古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

二ノ宮伊勢大神社


        
             
・所在地 埼玉県児玉郡神川町二ノ宮5-2
             
・ご祭神 天照大神、豊受姫命
             
・社 格 不明
             
・例 祭 新年祭 116日 祈年祭 416日 例祭 1019
                  
新嘗祭 1129日

 二ノ宮伊勢大神社は神川町二ノ宮地区に鎮座する。
二ノ宮地区は神川町大字二宮所在の延喜式内社である金鑚神社付近を水源とする金鑚川に沿って形成された地区で、自然豊かな地域である。
 
金鑚川は、平成3年度から町による公園事業と県の砂防事業を一体として整備が開始され、平成5年度からは県内初の『ふるさと砂防事業』として神川町により整備された河川である。自然石を用いた護岸や、水に親しめるような緩傾斜護岸など、自然環境と公園機能の調和が図られている。周辺は県立上武自然公園の範囲内にあり、金鑚神社、国の天然記念物である「鏡岩」など豊かな自然環境と歴史的文化を有する地域となっている。
 
二ノ宮伊勢大神社は金鑚神社から北東方向1㎞程の丘陵地の一角にひっそりと鎮座している。
 
  二ノ宮伊勢大神社への途中までの経路は宮内若宮神社を参照。宮内若宮神社は児玉三十三霊番「光福寺」の看板のある十字路を左折するが、二ノ宮伊勢大神社に行くためには国道462号線をそのまま西行し、2番目の変則的な十字路を右斜め方向に進む。700m程進み、金鑚川を越えて2番目のT字路手前の左側角地に二ノ宮伊勢大神社の目立たない小さな社号柱が立っている(写真左)。駐車スペース等はなく、社号柱左側にある参道に車を置くことも考えたが、参拝に対して一定のルール設定をしている筆者にとって、社号柱先の神聖な場所である参道に対して汚す行為は出来ないので、道路脇の目立たない場所に路駐し、急ぎ参拝を行う。
 社号柱を過ぎると、丘陵地らしい上り坂を登る(同右)。
 
上り坂を進むと、右側に石段があり(写真左)、石段の先には案内板や鳥居が見える(同右)。

 伊勢大神社 御由緒  神川町二ノ宮五の二
 □御縁起(歴史)
当社の鎮座する萩平は、児玉郡阿保領に属した。江戸時代当初は幕府領であったが、慶安元年(一六四八)より幕末まで旗本室賀氏の知行地となった。『風土記稿』によると、化政期(一八〇四-三〇)の戸数は二三戸であり、村内の耕作地のほとんどが畑地であった。また、萩平の鎮守は隣接する新里村に鎮座する白岩明神社(現在の白岩神社)で、二村の鎮守と記載されているが、祭祀組織がどのようであったかは不明である。明治五年に金鑚村と合併し二ノ宮村となる。
当社の祭神は、天照大御神・豊受姫命の二柱である。創立年代は不詳であるが、社伝によると、往古は萩平村と隣地の池田村の村境に祀られており、共に祭りを執行していたといわれる。その後、二村の協議の上、明治維新の際に現在地に移転し、萩平住民の崇敬するところとなった。以来、萩平の鎮守として位置づけられるようになった。
当社は、元来、伊勢大神社・伊勢大神宮と称していたが、昭和十九年に神明神社と改称した。しかし、太平洋戦争直後から旧名に復したいという氏子の希望により、昭和五十六年に伊勢大神社となった。
境内社は、八柱の神々を杷る八王子神社をはじめ、八坂神社・阿夫利神社・愛宕神社・諏訪神社・天満宮・榛名神社である。社殿は、明治維新後に移転改修、大正三年に改築、昭和五十八年に本殿修理、平成一五年に拝殿改修を実施している。
□御祭神 天照大神、豊受姫命

