古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

平方橘神社

 上尾市平方地域は、嘗て「平方河岸(ひらかたがし)」という荒川の舟運で栄えた河岸場の一つで、 昭和初期まで大きな繁栄を誇っていた。
 この平方河岸は、入間川と荒川の合流点の約600m下流にあった荒川の河岸場で、江戸浅草への川路23里余に位置する。川越上尾道筋にあたり、荒川対岸老袋(おいぶくろ)村(現川越市)とを結ぶ渡船場も併設されていた。寛政10年(1798)の寺尾川岸場由来書(河野家文書)に、寛永15年(1638)川越仙波東照宮再建用材の輸送のため「老袋・平方川岸」の利用が川越藩から命じられたが、渇水時であったため命を請けなかったとあり、川越藩は最寄りの村々の江戸廻米をすでに平方河岸にゆだねていたことをうかがわせる。
 河岸の成立にあたっては、寛永期から平方筋三六ヵ村を領した岩槻藩のほか柴田氏など有力旗本の要請もあったとみられる。岩槻藩主阿部重次は寛永15年から慶安4年(1651)まで老中を勤めており、この間有事の川船徴発年貢米回漕の基地を平方に整備したのであろう。寛文9年(1669)には「川船運漕ノ定」を記した高札が、おそらく幕府によって立てられたという。
        
              
・所在地 埼玉県上尾市平方2124
              
・ご祭神 素戔嗚尊
              
・社 格 旧平方村鎮守・旧村社
              
・例祭等 歳旦祭 正月 祈年祭 2月 例大祭 1015
                   
新嘗祭 11
 畔吉諏訪神社から南側に位置する「上尾丸山公園」は南北に長い公園で、荒川河川敷すぐ近くに横たわる大きな池を配した上尾市の自然公園である。テーマは「水と緑の調和」。2.4haの長い池を始め、児童遊園地やバーベキュー場、広い運動公園、小動物コーナー、更には天文台もあり、桜やアヤメなど、季節毎に様々な花を楽しむこともでき、次々と展開する園内の風景は多彩で、厭きることがない。
 この公園南部にある南口第一駐車場脇の南北に走る道を1㎞程進むと「上尾橘高入口」交差点となり、その交差点手前右側に平方橘神社は鎮座している。
        
                  平方橘神社正面
『新編武蔵風土記稿 平方村』の項によると、「氷川社 村の鎮守なり」と記されており、江戸期には氷川社と称して平方村の鎮守社として祀られ、橘神社は大字平方のみの鎮守であったが、1907年(明治40年)に平方内の稲荷社・神明社、西貝塚の村社稲荷社、上野の村社神明社、上野本郷の村社稲荷社、平方領領家の村社氷川社を合祀し、新たに社号を「橘神社」に改称した。
 この「橘」という名称に関して、もとは江戸期より存在した武蔵国足立郡平方領に属する平方村であった。古くは中世末期より見出せる橘里三輪荘(みわのしょう)に属したと云い、平方村・領家村(上尾市)は「橘ノ里」と称した時期があり、その故事を参考にして名付けられたようだ。
『新編武蔵風土記稿 上寶來村』
「上寶來村は江戸よりの行程九里、橘庄と唱ふ、此村古は寶來野と稱して荒川の岸に傍ひ水災ある地なり、故に差扇領の村々より秣などかりとり野錢を貢たりと云う」
        
                   道路沿いに設置された「
平方河岸」に関する案内板
 
   鳥居を過ぎて参道左側にある手水舎     参道右側には、戦前の機雷が奉納されている
                         案内板では日露戦争時頃のようだが…
        
                   境内の様子
        
                                       拝 殿
 橘神社 上尾市平方二一二四(平方字箕輪)
 当社の本殿の背後には、樹齢約八〇〇年と推定され、幹周り五・七五メートル、高さ二〇メートルにも及ぶ欅の巨木(市指定天然記念物)がそびえている。遠望するとこの欅が当社の神籬のように見え、境内の三分の一を覆い尽くすその威容は、神木と呼ぶにふさわしい。
 元禄七年(一六九四)の「枚方村寺社地御改之覚」(福田家文書)によれば、当社には文明三年(一四七一)銘の額(現存しない)がある旨が記されていることから、それ以前の創立であることがわかる。また、口碑に創建当初は現在の平方小学校の東の「氷川山」と呼ばれる所にあったとも、平方新田の字在家にあったとも伝えられる。しかし、当社が当地に移った時期については伝えがなく、また、境内の大欅の樹齢から考えても、遷座があったとしても相当昔のことであろう。
『風土記稿』平方村の項に、「氷川社 村の鎮守なり」と記されているように、当社は元来は平方だけの鎮守であったが、明治四十年に平方地内の稲荷・神明の二社(共に無格社)及び西貝塚の村社稲荷社、上野の村社神明社、上野本郷の村社稲荷社、平方領領家の村社氷川社を合祀し、社号を橘神社と改めた。その社名はかつてこの辺りを橘里と称していたことにちなむものである。本殿及び拝殿はこの合祀を機に建立されたもので、古い本殿は同じ大字内の八枝神社に移され、今も同社の本殿として使われている。
 氏子区域は大字平方(上宿・下宿・南・新田)の四地区と、上野・平方領領家・上野本郷・西貝塚の合計八地区で、年間の祭典は正月の歳旦祭(さいたんさい)、二月の祈年祭(きねんさい)、十月の例大祭(お日待ち)、十一月の新嘗祭(にいなめさい)の四回である。
 境内社に「稲荷社」「三峯社」「天王社」「水神社」「神明社」「疱瘡社」「天神社」「雷電社」「琴平社」「愛宕社」を祀る。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
                     本 殿
 本殿奥には、ご神木であるケヤキの大木が孤高の如く聳え立っている。このケヤキは、境内の地表面から50cmほど高く積み上げられた3m四方の土塁の上に立木し、周囲は透塀で囲まれている。中央の主たる幹は落雷のため上部を欠いているものの高さ20m余といい、嘗ては旧氷川神社のご神木として長い間住民の信仰の対象として敬慕されていたという。
 
