古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

上銀谷神明社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡吉見町上銀谷2671
             
・ご祭神 天照皇大神
             
・社 格 旧上銀谷村鎮守
             
・例祭等 元旦祭 春祭り 415日 秋祭り 1015
 大和田浅間神社参道入口がある道路を北西方向に450m程直進し、「東野第6公園」を過ぎた路地を左折、暫く進むと右手に上銀谷神明社の白い神明造りの鳥居と、その先に社叢林に囲まれて塚上に鎮座する上銀谷神明社が見えてくる。
        
                  
上銀谷神明社正面
『日本歴史地名大系』「上銀谷(かみしろがねや)村」の解説
 谷口村の東に位置し、東は大和田村。古くは南接する下銀谷村と一村で、銀谷村といい、銀屋とも記したが、貞享二年(一六八五)に二村となった。地内薬師堂には嘉暦三年(一三二八)・至徳三年(一三八六)の板碑がある。この薬師堂に安置する薬師如来石像の腹籠に納められている古杉薬師が「しろがね」であることが村名の起りという(以上「風土記稿」「吉見町史」など)。中世には大串郷のうちで推移した。永禄九年(一五六六)一〇月二四日、太田氏資は「大串之内銀屋不作、十七貫文之所」などを内山弥右衛門尉に与え(「太田氏資判物写」内山文書)、同一〇年一二月二三日には北条家が氏資の証文に任せて矢(弥)右衛門尉に同所などを安堵している(「北条家印判状写」同文書)。
        
              塚上に鎮座する
上銀谷神明社社殿
 地域名「銀谷」は、今では「ぎんや」と呼ばれているが、明治初年までは「しろがねや」と呼ばれ、その名は、当社の別当であった薬師寺の本尊に銀の胎内仏が納められていることに由来しているという。
 当社の境内は、上銀谷のほぼ中央にあり、社殿は塚上に建っている。荒川と市野川の間に位置するこの地域は、低地であるため、しばしば水害を被ってきたが、当社の社殿は塚の上にあるため大きな被害はなかった。それでも昭和13年の大水はすさまじく、氏子は自分の家の屋根を登って難を逃れた程であったが、この時は当社の社殿も半分くらいは水に漬かったという。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 上銀谷村』
 上銀谷村は昔上下の別なかりしを、貞享二年分村せりと、民戸十七、(中略)
 神明社 藥師寺の預る所にして、村の鎭守なり、
 藥師堂 浄土宗、川越蓮馨寺の末、無量山と號し、不動を本尊とす、
 藥師堂 腹籠に、行基の作佛を置り、傳へ云、此像はもと古名村の民家の守護佛なりしが、夢の告によりて境内古杉の下に安置せり、依て古杉薬師と呼、其杉今も堂後にあり、幹の大さ三圍許、樹根より一丈ほど上にて、枝十二に分れて繁茂せり、

 神明社  吉見町上銀谷三三七-一(上銀谷字神明)
 社伝によれば、当社は、大同年間(八〇六〜一〇)に銀谷の村が始まって以来、その鎮守として崇敬されてきたという。また、氏子の間には、江綱の五太夫様の氏神を当地に勧請したものであるとの言い伝えもある。「五太夫様」という人物については、明らかではないが、戦国時代末期に江綱を開いた「江綱草分け七人衆」の一人、あるいは当時この地で活躍した伊勢の御師ではなかったかと考えられる。
 銀谷は、村の発展にともなって、貞享二年(一六八五)には上下二村に分かれたが、その際、当社は上銀谷の鎮守となり、下銀谷では稲荷社を鎮守として祀るようになった。『風土記稿』上銀谷村の項に「神明社 薬師堂の預かる所にして、村の鎮守なり」とあるのは、当時の状況を表したものである。なお、薬師堂は、霊亀年間(七一五〜一七)に行基が境内の古杉一幹を使ってその本尊を作ったことに始まると伝えられる浄土宗の寺院で、現在は薬師寺と称している。
 拝殿の前には、かつて大人ふた抱えほどもある黒松があり、当社の創建時からあるものといわれていた。この松は、古木である上に枝ぶりもよいので村人の自慢の一つとなっていたが、残念なことに松食い虫にやられてしまい、昭和五十年代にやむを得ず伐採してしまった。
 特に神木として注連縄を張ったり、特別な信仰があったわけではないが、長い間氏子に親しまれてきた樹木だけに惜しまれる。
                                  「埼玉の神社」より引用
*江綱草分け七人衆…江綱村の開発には「小高家文書」によると、永禄7年(1564)に小田原北条氏に敗れた太田氏や里見氏に与した野本兵庫吉久・山口七兵衛定重・斉藤市右衛門胤善・小倉主水秀陰・中村将監有文・神田左近林重・小高藤左衛門宣興の七名の武士が帰農し、当村を開拓する際に勧請したともいう。
 当社の祭礼に関して、415日の春祭りでは、嘗て大正時代には拝殿の前で、神職の竹井家の夫人が春神楽を奉納していたが、昭和に入り、祭典と直会だけの祭りになっている。また1015日の秋祭りには、氏子各戸で「お日待」と言って餅や赤飯を作って祝う行事であったが、今は祭典を行うようになっている。
        
