古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

小泉八合神社

 上尾市・小泉地域は、市西部の主に大宮台地上に位置する。東側を泉台や浅間台と隣接し、南側を弁財や今泉、西側から北側にかけて小敷谷や中分と隣接する。大字小泉は町丁である小泉一丁目〜九丁目を挟み南北に分かれている。町域の東部の低地を鴨川が流れ、親橋や子橋や新弁財橋が架かる。鴨川にはカワセミやカルガモなどの鳥類や鯉やマルタウグイなどが棲みついている地区は上尾環状線(通称BS通り)以南は市街化区域で主に第一種低層住居専用地域に指定され、地区南部の古くから開発された大字小泉とその周辺を中心に三井住宅などの住宅が建ち並ぶが、北部を中心に畑地もまだ多く残っている。
 もとは江戸期より存在した武蔵国足立郡石戸領に属する小泉村、古くは南北朝期より見出せる「こいつみの郷」であった。小泉は古泉とも記された。かつての藤波村の枝郷で下藤波と称された場所に当たり、現在の藤波は上藤波、中分は中藤波と称されていた。その後正保〜元禄年間(1644年〜1704年)小泉村が藤波村より分村したという。
        
              
・所在地 埼玉県上尾市小泉443
              
・ご祭神 素戔嗚尊 大雷命 菅原道真朝臣
              
・社 格 旧藤浪村枝郷古泉村鎮守・旧村社
              
・例祭等 祈年祭 226日 夏祭り 714日 例祭 1015 
                                      秋祭り 1014日  新嘗祭 1122 
 藤波天神氷川八幡合社から南東方向に走る道を1.7㎞程進行すると、「小泉」交差点に達し、そこを左折、埼玉県道323号上尾環状線を東行し、北上尾駅方向に進む。その後「泉台一丁目」交差点を右折し、通称「泉が丘通り」を500m程南下すると、進行方向右手に小泉氷川公園があり、その西側隣に小泉八合神社のこんもりとした社叢林が見えてくる。
 道路を挟んで東側にある小泉氷川山公園の駐車スペースをお借りしてから参拝を開始した。
        
                                   小泉八合神社正面
  地域名「小泉」の地名は「湧水」に基づくものといわれている。『風土記稿』小泉村の項には「御嶽社 社辺に広さ二坪許の池あり、いかなる久旱にも水涸ることなし、旱魃のとき天を祈れば必験ありと云」とあるが、この御嶽社は既になく、跡地は地内の南方に当たり、かつてここから湧き出していた水は地内の田んぼを潤していた。また、『郡村誌』小泉村の項には「水神社(中略)城内に直径三間なる円形の池あり、大旱にも涸るる事なし」とあり、この水神社も合祀により既になく、跡地は地内の東方にあり、かつてここから湧き出していた水も田んぼを潤していた。
 また、この池は藤波天神氷川八幡神社の池とつながっていて、あちらが干上がると、こちらも干上がると言い伝えがある。
        
              入り口付近に設置されている案内板
 小泉八合神社の創建年代等は不詳ながら、寛文年間(一六六一-七三)に藤波村から分村した際に藤浪天神氷川八幡合社の氷川社を分祀したのではないかという。明治40年に大石村の内の小泉・中分・井戸木・中妻・沖之上・弁財・小敷谷・領家の八大字に点在していた三九社(境内社を入れると六四社)を小泉の村社氷川社に合祀し、八合神社と号したという。
        
 社の正面の写真だけでは分かりづらいが、この社の正面鳥居の西側付近は住宅が密集している。しかし、境内に入ると至って静寂な世界が広がる。また参拝中も多くの方々が手を合わせに来ていて、地域の方々の崇敬が篤い社であるのだろう。
 嘗てはその広大な社叢は上尾市指定保存樹林に指定されていた時期があったが、土地区画整理事業により社叢林の多くの樹木は伐採され、道路を挟んで東側にある小泉氷川山公園の緑地がその名残をとどめているとの事だ。
 
