古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

大輪長良神社

 大輪地域とその東側に接している須賀地域の間を流れる新堀川の一帯は、大輪沼と称し沼沢のある大湿地帯であった。ここが、新田、山田,西邑楽の悪水(農業排水)の溜まり場だったからである。雨の多い年には作物はほとんどとれない土地であった。この沼は谷田川による自然排水であったが、沼の口から赤生田橋(上江黒十二社橋)までの間は川幅が狭く、思うように水が流れなかったためであった。徳川綱吉公が寛文3年(1663年)館林城主となったときの大事業として、館林城の改築、矢場川のつけかえ工事、谷田川の拡張工事が行われた。しかし、延宝8年(1680年)の水害で大輪沼廻り7千石の田畑が冠水し、飢えに及んだので、農民達が大輪沼から利根川への悪水堀を願い出た。そこで、天和元年(1681年)、代官諸星伝左衛門は普請功者の三科甚五兵衛に大輪沼より利根川へ排出する方法を調査させた。須賀から排出する方法、梅原から排出する方法を検討したが、何れも勾配不足につき、他を考えることとなった。ところが、翌年になると館林領一帯が旗本に分割されたこともあり、悪水堀の願い出は中断した。
 その後も水害は年々増加したので、野辺、上三林、下三林、矢島・入ヶ谷、木崎、上中森、下中森、萱野、赤堀の村々(現大字)が協力して利根川への悪水堀を願い出たが、水盛の結果、利根川へ排出することは無理として却下となり、さらに嘆願を続けたが水下村々からの故障の申出もあり、また代官比企長左衛門になっても見通しが立たなかった。
 このように利根川への排出を種々検討したが、結果が思わしくないので、他の方法を考えるよう申し渡した。これにつき沼廻村々で相談したところ、谷田川は大輪沼口より赤生田橋までが川幅36間と狭く、これを12間に拡張すれば沼に水が溜まらないとの結論に達し、この案を上申した。長左衛門はこの案を手代集に精査させ、沼廻村々の申すとおりとの報告を受けた。この頃、元禄11年(1698年)に再び大洪水が起こり、大輪沼廻り、田方400町歩、畑方150町歩の収穫は皆無であった。長左衛門もこれでは捨ててはおけぬと決心して、谷田川筋を詳しく調べ、大輪沼から赤生田橋までの3,300間を川幅12間に広げ、土置場を3間とし、それより水下江黒、斗合田は出張計り切り広げるよう計画し、翌年に工事が開始された。
 谷田川拡張工事はわずか30日、矢島~板倉までの樋3ヶ所、橋6ヶ所の工事まで入れて、50日で完成したのである。工事に携わった人足は6万人、内12千人は64ヶ村の厚意による助人足であった。工事の様子は「沼廻り人足共は、多年之願故、身命にかけ出情いたし、助人足は沼廻り人足に遅れまじと面々村印にのぼりを立て、競り合い励み候事前代未聞の御普請」と「谷田川広伝記」に記されている。
        
             
・所在地 群馬県邑楽郡明和町大輪2072-1
             
・ご祭神 藤原長良公(推定)
             
・社 格 旧大輪村鎮守・旧村社
             
・例祭等 春祭り 415日 秋祭り 1015
 国道122号線にて利根川を越え、「川俣」交差点を左折し、群馬県道368号上中森川俣停車場線に合流、1㎞程西行した「大輪」交差点の手前の十字路を左折、南に下った利根川の堤防からすぐの場所に大輪長良神社は鎮座している。
        