               拝殿上部に掲げてある
奉納板
 拝殿正面には、当社の簡単な由緒と年中行事及び「敬神生活の綱領」を記した板が掲げてある。氏子のだれかが奉納したものではなかろうか。

 嘗て昭和三十年代までは、当社の本殿は茅葺きであったという。そのため、屋根が傷つくと、氏子総出で西吉見の安楽寺周辺に映えている山茅を刈りに行き、屋根を葺き替えたという。『風土記稿』には「民戸十七」と載せており、その少ない戸数と人員で、長い間社の管理を行って来た。社の維持管理は、村内の諸役の一つで慣例的なものであるとはいえ、屋根の葺き替え等の諸事を長い間行ってきたことは、氏子の方々の崇敬の念と日頃の共助の心がけが厚い証拠でもあろう。
 上銀谷の人々は、全戸が薬師寺の檀家というわけではないが、誰もが当社を村の鎮守として信仰するのと同じように、薬師寺を村の寺として厚く信仰しており、新生児の宮参りをはじめとする人生の節目の参詣や月参りなどは、当社だけでなく、薬師寺にも参っているという。
        
                           石段下に祀られている石祠二基
               
左から稲荷大明神 稲荷大神
        
                石段下から鳥居方向を撮影



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」等
                   
        

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大和田浅間神社

 浅間信仰とは、富士山に対する信仰のうち浅間神社を中心とする信仰をさしている。アサマともよばれており,本来は火山に対する名称とする説もある。富士山に関する最古の文献である都良香【富士山記】には,875年(貞観17115日,山頂で白衣の美女2人が舞う姿を見たという記事があり,白い噴煙の立ち上る様子を表現していると思われ、そしてこの山神に対して〈浅間大神〉と命名している。
 後世浅間大神は,木花開耶姫(このはなのさくやびめ)と同一視された。この女神は神話上の美姫であり大山祇(おおやまつみ)命の女であり,天孫瓊瓊杵(ににぎ)尊の妃に位置づけられている。また神仏習合の過程で,浅間大菩薩とも称された。その後、近世に入り、そのなかから長谷川角行という行者が現れ,浅間神社から独立した富士講をつくった。
 長谷川角行が広めた富士講やその教義は、東日本の農村において急速な浸透を遂げた。大和田地域に鎮座する浅間神社もこのような富士信仰の流布の中で建立された社の一つであるという。
        
             
・所在地 埼玉県比企郡吉見町大和田338
             
・ご祭神 木花開耶姫命
             
・社 格 旧無格社
             
・例祭等 例祭 714
 大和田地域は吉見町の南東部に位置していて、東境は旧荒川と接している。この旧荒川は江戸時代初頭の瀬替えで流路が確定してから、昭和初期の近代改修で廃棄されるまで約300年間荒川の流路であったという。この旧荒川は、現河道の右岸側に3 kmほどの旧河道が現在も埋め立てられず河跡湖や河川として残っていて、所在地から明秋湖とも、埼玉県道27号東松山鴻巣線を挟んで北から順に明秋・鎌虎・蓮沼とも呼ばれ釣り場として利用されている
 瀬替え以前は和田吉野川の流路であったともされ、周辺地域では河道が蛇行していたことから水害が頻発していた。そのため、明治後期になり洪水氾濫対策として旧河道を堰き止め、新たに現河道を掘削したという。
        