幹周り5.75m、樹高24m、樹齢(推定)1000年といわれる立派な巨木・老木だ。
       
               ご神木のケヤキ(写真左・右)
              上尾市指定年月日 昭和42年5月1日
        
             境内に設置されている大けやきの案内板
 上尾市市指定天然記念物  大けやき
 橘神社(大字平方2124
 大けやきは、ニレ科の単木で、古くから地域の人々に「御神木」として親しまれている。昭和五四(1979)年の強風により、地面から7mほどのところの、二股に分かれたところで胴切りにされている。主幹の直径は1.8mあり、樹齢は800年と衰退されている。
 ケヤキは日本の代表的な広葉樹のひとつで、寿命が長い。山野に自生するほか、庭木・公園樹・街路樹として植えられている。特に関東地方に多く、「埼玉県の木」として指定されている。
 木目が美しく、かつ保存性が高いことから、社寺建築・臼・盆・漆器など用途が広い。樹皮は灰褐色で、老木になると麟片(りんぺん)状に剥がれる。葉は互生し、長さ2㎝〜7㎝の卵形または卵状鉢形で、薄い肉質である。花は四月〜五月に咲く。
 果実は長さ4mm5㎜の平たく歪んだ球形で陵があって固く、一〇月頃に暗褐色に熟す。
 上尾市教育委員会
                                      案内板より引用
        
    社殿の左側後方に祀られている境内社、及び平方村河岸出入商人衆奉納の石祠
 
     平方村河岸出入商人衆奉納の石祠            石碑の案内板
上尾市指定有形文化財 平方村河岸出入商人衆奉納の石祠
橘神社(大字平方2124
平方河岸は、荒川にあった河岸場で、近世には岩槻や原市方面から川越を経て多摩方面へ通じる、脇往還筋にある渡船場としても機能する交通の要衝だった。河岸場の歴史は古く、寛永一五(1638)年以前には既に成立していたと考えられている。
江戸へ送る年貢米の集荷先として、平方周辺の村々の他、南村、久保村、原市村などの幕府直轄地や、弁財村、戸崎村、上瓦葺村などの旗本知行地といった地域からも広く利用され、大正時代末まで大変栄えていた。
3基並んだ石祠のうち、中央の神明社が指定の石祠で、明治四〇年代に河岸場から橘神社に移された。左側面の銘文によると、平方村及び平方河岸に出入りする商人衆によって、享保二(1717)年に造立・奉納されたものであることが分かる。また右側面には、宝永六(1709)年に祈願して以来、平方河岸が大神宮の神徳により繁栄したことのお礼と、今後の輸送の安全と一層の発展を願う奉納の趣旨が記されている。
江戸時代中期からの江戸との経済関係、いわゆる江戸地廻り経済による商品流通によって発展した平方河岸の隆盛を伝える、数少ない貴重な歴史資料である。
上尾市教育委員会
                                      案内板より引用

        
                        社殿右側に祀られている境内社。祖霊社か。
        
               綺麗に手入れされている境内


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「上尾市webサイト
    「Wikipedia」「境内案内板」等

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畔吉諏訪神社

 上尾市・畔吉地域は、上尾市西部の大宮台地上に位置する。因みに「畔吉」は「あぜよし」と読み、なかなかの難解地名である。嘗ては江戸期より存在した武蔵国足立郡石戸領に属する畔吉村、古くは南北朝期より見出せる畔吉郷もしくは畔牛郷(あぜうしごう)と称していて、また他にも徳星寺天正十九年文書に上足立郡「阿世吉郷」、井原文書には「畔谷瀬」とある。
 地名由来もハッキリとは分かっていないが、地形上の特徴から発生した名称である事には間違いないと考える。地域東側を江川の支流の逆川およびその谷戸を挟み中分・及び小敷谷地域、南側は丸山都市下水路(長堀)を挟み平方地域、西側は荒川を挟み比企郡川島町出丸中郷、北側を領家地域と隣接している。
 地域全域は市街化調整区域であるが、上尾駅からは
4 kmほど西に離れていて、徒歩圏ではないため、農地が多く宅地化は進んでいないようだ。荒川の流域沿いは荒川近郊緑地保全区域に指定されていて、自然が豊かな地域でもある
        
              
・所在地 埼玉県上尾市畔吉835
              
・ご祭神 建御名方命
              
・社 格 旧畔吉村鎮守・旧村社
              ・例祭等 例祭 217日 春祈祷 44日 祭礼 101415
                   お日待 1123 
                   *4月春祈祷…「源太・万作踊り」
                   *10月のお日待ち…「ささら獅子舞」
 今泉氷川神社から一旦「泉が丘通り」に戻り、そこを右折、600m程北上した十字路を左折する。通称「はなみずき通り」を1.2㎞程進み、「東武バス車庫前」交差点を左斜め方向に進路変更する。その後国道17号線を越えた300m先で、進行方向右手に畔吉諏訪神社ののぼり旗ポールが見えてくる。
 社の境内には「大石農民センター」があり、駐車スペースはあるようだが、ゲートが閉まっているので境内には入れない。但し、社の南側に「上尾丸山公園」があり、そこの北側駐車場に車を停めてから徒歩(約10分程)にて社に向かう。
        
