古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

葛貫住吉四所神社

 毛呂山町・葛貫地域は、平安時代後期、軍馬の飼育や繁殖に置かれた葛貫牧と呼ばれる重要な牧場があったのではないかと言われている。因みにこの「葛貫」という地域名は「つづらぬき」という(「風土記稿」では「くずぬき」と表記)。この管理を行っていた別当(長官)が、秩父重隆の嫡男である河越能隆であり、別名「葛貫別当」とも称していた。久寿2年(1155年)8月、大蔵合戦で父の重隆が家督を争っていた畠山重能(能隆の従兄弟)らによって敗れ、嫡男重頼と共に葛貫や河越の地に移り、河越館(川越市上戸)を新たな拠点として土地の開発を行い、所領を後白河上皇へ寄進して河越氏の祖となる。
 戦国時代になると、葛貫地域は後北条氏の勢力下となる。永禄2年(1559)に作られた後北条家臣の領地とその面積を記した『小田原衆所領役帳』には「河越三十三郷葛貫」とあり、後北条一族が直接領地を治めていたという。また江戸時代の葛貫村の鎮守住吉四所神社の史料には「葛貫荘弥蔵村」と記され、戦国時代以降も葛貫荘という古い地名が使われていた。
 また葛貫地域には、その先祖を平安時代「中関白家」と称した藤原道隆の子・内大臣藤原伊周流、武蔵七党の児玉党より端を発し、鎌倉幕府の寺社奉行御家人として活躍した「宿谷(しゅくや)氏」の本拠地でもある。この地域には宿谷氏により開かれた薬王寺があり、葛貫地域の東に位置する坂戸市多和目には永源寺や田波目城といった同氏に関係の深い寺院・史跡がある。
        
             
・所在地 入間郡毛呂山町葛貫7351
             
・ご祭神 底筒男命 中筒男命 表筒男命 神功皇后
             
・社 挌 旧村社
             
・例祭等 祈年祭 217日 夏祭り 81日 秋祭り(獅子舞)1015
                  
新穀感謝祭 1123
 出雲伊波比神社の西側を南北に走る埼玉県道30号飯能寄居線に合流後、日高市方向に南下する。2㎞程進んだ信号のある十字路を右折すると、すぐ進行方向右手に葛貫住吉四所神社の鳥居が見えてくる。但し鳥居の両側は、住宅と家塀に囲まれているので、ゆっくりと徐行しながら確認しなければ、通り過ぎてしまうほど入り口付近の幅は狭い。
 周囲には適当な駐車スペースがないので、周囲の交通に支障のない場所に路駐し、急ぎ参拝を開始した。
        
                                葛貫住吉四所神社正面 
『埼玉県の地名 日本歴史地名体系』「葛貫村」の解説
大谷木村の東、高麗川支流宿谷川(葛貫川)左岸台地に立地。「くずぬき」ともいう(「風土記稿」など)。宿谷川は入間・高麗の郡境を流れ、対岸には高麗郡平沢村(現日高市)。小田原衆所領役帳に左衛門佐殿(北條氏堯)の所領として「百四拾六貫六百三十六文 河越三十三郷多波目葛貫」とみえ、弘治元年(一五五五)に検地が実施されていた。寛永一六年(一六三九)の検地帳(毛呂山町史)によれば田・畑・屋敷五一町八反余。田園簿では田高一七○石余・畑高一五八石余、旗本宮崎・朝比奈両氏の相給。元禄帳では高三二六石余、国立史料館本元禄郷帳によると旗本高林・宮崎両氏の相給。正徳(一七一一‐一六)頃両領とも幕府領となったが(風土記稿)、寛保二年(一七四二)に上総久留里藩領となり、幕末に至った。延享二年(一七四五)には高三二六石余、家数七○ほどで、地内芝地(場)を惣百姓連印で開発を願出たにもかかわらず名主が独断で約二五人だけに割渡したために残りの百姓らが訴え出ている(毛呂山町史)。上野国と相模国を結ぶ道(鎌倉街道の一)が南北に抜けていた。元当村に属していた「大寺廃寺」は近年の行政区画変更により現在は日高市山根に属する。
        
            鳥居の左側にある「住吉四所神社記」の石碑
       (日陰の部分は解読不明な漢字が多く、その点は了解を頂きたい)
                   住吉四所神社記
             
傳曰●●●●朝胸刺國●●●●●●攝津
             移祀焉然●●●●古秩父族能隆●●茲●
             遂稱葛貫別當●●日加神●●●●●●●
             祥瑞雲集後以貞和元年●経營●●●●●
             火貞治五年鎌倉公基氏再營社殿規模頗整
             明徳二年九月氏滿復修營之江戸初免社境
             七段七畝貳拾歩租爲除地元祿四年十二月
             以舊殿既●更營而存于今維新後明治五年
             列村社四十年二月十三日併字●畝鎮座無
             格社愛宕神社●名住吉四所神社其明年四
             月十七日請上地林八畝四歩得成境内編入
             神域初完威徳兼備●是氏子興議謀叙創始
             以來年紀以傳●朽請余●余不肖●●事然
             
現●在社掌之任●不可固辞敢記(以下略)
        