                  大輪長良神社正面
『日本歴史地名大系』 「大輪村」の解説
 利根川左岸に立地する。東は須賀村、西は下中森村(現千代田町)。永仁三年(一二九五)一二月二一日の関東下知状(長楽寺文書)によれば、大輪又太郎時秀が「佐貫庄上中森郷内」の田畠を太田彦三郎貞康に売却している。天正二年(一五七四)四月一三日の上杉謙信書状(志賀槙太郎氏所蔵文書)によると、北条氏政の軍勢に囲まれた羽生城(現埼玉県羽生市)の救援のため大輪に陣を張ったが、利根川が増水し、謙信は苦慮している。近世初めは館林藩領で、寛文郷帳に田方五八六石七斗余・畑方四三八石二斗余とあり、田方に「旱損」と注記される。

明和村の民俗』によると、大輪地域には「又太郎屋敷」伝説があり、それには「永仁年間に堀之内に大輪又太郎という殿様が住んでいたといい、城のような屋敷跡になっていた。後にできた家に崇りがあるというので、先達が来て泊り込んで拝んだ時、そこらを掘り返したが、何も出なかった。」と載せている。また、この大輪又太郎という人物は、鎌倉幕府の御家人佐貫氏の配下だともいう
        
                 鳥居を過ぎてすぐ左側に祀られている「五社大権現」の石碑
        
         参道を進むと、拝殿手前で向かって左側に合祀社として祀られている。
 左から、琴平・菅原神社、稲荷神社、厳島神社、神明社、羽黒様、熊野神社、諏訪神社、三島神社、菅原神社。嘗ては耕地ごとに神様を祀っていて、下新田は熊野神社、東新田は羽黒山、堀之内は誠訪社、馬御屋は三島社を祀ったとの事。
 明治四十二年に神社合併で合祠する前は、地域内に分かれていて、「一家(イッケ)」毎に祀っていた社と言う。旧暦915日に長良神社の秋祭りがあり、その祭りの後にイッケ毎に「小宮祭り」という祭りを行うという。
 小宮祭りはイッケの宮を祀る行事で、村祭りの後にするようにして、赤飯を炊いて祝い、近在の親戚と重箱で赤飯のやりとりをする。西浦組は五、六十軒あるが、大神宮(外宮・内宮)を旧暦915日に祀る。水道タンクの下に立派な社があったが、明治42年に長良神社へ合併した。
 下の衆は神社合併の時、三島・.天神とも残した。松本一家(イッケ)ではゴリョウ様とヒジリ(聖)様を祀る。いい伝えでは、兄弟三人で大阪を見限って、此処へ流れて来た時に、兄が大神宮、弟二人がゴリョウ様を祀ったという。個人持ちだが、イッケ四軒で祀るとの事だ。
 
 合祀社の先には数多くの庚申塔や石碑がある。  境内に聳え立つイチョウの古木
        
                                        拝 殿
 村社長良神社の春祭りは四月十五日、秋祭りは十月十五日で、神主が立ち合って、春は五穀豊穣を祈り、秋はお礼をいう。春秋の祭礼には長良神社の社務所から「御練り」の一行が出て、神社まで約百mを行く。御練りは神主二人、助手三人(村の人)、大太鼓1、小太鼓2、笛1、その他村の人が付いて行列をつくる。神楽や獅子舞はなかったが、秋祭りには万作踊りをした。大正初めごろまでやった。幟は長さ十m以上もある大きいのが二本あり、コウチで順番が決まっていて、柱を立てた。最近幟番は女性たちが出るので、柱が立てられない。その上、旗枠も道路拡張で片付けたものもあるの、幟を立てなくなった。幟竿の先には杉の枝に青い葉が付いたままさした。
 長良神社の棟に竜の姿を漆喰(しっくい)で作り付けてある。九末社を祀りこんである。
 長良神社氏子改帳明治六年四月二十日に作製した帳面がある。第七大区八小区上野邑楽郡大輪村一番〜六七七番まで記録してある。
 村社長良神社の春祭り(四月十五日)には、行列が出てオネリをする。長良神社は大輪の鎮守で、鳥居の内側に立てる大幟は館林藩儒山下雪窓(明治三十五年没)の揮毫による。
                                  『明和村の民俗』より引用
        
