古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

新井諏訪神社


        
              
・所在地 埼玉県深谷市新井541
              
・ご祭神 建御名方命
              
・社 格 旧新井村鎮守
              
・例祭等 不明
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2233881,139.3070021,17z?hl=ja&entry=ttu
 沼尻熊野神社から小山川沿いの道路を南下し、備前渠用水を越えた左手にある「新井東部集落センター」の北側隣に新井諏訪神社は鎮座している。
「新井東部集落センター」には適度な駐車スペースあり。
        
                
新井諏訪神社南側の社号標柱
 社号標柱の正面に見えるのは「
新井東部集落センター」で、このY字路の右方向に行った先に新井諏訪神社の鳥居が左側に見えてくる。この角度からは丁度境内は真横を向いている配置。
 周囲は一面に広がる田畑風景の中に民家が数件固まって存在する閑静な地。北方向に伸びる道がY字路となるその扇型に広がる内包部に社がおさまっているような印象で、まるで左右に広がる道路が俗世間と一線を画すような結界にも見えてくるから不思議だ。
        
                 東向きの新井諏訪神社
『日本歴史地名大系』の「新井村」を参考に解説すると、新井村は、小山川が利根川に合流しようとするその下流域右岸に位置し、平均標高は34m程の沖積低地にある。東は蓮沼、西は上敷免(じようしきめん)、北は沼尻・棒沢郡成塚各地域と接している。
『新編武蔵風土記稿』では幡羅郡原ノ郷永井庄深谷領に所属し、東西十五里、南北十里。村の北辺を備前渠用水が東流し、耕作用水として利用していたという。
 また「和名抄」にみえる榛沢郡新居(にいい)郷の遺称地とする説もあり、歴史好きの筆者にとって、なかなか魅力的な地域である。
 この榛沢郡新居郷は、「和名抄」所載の郷。諸本ともに訓を欠いているが、賀美(かみ)郡の新居郷と同じく古訓は「にひゐ」であるという。「大日本史」国郡志と「日本地理志料」は現深谷市の新井を中心とする一帯としている。
       
 鳥居の手前で左側にある看板(写真左)。由来等書かれていたのであろうが、今は解読不明となっている。右側には「諏訪神社」と刻印されている社号標あり(同右)。
      参道左側にある神楽殿             右側には手水舎あり。
 「武蔵国賀美郡新居郷」に関していうと、「和名抄」所載の郷。同書高山寺本・名博本に新居とあるが、東急本・元和古活字本は新田とする。いずれが正しいか決めがたい。この「新居」郷は全国的な名称で、各地域にあるが、どの場所でも訓を欠いている。但し「延喜式」兵部省に伊予国の新居駅について「にひゐ」の古訓を伝えている。新田であれば多摩郡に同名郷があり、「迩布多」(高山寺本)、「尓布多」(東急本)の訓がある。
        
                                         拝  殿
               この社の創建時期、由緒等不明。
 新井諏訪神社から直線距離にして1.4㎞程南の明戸地域にも同名の諏訪神社が鎮座している。この社は元々「字新井」に鎮座していたが、明治四十二年近隣の社を合祀(字聖天木の住吉神社、字田中と字明ヶ塚の二社の稲荷神社、字新屋敷の神明社、字駒帰の市杵島神社、字本郷の大雷神社の六社)し、「字田中東」の八坂神社境内に遷座した。八坂神社はこの際、当社の末社となった。また、同時に社地が狭小であったために、氏子から土地の寄付を受けて拡張を行ったという経緯がある。
 
     拝殿、向拝部・木鼻部の彫刻        拝殿左側面には幾多の奉納札等がある。
                           この地域の信仰の深さであろう。
 筆者は当初この「字新井」は明戸村の小字と解釈していたが、『新編武蔵風土記稿』の小字名にはこのような名はない。一方「深谷市HP ふかやデジタルミュージアム」に紹介されている「大瓦堂明竹(たいがどうめいちく)」の出身地は「幡羅郡明戸村字新井(現在の深谷市新井)」と記載されているところから、この「字新井」は現在の深谷市新井と考えてよさそうである。
        