             入口の狭さと対照的な奥行きのある境内
『新編武藏風土記稿 葛貫村』
 住吉社 攝津國住吉神を移し祀れり、神體は白木をもて束帶せし形を造る、長八寸許の坐像にていと古色なり、當社の傳に應安二年左兵衞督基氏再興ありしに、後兵亂のために大破せしを、明德二年九月又再興せしと云ことを記したれど、年代を推に其子氏滿の再興なるべし、又當社に棟札あり、中央に奉興慶長山住吉四所大明神と書し、右に武州入間郡神主宮崎筑前守、左に元祿四年辛未十二月造立之二百十六年に而とのみ見えたり、元祿四年より二百十六年を上れば、文明八年に當れり、例祭九月十三日、神主宮崎某の司る所なり、
 末社 天神社 八幡社 白山社 稻荷社 子權現社 山神社 牛頭天王社、

        
                    拝 殿
 社記によれば、昔応神天皇の御宇、胸刺国造伊佐知直が摂津国(現大阪府)から奉遷したのが起源とされていて、元禄四年(1691年)に造営されたものが現在の本殿(拝殿奥)であるといわれている。葛貫住吉四所神社では、毎年10月上旬に五穀豊穣・疫病退散を祈り、獅子舞が奉納される。
 毛呂山町では、十社神社・住吉神社(滝ノ入)・川角八幡神社と共に、同時期に4か所で行われるのが特徴である。
『入間郡誌 住吉四所神社』
 村の稍々中央にあり。創立詳ならず。或は貞和年中足利尊氏、貞治年中足利基氏、明応年中足利氏満の造営と称す。蓋し古社なるベし。現今の社殿は元禄年中の造営なりと云ふ。明治五年村社に列せらる。境内幽邃也。神官宮崎氏。
        
                    本 殿
「埼玉の神社」によると、氏子区域は葛貫一帯で、氏子数は100戸程である。現在氏子の多くは会社勤めとなっているが、もとは米麦を自給し、養蚕を行っていた家がかなりあった。また、当地は自生の篠・桜・藤などを利用した箕(み)の産地としても有名で、篠と藤は降霜のころ、桜の皮は春先にと農閑期に材料を集めて作られる。箕は現金収入になるため盛んに作られ、多くは秩父方面に出荷されている。
 神社の運営費については、戦前までは田畑を神社が所有していたため、これを氏子に貸し付けて小作料をとり、祭典費の一部に充てていたが、この田畑を農地解放により失ったのを機に、各戸から初穂料として一律に集める方法に改めた。
 当地で結成されている講には、榛名講・古峰講・三峰講・御嶽講・成田講などがある。これらは、いずれも大字の中の有志によって組織されているもので、組単位の結成ではない。中でも榛名講や御嶽講は主に作神として、古峰講や三峰講は火防・盗賊除けとして信仰する人々が講員として集まっている。
 また、嘗て氏子の間では、男衆のお日待である大遊びや女衆のおしら講が行われていた。特に、211日の大遊びには、宿で朝から酒を飲んで楽しんだものであったが、これは一年間の村行事を協議する機会でもあったという。
       
             本殿の右側に祀られている境内社末社
       向かって左から稲荷神社・子権現神社・天神神社・八幡神社・白山神社
 
    参道途中左側にある神興庫であろうか。    社殿左側に祀られている境内社・八雲神社
        
                               静まり返っている境内

 ところでこの地域には、10月第2日曜日に行われる秋祭りで、その時には「葛貫の獅子舞」が奉納される。この獅子舞は「毛呂山町指定民俗文化財  無形民俗文化財」と指定を受けている。また、同じく「毛呂山町指定有形文化財 歴史資料」と指定されている「神馬奉納絵馬」もこの社の境内に掲示板として設置されている。
        
                「
葛貫の獅子舞」の案内板
 毛呂山町指定民俗文化財  無形民俗文化財
 葛貫の獅子舞
 平成二十三年(二〇一一)三月二十二日指定
           奉納日   毎年十月第二日曜日
 住吉四所神社に奉納される獅子舞は、雄獅子、雌獅子、中獅子が舞う「三頭獅子舞」です。
 当社の獅子舞には、獅子とハイオイ(幣負)、花笠、万灯のほかに天狗が登場します。天狗は、猿田彦命を表すといわれており、獅子たちの先導役を担います。
 奉納する演目は、「街道笛」、「角兵衛」、「十二切」があります。
 また、獅子が舞う際には、町内で唯一、ささら歌を歌う「謡い(うたい)」を行います。
 令和六年(二〇二四)三月三十一日 住吉四所神社氏子一同
        
               「
神馬奉納絵馬」の案内板
 毛呂山町指定有形文化財 歴史資料
 神馬奉納絵馬
 平成二十七年(二〇一五)三月一十九日指定
 住吉四所神社には、宝永元年(一七〇四)銘の神馬奉納の様子を描いた大絵馬が掛けられています。
 大きく描かれた馬を曳く様子は、馬のたてがみや尾、鞍の彫刻、曳き手の表情や装束はどの細部も細かく描き、人馬の動きを表現しています。絵馬奉納の経緯は不明ですが、葛貫地域には馬を管理する牧が設けられたという伝承が残り、近代には草競馬が開催されるほど、馬が身近であったことが、馬への崇敬につながったとみられます。
 令和六年(二〇二四)三月三十一日 住吉四所神社氏子一同
                                    共に案内板より引用


