古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

小針領家氷川諏訪神社

 桶川市・小針領家という地名は平安時代の荘園のゆかりの地域名という。小針は小さい荘園といわれていて、平安時代の開発を示す村名であると考えられていて、歴史の古い由緒ある地域名である。小針領家村は、元禄11年(1698)に小針領家村上分と下分に分かれていたようであるが、明治期に再び小針領家村に戻っている。
 桶川市の有形文化財で古文書である「旧小針領家村松川家文書」は、小針領家村上分の名主家の一つであった松川家に伝わるものである。小針領家は綾瀬川の源流があり、嘗てはこの排水に関して非常な不便があった地域であった。松川家に残る文書では、元禄7年(1694)の地検改正に係わるものが最も古く、その他、安永2年(1773)を始めとする綾瀬川排水関係のものが多くを占めている。また、文政7年(1823)の「備前堤一件」の文書は、当時の伊奈氏によって築かれた備前堤を巡って起きた治水に関する争いや訴訟の記録をとどめるものとして貴重であるという。
        
              
・所在地 埼玉県桶川市小針領家762
              
・ご祭神 素戔嗚尊 建御名方神
              
・社 格 旧小針領家村鎮守・旧村社
              
・例祭等 祈年祭 2月中旬 春祭り 45日 例大祭 914
                   
日待 1015日 新嘗祭 11月下旬
 倉田氷川神社から一旦高架橋を南側に抜け、すぐ先の路地を右折し細い農道を進む。倉田地域同様に南北に長い小針領家地域は、地形上地域南部は大宮台地上にあるそうなのだが、この場所は元荒川流域に近いため、低地帯となっていて、田畑風景の中に豊かな雑木林も所々にあり、長閑な日本の原風景を見ているような心持で気持ちも不思議と和む。
 その農道を250m程進むと、進行方向右手に小針領家氷川諏訪神社の赤い両部鳥居が見えてくる。
        
            小針領家氷川諏訪神社正面の赤い両部鳥居
『日本歴史地名大系』 「小針領家村」の解説
 舎人(とねり)新田の南東にあり、南部は大宮台地上、北部は元荒川の低地を占める。備前堤が台地の先端から北東埼玉郡高虫(たかむし)村へ延びている。田園簿に領家村とみえ、田一二八石余・畑一一二石余、岩槻藩領。延宝八年(一六八〇)の家数四〇(うち本百姓二〇)、人数二四六(「岩付領内村名石高家数人数寄帳」吉田家文書)。元禄七年(一六九四)の検地で上田五町八反余・中田七町八反余・下田四町五反余・下々田一二町九反余の計三一町二反余。畑方は上畑一〇町二反余・中畑一一町三反余・下畑一三町二反余・下々畑四町三反余・屋敷一町五反余の計四〇町七反余、高四六九石余となっている(「検地帳」川家文書)。
        
              入り口付近に設置されている案内板
 氷川諏訪神社 御由緒  桶川市小針領家七六二
 □御縁起(歴史)
 小針領家は、小針村からの分村で、初めは単に領家村と称した。その地名から中世に荘園の領家職が居住したことを物語る。慶安二-三年(一六四九-五〇)の『田園簿』に領家村として記されているため、これ以前に小針村から分村したと思われる。その後、小針村は貫文年間(一六六一-七三)に小針内宿村・小針新宿村に分村した。各村が分村する以前からの小針村の惣鎮守は小針内宿の氷川社(明治四十年に羽貫の八幡社に合祀し、小針神社となった)で、文永元年(一二六四)の創建と伝える。
 当社の創建については、中世の荘園の鎮守として祀られたとも考えられるが、江戸初期に小針村から分村の際に本村の鎮守を勧請したとするのが妥当であろう。『風土記稿』小針領家村の項には、「氷川社 村の鎮守なり、薬師寺持、末社 荒脛社、疱瘡神社、太子堂」とある。
 明治初年の神仏分離により薬師寺は廃寺となり、当社は明治六年に村社となった。大正十五年には、境内の諏訪社を本社に合祀し、社号を氷川諏訪神社と改め、本殿の改築と幣殿・拝殿の新築を行った。同年の「神社合祀社号改称之記」の碑には、合祀以前から氷川・諏訪両社の草葺の同型社殿が並立していたと記されている。現在は覆屋内に両社の本殿があり、氷川社には往時の本地仏十一面観音像が安置される。(以下略)
                                      案内板より引用

        
           境内は思った以上に広く手入れも行き届いている。
 正面の鳥居は赤を基調として目立っているが、境内に入ると、程よい寂れた感が風情を醸し出している。

 氷川諏訪神社の創建年代は不明。所在地である「小針領家」の由来となった荘園の鎮守として創建された説、江戸時代初期に小針村から「領家村」として分村した際に鎮守として創建された説の二通りが推測される。江戸時代までは「薬師寺」が別当寺であった。薬師寺は明治初期の神仏分離により、廃寺となる。
 1873年(明治6年)の近代社格制度に基づく「村社」に列せられ、1907年(明治40年)の神社合祀により境内にあった「諏訪社」を合祀した。その際に「氷川諏訪神社」に改称したという。
        