                 北方向に伸びる参道
 大和田稲荷神社から埼玉県道76号鴻巣川島線を500m程南下し、コンビニエンスのある十字路を右折し、すぐ先にあるY字路を右折すると、民家の間に大和田浅間神社の参道が僅かに見えてくる。但し、その道幅は狭く、分かりづらいので通り過ぎてしまう可能性も高いので、目視で注意深く確認する必要がある。
        
          北方向に伸びる参道は行き止まり、西に方向転換する。
       すぐ先には鳥居があり、若干の上り斜面の先に社殿が鎮座している。
        
                 大和田浅間神社鳥居
        
                    拝 殿
 浅間神社  吉見町大和田三三八(大和田字下西谷町)
 富士浅間信仰は、室町末期から江戸初期に長谷川角行という行者が現れて、その教義を整え、富士講を広めたことから、東日本の農村において急速な浸透を遂げた。当社もこのような富士信仰の流布の中で建立された社の一つである。
 社伝によれば、創建は元禄二年(一六八九)のことで、駿河国の富士山本宮浅間神社からの勧請である。享保六年(一七二一)には村人一六戸によって社殿の再建が行われたという。
鎮座地は大字大和田の南西の外れにある。これは、氏子集落から見て富士山が南西の方角に望まれることにちなんでいる。
『風土記稿』大和田村の項には「稲荷雷電合社 小名堤根の鎮守なり、蚊斗谷村の界にあり、彼村大行院持、彼村民も産神とす。稲荷社、村の鎮守なり、大輪寺持。浅間社 同持」と当社を含む三社が載せられている。これに見える大輪寺は稲荷社の西側にあった真言宗の寺院(明治三十一年火災により焼失)で、「名主惣左衛門が先祖、小沢惣左衛門道繁開基す」と記されている。
明治四年の社格制定に際し、無格社となったが、幸いにも合祀されることなく今日に至っている。近年では、昭和六十二年に社殿の改築を行った。なお、当社が「上浅間」と呼ばれるのに対し、境内にある石祠は「下浅間」の名称で呼ばれている。
                                  「埼玉の神社」より引用

「埼玉の神社」の解説に出てくる長谷川角行(かくぎょう)は富士信仰の行者で、富士講の開祖。また、神道(しんとう)教団扶桑(ふそう)教および実行教の開祖。その生涯については不明な部分が多く、伝記では、大職冠藤原鎌足の子孫といわれ、天文(てんぶん)10年肥前長崎の武士の左近大輔原久光の子として生まれたという。俗名・長谷川左近藤原邦武。
 角行の伝記には数種あり、それぞれが内容を異にする。しかし、応仁以来の戦乱の終息と治国安民を待望する父母が北斗星(または北辰妙見菩薩)に祈願して授かった子だとする点や、7歳で北斗星のお告げをうけて己の宿命を自覚し、18歳で廻国修行に出たとする点などは共通して記された。そうした共通記事に即して角行の行状を理解すれば、それはおよそ次のようである。
 当初修験道の行者であった角行は、常陸国(一説には水戸藤柄町)での修行を終えて陸奥国達谷窟(悪路王伝説で著名)に至り、その岩窟で修行中に役行者よりお告げを受けて富士山麓の人穴(静岡県富士宮市)に辿り着く。そして、この穴で45分角の角材の上に爪立ちして一千日間の苦行を実践し、永禄3年(1560年)「角行」という行名を与えられる。
 
     社殿手前で左側にある石柱        境内の隅に祀られている浅元宮の石祠  
四方に文字が刻んであるが、内容までは分からず
        
 その後、角行は富士登拝や水垢離を繰り返しつつ廻国し、修行成果をあげるたびに仙元大日神より「フセギ」や「御身抜」(おみぬき)という独特の呪符や曼荼羅を授かった。なお、「フセギ」は、特に病気平癒に効力を発揮する呪符であったらしく、江戸で疫病が万延した際にはこれを数万の人びとに配して救済したという。
 正保3年(1646)、105歳で富士山中の人穴にて死去したとされる。
        
