古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

那須温泉神社

 栃木県那須地域は雄大な自然に囲まれた日光国立公園に位置する那須高原が広がる地であり、牧場やテーマパークが中心のお洒落な観光地でも有名である。筆者も最低年に1回は、必ずこの地に観光を兼ね、自分へのご褒美として、また自分を常日頃から支えてくれている家族への感謝の気持ちも併せて旅行することを楽しみの一つとしている

 ところでこの那須地域は、観光地としての面ばかりクローズアップされがちであるが、実は古き歴史を彩る土地でもある。特に那須温泉郷は1300年以上の歴史を誇っており、源頼朝など歴史上の重要人物も数多く入湯したと伝えられている。
 世界有数の火山国である日本は、温泉の数も多く、加えて那須温泉神社のように温泉の存在が創祀に関わる神社がいくつも存在する。しかしその中で、平安時代の法律書である延喜式に記載された温泉に関わる延喜式内社は、全国でもわずかに十社のみであり、この那須町の那須温泉神社もその一つである
        
             ・所在地 栃木県那須郡那須町湯本182
             ・ご祭神 大己貴命・少彦名命・誉田別命
             ・社 格 旧郷社 延喜式内社 旧那須郡総領
             ・例 祭 節分祭 23日 例大祭・湯汲祭・献湯祭 108日
                  例大祭・献幣祭・神幸祭 109日

 那須温泉神社は「東北自動車道那須IC」を降りて栃木県道17号那須高原線、通称「那須街道」を茶臼岳方面に北上する。街道沿いにはレストランやお土産物店など、那須高原独特の華やかな雰囲気に包まれるが、そのまま20分程度車を走らせると、正面に那須温泉神社の鳥居が見えてくる。
 駐車スペースは鳥居の南側、「那須町観光協会」建物の向かいに十数台駐車できる場所が確保されていて(しかも無料)、そこの一角に停めてから参拝を行う。車を降りた瞬間から、「プーン」と硫黄の香りが漂う周辺環境は、温泉地そのもの。また紅葉は丁度見頃で雰囲気がとても良く、雨交じりの天候ながら、さわやかな朝の空気を体内に入れながら気持ち良く参拝できた。
 因みに「那須温泉神社」と書いて「なすゆぜんじんじゃ」と読むそうである。西暦630年頃に建立されたと言われている那須温泉のシンボル的な存在で、那須温泉神社は那須地方に存在する80社の総社。
 平安時代の末期、屋島の戦いの際には、那須与一が扇の的を射るに当たり、「南無八幡大菩薩、別しては吾が国の神明、日光権現宇都宮、那須温泉大明神、願わくはあの扇の真中射させてたばえ給え」と那須温泉神社を祈願して見事に扇を射たため、与一は名声を轟かして、那須郡の総領となり、凱旋の後その神恩の深いことを謝して、大社殿を寄進し、鏑矢、蟇目矢、征矢、桧扇、鳥居を奉納したという。
        
                                                    那須温泉神社 正面
        
                                   『こんばいろの湯』
 那須温泉神社の一の鳥居の手前左側には、人気の足湯『こんばいろの湯』がある。12人ほどが入れる大きさで、冷え性や切り傷などに効能があるそうだ。
 尚「こんばいろ」とは地域の言葉でカタクリの花のことであり、春になると那須温泉神社でも紫色の可憐なカタクリの花が咲くという。
 しかし当日(2022・11・15)不定期の休みの為、利用できなかったのは残念。
 
   一の鳥居にほぼ隣接した「こんばいろの湯」    「那須温泉発見のいわれ」の案内板

 那須温泉発見のいわれ
 那須温泉の発見は、西暦630年代といわれています。時は三十四代舒明天皇の時代七世紀前半、那須山麓の茗荷沢の住人・狩野三郎行広という者が、ある日、狩りにでて大きな白鹿にあい、矢を射って傷つけました。
 逃げ去る白鹿を追って峡谷に至ると、傷を負った白鹿が湧き出る温泉に浸かって、傷を癒しているのを見つけたことが那須温泉の発見といわれ、その後、温泉が開かれ、温泉神社が創建されたといわれています。