 参道左側に並んで祀られている石祠・石碑等   参道右側には「社務所改築記念碑」等あり
        
                    拝 殿
 八合神社  上尾市小泉四四三
 祭神…素戔嗚尊、大雷命、菅原道真朝臣
 当社は、古来「氷川社」と称し、『明細帳』には「往古ハ字宮山ニ鎮座アリシカ慶応三丁卯(一八六七)十一月移転ス、其際当国一ノ宮氷川社ヲ分祭勧請ス」とある。これに見える旧地の字宮山は、現在地の南西五〇〇メートルほどの「宮山」あるいは「元氷川」と呼ばれた所で、三井団地の敷地内に当たり、元は一帯が山林であった
 慶応三年(一八六七)十一月に現在地に遷座移転し、明治六年(一八七三)に村社に列せられた。
 その後、明治四十年に大石村の小泉(こいずみ)・中分(なかぶん)・井戸木(いどぎ)・中妻(なかづま)・沖之上(おきのかみ)・浅間台(あさまだい)・弁財(べんざい)・小敷谷(こしきや)・領家(りょうけ)の八大字に点在していた三九社(境内社を入れると六四社)を小泉の村社氷川社に合祀し、社名を「八合神社」と号して成立した。合祀の中心に小泉の氷川社が選ばれた理由としては、小泉が八大字の中央に位置していたことや、小泉に大石村の役場が置かれていたことが挙げられる。また、社名については、八大字の各社の総代が協議して決したとの話が伝えられている。現在、境内にある幟立ては、合祀の際に小敷谷から移されたものである
 小泉の地は寛文年間(一六六一~七三)に藤波村から分村したといわれ、藤波村の鎮守が天神氷川八幡合社であることから、このうちの「氷川社」を分村の前後に勧請したものと考えられる。 その後現在地に遷座するにあたり、正式に武蔵一宮の大宮氷川神社から分霊を請うたのである。
 鎮座地は「氷川山」と呼ばれ、氏子区内でも一番の高台にある。その社叢(しゃそう)は“鎮守(ちんじゅ)の杜(もり)”と呼ぶにふさわしい景観をなし、社地を含む一体は上尾市指定保存樹林として保護されている。 また、昭和六十一年には「八合神社と周辺林」が『二十一世紀に残したい埼玉の自然一00選』の一つに選定された。
                                      案内板より引用

        
                    本 殿
             朱赤を基調とした玉垣が色鮮やかである。
 小泉地域には、「小泉の祭りばやし」と呼ばれる祭り囃子が、市指定民俗文化財・無形民俗文化財として平成20115日に登録されている。
 小泉の祭りばやしは、神田ばやし系統の1つである小村井流の祭りぱやしで、明治5年ごろ、さいたま市大宮区大成に踊りとはやしを習ったといわれている。
 祭りばやしの編成は、笛1人・小太鼓2人・大太鼓1人・鉦1人の51組で、曲目には、「屋台」「昇殿」「鎌倉」「四丁目」「神田丸」「岡崎」がある。
 上演の機会としては、714日頃の八合神社祇園祭り、816日の観音堂縁日、912日の薬師堂縁日、1014日の八合神社秋祭りがある。
 因みに付属芸能として、おかめ・ひょっとこ踊りもあるようだ。
        
                  社殿からの眺め



参考資料「新編武蔵風土記稿」「上尾市教育委員会HP」「Wikipedia」「境内案内板」等

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藤波天神氷川八幡合社

 上尾市藤波地域は、上尾市北西部の大宮台地上や江川周辺の沖積平野に位置する。 町域の東側を泉台、東側から南側にかけて中分、西側を桶川市川田谷、北側を桶川市上日出谷や上日出谷西と隣接する。町域の西端を江川が南北に流れ、上尾市と桶川市の市境を成している。
 南に隣接する中分地域と並び、市内では最も起伏に富んだ地域のひとつで、江川沿いの沖積平野やその支流の小河川が造り出した多くの開析谷(谷津)が複雑に入り組んでいる。
 全域が市街化調整区域に位置し、全体的には台地上は主に耕作地などの農地が広がる農地的土地利用の比重が高い地域であるが、工場のほか幹線道路に近い北部に藤波団地と称する纏まった住宅地も見られる。また地域の西側の主に水田として利用している江川流域沿いの低地は、かつての荒沢沼で、荒川の遊水地的な湿地帯であったともいう。
 地域内には、縄文時代草創期の遺跡である藤波遺跡があり、また、縄文・弥生期の住居跡遺跡である後山遺跡(県遺跡番号:14-030)もあるとのことで、この地域には古くから人による開発が進められていたと推測できる。
        
             
・所在地 埼玉県上尾市藤波12821
             
・ご祭神 素戔嗚尊 誉田別尊 菅原道真公
             
・社 格 旧藤浪村鎮守・旧村社
             
・例祭等 祈年祭 2月 例大祭  10月第一日曜日 新嘗祭 11

 桶川市・上日出谷氷川神社のすぐ東側に南北に走る道を1.2㎞程南方向に進むと「つくし学園入口」交差点に達し、右折するとすぐ左手に藤波天神氷川八幡合社の正面鳥居が見えてくる。
 但し、駐車スペースは正面周辺にはなく、交差点は一旦直進する。そして緩やかな右カーブとなる道のすぐ先にある路地を右折すると、社及び隣接する「藤波公民館」の敷地内に達し、そこには駐車スペースも十分にある。
        
                藤波天神氷川八幡合社正面
『日本歴史地名大系 』「藤波村」の解説
 領家(りようけ)村の北、江川の低地に延びる大宮台地上にある。北と東は下日出谷村(現桶川市)。村名は藤浪とも記される。天正一三年(一五八五)四月五日の北条氏政印判状写(武州文書)では、藤波与五右衛門に対し調儀に備えて五月五日までに軍装を整備するよう命じられている。同一五年と推定される亥三月一九日の太田氏房印判状写(同文書)では、「藤波山」から岩付城(現岩槻市)修理のための材木が伐り出され、これを受取るための人足が徴発されている。
        