                社殿から参道方向を撮影
             雄大な利根川の土手が真近に見える。

  
祭礼は旧暦六月十日だったが、新暦七月十日・十一日になり、最近は七月の日曜日になった。子供のころは二階造りの山車だったが、その後、脇から買ったのが屋台で、一階造りで踊り場があり、屋根が付く。引綱二本付け村の子が全部たかって天王様から長良神社の間の道を、引き回した。祭世話人が世話をやき、消防部頭が親玉になった。舞子連がお囃子をしたり、ひょっとこ踊りをした。 戦前までしていた種目は三番叟、踊り、弥次喜多道中、ひょっとこ、狐踊り、おかめなど上手に演じた。
 笠鉢は八坂神社の祭礼には、上と下から一本ずつ笠鉢を作って立てた。祭りの前日に笠鋅作りに出て、色紙を使ってきれいに傘形に飾り付け、回りに竹ひごにさくら紙を巻いた花飾りを出した。上の行灯には「八坂神社天下泰平.五穀豊穣.村内安全」と四面に書いた。八坂神社の参道には灯籠を二十本も立てたが、灯籠には絵や川柳が書かれた。各家々でも家のカドに灯籠を立てたという。




参考資料「日本歴史地名大系」「明和村の民俗」「明和町の文化財と歴史」
 

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小新井熊野神社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡吉見町小新井98
             ・ご祭神 家津御子大神 熊野速玉大神 熊野夫須美大神
             ・社 格 旧小新井鎮守・旧村社
             ・例祭等 元旦祭 春日待 415日 夏祭り 715
 埼玉県比企郡吉見町内の北部に位置する小新井地域は、田畑が大部分を占めている長閑な田園地帯である。但し地域南部には、「吉見町ふれあい広場」「陸上競技場」といった施設が設けられているほか、埼玉県道271号今泉東松山線を挟んですぐ南側には、「フレサよしみ」や「吉見町町民体育館」等もあり、町政としても、これらの公共施設が集積している地を地域拠点の一つとして位置づけ、町民の日常生活の利便性や地域交流の活性化を目指しているという。
 この「吉見町ふれあい広場」から北側を100m程進むと、進行方向斜め左側にこんもりした森が見られ、その中に小新井熊野神社は静かに鎮座している。道も社の先で行き止まりとなり、また駐車スペースもないため、路駐にて急ぎ参拝を行う。
       
                 小新井熊野神社正面
『日本歴地地名大系』「小新井村」の解説
 旧荒川筋の河道跡を挟んで上細谷村の東に位置し、北は本沢村。集落は旧荒川の自然堤防上に発達する。古くは上細谷村と一村であったが、明暦年間(一六五五〜五八)に分村したといわれる(風土記稿)。元禄郷帳では高二〇一石余。国立史料館本元禄郷帳では幕府領。宝暦一三年(一七六三)下総佐倉藩領となり、同藩領で幕末に至ったと考えられる(「堀田氏領知調帳」紀氏雑録続集など)。
        
                       正面鳥居と境内の様子
『新編武蔵風土記稿 小新井村』
 小新井村は元上細谷村の内より分村すと云、村名正保の改には見えず、程なく分ちしと見えて、元祿の國圖及鄕帳に始て見えたり、(中略)又新田は東の方一里許荒川の邊にあり、民戸はなし、爰も寛文八年同人檢して高入となれり、
 熊野社 村の鎭守なり、相傳寺持、
 相傳寺 新義眞言宗、今泉村金剛院門徒、不動を本尊とす、村内名主喜右衛門の先祖開基すと云、觀音堂
        
