古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

中栗須神明宮

 その昔、ここ中栗須の神明宮は、高山御厨(たかやまのみくりや)の北の中心地であり、現在でも藤岡市役所は、この中栗須地域に所在している。高山御厨は、源義朝の父、為義が伊勢神宮に寄進した荘園であるといい、御厨の司(現在の長官)は、秩父平氏の高山党、小林党であった。
秩父氏流栗須氏
 小林系図「秩父権守重綱―高山三郎重遠―栗須四郎有重―小林二郎重兼」
 この御厨(ミクリヤ)という言葉から「栗須」という地名が生まれたとも言われているという。
        
              
・所在地 群馬県藤岡市中栗須615-1
              ・ご祭神 大日孁命(天照大神)
              ・社 格 旧郷社
              ・例祭等 春季例祭 47日(太々神楽奉納) 
                   秋季例祭 
1017日(獅子舞奉納)
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2657913,139.0748173,17z?hl=ja&entry=ttu
 国道254号線で本庄市児玉町から藤岡市方向に進み、神流川を過ぎた「本郷」交差点を右折する。上越自動車道・藤岡IC方向に北上、道路は群馬県道・埼玉県道23号藤岡本庄線となり、そのまま道なりに進むと、「中栗須」交差点の先で、道路沿い左側に中栗須神明宮の一の鳥居が見えてくる。
 一の鳥居と二の鳥居の間には「中栗須公会堂」があり、そこには十分な駐車スペースもあり、その一角に車を停めてから参拝を開始した。
        
                                                       南向きの中栗須神明宮正面
 中栗須神明宮は藤岡市中栗須地域北部に鎮座する。実のところ、今回の参拝は全くの偶然で、本来の目的は「道の駅 ららん藤岡」に家族で遊びに行った際に、偶々道路沿いに鎮座しているこの社を見かけて、買い物を済ませた後に参拝したというのが実情だ。ともあれ、期待はしなかった分、旧郷社としての風格もあり、思いのほか広大な境内であるので、これも神様のお導きかと感謝している次第である。
            
           社号標柱とその奥には「猿田彦大神」の石碑もある。
「神明宮」は天照大神または伊勢内外宮の神を祀る神社。神明宮・神明神社・太神宮・伊勢宮(いせみや)等ともいう。神明とは神と同義で,中国の古典《左伝》《書経》にも見え,日本でも古くから用いられた語であるが,平安時代末期ごろから天照大神をさす語としても使用されるに至ったという。
        
                    一の鳥居
『日本歴史地名大系』には「中栗須村」の解説が以下のように記載されている。
[現在地名]藤岡市中栗須
下栗須村の西、南は藤岡町、西は上栗須村と接し、北部を温井ぬくい川が東北流する。一帯は一二世紀前半に成立した高山たかやま御厨に属し、栗須郷と称された。天正一四年(一五八六)正月の神明宮造営勧進帳(佐々木文書)の表紙に「中栗須村」とあり、勧化者には「中栗須郷」と冠している。なお徳治三年(一三〇八)二月七日の関東下知状(東京国立博物館蔵)にみえる「高山御厨北方内大塚中□□□預所」の「中□□□」は、中栗須郷に推定されている。寛文郷帳では田方六七石六斗余・畑方三六四石一斗余、幕府領・旗本小西領・前橋藩領・旗本志賀領の四給。元禄郷帳では志賀領が幕府領となり三給。後期の御改革組合村高帳では旗本岩本・小西領・幕府領の三給、家数八三
        
  一の鳥居から二の鳥居に通じる参道は長く、その途中左側には「中栗須公会堂」がある。
        
「神明宮」という名称であるので、一の鳥居と三の鳥居が神明鳥居であるのは当然であるが、一と二の鳥居の途中には小さな堀川と神橋があり、その先に明神鳥居が立っていて、社号額も「諏訪大明神」とある。
        
                         三の鳥居 これより広い境内が広がる。
 交通量の多い県道沿いに鎮座していて、参道沿いにも細い道路があり、また三の鳥居前には参道に対して横切る道路も通り、周囲の道路事情も考慮しながら参拝を行う。
        
                    境内の様子
        
                     神楽殿
 この神楽殿では、毎年1016日、現在は第3週の土曜日に、御食御酒神事(みけみきしんじ)が行なわれる。その年の初穂を大神に供え、報恩感謝を申し上げる祭典。 神明宮の秋祭りは1017日で、この神事は16日の深夜に 宵祭(よいまち)として行う。 16日は午後7時からの獅子舞奉納に始まり、午後10時から拝殿において神事が始まる。 先ずふかしたモチ米の米飯75膳を桑の枝を箸でカワラケに盛りつけて神前に供え、その後境内末社をお祓いしながら回って紙の上にもった米飯を順に供える。 続いてふかしたウルチ米の米飯75膳を先ほどと同じようにして供え、境内末社も回るので、計150膳を神前に供えることになる。 それが終わると宮司の祝詞奏上、参列者による玉串奉奠をもって神事が終わる。 以前は75膳ずつに盛り分けた供物を参詣者に分けて大いに賑わっていたが、戦後は人出が少なくなり、厳粛な神事は氏子の積極的な協力を得て続いているという。
        
                                      拝 殿
 
          扁 額                 扁額の右並びに設置されている「神明宮」由緒
 神明宮由緒
 祭神 大日孁命(天照大神)
 本宮は、後鳥羽天皇建久三年九月十七日(一一九二年)右大将源頼朝公の発願により碓氷郡磯部領主佐々木三郎成綱が命を受けて勧請し創建された。
 天正十年(一五八二年)小田原の北条氏と厩林の滝川一益との神流川合戦に於いて兵火にかかり社頭が炎上した。
 その後三年を経て天正十三年七ヶ郷(中栗須・上栗須・下栗須・岡之郷・立石 中)の氏子経の力により社殿が再建された。
 明治四年(一八七一年)第十五大区の郷社とされる。
 明治十三年九ヶ郷(中栗須・上栗須・下栗須・岡之郷・立石・森・中・上戸塚・下戸塚)の氏子により広く寄付金が募られ拝殿が建築された。
 昭和二十九年瓦葺に修復され現在に至る(以下略)。
                                      案内板より引用

        
                             神明宮らしい本殿
 
    境内には「御神木」の看板がある巨木・老木が樹勢良く聳え立つ(写真左・右)。
 
 社殿の奥には数多くの石祠が祀られている(写真左・右)。詳細は不明ながら、中栗須(なかくりす)郷・下ノ郷(下栗須)・岡ノ郷・立石郷・森ノ郷・中村郷・上ノ郷(上栗須)の七郷の鎮守社であるとの事で、七郷内の神様をこの社にお移しされたのであろう。
 
 社殿奥(北側)には裏へ抜ける参道もあり、石段が設置されている(写真左)。その参道左側には芭蕉句碑が建っている(同右)。

 むすふよりはや歯にひゝく清水かな はせを翁

 現在水は枯れているが、元々池があったところらしい。明治2年(1869)に建立されたという。


参考資料「群馬県神社庁HP」「世界大百科事典」「日本歴史地名大系」「境内案内板」等


 

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