                    拝 殿

      拝殿上部に掲げてある扁額               本 殿
        
               拝殿前の参道右手にある「土俵」
「桶川市HP」や市が配信している「You Tube」等で確認すると、この土俵上において無形民俗文化財である「小針領家のささら獅子舞」を奉納しているようである。
 この小針領家のささら獅子舞は北埼玉郡種足村(現加須市騎西)から伝えられたとされているが、その由来については定かではない。しかし、獅子舞用具が保存されている長持ちのうちで最古のものの蓋裏には享保4年(1719)の墨書きがあることから、今からおよそ280年前には小針領家で獅子舞が舞われていたと考えられる。
 天下泰平、五穀豊穣、悪病退散を祈願する勇壮な舞は、嘗て「領家のささら」と近郷でも親しまれていたが、昭和34年(1959)を最後に一度途絶えた。しかし、平成11年(1999)に復活へ向けた活動が開始され、困難を乗り越え、平成14年(2002)には旧埼玉県立民俗文化センター主催の民俗芸能公演への出演を果たし、復活した。
 演技は獅子舞と棒使いで構成されている。役割は、大獅子、中獅子、女獅子の3頭の他、舞の先導役である天狗、花笠、笛方、棒使いがある。獅子舞の前に、舞の場を清めるための棒使いの演技が行なわ、棒使いでは、木太刀を使った「一打ち」や、六尺棒を使った「四人棒」などの演技が主に行なわれる。獅子舞には、若者の舞う「草神楽」と熟練者の舞う「正神楽」があるという。
 嘗ての獅子舞の伝承者は、氷川諏訪神社の氏子男子に限られ、獅子役などは代々世襲で氏子長男とされ、厳密に守られてきた。現在では老若男女の区別なく、多くの人が獅子舞を支えている。主に4月と9月の氷川諏訪神社の祭礼で披露されており、子ども達による棒使い、獅子舞も披露された。40年の時を超えて復活した獅子舞は、現在も着実に伝承の道を歩んでいるとの事だ。

 また小針領家のささら獅子舞の用具等一式も市の有形民俗文化財に指定されていて、獅子舞用具が保存されている長持ちのうちで最古のものの蓋裏には享保4年(1719)の墨書きがあり、昭和34年に獅子舞が一時中断されるが、それ以降も氷川諏訪神社の祭礼では「虫干し」と称して獅子頭を社前に並べていたため、用具の保存は良好な状態を保っているようだ。
 
    境内東側に祀られている太子社             境内東側外れに祀られている庚申塔
  中に彩りが鮮やかな太子様が祀られている。
 
         境内に祀られている境内社(写真左・右)。詳細不明。
『新編武蔵風土記稿』小針領家村の項には、「氷川社 村の鎮守なり、薬師寺持、末社 荒脛社、疱瘡神社、太子堂」とあり、荒脛社や疱瘡神社が祀られているのであろう。
       
                    境内の一風景
     
            鳥居の手前に一際聳え立つ巨木(写真左・右) 
                      注連縄等がないので、ご神木ではないようだが、
              それでも正面の鳥居が小さく見えてしまう程の迫力ある存在感だ。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地舞体系」「埼玉の神社」「桶川市HP」「Wikipedia」
    「境内案内板」等

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倉田氷川神社

 埼玉県越生町にある松渓山法恩寺は、古くから地域の人々に親しまれてきた真言宗智山派の寺院である。寺伝『法恩寺年譜』には、「松渓山法恩寺は天平10年(738)に東国遊行中の行基が開創したが、しばらくは荒廃して寺山と呼ばれていたという。その後越生氏一族の倉田基行夫妻が、現れ来た天竺僧とともに、紫雲棚引く古井戸の中から、行基が奉じた5尊の仏像を見つけた。夫妻は草堂に仏像を祀り、出家して瑞光坊、妙泉尼と名乗った。建久元年(1190)、この地を訪れた源頼朝は二人の話に感銘を受け、土地と田畑を寄進し、基行の甥の越生次郎家行に命じて堂塔伽藍を建立させた」と伝える。
『法恩寺年譜』に登場する倉田孫四郎基行は武蔵七党の一派である児玉党越生氏に属する平安時代末期から鎌倉時代初期に活躍した武将である。この越生氏の一派である倉田氏が現桶川市倉田地域に館を構えていたという。
 但し異説もあり、『新編武蔵風土記稿 越生郷 今市村』の小名に「倉田」が存在し、そこには「村の西南によりてあり、按に法恩寺年譜錄に云、倉田孫四郎基行は當郡の刺史兒玉武藏守惟行の家弟たるにより、後倉田の邑に退隠すと、倉田はもし此地のことにや、されど隣郡足立に、倉田村あれば、彼村なりしも又知べからず」「其後文治年中當所の令たりし、倉田孫四郎基行と云者出家して瑞光坊と號し、其妻を妙泉尼と稱せしが、当寺再興のことを右大將頼朝へ願ひしかば、頓て越生次郎家行に仰せて、堂塔以下舊の如く造営ありしと、時に建久元年のことなり」と解説され、倉田基行の本拠地は越生内にあったのではないかともとれる解説が記載されている。
 さて真相はいかなることであろうか。
        
              ・
所在地 埼玉県桶川市倉田881
              ・ご祭神 素戔嗚尊
              ・社 格 旧倉田村鎮守・旧村社
              ・例祭等 例大祭 48日 祇園祭 714
 倉田氷川神社の鎮座する桶川市倉田地域は、同市東部にあり、大宮台地上に位置する。北本市・宮内氷川神社の参拝後に向かった社ではあるが、移動経路がやや複雑であるので、ここでは久喜市菖蒲町上栢間に鎮座する神明神社、並びに天王塚古墳からのルートにて紹介する。
 神明神社並びに天王塚古墳南側に走る埼玉県道77号行田蓮田線を、概ね南東方向に進み(途中同県道12号川越栗橋線が経路途中にあるが)、首都圏中央連絡自動車道(圏央道)を通過したのち、元荒川に沿って東行する。同県道はその後一旦南行してすぐに綾瀬川に沿って東行するのだが、そのまま南行し、新幹線高架下に沿って左折し250m程進むと、左手に倉田氷川神社の鳥居が見えてくる。
 周囲には適当な駐車スペースはないが、人通りのない高架橋下の道路でもあり、社の社叢林と道路に面した迷惑のかからない場所に一時的に停めてから参拝を開始した。
        
