古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

深谷富士浅間神社

 深谷城は埼玉県深谷市にあった平城(ひらじろ)で、山内上杉氏支流の深谷上杉氏(庁鼻和(こばなわ)氏)の居城である。山内上杉家の上杉憲顕の六男である上杉憲英が庁鼻和上杉を名乗り、憲英の曾孫の房憲より深谷上杉と称した。
 第4代当主の上杉房憲は康正2年(1456)、享徳の乱が起こって古河公方足利成氏との軍事対立が激化すると、庁鼻和城(同市)西方の唐沢川近くに新たに深谷城を築城して居城を移した。これにより庁鼻和城は廃城となり、城跡に深谷上杉氏の菩提寺の国済寺が建立された。1552年(天文21)、北条氏の上野侵攻により、関東管領上杉憲政が居城の平井城(群馬県藤岡市)を捨てて、長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼って越後に逃亡すると、深谷上杉氏は北条氏に降伏・臣従したが、謙信が関東に侵攻すると、謙信に与して北条氏に敵対。上杉氏の力が弱まると再び北条氏に臣従し、鉢形城(大里郡寄居町)の北条氏邦の城代として引き続き深谷城を居城とした。しかし、1590年(天正18)の豊臣秀吉の北条氏攻め(小田原の役)で、城主の上杉氏憲は小田原城(神奈川県小田原市)に籠城したが、城と領地を奪われて深谷上杉氏は滅亡した。この戦いの後、深谷城は関東に入部した徳川氏のものとなり、松平康直が1万石で入城。その後、松平忠輝、松平忠重が居城としたのち、1622年(元和8)には酒井忠勝が同じく1万石で入封したが、1624年(寛永1)に忍藩5万石(忍城、同県行田市)に移封になったことに伴って、深谷城は廃城となった。
 現在嘗ての城域のほとんどが市街地になっているため、遺構はほとんど残っておらず、深谷上杉氏の祈願社だった富士浅間神社(別名・智形神社)の社殿をめぐる池と水路などに、僅かに当時の姿をとどめるのみである。また城跡の一角が城址公園となっており、石垣や城壁などの模擬構造物がつくられているが、これらはかつての深谷城を復元したものではない。
 因みにこの城は城域の形が木瓜の花、あるいは木瓜の実の断面に似ていたことから、木瓜(ぼけ)城とも呼ばれる。
        
              
・所在地 埼玉県深谷市本住町16
              ・ご祭神 木花開耶姫命 瓊瓊杵尊
              ・社 格 享保6・宗源宣旨「正一位智形大明神」 旧村社
              ・例祭等 祈年祭 221日 例祭 113日 新嘗祭 123
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1994444,139.2870901,18z?hl=ja&entry=ttu
 深谷城址公園のすぐ東側で、南北に流れる唐澤川左岸に鎮座する。地図を確認すると稲荷町末広稲荷神社の北側近郊にある。創建は不詳だが、社記に「当社は、康正二年(1456)深谷城築造以前から当所の氏神として祀られ、智形大明神と称えていた。下って、深谷城上杉氏時代には城の鎮守となり、以後、代々の城主に崇敬され、寛永年間(16241644)酒井讃岐守城主の時、社殿を再建した」とある。
 社の周囲には前出の城址公園を始め、深谷図書館・市民文化会館・保健センター・生涯学習センター等が立ち並び、深谷市の開発が進んだ地域の一つでもあるが、社周辺にはそれらの建物群と一線を画すが如き静かな空間が境内に広がっていて、神社を囲む深谷城の外濠跡が歴史の深さを無言で語っているようでもある。
        
                                    深谷富士淺間神社正面
 
 社号標には「富士浅間神社」であるが、明治以前には智形神社とよばれ、深谷城内に鎮守としてまつられた五社の一つで、永享12年(1440)勧請と伝えられている。また社号標の右側には「深谷市指定文化財 深谷城外濠跡」と表記された標柱が立つ(写真左)。鳥居の手前にある趣ある神橋(同右)。神橋の下には水路があり、この場所も外濠跡という。
        