             正面鳥居の右側に設置されている案内板
        
        同じく「藤波のささら獅子舞」「藤波の餅つき踊り」の案内板。
            どちらも上尾市の文化財に指定されている。
        
             一の鳥居から見える朱色の二の鳥居
 藤波地域は台地上に位置し、地形は起伏に富んでいた。古くから高台での麦作り、低地の米作りが生活を支えてきた。しかし、谷間の田んぼは水はけが悪く、昭和時代の土地改良が行われる以前は、膝上まで浸かりながらの籾の直播き農法である摘田(つみだ)を行っていたという。
 藤波全域が市街化調整区域になり、近年新たに建造された住宅地域も見られる一方、耕作地等の田畑風景もしっかりと残されているようだ。
 社の境内は至って静かで、この一の鳥居から見る境内の景色は、
どことなくゆったりとした時を紡いできた嘗ての懐かしい藤波地域の原風景の縮図を見ているような感慨がふと頭を過ったものだ。
        
              「天満宮」と表記された二の鳥居
 天神氷川八幡合社の創建年代は不明であり、別当寺の密厳院も創建年代不詳である。ただ密厳院は、かつては真言宗寺院であり、明応年間(1492 1501年)に臨済宗円覚寺派に転宗して再興されていることから、その頃までには既に存在していたものと推測される。
 嘗ては「氷川天神八幡合社」と称していた。このことから、真言宗時代の密厳院によって、最初に「氷川神社」と「八幡神社」が祀られ、臨済宗時代になって、学問の神として崇敬されていた天満宮を祀ったものといわれている。順番が入れ替わったのは、天満宮の祭神である菅原道真に対する崇敬の念が高まったからだといわれている。
 1873年(明治6年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられたが、1878年(明治11年)の火災で社殿が焼失したが、1880年(明治13年)に再建された。
        
                    拝 殿
   境内の土壌の関係なのか、拝殿周囲にはほとんど草が生えていない。不思議な光景。

 天神氷川八幡合社  上尾市藤波一-二八二-一
 祭神…菅原道真朝臣 素戔嗚尊 誉田別尊(応神天皇)
 当社は、藤波のほぼ中央の南東に低地が広がる台地上に鎮座している。昭和三十五年ごろまでは、その裾から清水が湧きだして「天神様の池」と呼ばれる三〇坪ほどの池を形成していたという。
 創建については不詳であるが『風土記稿』に「氷川天神八幡合社 村の鎮守なり、密厳院持」とある。別当の密厳院は相州鎌倉(神奈川県鎌倉市)の臨済宗円覚寺末で、瑞露山藤波寺と号する。元々は真言宗の寺であったが衰微したため、明応年間(一四九二-一五〇一)に叔悦禅師が、甥である岩槻城主太田資家の招きに応じ、住職となり、禅宗の一派である臨済宗に改宗して再興した。禅宗では、室町期から天神を学問の祖として崇敬していた。このようなことから、まず真言宗密厳院が、見沼を見下ろす高台に鎮座する一宮氷川神社の分霊を、地形が類似した当地に勧請した後に鎌倉の地から鶴岡八幡宮の分霊を併せ祀り、更に改宗後の密厳院が、天神社を併せ祀ったものと思われる。当社を「天神様」と称するのは、密厳院が天神社の神徳を強調した結果であろう。
 当社は明治六年四月村社に列した。同十一年十二月三十一日に火災となり、社殿を消失したが、氏子の寄付により、同十三年九月二十五日に再興した。その後、本殿が雨ざらしになっているのを憂えた氏子一同は、大正六年に本殿の覆屋を新たに建設した。
 年間の祭典は二月の祈年祭、九月の例大祭、十一月の新嘗祭の三回である。そのうち、九月の例大祭には上尾市指定民俗文化財の「ささら獅子舞」が奉納されている。また、元旦には「餅搗き踊り」が行われている。
 境内社に「浅間社」「三峯社」「稲荷社」を祀る。
                                      案内板より引用

        
                    本 殿
上尾市指定無形民俗文化財の「藤波のささら獅子舞」は、例祭の際に奉納される舞の1種であり、古くから続いている行事である。嘗ては925日に奉納されたものであったが、現在は10月の第1日曜日に行われる例祭に奉納されている。また同じく市指定無形民俗文化財である「藤波の餅つき踊り」も社の元旦祭や例祭の前夜祭などで上演されるほか、各種の催し物に呼ばれて上演しているという。