                  畔吉諏訪神社正面
『日本歴史地名大系』 による「畔吉村」の解説によると、『平方(ひらかた)村の北に続き、集落は荒川東岸の台地上にある。荒川対岸は比企郡出丸中郷(現川島町)。康暦二年(一三八〇)八月二五日の足利氏満御判御教書(円覚寺文書)によれば、同月六日に武蔵国金陸寺に寄進された塩田帯刀左衛門尉跡の「足立郡畔牛郷内」などを同寺雑掌に打渡すよう山下四郎左衛門尉に命じている。塩田氏からの所領没収は同年の小山義政の乱にかかわるものか。金陸寺の所在地などは不詳。天正一七年(一五八九)八月二八日には、「畔吉之内徳正寺」の寺内および門前の諸役が太田氏房により免除され(「太田氏房印判状」徳星寺文書)、同一九年一一月の徳川家康朱印状(同文書)では、「武州上足立郡阿世吉郷之内参石」が徳星寺に寄進されている。
 なお足立系図(兵庫県足立九代次氏蔵)には足立遠元の第五子肥後守遠景に「号安須吉」の注があり、この「安須吉」を畔吉に比定する説もある』とあり、「畔吉」地名由来として新たに「足立系図」に載せている「安須吉」を畔吉に比定する説が紹介されている。ということは、足立遠元は平安末期の武将・官僚でもあり、その地名の淵源は平安時代まで遡ることになる。
        
   鳥居を過ぎてすぐ右側にある「畔吉ささら獅子舞」「畔吉諏訪神社大山石灯籠」の標柱と、
                          その間にある畔吉諏訪神社大山石灯籠。
               また標柱の左側には、畔吉諏訪神社大山石灯籠の案内板がある。
 上尾市指定有形民俗文化財 畔吉諏訪神社大山石灯籠
  諏訪神社 (大字畔吉835)
 上尾市やその周辺地域では、江戸時代から遠隔地の有名社寺を信仰する代参講が盛んに行われ。その中で特によく行われてきたものに大山講がある。大山講は、神奈川県伊勢原市の大山阿夫利神社を信仰する講として結成され、古くは大山石尊大権現と呼ばれたことから石尊講とも呼ばれる。
 大山山頂に大山阿夫利神社の本社があり、山開きの期間(七月二七日から八月一七日まで)のみ参拝登山ができるものとされてきた。大山灯籠は、それぞれの講の地元に、この山開きの期間に立てられるものであった。
 上尾市内の大山灯籠の多くは、木製の組立て式である。山開きの時期になると、地元の神社や集会施設、道端などに立てていた。周囲に竹を4本立て、これに注連縄を巡らせ、毎晩灯明をともすものであった。
 この大山石灯籠は、木製の灯籠ではなく石灯籠で常設されている。大山石灯籠は、市内では畔吉と領家の2か所にとどまる貴重な例である。この石灯籠でも、毎年七月下旬から1週間、大山灯籠行事を行っている。
 石灯籠の背面には、元治元(1864)年の紀念銘があり、正面には「大山石尊大権現」と大きく刻まれている。このほか、造立主体や製作石工も刻銘から明らかであり、上尾市域における大山信仰の状況を知るうえで貴重な文化財といえる。
                                      案内板より引用
        
          参道を挟んで左側には「
畔吉の万作踊り」の標柱がある。
  標柱の右側には、「畔吉の万作踊り」と「畔吉ささら獅子舞」の案内板が設置されている。
 上尾市指定無形民俗文化財 畔吉ささら獅子舞
  (保持団体)畔吉ささら獅子舞保存会
「畔吉ささら獅子舞」は1人が1頭の獅子に扮し3人で舞う、三匹獅子と呼ばれる系統の風流系民俗芸能である。戦国時代に岩付(現在のさいたま市岩槻区)の殿様が見に来た獅子だったと伝わっている。
 獅子舞は、畔吉地区の鎮守である諏訪神社の例祭で悪疫退散・五穀豊穣などを願って奉納される。かつては八月二七日が例祭日であったが、現在は一〇月中旬の日曜日となっている。例祭では、諏訪神社のほか徳星寺でも1回奉納される。
 舞手の構成は、牝獅子と中獅子、王獅子の三人一組である。舞は、笛に合わせて進行し、舞手の獅子は腰に着けた太鼓を叩きながら舞い、花笠をかぶる岡崎が「ささら」という楽器を演奏する。ささら獅子舞という名称は、ここからきている。
 演目は、十二切といわれる一曲式が基本で、2時間弱の舞である。このほか、短縮版の三切、七切という演目もある。
 舞の中盤では歌が入り、後半には牝獅子隠しとなる。牝獅子隠しは、牝獅子が花笠の間に入って隠され、これを中獅子と王獅子が探し、牝獅子の奪い合いで争うが、和解するという内容である。
        
 上尾市指定無形民俗文化財 畔吉の万作踊り
  (保持団体)畔吉源太郎万作踊保存会
 万作とは、万作踊りと呼ばれる舞踊と、段物・芝居などといった演劇のことで、埼玉県の稲作地帯の代表的民俗芸能である。農民の豊年満作の娯楽芸能として、江戸の冠木などの演劇の影響を受けながら発達してきた。起源は明確ではないが、江戸時代末期に始められたものと考えられ、大正時代から昭和初期にかけて全盛を誇っていた。上尾市域は、県内でも特に万作が盛んに行われていた地域だった。
「畔吉の万作踊り」は、大正時代には既に行われており、昭和五五(1980)年頃からは、畔吉の鎮守である諏訪神社の春季例祭(四月の第1日曜日)に奉納されている。演目は、下妻踊り・手拭い踊り・銭輪踊り・伊勢音頭・口説きの5種類である。このうち基本となる演目は下妻踊りであり、採りものを持たずに踊る。銭輪踊りは、踊りの三番叟と呼ばれ、最初に踊るのはこの演目である。下妻踊り、手拭い踊り、銭輪踊りは、ほぼ同じ系統の歌で踊るが、伊勢音頭は、全国的に広く分布する伊勢音頭の歌で踊る。
                                      案内板より引用
        
                参道から見た境内の様子
          社の正面幅は狭いようだが、奥行がかなりあるようだ。
           また社殿は石垣等により高台上に鎮座している。
        
                      参道を進むと左側に神楽殿がある。
       10月中旬の日曜日にある例大祭に奉納される「畔吉ささら獅子舞」
               の舞台となっているのであろう。