                 倉田氷川神社正面
『日本歴史地名大系』 「倉田村」の解説
 小針領家(こばりりようけ)村の南、大宮台地上にある。東・南は小針新宿(こばりしんじゆく)村(現伊奈町)・上(かみ)村(現上尾市)。蔵田とも記される(天正一九年一一月日「徳川家康朱印状」明星院文書)。南北約八〇メートル・東西約一五〇メートルの平地林のなかに浅い空堀をめぐらした館跡があり、倉田孫四郎の館跡と伝えられる。倉田孫四郎基行の名は「報恩寺年譜」にみえ、南北朝期「倉田之邑」に隠棲したとある。現岩槻市勝軍寺蔵の金剛界西院初夜作法奥書に、天文二二年(一五五三)二月一八日「賜武州足立倉田明星院御本書写畢」とある。天正一九年(一五九一)伊奈忠次は小室村(現伊奈町)の無量寺閼伽井(あかい)坊屋敷に陣屋を置くにあたり、同坊を「倉田明星院」へと移らせた(同年六月六日「伊奈忠次替地手形」明星院文書)。
                
                    鳥居の左側に建つ社号表柱
 神社を見て回っていると、気になる社号標柱が多く存在する。社号標の「社名」の上に表記されていた「社格」はセメント等で塗りつぶされているのだ。
 明治時代以前の「神仏習合」により、複雑化した神社も「神仏分離令」の名のもと再編成を実施。その後第二次世界大戦の終わりまで、「近代社格制度」という新たな制度を制定し、『延喜式』に倣って新たに神社を等級化し、同時に神社を政府の管轄下に置き、保証や支援を行っていた。
 昭和21年(1946年)22日、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の神道指令により神社の国家管理が廃止されると同時に廃止。GHQの干渉を恐れ、石の社名標の社格が刻まれた部分をセメントで埋めた神社が多かった。その後セメントを除去した社名標もあるが、現在でもそのままのものも多い。
 今日でも「旧社格」などの名称で神社の格を表す目安とされることがあり、今後もこのまま塗りつぶしたままで良いのかと思うこの頃だ。
        
              正面入り口付近に設置されている案内板
 氷川神社御由緒  桶川市倉田八八一
 □御縁起(歴史)
 倉田の地内には、南北約八〇メートル、東西約一五〇メートルの平林地の中に空堀をめぐらした館跡があり、倉田孫四郎の館跡と伝えられている。倉田孫四郎基行の名は「報恩寺年譜」に見え、南北朝期「倉田之邑」に隠棲したとある。館跡の北西隅には倉田孫四郎の氏神であったとされる神明社がある。また館跡付近には多数の板石塔婆があり、特に南方約一〇〇メートルの明星院には六七基の板石塔婆が集められている。ちなみに、同院は室町初期の創建とされる真言宗の古刹である。
 当社はこの館跡の北東二五〇メートルほどの地に鎮座しており、その方角から推して、館の鬼門除けとして祀られたとも考えられる。『風土記稿』倉田村の項には「氷川社 村の鎮守なり、村民持下同じ、末社 天王社、稲荷社、疱瘡神社」と記されている。
 本殿には、正徳三年(一七一三)の本殿棟札、享保十八年(一七三三)に神祇管領吉田家により正一位に叙された際に拝受した幣帛・宗源宣旨・宗源祝詞・更に万延元年(一八六〇)に「倉田村願主星野美恵女」により奉納された神鏡などが納められている。この中で棟札には「遷宮導師別当明星院廿五世尊盛」の名が見え、明星院が別当であったことがわかる。
 神仏分離を経て当社は明治六年に村社となり、同四十年に加納の氷川天満神社への合祀司令が出されたが、昭和十八年に取り消された。(以下略)
                                      案内板より引用
        
            高架橋のすぐ北側にありながら静まり返った境内
 参道から拝殿に通じる途中には境内社が数社あるのだが、その境内社までの道がしっかりとしたアスファルトで舗装されているので、歩きやすくなっている。
 
       境内社・第六天神              境内社・天皇神社
        
                                      神楽殿
 倉田地域には「倉田の祇園祭」と呼ばれるお祭りがあり、古い伝統を伝える行事として貴重なものであるという。毎年7月14日に近い日曜日に、氷川神社の氏子54軒の家々をまわって、疫病退散と五穀豊穣を祈願する祇園祭が行われている。
 祭り当日の朝、倉田氷川神社に合社されている八雲神社を地区の共有地にある仮小屋(現倉田集会所脇)に移す。ここ神輿とともにまつられた後、村まわりが始まる。
 村まわりの一行は、神霊をうつした「牛頭(ぎゅうとう)」と呼ばれる幣串を先頭に、天狗、獅子頭、山車(だし)持ち、万燈の順で進む。この行列に、軽トラックにそれぞれ乗せられた神輿と囃子方が続く。氏子の家々をまわる途中、13カ所の休憩所で合流し、飲食をともにする。収穫されたばかりの小麦で作られた饅頭もこのときに振る舞われる。
 昭和30年代までは各家の室内には茣蓙が敷かれ、村まわりの一行は土足のまま縁側から入って室内を通り抜けたといわれている。
        
                                        拝 殿
「桶川市HP」によれば、当地域には無形民俗文化財に指定されている「倉田の囃子」がある。HPの解説をそのまま引用する。
 倉田の囃子(無形民俗文化財)
 倉田のお囃子は、江戸神田囃子松本流を継いでいます。江戸後期の頃は、いわゆる古囃子という初期のお囃子が伝えられていたようですが、現在伝承されているものは明治の頃に足立郡菅谷村(現上尾市菅谷)から習ったものと伝えられています。
 楽器は附太鼓(小太鼓)2、玉太鼓(大太鼓)1、スリガネ1、笛15人囃子で、屋台囃子、昇典、神田丸、鎌倉、四丁目(しちょうめ)、矢車(やぐるま)、ひょっとこ囃子、道中(どうちゅう)の8曲が演奏されていました。このうち昇典と道中は「静か物」と呼ばれます。現在は屋台囃子を主に演奏しています。なお、この屋台囃子は10の曲に分かれています。
 4月と10月の倉田氷川神社の祭礼や、714日の村廻り、71516
日の桶川祇園祭などで演奏され、お祭を盛り上げています。
        
