古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

火雷神社

 群馬県佐波郡玉村町は群馬県南部に位置し、南を烏川で画され、町の北部を利根川が流れ、町の南東で合流する。また町内の地形は平坦なので、赤城山、榛名山、妙義山を一望できる自然環境の豊かな地域でもある。
 
東京から100km圏内という位置にあり 東は伊勢崎市、西は高崎市、南は藤岡市、高崎市、上里町、北は前橋市にそれぞれ接していて全域が標高は57m~72m位の平野部であるが、南部の烏川流域が沖積低地であるのに対し、北部の利根川流域は洪積台地である。町の中心地はかつて例幣使街道の宿場町であった下新田地区である。人口は県内の町村としては大泉町に次ぐ37,092人(2013年5月推計)であるそうだ。

 玉村町の歴史は古く、小泉大塚越遺跡3号古墳は全長72mの大型の前方後円墳で6世紀後半には大きな権力を持つ豪族が存在していた証明であり、他の古墳からは人面付円筒埴輪や日本最大級の馬形埴輪などが発見され他地域と異なる独自性も垣間見れる。律令制度の中で玉村町でも多くの荘園が存在し、中でも玉村御厨は、伊勢神宮の荘園(神領)として125町あり毎年30反の麻布を献上していたそうだ。
所在地    群馬県佐波郡玉村町下之宮524-1
御祭神    火雷命 (配祀)那波八郎 保食命 菅原道真
社  挌    上野国延喜式内社 八の宮  旧郷社 
例  祭    4月3日 例大祭
      
 火雷神社は群馬県佐波郡唯一の町玉村町に鎮座する。玉村町役場から東側にあり、伊勢崎市との境を流れる利根川西岸の「下之宮」にある。この社は参道のすぐ西側は住宅街で、神社の目安となる鳥居は参道の途中にある為神社を見つけるのに苦労する。鳥居の代わりに火雷神社の社号標があり北方向に向かうと火雷神社拝殿がある。駐車場は神社の西側にあるらしいがそこに駐車せずに、社号標の先の空間に駐車し参拝を行った。

    火雷神社の社号標と正面に見える鳥居          参道の途中にある新しそうな鳥居

火雷神社
  この神社は、上州名物の一つになっている雷の神様である火雷神をまつってある。
 景行天皇の時代に上野国の統治者御諸別王がまつったと伝えられ、平安時代の延暦15年(796)官社となり、延喜の制では小社に列して上野十二社の八の宮として、上野国神明帳に従一位大名神とかかれている。
 鎌倉時代の始め、建久2年(1191)大江広元の子政広は那波氏となり、その後佐波郡地方の領主となって四町歩の田を神社に献じた。
天正年間那波氏の滅亡で神社も衰えたが、明治5年(1872)郷社となった。現在の建物は、江戸時代中期以降の建造で本殿は三間社流れ造りである。また、伊勢崎市上之宮の倭文神社と相対し、その上之宮に対し下之宮といわれ、地名起源ともなっている。
 麦蒔ゴジンジ(御神事)-火雷神社に伝わる祭りで、貞観4年(862)より始まり毎年五穀豊穣、災難除けの秘密の神事を行ない今日まで伝え行なっている。旧暦10月末午の日丑の刻に神官が礼拝を始めると代表が神社の四面にシメ縄を張り、神官が退出する時に丁度張り終えるようにする。代表は一週間精進潔斎し、シメ縄を張り廻らす時は声を出すことは厳禁とされ、十一月初午の日丑の刻に祭りがあけるまでは鳴物は禁止(馬がいた時は鈴もはずした)であり、シメ縄を張るのを「ゴジンジに入る」という。深夜に行なわれるこの神事は古代の祭りの様式の面影を伝えているように思われる。
                                                                                                                                 案内板より引用

  利根川の対岸に上の宮という地があり、そこには式内社・倭文神社が鎮座している。近世以前の利根川は、現在の広瀬川を流れていたらしく、当時は、上之宮(倭文神社)と下之宮(当社)は、ちょうど1km離れた南北に位置していた。倭文神社が九宮で火雷神社が八宮であり、地名も倭文神社が上之宮町に対して、火雷神社は下之宮町。祭神が倭文神社は天羽槌雄命であるのに対して火雷神社は「神名帳考證」では「香々背男」。この香々背男は正式名「天津甕星」とも言い、星の神という。狭い地域の中に日本書紀葦原中国平定の際に登場する正悪相対する2神が鎮座する社が存在するという事はどういう意味があるのだろうか。この玉村町利根川流域には古代日本の謎が縮図となって存在している。


 境内に入ると左側には社務所があり、その隣に神楽殿(写真左)、そしてその右側には合祀された蚕霊神社(同右)が並んである。
 私事で恐縮だが、筆者の母方の実家は玉村町とそう離れていない利根川南岸の埼玉県深谷市横瀬地区で農家を行っているが、その昔カイコ(蚕)を家の中で育てていたことをふと思い出した。当時は恐らくこの地域一帯では蚕が盛んだったのだろう。この蚕霊神社は弘化二年(1845)正月に村民により常陸国豊浦(茨城県神栖町日川)から那波郡下之宮村字屋敷間に勧請されたが、明治四十一年(1908)7月13日に合祀されたという。御祭神は保食命。
           
                             拝    殿
 火雷神社は天文年間(1532年~1555年頃)現今の地に神社を遷したと言われているが、それ以前の鎮座地は不詳という。
           
           
                              本    殿
 参道の途中にある案内板には、景行天皇の時代に上野国の統治者御諸別王がまつったと伝えられ、 平安時代の延暦15年(796)官社となり、 延喜の制では小社に列して上野十二社の八の宮として、上野国神明帳に従一位大名神と記載されている。
           
                  拝殿側面に掲げている火雷神社略記の案内板

延喜式内上野十二社火雷神社略記
鎮座地  群馬県佐波郡玉村町大字下之宮五二四番地
社名   火雷神社
祭神   火雷神(主祭神)
配祀神 保食命   菅原道真命 那波八郎命
      火産霊命  大物主命  建御名方命
      誉田別命  素盞鳴命  高淤賀美命
      宇迦御魂命 大日孁貴命 少彦名命
由緒
 当社は第十代崇神天皇元年創立東国大都督御諸別王の尊信あり。
 桓武天皇延暦十五年(796)官社に列させられ官幣に預る。村上天皇天暦二年(948)五月、三条天皇長和年中(1012~1016)又国祭に預る。後当郡の領主那波氏累世尊崇甚だ厚く広大な社殿を造営奉り四季の祭典を興し寶作無窮国家安泰を祈らる。後、現在に改む。新田義貞幣帛神殿を奉りて武運復興を祈らる。
 後村上天皇康永二年(1343)神殿を再築し現今の神殿は慶長以後の建築なり。明治五年(1872)七月郷社に列せさる。当社に古式神事あり。清和天皇貞観四年(862)より毎年陰暦十月末の午の日夜丑の刻秘密神事を行ふ。燈火を用いず微声を以って祝詞を奉す。
 翌十一月初の午の日迄境内に注連縄を張り参拝者の出入を厳禁。過ちて犯し入る者あれば忽ち大風或いは雷鳴を起すと云う。
 而して此の神事中は村中鳴物高声を禁じ各謹慎す。古より傳へて那波の御神事と云う。
祭日
 四月三日  例祭(年一回大祭)
 十月十七日 小祭
                                                            案内板より引用

                       拝殿左側にずらりと並ぶ末社群

                                                                                                         

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