                    拝 殿
 熊野神社  吉見町小新井一七〇-一(小新井字屋敷)
 荒川と市野川の間の低地帯に位置する小新井は、もと上細谷の一部であった。上細谷から分村した年代は明らかではないが、検地の記録からは正保から元禄にあけてのころ(一六四四-一七〇四)と考えられている。
 当社は小新井の名主を務めた金子家(当主は典彦)の中興の祖とされる金子和索が、天文元年(一五三二)に氏神として紀伊国(現和歌山県)の熊野那智神社から勧請したものと伝えられ、以後、金子家の氏神として祀ってきたという。当社の境内が金子家に隣接しているのは、こうした経緯によっており、鎮座地の字名を「屋敷」というのも、金子家の屋敷があることにちなんだものである。
 社蔵の文書によれば、慶長五年(一六〇〇)、小新井が上細谷から分村したのをきっかけに、当社は小新井の鎮守として祀られるようになったもので、またこの時、金子家はそれまで同家の私有地であった境内九八坪を当社に寄進し、社殿を造営して「村の鎮守様」としたと伝える。その後、江戸時代の後期に社殿の造改築を行い、明治四年に村社となった。なお、江戸時代、当社は金子家の先祖が開基した相伝寺の持ちであったが、相伝寺は神仏分離によって廃寺となり、その跡地は集会所となっている。また、当社ははじめ地内の芋島にあったが、いつのころか現在の社地に移されたとの言い伝えもある。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
            境内に設置されている「
御社殿造営記念碑」
 この
記念碑文には「當社は天文元年当時の名主金子家直が紀伊国熊野那智大社より勧請し慶長五年に小新井に寄進された 爾来字の鎮守として大切にされてきた」と載せている。「埼玉の神社」では天文元年に「金子和索」が社の創建に関わっていたとの記述であり、「金子家直」と名前が違っている。どちらかの記載ミス、または同一人物ではあるが、何時の頃か「改名」している可能性も捨てきれない。現状ではそれ以上の考察は難しかった。
 
  社殿左側に祀られている天満宮の石祠     境内右側隅には古く小さな石碑がある。

 この碑に刻まれている文字は古く見えづらい。但し所々「奉納」「敷石」「参」と見える事から、「埼玉の神社」に載せられている伊勢参宮記念敷石奉納碑であろうかと思われる。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等

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谷口稲荷神社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡吉見町谷口99
             
・ご祭神 倉稲魂命
             
・社 格 旧谷口村鎮守
             
・例祭等 祈年祭 418日 夏祭り 710日 秋祭り 1015
「道の駅いちごの里よしみ」の駐車場沿いにある「下細谷」交差点を東行し、埼玉県道27号東松山鴻巣線を荒川右岸方向に進む。650m程先の信号のある交差点を左折、暫く道なりに進むと、進行方向左手に谷口稲荷神社の重厚ある古びた石の鳥居が見えてくる。
        
                                
谷口稲荷神社正面
『日本歴史地名大系』「谷口村」の解説
 古名村・丸貫村の西に位置し、西は下細谷村。地内に天文一四年(一五四五)の板碑がある。田園簿では「矢口村」とみえ、田高一八〇石余・畑高四四石余、幕府領。日損水損場の注記がある。元禄郷帳では高三〇七石余。宝暦一三年(一七六三)下総国佐倉藩領となり、以降同藩領で幕末に至ったと思われる(「堀田氏領知調帳」紀氏雑録続集など)。

『風土記稿 谷口村』の項には、「比企郡松山町より足立郡鴻巣宿への行路にかかれり」とあるように、谷口の集落は松山鴻巣道沿いにある。古くは「矢ノ口」と書き、更に当社の鎮座地付近を「矢筑(やづき 谷筑)と呼ぶことから、中世にはしばしば戦場となった所であったのではないかといわれている。
 一方、当社の南方一帯がかつて葦原であったことから、ここを「野の入口」あるいは「野の尽きる所」という意味で「やぐち」「やづき」と呼ぶようになったとも考えられている。
 
   歴史を感じる重厚な雰囲気が漂う鳥居     鳥居の社号額 「正一位稲荷大明神」
      この石製の社号額の額縁には、天空を舞う双竜が彫り込まれていて、
        この額を制作した職人のこだわりを感じる凝った造りである。
        