 現在の元湯・鹿の湯は、このいわれにちなんで名付けられたものです。
 西暦738年の記録である正倉院文書「駿河国正税帳」の条には、「小野牛養朝臣が病気療養のため奈良から那須温泉に向かった。」とあり、奈良時代から那須温泉が広く知れわたったことがうかがえ、全国数千の温泉の中でも、最も古い温泉といわれています。
こ の彫刻は、この那須温泉発見のいわれに基づき、大きな白鹿が那須温泉に浸かっているところを表したものです。

 平成5年4月  那須町
                                      案内板より引用
 
 社の参道は長く(写真左)、社殿までの間に、多くの境内社や石祠、ご神木などの施設等が存在する。まず一の鳥居と二の鳥居の間で左側には社務所兼儀式殿があり、その並びには那須町のパワースポットとしても知られている「さざれ石」がある(同右)。
 さざれ石はもともと小さな石という意味で、それが非常に長い年月をかけ凝結し、一つの大きな岩の塊へと成長していくといい、神霊の宿る石とされていて、触れると願いが叶うと謂われている。
        
                                        二の鳥居

 那須
与一(なすのよいち)は、平安時代末期の武将・御家人。系図上は那須氏二代当主と伝えられる。一般的に宗隆と紹介されることも多いが、家督を相続した後は資隆と名乗ったらしい。与一という名前の由来としては、与一は十あまる一、つまり十一男を示す通称との事だ。
 幼い頃から弓の腕が達者で、居並ぶ兄達の前でその腕前を示し父の資隆を驚嘆させたという地元の伝承があり、弓の腕を上げようと修行を積み過ぎたため、左右で腕の長さが変わったと伝えられている。
 治承4年(1180年)、那須岳で弓の稽古をしていた時、那須温泉神社に必勝祈願に来た義経に出会い、資隆が兄の十郎為隆と与一を源氏方に従軍させる約束を交わしたという伝説がある。その他与一が開基とする寺社がいくつか存在している。
 何と言っても『平家物語』に記される、源平合戦の一つである讃岐国・屋島の戦いにて船上の扇を見事射落した話が非常に有名な武将であり、那須与一が弓を放つ際に、「南無八幡大菩薩、別しては吾が国の神明、日光権現宇都宮、那須温泉大明神、願わくはあの扇の真中射させてたばえ給え…」と唱えたと記され、その「那須温泉大明神」がこの那須温泉神社である。
 因みに那須氏の当主の通称は一部の例外を除いて代々「那須太郎」であったが(那須資隆、那須光資等)、江戸時代以降、那須資景など那須氏の歴代当主は通称として「那須与一」を称するようになった。
        
                                   三の鳥居
 この鳥居は今から800年以上前に建立されたもので、平安時代末期の武将、那須与一よって奉納された大変貴重なものである。那須与一宗隆は、源平合戦屋島の戦の際にこの那須温泉神社にて祈願をし、見事平家の建てた扇の的を射落とすことに成功、これによって日本全国にその名を轟かせたことから、以降一門を挙げて、この那須温泉神社を厚く崇敬したと伝えられている。
 
 三の鳥居を過ぎてから参道の右側には推定樹齢800年・樹高18m・周囲4mのご神木がある。ご神木名「生きる」。ご神木の手前にある案内板を確認するとミズナラ(水楢)の大木で、しめ縄が付けられている。杉や楠や銀杏の巨木でご神木となっているものが主流の中で、ミズナラのご神木は初めて見る。
 樹高18mと案内板には記載されているが、見た目はそんなに大きな木ではない。が800年という悠久の時を経ても未だに樹勢は旺盛であり、その生命力、力強さ等のパワーがこの木からにじみ出ているようで、多くの人々から崇められているのも納得できる。
このご神木も那須温泉神社のパワースポットの1つとして親しまれているようだ。 
 三の鳥居を過ぎるとやっと社殿が見えてくる(写真左)。最後の石段を越えると、境内が広がり、その隅には手水舎が設置されている(同右)。
 一の鳥居から長い参道を通る間には、多くの境内社、石祠等があったが、別項で紹介したい。
 ところで境内に入る前、左側奥に「芭蕉句」のある石碑がある。
 