                                   本殿部を撮影
          本殿の左側には一基の石祠が祀られている。詳細は不明。
           また本殿奥にある「蔵?」は「神興庫」かもしれない。
 因みに1889年(明治22年)41 町村制施行により、蓮沼村、江原村、石塚村、沼尻村、藤ノ木村、堀米村、新井村、明戸村、上増田村、宮ヶ谷戸村が合併し幡羅郡明戸村が成立していて、その後、1896年(明治29年)41 幡羅郡が大里郡、榛沢郡、男衾郡と統合し大里郡となっているので、「幡羅郡明戸村字新井」の名称は、1889年から1896年の間となり、それ以降は「大里郡明戸村字新井」となる。この名称は1955年(昭和30年)11 深谷町、幡羅村、大寄村、藤沢村、明戸村と合併し深谷市を新設するまで続く。
 という事は、明戸諏訪神社の合祀が明治42年にあたるが、その年代はまさに「大里郡明戸村字新井」の頃であったと考えられる。
 
   社殿右側にも多くの境内社や石祠が祀られている(写真左・右)が、どちらも詳細不明。
 
          境内右側奥に鎮座する境内社・稲荷神社(写真左・右)
        
                   社殿からの風景

 総じて考えるに、明戸諏訪神社に関して、大里郡神社誌に「明戸村諏訪社は、慶長十六年、上野国高岡村の人田村外記・亀井宇丹なるもの奉授して、此の地に移住し来たって祠を建てたりと云ふ」とあるが、当初は「字新井」に鎮座していたわけであるので、その創建由来はそのまま「新井諏訪神社」の創建としてスライドできるのではなかろうか。
但しこれに関しては筆者の勝手な解釈であるため、真偽の程は現在全く分からない。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「深谷市HP ふかやデジタルミュージアム」
    「埼玉の神社」Wikipedia」等

                      


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石塚稲荷神社


        
              ・
所在地 埼玉県深谷市石塚658
              ・ご祭神 《主》倉稲魂命
                   《合》大己貴命 豊城入彦命 天照大神 菅原道真
              
・社 格 旧村社
              ・例祭等 祈年祭 4月4日 例祭 11月4日 新嘗祭 12月4日
              *社格・例祭等は『大里郡神社誌』を参照
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2289284,139.3091945,17z?hl=ja&entry=ttu
 高島生品神社から埼玉県道45号本庄妻沼線を東行し、小山川に架かる「新明橋」を越えると、進行方向右側にこんもりとした石塚稲荷神社の社叢林が見えてくる。周囲は見渡す限りの田畑風景が広がる中、国道17号上武バイパスの高架橋が目の前に見えるその下にこの社は静かに佇んでいる。
 実は前に紹介した沼尻熊野神社からも近く、北東方向で、直線距離でも400m程しか離れていない。
 地形上、沼尻熊野神社や石塚稲荷神社は小山川右岸土手周辺に鎮座していて、これらの社が、河川に関係した社であることは一目瞭然だ。
*参拝日 2023年5月9日
        
                  石塚稲荷神社正面
 [現在地名]深谷市石塚
 利根川右岸の自然堤防上にあり、北を小山川、南を備前渠用水が東流する。西は榛沢郡高島村、北は小山川を境に上野国新田郡前小屋村(現群馬県尾島町)。深谷領に所属(風土記稿)。中世には上野国新田庄に含まれており、年未詳の新田庄内岩松方庶子方寺領等注文(正木文書)に「石塚村」とみえ、新田岩松氏の支配が及んでいた。永禄三年(一五六〇)四月、深谷上杉憲賢と上野金山城(現群馬県太田市)城主横瀬成繁は所領争いから幡羅郡石塚郷で激戦を交えている(「新田家御軍記写」石塚稲荷神社文書)
『日本歴史地名大系』
「石塚村」の解説
        
                綺麗に整備されている境内
 社の東側には国道17号上武道路が走っている。筆者は数年前からこの道路を利用して、群馬県のお社に散策することが多いのだが、この地域はすぐ北側が利根川が流れていて、「新上武大橋」という高架橋を上っていくと左側下部にこの社が見えていて、ここ最近に改築され、境内も綺麗になっていた。