             長い参道の先で小塚上に社は鎮座している。
       
          石段付近に一際高く聳え立つイチョウの古木(写真左・右)
       
                                    拝 殿
 稲荷神社  吉見町谷口五六四(矢口字谷筑)
 谷口の集落の中ほどに位置する当社の参道入り口には、古びた石の鳥居が立っている。この石鳥居には「正一位稲荷大明神」と刻まれた石製の社号額が掛かっており、その額縁に彫り込まれた天空を舞う双竜には力強さが感じられる。そこから、長い参道を歩いて行くと、正面が小塚の上に築かれた社殿である。小塚の周りには、銀杏・欅・杉などの古木が茂っているが、長年の洪水と風雪に耐え抜いてきたこれらの樹木は、当社の歴史と共にあると言っても過言ではない。
 当社の創建については、社殿に貞和元年(一三四五)勧請とあるものの、それ以外は不明であり、一説によれば金子仁蔵家の氏神が後年村持ちになったものともいわれている。金子家の屋敷跡は当社の南側である。また、現在のところ、鎮座地の谷口村の開発についても史料等がなく、明らかではない。それは荒川の度々の氾濫によって史料が流出したり、近村同様に村が荒廃した時期があったためと思われる。
『風土記稿』でも、当社については「稲荷社 村内の鎮守なり、村持」とあるだけで、別当は置かれていなかったものか記載がない。しかし、一間社流造りの本殿には数か所「卍」の紋が取り付けられていることから、当社の近くにある真言宗妙蓮寺が当社の祭祀に関与していたと推測される。ちなみに、本殿については、正保年間(一六四四〜四八)及び貞亨年間(一六八四〜八八)の造営記録を伝えている。
                                                                    「埼玉の神社」より引用
       
      石段下にある
阿夫利神社名の御神燈    塚上に祭られている石祠。詳細は不明。

 当社の祭典は、元旦祭・祈年祭(418日)・夏祭り(710日)・秋祭り(1015日)である。しかし祈年祭(通称春日待)と秋祭り(通称秋日待)は祭典と直会だけの祭りで、氏子を挙げて盛大に行うのは夏祭りである。
 夏祭りは、氏子の間では「芋っ葉灯籠」という。これは、当社の祭りの時期が近在よりも早く、まだ梅雨時期に当たる為雨天になる日が多く、祭りの前夜、氏子の誰もが里芋の葉を傘代わりに差して参詣に来ることからきた通称であるという。
 当日は祭典を執り行った後、集会所から万灯・獅子頭・お囃子連の順に列を組み、当社の入口に到着すると、獅子頭をかぶった者が「宮参り」と称して境内に摺りこみ、待ち受けた子供に対して囃し立てならが社前に至るという風習であるという。
        
                           
社殿側から見た境内の一風景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」等

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上銀谷神明社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡吉見町上銀谷2671
             
・ご祭神 天照皇大神
             
・社 格 旧上銀谷村鎮守
             
・例祭等 元旦祭 春祭り 415日 秋祭り 1015
 大和田浅間神社参道入口がある道路を北西方向に450m程直進し、「東野第6公園」を過ぎた路地を左折、暫く進むと右手に上銀谷神明社の白い神明造りの鳥居と、その先に社叢林に囲まれて塚上に鎮座する上銀谷神明社が見えてくる。
        
                  
上銀谷神明社正面
『日本歴史地名大系』「上銀谷(かみしろがねや)村」の解説
 谷口村の東に位置し、東は大和田村。古くは南接する下銀谷村と一村で、銀谷村といい、銀屋とも記したが、貞享二年(一六八五)に二村となった。地内薬師堂には嘉暦三年(一三二八)・至徳三年(一三八六)の板碑がある。この薬師堂に安置する薬師如来石像の腹籠に納められている古杉薬師が「しろがね」であることが村名の起りという(以上「風土記稿」「吉見町史」など)。中世には大串郷のうちで推移した。永禄九年(一五六六)一〇月二四日、太田氏資は「大串之内銀屋不作、十七貫文之所」などを内山弥右衛門尉に与え(「太田氏資判物写」内山文書)、同一〇年一二月二三日には北条家が氏資の証文に任せて矢(弥)右衛門尉に同所などを安堵している(「北条家印判状写」同文書)。
        