 上尾市指定無形民俗文化財 藤波のささら獅子舞
(保持団体)藤波のささら獅子舞保存会
「藤波のささら獅子舞」は1人が1頭の獅子に扮し3頭の獅子が舞う、三匹獅子舞と呼ばれる風流系民俗芸能である。伝承では、藤波の領主であった牧野氏が寛文七(1667)年に検知した際、村人に獅子舞を奨励したのが始まりといわれている。獅子舞は、毎年、藤波地区の鎮守である天神社の例祭の日である九月二五日に奉納されるものであったが、現在は一〇月の第1日曜日に奉納している。
 舞手の構成は、雌獅子と中獅子、雄獅子の3人と、舞の先導役の宰領(猿岩)の、41組である。舞は笛に合わせ進行し、獅子は舞いながら腰に着けた太鼓を叩き、花笠をかぶった岡崎と呼ばれる役が「ささら」という楽器を演奏する。ささら獅子舞という名称は、ここからきている。
 演目は、「十二切」と呼ばれる一曲形式が基本で、約2時間にもおよぶものだが、同じ動作の繰り返しを省略するなど、現在は十二切の上演は1時間半程度となっている。舞の中盤には歌が入り、後半は「雌獅子隠し」となる。雌獅子隠しは、岡崎の間に入って隠れた雌獅子を、中獅子と雄獅子が探して奪い合うという内容になっている。このほか、十二切の短縮版の八切と四切がある。現在は、祭りの当日の午後に十二切を2回、夜間に八切を1
回奉納している。

 上尾市指定無形民俗文化財 藤波の餅つき踊り
(保持団体)藤波の餅つき踊り保存会
 餅つき踊りは接待餅ともいわれ、本来は祭りや行事で上演することが目的ではなく、主として「おびとき」といわれる現在の七五三のお祝いに呼ばれて披露する民俗芸能であった。「藤波の餅つき踊り」は、江戸時代後期に名主の篠田金右衞門が若者に賭博をやめさせるために習わしたのが始まりと伝わる。
 藤波地区の餅つき踊りは、41組でつくのが基本である。演目は「餅つき」と「曲づき」に大別される。「餅つき」は比較的軽い杵を使い、実際に餅をつきながら踊るもので、演目は立ちボーウチ、座りボーウチ、餅殺し、一本抜き、七五三、早づき、八人づきである。
 なお、立ちボーウチと座りボーウチは、この地域の麦作の作業歌である麦打ち歌であるボーウチ歌に合わせてつく。「餅つき」の基本は餅殺しで、一本抜き、七五三、早づき、八人づきはその変形となる。一方「曲づき」は「餅つき」が終わった後に、さらに細く軽い杵を使って、空の臼の周りで演じるもので、「獅子追い」「寝ず」などの演目がある。高度で複雑な動きをする踊りである。
 現在、七五三のお祝いで上演する機会はなく、藤波地区の鎮守である天神社の元旦祭や例祭の前夜祭などで上演されるほか、各種の催し物に呼ばれて上演している。
                                上記どちらも案内板より引用
 
  本殿後ろに無造作に置かれている石等      同じく本殿奥にある巨木の伐採跡
「力石」らしき物も含まれているように見える。   嘗て社のご神木であったのであろうか。  
        
               社殿の右側に聳え立つ巨木二本
        
               境内に祀られている境内社三基
             左から、稲荷神社・三峰神社・浅間神社
       
                                   社殿からの一風景
          静かな境内。ゆったりとした時間が流れているようだ。 


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「上尾市HP」Wikipedia」
    「境内案内板」等
 

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喜右衛門新田八幡神社

 羽生城は、埼玉県羽生市にあった日本の城。16世紀初頭の築城とされ、永禄3年(1560年)の長尾景虎(後の上杉謙信)による関東出兵以降、上杉方の関東攻略の拠点となっていた。
 斎藤民部少輔盛秋は、越後の武将「上杉謙信公」の旧臣。謙信の関東出兵時、命により羽生城に派遣された。その長男内左衛門は天正年間(1580)社の別当である無量寺を創建したと伝えられ、次男喜右衛門は喜右衛門新田地域を開拓したという事で、名称の由来もそこからきている。
『新編武蔵風土記稿 喜右衛門新田村』
「当村は今泉村の民喜右衛門と云者開墾せりと。此喜右衛門は斎藤氏にて、今も子孫當村に住せり。先祖民部盛秋は上杉謙信に仕へ、後年浪士となりしに、御入國の後盛秋が長男は今泉村の名主となり、喜右衛門は彼二男にして、当村を開けり」
 永禄12年(1569年)閏5月、武田信玄の関東出兵により謙信と北條氏康の間で同盟(越相同盟)が結ばれ、上杉方は協定により上野国、武蔵国の羽生領、岩槻領、深谷領等の領有が認められたが、元亀2年(1571年)に氏康が死去し同盟関係が破綻すると、北関東における上杉・後北條間の抗争が再燃し、羽生領や深谷領は主戦場となった。
 その後、羽生城は後北條氏の度重なる攻撃を受け、天正2年(1574)閏11月に落城する。落城後、斎藤家はその地において帰農した。盛秋の長男である内左衛門は今泉村の名主となり、長光寺を開基した。
『新編武蔵風土記稿 今泉村』
「長光寺 開基は古へ名主を勤し内左衛門と云ものにて、寛永十年六月九日死す、此家今は廢せり。前村喜右衛門新田を開きし喜右衛門は、即ち此弟」
『埼玉苗字辞典』
「長光寺墓碑及び斎藤家過去帳 越賛道寿居士・斎藤民部少輔盛秋・元和元年七月十八日没。月山常光居士・斎藤内左衛門・寛永十年六月九日没。喜山宗悦居士・斎藤喜右衛門・寛永二十一年十一月十三日没」
 戦国時代の武蔵国では、上杉氏と北条氏との間で抗争が繰り広げられる中、次第に地の利を得た後北條氏の勢力が大きくなる中、唯一上杉方の関東攻略拠点であったのが羽生城であった。その羽生城終焉の歴史をこの斎藤家は目撃しているわけで、その後の時代の移り変わりをどのように眺めていたのであろうか。
        
