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古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

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山名八幡宮

  源氏は不思議な一族である。元々源氏は一族同士の繋がりが平氏ほど強くなく、独自裁量の傾向が強い一族で、それは山名義範も例外でなかった。この山名義範は新田庶流の中で新田義重(源義重)から何故か冷遇されたようで、所領も他の兄弟と比べて新田荘内の所領を分与されず、また、極端に少ない所領しか相続しなかった。(しかしこの山名郷を含む佐野地方は古来より文化が栄えた地であり、また丘陵地でもある要害の地でもあったので決して冷遇されたとは思わないのだが)その為か総領である新田義重はもちろんのこと、その一族同士の連携も古文書を見る限り全くなく、独自の動きをとることが多かった。それが結果的に功を奏することにつながった。
 例えば、平家打倒のため、源頼朝が伊豆で挙兵した際、父の義重が寺尾城(高崎市寺尾町)に立てこもって、頼朝の召集に応じない中、新田一族の中で一番早く源平合戦に参戦し、義経のもと一の谷の合戦で功績をあげた。その結果、伊豆守に任じられ幕府内での地位を強固にしたのである。義範以降の山名一族も南北朝争乱における新田義貞と足利尊氏の対立に際して、早くから、同じく新田宗家の新田義貞に従わず、足利尊氏につき従い、山名時氏の時期において山陰を中心に最盛期11か国の守護職を補任され、当時全国でも66か国であったので「6分の1殿」と呼ばれたという。明徳の乱(1392年)によって当時の総領山名氏清は戦死し、一時的に没落の目に陥ったが、その後また復権し、戦国時代の幕開けといわれている、応仁の乱(1467年)の西軍の大将、山名宗全(山名持豊)の登場に至ると山名氏の全盛期を築き上げた。
 現在の社殿は本殿・弊殿・拝殿からなる権現造りで、三手先の軒や腰部の彫刻がすばらしく、本殿は銅板葺きの三間社流造りで、彩色した彫刻が施されて、拝殿部分は、何故か後に建替えられている。また境内には、随身門・神楽殿などが存在する。

所在地  群馬県高崎市山名町1581
御祭神  玉依比売命、応神天皇、神功皇后
社  挌  旧郷社
由  来  当社は宇佐八幡宮を勧請し文治年中, 鎌倉時代に
       新田(山名)義範が社殿を 造営したと伝えられる
例  祭  10月15日 神輿渡御獅子舞  10月15日、16日 秋季例大祭

                         
 山名八幡宮は、群馬県高崎市山名町に鎮座する。八高線群馬藤岡駅西口方面を基点として西進し藤岡消防署交差点を右折、群馬県道30号寺尾藤岡線を寺尾方面に真っ直ぐ進む。途中上落合交差点を右折し北上、鏑川橋を過ぎてしばらく進むと山名町地区になり、上信電鉄山名駅の先のすぐ左側に山名八幡宮の鳥居が見え、大きな両部鳥居と社号標が立っている。
 駐車場は、鳥居をくぐった所に『第一駐車場』、第一駐車場の先に『第二駐車場』があり、今回は社殿の近くにある第二駐車場に停め参拝を行う。
                
                                               群馬県道30号線に面している大鳥居

  まず境内入口から西へ進むと、参道脇に「太刀割石」が見える。慶長五年(1600年)、馬庭念流中興の祖・樋口定次が天真流村上天流と試合と試合をするにあたり当社に参籠し、満願の日に枇杷(びわ)の木剣で断ち割ったという石という。
                       太刀割石の案内板                           太刀割石

 
当社参道を上信電鉄の線路が横切っているので線路の下をくぐって進むと神門があり、神門の奥が境内になる。残念なことにデジカメの画像が悪く、掲載できないのが残念だ。また参道右手に手水舎があり、鮮やかな朱の鳥居が立っている。鳥居の脇にはいくつかの境内社や神馬像、ムクやケヤキなどの立派な御神木が存在する。
                         
琴平・八坂社                          上の妻戀稲荷神社
                                   
                                                               参道の神馬像
  この神馬像は山名八幡宮の社殿を造営した新田義範氏の子孫である山名氏の末裔(全国山名氏一族会)が奉納したもので、神馬は西国を向いている。山名氏は全国、特に中国地方などの西国に拠点を移した山名一族であったが、室町幕府成立以降も山名郷は所領のまま残していた。そして、遠く離れた西国の地で、山名八幡宮の維持管理を自ら行っていた。全国の山名一族にとって、一族発祥の地、山名八幡宮は心の拠り所を保証する精神的に重要な場所だったのである。

山名宗全と山名八幡宮

 応仁の乱の西軍の指揮を執った山名宗全の祖が当社を造営した山名義範である。義範は新田氏の祖、新田義重の子でこの山名郷に入り山名氏の祖先となった。史書(吾妻鏡)には随所に名が記され、源頼朝の配下として活躍した。この神馬像は全国の山名氏の末裔が奉納したもので神馬は西国を向いている。                                
                                                            案内板より引用

            社殿前の鳥居                       石の階段上に拝殿がある

 鳥居をくぐり階段を上ると当社の社殿が目の前にある。社殿は、入母屋造の拝殿と流造の本殿が連結した権現造で、奥の本殿は十八世紀の建造だそうで、蜃・象鼻・鳳凰・龍・獏・唐獅子などの神獣の彫刻が施されており、平成になって極彩色に塗りあげられたそうで規模が大きく美しく豪華だ。同じ群馬県に鎮座する雷電神社は黒が基調とした本殿で男性的な感じに対して山名八幡宮は基調は白で、優雅で女性的な趣がある。
 また社殿に置かれていたチラシには、夜、美しくライトアップされた当社本殿の写真が載っている。