          拝殿の左側に祀られている境内社・稲荷神社、疱瘡神社
        
                       社殿から見る参道の様子。
              鳥居の先に新幹線の高架橋が見える。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「日本歴史地名大系」「桶川市HP」
    「桶川市歴史民俗資料館 民俗資料展示 解説シートHP」「Wikipedia」
    「境内案内板」等
               

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宮内氷川神社

鴻巣七騎(こうのすしちき)は、戦国時代に太田氏に仕え、武蔵国足立郡の鴻巣郷(現・埼玉県鴻巣市、北本市)周辺に土着した家臣団を指した呼称である。その鴻巣七騎の中に、北本市宮内地域を本拠地にした人物が2名いて、大島大炊助とその一族である大島大膳亮久家である。
大島氏は上野国新田氏の一族で新田郡大島村より出たとも、伊豆大島より出て太田氏や後北条氏の家臣となったとも伝えられている。永禄7年(1564)、足立郡宮内村の開発領主として10500文の土地を与えられたが、天正18年(1590)の小田原征伐による岩付城落城後、浅野長政から居住地において一族の大膳亮や、鴻巣七騎の一人とも言われている矢部新右衛門(現鴻巣市下谷)らと共に帰農するように命じられている。
 舊家 彦兵衛
 大嶋氏にて代々内藤某の里正を務む、家系を傳たれど、破裂せる所有て、全きものにあらず、其内大膳亮久家なるものあり、本國伊豆を領して大嶋に住し、永正・大永の頃小田原北條に屬して武州に住し、勳功あり、由て永祿七年甲子の感状を賜へるは後に載す、其外鎗ニ筋を持傳へり、是も後に載す、且其頃は鴻巣領宮内村に居住せりと、久家子なくして土佐守善久の三男を養子とす、是を大膳亮重富と云、岩槻城主太田十郎氏房に従へり、御入國の後大嶋大炊介及び大膳亮・矢部新左衛門・同兵部・小川圖書等の五人歸國御暇の書を賜はれり、其書は大炊介が子孫勇藏が家に藏せり、猶後の條照し見るべし、(中略)
 汝等五人之事、如前々在所へ令退住耕作以下可申付
 候、若兎角申者於在之ハ、此方へ可申來候也、
 六月一日
            浅野弾正長吉(花押)
   武州足立郡鴻巣郷
        大島大炊助
        大島大膳亮
        矢部新左衛門
        矢部兵部
        小川圖書
       以上五人遺之
『新編武蔵風土記稿 上宮村下宮村附持添新田』より引用
 またその一族である大膳亮久家は、一族で宮内村に住した大嶌土佐守善久の三男小四郎重富を養子とし、大膳亮を名乗らせたという。このように大島氏は市域を支配した代表的な在地武士であったようだ。
        
             ・所在地 埼玉県北本市宮内4135
             ・ご祭神 素戔嗚尊
             ・社 格 旧上宮内村、下宮内村鎮守・旧村社
             ・例祭等 春祭 220日 例大祭 1015日 秋祭 1122日等
 中丸氷川神社から国道17号線に戻り、北西方向に進路をとり、1.7㎞程進む。「宮内」交差点を右折し、通称「三軒茶屋通り」を北行すると、三つ又に分かれる道となり、その三つ又南側正面に宮内氷川神社の鳥居が見えてくる。
 三叉路を右方向に進むと、社務所が左手に見え、その手前に駐車可能なスペースがあるので、そこに停めてから参拝を開始した。
        
                  宮内氷川神社正面
                     周囲一帯田畑風景が広がる中に鎮座する社。
『由緒調書』によれば、人皇12代景行天皇の御宇、日本武尊が東征の際、当地を武蔵・信濃平定の本営地と定めたことを記念し、その跡に大宮氷川の大神を勧請して当社を建立したという。宮内の地名はここに初まるともいわれ、近郷の鎮守として神威は遠近に及び、かつては境内六千有余坪、社有地一万余坪の広大な社領を有し、境内は古木鬱蒼と茂り荘厳を極めたようである。『新編武蔵風土記稿』には、本地は十一面観音、別当は当山派修験、小松原(鴻巣市)瀧本坊配下大乗院と見え、江戸後半頃のおおよその実情が知られる。文政十年(1827)には、その由緒の古さを認められ、神祗管領長上家より「武蔵國三の宮」の称号を贈られたとのこと
        
              入り口付近に設置されている案内板
 氷川神社 御由緒  北本市宮内四-一三五
 □御縁起(歴史)
 口碑によれば、当社は武蔵一宮の氷川神社の分霊を勧請し、湧水池の辺りに創建したのが始まりで鎮座地の宮内の名も、当社の鎮座に由来するものであるという。勧請の時期は不詳であるが、永禄八年(一五六五)四月吉日に大嶋大炊助へ宛てた「河目資好賞状写」(武州文書)に当地の名が見えることから、創建はそれ以前にさかのぼるものと考えられる。
 大嶋氏は元々伊豆大島に居を構えていたが、永正・大永年間(一五〇四-二八)に小田原北条氏に従い武蔵国に移住し、領主として当地の開発に当たった。このことから当社は大嶋氏によって勧請され、見沼のほとりに祀られた一宮氷川神社に倣い、湧水池の辺りに創建されたのであろう。また、当社は一宮・二宮に次ぐ「武蔵三宮」であるとの伝承があり、創建の古さをうかがわせる。
 江戸前期、当村は上・下に分村した。『風土記稿』上宮内村・下宮内村の項には「氷川社 下分にあり、下同じ、祭神は素盞嗚尊と云、本尊は十一面観音、社地のさまは古蹟とはみゆれど、その来由は詳に知れず 別当 大乗院 当山修験 小松原滝本坊配下 末社 稲荷社 簸ノ王子社 弁天社」とあり、当社は分村後も下村ばかりでなく、上村からも鎮守として崇敬を受けたきことがうかがえる。
 明治初年に上・下村は合併し、再び宮内村となった。大乗院は神仏分離後に廃寺となり、当社は 明治六年に村社に列した。(以下略)
                                      案内板より引用
 