 深谷といえば「ねぎ」というのが一般的に知られているところだが、実はレンガに深いゆかりがある町でもある。深谷市・上敷免地域にはかつて、明治20年(1887年)に設立された日本煉瓦製造株式会社のレンガ工場があった。ここは日本で最初の機械式レンガ工場で、郷土の偉人渋沢栄一翁らにより設立され、明治から大正にかけて、東京駅をはじめとする多くの近代建築物がここで生産されたレンガを使って造られた。 現在は、日本の近代化に大きく貢献したレンガ工場の一部が国指定重要文化財として保存され、今後一般公開して「レンガのまち深谷」をアピールできるよう、保存修理工事を行っているところである。 このように深谷とレンガは歴史的に深い関係を持つことから、「渋沢栄一翁の顕彰とレンガを活かしたまちづくり」を推進し、深谷駅など市の代表的な施設は必ずレンガ調にすることで、新しい施設づくりを通じ、レンガの色彩、温もり、美しさが訪れている人や住んでいる人に感動を与えるようなまちづくりを進めるとともに、JR深谷駅北側の一部エリアにおいては、市民が建築物や外構工事にレンガやレンガ調タイルを使用した場合、その規模に応じて補助金を交付する制度を設けているようだ。

 この社の境内全体には、「レンガチップ」の思われるチップが全体に敷き詰められていて、周囲の田畑風景からも一線を画し、遠目から見ても不思議な世界が広がっている。
        
                     拝 殿
           創建・由来等不明。建武元年(1334)以前ともいう。
 石塚稲荷神社付近の小字は「住殿(じゅうどの)」という。この地域は、丁度南西方向から北東方向に小山川が利根川に合流しようとする地点であるが。昭和初期の河川改修によって、旧妻沼町まで利根川に並うように流れを変えてしまった場所である。嘗て小山川はこの付近で利根川へ合流していて、この付近の利根川は扇状地河川の特徴が顕著であり、河床には島状の中洲が数多く形成されていたようだ。
 嘗ての利根川の流路形態は今よりも網状流であり、乱流して流路変動が激しかったので、古来から上野国(群馬県)との間で国境争いが頻発した地であったようで、この昭和初期の河川改修には、流路を安定させ、周辺住民の方々の生活を安心させる意味合いが大きかったのではなかろうか。(きまぐれ旅写真館HPを参考とさせていただいた
「〇殿」との名称は、埼玉県内に特に多く、概ね埼玉県の全域に分布している。特に荒川水系に所在する市町村、熊谷・坂戸市周辺が多い。
熊谷デジタルミュージアム」にもこの地名に関する記述がされていて、それらの解説を総合して解釈すると、水に関係した地名として説明されているようだ。また河川に近い場所に鎮座する社は、生産神として水を司ったり、川の氾濫を鎮める神(女神)、あるいは舟運の安全祈願として祀られているのだろう。
        
                           拝殿左側にある「社殿改築之碑」
            その手前に祀られている石祠二基の詳細は不明。
 社殿改築之碑
 住殿の社に神鎮まります稲荷神社は石塚郷人の鎮守神として世情如何に変われども我民族の道統たる敬神崇祖・神人和合の祭事は綿々と受け継がれて来た。明治の年に郷内の社を此の地に合祀して以来百余年の星霜を経過した本殿覆殿拝殿など積年の風雨により損傷甚だしく之が修理について憂慮するところであった。平成十一年四月二十五日に稲荷神社々殿改築整備奉賛会を発起し浄財の勧募を開始することとなり氏子崇敬者より多大な奉賛を拝受し平成十七年八月九日起工・平成十八年二月竣工することが出来た。茲に長期にわたる奉賛会役員の努力と関係各位の赤誠の結晶に深く敬意を表し又地区の弥栄を祈念するとともに荘厳秀麗な社殿の完成を祝し改築の記念とする
 平成十八年二月吉日  稲荷神社宮司江守義好撰並書
        
                      社殿改築之碑の左手前にある「天神宮」の石碑
        
                               社殿からの風景
            参道の先には国道17号上部バイパスが見える。


*追伸
『大里郡神社誌』には石塚稲荷神社の由緒等が載せており、原文をそのまま掲載する。
 一・神社名
 舊住殿稻荷明神の稱ありしが明治維新稻荷神社と改む
 永祿三年四月上野國金山桐生の兩城主由良刑部大輔源成繁武州深谷城主上杉憲政と領境爭奪の戦を交ふるに當りて成繁及び其主將大胡城主増田伊勢守繁政先陣して當社の森を陣營に充て戦大に利ありしといふ後世住殿稻荷の稱是より起るといはる社地の後方数丁を隔てゝ殿塚と稱する地あり一名五輪畑とも稱へ今に里人の異敬措かざる所にして面積凡そ六畝歩程を存す殿塚の沿革詳かならざねど當時の戦歿者を供養せる遺跡なりといへる口碑も存せり
 一・社格
 明治九年五月村社申立濟、明治四十三年五月二十三日神饌幣帛供進神社に指定せらる
 一・神體
 古く金幣を奉安せりと云はれじも今神鏡を納む
 一・現行祭日
 例祭十一月四日、祈年祭四月四日、新嘗祭十二月四日、祭祀令に定める中祭及び恒例式



