古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

境萩原諏訪神社


        
           
・所在地 群馬県伊勢崎市境萩原1784
           
・ご祭神 建御名方命
           
・例祭等 歳旦祭 初祭祀 17日 節分祭 23日 豊川稲荷祭 315
                
春季例祭 43日 夏祭り 8月第一土・日曜 秋季大祭 113
 境小此木菅原神社から群馬県道142号綿貫篠塚線を東行する。広瀬川は現在川幅120130m程であるが、江戸時代当時は約40mで、「竹石の渡し」という渡し場があり、対岸には「相生の松」という大きな松があって、舟がその付近に向い渡ったと言う。残念ながら日光例幣使街道の渡し場の跡は、小さな案内板が建っているだけで残っていないのだが、この「竹石」という名はこの一帯の地域名である「武士」の当て字と言われていて、この「武士」は「たけし」と読む。
 広瀬川に架かる「武士橋」を渡り、更に東行し旧境町市街地方向に進む。県道142号線と群馬県道・埼玉県道14号伊勢崎深谷線が交わる「境萩原」三叉路を左折し、北西方向に進んだすぐ先で、進行方向左側に境萩原諏訪神社が見えてくる。
        
              県道沿いに鎮座する境萩原諏訪神社
    境内は南北に長く、幅は狭い。よく確認するとこの社は北向き社殿となっている。

 ここのところ群馬県道142号綿貫篠塚線周辺の社を散策していると、嘗て「日光例幣使道」と呼ばれていた街道と、上記県道の多くが重なっていて、周辺には現在でも往時を偲ばせる名所や旧跡が残されている。社が鎮座する伊勢崎市境萩原地域も同様である。
        
                    規模は小さいながらもコンパクトに纏まった社     
 何度も繰り返しとなって恐縮ではあるが、改めて「日光例幣使道」を説明すると、「例幣使」とは、朝廷がつかわした、伊勢神宮の神前に捧げ物をもっていく使者のことである。江戸時代朝廷は、徳川家康の法要のため日光東照宮にも同じように勅使を派遣した。恒例となったこの派遣のため、京から中山道を通り、倉賀野宿より日光に至るまでの道を整備した。復路は日光道から江戸に入り、東海道を使って帰京した。春の東照宮例祭に合わせ、勅使が通る道のことを「日光例幣使道」とよんだ。
 例幣使は京を41日に出発、当時の人は1日約10里は歩いたようで、15日に日光に到着した。日光では、翌16日に厳そかな雰囲気の中で奉幣の儀式を執り行ない、同日正午すぎにはもう日光を発ち、日光道を江戸へ入り、そこから東海道を使って帰京するのを通例とし、往復に約30日を要したといわれていて、1647年から1867年の221年間、一度も中断することがなかったという。
 
   境内に入ったすぐ左手隅にある「萩原諏訪神社の道標」(写真左)とその案内板(同右)
 萩原諏訪神社の道標
 この道標は刻まれている文面から、文久元年(一八六一)に建て直されたものです。
 元は下武士萩原と境の境界付近、現在の国道三五四号の分岐点に建てられていたものが、明治はじめに諏訪神社に移されました。丸い台石には、十二支と東西南北の方向が刻まれ、その上に台形の塔身が載っています。正面に「日光木崎太田道」、左面に「五料高さき道」、右面に「いせさき 満(ま)やむし道」(前橋)とあることから、元あった場所では、東側に向いていたと考えられます。
 この分岐点は、当時の交通の要衝であり、正面と左面は日光例幣使道を示し、右面は伊勢崎から前橋に通じる道を示していました。(以下略)                 案内板より引用
 境萩原諏訪神社は境宿西はずれに位置し、案内板によれば、境内には年代不明で文久元年(1861)に建て直された「道しるベ」があり、元は下武士萩原と境の境界付近、現在の国道354号の分岐点に建てられていたものが、明治はじめに諏訪神社に移されたという。また、例幣使の小休止場所は、この境宿では、境萩原諏訪神社の境内の他、すぐ東側にある「織間本陣」で小休止したという。
 
参道途中、左側に祀られている石祠群と大黒様等   参道右側には縁起に関する案内板あり
        
                    拝 殿
 拝殿の左側隣には「豊川社」の社号額のある鳥居、その奥には豊川稲荷社が鎮座している。
諏訪神社縁起
鎮座地 群馬県佐波郡境町大字萩原千七百八十四番地
祭 神 建御名方命
 事 一月一日   歳旦祭    四月三日     春季例祭
        一月七日   発祭祀        八月第一土・日曜 夏祭り
        二月三日  節分祭    十一月三日    秋季例祭
        三月十五日 豊川稲荷祭
 緒  祭神建御名方命は古事記に依るに大国主命の第二子にして出雲国を天照大神に立奉りた
        る後信濃国に降り、民を慈しみ良き政を為せるに依り近隣の諸民その徳を偲び五穀豊、
        
穣、家内安全、商売繁盛、開運招福の神とし諏訪大社にその霊を祀る。
     当社は天正年間(一五七三~一五九一)諏訪大社の分霊を奉遷し剛志村下武士に鎮祭せ
     
を天保九年(一八三八)萩原の有志相計り住民五十余戸の賛助を得てこれを譲り受け
        
現在地に鎮座せられる。
     明治の代になり神厳維持の為の一村一社主義に則り住民の協賛を得て金銭及び土地を拠
     
し定められた資格を具備し先に掲げたる御利益と共に永久の平和と文化の発展を祈念
     
し今日まで年々独自の祭祀を怠ることなし。
     
近年社屋の老朽著しきため区民並に近隣の崇敬者の奉賛に依り現在の社殿の建て替え並
        に豊川稲荷神社及び水舎の屋根の葺き替え等完成す。
境内社 稲荷神社 秋葉神社 八坂神社
        
大国神社 春日神社 八幡宮                   境内案内板より引用
        
                 境内社・
豊川稲荷神社
       
                 境内にある力石二基
 この力石は、案内板によると「貫目八十貫目、江戸は組 大願成就」と刻まれていて、今のキロ数に直すと300㎏以上もある石を、江戸から来た町火消しの「は組」の人が、見事に持ち上げた記念の石である。
 神社や寺院、道端に置かれたこの力石は、各地に見られるが、境地区ではただ一つのものであり、宿場であった旧境町が江戸時代に繫栄したことを示す貴重な石であるという。
       
                            社殿から見た境内の一風景


参考資料「群馬県歴史の道調査報告書 2集 日光例幣使街道」「伊勢崎市観光物産協会HP」
    「境内案内板等」等

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