               社殿側から見た境内の一風景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「「日本大百科全書(ニッポニカ)」
    「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」Wikipedia」等

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大和田稲荷神社


        
            
・所在地 埼玉県比企郡吉見町東野5-17-4
            
・ご祭神 倉稲魂命
            
・社 格 旧大和田村鎮守・旧村社
            
・例祭等 春祭330日 夏祭75日 秋祭1014 
 吉見町域の大部分は荒川流域の荒川低地に属し、田園地帯が周囲一面広がる中、この東野地域は田畑も見られるが、その大部分は住宅地となっていて、地域の南北を分断するように埼玉県道27号東松山鴻巣線が東西方向に走っている。因みにこの県道27号線を東行すると「御成橋」があるのだが、この橋には川幅日本一を示す標柱が橋の両端にあり、この橋から630m上流の地点の荒川の川幅は2.537mと川幅として日本一広いとの事だ。
 途中までの経路は、古名氷川神社を参照。この社の境内北側にある「古名集会所」付近の「古名」交差点を右折し、埼玉県道76号鴻巣川島線を400m程南下すると、進行方向右手に大和田稲荷神社の境内が見えてくる。
 社に西側隣にある「大和田集会所」と鳥居に若干の駐車スペースがあったので、その一角にと停めてから急ぎ参拝を開始する。
        
                               
大和田稲荷神社正面
『日本歴史地名大系』「大和田村」の解説
 万光寺(まんこうじ)村の北にあり、北は古名(こみよう)村、西は上銀谷(かみしろがねや)村。東方を荒川が流れる。永享一〇年(一四三八)九月日の伝鎌倉公方御教書写(武州文書)に「吉見郡大和田村并菜田村」とみえ、当地などが岡義左衛門尉守吉に与えられている。田園簿では田高二九〇石余・畑高五五石余、幕府領、日損水損場との注記がある。「風土記稿」成立時には幕府領と旗本贄領の相給。幕末の改革組合取調書では旗本贄・筒井二家の相給。寛文一二年(一六七二)に東方、荒川堤外の新田を検地して高入れし、延宝六年(一六七八)には本検地が行われた。
 

鳥居の社号額には「正一位稲荷大明神」と刻印。   鳥居を過ぎた場所から境内を撮影

 大和田稲荷神社は、旧大和田村の名主を代々務めた「小沢家」が、一時的に住んでいた忍領上中条村から文禄年中(15921596)当地へ移住、その後、大和田村の鎮守として京都の伏見稲荷大社を勧請して創建、明治4年には村社に列格したという。
この「小沢家」は、元々武田家の家臣であったようだ。
・大輪寺碑
甲州武田氏の士で、三ツ亀甲を家紋とし、一時忍領上中条村に住し、文禄年中当地に移り住み、惣左衛門道繁・大輪寺開基、一子又左衛門・慶長十九年検地案内」
稲荷社文政十年敷石碑
平野時太郎道堅、道堅は小沢七代道孝二男・道高実弟也、平野名跡相続」
        
                        塚上に通じる石段手前にある文政十年敷石碑 
        
               塚上に鎮座する
大和田稲荷神社
『新編武蔵風土記稿 大和田村』
比企郡岩殿村農家に傳ふる永享十年鎌倉管領家より、鍛冶守吉へ吉見郡大和田村を賜ふ由の文書あり、
 稻荷社 村の總鎭守なり、大輪寺持、
 大輪寺 新義眞言宗、御所村息障院の門徒なり、本尊は不動を安ず、名主惣左衛門が先祖、小澤惣左衛門道繁開基す、