 畔吉諏訪神社の創建年代等は不詳ながら、天正18年(1590)に土着・畔吉村の名主を勤めていた井原家が、石戸領の総鎮守諏訪神社を、井原家の氏神として勧請した。その後、寛保元年(1741)に時の当主井原弥市が徳星寺に社を寄附したという。以来畔吉地区の守護神として村民より崇敬されてきた。『新編武蔵風土記稿』には以下の記載がある。
『新編武蔵風土記稿 畔吉村』
「神社 氷川社
 長二尺、圖徑三寸許なるなて角の青石を神體とす、是雷斧雷槌の類なるべし、德星寺の持、村の鎭守なり、諏訪社 持同じ、」
「寺院 徳星寺
 天台宗、川田谷村泉福寺末、東高野山遍明院と號す、本尊阿弥陀を安ず、天正十九年寺領三石の御朱印を賜はれり、當寺は往古弘法大師の開闢せし地ゆへ東高野と唱へ、眞言古義の古刹なるよし、其後いつの頃か今の宗旨に改めたれど、山號は尚古のまゝが襲ひ用ひしといへり、されど舊記を失ひたれば、其詳なることは知らず、天正十七年太田氏房より出せし文書一通を藏す、其文左の如し、
 畔吉之内徳正寺寺門前共に任侘言、諸役免許可爲不入者也、仍如件、
 天正十七己丑八月廿八日 圓阿彌奉
 井原土佐守殿」
「舊家 彌市
 代々名主を勤む、先祖を井原土佐守政家と稱し、岩槻の十郎氏房に仕へしものなるが、落城の時打もらされ當所に來り住せりと云、されど德星寺に藏する文書によれば、落城以前よりこゝに居りしにや、系圖舊記等もなければ其詳なることを知らず、近村町谷村の民金右衛門も井原氏にて、先祖主税助へ與へし太田氏房等の文書数通を藏し、又與野町にも平八と云もの同氏にて舊家の由いへば、かたがた此邊に井原氏のひさしく住居せしことしるべきなり」
        
                    拝 殿
           諏訪神社という名称に似合う力強さのある社殿    
        
              拝殿手前に設置されている案内板
 諏訪神社 上尾市畔吉八三五
 祭神…建御名方命
 畔吉は、古くは畦牛・阿世吉とも称した。康暦二年(一三八〇)の「鎌倉公方足利氏満御教書」(円覚寺文書)に「足立郡畦牛郷内」とあり、当地の開発が中世までさかのぼることをうかがわせる。
 創建年代は明らかでないが、口碑によれば、当社は元々、江戸期に名主を務めた井原家の氏神であったという。当村が属した石戸領の惣鎮守は川田谷村(桶川市川田谷)の諏訪神社であることから、その分霊を勧請したものとも考えられる。
『風土記稿』によれば、井原家の先祖は井原土佐守政家と名乗り、岩槻城主太田氏房に仕え、天正十八年(一五九〇)の落城に伴い、当地に逃れ土着したというが、徳星寺蔵の文書に落城前に居住していたとする記録もあり、土着の時期は判然としない。『郡村誌』によれば、当社は、寛保元年(一七四一)に時の当主井原弥市により徳星寺に附され、以来、徳星寺が別当となった徳星寺は、弘仁年間(八一〇-八二四)に弘法大師により開基されたとする古刹で、永禄六年(一五六三)に宗旨を真言宗から天台宗に改めた。
 神仏分離後、当社は無格社となり、明治十五年八月二十六日に本殿が再建された。明治二十二年に当村は大石村の大字となり、明治四十年四月二十五日に字中の村社氷川神社をはじめ同大字内の九社を合祀し、村社に昇格した。
 祭礼は正月の歳旦祭、二月の祈年祭、四月の春祈祷、十月のお日待ち、十一月の新嘗祭の年誤解である。そのうち、四月の春祈祷には「源太・万作踊り」が奉納され、十月の「お日待ち」には「ささら獅子舞」が奉納され、共に上尾市指定無形民俗文化財となっている。
 境内社に「愛宕社」「稲荷社」「八幡社」「水神様」「琴平社」「弁財社」を祀る。
                                      案内板より引用
 
  拝殿手前で参道左側に設置されている      拝殿手前で参道右側には力石がある。
   「諏訪神社々殿修復完成記念碑」    樹木で見えないが、4個綺麗に設置されている。
       
                                       本 殿
   素朴ながら豪壮さも感じさせる社殿であり、一際覆屋根の付いた本殿は重厚感の中に
        きめ細やかで精巧な彫刻が施され、一見の価値があると感じた。

 本殿は明治3年(明治15年再建)の造営依頼幾多の時代の変遷を経て地域の総守護神として広く崇敬されている。その後、明治末年には神社の合祀運動が国の指導で進められるが、当時大石村の大字となっていた畔吉地区は、一村一社にするというこの運動にはくみせず、地区内の神社9社を明治40(1907)年に合祀し、諏訪神社を創設する。鎮守の氷川社から社名を諏訪神社としたのは、それだけ地区民の崇敬が深かったためとみられる。諏訪神社は明治40年に八合神社などとともに村社になっているが、一村一社の国の指導にくみしなかったことは、氏子の深い信仰心と気概を示しているのであろう
        
            本殿前に設置されている合祀社を記した石碑
「五十年記念」と刻印され、その下には右から「諏訪神社」「氷川神社」「稲荷神社」「八雲神社」「八幡神社」「神明神社」「天満天神社」「白山神社」と記されている。
        
             社殿右側に並んで祀られている石祠群
     左から「八幡大神」が4基、その右並びには「水神宮」が2基祀られている。
       水神宮の右隣3基は不明。一番右側に祀られているのが「琴平神社」
        
                  社殿からの一風景



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「上尾市webサイト」
    「Wikipedia」「境内案内板」等
 

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今泉氷川神社

 
        