参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「熊谷デジタルミュージアム」
    「きまぐれ旅写真館HP」「境内碑」等
 

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沼尻熊野神社


        
               
・所在地 埼玉県深谷市沼尻160
               
・ご祭神 伊邪那美命 速玉男命 事解男命(推定)
               
・社 格 旧沼尻村鎮守 旧村社
               
・例祭等 不明
  地図 
https://www.google.co.jp/maps/@36.2288212,139.304723,16z?hl=ja&entry=ttu
 上増田諏訪山神社を東行して一旦17号上武バイパスとの交点を左折し、進路を北西方向にとる。2㎞程進んだ先の「石塚」交差点を左折、その後すぐ先に見える路地を右折し、暫く道なりに進むと沼尻熊野神社が正面に見えてくる。
 社の背後には小山川の土手が見え、その土手沿いには、春先に見られる菜の花が一面に咲き誇っていた。参拝当日の天候は晴れであったが、風は強く、肌寒く感じたが、やはり目の前に広がる菜の花の風景には心癒され、春の到来を身近に感じるものであった。
        
                  沼尻熊野神社正面
              
            正面鳥居からは左側で離れた所にある社号標柱
 深谷市沼尻地域は、利根川右岸の自然堤防上に位置し、東西十丁・南北七丁程の変形的な台形を成している。因みに「丁」は長さの単位で、一丁はおよそ108m。現在の距離単位では、東西1080m程・南北760m程で、現在の行政単位でもそれほど変わらない。
 南西から北東に流れる小山川が西境で、小山川対岸は新戒・高島地域。南側は東西に流れる「備前渠用水」が南境となり、東側から北側は蓮沼・石塚両地域がその境となっており、平均標高は
32m34m程の沖積低地帯である。集落は利根川右岸の自然堤防上である地域北部にあり、その最西部に沼尻熊野神社は鎮座している。
        
                    境内の様子
『新編武蔵風土記稿 蓮沼村条』において、「古は江原堀米二村の地も当村の内にて、既に名主伊左衛門の家に蔵する天正七年の水帳によりても、其頃三村すべて蓮沼村なりしこと知らる。今の如く三分せしは慶長七年検地の時なり」とあり、嘗てこの沼尻・堀米の2地域は「蓮沼」地域と一緒であり、その後慶長七年の検地時に3つの村に分かれたという。
        
                    拝 殿
 この社に関して、創建や由来を記した案内板や石碑等もなく、筆者が調べた限りにおいて、直接的な資料等も極端に少なかった。その少ない資料に中、「神社人」のサイトにこのような内容が記載されていたので紹介する。
 天慶3年(940年)に、藤原秀郷が、平将門追討のため、東国へ遠征した際、当地の祠前で、戦勝祈願をしたところ、無事、目的を達することが出来たのたので、その謝意として、再度当地に訪れ、三社の小祠を建てて祀ったことに始まるといわれ、現在も本殿北側に残っているという。

 ところで、沼尻熊野神社の北西方向には「高島生品神社」が鎮座している。小山川の対岸にあり直線距離にして500mくらいしか離れていない。この社のご祭神は考素戔嗚尊であるが、『新編武蔵風土記稿 高島村条』には奇妙な一文もあるのでここに紹介する。
『新編武蔵風土記稿 高島村条』
 生品明神社
 村の鎭守にて村民持、當社は平將門の子を祀ると傳ふれど、來由詳ならす、【太平記】に幾品明神の前に旗を上げ、小角の渡云々とあるは、當所のことなるにや、又小角は當村及中瀨村の小名にもあり、
 高島生品神社は「平將門の子を祀ると傳ふ」と記されている。近郊の沼尻熊野神社はその平將門を討伐した藤原秀郷が戦勝を祈願した場所であるにも関わらず、その目と鼻の先にこのような社があるのはどうしてだろうか。

   社殿左手にある境内社・詳細不明。       社殿手前で右側にある社務所
     
                      深谷市指定保存樹木15号のイチョウ(写真左・右)

