古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

大胡神社

三夜沢赤城神社と二宮赤城神社の間には御神幸という御神体が往復する伝統行事が毎年4月と12月に行われている。途中、大胡神社と柏倉町のお輿懸(阿久沢一家)の2ヶ所で休憩するという。三夜沢赤城神社と二宮赤城神社は南北に位置し、この大胡神社は三夜沢赤城神社と二宮赤城神社の丁度中間に鎮座する地形上の特徴があり、赤城大明神の里宮として、嘗ては近戸明神と称された社である。
 この「近戸」は赤城神という古代の国造の祖神に対して「地形上に近い場所に寄り添うように鎮座」する家来的な神であり、もう一つの意味として護衛、道案内的な神でもある。

所在地     群馬県前橋市河原町638
御祭神     大己貴命、豊城入彦命
社  格     旧郷社
例  祭     5月3日春季例大祭 太々神楽(前橋市の重要無形民俗文化財)
                 
 大胡神社は前橋市旧大胡町に鎮座している。二宮赤城神社から群馬県道74号伊勢崎大胡線を旧大胡町方向へと北上して40号藤岡大胡線に合流し、そして16号大胡赤城線を荒砥川沿いにしばらく北上すると、左側の小高い丘に社は鎮座している。社の向かい側には幼稚園がある。駐車場はあるそうだが近辺を探しても見当たらなかったので、大胡神社の入口脇に停め、急ぎ参拝を行った。
 後日案内板等で知ったことだが、この社は大胡城北端の堀切に囲まれた近戸曲輪にある。城主大胡常陸介高繁が、天正17年(1589年)三夜沢赤城神社より勧請し、大胡城の守り神とした。毎年5月3日の祭典に太々神楽(市指定重要無形民俗文化財)が奉納される。また、大正4年の算額(市指定重要文化財)とムクロジ(市指定天然記念物)の神木がある。明治42年(1909)旧町内の22社を合祀したという。

   参道の階段下脇にあった猿田彦大神の石碑          階段を上がると一の鳥居がある。
                                 
                                                鳥居を過ぎてすぐ左側にある案内板
                       
                              拝    殿
                           拝殿前には前橋市指定天然記念物の「ムクロジ(無患子)」がある。

前橋市指定天然記念物の「ムクロジ(無患子)」      指定年月日 平成20年3月19日
 
このムクロジは、目通り周3.7m、樹高25mに達する巨樹で、地上3.8mの高さで3幹に分かれています。枝張りは、東西18.2m、南北21.7mに及び、根回りは非常に大きく50m以上に達しています。環境省の調査によると、樹齢は300年以上と考えられています。
 ムクロジは、西日本の山林には自生していますが、群馬県での自生は知られていません。このムクロジも移植されたものと考えられます。ムクロジの実は、石けんとして利用されたほか、羽子板の追羽根や数珠としても利用されました。
                                                                                                                           境内案内板より引用

                  拝殿の右側にある神楽殿               社殿の右奥にある神興庫の類だろうか。

  5月3日の春の例大祭に奉納される太々神楽は前橋市の重要無形民俗文化財になっている。もとは足軽町に伝えられていたが、明治の神社合祀で足軽町神明社の神楽殿が当社に移転されたそうだ。この舞は、大胡神社の春の祭典の時、大胡神社の神楽殿に奉納される。この神楽は、数百年前の伝統に支えられ、厳しい時代でも中断することなく続けられている。今、舞は12座踊られている。また、お面の数が多いのも特色である。春の祭りは、その年の農業がうまくいくように五穀豊穣(ごこくほうじょう)を神に願い、秋の祭りは五穀の豊かな実りを神に感謝してきたと伝えられている。かつては河原浜地区と足軽町地区で交互に奉納していたが、現在は足軽町地区の太々神楽保存会によって奉納される。
 里神楽として農家の長男に受け継がれてきたらしい。秋の収穫の後、神楽の道具を大八車に積み、沼田方面まで赴き、舞を奉納したこともあったといわれている。