                                      案内板より引用

 案内板によれば、「
往古は萩平村と隣地の池田村の村境に祀られており、共に祭りを執行した」「二村の協議の上、明治維新の際に現在地に移転し、萩平住民の崇敬するところとなった。以来、萩平の鎮守として位置づけられるようになった」と記述されている。ところが『新編武蔵風土記稿』では、「萩平村条」には社の記載はなく、「池田村条」に「神明社 太神宮 常學院の持」と書かれている。「共に祭りを執行した」のであれば両村に記載があって然るべきと思うが、片方しかないのはどういう箏だろうか。
        
   石段を登ると、
境内に通じる直道があり、正面にはやや小ぶりな鳥居が立っている。
 
  鳥居の社号標には「伊勢大神社」と表記    鳥居の先、右側正面に鎮座する境内社。
      鳥居は新しいようだ。               詳細不明。
            
                 参道途中に聳え立つご神木
        
                               拝 殿
 
     拝殿上部に掲げてある扁額          拝殿右側に鎮座する石祠群

 案内板では、
境内社は八王子社を始め、八坂神社・阿夫利神社・愛宕神社・諏訪神社・天満宮・榛名神社が鎮座しているという。石祠は6基あるので、八坂神社以下の6社で、拝殿手前にある社は八王子神社かもしれない。但し拝殿右側奥にも石祠は2基ある為、先ほどの推測は正しくないことになる。詳細等知っている方、ご教授願いたく思います。



参考資料 「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」
「埼玉県HP【砂防施設】 金鑚川〔神川町〕」等
   
 


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飯倉住吉神社


        
            
・所在地 埼玉県児玉町飯倉836
            
・ご祭神 底筒男神、中筒男神、上筒男神
            
・社 格 不明
            
・例 祭 歳旦祭 19日 春祭り 315日 秋祭り 1015
                 
新嘗祭 129日

 飯倉住吉神社は、本庄市児玉町飯倉地区に鎮座する。途中までの経路は、塩谷諏訪神社を参照。国道462号線を更に西行1.5㎞程。左側道路沿いに梨直売所が見え、そのT字路を左折、道路に沿って南下し、女堀川を越えて更に進む。なだらかな上りで緩やかなカーブの道路を進むと「住吉神社」のやや小さめな社号標柱が見え、そこを右折すると正面に社の鳥居が見えてくる。
 社号標柱までは、周囲長閑な田畑風景が広がっているが、標柱を右折すると、道路両側には目新しい建物や施設が並び、その奥に社が鎮座しているという、不思議な感覚。
 鳥居の左隣には駐車スペースもあるので、そこに数台駐車可能であり、一角に停めてから参拝を行う。
 後に確認すると、塩谷諏訪神社・
飯倉住吉神社・宮内若宮神社の3社は国道462号に沿って一線上に並んでいるような位置関係にある。
        
                                     飯倉住吉神社 正面鳥居
 
鳥居を越えると参道右側に社の石碑が立っている。   東西に延びる参道。社殿は東向き。

住吉神社
児玉町大字飯倉八三六番地に鎮座する(飯倉字地下谷)明治前半期は 飯倉村字下ノ谷であった
飯倉の名は 中世源頼朝が伊勢内宮に武蔵の国飯倉御厨を寄進しそれに因むと言われております
創立年代もその当時までさかのぼることも推察されます
「明細帳」によると
明治四十年二月五日に 字八幡裏の八幡神社 字山路の稲荷神社 字日向の豊受神社を当代の境内社として移転している
「風土記稿」によると
住吉明神社 村の鎮守 法性寺持 下同 八幡社 稲荷社
「郡村誌」によると
飯倉村の頃には 住吉社 村社 中筒男命を祀る 
勧請年月日不詳
祭神は
底筒之男命 中筒之男命 上筒之男命の三柱を祀る 
この三神は 本来海神であったが 転じて水神となり さらに農耕神として厚く信仰されるようになりました
境内社は
北野神社 八幡神社 稲荷神社 豊受神社の四社
一年を通して 里人たちが三三五五と参拝されています
江戸時代には 真言宗の法性寺社務を兼帯していました
祭りは
歳旦祭 春祭り 八坂神社祭 秋祭り 新嘗祭
子供御輿は昭和四十八年頃に造られました
七月十五日前の土日曜日に村を字を巡回します
御輿の中には 須佐之男命がまつられております
この神さまは天照大御神の弟君にあたります
天照大御神は日本の神さまの先祖とされております
御輿が里の家々をまわり巡回しますことは神さまが無事を確認するためだと伝えられております里人のすぎこしの日々が平安でありますようにと清めてまわっているという意味もあります
                                      境内碑から引用
        