   社殿の右横に祀られている石祠三基       石祠三社の隣にも境内社が鎮座
        
                                    境内の一風景

 平安時代末期に活躍した斎藤実盛は、藤原利仁の流れを汲む越前斎藤氏の出で、出身地こそ越前国だが、武蔵国幡羅郡長井庄(埼玉県熊谷市)を本拠とし、長井別当と呼ばれている。
 源氏の家人として為義に仕え,保元・平治の乱では義朝軍に加わった。のち平家に属し,平家領である長井荘の荘官となったようで、治承3年(1179)には、妻沼聖天山を開いたとされる。富士川の戦(1180)では東国の案内者として平氏軍に加わって東下したといわれる。1183年源義仲追討のため北陸に下ったが,加賀篠原で手塚光盛に討たれた。享年50余歳とも60余歳とも,また70余歳ともいう。
斎藤別当実盛伝(奈良原春作著)に「斎藤館は、妻沼町の大我井の地・白髪神社の東方にありて、実盛の祖父実遠が着任し館を築き、実遠入所以前からあった酒巻氏の館であったので、酒巻氏を家司とした。実遠の長井庄着任以前の土地開拓者に十八人衆あり、その子孫は保元の乱後、同元年秋に実盛が長井庄館に帰還祝を屋敷母屋の座敷にて陣どる面々は、実盛を上座に、その左右に酒巻左源太・右源次の兄弟、十八人衆といわれる西岡喜内、高城宗近、飯塚平太、八木蔵人、江袋武平、沼尻五郎、江原太郎、蓮沼久吾、堀米八郎、大塚豊人、新井久馬、石塚左内、本郷三郎、谷口十四郎、江波善九郎、神根喜兵衛、藤木左近、寺窪次郎、郎等の宮内権六、長瀬新八、西浦喜十郎、西条新五、宮前太兵衛、以上二十六人。庭にむしろを敷いて邸内に住む家八、下人十三、以上二十一人である」と記載されている。
 この十八人衆といわれる家臣団の中に「沼尻五郎」が登場するが、近隣の地域名を冠した武士名(江原・蓮沼・堀米・大塚・新井・石塚)もあり、沼尻地域出身の武士である可能性は高い。
 このような資料を個人の力で探すのも結構時間と根気がいる作業だ。
        
                      社の後方で、小山川土手に広がる菜の花の風景
                         春の到来を告げる、心癒される風景だ。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「改訂新版 世界大百科事典」
    「熊谷デジタルミュージアム」「斎藤別当実盛伝(奈良原春作著)」「Wikipedia」等
  

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上増田諏訪山神社

「増田(ますだ)」地名由来
1 田んぼがふえるという悦ばしい表現、つまり‘田’が‘増’すので増田。〔埼玉県地名誌〕
2 田んぼの形が四角形で、まるで四角い桝を並べたようだったので、そこから“マスダ”→増田となった。〔日本の地名・埼玉県地名誌〕
3“増田”は“沙(ます)田”のことで、マスナダの省呼であると解釈している。このように解釈すると「武蔵国郡村誌」が上増田村の条で、土質を「色赤黒、あるいは青白砂石を混有し・・・(略)」と記してあるのに合致する。〔埼玉県地名誌〕
『熊谷Web博物館』より引用

        
              
・所在地 埼玉県深谷市上増田260
              
・ご祭神 建御名方命(推定)
              
・社 格 旧上増田村鎮守 旧指定村社
              
・例祭等 例祭 1015
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.2111557,139.3248885,17z?hl=ja&entry=ttu
 宮ヶ谷戸住吉神社から一旦東行して埼玉県道263号弁財深谷線に合流後、そこを左折し、国道17号深谷バイパス「上増田」交差点を更に直進、コンビニエンスがある手前を右折し、250m程過ぎた十字路を再度左折してから暫く北上すると、進行方向左手に上増田諏訪山神社の社叢と鳥居が見えてくる。
 社の西側には「増東自治会館」と接しており、そこの駐車スペースを利用してから参拝を開始する。宮ヶ谷戸住吉神社の開放感ある境内とは違った、如何にも社叢林が境内を覆う社らしい趣ある風景が一帯を漂わせている。
        
                                  
上増田諏訪山神社正面
『日本歴史地名大系』 「上増田村」の解説
[現在地名]深谷市上増田
小山川と丈方(じようほう)川(福川)に挟まれた沖積低地に位置し、西は明戸村、南は宮ヶ谷戸村。領名は未詳(風土記稿)。慶長三年(一五九八)九月の円蔵坊霞郷付書立(黒田家文書)に「ますた」とみえる。なお文明年間(一四六九―八七)頃に増田四郎重富が当地を拠点として深谷上杉氏に対し抵抗したといわれ、地内諏訪山辺りが増田氏館跡とされ、現在も土塁・堀の一部が残る。
        