 稲荷神社  吉見町大和田六八四(大和田村字上西谷町)
 大和田村の名主を代々務めた小沢家(当主は一六代の幸男)は、横見郡二一か村の惣代として、また、荒川舟運の大和田寄場の大惣代として、他村の名主に比べて強い力があった。その先祖は、甲州(現山梨県)武田氏の家臣で、一時は忍領上中条村(現熊谷市上中条)に住んだが、文禄年中(一五九二〜九六)に当地に移り住んだといわれている。その後、小沢家を中心として当地の開墾が進められたものであろう。
 当社は、この小沢家が、当地に入植してきた時に祀った神社であると伝えており、天保五年(一八三四)に再建した本殿の御扉には、同家の家紋である「三つ亀甲」が彫り込まれている。更に、当社の南方約五〇メートルの所にあり、江戸時代に当社の別当であった真言宗の大輪寺も、同じく小沢家によって建立されたもので、『風土記稿』にも「名主惣左衛門が先祖、小沢惣左衛門道繁開基す」と記されている。なお、大輪寺は明治三十一年に焼失し、小規模な堂宇が再建され、その跡地は、大和田霊園として整備された。
 また、当社は、京都の伏見稲荷大社の分霊であるといわれ、本殿の中には、同社から拝受した「正一位稲荷大明神」の神璽を奉安しており、かつては宝暦十一年(一七六一)二月に同社から受けた分霊証書(前述の神璽と組になっていたと考えられる)もあったという。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                  社殿からの一風景


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「埼玉苗字辞典」
    「Wikipedia」「境内石碑文」等
        
    

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旗井神社

 加須市旗井地域に鎮座する旗井神社の境内の一角に「愛染明王」像がある。この像は、多くの十九夜様、庚申様、馬頭観音等が並ぶ供養塔群の中央にあり、加須市の有形民俗文化財に指定されている。
 愛染明王は元来、インドの愛をつかさどる神で平安時代初期、遣唐使として海を渡った空海により真言密教とともに伝来した。この明王は愛欲煩悩を浄化し、解脱に導く「煩悩即菩薩」の神であり、そのお姿は、頭上に獅子の冠をかぶり、目は三眼、六本の手には弓矢などを持ち、忿怒の相をしている。鎌倉時代には、その様相から武士の信仰を集めたという。近世になると愛染の言葉「逢い初め(あいぞめ)」や「愛敬(あいぎょう)」に通じるとされ、男女の縁結び・恋愛成就の神として花柳界や芸能界の人々に信仰されるようになる。また、愛染が藍染に通じるとして、染物業者に信仰されたともいう。
 石仏の造立の目的は記されていないが、『武蔵国郡村誌』によれば、幕末期、この地は穀物の生産が主体であったが、副業として砂地を利用して藍葉の作付け、藍玉の生産が行われていた。また、利根川沿いに紺屋(こうや 染物業)が点在し、更に藍玉を取引する問屋もあったなど考えると藍作りの農家が守護神として造立したものと考えられている。
        
             
・所在地 埼玉県加須市旗井556
             
・ご祭神 菅原道真公
             
・社 格 旧中新井村鎮守・旧村社
             
・例祭等 歳旦祭 11日 春季例大祭 415日 
                  秋季例祭 
1015
 旗井地域は東武日光線の栗橋駅に近接し、加須市における「生活拠点」の一つとしての位置つけとなっていて、公共交通によるアクセスの利便性が高く、周辺には商業施設、公共施設、医療・福祉・子育て支援施設などが充実した地域生活を支える拠点を形成している。
 途中までの経路は外記新田鷲神社及び旗井八幡神社を参照。埼玉県道60号羽生外野栗橋線を旗井八幡宮から更に東行すること1.3㎞程、東武日光線の踏切を越えるとすぐ左手に幡井神社の鳥居、及び社の境内が見えてくる。
        
                  幡井神社正面
      すぐ南側には踏切があり、車の往来もある為、鳥居からの撮影は断念。

『日本歴史地名大系』 「中新井村」の解説
 現大利根町の東端、利根川右岸に位置し、東は古利根川を挟んで葛飾郡栗橋宿(現栗橋町)、利根川を挟んで下総国葛飾郡中田宿(現茨城県古河市)、西は渡沼村・琴寄村、南は下新井村、北は中渡村。古利根川および利根川沿いに水除堤がある。上・中・下の新井村があったが、天正年間(一五七三〜九二)頃に上新井村(現北川辺町)は本郷村と改称、寛永年間(一六二四〜四四)の利根川掘割によって隔たり、領名も古河川辺領となった。中・下の新井村は向川辺領で、当村を含む一三村が同領(風土記稿)。田園簿によれば高三四六石余で皆畑、幕府領。
        