                          拝 殿
         拝殿に対して南側(左側)は斜面となり、
社の周囲は森林に覆われている。
        
                 拝殿前にも案内板あり。

住吉神社 御由緒  児玉町飯倉八三六
□御縁起(歴史)
飯倉は、中世の飯倉御厨にちなむといわれる。『吾妻鏡』元暦元年(一一八四)五月三日条によれば、源頼朝が朝家安穏・私願成就のために伊勢内宮に「武蔵国飯倉御厨」を寄進した。『神鳳鈔』には、内宮の長日御幣を負担する御厨として五十町の田数があると載る。現在、地内には「飯倉御厨跡」として県指定旧跡がある。なお、飯倉御厨を現在の東京都港区麻布飯倉に比定する説もある。
『児玉郡誌』には「当社の創立年代は詳ならざれども、往古より当地方水德の神として勧請せりと古老の口碑に存せり。神社の南に雨乞山(元境内)あり。旱魃の年には里人山上に登りて祈願すれば霊験ありと云ふ。往時神田として地頭職より寄附せられし畑七畝十五歩あり、之を祭礼田と称す。社殿は天和元年(一六八一)再興し、内殿は天和元年と天保九年(一八三八)に修復を加へ、拝殿は大正四年に修理したり」と記されている。
当地は『風土記稿』に「用水は溜井を設けて耕植す」と載り、『郡村誌』には「水利不便時々旱に苦しむ」とあることから、口碑にあるように村人が水神として当社を勧請したのであろう。そして、飯倉御厨が当地に実在したとすれば、当社の創建年代もその当時までさかのぼることも推測される。なお、『風土記稿』飯倉村の項には、「住吉明神社 村の鎮守なり、法性寺持」と載る。
                                      案内板より引用
 
 社殿の左奥に鎮座する境内社・石祠群(写真左、右)。詳細は確認できなかったが、「石碑」等から推察すると、八幡社・稲荷社・豊受社の三社は
明治40年2月に移転され、合祀されているので、これなのどれかであろう。
        
                                    参道の一風景

 住吉神社は航海守護神の住吉三神を祀る神社である。全国には住吉神社が2,300社以上あり、大阪府大阪市住吉区の住吉大社が総本社とされることが多いが、『筑前国住吉大明神御縁起』では、福岡県福岡市博多区住吉にある住吉神社が始源とされていて、大和政権の国家的航海神として崇敬され、中世からは筑前国の一宮に位置づけられたほか、領主・一般民衆からも海にまつわる神として信仰されたという。
 祭神は「住吉三神」と謂われる底筒男神、中筒男神、上筒男神で、『古事記』『日本書紀』において2つの場面で登場する。1つはその生誕の場面で、黄泉国から帰ったイザナギ(伊奘諾尊/伊邪那岐命)が穢れ祓いのため筑紫日向の橘の小門(おど)の阿波岐原(あはきはら、檍原)で禊をすると、綿津見三神(海三神)とともにこれら住吉三神が誕生したという。次いで神功皇后の朝鮮出兵の場面で、住吉神は皇后に神憑りして神託し、皇后の三韓征討に協力することで征討は成功する。『日本書紀』では朝鮮からの帰還に際して神託があったとし、住吉神の荒魂を祀る祠を穴門山田邑に、和魂を祀る祠を大津渟中倉長峡に設けたとする。
 住吉三神を構成する底筒男命・中筒男命・表筒男命の「ツツノヲ」の字義については、諸説がある。ツツは夕月(ゆうづつ)のツツに通じ、夕方の月、宵の明星、星を指し、星は航海の指針に用いられることから、海神を示す説、「津の男」に見る説、「ツツ」を船の呪杖に見る説、船霊を納める筒に見る説、対馬の豆酘(つつ)に関連づけて「豆酘の男」に見る説、航海に従った持衰の身を「ツツシム」に見る説などである。
        