               
・所在地 埼玉県上尾市今泉148
               
・ご祭神 素戔嗚尊
               
・社 格 旧今泉村鎮守・旧村社
               
・例祭等 ふせぎ33日 お神楽 42日 祇園祭 714
                    
お日待 1014
 小泉八合神社から「泉が丘通り」を1.2㎞程南下し、「ダイレックス上尾今泉店」先の丁字路を左折、200m程過ぎた先の路地を再度左折すると、「上尾市今泉公民館」が見え、その西側隣に今泉氷川神社は鎮座している。
        
                  今泉氷川神社正面
 上尾市・今泉地域は、同市西部にあり、地域全体大宮台地上に位置する。東側を弁財や柏座、南側を川や向山、西側を壱丁目や小敷谷、北側を小泉と接する。地区南部の大字川や大字向山との境界は複雑に錯綜し、現在でも大字今泉字台下の飛地が複数存在する。 地域の東端を鴨川が流れ、鴨川流域の低地と台地の間は傾斜が緩い特徴を持つ。
 この地域は、昭和30年以前までは屋敷森を持つ農家の集落が多く、地域東部の低地には水田が広がっていたが、JR上尾駅西側近郊に位置し、土地柄も良いためか、現在地域内全域が市街化区域で主に第一種低層住居専用地域(主要な通り沿いは第二種住居地域や第二種低層住居専用地域)に指定されていて、宅地化が進行形で進んでいる地域でもある。
 周囲宅地化の開発が著しい地域の西側台地上に今泉氷川神社は静かに鎮座している。
        
             正面鳥居の右側に設置されている案内板
 氷川神社  所在地  上尾市今泉一四八
 埼玉県大宮市にある氷川神社を本社とする同一名の神社分布として、「氷川祭祀圏」があり、その多くは元荒川から多摩川地域に分布している。埼玉県一六二社、東京都五九社、茨城・栃木県に各二社、神奈川県・千葉県・北海道に各一の計二二八社がある。氷川神社の祭神は素戔嗚尊・稲田姫命・大己貴命の三神である。いずれも出雲系の神で、古代武蔵の出雲系の首長が祀ったためといわれている。
 今泉の氷川神社は緩やかな鴨川低地の右岸台地上の位置し、祭神は素戔嗚命である。本殿は一間社流造で、境内には末社が八坐祀られている。今泉に氷川神社について、「新編武蔵風土記稿」では「村の鎮守にして、本地正観音を安せり、この社もと向山・川村及び当村の鎮守(中略)古は西福寺といへる別当あり(中略)この別当廃してより後村内修験、本行院の持」とある。明治のころまで、ここにあった「本行院」と称する金子家が氷川神社を守っていたという。
 毎年四月二日の祭礼には神楽を奉納し、五穀豊穣を祈っている。(以下略)
                                      案内板より引用

        
                参道の先にある二の鳥居
『新編武蔵風土記稿 今泉村』
 氷川社 村の鎭守にして、本地正観音を安せり、この社もと向山・川村及び當村の鎭守なりしが、其後川村及び當村のみの
鎭守とす、古は西福寺といへる別當あり、是も今は廢絶せり、貞治年中の起立にして、古跡とのみ傳ふれど、さして證とすべきことなし、この別當廢してより後村内修驗、本行院の持、
 末社 愛宕社、駒形明神社、稻荷社、天王社、太神社、三峰社、荒脛社、
        
                    拝殿覆屋
        
              拝殿手前に設置されている案内板
 氷川神社   上尾市今泉一四八
 祭神…素戔嗚尊
 今泉の地名は、当社の南方二〇〇メートルほどの所にあった湧水に由来する。この湧水は古くからこの辺り一帯の耕地を潤していた。古くは、当地は川村・向山村・壱丁目村と一村と一村で大谷村と称したという。永禄八年(一五六五)六月二十一日の太田道誉書状写(史籍雑纂)に「今泉分」とあるのが当地の初見となる。
 当社は『風土記稿』今泉村の項に「氷川社 村の鎮守にして、本地正観音を安せり、この社もと向山・川村及び当村の鎮守なりしが、其後川村及び当村のみの鎮守とす、古は西福寺といへる別当あり、是も今は廃絶せり、貞治年中(一三六三-六八)の起立にして、古跡とのみ伝ふれど、さして證とすべきことなし、この別当廃してより後村内修験、本行院の持、末社、愛宕社、駒形明神社、稲荷社、天王社、太神社、三峰社、荒脛社」と載せる。
 その創建については、もと当村を含む三か村の鎮守であったとされることから、大谷村と称していた当時の鎮守であった可能性が高く、また別当であった西福寺の開基年代から推して、中世にまでさかのぼるであろう。この西福寺の跡地は当社の東南五〇〇メートルほどの所であると伝える。また、後の別当本行院の跡地は当社の北東二五〇メートルほどの所で、金子隆治家がその裔である。
 神仏分離を経て、当社は明治六年に村社となった。昭和五十一年には、本殿の屋根を草葺きから銅板葺きに替え、覆屋を新築した。
 祭礼は正月の歳旦祭、三月のふせぎ(春祈祷)、七月の祇園祭、十月のお日待ちの年四回であるが、九月には別宮の琴平神社で例祭が行われている。
 境内社に「八雲社」「三峯社」「稲荷社」「疱瘡社」「山王社」「神明社」「駒形荒脛日皇社」を祀る。
                                      案内板より引用