                                   木製の二の鳥居
 社の正面一の鳥居は東向きであり、そこから暫く参道を進むが、途中で右方向のⅬ字となり、直角に曲がる。南向きの二の鳥居がそこにあり、そこからは真っ直ぐ先に拝殿が見えてくる。街中に鎮座する社で時に見かける配置で、決して珍しくはない。
        
                                    拝 殿
                  創建、由緒等不明。
『新編武蔵風土記稿』
 諏訪社 鎮守なり、本地十一面観音を置、永楽寺持、
 永楽寺 古義真言宗、増田山観音院と号す、本尊阿弥陀、蓮沼村総持寺末にて、
     寛永十九年起立と傳ふ
『大里郡神社誌』
「上増田村諏訪山神社獅子頭の神事の起りは、人皇百五代後柏原院・永正飢饉に疫病流行す時に、虚空より獅子頭一つ降りしだれり。神職常政長富・七頭を作り正月十五日より十七日迄八つの獅子頭を舞し、疫神を切払ふ。戦国時代、増田の城主増田四郎重富というものあり、後重富は作戦上居を比企郡に移し治績大に見るべきものあり。今高見村に重富神社として祀られ、文殊も野原村に在り。重富・在村当時には今の野原文殊も上増田村諏訪神社に合祀せられしものの如し。現今も氏子中に重富の子孫ありとて、重富神社並文殊様より屡々招待せらるることあり。古城跡は本村の西北に在り」
       
             拝殿左側奥に聳え立つ巨木(写真左・右)
         指定番号大16号・深谷市保護樹林・樹種 ケヤキ(ニレ科)
               指定年月日 平成2年10月20日
 
     拝殿左側に境内社。詳細不明。      拝殿右側奥にも合祀社あるが、詳細不明。
        
                  拝殿右側手前には、土地譲与許可書を記した石碑がある。
             指令第九四〇號 譲與許可証 諏訪山神社
                                     (上段は以下略)
                           當社由緒詳細は埼玉縣神社誌参照あれ
                         神域は明治五年村社申立と同時に上地〇て
                         以來官有地として保護され 後に指定村社
                         となり國家宗祀〇して 永年に亘れり
                         昭和廿二年國有財産法改革あり境内地並に
                         立木の譲與處分を認めらる依て當社は法定
                         手續を以て無償譲與の申請をなしたる
                         上記の通り許可せられたり
                         終戦後神社法令改訂により 國家行政より
                         離れて宗教法人として自由信仰の封家とな
                         りたるも 氏子の奉賛愈々固く
                         神威灼熱 その尊厳を護持し得たるは氏子
                         一同感激する所なり  茲に久遠の傳統と
                         光輝ある鎭守の神徳を仰ぎつく概要を記す
                          昭和廿六年十月十五日
                                     當社氏子
                                       淺見兵左衛門選書
   *この譲與許可証に「指定村社」の記載があり、社格蘭に関して参照させて頂いた。
       
            諏訪神社・白山神社合祀記念碑   記念碑周辺には深い社叢林が覆う。
   「諏訪山神社」という名称は、諏訪神社・白山神社合祀でつけられたものであろうか。
        
                           自治会館側にある「遙拝所」

 ところで、室町時代、古河公方足利成氏父子に仕えた増田四郎重富なる人物がいた。この人物の出身地は当地「上増田」といわれていて、この地域には「増田館」があったらしい。室町時代中期、この関東一円で起こった「享徳の乱」でも、古河公方側として敵対する室町幕府・足利将軍家と結んだ山内上杉家・扇谷上杉家と交戦を続けた。
『新編武蔵風土記稿 上増田村条』
「古城跡、堀形土居のみ残りて、百姓の屋敷となれり。東西九十四間、南北六十九間許の地なり。増田四郎重富と云ふもの住せり」

 長年の戦いの結果、関東地方は大まかに当時江戸湾に向かって流れていた利根川を境界に東側を古河公方(足利成氏)陣営が、西側を関東管領(上杉氏)陣営が支配する事となり、関東地方は事実上東西に分断される事になるのだが、部分的には両陣営には「飛び地」が幾つか発生する。この「上増田」地域もその一つで、山内上杉氏に属する深谷上杉氏と正面から対立し、最終的には増田四郎重富は敗れ、文明10年(1478年)に比企郡高見城(四津山城 現在の小川町)を築いてその拠点を移し、尚も反抗を続けていた。
        