 その後仁徳天皇の住吉津の開港以来、遣隋使・遣唐使に代表される航海の守護神として崇敬を集め、また、王朝時代には和歌・文学の神として、あるいは現実に姿を現される神としての信仰も、更には時代が下るにつれて禊祓・産業・貿易・外交・農耕神と厚く信仰されるようになる。

 境内案内板にも「
当社の創立年代は詳ならざれども、往古より当地方水德の神として勧請せりと古老の口碑に存せり。神社の南に雨乞山(元境内)あり。旱魃の年には里人山上に登りて祈願すれば霊験ありと云ふ。往時神田として地頭職より寄附せられし畑七畝十五歩あり、之を祭礼田と称す。社殿は天和元年(一六八一)再興し、内殿は天和元年と天保九年(一八三八)に修復を加へ、拝殿は大正四年に修理したり」と記されていて、この地域は『風土記稿』に「用水は溜井を設けて耕植す」と載り、『郡村誌』には「水利不便時々旱に苦しむ」とあり,実際飯倉地域南方には多数の溜池があることから、村人が水神・農耕神として住吉神社を勧請したと考えられる。


参考資料
「新編武蔵風土記稿」「Wikipedia」等

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中新里御霊神社

 御霊信仰(ごりょうしんこう)とは、怨霊信仰とも言い、不幸な死に方をした人の霊が、祟(たた)り、災いをもたらすという信仰。またそれをなだめ、抑える神を祀(まつ)る信仰でもある。
 日本では、人が死ぬと魂が霊として肉体を離れるという考え方は、例えば縄文期に見られる屈葬の考え方のように、原始から存在していた。こうしたことから、「みたま」なり「魂」といった霊が人々に様々な災いを起こすことも、その頃から考えられていた。古代になると、政治的に失脚した者や、戦乱での敗北者などの霊が、その相手や敵に災いをもたらすという考え方から、平安期に御霊信仰というものが現れるようになったという。
 神川町中新里地区にも、御霊信仰の社が存在している。
                       
             
・所在地 埼玉県児玉郡神川町中新里48
             ・ご祭神 祟道天王 吉備大臣 建御名方命
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 新年祭 131日 春祭り 415日 大祓 719日                     
                  秋祭り 1019日 新穀祭 1125日

 中新里御霊神社は国道254号を群馬県・藤岡市方向に進み、神川町元阿保地域の「元阿保」交差点を左折、埼玉県道・群馬県道22号上里鬼石線を南西方向に道なりに進む。八高線の踏切を越えて、1㎞程進むと、右側に「中新里集落センター」が見え、そこのT字路を右折すると、すぐ正面に中新里御霊神社の鳥居が見えてくる。
 境内は広く、駐車スペースの心配もない。撮影に支障のない境内の一角に車を停めてから参拝を行う。
        