             
・所在地 埼玉県羽生市喜右衛門新田1498
             ・ご祭神 誉田別命
             ・社 格 旧喜右衛門新田村鎮守
             ・例祭等 春例大祭 325   名越祭 630日 秋例大祭 1014
 三田ヶ谷八幡神社から埼玉県道60号羽生外野栗橋線を西行する。東北自動車道を下に見ながら高架橋を過ぎた直後の十字路を左折し、1㎞程南方向に進んだ先にある十字路をまた左方向に進むと、すぐ左側に喜右衛門新田八幡神社の鳥居が見えてくる。
 周囲には適当な駐車スペースはないようで、路駐して急ぎ参拝を開始した。
         
                喜右衛門新田八幡神社正面
『日本歴史地名大系』 「喜右衛門新田村」の解説
 西は今泉村・前原村に続く。古くは今泉村の枝郷で、寛永六年(一六二九)の独立まで今泉新田と称していたという(風土記稿)。田園簿によると幕府領、田高二九三石余・畑高一五五石余、ほかに永二五〇文と鐚一貫五〇〇文の野銭があった。国立史料館本元禄郷帳では幕府領と旗本谷口領。
         
                赤が基調の両部鳥居である二の鳥居
        
           参道の左側手前に祀られている境内社・浅間神社
        
           浅間神社に並列して祀られている境内社・弁天社
 弁天社は往時は斎藤喜右衛門家で祀る社であったという。7月7日には「弁天様」と呼ばれる祭りがあり、この日は境内に掛け灯籠を飾り、社人が作った餅をまず弁天様に供え、その後祭礼を行う。終了後この餅を切り、護符と称して参詣者に配るという。
        
                    拝 殿
 八幡神社(字神島)
 喜右衛門新田は、寛永年間に今泉村の名主である斎藤民部少輔盛秋の次男喜右衛門が開拓した村で、市の東方に位置している。
 当社の創建については、口碑もなく不詳であるが、『新編武蔵国風土記稿』には「八幡香取合社 村の鎮守とす、無量寺持」と記載されている。現在無量寺は当社の北北西の方向にあり、元は当社に隣接して建っていたが、焼失により現在地に移転したものといわれている。焼失年代は不明であるが、今なお神社の奥手を掘ると焼失の際の灰が出てくる。
 祭神は誉田別命で、大正三年八月一四日に字神島の伊奈利神社を合祀している。本殿は一間社流造りで、内陣には五㎝程の神像(立像)四体が納められている。
 境内は嘗て杉が鬱蒼と茂っており、その中に周囲が一丈五尺ほどの椎樫(しいかし)の木がご神木としてあったというが、杉は戦時中に陸軍に供出し、椎樫も枯損により昭和二三年に伐採してしまったため、往時の面影はない。(以下略)
                                  「埼玉の神社」より引用

        
                     本 殿
 また氏子内の習慣の一つに「虫追いの行事」がある。これは昭和10年ごろまで毎年723日に行われていたもので、各耕地ごとに萩を丸めて作った大きい松明を灯し、鉦・太鼓で囃子(はやし)ながら、耕地内を巡行するものであったようだ。
        
            本殿の奥に祀られている境内社・香取神社
 境内社である香取神社の中にある「天王様」と呼ばれる神興を担ぎ、氏子区内の各戸を巡行する行事があり、昭和10年頃までは大人(若衆)が担ぎ、上村上ノ落と呼ばれる用水に褌一つになって入り、神輿を揉んで回ることから「暴れ神輿」として知られており、天王様のない荻島地域へも毎年揉みに行っていたという。但し出征による若衆の数が減ったので、子供が神輿を担ぐようになったという。
        
                            社殿から見た境内の一風景
       
            一の鳥居の右側に聳え立つ巨木(写真左・右)