                              拝殿からの一風景

 重富は江南地方も勢力圏としていたようで、文明15年(1483)消失した男衾郡野原村(江南町)曹洞宗寺院の文殊寺を再興、大愚山文殊寺と改号している。因みにこの武州野原の文殊寺は、丹後の切戸・米沢の亀岡と共に「日本三体文殊」として有名でもある。
 没年は、長享元年(1487年)文殊寺で没したという説と、翌年長享2年(1488年)11月の高見原合戦が行われた際に、古河公方足利政氏の家臣として四津山城を守護していたが、山内上杉顕定側に攻略され落城し自刃したともいう。波乱万丈な人生と言って良い人物だ。
        
          社の西側路地上にポツンとある「
増田氏館跡」の案内板
     今はその遺構すらほとんど残っておらず、寂れた案内板があるのみである。
 増田氏館跡
 増田氏館は室町時代の豪族、増田四郎重富の館跡といわれ、市の史跡に指定されている。
 資料によると増田四郎重富は、扇谷上杉氏に攻められ、この地を捨てて比企郡高見町(小川町) 四ツ山城に移った。文明十五年(一四八三)消失した男衾郡野原村(江南町)文殊寺を再興し、長享元年(一四八七)二月三日没した。
 法名は傑山英公居士と称し、同寺内に墓がある。
 今でも雑木林の下に昔のおもかげを語るごとく土塁が歴然と残っているが、北側の堀跡は区画整理で道路となった。
 なお明治四十三年の大洪水でも館の屋敷内には浸水しなかったそうである。
 平成六年一月 深谷上杉顕彰会(第二十六号)
                                    現地案内板より引用


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「大里郡神社誌」「熊谷Web博物館」
    「Wikipedia」「現地案内板・石碑文」等

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宮ヶ谷戸住吉神社


        
             
・所在地 埼玉県深谷市宮ヶ谷戸181
             
・ご祭神 底筒之男命 中筒之男命 上筒之男命(推定)
             
・社 格 旧宮ヶ谷戸村鎮守 旧聖天社
             
・例祭等 例祭 1017
  地図 
https://www.google.co.jp/maps/@36.2081772,139.3193361,17z?hl=ja&entry=ttu
 国道17号深谷バイパスを西行し、「諏訪新田」交差点を左折、400m程先にある丁字路を再度左折して道なりに暫く進むと、宮ヶ谷戸住吉神社が右手に見えてくる。
 この社には道路沿いに参拝者専用駐車場も完備されており、参拝する際には大変ありがたい。
        
                                
宮ヶ谷戸住吉神社正面
 深谷市宮ケ谷戸地域は、市北部・明戸地区南側に位置し、北側に17号深谷バイパス、東側に弁財深谷線、南側には新しく深谷北通り線が開通(平成312月)し、JR高崎線籠原駅(熊谷市)へのアクセスが容易になった。
 同地区は、地域の4分の1が農家で主に深谷ねぎを栽培・出荷している。また、土地改良の整備もされていて、小麦や稲作も盛んでのどかな田園風景に囲まれている場所でもある。
        
                                
宮ヶ谷戸住吉神社正面鳥居
『日本歴史地名大系』 「宮ヶ谷戸村」の解説
 [現在地名]深谷市宮ヶ谷戸
 宮谷戸とも記す。丈方川(福川)左岸の沖積低地に位置し、西は明戸村。深谷領に所属(風土記稿)。田園簿によると田方九石余・畑方一〇五石余、旗本山本領で幕末に至る。「風土記稿」によると家数三〇、用水は備前渠用水を矢島堰より
取水。