            
                              山名八幡宮 本殿。拝殿、幣殿共に高崎市指定重要文化財
                                
                     本殿後方の中門には裏神様を祀られているそうで、獅子頭が置かれている。

山名八幡宮      
山名八幡宮の歴史と伝承
 うしろに八幡山を配したこのあたりは古くから開けた所で、歴史をさかのぼれば縄文時代にまで人々の暮らしの跡をたずねることができる。
社伝によればこの社は源氏の一族、新田氏の祖義重の子義範が山名城にあって安元年中(一一七五~一一七七)に、豊前の国(大分県)の宇佐八幡を勧請して、社殿を造営し、武神として崇敬したのを始めとしている。
御祭神
 玉依比売命、品陀和気命(応神天皇)、息長足姫命(神功皇后)の三柱を祭神として祀り、古くから安産や子育ての守護神として、また養蚕や商売繁昌の神として有名であり近郷の人々の尊敬を長年月にわたって集めている。創建以来、八百余年の歳月は誇らしい歴史の重みとともに多くの伝承に彩られて人々の心のふる里となっている。
天国(あまくに)の宝剣
 山名城主、新田義範が当社創建の時に奉納したと伝えられる両刃の直刀で鎌倉末期のもの。
安産と子育ての神
 後醍醐天皇の孫、尹良親王が山名城に滞在の折り、城主世良田政義の娘が親王の子を懐妊し、当社に安産を祈願されたところ無事に男子が誕生、良王(よしゆき)君と名付けたという。以来、当社を安産と子育ての神として称えられるようになったとの伝承がある。
例祭
 毎年四月十五・十六日と十月十五・十六日のお祭りは多くの参詣人で賑わう。露店も立ち並び安産や子育てを願い、養蚕や、商売繁昌を祈る人々が獅子頭や、虫切り鎌、農具などを買い求めて季節の風物詩となっている。
神輿の渡御
 例大祭の際に山名町の中程にある石の標識、「八幡宮御旅所」と彫られている場所まで神輿を奉じ古式ゆかしくおごそかに列を連ねて行進する。
系図
 古い歴史を物語る山名氏の系図 山名宗全(持豊)は九代目で西国の十一ケ国の守護、応仁の乱の西軍の総大将。
乗鞍
 宝暦二年(一七五二)九月、前橋藩主、酒井雅楽頭(うたのかみ)より二町七反一畝七歩の神領と現在社宝の一つとなっている乗鞍一具の寄進を受けた。
大刀割りの石
 慶長五年(一六〇〇)三月、馬庭念流中興の祖といわれる樋口定次が天真流、村上天流と試合をするにあたって当社に神助を祈願して参籠し、満願の日に社前の大石を打ち割ったといわれ、その後見事に烏川畔において天流を破った。この大石は参道に今も置かれている。
祭日
 一月一日~七日初詣、一月十五日初市、二月節分ついな式、四月十五・十六日春季例祭、四月二十八日養蚕市、六月三十日大祓、十月十五・十六日秋季例大祭、十一月十五日七五三祭、十二月一日神むかえ、大晦日二年参り(以下中略)
                                                      『平成祭データ』より引用
            
                                                  社殿前の階段から鳥居を撮影

 この山名八幡宮が鎮座する高崎市山名町から吉井町にかけての山名丘陵を古くは佐野山と呼ばれていた。この佐野山は「さのやま」ではなく「さゐやま」と言う。山名八幡宮を基点として北西方向に山名丘陵は広がり、その丘陵地には上野三碑と言われる「多胡碑」「山ノ上碑」そして「金井沢碑」がこの狭い地域に集中的に存在している。この山名郷周辺は群馬県内では先進地区で、古来より開発され発展した地域であった。

 上野国13郡のうち、この地域に群馬郡、多胡郡、甘楽郡3郡が建設されたのは偶然ではない。都から伸びる大動脈ともいえる幹線の「東山道」は信濃の上田から佐久を抜けて碓氷峠を通って上野国の群馬郡に置かれた国衙へと通じていた。その後、主要幹線は「新田郡」へ到って、南下して武蔵国の府中へ向かう支道であった東山道武蔵路と、北上して下野国の足利へ向かう本線に分れた。この山名地域はその東山道の丘陵地と平野部とのいわば境界線に位置する、地形的に見ても非常に重要な地域であったと思われる。


         拝殿の右側にある神楽殿          社殿、神楽殿の右手には厳島神社等、境内社
                                              が存在する。

 また山名町周辺は群馬県においても古墳の集中するいわば古墳の宝庫でもある。群馬県の古墳の分布図を見ると、大体において太田市地域、佐野町、倉賀野町地方を含む県中央部、藤岡市周辺地域の3か所が古墳の集中箇所である。そして4世紀末、5世紀初頭はこの前橋市朝倉に近い倉賀野大鶴巻古墳(全長122m)と浅間山古墳(全長172m)の佐野町、倉賀野町地方、5世紀初頭には藤岡市の白石稲荷山古墳(全長175m)や岩鼻二子山古墳(全長115m)が出現し、そして6世紀初頭の藤岡市上落合所在の七興山古墳(145m)と山名丘陵地のそれぞれ東側、南側の平野部に大型古墳はそれぞれ分布され、不思議なトライアングルを形成している。またこの二つの勢力が東山道の磯部、吉井地域との交易をするためにはどうしても通らなければならない交通の要地がこの山名地域なのである。このことからみてもこの山名地区の重要性が見えてくる。

 古代毛野国の「へその地」ともいえる要衝の地がこの「山名」地区であり、この地の重要性を歴史の神が我々に教えんがため後世に山名宋全という「山名地区出身」の人物を応仁の乱の主役の一人として登場させたようにも思えるが・・・・穿った考え方だろうか。
 

 


                                                                                   

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