     鳥居を過ぎてすぐ左手に境内社・厳島神社が鎮座している(写真左・右)。
        社を囲むように池があり、神秘的な雰囲気を醸し出している。
  
    境内社・厳島神社の先で並んで祀られている石碑や境内社群(写真左・右)。
 左から「道祖神」「稲荷大神」「富士嶽大神」「奴稲荷大神」「山王社」等が祀られている。
不思議な事であるが、境内社群や石碑が参道に対して正面を向いているのだが、一番左側にある「道祖神」の石碑だけは境内社・厳島神社の方向、つまり左側横に設置されていた。
        
             厳島神社や山王社等の境内社先の参道の様子
 嘗ては境内六千有余坪、社有地一万余坪の広大な社領を有し、境内は古木鬱蒼と茂り荘厳を極めたというその名残が今も境内に漂うようだ。
 真夏時期の参拝であったが、参道の両側には樹木も青々と繁り、しっとりと汗ばむ程度。適度な湿度故に小虫はかなり繁殖してはいたが、それは仕方がない。参道も手入れが行き届いていて、気持ちよく参拝に望むことができた。
       
          北本市の保護樹林であるイチョウの大木(写真左・右)
                  保護樹林指定標識
           保護樹林  イチョウ  指定番号  第66号   指定年月日 平成821
        
              参道左側に設置されている「力石」
        
                    神楽殿
        
                    拝 殿
『新編武蔵風土記稿 足立郡上宮村下宮村附持添新田』
氷川社 下分にあり、下同じ、祭神は素盞嗚尊と云、本尊は十一面觀音、社地のさまは古蹟とはみゆれど、その來由は詳に知れず、
 別當 大乘院 當山修驗、小松原瀧本坊の配下、
 末社 稻荷社 簸ノ王子社 辨天社、

「埼玉の神社」によると、本殿には木造の天満天神座像が奉安されており、台座裏には「武品(州)鴻之巣深井村 貞享元(申子)年(一六八四)九月五日 宗傳法印橋本房」の墨書が見える。橋本房は『風土記稿』上深井村、下深井村の項に見える橋本寺のことと思われ、この天神像は、橋本寺の境内社天満宮に奉安されていたものであろう。
 橋本寺は明治初年に廃寺となり、天満宮も廃絶した。この天満像は一旦同村の鎮守であった氷川神社に移されたが、明治四十年にその氷川神社が当社に合祀されたため、当社に奉安されるようになったと思われる。なお、江戸期に当社の本尊であった十一面観音の所在は不明であるという。
        
              拝殿手前付近に設置されている案内板
 宮内氷川神社 祭神・素戔嗚尊
 御由来
 当社は、人皇十二代景行天皇の御子日本武尊東征の際、当地を武蔵、信濃平定の本営地と定めたことを記念し、大宮氷川の大神を勧請して建立されたものと説く。「宮内」の地名はここに始まるとも言われ、近郷の鎮守として神域は遠近に及んでいる。
 かつては境内六千有余坪、一万坪余りの広大な社領を有し、古木また鬱蒼と茂り、荘厳を極めたようである。
「新編武蔵風土記稿」には本地は十一面観音、別当は当山派修験「小松原」瀧本坊配下大乗院と見え、江戸後半頃おおよその実情が知られる。
 文政十年(一八二七)にはその由来の古さを認められ神祇管領長上家より「武蔵国三宮」の称号を贈られている。
 その後当社は様々な変遷を経て明治六年村社に列せられ、同四十年には神社合祀の令により、深井の氷川社、古市場稲荷社、常光別所の白山社、花ノ木の稲荷社、他いくつかの無格社、末社を合祀し現在にいたる。
                                      案内板より引用

 
 社殿の左隣にある市指定建造物である「宮内氷川神社旧社殿」(写真左)とその案内板(同右)。
 市指定建造物 
 宮内氷川神社旧社殿   平成十年十月三十日 指定
 宮内氷川神社旧社殿の規模は、桁行一メートル三十六・五センチメートル、梁間一メートル二十三・五センチメートル、向拝の出丸十三・二センチメートル、一間社、流れ見世棚造り、厚板葺き、目板打ちである。
 見世棚造り建築は、身舎からつき出した床が「みせ」の棚板のようになっている小規模な社殿様式で、「信貴山縁起」や「西行物語絵巻」等、中世の絵巻に見られ、神社本殿の発生の姿を示していると考えられている。
 宮内氷川神社旧社殿は、市内に残されている数少ない見世棚造り建築の一つで、土台や柱の取替え等、修理が行われているが、板葺きのまま原形を保っており、建造時期は江戸時代初期に遡ると思われる歴史的価値の高い希少な建造物である。
 平成十一年三月   北本市教育委員会  氷川神社
                                      案内板より引用
        