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「埼玉苗字辞典」
    「Wikipedia」等

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三田ヶ谷八幡神社

 さいたま水族館は、埼玉県羽生市にある淡水魚の水族館である。この水族館は、三田ヶ谷・与兵衛新田地域に位置する埼玉県営の都市公園(広域公園)である羽生水郷公園内にあり、園内には菖蒲田、修景池など水を取り入れた施設を中心に整備されている。また、国内でも数少ないムジナモ自生地の宝蔵寺沼がある。1983年(昭和58年)10月に開館。埼玉県内に生息する87種類の魚のうち約70種類を、また両生爬虫類、甲殻類など合計約1301200点を展示している。館内は、県内及び東京都内を流れている荒川の約200kmを、上流から河口部まで下るようなスタイルで展示している。
 また、天然記念物に指定されているミヤコタナゴや、地球上で唯一埼玉県熊谷市にある元荒川の源流、上流のみ生息し埼玉県の「県の魚」や熊谷市の「市の魚」に指定されているムサシトミヨのほか、世界の代表的な熱帯魚や、オオクチバスや、コクチバス、ブルーギルなどの外来種も展示されている。
 この公園では、「世界キャラクターさみっとin羽生」というゆるキャラに関するイベントが2011年から2013年まで盛大に開催されていた場所でもある。ふとその当時、深谷市のマスコットキャラクターである「ふっかちゃん」を応援していた事や、仕事の関係ではあるが、実際にイベント当日当地に参加していた過去の思い出が蘇ってきて、編集をするその手を停め、忙しい日々の中、共に過ごした家族の事等をしばし追想する自分がそこにいた
        
              
・所在地 埼玉県羽生市三田ヶ谷271
              
・ご祭神 誉田別命 気長足姫命
              
・社 格 旧上・下三田ヶ谷村鎮守・旧村社
              
・例祭等 名越祭(輪くぐり) 731日 秋祭り 1014日
                   冬至祭 1222
 羽生市・三田ヶ谷地域は同市の市街地より東北部に位置し、北に利根川、西には南北に東北自動車道が走っていて、周辺一帯は田畑に囲まれており自然環境に恵まれた地域である。
 冒頭に紹介した羽生水郷公園(さいたま水族館)と、その駐車場の道をはさんで向かいにある「キヤッセ羽生 羽生市三田ケ谷農林公園」の間に南北に走る埼玉県道366号三田ヶ谷礼羽線を1㎞程北上すると、蓮台寺という寺院の赤い正面入り口の門のある丁字路に達する。この丁字路を左折し、200m程進むと、進行方向右手に三田ヶ谷八幡神社の鳥居及び境内が見えてくる。
        
        埼玉県道60号羽生外野栗橋線沿いに鎮座する三田ヶ谷八幡神社
『日本歴史地名大系』 「上三田ヶ谷村」の解説
 古くは下三田ヶ谷村と一村で三田ヶ谷村と称した。両村の境は入組んでおり、西は与兵衛(よへえ)新田村、上弥勒(かみみろく)村・下弥勒村など。元文三年(一七三八)の支配替えの際分村したともいうが(風土記稿)、田園簿・元禄郷帳・天保郷帳ともに三田ヶ谷村一村で高付される。田園簿によると幕府領、田高八八五石余・畑高三三三石余、ほかに野銭として鐚三五貫文があった。
        
             入口正面の赤を基調とした一の鳥居
 綺麗に整備されている境内及び社殿。「八幡神社改築記念之碑」によると、平成8年に改築され、社殿のみならず境内の整備が完工したとの事だ。
 
 短いながら綺麗に整備されている参道の中、二の鳥居(写真左)、三の鳥居(同右)が続く。

 三の鳥居の先には石段があり、その石段を上った先に社殿が鎮座している。社殿は参道面より1.5m程高い。この地域は、水郷公園や宝蔵寺沼等が存在することから想像するに、地質学的には「加須低地」に属し、特に南部は湿地帯(低地)が多かったという。すぐ北側は利根川が流れており、嘗てこの地域は河川等の乱流地域でもあったのであろう。またこの社を中心に東西に広がって民家も集中していることから、洪水等により形成された自然堤防上に社や民家は建てられていると推測される。
 
 三の鳥居の左側にある「八幡神社改築記念之碑」  参道を挟んで右側には手水舎がある。
八幡神社改築記念之碑」
 当八幡神社は誉田別命を祭神とする騎乗八幡神像を祀ってあります。その創建についての記録はないが、百九十余年の歳月を経たものと推定されます。爾来氏子一同は崇敬の念を込め、守護神として護持継承して参りました。その間風雪に耐えること幾星霜、最近は社殿の老朽化が極に達し、その惨状は見るに忍びない状態になりました。この度、三田ヶ谷地区一区、二区、三区二百七十戸全員の一糸乱れぬ協調の精神により荘厳華麗な社殿並びに境内整備が完工いたしました。
 茲に落度を記念して神前に御報告し、永く後世に残すと共に、神の御加護により子孫の繁栄と国家地域の安泰を記念するものであります。(以下略)
                                       碑文より引用

       
                    拝 殿
 三田ヶ谷八幡神社(字本村)
 当社は大字三田ヶ谷の鎮守として祀られていて、「八幡様」の名で親しまれている。三田ヶ谷の地名は、豊かなる地を称える「御田」からこの名を付けたとする説に対して、当村蓮台寺の鐘銘の写しに「正保二年弥陀開郷」とあることから、この地を開墾し、阿弥陀如来像を祀り、「弥陀=三田」という地名としたという説がある。
 当地は、寛保二年に秋元、小尾、小笠原、土岐、目賀田、能勢の六給とされた。地内に領主の仁政を称えて祀る土岐氏の生祀である「土岐社」がある。
 当社の祭神は、武門の守護神である誉田別命やその母である気長足姫命であることから、近在の武士からは厚く崇敬されていた。
 別当は、真言宗光永山蓮華院蓮台寺で、明治の神仏分離まで当社を管理していた。
 社殿の構造は、本殿・幣殿・本殿からなり、拝殿には多数の伊勢講の奉納額がみられる。
 末社は鷲神社・天神社・八坂社があり、このうち天神社には天神座像が祭られている。この台座には「奉寶納 天満大自在天神 三田ヶ谷村 江森源八 享保元年(丙申)九月廿五日」とある。
大正三年八月十四日無格社厳島神社を境内に合祀している。
                                  「埼玉の神社」より引用