              塚上に鎮座する
上銀谷神明社社殿
 地域名「銀谷」は、今では「ぎんや」と呼ばれているが、明治初年までは「しろがねや」と呼ばれ、その名は、当社の別当であった薬師寺の本尊に銀の胎内仏が納められていることに由来しているという。
 当社の境内は、上銀谷のほぼ中央にあり、社殿は塚上に建っている。荒川と市野川の間に位置するこの地域は、低地であるため、しばしば水害を被ってきたが、当社の社殿は塚の上にあるため大きな被害はなかった。それでも昭和13年の大水はすさまじく、氏子は自分の家の屋根を登って難を逃れた程であったが、この時は当社の社殿も半分くらいは水に漬かったという。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 上銀谷村』
 上銀谷村は昔上下の別なかりしを、貞享二年分村せりと、民戸十七、(中略)
 神明社 藥師寺の預る所にして、村の鎭守なり、
 藥師堂 浄土宗、川越蓮馨寺の末、無量山と號し、不動を本尊とす、
 藥師堂 腹籠に、行基の作佛を置り、傳へ云、此像はもと古名村の民家の守護佛なりしが、夢の告によりて境内古杉の下に安置せり、依て古杉薬師と呼、其杉今も堂後にあり、幹の大さ三圍許、樹根より一丈ほど上にて、枝十二に分れて繁茂せり、

 神明社  吉見町上銀谷三三七-一(上銀谷字神明)
 社伝によれば、当社は、大同年間(八〇六〜一〇)に銀谷の村が始まって以来、その鎮守として崇敬されてきたという。また、氏子の間には、江綱の五太夫様の氏神を当地に勧請したものであるとの言い伝えもある。「五太夫様」という人物については、明らかではないが、戦国時代末期に江綱を開いた「江綱草分け七人衆」の一人、あるいは当時この地で活躍した伊勢の御師ではなかったかと考えられる。
 銀谷は、村の発展にともなって、貞享二年(一六八五)には上下二村に分かれたが、その際、当社は上銀谷の鎮守となり、下銀谷では稲荷社を鎮守として祀るようになった。『風土記稿』上銀谷村の項に「神明社 薬師堂の預かる所にして、村の鎮守なり」とあるのは、当時の状況を表したものである。なお、薬師堂は、霊亀年間(七一五〜一七)に行基が境内の古杉一幹を使ってその本尊を作ったことに始まると伝えられる浄土宗の寺院で、現在は薬師寺と称している。
 拝殿の前には、かつて大人ふた抱えほどもある黒松があり、当社の創建時からあるものといわれていた。この松は、古木である上に枝ぶりもよいので村人の自慢の一つとなっていたが、残念なことに松食い虫にやられてしまい、昭和五十年代にやむを得ず伐採してしまった。
 特に神木として注連縄を張ったり、特別な信仰があったわけではないが、長い間氏子に親しまれてきた樹木だけに惜しまれる。
                                  「埼玉の神社」より引用
*江綱草分け七人衆…江綱村の開発には「小高家文書」によると、永禄7年(1564)に小田原北条氏に敗れた太田氏や里見氏に与した野本兵庫吉久・山口七兵衛定重・斉藤市右衛門胤善・小倉主水秀陰・中村将監有文・神田左近林重・小高藤左衛門宣興の七名の武士が帰農し、当村を開拓する際に勧請したともいう。
 当社の祭礼に関して、415日の春祭りでは、嘗て大正時代には拝殿の前で、神職の竹井家の夫人が春神楽を奉納していたが、昭和に入り、祭典と直会だけの祭りになっている。また1015日の秋祭りには、氏子各戸で「お日待」と言って餅や赤飯を作って祝う行事であったが、今は祭典を行うようになっている。
        
