小平石神神社
いわゆる神道に属する多くの日本国内の神社も、元々はこのような神域や、常世(とこよ)と現世(うつしよ)の端境と考えら、神籬や磐座のある場所に建立されたものがほとんどで、境内に神体としての神木や霊石なども見ることができる。そして古神道そのままに、奈良県の三輪山を信仰する大神神社のように山そのものが御神体、神霊の依り代とされる神社は今日でも各地に見られる。
中には本殿や拝殿さえ存在しない神社もあり、森林やその丘を神体としているものなどがあり、日本の自然崇拝・精霊崇拝でもある古神道を今に伝えている。
本庄市旧児玉町小平地区に鎮座する石神神社は、まさに山林の中の「森」に鎮座する社。残暑が残る10月中旬に訪れたが、境内に入った瞬間ひんやりとした涼しさを体一杯に感じた。
昨今人口増加傾向にようやく歯止めがかかった埼玉県ではあるが、多くの自治体が今までの行政指導による宅地造成政策や、海外投資家による土地買い占め等により、多くの貴重な自然を損失する中、この小平地域周辺にはまだ自然と共生する文化が残っている。神川町に鎮座する金鑚神社同様に、規模は小さいながらも、この社にも社一帯から溢れ出す、どこか神秘的で、威厳のある空間は、まさに別次元だ。先人たちが長い年月をかけて作り上げ、それを子孫が継承し、現在に至るまで熟成させたような、その地域周辺に醸し出す文化の「濃さ」をつくづくと感じ、自然と参拝も厳かな気持ちになった。
・所在地 埼玉県本庄市児玉町小平1
・ご祭神 石神大明神(せきじんだいみょうじん)
・社 格 旧村社
・例 祭 祈年祭 3月3日 例大祭 10月17日 新嘗祭 11月23日
小平石神神社は本庄市児玉町小平地区東側の山麓中にあり、まさに静かな山林の中の鎮守の森と言う印象。南児玉カントリ-クラブの西側小平地区の奥、小山川支流小平川の上流域付近にひっそりと鎮座する。
埼玉県本庄市児玉町から県道287号線を南下し、小平川にかかる秋平橋を渡って暫く進むと、「左 総合運動公園 ふるさとの森公園 観光農業センター」の案内板があるY字路を左折する。1㎞程進み、T字路にぶつかるのでそこを右折すると、山間の細い道路となるが、そこを道造に直進すると、右側に小平石神神社の鎮座する場所に到着する。
正面鳥居の先には、駐車できる空間があり、そこの一角に停めてから参拝を行う。
石神神社 社号標柱
当社の住所確認をすると、「本庄市児玉町小平1」。
小平地区の中心にこの社は位置するのだろう。
小平石神神社 鳥居正面
この周辺一帯に広がる空気感。何かが違うものを感じる。
参道風景 参道を進むと左側にある神楽殿
この小平石神神社では、秋の祭典の行事として小平獅子舞(市指定無形民俗文化財)が奉納される。
日光東照宮完成後、元禄 12 年(1699)に皆野町に伝わった獅子頭は彫刻の名人としてその名を知られる左甚五郎が彫ったという言い伝えのあるものを成身院覚桑上人が譲り受け小平に持ち帰ったとされている。
獅子舞については、成身院の寺男が舞や笛の仕方などを考え、村の衆に習わせたことが始まりだと言われている。また皆野町椋神社の獅子舞から伝わったものだとも言い、疫病の厄払いと雨乞い祈願で舞われる。現在は春と秋の祭典の行事として春は日本神社に、秋は石神神社に奉納されるそうだ。
また石神神社に奉納される神楽は「金鑽神楽」と言われ、児玉郡神川町二ノ宮にある金鑚神社を核として埼玉県北部に形成された13組の神楽組による神楽の総称であり、本庄市域では、金鑚神楽の「5組の神楽」が本庄市無形民俗文化財に指定されている。