*参考資料

『新篇武蔵風土記稿 宿谷村』
宿谷庄と唱ふ、村名の起りを尋るに、村民權左衛門が先祖宿谷太郎行俊なるもの、隣村葛貫に住して當村を開發すと云り、彼權左衛門が家に藏せる宿谷氏の系譜を見るに、行俊が孫次郎左衛門重氏は、頼朝頼家實朝等に仕るとあれば、開發の年歴も大抵推て知べし」
「舊家者權左衛門、氏を宿谷と稱す、相傳ふ先祖は當國七黨の一兒玉惟行の第四子太郎経行に出、経行が四代の孫太郎行俊此地に來り住せり、是當所宿谷氏の祖也、夫より四代の後宿谷次郎左衛門重氏・鎌倉右大將家に仕へしに、和田義盛常盛の事に座して仕を止られ、やがて剃髪して不染入道と號し、遁世して當國に下り住しが、後召れて再び頼經に仕ふ、其子左衛門行時も將軍家に仕へたりしに、世かはりて宗尊親王に仕へ、其子二郎左衛門光則[按ずるに【鎌倉志】に光則寺は、大佛へ行道の左にあり。此處を宿谷とも云、相傳ふ平時頼の家臣、宿屋左衛門光則入道西信が宅地なり、昔日蓮龍口にて首の座に及ぶ時、弟子日朗・日心二人、檀那四條金吾父子を、光則に預け給ひ、土籠に入らると。是によれば親王家に仕へしと云は疑ふべし、]光則の子、三郎行岩、行岩の子三郎行惟まで親王家に奉仕し、行惟の子四郎重顕より將軍尊氏に仕へ、其の子與市儀重に至て、武蔵相模の内にて、知行七千町の地を領し、將軍義詮義満に従ひて、応永の頃泉州に於て、大内義隆と戦ひてしばゝ軍功あり、其後子孫世々將軍家に仕へたりしに、儀重七代の孫近江守重近の時より、小田原北條家に属し、其子大和守重則天正年中、氏直より當國入間郡の内、宿谷・權現堂・葛貫・市場・下川原・大久保・熱川・女影八ヶ村所領の書出を與へられしと云、北條氏没落の後は、鄕士となりしにや詳ならず、重則より四代の後、權左衛門重本大猷院殿に仕へ奉りて、後宿谷に住居し、寛文十年十二月廿四日五十五歳にて死とあり」




参考資料「新編武蔵風土記稿」「入間郡誌」「埼玉の地名 日本歴史地名大系」「埼玉の神社」
    「
埼玉県景観資源データベースHP」「境内案内板」等

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西戸國津神神社

 毛呂山町・西戸地域。この「西戸」は嘗て「道祖土」と称していて『新編武蔵風土記稿 西戸村』にも以下の記載がある。
西戸村は昔は道祖土と書たり、隣郡八ッ林村の百姓治右衛門は、道祖土土佐守が子孫にして、近鄕の舊家なれば、若くはこの土佐守などが領せし地にて、道祖土の名は夫より起りたらんを、後世今の文字に書改めたるならんといへり、(中略)此邊すべて高低多き地にて、水田陸田相牛せり、用水は越邊川を引用ゆれど、水旱共に患あり」
「道祖土」という地名の由来は幾つかあり、古くから道祖神を祀る塞(さい)の神の杜があったことからという説と、この地域の名士の祖先である「道祖土土佐守」が戦国期にこの地を領有していたという説がある。
        
            
・所在地 埼玉県入間郡毛呂山町西戸916-1
            
・ご祭神 伊邪那岐命、伊邪那美命
            
・社 格 旧村社
            
・例祭等 春祭り 222日 秋祭り 1016(宵祭り)・17日(本祭り)
                                  
新穀感謝祭 1123
 川角八幡神社から北上し、越辺川に架かる宮下橋を越える。平均標高43m程の越辺川左岸に広がる豊かな田畑地域の風景を愛でながら北上し、埼玉県道343号岩殿岩井線に合流する十字路を左折、300m程進んだ丁字路を右折すると、すぐ先に西戸國津神神社が見えてくる。
        
                 西戸國津神神社正面
『日本歴史地名大系』 「西戸(さいど)村」の解説
 箕和田(みのわだ)村の東、越辺川左岸低地に立地。古くは小田原北条氏に仕えた道祖土(さいど)氏が住したことから「道祖土」と記した。のち改字したという(風土記稿)。当村は天正年中(一五七三―九二)に黒山村(現越生町)の修験山本坊が開発したもので(元文三年「山本坊寺領書上」相馬家文書)、全村を山本坊一人が名請していたという(元文三年「山本坊人別帳一判等願」同文書)。
 元和元年(一六一五)百姓一五軒に耕作させ、同二年山本坊が当地に移転。同六年検地があり、入西郡西戸村御縄帳(同文書)では高二五〇石、うち五〇石は山本坊朱印地。
       
               こじんまりとした社の第一印象
入間郡誌』において「西戸は川角村の西北部にして、南に越辺川を廻らし、北に小丘を控へたり。河畔の水田肥沃にして、要害善し。此を以て古来山本坊此地に拠りて、大に勢力を振ひたりき。古墳多し」と記載があり、この地に修験山本坊をわざわざ本拠地を移した理由が載せている。
 