 松尾芭蕉は奥の細道をたどる途中、殺生石見物を思い立ち、まず温泉神社に参拝したそうである。案内板によると松尾芭蕉(46歳)が、弟子の河合曾良を伴い「奥の細道」の途中、元禄2年(西暦1689)元禄21689)年418日(新暦65日)のお昼前に黒羽藩領高久を出立し、未の下刻(午後3時前後)に同藩領那須湯本に到着し、芭蕉たちはここで2泊した。翌19日の午の上刻(午前11時前後)に参詣した際に詠んだ芭蕉の句が境内に建立された句碑に刻まれている。
" 湯を結ぶ 誓いも同じ 石清水 芭蕉 "       
        
                                    拝 殿
        
                             境内に設置されている案内板

 延喜式内 温泉神社
 創立
 第三十四代舒明天皇の御代(六三〇年)狩野三郎行広、矢傷の白鹿 を追って山中に迷い込み神の御教により温泉を発見し神社を創建、 温泉の神を祀り崇敬の誠を尽くした。狩野三郎行広は後年那須温泉 開発の祖として見立神社祭神として祀られる。
 祭神

 大己貴命(おおなむちのみこと)
 少彦名命(すくなひこなのみこと)
 相殿 誉田別命(ほんだわけのみこと)
 大己貴命は別名大国主命(大国様)と申し上げ縁結び、商売繁盛、 身体健全、温泉守護、の神として信仰されています。少彦名命は国 土を耕し鉱山や温泉を開拓し薬等を作った神であり温泉の神として 広く崇敬されている。誉田別命は八幡様とも申し上げ武運の神とし て尊ばれ勝運を祈る神である。
 由緒

 正倉院文書延喜式神明帳記載(九二七年)によると温泉名を冠する神社は十社を数える。上代より当温泉神社の霊験は国内に名高く 聖武天皇の天平十年(七三八年)には都より貴人が那須に湯治に下った事が載せられている。従って神位次第に高まり清和貞観十一年 (八六四年)には従四位勲五等が贈られている。
 文治元年(一一八五年)那須余一宗隆、源平合戦屋島の戦に温泉神 社を祈願し見事扇の的を射、名声を轟かせ後一門を挙げて厚く崇敬した。
 建久四年(一一九三年)源頼朝那須野原巻狩の折小山朝政の射止めし九岐大鹿を奉納。
 元禄二年(一六八九年)俳人松尾芭蕉「奥の細道」をたどる途中温 泉神社に参詣、那須余一奉納の鏑矢等宝物を拝観、殺生石見物等が曽良の随行日記に載せられている。
 大正十三年(一九二二年)摂政宮殿下(昭和天皇)の行啓を仰ぎ那 須五葉松のお手植えを頂く。大正十一年(一九二〇年)久邇宮良子 女王殿下御参拝、那須五葉松のお手植えを頂く。(以下略)
                                      案内板より引用
 
     拝殿上部に掲げてある扁額              拝殿内部
        
                                    本 殿

 本殿脇には白面金毛九尾(はくめんきんもうきゅうび)をお祀りしている「九尾稲荷神社」が鎮座する。狐の妖怪である九尾を祀ったお稲荷様で、狛狐の尻尾も九尾に分かれている。九尾稲荷明神の横は谷になっており、そこからは九尾を封印したとされる殺生石と温泉のガスが噴き出す賽の河原を一望することができる。
        
                                  境内社 九尾稲荷神社

 那須湯本に伝わる九尾の伝説とされる「殺生石(せっしょうせき)」。
 殺生石は、栃木県那須町の那須湯本温泉付近に存在する溶岩である。付近一帯に火山性ガスが噴出し、昔の人々が「生き物を殺す石」だと信じたことからその名がある。 なお伝承上、この石に起源を持つと伝えられている石が全国にいくつかあり、それらの中に「殺生石」と呼ばれているものがあるほか、那須の殺生石同様に火山性ガスが噴出する場所で「殺生石」と呼ばれる石があるとする文献もある。しかし単に「殺生石」といえば那須の殺生石を指すことが多い。
 残念ながら時間と体力の関係で、殺生石を周ることができなかったが、九尾稲荷神社から温泉のガスが噴き出す賽の河原を見下ろしただけでも、異様な空間がそこにある事が良く分かる。
        
        
               九尾稲荷神社から賽の河原を撮影


参考資料 「那須町 商工会HP」「とちぎいにしえの回廊」「那須温泉神社HP」「Wikipedia」等

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