             境内に設置されている幡井神社の案内板
        
                    拝 殿
 旗井神社
 縁起 (歴史)
 平安時代、天喜年中(一〇五五))の創・祀にて、康平年中 (一〇六〇年頃)源義家が陸奥の豪族安倍氏鎮定(前九年の役)に向かう時、乗馬神前にて頻りに嘶き敢えて進まず、依って、下馬して旗を井の傍らに立てて馬に水を与え憩う。時に義家村老を召してその小祠の祭神を問いたるも知る者なし。 ここにおいて今より「天神」と崇めるべき旨を告ぐ。而して白旗を与え去る。故を以て「旗井天神」と称え、その旗を神宝となしたりと。
 後人、菅原道真公の像を安置し現在に至る。
 延宝五年(一六七七年)社殿を新築。寛延三年(一七五〇年))彩色修復。寛永六年(一八五三年)社殿改築。元和七年 (一六二一年)利根川東遷に伴い新川通り開削により、字堤外瀬合に移転。明治五年(一八七二年)村社に列格。明治四四年(一九一一年))利根川第三期改修により現在地 (旗井五五六番地)に移転改築し、旗井地区内の神社七社(水神社・男野明神社・女野明神社・大神社・日枝社・ 稲荷社・八幡社)を合祀の上、社名を「旗井神社」と改称。昭和五七年(一九八二年)本殿・幣殿・拝殿の屋根を銅板にて葺き替え。(以下略)
                                  「境内案内板」より引用

        
            社殿の左側に祀られている境内社・御嶽神社
 御嶽神社
 御祭神 大口真神(御神狗・おいぬさま)
 日本武尊が東征の際、御岳山の山中において狼に難を救われ、その際に「この山に留まり、地を守れ」と仰せられ、以来、御嶽大神とともに「おいぬさま」とあがめられ、病魔・盗難・火難除け等の諸災除けの神として関東一円の信仰を集めています。
 又、道中での難を救う神として、登山や旅行安全の神、「おいぬ」は「老いぬ」にも通じて、健康・長寿の神、戌は安産・多産な事から、安産・子授けの神としても多くの信仰を集めています。
                                      案内板より引用

        
        社殿奥に祀られている石碑・石祠。 石碑の間には力石もある。
        左から水天宮、(?)、御嶽神社・八海山神社・三笠山神社
       
          社殿左側にはご神木であるケヤキの大木が聳え立つ
          加須市保存樹木。幹回 290㎝ 指定番号 第95
 
     境内東側で道路沿いに並んで祀られている石碑・十九夜塔・馬頭観音・庚申塔等
          丁度真ん中付近に「愛染明王」祀られているいる。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「加須市HP」
    「広報かぞ」「境内案内板」等
 

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外記新田鷲神社及び旗井八幡神社


        
             
・所在地 埼玉県加須市外記新田14
             
・ご祭神 天日鷲命
             
・社 格 旧外記新田村鎮守・旧村社
             
・例祭等 元旦祭 春大祭 41日 秋大祭 1015
「道の駅 童謡のふる里おおとね」から一旦南下し、「砂原」交差点を左折する。埼玉県道60号羽生外野栗橋線合流後、3.6㎞程南東方向に進むと、道路沿い脇で、「外記新田集会所」の南側隣に外記新田鷲神社は鎮座している。
        