  鳥居の社号額には「國津神神社」と表記     入口周辺に建つ社号標石        
 國津神神社は、現越生町の黒山熊野神社の別当を務めていた修験山本坊が、当地へ移転したことから、慶安元年(1648)当地に改めて熊野社を勧請して創建、江戸期には熊野社と称していたという。
 本山派修験の山本坊は、相馬掃部介時良入道山本坊栄円が応永年間(13941428)に開山した大寺で、慶安2年(1649)には江戸幕府より、山本坊は寺領47石および、熊野堂(黒山熊野神社)領として3石の御朱印状を受領している。明治維新後の社格制定に際し明治5年村社に列格、明治37年に地内の愛宕社・天満宮・稲荷社・住吉社を合祀、明治42年に箕和田稲荷神社と境内社大山祇社を合祀、大正4年に社号を國津神神社に改めている。
        
                                      境内の様子
『新編武蔵風土記稿 西戸村』
天神社 修驗圓藏院の持、
住吉社 熊野社 以上二社、修驗山本坊の持、
山本坊 慶安二年寺領四十七石及熊野堂領三石の御朱印を賜へり、熊野は郡内黒山村にありて、
    今もこゝにて別當せり、本山派の修驗、京都聖護院の末なり、開山榮圓應永廿一年示寂せり

行者堂 役小角の像を安置す、 
龍光院 圓蔵院 二院共に山本坊の配下なり、
 社のみをみると、かなり小規模な印象は拭えないが、竜光院・円蔵院等の仏閣も含む当時の旺盛ぶりは如何ばかりであったろうか。
        
                    拝 殿
 国津神神社 毛呂山町西戸九一六(西戸字愛宕下)
 現在、越生町黒山に石造の役行者像と宝篋印塔がある。これはかつて武蔵のうち入間郡・秩父郡・比企郡と常陸・越後の一部にわたり本山派修験を管理した山本坊の遺跡であり、宝篋印塔の銘文に「山本開山権大僧都栄円和尚 応永二十年癸巳十月日」「法勝禅門寿塔 応永廿一年甲午五日」とある。当社はこの山本坊と深いつながりを持っている。
 当社の創建にかかわる氏子の相馬家(屋号オヤカタ)の先祖は越生の山本坊を興した栄円の後裔で、越生の熊野社の別当である。当社は同家が居を移したことに伴い、慶安元年、熊野社をこの地に勧請したものである。また、勧請後同家は当社と越生の両熊野社の別当を兼ね、山本坊と称し、慶安二年には寺領四七石、熊野社領三石の朱印を受けるとともに、京都聖護院直末(じきまつ)の本山派修験として霞(かすみ)の教化を行った。なお、年行事職大先達も務め、配下の寺は四八カ寺に及んだ。
 当地の配下の寺は竜光院・円蔵院で、役行者堂も置かれていた。
 明治に入り、神仏分離のため山本坊は別当を離れ、代わって出雲伊波比神社社家紫藤家が祀職を務めるようになり、現在に至っている。
 明治五年に村社となり、同三七年、当所の愛宕社・天満宮・稲荷社・住吉社を本殿に合祀し、更に、同四二年に大字箕和田字高山木の稲荷社と境内社大山祇社を合祀した。また、大正四年には社号を熊野社から国津神神社に改めた。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
     拝殿に掲げてある扁額                本 殿
 明治時代以降、当地は山本坊が廃寺となったため、寺がなく、氏子の多くは神葬祭である。しかし、今なお葬儀の後、仏式の名残で初七日・三十五日・四十九日を祭日として神職が慰霊祭を行っている。
 当地で結成されている講には「榛名講」「観音講」がある。
 榛名講は、榛名神社の神を作神として信仰する者が結成し、219日に代参者が東松山市上岡の妙安寺へ出かけて、牛馬の安全を祈願し、その帰りに絵馬と笹の葉を受けて来るもので、この笹の葉は牛馬に食べさせると病気にかからないといった。しかし、この講も農業の機械化が進み、農耕用牛馬が減少したため、昭和40年ごろに解散したという。
 このほか、氏子の間では「おしら講」「大遊び」を行っていた。
「おしら講」は315日に行う女衆の行事で、養蚕守護の神であるおしら様を祀り、糯米(もちごめ)を一口一升として持ち寄り、大福餅を作って祝う。
 大遊びは211日に行う男衆の行事で、女衆のおしら講同様に行うとのことだ。
        
          拝殿前方左側に設置されている「山本坊の芭蕉の句碑」
                毛呂山町指定記念物史跡
 毛呂山町指定記念物史跡 山本坊の芭蕉の句碑
 山本坊の二十五世、徳栄法印(別号は紫梅)の建立といわれるこの句碑には「山さとは うめの花 はせを」と刻まれている。江戸前期の有名な俳人、松尾芭蕉への追慕の気持ちが強く、徳栄は、かつて芭蕉が故郷の伊賀で詠んだこの句を選んで自然石に刻んだものである。この句の意味は、普通ならば正月に訪れる”万歳芸人”が、田舎の山さとには梅の花が咲く春先にならないとやって来ない というような意味であろう。
 徳栄は文化四年(一八〇七)生まれで、わが郷土の誇る俳人、川村碩布の門人であり、俳号を「曰二」といい、多くの句集や短冊に句をのこしている。また、生来文筆に優れ、神社の幟、筆塚などの銘文にその筆跡をとどめている。さらに武を嗜み、幕末の混乱期には村々に起こった無頼の暴徒の鎮圧にあたった。明治維新後は神官となり、明治十一年(一八七八)に七十歳で亡くなったという。
                                  記念史蹟標柱文より引用
        
