古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

那須温泉神社境内社 見立神社


        
            ・所在地 栃木県那須郡那須町湯本182 那須温泉神社内
            ・ご祭神 天児屋根命 狩野三郎行広
            ・社 格 不明
            ・例 祭 例祭 527日

 那須温泉郷は、那須町の北西部にそびえる茶臼岳の山腹に散在する温泉群の総称である。那須連山の主峰・茶臼岳は、那須火山帯が最後に形成した山といわれ、標高は1,915m。栃木県唯一の活火山で、福島県南部を含む那須地方のランドマーク的存在。今なお白い噴煙を上げながら、広大な山麓一帯に豊富な火山性温泉を自然湧出させている。
 那須温泉の開湯は古く、その発見は第34代舒明天皇の御代(630年ごろ)に遡る。茗荷沢村(みょうがさわむら:現在の那須町高久乙)に住む郡司の狩野三郎行広が狩りの途中、射損じた白鹿を追いかけ霧雨が谷(現在の鹿の湯あたり)という深い谷に分け入ったところ、自らを温泉の神と告げる白髪の老翁が現れた。老翁の進言に従って三郎は鹿を探し、温泉に浸かって矢傷を癒している白鹿を見つけた。三郎はこの温泉を鹿の湯と名付け、温泉の杜(現在の那須温泉神社)を建立し、射止めた鹿角を奉納したといわれている。
 こうして開湯された鹿の湯は、温泉発見において日本で32番目に古く、栃木県では塩原、日光を抑えて最古、同じ関東の熱海、修繕寺、草津、伊香保らとともに、古い歴史を持つ日本の名湯として全国にその名を知られている。
        
                 境内社 見出神社正面
 見立神社は那須温泉神社の境内社であるのだが、社務所・儀式殿の先にある二の鳥居から正面右側に鎮座していている。境内社でありながらその創建由来でも分かる通り、温泉を発見して神社を建立し、歳時の祭礼怠りなく崇敬の誠をつくした狩野三郎行広を今なお周辺地域の方々から「那須温泉開発の祖」として大切に祀られていることが、この配置からも分かる
 那須温泉神社の由来等を確認するにつれ、本来の社はむしろこの社ではなかったかと疑いたくなる。
 
      見立神社鳥居奉納碑文          鳥居を越えて石段を登る先に社殿等
東日本大地震の際に、鳥居や灯籠などが破損した          が見える。
         そうである。
        
                                    拝 殿
 260年間余り続いた江戸時代中期の寛政年間、その当時歌舞伎役者の人気を相撲の番付風に格付けした、「見立て番付」が流行し、同じようなものが数々のジャンルに対して作成され、温泉番付もその中の1つとして作成された。
 温泉番付とは、温泉地を大相撲の番付に見立ててランキングしたものである。初めて作られたのは、江戸時代の安永年間(17721781)ごろといわれ、東日本の温泉地を東方、西日本の温泉地を西方に分け、人気ではなく温泉の効能の高さを元に、全国100ヵ所近くの温泉が番付されていた。
 温泉の番付は、作成された地域や年代により多少の違いがあるが、最高位(大関)は常に共通で、東は草津、西は有馬となっていた。文化14年(1817)に発行された「諸国温泉効能鑑」によると、東方の関脇が那須、西方では城崎で、那須温泉が東日本で草津に次ぐ二番手に格付けされている。那須温泉の番付はどの番付表においても総じて上位にランクされていて、江戸時代から那須温泉が湯治場として高く評価されていたことを窺い知ることができる。
        
                                     本 殿

 見立神社(祭礼日、527日)
 温泉発見者、狩野三郎行広(人見氏始祖)の創建、天児屋根命を祀る。後温泉発見の功により狩野三郎行広合祀される。慶応元年6月正一位を授けられ更に昭和29
年温泉神社と合併、境内社となる。

 見立神社のご祭神である天児屋命は、天岩戸(あめのいわと)神話のなかに登場する神で、中臣(なかとみ)氏・後の藤原氏の祖神である。中臣氏は古代に宮廷の祭祀を司り、主に祝詞を唱える役目を受け持った一族で、「古事記」「日本書紀」によれば、天岩戸にこもった天照大神を引き出すために、神々が神事を行った際、祝詞(のりと)を奏している。また天孫降臨にさいしては、布刀玉(太玉)命や天鈿女命などと共に、瓊瓊杵尊の天降りに際しては五部神(いつとものおのかみ)の一神として随行した。
 合祀されている狩野三郎行広は、那須温泉神社の由緒書によれば、「人見氏」の始祖と記載されている。現在でも「人見」姓は栃木県に一番多く(3,000人程)、その中でも栃木県北部の那須塩原市や那須郡那須町周辺だけで2,000人程存在する。前出した由来書でも、那須温泉神社の宮司は「人見」姓である。
        
              見立神社 拝殿から参道風景を望む。

 伊王野氏(いおのし、いおうのし)は、藤原氏長家流那須氏の一族で下野国那須郡伊王野発祥の氏族である。伊王野氏は那須頼資の二男資長が伊王野を分知され伊王野館を構えて居城とし、伊王野次郎左衛門尉資長と名乗ったことに始まるとされ、那須六家の一つとされる。
 この伊王野氏が摂政太政大臣・藤原道長の六男である藤原長家からの系統である詳細な文献資料が、筆者の調べた限りにおいて見いだせなく、この点はやや不透明な点が気になるところだが、もしこの系統が正しいのであれば、那須地域には間違いなく「藤原一族」の一派が存在していたことになる。

 そしてもう一人のご祭神である「狩野三郎行広」。出身地も都から遣わされた郡史とも、茗荷沢村の住人とも書かれていて、生まれた場所も特定できない人物である。加えてこの人物が活躍した時代背景も、欽明天皇のご時世(630年代)と途方もなく古い、非常に謎に満ちた人物である。

 ただ見立神社のご祭神が中臣氏・藤原氏の祖神である「天児屋命」であることは、この社の創建に少なくとも藤原一族が関与しているという箏は確かであり、筆者の愚考で恐縮ではあるが、もしかしたら狩野三郎行広」という人物も、この藤原系の一派だったかもしれない。

*追伸
 この「人見」姓は埼玉県深谷市人見地区とも関連の深い苗字でもあり、起源(ルーツ)であるともいう。この深谷市人見地区は、江戸時代以前、武蔵国榛沢郡人見村として、武蔵七党・猪俣党人見氏が同地に移住し、土着した一族である。
 今回見立神社を掲載するに際して、「人見氏」が出てきたので、その起源に共通するものがあったかどうか非常に関心があり、このような長々とした考察となってしまった事をお断りしたいと思う。

 
参考資料 「那須温泉旅館協同組合HP」「Wikipedia」等        

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