5組の神楽」は、本庄組(諏訪町)、宮崎組(牧西・モクサイ)、杉田組(四方田・シホウデン)、根岸組(小平・コダイラ)、太駄組(太駄・オオダ)がある。
その中で根岸組は、明治初年に石神神社の社掌根岸虎平が大里郡用土村より神楽面と装束等を譲り受けて始まり、後に金鑚神楽に属したという。
拝 殿
拝殿各所の彫刻は見ごたえあり 拝殿上部に掲げてある扁額
本 殿
拝殿左手前に掲示されている案内板
石神(いしじん)神社 御由緒 本庄市児玉町小平一
□御縁起(歴史)
口碑によれば、小平の開発は天正のころ(一五七三-九二)に越後国から来住した根岸家三軒により行われ、この三軒は兄弟で、長男の家が後に名主職を務めたという。
当社は小平の鎮守とされ、野鳥の森として知られる静かな山林の一角に祀られている。その創建には草分けの根岸家のかかわりが考えられるが、明らかでない。『明細帳』には「天正十九年(一五九一)社地ヲ開キ慶長元年(一五九六)九月二十九日創立」とあり、『児玉郡誌』には「天正十九年里人当地を開拓し、同時に社殿を建設して二柱大神を勧請せりと云ふ、御内陣に大なる石器二基を安置し(中略)其後地頭安藤家の崇敬厚く、神田若千を寄附せり。神階は明和五年(一七六八)に正一位を授けられ、神霊を御内陣に奉安す」とある。現在本殿には、石捧三体(全長八二センチメートル・九二センチメートル・一一〇センチメートル)と明和五年に神祇管領吉田兼雄より受けた「石神大明神幣帛」が奉安される。
『風土記稿』小平村の項には「石神社二宇 共に村の鎮守にて村民持」と二社の石神社が記され、この内の一社が当社であり、明治五年に村社となった。もう一社の石神社は無格社とされ、明治七年に神武神社(現日本神社)に合祀された。江戶期の祭祀状況については明らかでないが、明治期の祀職は吉野萬次が務め、その後を旧名主家で戶長を務めた根岸周平が継ぎ、更に根岸虎平-根岸俊雄と襲っている。
□御祭神と御神徳 石神大明神…国土守護・五穀豊穣(以下略)
案内板より引用
社殿の左側に並ぶ境内合祀社
左より雷電神社・山神神社・愛宕神社・東照宮・琴平宮・天手長男命・稲荷神社・八幡神社
社殿と合祀社の間に聳え立つ杉のご神木
社殿右側にもケヤキのご神木があり、文化財指定の標柱が立っている。
本庄市指定文化財 石神神社のケヤキとスギ
石神神社は慶長元年(1596年)創立と伝える古社であり。社殿の右側のケヤキは目通しで5mあり、御神木とされている。また、社殿左側のスギは目通し4,6mを測り、ともに近隣では希な巨木である。
説明文より引用
ケヤキのご神木の右側に鎮座する境内社・天満宮
境内を撮影
境内周辺に広がるこの威厳ある空気感は、もしかしたら社殿の両サイドに聳え立つご神木が与えたものかもしれない。但しこの感覚は決して筆者にとって、むしろ心地よい。
私たちの祖先がずっと大切に守ってきた鎮守の森は、日本人の自然観と文化、豊かな日本の『こころ』を育んできた。また、鎮守の森で行われてきたお祭りは、地域の人々の心を纏め、コミュニティーの中核を担ってきたといえる。
日本列島に遠く先史古代から祭られてきた神々の佇まいは、ほぼ等しく緑ゆたかな森に覆われていた。いわゆる神社は「鎮守の森」と言われているが、日本各地には人里近くに神社や御神木と呼ばれる大きな木を囲むようにして、こんもりとした大小の森が多く存在していた。また森そのものが鬱蒼とした畏敬の念を抱かせるもので、その存在自体信仰の対象でもあったろう。
参考資料 「本庄市HP」「本庄市の地名② 児玉地域編」「Wikipedia」等