                   境内の一風景

 ところで國津神神社は、黒山熊野神社の別当を務めていた修験山本坊が、当地へ移転したことから、慶安元年(1648)当地に改めて熊野社を勧請して創建、江戸期には「熊野社」と称していたというが、この入間郡黒山村(越生町)修験山本坊の本名は「相馬掃部介時良入道山本坊栄円」であり、相馬氏といえば「平将門後裔」と称する一族である。また黒山熊野神社のご祭神は一説には「平将門」だったともいう。
『山本坊過去帳(相馬重男所蔵)』
「開祖栄円・応永二十年十月朔日、二代龍弁、三代栄弁、四代樹円、五代源栄、六代住栄、七代龍栄、八代頼栄、九代良栄」
「十代栄龍は慶長八年に山本坊を入間郡西戸村(毛呂山町)へ移し、二十五代徳栄が明治維新の時、神官となり帰農す」
『山本坊文書』
「箱根山別当相馬掃部介時良入道山本坊栄円は応永二年より黒山村に居住し修験となる。応永五年二月十二日栄円は将門宮を造営す」
『黒山三滝上 宝篋印塔』
「山本開山権大僧都栄円和尚、応永二十年癸巳十月日」
『西戸村相馬重男家文書』
「文安元年甲子十二月十三日、箱根山御領属高萩駒形之宮二所之旦那之事、右、彼旦那等、豊前阿闍梨可有引導候、山本大坊法印栄円花押」

 また、この「相馬氏」一族は後世大里郡地域の社の神職や社掌に就任していて、その広がり方も修験道に関連しそうである。この事に関しては「露梨子春日神社」「西和田春日神社」を参照して頂きたい。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「入間郡誌」「埼玉の神社」
    「埼玉苗字辞典」「境内案内板」等

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西大久保八坂神社


        
            
・所在地 埼玉県入間郡毛呂山町西大久保146
            
・ご祭神 須佐之男尊
            
・社 格 旧大久保村鎮守・旧村社
            
・例祭等 春祭り 35日 夏祭り(天王様) 715日 
                                  秋祭り 
1123日  大祓 1231
 川角稲荷神社から南北に通じる道を1.2㎞程南下する。「城西大学硬式野球場」を左手に見ながら2番目の信号のある十字路を右折し、暫く進むと右手に西大久保八坂神社が見てくる。社の東側隣には「智福寺」があり、そこの駐車スペースをお借りしてから参拝を開始する。
        
                 
西大久保八坂神社正面
『日本歴史地名大系』 「大久保村」の解説
毛呂山町の東端に当たる当地は、川角村の東、市場村の北、葛川と高麗川両河川流域に挟まれた台地上に立地している。天正二〇年(一五九二)に検地があり、その検地帳には「大窪郷」と記されていたという(風土記稿)。
 寛永二年(一六二五)九月大久保新八郎(康村)が徳川氏から入間郡大久保村で一〇〇石を与えられ、同年一〇月大久保久六郎(忠重)に大久保の内五〇石が与えられている(記録御用所本古文書)。田園簿では田高四二石余・畑高一五九石余、大久保領・幕府領の相給。寛文八年(一六六八)・同九年・延宝二年(一六七四)に検地があり(風土記稿)、元禄郷帳では高一九二石余。
  
        
           境内の様子                       参道途中の右側に設置されている案内板
 八坂神社の由来と行事
 江戸期、当地は大久保村と呼ばれ、鎮守として牛頭天王社(当社)を祀っていた。
 主祭神は、須佐之男尊で、内陣には束帯の神像を安置する。また合祀神は宇気母智神・別雷神・大山咋神の三柱である。
 別当は当社に隣接する真言宗金玉山智福寺が務めていたが、明治初年、当社は神仏分離により、智福寺の管理を離れ、社名も八坂社と改め、同五年村社となった。
 明治四十年三月十六日、宇谷ノ中の稲荷社、宇下原の雷電社、宇上の日枝神社を当社本殿に合祀した。しかし、宇上では、日枝神社が合祀されてから疫病がはやったため、神罰であろうということになり、元地に戻された。
 年中行事は、春祭り・夏祭り・秋祭り・大祓の四回である。
 三月五日の春祭りは、当社が明治五年三月五日に村社になったため、これを記念して、その後は例大祭となっていた。この祭典には町長や学校の生徒が参列し、町の式典の一つに数えられていた。しかし、戦後、氏子の中から例大祭を元の夏祭りに戻そうとの声が上がり、現在は旧来通り夏に例大祭が行われている。
 夏祭りは天王様とも呼ばれ、地区内の疫病を祓う祭りで、現在七月十五日に行われており、祭典では悪疫除け祈願がある。明治中頃までは、地区内を山車が回り、大正期には、川越の地芝居や比企の万作踊りを頼んで祭りを盛り上げ、当社の最も重要な祭りであった。
 秋祭りは、以前十一月二十七日であったが、現在二十三日を祭日として、豊作感謝の祭りが行われている。
 大祓は氏子の罪穢れを除く行事で、十二月三十一日に行われている。
 当社において、神職が関与せず氏子だけが行う神事に、元旦の初詣とお九日がある。お九日は本来十月十九日であったと思われ、古くは子供の行事であったが、現在は十月十日頃、氏子総代が氏子を率いて当社に参拝している。
 なお、宇上の日枝神社は合祀社であるが、元地に社が残り、山王様と呼ばれ、四月十六日に祭りが行われている。(以下略)
                                      案内板より引用
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 大久保村』
 智福寺 新義眞言宗、石井村大智寺の門徒にて、金玉山と號す、本尊大日を安ず、
 牛頭天王社 村の鎭守なり、