                 外記新田鷲神社正面
『日本歴史地名大系』 「外記新田」の解説
 中渡村の南西に位置する。江戸初期に飯積村(現北川辺町)の平井外記が開墾した地を子の弥兵衛に譲った後(弥兵衛村)、当村を開墾したため外記新田と称したという(風土記稿)。東の渡沼村との間に長沼がある。現新川通の法輪寺前にある地蔵尊の元禄三年(一六九〇)銘に外記村、元禄郷帳に外記新田村とあるが、「風土記稿」・天保郷帳で「外記新田」に復している。田園簿によれば田高五石余・畑高一三三石余で、幕府領。
 元禄郷帳では五六石余に石高が激減、幕末まで変わらず。国立史料館本元禄郷帳では幕府領、のち上総久留里藩領となり、延享三年(一七四六)の久留里藩領知目録(久留里藩制一班)に村名がみえ、同藩領で幕末に至る(改革組合取調書など)。
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 外記新田村』
 平井外記前村開墾の後、其子彌兵衛に譲り、又當村を開きしをもて村名もかく唱へりと云、(中略)享保十七年黒田豊前守に賜はり今も然り、
 沼 長沼と云、東の方渡沼村の境にありて、則兩村入會の持なり、古は大なる沼なりし由、今は 幅二間、長四百間に餘れり、
 神明社 〇鷲宮 村の鎭守なり、二社共に寶藏寺持、
 寶藏寺 新義眞言宗、堤村延命寺末、日輪山寶光院と號す、本尊不動、


 鷲神社(みょうじんさま)  大利根町外記新田一四(外記新田字横川)
 利根川中流域南岸の沖積平野部に展開するこの地は、古来、洪水に悩まされる低湿地であった。
 社記に「当所は葦の生い繁る低湿の地なりしが、天正年中飯積村(現北川辺町飯積)より、平井外記なる者八十余名を引き連れて入植し開発する所なり、よって地名を外記新田と名付く。其後江戸の繁栄につれて利根水運盛んとなり当所もまた栄えたり。古く当地方は鷲宮領に属す。これを以って寛永八年前耕地に鷲明神を勧請す、以後当村の開発進みて前耕地より離れて現在地に移住する者多く安永年中右鷲明神を分祀せり、これ当社の創(はじめ)なり」とある。
『風土記稿』に「鷲宮 村の鎮守なり、宝蔵寺持」とあり、別当が真言宗宝蔵寺であることが知られる。
 明治五年に村社となる。大正三年には同字の皇太神宮を合祀する。
 この皇太神宮を氏子は北晨様と呼ぶが、口碑によると北晨様は本殿への合祀を嫌だといって氏子内に病気をはやらせたので、本殿の右側に神社を造って祀った。しかしまだ病が続くので行者に観てもらった所、居候は嫌だと怒られたので、早速旧地に社を造って移したという。
 覆屋内に嘉永六丑年四月始五日銘の棟札を有する一間社流造りの本殿があり、向かって左に稲荷社、右に天明の飢饉のお祓い米を放出した黒田氏を祀る生祀黒田社(石祠)がある。
                                  「埼玉の神社」より引用


 外記新田鷲神社の本殿内には「生祀黒田社」の石祠が祀られているという。
『新編武蔵風土記稿 中渡村』には「享保十七年黒田豊前守に賜はり今も然り、(中略)黒田権現社 寛政年中領主黒田大和守、村民を殊に撫育せしかば、報恩の為め崇め祀れりと云ふ」と載せている。大名と名主の身分上の違いはあれど、平井外記は多くの餓死者を出した正保(1644年~1647年)の飢饉のとき、救済の策尽きた外記は敢えて領主の法度にそむいて筏場の米倉をひらき、飢えた農民を救ったが故に家は取潰しとなり、外記自身も責を負って自刃した、いわば「義人」である。
『風土記稿』に載る「黒田豊前守」と「黒田大和守」は、それぞれ享保17年(1732年)、寛政年間(1789年〜1801年)時点での人物で、年代的には同一人物ではなさそうだが、親子の関係であったかもしれない。どちらにしても、徳川幕府の直轄地である「御料所」において、幕府より派遣された家臣・もしくは代官である黒田大和守は、中渡村で「生祀」として崇め祀られた。それに対して、平井外記は帰農して名主となっているとはいえ、北川辺領開発に貢献した人であり、常に農民の側にあって権力に屈せず、農民存亡にあたってはその盾となった人で、この功績は決して黒田大和守にも劣っていなかったはずであり、事実加須市飯積遍照寺にある「平井外記」の墓は加須市の市指定史跡となっている。
 