                  
宮内氷川神社旧社殿の左隣に祀られている境内社・天神社

『新編武蔵風土記稿』による 「上宮内村・下宮内村」の解説には、「用水は元荒川の水を鴻巣宿の内宮地堰より引來りて水田にそゝげども水便あしきによりしばヾ早損あり」と記されておて、やはり「埼玉の神社」でも同様な記載がある。
 当地の農業用水は、江戸期より、荒川の水を鴻巣宿の宮地堰から引いて使用しており、水利に恵まれた土地であったが、夏の間に晴天が続いた年には、当社にて雨乞いの祈祷を行ったという。古老によれば、昭和期を通じて雨乞いを行ったのは、昭和三十年ごろに一度だけであり、その時の模様は以下の通りである。
「その年は八月初めまでは雨が一滴も降らず、このままでは農作物が枯れてしまうという声が上がり、雨乞いをすることになった。当日は氏子の中から20名程の男衆が代表となり、早朝に自転車で群馬県板倉の雷電神社に向かって出発し、他の氏子は全員が簔(みの)と笠を着けて弁天池に集まり、太鼓を叩いて拝み続けた。雷電神社で祈祷を終えた一行は、すぐさま当社に向けて帰路についたが、途中まで来ると、背後から黒雲が迫って来ることに気づいた。黒雲より先に帰り着かねばと感じた一行は急いで当社に戻って、すぐに神職に当社拝殿で祈祷をしてもらった。祈祷終了後、神職が境内の弁天池の水を盥(たらい)に汲んで頭からかぶると、その瞬間辺りは豪雨となった」
        
                                参道からの風景


参考資料「新編武蔵風土記稿」「北本市HP」「埼玉の神社」「北本デジタルアーカイブス」
    「Wikipedia」「境内案内板」等
        

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中丸氷川神社

 創建年代は不明である。ただ中丸村は慶安年間(1648年〜1652年)以前に上・下に分村しており、下中丸村の「氷川社」は上中丸村の当社より分霊を勧請したという『新編武蔵風土記稿』の記述から、中丸村分村以前から存在していたものと推測される。「慈眼寺」が別当寺であった。慈眼寺は真言宗の寺院であったが、明治初期の神仏分離により、廃寺に追い込まれた。
 1873年(明治6年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられ、翌年には上下中丸村は合併した。当社は新生中丸村の鎮守として崇敬されるようになった。なお下中丸村の氷川社はいつのまにか廃社となっている。1907年(明治40年)の神社合祀により周辺の5社が合祀された。
Wikipedia」より引用
        
              
・所在地 埼玉県北本市中丸391
              
・ご祭神 素戔嗚尊
              
・社 格 旧中丸村鎮守・旧村社
              
・例祭等 例大祭 410日 祇園祭 715
 JR高崎線北本駅東口近郊に鎮座する本宿天神社から東行し、国道17号線に達した「北本四丁目」交差点を右折、その後750m程先にある「本宿五丁目」交差点を右折し、暫く進むと、進行方向右手に中丸氷川神社の鳥居、及びその境内に到着する。
        
                  中丸氷川神社正面
                      周囲一帯一戸建て住宅街の中に鎮座している。
 中丸地域は北本市の東南部に位置し、北は本宿58丁目に接し、住宅地域と畑は台地上に開けていて、中央部を北西から南東に国道17号線、北部を県道蓮田鴻巣線が走っている。この地域は、昭和392丁目(旧大字北中丸字西)269戸、翌年5丁目(同字谷尻原)に198戸の団地ができたのを契機に、急激に人口が増加し、以後宅地化が進行したという。
        
               境内に設置されている案内板
 氷川神社御由緒  北本市中丸三-九一
 □御縁起(歴史)
 当地は元々中丸村として一村であったが、慶安二-三年(一六四九-五〇)の『田園簿』に上・下中丸村がそれぞれ記載されており、これ以前に分村されていたことがわかる。
『風土記稿』上中丸村の項に「氷川社 村の鎮守なり、別当慈眼寺 新義真言宗 下深井村寿命院門徒 本尊十一面観音なり」と記されているのが当社である。一方、下中丸村の項には「氷川社 村の鎮守にて上村の氷川社をうつせしなりと云、安養院持」と記され、分村に際して当社から分霊したことをうかがわせる。このことから、当社は中丸村として一村であった当時には既に鎮守であったと考えられる。
 神仏分離後、慈眼寺は廃寺となり、当社は明治六年に村社に列した。同七年には上・下中丸村が合併し、再び中丸村となると、その鎮守として崇敬されるに至った。一方、下中丸村の氷川社は、いつのころか廃絶した。更に、中丸村は明治十二年に北中丸村と改称し、同二十二年に近隣八か村と合併して、新たに中丸村が成立すると、その大字となった。このような中で当社は明治十四年に社殿を焼失し、翌十五年に再建された。更に、同三十三年に同大字の無格社神明社を合祀し、同四十年には大字山中の村社大六天社をはじめとする五社を合祀した。なお、当社の主祭神は素盞嗚尊で、本殿に奉安されるその神像の台座には「安永二年(一七七三)九月吉祥日」の墨書が見える。(以下略)
                                      案内板より引用
        
                        住宅街の中にあるとは思えない位静かな境内
 
    鳥居を過ぎて参道左側にある手水舎        手水舎の奥にある神楽殿 
        
                    拝 殿
「埼玉の神社」による当社の信仰として、社蔵の宗源祝詞(そうげんのりと)によると、享和元年(1801)に神祇管領吉田家から「正一位大明神」の幣帛を授与されている。これを契機に、当社が村の鎮守として、一層厚い崇敬を受けるようになったのではなかろうか。
 4月10日に行われる春の例祭は、「五穀豊穣」を祈る祭りで、午前十一時を期して神職の奉仕により祭典を執り行い、終了後、社務所で直会(なおらい)を行う。午後からは一時間おきに数回、神楽殿で「北中丸囃子」による囃子の奉納があり、その合間には余興として氏子有志参加の「のど自慢」も催
される。嘗ては上尾市門前町の神楽師が午後から神楽を奉納していたという。演目は祭神にちなんで「大蛇退治」「三番(さんば)」等。但し、太平洋戦争がはじまり、神楽の多くが出征してしまったため、神楽奉納は中止となる。
 戦後は地元青年団による素人演芸が
され、一時的に活気を取り戻したが、その後テレビ等の娯楽の普及により、素人演芸は飽きられ中止となり、現行の「のど自慢」を催すことになる。
 