               拝殿上部に掲げてある
奉納板
 拝殿正面には、当社の簡単な由緒と年中行事及び「敬神生活の綱領」を記した板が掲げてある。氏子のだれかが奉納したものではなかろうか。

 嘗て昭和三十年代までは、当社の本殿は茅葺きであったという。そのため、屋根が傷つくと、氏子総出で西吉見の安楽寺周辺に映えている山茅を刈りに行き、屋根を葺き替えたという。『風土記稿』には「民戸十七」と載せており、その少ない戸数と人員で、長い間社の管理を行って来た。社の維持管理は、村内の諸役の一つで慣例的なものであるとはいえ、屋根の葺き替え等の諸事を長い間行ってきたことは、氏子の方々の崇敬の念と日頃の共助の心がけが厚い証拠でもあろう。
 上銀谷の人々は、全戸が薬師寺の檀家というわけではないが、誰もが当社を村の鎮守として信仰するのと同じように、薬師寺を村の寺として厚く信仰しており、新生児の宮参りをはじめとする人生の節目の参詣や月参りなどは、当社だけでなく、薬師寺にも参っているという。
        
                           石段下に祀られている石祠二基
               
左から稲荷大明神 稲荷大神
        
                石段下から鳥居方向を撮影



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」等
                   
        

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大和田浅間神社

 浅間信仰とは、富士山に対する信仰のうち浅間神社を中心とする信仰をさしている。アサマともよばれており,本来は火山に対する名称とする説もある。富士山に関する最古の文献である都良香【富士山記】には,875年(貞観17115日,山頂で白衣の美女2人が舞う姿を見たという記事があり,白い噴煙の立ち上る様子を表現していると思われ、そしてこの山神に対して〈浅間大神〉と命名している。
 後世浅間大神は,木花開耶姫(このはなのさくやびめ)と同一視された。この女神は神話上の美姫であり大山祇(おおやまつみ)命の女であり,天孫瓊瓊杵(ににぎ)尊の妃に位置づけられている。また神仏習合の過程で,浅間大菩薩とも称された。その後、近世に入り、そのなかから長谷川角行という行者が現れ,浅間神社から独立した富士講をつくった。
 長谷川角行が広めた富士講やその教義は、東日本の農村において急速な浸透を遂げた。大和田地域に鎮座する浅間神社もこのような富士信仰の流布の中で建立された社の一つであるという。
        
             
・所在地 埼玉県比企郡吉見町大和田338
             
・ご祭神 木花開耶姫命
             
・社 格 旧無格社
             
・例祭等 例祭 714
 大和田地域は吉見町の南東部に位置していて、東境は旧荒川と接している。この旧荒川は江戸時代初頭の瀬替えで流路が確定してから、昭和初期の近代改修で廃棄されるまで約300年間荒川の流路であったという。この旧荒川は、現河道の右岸側に3 kmほどの旧河道が現在も埋め立てられず河跡湖や河川として残っていて、所在地から明秋湖とも、埼玉県道27号東松山鴻巣線を挟んで北から順に明秋・鎌虎・蓮沼とも呼ばれ釣り場として利用されている
 瀬替え以前は和田吉野川の流路であったともされ、周辺地域では河道が蛇行していたことから水害が頻発していた。そのため、明治後期になり洪水氾濫対策として旧河道を堰き止め、新たに現河道を掘削したという。
        
                 北方向に伸びる参道
 大和田稲荷神社から埼玉県道76号鴻巣川島線を500m程南下し、コンビニエンスのある十字路を右折し、すぐ先にあるY字路を右折すると、民家の間に大和田浅間神社の参道が僅かに見えてくる。但し、その道幅は狭く、分かりづらいので通り過ぎてしまう可能性も高いので、目視で注意深く確認する必要がある。
        