   
合祀社は疱瘡・稲荷神社。両側の石祠は詳細不明    社殿奥に祀られている三峯神社
        
             拝殿覆屋右側に祀られている八雲神社
        
                   境内の風景


参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」「境内案内板」等
 

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小泉八合神社

 上尾市・小泉地域は、市西部の主に大宮台地上に位置する。東側を泉台や浅間台と隣接し、南側を弁財や今泉、西側から北側にかけて小敷谷や中分と隣接する。大字小泉は町丁である小泉一丁目〜九丁目を挟み南北に分かれている。町域の東部の低地を鴨川が流れ、親橋や子橋や新弁財橋が架かる。鴨川にはカワセミやカルガモなどの鳥類や鯉やマルタウグイなどが棲みついている地区は上尾環状線(通称BS通り)以南は市街化区域で主に第一種低層住居専用地域に指定され、地区南部の古くから開発された大字小泉とその周辺を中心に三井住宅などの住宅が建ち並ぶが、北部を中心に畑地もまだ多く残っている。
 もとは江戸期より存在した武蔵国足立郡石戸領に属する小泉村、古くは南北朝期より見出せる「こいつみの郷」であった。小泉は古泉とも記された。かつての藤波村の枝郷で下藤波と称された場所に当たり、現在の藤波は上藤波、中分は中藤波と称されていた。その後正保〜元禄年間(1644年〜1704年)小泉村が藤波村より分村したという。
        
              
・所在地 埼玉県上尾市小泉443
              
・ご祭神 素戔嗚尊 大雷命 菅原道真朝臣
              
・社 格 旧藤浪村枝郷古泉村鎮守・旧村社
              
・例祭等 祈年祭 226日 夏祭り 714日 例祭 1015 
                                      秋祭り 1014日  新嘗祭 1122 
 藤波天神氷川八幡合社から南東方向に走る道を1.7㎞程進行すると、「小泉」交差点に達し、そこを左折、埼玉県道323号上尾環状線を東行し、北上尾駅方向に進む。その後「泉台一丁目」交差点を右折し、通称「泉が丘通り」を500m程南下すると、進行方向右手に小泉氷川公園があり、その西側隣に小泉八合神社のこんもりとした社叢林が見えてくる。
 道路を挟んで東側にある小泉氷川山公園の駐車スペースをお借りしてから参拝を開始した。
        
                                   小泉八合神社正面
  地域名「小泉」の地名は「湧水」に基づくものといわれている。『風土記稿』小泉村の項には「御嶽社 社辺に広さ二坪許の池あり、いかなる久旱にも水涸ることなし、旱魃のとき天を祈れば必験ありと云」とあるが、この御嶽社は既になく、跡地は地内の南方に当たり、かつてここから湧き出していた水は地内の田んぼを潤していた。また、『郡村誌』小泉村の項には「水神社(中略)城内に直径三間なる円形の池あり、大旱にも涸るる事なし」とあり、この水神社も合祀により既になく、跡地は地内の東方にあり、かつてここから湧き出していた水も田んぼを潤していた。
 また、この池は藤波天神氷川八幡神社の池とつながっていて、あちらが干上がると、こちらも干上がると言い伝えがある。
        
              入り口付近に設置されている案内板
 小泉八合神社の創建年代等は不詳ながら、寛文年間(一六六一-七三)に藤波村から分村した際に藤浪天神氷川八幡合社の氷川社を分祀したのではないかという。明治40年に大石村の内の小泉・中分・井戸木・中妻・沖之上・弁財・小敷谷・領家の八大字に点在していた三九社(境内社を入れると六四社)を小泉の村社氷川社に合祀し、八合神社と号したという。
        
 社の正面の写真だけでは分かりづらいが、この社の正面鳥居の西側付近は住宅が密集している。しかし、境内に入ると至って静寂な世界が広がる。また参拝中も多くの方々が手を合わせに来ていて、地域の方々の崇敬が篤い社であるのだろう。
 嘗てはその広大な社叢は上尾市指定保存樹林に指定されていた時期があったが、土地区画整理事業により社叢林の多くの樹木は伐採され、道路を挟んで東側にある小泉氷川山公園の緑地がその名残をとどめているとの事だ。
 
 参道左側に並んで祀られている石祠・石碑等   参道右側には「社務所改築記念碑」等あり
        
                    拝 殿
 八合神社  上尾市小泉四四三
 祭神…素戔嗚尊、大雷命、菅原道真朝臣
 当社は、古来「氷川社」と称し、『明細帳』には「往古ハ字宮山ニ鎮座アリシカ慶応三丁卯(一八六七)十一月移転ス、其際当国一ノ宮氷川社ヲ分祭勧請ス」とある。これに見える旧地の字宮山は、現在地の南西五〇〇メートルほどの「宮山」あるいは「元氷川」と呼ばれた所で、三井団地の敷地内に当たり、元は一帯が山林であった
 慶応三年(一八六七)十一月に現在地に遷座移転し、明治六年(一八七三)に村社に列せられた。
 その後、明治四十年に大石村の小泉(こいずみ)・中分(なかぶん)・井戸木(いどぎ)・中妻(なかづま)・沖之上(おきのかみ)・浅間台(あさまだい)・弁財(べんざい)・小敷谷(こしきや)・領家(りょうけ)の八大字に点在していた三九社(境内社を入れると六四社)を小泉の村社氷川社に合祀し、社名を「八合神社」と号して成立した。合祀の中心に小泉の氷川社が選ばれた理由としては、小泉が八大字の中央に位置していたことや、小泉に大石村の役場が置かれていたことが挙げられる。また、社名については、八大字の各社の総代が協議して決したとの話が伝えられている。現在、境内にある幟立ては、合祀の際に小敷谷から移されたものである
 小泉の地は寛文年間(一六六一~七三)に藤波村から分村したといわれ、藤波村の鎮守が天神氷川八幡合社であることから、このうちの「氷川社」を分村の前後に勧請したものと考えられる。 その後現在地に遷座するにあたり、正式に武蔵一宮の大宮氷川神社から分霊を請うたのである。
 鎮座地は「氷川山」と呼ばれ、氏子区内でも一番の高台にある。その社叢(しゃそう)は“鎮守(ちんじゅ)の杜(もり)”と呼ぶにふさわしい景観をなし、社地を含む一体は上尾市指定保存樹林として保護されている。 また、昭和六十一年には「八合神社と周辺林」が『二十一世紀に残したい埼玉の自然一00選』の一つに選定された。
                                      案内板より引用