                 中新里御霊神社正面鳥居
        
                 鳥居の左側にある案内板

 御霊神社 御由緒  神川町中新里四八
 □御縁起(歴史)
 中新里の鎮守である当社は、古老の伝承によれば、在古に京都の御霊神社を勧請したもので、大字新里にあった御霊神社とは兄弟であるという。そのため、兄である当社は「上御霊」、弟である新里の御霊神社は「下御霊」と呼ばれていた。ちなみに、新里の御霊神社は明治四十年三月に児玉町保木野の稲荷神社に合祀され、その跡地は現在では畑になっている。
 一方、『児玉郡誌』は、当社の創建について「詳ならざれども」としながらも、中新里の旧家に応永年間(一三九四-一四二八)の板碑があることと、御霊神社の境内に数百年を経た老樹があることを根拠として、「当地は足利時代に開拓せられ、同時にこの社も勧請せられしものなるべし」と推測している。ここでいう老樹は、かつて境内にあった欅の神木のことで、中に博打ができる虚があるほどの大きなものであったが、大正のころに伐採してしまったという。
 更に『風土記稿』中新里村の項には「御霊明神社 村の鎮守なり 末社 秋葉 稲荷(中略)以上村民の持」と載るように、村の鎮守として信仰が厚かったことがうかがえる。旧社格は村社であり、明治四十年に当社の東北にある「諏訪山」と称する古墳の上から無格社諏訪神社を本社に合祀した。なお、当社の幣殿天井には堂々とした竜が描かれており、これは狩野寿信門人加信の筆によるものである。
 □御祭神 祟道天王 吉備大臣 建御名方命
                                       案内板より引用

        
                                        拝 殿

 神川町中新里地区には昔から「吉備大臣」と呼ばれる民話がある。神川町HP「吉備大臣 中新里」全文を紹介する。

○吉備大臣 中新里
中新里では、昭和の初めの頃まで、きびを作ることが禁じられていたそうです。その理由は、次のような伝えがあったからです。
字の鎮守様「御霊神社」は、天津児屋根命(あめのこやねのみこと)を祀っていますが、一緒に「吉備大臣(きびだいじん)」を祀っています。
昔、この吉備大臣が戦に出かけ、戦場で、乗っていた馬がきびに足をとられてよろめいた際、不覚にも落馬して負傷してしまいました。このため、吉備大臣を祀る中新里では、きびを作ることを嫌ったのだということです。
もっとも、吉備大臣とは奈良時代の学者で廷臣だった吉備真備(きびのまきび)のことですから、事実とは思われません。昔の人が、吉備ときびの音が似ているので、こんな昔話を作ったのでしょう。
栃木県のある地方でも、神様がきびの葉で目を痛めその氏子はきびを作らない(日本の伝説)など、似た話は日本中にあります。
近くでは、妻沼の聖天様の松嫌いの話があります。昔、聖天様と、太田の呑竜様が戦さをし、太田の金山まで攻め込んだ聖天様が、松の葉で目をつき、難渋して以来、妻沼地方では松を植えなくなったという話が伝えられています。
      
        拝殿の南側に鎮座する石祠等。        拝殿北側にある由緒不明な石神。
    石祠は詳細不明。右は社日神。
       
             境内北東側で道路沿いに聳え立つご神木。
      ご神木の周辺には数多くの境内社・庚申塚・石碑等が囲むかのように並ぶ。
 
           石碑、庚申塔等4基。            道路沿いにある庚申塚。
        
                                中新里御霊神社 境内社 

中新里御霊神社のご祭神は「祟道天王」「吉備大臣」「建御名方命」の3柱であるが、「建御名方命」が諏訪大社のご祭神であることは周知の事だが、「祟道天王」「吉備大臣」の2柱に関して記して見たい。「吉備大神」は上記では伝説として紹介したが、史実としての人物紹介も兼ねる。

「祟道天王」
 早良親王。奈良時代末期の親王であり、第49代天皇・光仁天皇の皇子。母は高野新笠、桓武天皇、能登内親王の同母弟。桓武天皇の皇太弟に立てられた。延暦4年(785年)、造長岡宮使であり、事実上の遷都の責任者である藤原種継の暗殺事件に連座して廃され、絶食して没した。その後に桓武天皇の周囲で忌まわしい出来事が続発し、早良親王の祟りということになり、怨霊を恐れて崇道天皇と追号されたが、皇位継承をしたことはないため、歴代天皇には数えられていない。