          北方向に伸びる参道は行き止まり、西に方向転換する。
       すぐ先には鳥居があり、若干の上り斜面の先に社殿が鎮座している。
        
                 大和田浅間神社鳥居
        
                    拝 殿
 浅間神社  吉見町大和田三三八(大和田字下西谷町)
 富士浅間信仰は、室町末期から江戸初期に長谷川角行という行者が現れて、その教義を整え、富士講を広めたことから、東日本の農村において急速な浸透を遂げた。当社もこのような富士信仰の流布の中で建立された社の一つである。
 社伝によれば、創建は元禄二年(一六八九)のことで、駿河国の富士山本宮浅間神社からの勧請である。享保六年(一七二一)には村人一六戸によって社殿の再建が行われたという。
鎮座地は大字大和田の南西の外れにある。これは、氏子集落から見て富士山が南西の方角に望まれることにちなんでいる。
『風土記稿』大和田村の項には「稲荷雷電合社 小名堤根の鎮守なり、蚊斗谷村の界にあり、彼村大行院持、彼村民も産神とす。稲荷社、村の鎮守なり、大輪寺持。浅間社 同持」と当社を含む三社が載せられている。これに見える大輪寺は稲荷社の西側にあった真言宗の寺院(明治三十一年火災により焼失)で、「名主惣左衛門が先祖、小沢惣左衛門道繁開基す」と記されている。
明治四年の社格制定に際し、無格社となったが、幸いにも合祀されることなく今日に至っている。近年では、昭和六十二年に社殿の改築を行った。なお、当社が「上浅間」と呼ばれるのに対し、境内にある石祠は「下浅間」の名称で呼ばれている。
                                  「埼玉の神社」より引用

「埼玉の神社」の解説に出てくる長谷川角行(かくぎょう)は富士信仰の行者で、富士講の開祖。また、神道(しんとう)教団扶桑(ふそう)教および実行教の開祖。その生涯については不明な部分が多く、伝記では、大職冠藤原鎌足の子孫といわれ、天文(てんぶん)10年肥前長崎の武士の左近大輔原久光の子として生まれたという。俗名・長谷川左近藤原邦武。
 角行の伝記には数種あり、それぞれが内容を異にする。しかし、応仁以来の戦乱の終息と治国安民を待望する父母が北斗星(または北辰妙見菩薩)に祈願して授かった子だとする点や、7歳で北斗星のお告げをうけて己の宿命を自覚し、18歳で廻国修行に出たとする点などは共通して記された。そうした共通記事に即して角行の行状を理解すれば、それはおよそ次のようである。
 当初修験道の行者であった角行は、常陸国(一説には水戸藤柄町)での修行を終えて陸奥国達谷窟(悪路王伝説で著名)に至り、その岩窟で修行中に役行者よりお告げを受けて富士山麓の人穴(静岡県富士宮市)に辿り着く。そして、この穴で45分角の角材の上に爪立ちして一千日間の苦行を実践し、永禄3年(1560年)「角行」という行名を与えられる。
 
     社殿手前で左側にある石柱        境内の隅に祀られている浅元宮の石祠  
四方に文字が刻んであるが、内容までは分からず
        
 その後、角行は富士登拝や水垢離を繰り返しつつ廻国し、修行成果をあげるたびに仙元大日神より「フセギ」や「御身抜」(おみぬき)という独特の呪符や曼荼羅を授かった。なお、「フセギ」は、特に病気平癒に効力を発揮する呪符であったらしく、江戸で疫病が万延した際にはこれを数万の人びとに配して救済したという。
 正保3年(1646)、105歳で富士山中の人穴にて死去したとされる。
        
               社殿側から見た境内の一風景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「「日本大百科全書(ニッポニカ)」
    「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」Wikipedia」等

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