        
                    本 殿
             朱赤を基調とした玉垣が色鮮やかである。
 小泉地域には、「小泉の祭りばやし」と呼ばれる祭り囃子が、市指定民俗文化財・無形民俗文化財として平成20115日に登録されている。
 小泉の祭りばやしは、神田ばやし系統の1つである小村井流の祭りぱやしで、明治5年ごろ、さいたま市大宮区大成に踊りとはやしを習ったといわれている。
 祭りばやしの編成は、笛1人・小太鼓2人・大太鼓1人・鉦1人の51組で、曲目には、「屋台」「昇殿」「鎌倉」「四丁目」「神田丸」「岡崎」がある。
 上演の機会としては、714日頃の八合神社祇園祭り、816日の観音堂縁日、912日の薬師堂縁日、1014日の八合神社秋祭りがある。
 因みに付属芸能として、おかめ・ひょっとこ踊りもあるようだ。
        
                  社殿からの眺め



参考資料「新編武蔵風土記稿」「上尾市教育委員会HP」「Wikipedia」「境内案内板」等

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藤波天神氷川八幡合社

 上尾市藤波地域は、上尾市北西部の大宮台地上や江川周辺の沖積平野に位置する。 町域の東側を泉台、東側から南側にかけて中分、西側を桶川市川田谷、北側を桶川市上日出谷や上日出谷西と隣接する。町域の西端を江川が南北に流れ、上尾市と桶川市の市境を成している。
 南に隣接する中分地域と並び、市内では最も起伏に富んだ地域のひとつで、江川沿いの沖積平野やその支流の小河川が造り出した多くの開析谷(谷津)が複雑に入り組んでいる。
 全域が市街化調整区域に位置し、全体的には台地上は主に耕作地などの農地が広がる農地的土地利用の比重が高い地域であるが、工場のほか幹線道路に近い北部に藤波団地と称する纏まった住宅地も見られる。また地域の西側の主に水田として利用している江川流域沿いの低地は、かつての荒沢沼で、荒川の遊水地的な湿地帯であったともいう。
 地域内には、縄文時代草創期の遺跡である藤波遺跡があり、また、縄文・弥生期の住居跡遺跡である後山遺跡(県遺跡番号:14-030)もあるとのことで、この地域には古くから人による開発が進められていたと推測できる。
        
             
・所在地 埼玉県上尾市藤波12821
             
・ご祭神 素戔嗚尊 誉田別尊 菅原道真公
             
・社 格 旧藤浪村鎮守・旧村社
             
・例祭等 祈年祭 2月 例大祭  10月第一日曜日 新嘗祭 11

 桶川市・上日出谷氷川神社のすぐ東側に南北に走る道を1.2㎞程南方向に進むと「つくし学園入口」交差点に達し、右折するとすぐ左手に藤波天神氷川八幡合社の正面鳥居が見えてくる。
 但し、駐車スペースは正面周辺にはなく、交差点は一旦直進する。そして緩やかな右カーブとなる道のすぐ先にある路地を右折すると、社及び隣接する「藤波公民館」の敷地内に達し、そこには駐車スペースも十分にある。
        
                藤波天神氷川八幡合社正面
『日本歴史地名大系 』「藤波村」の解説
 領家(りようけ)村の北、江川の低地に延びる大宮台地上にある。北と東は下日出谷村(現桶川市)。村名は藤浪とも記される。天正一三年(一五八五)四月五日の北条氏政印判状写(武州文書)では、藤波与五右衛門に対し調儀に備えて五月五日までに軍装を整備するよう命じられている。同一五年と推定される亥三月一九日の太田氏房印判状写(同文書)では、「藤波山」から岩付城(現岩槻市)修理のための材木が伐り出され、これを受取るための人足が徴発されている。
        
             正面鳥居の右側に設置されている案内板
        
        同じく「藤波のささら獅子舞」「藤波の餅つき踊り」の案内板。
            どちらも上尾市の文化財に指定されている。
        
             一の鳥居から見える朱色の二の鳥居
 藤波地域は台地上に位置し、地形は起伏に富んでいた。古くから高台での麦作り、低地の米作りが生活を支えてきた。しかし、谷間の田んぼは水はけが悪く、昭和時代の土地改良が行われる以前は、膝上まで浸かりながらの籾の直播き農法である摘田(つみだ)を行っていたという。
 藤波全域が市街化調整区域になり、近年新たに建造された住宅地域も見られる一方、耕作地等の田畑風景もしっかりと残されているようだ。
 社の境内は至って静かで、この一の鳥居から見る境内の景色は、
どことなくゆったりとした時を紡いできた嘗ての懐かしい藤波地域の原風景の縮図を見ているような感慨がふと頭を過ったものだ。
        
              「天満宮」と表記された二の鳥居
 天神氷川八幡合社の創建年代は不明であり、別当寺の密厳院も創建年代不詳である。ただ密厳院は、かつては真言宗寺院であり、明応年間(1492 1501年)に臨済宗円覚寺派に転宗して再興されていることから、その頃までには既に存在していたものと推測される。
 嘗ては「氷川天神八幡合社」と称していた。このことから、真言宗時代の密厳院によって、最初に「氷川神社」と「八幡神社」が祀られ、臨済宗時代になって、学問の神として崇敬されていた天満宮を祀ったものといわれている。順番が入れ替わったのは、天満宮の祭神である菅原道真に対する崇敬の念が高まったからだといわれている。
 1873年(明治6年)、近代社格制度に基づく「村社」に列せられたが、1878年(明治11年)の火災で社殿が焼失したが、1880年(明治13年)に再建された。
        
