倉稲魂命
配祀神 火産霊命 建御名方命
素盞鳴命 大物主命
菅原道真命 鎮西八郎為朝
誉田別命 大日孁命
一、由緒
当社の創建は戦国期に能登半島より小此木左衛門尉長光来り境他六ヶ村を領有した守護神として生国能登国の石動明神の分霊を境城内に奉斎した大永年間(一五二一~二七)とされている。長光の子左衛門次郎は正親町天皇の御代の元亀三年(1572)武運長久を祈って稲荷の神像と石製の剣を奉納し石剣権現と称した。後陽成天皇の天正八年(一五九〇)小此木氏が当地を退去すると郷民は当社を鎮守社と定め石剣稲荷大明神と改めた。
後に那波、新田両郡の境に当るため境村となり後光明天皇の正保四年に例幣使街道が開設され宿場町になると次第に町並みも形成され慶安年間(一六四八~五一)には境町となった。
桃園天皇の宝暦十一年(一七六一)拝殿が造営され後桜町天皇の明和三年には石鳥居が建立された。後桃園天皇の安永二年社前に押花絵馬(境町最古の絵馬)が奉納され光格天皇の享和元年(一八〇一)には氏子の発起により現在の社殿が建設されている。その後も神域は整備され明治七年には村社に列された。明治四十年九月に町内諏訪神社境内末社菅原神社、八幡宮疱瘡神社、八坂神社、稲荷神社、神明宮、琴平宮、秋葉神社を合祀し現在の瑳珂比神社と改称し今に至る。
境内案内板より引用
本 殿
ネットで覆われている為見ずらいが、一間社流造りの本殿には精巧な彫刻が施されている。
本殿左側奥に祀られている境内社・稲荷神社 稲荷神社の右側には庚申塔等が並ぶ。
庚申塔の右側に祀られている石製の天王宮。その隣には「例幣使道と六斉市」と表記されている案内板がある(写真左・右)。
例幣使道と六斉市
境宿は、柴宿と木崎宿の間の宿でした。文久三年(一八六三)幕府から日光例幣使道の宿場に取り上げられました。
当時の町並みは、四百六十三メートル余り、道幅は十四メートル余りあったようです。
境宿では、二と七の付く日の月六回糸市が開かれ「六斉市」と呼ばれていました。この市では、「さかいさげ」と賞された生糸の取引が盛んでした。その様子は、境島村の画家金井研香の「境街糸市繁昌図」(市指定重要文化財)に描かれています。江戸の学者寺門静軒は「外貨は地にあふれて限りない水のようだ」と讃しています。
高札場には、この市の守護神として天王宮が祀られていました。この宮の祭りは盛大で、近郊の村々から見物客が多く訪れたということです。祭りは、現在の「境ふるさとまつり」に引き継がれています。
案内板より引用
「例幣使道と六斉市」案内板の右隣に祀られている境内社。詳細不明。
境内北西側に祀られている招魂社の鳥居 招魂社
招魂社の鳥居の左側に高く聳え立つご神木(写真左・右)
社殿を側面から望む
瑳珂比神社の南側に隣接している「群馬県立伊勢崎高等特別支援学校」の南側に小さな池があり、その中心部に瑳珂比弁天宮が祀られている。
瑳珂比弁天宮正面
社が祀られている場所は、池の中にポツンと島状となっていて、南側にある橋が架かっており、その橋を通る事により社殿に近づくことができるのだが、残念な事に施錠されているため、遠方よりの撮影となった。
案内板等もなく、由緒等は不明である。
右側後方より撮影
参考資料「群馬県民俗調査報告書第五集 境町の民俗」「改訂新版 世界大百科事典」
「日本歴史地名大系」「Wikipedia」「境内案内板」等