          本 殿               社殿右側にある神興庫
 また7月15日に執り行われる祇園祭は、「疫病除け」の祭りで、当地の人々にとって重要な行事である。現在は祭りの前日である14日に当番が神興を社殿に奉安し、「宵(よい)宮」と称して氏子が三々五々参拝する。その際に各戸で搗(つ)いた重ね餅を持参して供えるのが古くからの習わしである。15日は午後一時を期して神職の奉仕による奉典があり、その後、社務所で直会となる。
        
                   境内の一風景
 嘗ての祇園祭は15日に獅子の村回りや神輿の渡御(とぎょ)が地域を挙げて行われていた。当日は朝六時に神職を先頭に雌雄二頭の刺史が神社を出発し、続いて神輿が出御(しゅつぎょ)した。氏子の家々では、神棚から幣束を降ろし、縁側の廊下に奉安し、その前に小麦饅頭を山盛りに供えた。神職と獅子の一行は、一〇〇戸ほどを回り、それぞれの家では最初に獅子が縁側から座敷に上がり込み、家内を祓って回った後、神職が幣束の前で疫病除けの祝詞を奏上した。一方神輿は各組の世話人である「さし番」に導かれ、各組を渡御し、途中「さし番」の家で酒食の接待を受けた。神輿は一組回り終える毎に最寄りの村境に行き、悪魔を村の外へ追い払ってから次の組に向かったという。
 獅子の村回りと神輿の渡御は、戦時中の人出不足で一時中断されたが、戦後復活した。しかし昭和33年に国道17号線が当地域を南北に断ち切るような形で縦断したことから、その交通量が妨げとなり、行事への続行が困難になり、暫くは中止となっていたようだ。

「北中丸囃子連」は、明治初期に祇園囃子があったが、明治20年代に上尾市西門前の神楽師から杉山流の囃子を習得、現在でも春季例祭や祇園祭等にて活動している。練習は、農家の忙しい時期を除く日曜日に行っているという。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「北本デジタルアーカイブス」「Wikipedia」
    「境内案内板」等

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北袋神社

 面足(オモダル)命・惶根(アヤカシコネ)命は日本神話に登場する兄妹神で、神武天皇はその仍孫にあたる。『古事記』では兄を淤母陀琉神、妹を阿夜訶志古泥神、『日本書紀』では兄を面足尊、妹を綾惶根尊(アヤカシキネ)と表記されている
『古事記』において神世七代の第六代の神とされ、兄淤母陀琉神が男神、妹阿夜訶志古泥神が女神である。オモダルは「完成した(=不足したところのない)」の意、アヤカシコネはそれを「あやにかしこし」と美称したもの。つまり、人体の完備を神格化した神である。
 また淤母陀琉神は「淤母」は「面」、「陀琉」は「足る」と解して、名義を「男子の顔つきが満ち足りていること」とし、文脈や阿夜訶志古泥神との対応、また今日に残る性器崇拝から男根の様相に対する讚美からの命名と考えられる。阿夜訶志古泥神は「阿夜」は感動詞、「訶志古」は「畏し」の語幹、「泥」は人につける親称と解し、名義は「まあ、畏れ多い女子よ」とし、淤母陀琉神と同様の理由で、女陰のあらたかな霊能に対して恐懼することの表象と考えられる。
 中世には、神仏習合により、神世七代の六代目であることから、仏教における、欲界の六欲天の最高位である「第六天魔王」の垂迹であるとされ、特に修験道で信奉された。明治の神仏分離により、第六天魔王を祀る寺の多くは神社となり、「第六天神社」「胡録神社」「面足神社」などと改称したという。
 北袋神社は、現在高尾地域内にあるが、近世以前は「北袋村」の鎮守社で、同村内にそれぞれ祀られていた神明社・熊野社・橿城社の三社を合併し、地名を冠し、北袋神社と号して成立した社である。そのうちの橿城社は嘗て「第六天社」と称していたため、合併後も面足命や惶根命がご祭神の一柱として地域の方々に崇拝されているのであろう。
        
             
・所在地 埼玉県北本市高尾4107
             
・ご祭神 天照大神 面足命 惶根命
             
・社 格 旧北袋村鎮守・旧無格社
             
・例祭等 春祈祷 425日 灯籠 725日 お日待 1125
 北本市、高尾氷川神社から一旦東行して埼玉県道57号さいたま鴻巣線に合流後、同県道を850m程北上し、十字路を左折し暫く進むと、進行方向右手に北袋神社が見えてくる。
「池袋」「沼袋」「北袋」など袋のつく地名は、大てい水辺で二面以上が水で囲まれている所であるという。 ところでこの袋の語であるが、これは実は袋の形から起ったものではなく「ふくれる」という言葉と同じ語源で、海岸線が湾曲してふくらんでいるところを「フクラ」といったようだ。
        
                  北袋神社正面
 北袋神社は、旧北袋村内に祀られていた神明社・熊野社・橿城社(旧第六天社)の三社を大正6年に合併の上、北袋神社として当地に創建したという。橿城社(旧第六天社)は、関ヶ原の合戦の落武者が当地に土着して祀ったものだといわれている。
 氏子区域は、近世の北袋村の範囲で、現在の高尾三・四丁目にあたるという。また「埼玉の神社」によると、氏子数は古くから当地に居を構える五六戸で、氏子総代は四名。
        