 
  拝殿左側に祀られている境内社・稲荷社         稲荷社の右側には
                          「石棒」が8体祀られている。
 石棒(せきぼう)は、縄文時代の磨製石器の一つであり、男根を模したと考えられる呪術・祭祀に関連した特殊な道具とみられている。
 石棒は広義には石刀や石剣を含む棒状の石製品を総じて指し、狭義にはいわゆる大型石棒を指す場合が多く、広義の石棒は九州から北海道までほぼ全国に存在するという。
 男根を模した石製品としては、千葉県大網白里市升形遺跡出土の旧石器時代後期(24000年前)のものまで遡れる。いわゆる大型石棒は、縄文時代中期に中部高地で出現したと考えられ、その後近畿地方以東を中心に広がったと考えられている。
       
                                   拝殿からの眺め
 
        
      社の東側に隣接している智福寺前に板碑や地蔵様が纏めて祀られている。
 
     毛呂山町指定有形文化財である弘安・応長の板碑(写真左)とその案内板(同右)
 毛呂山町指定有形文化財 考古資料
 弘安・応長の板碑  昭和四十八年十二月一日指定
 この二面の板碑は、もとは西大久保地区の東端にあった常楽寺に建てられていた板碑です。
 左の板碑は、弘安三年(一二八〇)に沙弥願生(しゃみがんせい)が父母の追善供養の為に、右の板碑は応長元年(一三一一)に弟子の比丘尼(びくに)が師の三十三回忌の為に建てたものです。二面の板碑は『新編武蔵風土記稿』大久保村の項に、常楽寺内に並び建つ古碑二基として紹介されています。
 弘安の板碑は、阿弥陀種子(キリーク)を主尊とし、その下に不動明王(カーンマーン)の荘厳体とみられる大変特殊な種子を配する珍しい板碑です。
 応長の板碑は、種子を欠失していますが、大きく刻まれた紀年銘が目を引く板碑です。
 平成二十九年一月十日 毛呂山町教育委員会
                                       案内板より引用

 
           文化財の板碑の左側にも         また板碑に背を向くようにして
           石碑が幾つか立っている。           
地蔵様が祀られている。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」
    「境内案内板」等

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大類十社神社

 児玉党は平安時代の後期に現れた氏族で、平安時代末期から鎌倉時代にかけて武蔵国で割拠した武士団(武蔵七党)の一つである。藤原北家流・藤原伊周(ふじわらの これちか)の家令(けりょう/かれい)であった有道維能(ありみち これよし)は、長徳2年(996)に伊周が失脚したことにより武蔵国児玉郡に下向した。その子の維行が有道遠峯維行(ありみち こだま これゆき)と名乗り、児玉党の祖となった。
 児玉惟行の次男である児玉経行(こだまつねゆき)の次男行重は秩父重綱(平姓、平重綱)の養子となり、姓が平となり「秩父平太行重」と名乗り、秩父平氏の庶流となる。その3代目の子孫である行義が武蔵国入間郡へ来住、大類邑(おおるいむら)を開拓し、在地名である「大類氏」と名乗ったという。  
        
              
・所在地 埼玉県入間郡毛呂山町大類29
              
・ご祭神 金井新左衛門以下九士の霊
              
・社 格 旧大類村鎮守・旧村社
              
・例祭等 元旦祭 春祭り35日 秋祭り(獅子舞)1010
 川角稲荷神社から南側に東西方向に走る道を西方向に進む。正面には豊かな森林が広がる中、一対ののぼり旗ポールが見え、その右側に大類十社神社の鳥居が見えてくる。その距離僅か150m程。至近距離に大類十社神社は鎮座している。
        
                  大類十社神社正面
     
         鳥居の左側に建つ社号標柱     鳥居の社号額 「十社神社」と表記
『日本歴史地名大系』 「大類村」の解説
 川角村の東、東は同村枝村(飛地)の玉林寺村で、越辺川右岸の台地上に立地。小田原衆所領役帳に御馬廻衆の紫藤新六の所領として「拾八貫七百六拾三文 入西郡大類」「六貫三百四拾五文 入西郡大類之内」とみえ、弘治元年(一五五五)に検地が実施されていた。田園簿では田高一一石・畑高二四二石、旗本安藤・水野氏の相給。その後水野領は上知後旗本肥田領となり、幕末に至った(「風土記稿」・改革組合取調書など)。検地は宝永四年(一七〇七)安藤領で実施(風土記稿)。
       