「吉備大臣」
 吉備真備(きび まきび)。奈良時代の公卿・学者。氏姓は下道(しもつみち)朝臣のち吉備朝臣。右衛士少尉・下道圀勝の子。官位は正二位・右大臣。
 持統天皇9年(695年)備中国下道郡也多郷(八田村)土師谷天原(現在の岡山県倉敷市真備町箭田)に生まれる。下級役人の家に生まれたようで、決して出自には恵まれていたかったようだ。それでも平城京の大学寮で秀才ぶりが認められ、元正朝の霊亀2年(716年)第9次遣唐使の留学生となり、翌養老元年(717年)に阿倍仲麻呂・玄昉らと共に入唐する。唐にて学ぶこと18年に及び、この間に経書と史書のほか、天文学・音楽・兵学などの諸学問を幅広く学ぶ。
 帰国した真備は聖武朝で異例の昇進し、その後藤原仲麻呂の乱での鎮圧にも優れた軍略により乱鎮圧に功を挙げ、最終的には従二位・右大臣へ昇進する。
 神護景雲4年(770年)称徳天皇が崩じた際には、娘(又は妹)の吉備由利を通じて天皇の意思を得る立場にあり、永手らと白壁王(後の光仁天皇)の立太子を演出。但し別説では後継の天皇候補として文室浄三次いで文室大市を推したが敗れ、「長生の弊、却りて此の恥に合ふ」と嘆いて、政界を引退する。
 真備は決して不遇な最期を遂げた「怨霊」に値する人物とは言えないと考えるが、菅原道真同様に、下級貴族から前代未聞の栄達を遂げながらも、時の政敵である「藤原氏(藤原仲麻呂、藤原永手)」に対して「皇統」を命がけで死守しようとして最終的には敗れた政治家でもある。その点菅原道真と同じ要素を持ち、「怨霊」として後世の人々が創り上げた人物かもしれない。

「怨霊」は「祟り神」ともいう。神道が日本人の精神構造の根本で、何万年もの悠久の歴史から培わされてきた観念でもある。事実神道における神は、理念的・抽象的存在ではなく、具体的な現象において観念されるため、自然現象が恵みとともに災害をもたらすのと同様に、神も荒魂・和魂の両面を持ち、人間にとって善悪双方をもたらすものと考えられている。神は、地域社会を守り、現世の人間に恩恵を与える穏やかな「守護神」であるが、天変地異を引き起こし、病や死を招き寄せる「祟る」性格も持っているといえよう。



参考資料 「埼玉の神社」「Wikipedia」神川町HP「吉備大臣 中新里」等

                        

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下阿久原有氏神社

 児玉党は武蔵七党の一つにして最大勢力の集団を形成する事となる武士団である。一説では藤原北家流・藤原伊周の家司(けりょう/かれい)だった有道惟能が、長徳2(996)に伊周が失脚したことにより武蔵国に下向し、その子息の有道惟行が神流川の中流部にあった阿久原牧を管理し、ここに住して児玉党の祖となったという。また「有」とは、有道氏の略称であり、有氏とは有道氏を指すとされる。
 古代、児玉郡大寄郷若泉庄の阿久原(現・神川町の南部)には官営牧場があり、朝廷よりの派遣官人、つまり阿久原の別当(管理者)として惟行は赴任して来た。当時は有道 遠峰 維行(ありみち・こだま・これゆき)と称した(後に児玉惟行と呼ばれる)。しかし、任務完了後も児玉郡にとどまり、そのまま在地豪族と化したと伝えられている。
 尚この下阿久原地域は、宮内若宮神社でも紹介した雨乞屋台』で紹介した昔話にも「別当が赴任した場所」として出てきており、何かしら関連性もあるようである。
        
            
・所在地 埼玉県児玉郡神川町下阿久原34
            
・ご祭神 有道惟行(ありみちこれゆき)
            