 
       拝殿に掲げてある扁額          拝殿手前左側に祀られている境内社
                          左から八坂社・熊野社・青麻社
        
       社の奥行きはかなり広く、広場のような奥に境内社は祀られている。
 
       境内社 厳島社弁財天・秋葉社         境内社 鷲大明神・天神社
   その左側の庚申塔には青面金剛明王か
        
                            境内社から見た社殿の一風景
       
                      社殿のすぐ脇に聳え立つ巨木(写真左・右)
         ご神木かどうかは不明だが、境内で唯一ある巨木でもある。
        
               境内西側隅にある青面金剛明王


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」
    「境内記念碑文」等

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大越鷲尾神社


        
              
・所在地 埼玉県加須市大越526
              
・ご祭神 天日鷲命
              
・社 格 旧上中下大越村鎮守・旧村社
              
・例祭等 祈年祭 217日 名越祭(祓い祭)731日・81
                   
秋祭り 1016
 常木神社から用水路沿いの道路を南東方向に1.2㎞程進むと大越鷲尾神社に到着する。但しこのルートでは社が背を向いたような状態であるので、一旦手前の十字路を右折し、左回りのようなルートにて、正面に到着することができる。
 社に隣接し社務所らしき建物もあり、そこには広大な駐車スペースもあり、そこの一角に停めてから参拝を開始する。
        
                  
大越鷲尾神社正面
『日本歴史地名大系』 「上大越村」の解説
 北は利根川を境として上野国邑楽郡大久保村(現群馬県板倉町)と対し、東は下大越村・中大越村。古くは中・下の大越村と一村であった。天正一〇年(一五八二)の成田家分限帳には「五十貫文 大越彦四郎」「二十一貫文 大越彦八郎」とみえ、在郷の武士と考えられる。なお萱氏系図(鷲宮神社文書)に「武蔵国大越郷住人大越次郎貞正」がみえる。貞正の娘を母とするのが萱氏の先祖で、建久元年(一一九〇)に鷲宮神社(現鷲宮町)本社を再建したと伝える。
*成田分限帳
「五十一貫文・大越彦四郎、二十一貫文・大越彦八郎」
*萱氏系図(鷲宮村鷲宮神社所蔵)
「莿萱重郎正忠(建保元年死す、行年七十九歳。母大越次郎貞正娘・武蔵国大越住人)」
 羽生領に所属(風土記稿)。寛永八年(一六三一)八月の騎西郡羽生領大越村御検地水帳写(関根家文書)には田畑二六五町余のうち五七町余が当発とあり、大規模な新田開発が進められていた。
        
                 参道の先に建つ鳥居
 参拝日は8月のお盆を過ぎた平日。連日35度以上を記録する「酷暑日」に参拝を行っているにも関わらず、鳥居の先は、樹木の木陰げとなっており、水分補給をしながら汗ばむ体を休ませるには丁度良い空間となっていた。

        
             拝殿手前、参道左側に祀られている合祀社
               左から天神社・( ? )・稲荷社
        
                    拝  殿
『新編武蔵国風土記稿 上中下大越村』
 羽生領葛濱鄕に屬す、按に【梅松論】に建武二年十月十日太田庄を、小山常若丸に宛行云々とあり、當村に小山の建立せし寺院あれば、彼太田庄と云へるは當所の事なるにや、成田分限帳に五十一貫文大越彦四郎とあるも、當所に住して在名を名乗しなるべし、當村元は一村なりしに、後上下の二村となり、後又其内より中村を分てりと云、
 鷲尾明神社 上中下三村の鎭守なり、鷲尾といへど、鷲明神を祭りしものなりと云、
 末社 淺間 ○辨天社 ○八幡社 以上の四社は共に上分にあり、