                      晴天の天候に一際映える朱を基調とした両部鳥居
        
              鳥居の左側に設置されている案内板
 北袋神社 御由緒  北本市高尾四-一〇七
 □御縁起(歴史)
『埼玉県地名誌』によれば、地名に「袋」が付くのは川沿いの低地に限られるという。北袋も荒川沿いの低地に位置することが地名の由来であろう。『元禄郷帳』に荒井村の枝郷としてその村名が見え、元禄十五年(一七〇二)以前には一村として成立していたことがわかる。
 当社は、地内にそれぞれ祀られていた神明社・熊野社・橿城社(旧第六天社)の三社を新たな社地を切り開いて、大正六年一月二十五日に合併し、地名を冠し、北袋神社と号して成立した神社である。この三社のうち、創建の由来を伝えているのは橿城社のみで、口碑によれば、関ヶ原の合戦の落武者が当地に土着して祀ったものであるという。『風土記稿』北袋村の項には「神明宮 村の鎮守なり 地蔵院持、熊野社 同持」とあり、何故か第六天社の記述は見当たらない。
 神仏分離後、第六天社は橿城社と改称し、明治四年に北袋村が荒井村の大字になると北袋の三社は無格社とされた。更に、明治二十二年に荒井村ほか四か村が合併して石戸村になると村内に村社四社、無格社一七社を数え、合祀の話が持ち上がった。旧五か村では、それぞれの村社を守るため、大正五年に無格社のうち当地の熊野社と橿城社を含む四社を旧荒井村の村社須賀神社に合祀することが画策された。これに対して北袋では、熊野社と橿城社が他所へ合祀されるのを回避するため、合祀が行われる前に三社を合併したのであった。(以下略)
                                      案内板より引用
        
  境内は決して広くはないが、境内一帯には芝生が青々しく茂り、手入れも行き届いている。

 北本市域で行われてきた民俗芸能には、獅子舞(ししまい)・囃子(はやし)・万作(まんさく)などかある。このうち、万作だけは今は行われなくなったが、獅子舞・囃子は今も盛んで、その中に「北袋囃子連」という伝統芸能が受け継がれている。
「北袋囃子連」は、神明社・熊野社・橿城社(旧第六天社)の三社の合祀の話が持ち上がった大正五年に、祭りを盛んにすることで、地域を合祀に反対する機運を盛り上げようと結成された。今では当社の年中行事に欠かせない存在となっており、後継者育成のための練習も週一回行われているという。
        
                    拝 殿
 当社の三間社の本殿には、中央に神明社に金幣三体と神鏡一面、向かって右の熊野社に観音菩薩像と脇待二体の大日如来像、左の橿城社に第六天の垂迹神像が奉安されている。中央に神明社が祀られているのは、旧北袋村の鎮守とされていたためであろう。但し、当地に古くから居を構える人々は、当社を「第六天様」と呼んでいるという。

「埼玉の神社」によると、北袋神社の祭日は、元旦祭(1月1日)、
春祈祷(425日)、灯籠(725日)、お日待(1125日)の4回であるが、425日の春祈祷は、五穀豊穣を祈る祭りで、朝から参内で「北袋囃子連」が囃子を奉納し、午後一時を期して神職の奉仕により祭典を執り行う。昭和四十年まではこの日に各戸で草餅を作り、家族で食べたり、親戚に配ったりしていたという。また灯籠は農作物の成育を祈る祭りで、かつては農作業の骨休めの日でもあった。朝から年番が参道に十基程灯籠を飾り、午後四時から祭典を行う。その後、境内の北袋集会所で直会(なおらい)を行い、境内では、北袋囃子連が囃子の奉納をする。辺りが暗くなると灯籠に火が入れられ、氏子が銘々で参詣するという。
 また近世に当村の本村であった荒井では、715日に鎮守の須賀神社の祇園祭が盛んに行われるが、この日は当地にも同社の神輿渡御(みこしとぎょ)が行われるのが古くからの習わしであったようだ。荒井の男衆が北袋の村境まで担いで来た神輿を当地の男衆が受け継ぎ、当社まで担いで来て神前に一時奉安する。この間に当地の人々はこの神輿に手を合わせて無病息災を祈願する。以前、みこしは戸別に巡回したが、最近は、北袋の氏子(46)数名が出迎え接待するだけとなり、簡略化されてしまった。その後、男衆が再び神輿を担いで北袋の村境まで返しに行く。ちなみに、この神輿は荒々しく担がれることから「暴れ神輿」の名で知られ、その威力で疫病の蔓延を鎮めると信じられているという。
        
           社殿の右側奥に祀られている境内社・遠藤稲荷神社
              
               境内にある「
社殿新築記念之碑」
『社殿新築記念之碑』
北足立郡石戸村者下石戸下下石戸上石戸宿荒井高尾之五大字為一村村中有村社四無格社十七明治三十九年有神社合併之勅也当時雖有上司慫慂合併震村治之円満暫待時機其後至大正五年四社存置合併無格社于四社之議起怱決焉先是北袋之人有社殿新築之議偶以勅令之出止之於是合神明社橿域社熊野社之三社称北袋以甞所聚之浄材新築社殿所費金三千余円大正六年十一月廿五日施行遷宮式従是北袋之人老幼朝夕得参拝之便人抃喜焉鳴呼我皇国者以敬神之大道為邦家之基礎今比建築今村民彌養成敬神之念則可謂奉賛邦基者也矣村人欲刻名伝子余余不顧不肖記其略併為銘銘日(以下略)
        
                               社殿から参道先の鳥居を望む


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「北本デジタルアーカイブス」
    「Wikipedia」「境内案内板・石碑文」等


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