              鬱蒼とした杉林の間を参道が伸びる。
『毛呂山町HP』には「十社神社にまつわる伝説」として「貞治2年(1363)の苦林野合戦の際、足利基氏の家臣岩松治部大輔は、基氏の鎧を身につけ、主君の身代わりとして参戦した。芳賀軍の岡本信濃守が斬りかかってきたところ、岩松の家臣金井新左衛門が立ち塞がり、馬から落ちざまに岡本と差し違え、討ち死にしてしまった。
 十社神社は、主君の身代わりとなって戦死した金井新左衛門ほか9名の武将が祀られていることから、古くは十首明神と称し、境内に数多く残る古墳は、戦死者の墓という言い伝えがある」との解説を載せている。
        
                                    境内の風景
 社の境内周辺には、他の社と違う雰囲気の不思議な凸凹のある場所が目視しただけでも数カ所もあり、後日資料等にて確認すると、大類十社神社境内周辺には「大類古墳群」と称されている小古墳が密集しているという。但し「埼玉の神社」では社殿奥には「苦林合戦に関わる古塚がある」とも記載されているため、一概に古墳と決めつけることは早計とも思える。
 
 参道左側にある社務所の奥にある小高い塚。  参道を挟んで右側にも古墳らしき塚が見える。
       
                    拝 殿
 十社神社  毛呂山町大類二九(大類字神明台)
 当地は、越辺川と高麗川に挟まれた台地上に位置する。西境には往時上州と相州とを結ぶ主要交通路として利用された鎌倉街道が、今も雑木林のなかに一条の古道として残る。地内には六、七世紀の古墳が散在し、更に当社の鎮まる字神明台の辺りには、中世に活躍した児玉党の一族大類氏の館跡がある。地名の由来も同氏の土着によるとされ、この地が古くから開けていたことがうかがわれる。また、当地の中心となる宿場町の街道は、敵からの防御のため上・下の外れがそれぞれ鉤の手状に作られていた。
 由緒は『明細帳』に「該社創立ノ年月日ハ右社ニ附属セシ古記録等往時別当当村大薬寺享保慶応両年度火災ニ罹リ焼失シタルヲ以テ詳カナラスト雖モ古来伝ヘ云フ貞治二癸卯年足利基氏芳賀某ナルモノト当郡苦林野ニ戦フ其時僧秀賀ナルモノ戦死者芳賀臣金井新左エ門外九名ノ霊ヲ祭レリト因テ右ハ十士明神ト称ス後今ノ社号ニ改ムト云フ旧来産土神タルヲ以テ明治五年ニ村社ニ列セラル」とあり、主祭神は金井新左エ門以下九士の霊である。なお、往時別当を務めた真言宗大薬寺は、大類氏の菩提寺であった。
 合祀は、明治四〇年に同大字字愛宕台の愛宕神社、字神明台の神明社、字諏訪台の諏訪神社、大正三年に大字苦林字清水の鹿島神社、字木下の稲荷神社について行っている。
                                  「埼玉の神社」より引用

       
                  社殿左側奥にひっそりと祀られている弁財天像

     社殿左側にある神興庫          神興庫と社殿の間に祀られている
                            境内社・稲荷神社
       
                                       本 殿
 当社は10人の武将の霊を祀ったところからその社名が起こったといわれているが、現在祭神にまつわる行事は残っていない。
 氏子内で今に伝承する行事として飯能市長沢の諏訪神社から伝わったとされているササラ(獅子舞)がある。この行事は、昭和40年代に若年層の減少により新習いが不足したため一時期絶えていたが、ササラ関係者の努力により見事に復活されている。
ササラの諸役は「お役人」と呼ばれる。獅子は、雄獅子・雌獅子・判官の三頭で、その他の役割として蠅追い・花笠・法螺貝・笛吹がある。古くは氏子内に新しく入った養子に任される「天狗」と称する役もあった。ササラは神社境内で舞うほか、村内を回る途次に、当社に合祀された字神明台の神明社と愛宕台の愛宕社の元地及び浄国寺の各方角に向いて一庭ずつ奉納する習わしがる。
 ササラの曲目には「岡崎」「雌獅子隠し」「竿掛(さおがかり)」などがあり、それぞれの曲の前に「願ザサラ」を摺るところに、当地の獅子舞の特色がある。
     
                     正面鳥居の先にあるご神木の大杉(写真左・右)

 ところで、冒頭で解説した大類氏は武蔵七党の児玉党出身で大類五郎左衛門尉行義を祖としている。行義は秩父次郎行綱の子で、秩父平氏庶流であり、本貫地は秩父であろうと推測しているが、上野国群馬郡大類村発祥とする説もあり、ハッキリとは分かっていない。  
『新編武蔵風土記稿 大類村』
「大類村は、川越城及び江戸よりの行程前村に同じ。松山領にて入西(にっさい)に屬す、按に大類氏は當國七黨の一兒玉黨の人なるに、此邊同じ兒玉黨なる越生氏等が住せし由を傳へたれば、當村も恐らくは大類行綱が一族など土着の地にして、在名をもて氏には名乗しならん、かく古き村なることは論なし、既に上野國群馬郡宿大類村は、昔兒玉黨大類氏の居住せし地なる由傳へり」
「小名 鎌倉道
 西方川角村の境を云、こゝに鎌倉への古道あり、北の方苦林村より村内九町を過て、南方大久保・市場二村の間に通ぜり、今は尤小徑となれり、是は鎌倉治世の頃、上下野州より鎌倉への往來なれり、今も此細徑を北へ往ば、越邊川を經て兒玉郡本庄宿へ通ぜり、南の方は市場・大久保の境を過、高麗川を渡りて森戸・四日市場村の間をつらぬけり」
        