        
境内に祀られる石碑群  左から庚申塔(二基)   社殿右側に祀られている境内社
   六十六部供養塔・十九夜塔・地蔵尊           詳細は不明

 当所には425日にお囃子回りと呼ばれる行事があり、騎西の玉敷神社から獅子を借りて来て各戸を祓う。昔は若衆組が前日の午後3時ごろ当地を出発し、玉敷神社前の湯屋で湯に入り一杯やった。午前零時を過ぎると獅子を出してくれるので、これを借る。午前3時頃に当社に着き、太鼓を打って獅子の到着を報じる。夜明けに獅子回しの者3名が祓い・箱・刀の順番で家を祓って回る。その際には、土足で縁側から上がり座敷を通って玄関に出る順路があったらしい。



旗井八幡神社】
        
             ・所在地 埼玉県加須市旗井922付近
             ・ご祭神 誉田別命(応神天皇)(推定)
             ・社 格 旧渡沼村鎮守
             ・例祭等 不明
 外記新田鷲神社から埼玉県道60号羽生外野栗橋線を450m程東行し、「東川用水路」手前にある路地を左折し暫く進むと、左手に旗井八幡神社の鳥居が見えてくる。
        
                  旗井八幡神社正面
『日本歴史地名大系』 「渡沼村」の解説
 中新井村の西に位置し、北を利根川が流れる。西の外記新田との境に長沼がある。地名は、沼が多く隣家へ行くにも沼を渡るような地であったことによるという(大利根町地名考)。田園簿では渡沼新田と記され、高一三九石余で皆畑、幕府領。元禄郷帳では八〇石余、国立史料館本元禄郷帳では幕府領。八〇石余のまま幕末に至る(天保郷帳・旧高旧領取調帳など)。享和二年(一八〇二)には三卿の一家である一橋領(「向川辺領大難渋之始末書上帳」小林家文書)、天保三年(一八三二)には幕府領(「向川辺領村々高書上帳」同文書)。
        
                 石段上に鎮座する拝殿
       「埼玉の神社」にもこの社に関する項はないため創立年代や由緒等の詳細は不明。

 現在では大字旗井に属している当地だが、『新編武蔵風土記稿』によると、嘗ては「渡沼村」という村として存在していた。

『新編武蔵風土記稿 渡沼村』
 渡沼村は江戸の行程、庄名檢地等前村に同じ、東は中新井村、南は琴寄村、西は外記新田、西北は中渡村なり、東西十一町餘、南北二町許、古は民戸も四十餘ありしが、天明六年洪水の時流失して、夫より田地も悉荒廢の地となり、今は僅に八軒なり、當村も古御料にて、今は一橋殿の領知なり、
 小名 前 裏
 沼 長沼と云、外記新田との境にあり、
 八幡社 村の鎭守なり、福壽院持、
 福壽院 新義眞言宗、琴寄村善定寺末、鳩峯山と號す、開山頼蹟寂年を傳へず、本尊彌陀を安ず、
   
 当地は、天明6年利根川水系で発生した大水害により、それまで40戸余りの民家もほとんど流失し、一帯は荒廃し、その後、『風土記稿』編集時の文化・文政年間(1810年〜1830年)時においても8軒ほどしか復興していない状況であったという。
 
 「渡沼集会所」の奥に集団で祀られている      子大権現と二十三夜塔の石碑
       庚申塔や地蔵尊等

 天明の洪水(てんめいのこうずい)とは、1786年(天明6年)に利根川水系で発生した大水害のことで、『徳川実紀』の中で、「これまでは寛保二年をもて大水と称せしが、こたびはなほそれに十倍」と言及する規模となった。
 利根川水系では、1783年に浅間山が大噴火を起こし、吾妻川を火砕流が流下した。大量の土砂がさらに下流の利根川本川に流れ出し、河床の上昇を招いた。これが3年後の水害の遠因となった。
17867月、関東地方は集中豪雨に見舞われた。利根川は羽根野(現茨城県利根町)地先で氾濫を起こし、江戸市中へ大量の濁流が流下した。「栗橋より南方海の如し」と伝えられるほどの惨状となった。本所周辺では最大で4.5m程度の水深となり、初日だけでも3641人が船などで救出されたという。




参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「Wikipedia」等

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