 また神楽殿には大正4年(1915年)11月10日に大原福太郎によって奉納された和算の算額(前橋市重要文化財)がある。和算の算額の奉納はしばしば見られるものだが、和算が明治期に衰退した関係で、大正期の算額は全国的にもむしろ珍しく、県内では唯一のものだそうだ。
                                
                             本    殿
                  
                          瑞垣内部から本殿撮影

大胡神社 由緒
 
大胡神社の由緒を示す一つの古文書がある。「一筆致啓上侯 御堅固之段珍重 奉存侯然者其地 赤城大明神当城之 鎮守ニ近戸大明神と 奉祭度侯間其元 父子之中此方江 引越神祭奉 頼侯万事家来 (折紙)口上申入侯謹言 常陸介 天正十七年十一月九日 奈良原紀伊守殿」
 大胡城主大胡常陸介高繁が三夜沢赤城神社の神官奈良原紀伊守に出した手紙である。大胡城の守り神として、赤城神社を近戸大明神として祭りたいので奈良原父子のどちらか来て祭りをしてもらいたいとの内容である。天正十八年の夏には大胡藩主牧野氏に変わるのであるが、近戸大明神(大胡神社)は奈良原紀伊守で現在に至っている。しかし、これ以前に大胡城内に神社があったと推定している。即ち城内に玉蔵院という寺院があった。この寺は二之宮(現前橋市二の宮町)赤城神社の別当寺であった。このことから古くは二之宮赤城神社の系統の近戸大明神で、春秋のご神幸の休み場所として南北朝時代から存在したと考えられるのである。大胡氏も城を守り切れず山上郷右衛門や金山の由良氏の輩下増田某などの居城の時代を経て、ここに戻って改めて赤城信仰を考える時に、三夜沢赤城神社ということになったのであろう。祭神は大巳貴命、豊城入彦命である。明治四十二年六月五日に大胡町地内の神社という神社の全部を合祀した。さらに前橋市堀之下町の熊野神社その他まで合祀せた。実に二十二社にも及ぶ多くの神社であった。そこで祭神も数多く追加され四十五柱、相殿八柱となる。
  祭日は古くから五月一日であった。山から春になると山の神が下りてきて田の神となり農耕の豊作であるよう祈念したのである。太々神楽は河原浜の人たちと足軽町の人たちの交互で奉納した。古くからの由緒あるものでお面も数が多い。この神楽は下大屋(現前橋市)産泰神社にも指導し同社の神楽復興に助力した。明治四十二年六月に近戸明神を改称して大胡神社とした。近戸は赤城の神を近いところに勧請したことを意味する。参道も東側にあったが、昭和十八年に現状のような南参道に付け替たのである。
                                                                                                                           平成データより引用

 また本殿奥には多数の境内社、末社、石祠が並んでいる。前橋市堀之下町の熊野神社など、総数二十二社にも及ぶ多くの神社を合祀したため、現在の祭神も四十五柱、相殿八柱となったらしい。『平成祭データ』には三十一柱の名が記されている。この石祠類の詳細は残念ながら解らない。

                      社殿の奥に並んで鎮座している境内社、末社、石祠類。詳細不明。

 大胡神社は南口の入口から参道正面も含め、社殿の回りが鬱蒼とした木々に覆われている。ただ社殿の隣の神楽殿の前には広い空間があり、その場所のみは太々神楽の関係だろうが日当たりが良い。今まで多数の神社を見てきたが、参道から見て社殿と神楽殿がほぼ並んで建っているいる配置も珍しく、社殿は緑が多いので日陰部分が多いのに対して、神楽殿は広い空間が前にあり、社殿の陰に対して神楽殿の陽の、その色彩のコントラストの違いが印象に残った参拝だった。
 ただ参拝時間が短く、ゆっくりできなかったことが非常に残念。後で知ったことだが、駐車場は逆方向(北側)にあったらしく、事前の計画の必要性をまた感じた。
                                                                                                
                                                                                                  


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