「〇ヶ谷戸」の地名は、埼玉県内の平野部に意外と多い。事実、
宮ヶ谷戸地域近郊には「本田ヶ谷戸」地域もある。「谷戸」については、川島町の「牛ヶ谷戸諏訪社」で説明し、「地形を確認すると、都幾川・越辺川・市野川・荒川の四河川によって作られた低平な沖積地域に属するこの牛ヶ谷戸地域は、水害に悩まされることも多かったが、水田を作るには適していた。現代を生きる我々の常識では、「谷(や・やつ)」の概念が強く響いてしまい、山間にはさまれた狭い谷(たに)間と単純に考えてしまうが、本来の意味は、居住にも耕作にも便利のところ、即ち人は一方の岡の麓に住み、間近く、田にもなり要害にもなるような水湿の地を控えた理想的な場所であり、人々はこの地に「谷」と名づけたのではなかろうか」と考察した。
 門題なのは、谷戸の名には、殆んど「ヶ」をつけて、「〇ヶ谷戸(ガイト)」と読んでいることである。丁度『嵐山町Web博物館』でもこの地名の由来に関して興味深い考察があり、以下の解説をしている。
『垣内(ガイト)というのは屋敷のある一定の区画の場所を指して呼ぶ言葉である。これは、始めある有力者の占有区域を意味し、その区域内には被保護者も住んで耕作をしいるというような大規模のものであったらしい。然し後にはこれが小区画の地名にもしばしば用いられるようになった。それと共に、元の「カイト」の意味も、段々に曖昧になったし、呼び方も一番古いのは「カキツ」で、それから「カイツ」「カイト」となり、更に変化して地方により「カイチ」「カクチ」「カイド」というようになった。それで漢字にあてれば、貝戸、海道、皆渡、開土、外戸などとなっているのであるという。私たちのカイドもこれに当るものである。カイドは垣内で屋敷の意味である』
カイドは屋敷であるとすると、次は「何々ガ谷戸」との関連である。私たちは、前述のように「谷戸」は地形の名であるとしたが、実はこの「何々ガ谷戸」の中には「何々ガイト」というべきものもあると考えるのである。つまり屋敷の名も「何々ガ谷戸」の中にあるということになる。例えば前にあげた殿ヶ谷戸・御所ヶ谷戸・宮ヶ谷戸・堂ヶ谷戸というような類は一般常民から仰ぎ尊ばれるような立場にある人物や、神仏などの、住居し祀られた場所だろうということは誰でも考えつく。とすればこれは「トノガイト」であり「ミヤガイト」である。何々ガ谷戸の中にはこういう意味で呼ばれたものもあったにちがいないと考えられる。そして前述のように「谷戸」は居住にも耕作にもまことに都合よい優れた土地であるから、このすぐれたよい土地を先ず有力者や神仏が占拠するのは当然で、谷戸と垣内は切っても切れない間柄のものであるといってもよい。谷戸というよい土地であるがために、垣内が成立したのである。谷戸は垣内の土地基盤であった。そしてこの関係が両者の区別を混然とさせて、両方とも同じく「何々ガ谷戸」と呼ぶようになったのだと判断するのである』
 興味ある考察である。
全てがこのような理由でこの地名がついたと断定することは危険であるが、地名の語源は、最初人々がそこに住み着いた際に、そこの地域を分かりやすく説明するために、最初は簡単な「音」で表現し、その後日本語としての「語」の組み合わせで造作したものであることは確かであろうから、地域によっては同じ地名、又は一部同じ地名があってもおかしくはない。
        
              開放感があり、広そうに見える境内
 宮ヶ谷戸地域の住吉神社のある辺りが、嘗て「宮ヶ谷戸館」の跡であるという。居住者不明の館跡。小字に「堀の内」があり、この社周辺ともいい、その遺構地の名残りともいえる。しかし遺構があるのかどうか、よく分からなかった。
        
                     拝 殿
 福川左岸の沖積低地の自然堤防上に位置する社。ただ、嘗てこの社近郊に利根川が流れていて、舟の安全を祈願して祀られた神社のようだ。一時期「聖天社」「聖天様」と呼ばれ時期もあったそうだが、明治維新後、旧称に復帰したという。
『新編武蔵風土記稿 宮ヶ谷戸条』
 聖天社 村の鎮守、無量寺持、
 無量寺 古義真言宗、蓮沼村総持寺末、紫雲山普門院と号す、本尊阿弥陀を安ず、
     
          境内には松尾芭蕉の句碑が2基ある(写真左・右)。
             〇文化十年(1813)二月建立(写真左)
              能見れは 薺はなさく 垣根かな
    孝子中化建之とあり、中化という俳人が、親の追善供養のために建てたもの。
              〇昭和十三年(1938)秋建立(同右)
              秋の野や 草の中行く 風のおと
      秋香謹書とあり、地元の俳句の会である幡明会の6名が建てたという。
        
           静かな境内でのひと時を穏やかに過ごさせて頂いた。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「
日本歴史地名大系」「深谷市自治会連合会HP 宮ケ谷戸自治会」
    「嵐山町Web博物館」等
           
       

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