                             参道から入り口鳥居を望む。

『風土記稿』においても、上野国群馬郡宿大類村は児玉党大類氏が居住していた地である事が記されている。また通説で大類五郎左衛門尉行義は、武蔵国入間郡へ来住、大類邑(おおるいむら)を開拓し、在地名である「大類氏」と名乗ったというのだが、行義が来住時、すでに当地は「大類」という名称であったという矛盾を生じてしまう。
 結果論でいうと、『風土記稿』に記載されているように、この大類行義はこの当地土着の一族である可能性は否定できないのではなかろうか。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「毛呂山町HP」等

 

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川角稲荷神社


        
            
・所在地 埼玉県入間郡毛呂山町川角2201
            
・ご祭神 稲荷神(推定)
            
・社 挌 旧無格社
            
・例祭等 秋祭り 1017
 川角八幡神社から一旦南下して「川角」交差点に戻る。この交差点は埼玉県道114号川越越生線と同県道39号川越坂戸毛呂山線との分岐点でもあり、交差点を左折し、県道39号川越坂戸毛呂山線に合流、東行する。2㎞程進んだ後、そこの十字路を左折し、350m程北上した丁字路の角付近に川角稲荷神社は静かに鎮座している。
        
                                 川角稲荷神社正面
 当地は毛呂山町の北東に位置し、坂戸市に隣接する。大字川角ではあるが、大字大類を隔てて川角の飛び地の形となっている。古くは勝呂郷玉林寺村と称し、『風土記稿』に「かく古より開けし地なるは勿論なれど、其地広からずして、一村落とするに足ざるをもて、昔より川角村に隷して、村民の戸数も本村の内に籠りし」とある。
 古来、川角の飛び地である玉林寺村では当社を氏神としてきたが、大正元年に川角の八幡神社へ合祀したため、八幡神社の氏子となり、更に旧知へ復したことから昭和二九年以降は再び当社を氏神としている。

「玉林寺村」の名称由来は、『風土記稿』等には全く記されていない。但し『日本歴史地名大系 川角村』には「村名は越辺川の大屈曲部にあたることからという。もと川門と書き、九日市場村(のち市場村)を含んでいた(風土記稿)。枝村に玉林寺(ぎよくりんじ)村がある。応永一八年(一四一一)没した京都建長寺前住持如春少林が一時玉林寺に住していた(空華集)」と記されていて、その当時、この地域にあったのであろう「玉林寺」が名称由来となっているように思える。

 当地の小字塚原の地名は、六・七世紀の古墳が数多く散在していることによる。塚原の地内からは太刀・玉などが出土して、その古墳群の主塚を中心に「苦林野(にがばやしの)古戦場跡」といい、貞治二年足利・芳賀(はが)の両軍が戦陣を張った所で、県旧跡となっている。長塚の上にはその供養塔が建ち、近隣の小塚は合戦戦死者を埋めた跡とも伝えている。
 またこのあたりは丘陵地域で畑が多く、養蚕の盛んなころには一面の桑原であった。戦後は養蚕も少なくなり、農業をしながら勤めに出るようになった。こうした変化に伴い,作神として尊ばれていた榛名・御嶽・大山の代講も中止となり、畑に立つ雹除け・嵐除けの神札も見られなくなった。
        
                                       拝 殿
 稲荷神社 毛呂山町川角二二〇一(川角字塚原)
 鎮座地である玉林寺は川角の飛び地とされ、永禄年間には太田大膳亮が領していたと伝え、当社は開村のころからその鎮守として祀られている社であるという。
 当地は江戸時代には玉林寺村と称し、川角村に属し、年貢は川角村と一本であったが、他の面では一村とみなされていた。『風土記稿』は、川角村に隷すと記しながら玉林寺村を一村として扱い、当社について「稲荷社 村の鎮守なり、百姓持」と載せ、社蔵の宝歴三年の棟札にも「奉修覆當村鎮守稲荷明神社天下泰平攸 武刕入間郡玉林寺村氏子」とある。しかし『郡村誌』には川角村の項に当社を挙げ、「東方飛地にあり宇迦魂命を祭る」と、飛び地として扱っている。
 明治五年に川角村の八幡神社が村社となり、当社は無格社となったが、その後のいわゆる一村一社制により、大正元年に八幡神社へ合祀された。しかし、合祀後も旧来信仰してきた神社を一朝にして廃することは忍び難く、また、川角の八幡神社へは当地が飛び地として扱われていたことから距離があり、参拝の便も悪いため、合祀後もそのまま旧地に残された社で祭祀が続けられていた。このような中で、戦後まもなく旧氏子により社を元に戻そうとの働き掛けが行われ、昭和二九年登録認証されて現在に至っている。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                 こじんまりと佇む社
 古くから玉林寺の鎮守として信仰されている。氏子の間では、稲荷様は何事もかなえて下さるありがたい神様といわれ、様々な事が祈願される。
 1017日の秋祭りの前日、夕方には灯籠に灯が入り、氏子は「宵待(よいまち)」と称して神社に参拝する。以前は拝殿に若衆が籠って一晩中飲み食いし、各戸から薪を出して境内で焚き、子供たちが太鼓でにぎやかに囃したという。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等

 

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