                    拝 殿
   境内の土壌の関係なのか、拝殿周囲にはほとんど草が生えていない。不思議な光景。

 天神氷川八幡合社  上尾市藤波一-二八二-一
 祭神…菅原道真朝臣 素戔嗚尊 誉田別尊(応神天皇)
 当社は、藤波のほぼ中央の南東に低地が広がる台地上に鎮座している。昭和三十五年ごろまでは、その裾から清水が湧きだして「天神様の池」と呼ばれる三〇坪ほどの池を形成していたという。
 創建については不詳であるが『風土記稿』に「氷川天神八幡合社 村の鎮守なり、密厳院持」とある。別当の密厳院は相州鎌倉(神奈川県鎌倉市)の臨済宗円覚寺末で、瑞露山藤波寺と号する。元々は真言宗の寺であったが衰微したため、明応年間(一四九二-一五〇一)に叔悦禅師が、甥である岩槻城主太田資家の招きに応じ、住職となり、禅宗の一派である臨済宗に改宗して再興した。禅宗では、室町期から天神を学問の祖として崇敬していた。このようなことから、まず真言宗密厳院が、見沼を見下ろす高台に鎮座する一宮氷川神社の分霊を、地形が類似した当地に勧請した後に鎌倉の地から鶴岡八幡宮の分霊を併せ祀り、更に改宗後の密厳院が、天神社を併せ祀ったものと思われる。当社を「天神様」と称するのは、密厳院が天神社の神徳を強調した結果であろう。
 当社は明治六年四月村社に列した。同十一年十二月三十一日に火災となり、社殿を消失したが、氏子の寄付により、同十三年九月二十五日に再興した。その後、本殿が雨ざらしになっているのを憂えた氏子一同は、大正六年に本殿の覆屋を新たに建設した。
 年間の祭典は二月の祈年祭、九月の例大祭、十一月の新嘗祭の三回である。そのうち、九月の例大祭には上尾市指定民俗文化財の「ささら獅子舞」が奉納されている。また、元旦には「餅搗き踊り」が行われている。
 境内社に「浅間社」「三峯社」「稲荷社」を祀る。
                                      案内板より引用

        
                    本 殿
上尾市指定無形民俗文化財の「藤波のささら獅子舞」は、例祭の際に奉納される舞の1種であり、古くから続いている行事である。嘗ては925日に奉納されたものであったが、現在は10月の第1日曜日に行われる例祭に奉納されている。また同じく市指定無形民俗文化財である「藤波の餅つき踊り」も社の元旦祭や例祭の前夜祭などで上演されるほか、各種の催し物に呼ばれて上演しているという。

 上尾市指定無形民俗文化財 藤波のささら獅子舞
(保持団体)藤波のささら獅子舞保存会
「藤波のささら獅子舞」は1人が1頭の獅子に扮し3頭の獅子が舞う、三匹獅子舞と呼ばれる風流系民俗芸能である。伝承では、藤波の領主であった牧野氏が寛文七(1667)年に検知した際、村人に獅子舞を奨励したのが始まりといわれている。獅子舞は、毎年、藤波地区の鎮守である天神社の例祭の日である九月二五日に奉納されるものであったが、現在は一〇月の第1日曜日に奉納している。
 舞手の構成は、雌獅子と中獅子、雄獅子の3人と、舞の先導役の宰領(猿岩)の、41組である。舞は笛に合わせ進行し、獅子は舞いながら腰に着けた太鼓を叩き、花笠をかぶった岡崎と呼ばれる役が「ささら」という楽器を演奏する。ささら獅子舞という名称は、ここからきている。
 演目は、「十二切」と呼ばれる一曲形式が基本で、約2時間にもおよぶものだが、同じ動作の繰り返しを省略するなど、現在は十二切の上演は1時間半程度となっている。舞の中盤には歌が入り、後半は「雌獅子隠し」となる。雌獅子隠しは、岡崎の間に入って隠れた雌獅子を、中獅子と雄獅子が探して奪い合うという内容になっている。このほか、十二切の短縮版の八切と四切がある。現在は、祭りの当日の午後に十二切を2回、夜間に八切を1
回奉納している。

 上尾市指定無形民俗文化財 藤波の餅つき踊り
(保持団体)藤波の餅つき踊り保存会
 餅つき踊りは接待餅ともいわれ、本来は祭りや行事で上演することが目的ではなく、主として「おびとき」といわれる現在の七五三のお祝いに呼ばれて披露する民俗芸能であった。「藤波の餅つき踊り」は、江戸時代後期に名主の篠田金右衞門が若者に賭博をやめさせるために習わしたのが始まりと伝わる。
 藤波地区の餅つき踊りは、41組でつくのが基本である。演目は「餅つき」と「曲づき」に大別される。「餅つき」は比較的軽い杵を使い、実際に餅をつきながら踊るもので、演目は立ちボーウチ、座りボーウチ、餅殺し、一本抜き、七五三、早づき、八人づきである。
 なお、立ちボーウチと座りボーウチは、この地域の麦作の作業歌である麦打ち歌であるボーウチ歌に合わせてつく。「餅つき」の基本は餅殺しで、一本抜き、七五三、早づき、八人づきはその変形となる。一方「曲づき」は「餅つき」が終わった後に、さらに細く軽い杵を使って、空の臼の周りで演じるもので、「獅子追い」「寝ず」などの演目がある。高度で複雑な動きをする踊りである。
 現在、七五三のお祝いで上演する機会はなく、藤波地区の鎮守である天神社の元旦祭や例祭の前夜祭などで上演されるほか、各種の催し物に呼ばれて上演している。
                                上記どちらも案内板より引用
 
  本殿後ろに無造作に置かれている石等      同じく本殿奥にある巨木の伐採跡
「力石」らしき物も含まれているように見える。   嘗て社のご神木であったのであろうか。  
        
               社殿の右側に聳え立つ巨木二本
        
               境内に祀られている境内社三基
             左から、稲荷神社・三峰神社・浅間神社
       
                                   社殿からの一風景
          静かな境内。ゆったりとした時間が流れているようだ。 


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「埼玉の神社」「上尾市HP」Wikipedia」
    「境内案内板」等
 

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