「埼玉の神社」による解説では以下の説明がある。
 当社は『新編武蔵国風土記稿』に「上中下大越村の鎮守なり、鷲尾といへど、鷲明神を祭りしもの」とある。往時真言宗妙雲山宝幢寺持ちとされ、明治以前は現社務所が同寺末の西行寺で、当社の直接管理に当たっており、享保四年の石鳥居にその寺名が残されている。
 昭和七年覆屋改築の際に見つかった棟札には「延享二年八月本殿改築 宝暦三年厨子造営 文政八年九月幟寄進 文政十年浅間神社創建」などが記されていたが、昭和四十四年社務所改築の折に紛失している。
 祭神は「天日鷲命」であるが、本来「天穂日命」であったものを、時の領主であった尾沢某が自分の姓から「尾」の一字を入れて、社名を「鷲尾」に改めた時に、祭神名も変えたと伝える。しかし、この祭神変更は、江戸期北埼玉一帯に綿が広く栽培され、青〇の名で知られる織物が盛んに行われていたことから、尾沢某が木綿作り、紡績業創始の神である天日鷲命を奉斎したものと思われ、現在も尾沢某が奉納したと伝える宝永四年の社号額が残る。
 当社には字宮西の今宮神社、字中内の御嶽神社二社、字馬場の白山神社、字前田の伊奈利神社・天神社を明治四十四年から大正二年までに合祀した。境内には安産子育ての信仰のある宣言者のほか八坂神社、湯殿神社、今宮神社、稲荷神社、天神社、神明社、弁天宮が祀られている。
        
                    本 殿
 また大越の氏子は祭神名が鷲であるためか、鳥(ニワトリ)は食べなかったといわれ、家で飼っているニワトリが年をとると鷲尾神社の境内に放したという。このほか、大越では正月三が日はうどんを家長が打ち、四日から餅を食べるという風習があり、三が日に餅を食べるとオデキができるといって、これを戒めたという。
 
  社殿右側に祀られている境内社・浅間社か       浅間社の右隣に祀られている八坂神社
        
              境内に祀られている石祠群。詳細不明
 731日と81日に行われる「名越祭」は「祓い祭」とも呼ばれている。この祭りは鎮座地である中内の氏子へ日頃の奉仕に対する労賃として始められ、収益は中内に還元される。祭りの1週間前に輪くぐりの材料となる真菰(まこも)を刈り、各戸へ招待状と人形(ひとがた)を配る。31日真菰で輪をつくり、神職があらかじめ集めておいた人形を持参して輪をくぐり、祓いを済ませた後神札を配る。嘗ては翌日の午(うま)の刻に神職が輪と人形を流したが、現在は河川の汚染防止の為お焚き上げをしているとの事だ。
        
                参拝終了後木陰の場所に戻り、一旦休み、鳥居方向を撮影。


 大越鷲尾神社から240m程北側で、利根川右岸の土手付近に大越樋口伊奈利神社が鎮座している。境内は決して大きくはないが、コンパクトに纏まった社殿やその手前に設置されている石碑二基の立派さ、また社殿の奥に並んで祀られている庚申塔や石祠等を拝みながら、なかなか立派な社と言う印象を持った。
 なにより境内の手入れが行き届いていて、地域の方々の社に対する崇敬の念を充分に感じさせる社でもあった。当初は立ち寄る予定はなかったのだが、何かのご縁で手繰り寄せられたもとの感じ、ありがたく参拝させて頂いた次第だ。
 但し周辺には駐車スペースは全くない様子。路駐して急ぎ参拝を開始した。
        
               ・所在地 埼玉県加須市大越650
               ・ご祭神 倉稲魂命
               ・社格・例祭等 不明
        
                    鳥居正面
                   鳥居の社号額には「西宮稲荷大明神」と刻まれている。
        
  社殿前には立派な「伊奈利神社 改築記念碑」「椿森稲荷神社碑銘」が設置されている。
                 椿森稲荷神社碑銘
            武蔵國北埼玉郡大越邨字樋口堤上有一社曰
            椿森稲荷一落人民尊信甚厚失不詳何年何人
            之所創建傳言慶安二年一加修繕焉後至天保
            二年社木繁茂良材頗多及伐以建前殿規模較
            大同三年三月罹災而燼失其八月雖再造營舊
            觀頗損後經四十年明治十三年新造萃表〇〇
            石置末社多擴舊規以擧行祭典同十九年官下
            令〇在堤地者無社寺無民家悉除去之是以事
            之關堤地者百方哀願緩其期終至今年不可復
            請焉官亦不許也於是一落相謀推荒木喜太郎
            三井長次郎三井清藏荒木重郎次四氏為幹事
            以永遷社之地初雖捧三井楠吉氏之屋後低窪
            不可以祭神焉及購三井長次郎氏之地定為社
            地奉一落經營甚勉不日竣功茲卜九月九日大
            奉還社之盛式神之享之以福落民亦不可疑也
             
之亍石永傳子孫係以銘々云(以下略)
               
                   拝 殿 
 当社は椿森稲荷とも呼ばれ、明治初期の利根川改修まで、現社地北側の堤防付近に鎮座していた。古くは木が繁殖していたことが伝えられ、「椿森」の名もこれに由来していたと思われる。
祭神は倉稲魂命。内陣には茶き尼天像(だきにてん)と嘉永七年に奉納された水晶玉を安置している。境内には末社天満宮、御嶽仙元宮、白雲山妙義大権現が祀られている。
 氏子にとって当社は「雨乞いの神」「疫病除けの神」「洪水を防ぐ神」としてご利益があるとされている。
       
            社殿奥に祀られていた庚申塔・石碑・石祠

   

参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「境内石碑文」等

                



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