                 鳥居の右側に立つ案内板
 富士浅間神社
 この社の祭神は木花開耶姫命、瓊瓊杵尊で、社宝は宗源宣旨と宗源祝詞である。
 明治以前には智形神社とよばれ、深谷城内に鎮守としてまつられた五社の一つで、永享十二年(一四四〇年)勧請と伝えられている。江戸時代、寛永年間深谷城主酒井讃岐守が再興した。
深谷城は、上杉房憲が康正二年(一四五六年)古河公方との戦いに備えて築城したもので、天正十八年(一五九〇年)豊臣秀吉の関東攻略により落城した。江戸時代には、松平、酒井氏が居城したが、寛永十一年(一六三四年)廃城となった。この城は低湿地に取り巻かれた平城で、社をめぐる池と水路は深谷城外濠の名残りをとどめている。
 昭和五十九年三月 深谷上杉顕彰会
                                      案内板より引用

        
                                 富士浅間神社正面鳥居
 深谷城主である深谷上杉氏の祈願社として、第4代当主の上杉房憲が古河公方足利成氏との軍事対立の中、康正2年(1456)築城してから豊臣秀吉によって落城される天正18年(1590)の間、134年間も深谷上杉氏の居城として活躍した歴史ある社。
 
    鳥居の日だ衛川に祀られている        琴平神社の並びに祀られている
       琴平神社の石碑               境内社・稲荷神社
        
                      境内社・稲荷神社の先にある「加藤省吾顕彰碑」
      童謡「みかんの花咲く丘」誕生地であり、立派な石碑には歌詞が刻まれている。
 加藤省吾(かとうしょうご 1914730日―200051)は静岡県富士市出身の作詞家。大正37月生年。深谷へ疎開中であった昭和21年(1946年)8月に「みかんの花咲く丘」を作詞した。なんでも加藤のご両親の出身地がこの深谷市本住で、疎開中に故郷静岡の情景に思いをはせながら作詞したという。
 この他に加藤省吾の主な作品には、「かわいい魚屋さん」「やさしい和尚さん」などの童謡をはじめ、「怪傑ハリマオ」「笛吹童子」「おらあ三太だ」などの主題歌、さらには深谷市立深谷小学校校歌、同校愛唱歌などがあり、そのジャンルは多岐にわたり、日本大衆音楽協会理事長も務めた

             参道途中にある一対の狛犬(写真左・右)
        
                   「加藤省吾顕彰碑」の奥に鎮座する境内社・厳島辨財天

   境内社・厳島辨財天の手前にも深谷城の外濠跡らしき遺構が見られる(写真左・右)
 今は時期的に水路に水は湛えていないが、それが却ってこの遺構の趣を深めているようだ。
        
       規模は決して大きくはないのだが、市街地の開発に無縁な空間が広がっている。
 何度もいうが、この境内のすぐ左手には深谷市民文化会館・コミュニティーセンター・保健センター等の建物が軒を並べて建てられている場所である。不思議な静けさが漂う空間。
 
 参道を更に進んでいくと、左側に石祠群が祀られている(写真左)。一番左にあるのが境内社・三峰神社であるが、それ以外は詳細は不明。その先にも境内社・琴平神社が鎮座する(同右)。
        
                     拝 殿
『大里郡神社誌 富士浅間神社』
 神社の所在地
 舊榛澤郡深谷宿字智形にして古來變遷なし
 當神社は創立年月不詳と雖も往古上杉氏在城の頃の鎭守にして寛永年間酒井讃岐守城主たりしとき再興すと言傳ふ當社は中世の頃より智形神社と稱し天兒屋根命を祀りしものと言傳へしも誤りなることを發見し明治十三年九月十三日祭神を木花開耶姫命社號を富士淺間神社と改む
 神社名稱
 智形大明神又は單に智形様と奉唱せしも明治十三年九月十三日富士淺間神社と改稱す
        
                    *境内東側から見た拝殿・幣殿・本殿の様子
 ところで、この深谷富士浅間神社に加え、境内に祀られている稲荷神社・三峰神社・厳島辨財天・琴平神社、これらは社の案内板に記されている「深谷城内鎮守5社」なのであろうか。
        
                            拝殿から見た境内の一風景
 

 深谷富士浅間神社の外周には深谷城の堀の一部と思われる「外濠跡」がある(写真左・右)。深谷城は、唐沢川、福川などに囲まれた低湿地に築かれた平城で、城の周囲は堀で複雑に囲まれていたと考えられるが、当時の景観はほとんど見ることはできない。富士浅間神社(智形神社)の社殿を巡る池と水路に往時の姿をとどめるのみである。
深谷市指定文化財史跡 【指定年月日】 昭和33113
           【変更年月日】 平成3113
            (記号番号変更)   平成1811


参考資料「新編武蔵風土記稿」「大里郡神社誌」「深谷市HP」「Wikipedia
    「日本の城がわかる事典」等
 

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