・社 格 不明
            
・例 祭 盤台祭り 1119日

 下阿久原有氏神社は神川町下阿久原地区北部に鎮座する。国道462号線と埼玉県道・群馬県道22号上里鬼石線が交差する「新宿」交差点を左折し、神流川に沿って南下する。その後22号は神流川西側方向に移動し、同線は埼玉県道・群馬県道289号矢納浄法寺線となるが、そのまま600m程南下すると進行方向右側に下阿久原有氏神社のこんもりとした社叢と案内板が見えてくる。
        
                            下阿久原有氏神社 社叢風景
      規模は大きくないが、境内は綺麗で、こじんまりと纏まっている印象。 
 県道沿いにある「有氏神社の舞台祭り」の看板          案内板詳細

 有氏神社の盤台祭り 
 所在地 埼玉県児玉郡神泉村(現神川町)下阿久原三十四番地 有氏神社
 指定  平成月十一日  埼玉県指定無形民俗文化財

 有氏神社は、武蔵七党の一つである児玉党の祖、有道惟行(ありみちこれゆき)をまつると伝えられている。地元では、有氏は有道の転訛であるといい、祭りを称して「アリッツァマの祭り」とか「裸祭り」とも呼んでいる。この祭りは正徳三年(一七一三)に始まったとされ、 祭日は陰暦九月二十九日であったが、現在は十一月十九日に行われている。
 
祭りの特色は、氏子が毎年交代で祭り番となり、祭りに関するすべてを行うことにある。(これを頭屋制という)。祭り当日は、頭屋宅で赤飯(小豆飯)とシトギ(水で浸しておいた粳米を臼でついたもの)を作り、赤飯は大きな盤台に盛り付けておく。準備が終わると、神官を先頭に神社に行き、社前で祭典を執り行う。
 祭典後、氏子たちはふんどし姿になって盤台を高々と持ち上げ、「上げろ、下げろ」の掛け声も勇ましく神輿のようにもんで境内を練りながら、盤台の中の赤飯を四方八方に撒き散らす。参詣者は争ってこの赤飯を受け取り、オミゴクと称していただく。この間、四、五分の短い時間であり、赤飯をまき尽すと、手じめをして祭りは終わる。
 なお、この赤飯を食べるとその年の災厄からのがれることができ、お産は安産ですむという。このため、この祭りは安産祈願、子孫繁栄、疫病退散のお祭りだと云われている。
                                      案内板より引用
        
                       県道より奥の場所にある木製の鳥居
        
         鳥居の右脇には「県指定文化財有氏神社盤台行事」の標柱あり。

 下阿久原有氏神社から南西方向1㎞程の場所には上阿久原地区があり、そこに丹生神社が鎮座しているが、嘗てこの区域近郊の台地上の場所には、児玉氏の祖であった児玉惟行の居館があったといわれていて、その館址は「政所」と呼ばれている。
 上阿久原は、中世の阿久原郷に含まれ、その郷内には阿久原牧があった。阿久原牧(阿久原牧跡は埼玉県指定旧跡)とは、承平三年(933年)四月に勅旨をもって官牧となった国有の牧場で、武蔵七党児玉党の祖・有道惟行(ありみちこれゆき)が別当(管理責任者)として赴任した。
 惟行は平安時代後期、朝廷よりの派遣官人としての任務完了後も児玉郡にとどまり、そのまま在地豪族と化し武将として、武蔵七党の一つにして最大勢力の集団を形成する児玉党(武士団)となる。尚児玉党本宗家は3代目児玉家行(惟行の孫)以後、庄氏を名乗り、その本拠地を北上して栗崎の地(現在の本庄台地)に移す事となる。その直系の家督は庄小太郎頼家で絶える事となるが、児玉党本宗家は庄氏分家によって継がれていく事となり、本庄氏が児玉党本宗家となる。
 惟行の嫡流達は児玉郡内を流れる現・九郷用水流域に居住し、土着した地名を名字とし、児玉・塩谷・真下・今井・阿佐美・富田・四方田・久下塚・北堀・牧西などなど多くの支族に分かれていった。
        
                       拝殿というべきか、本殿ともいえる小さな社。
        破風部位には,児玉氏特有の「軍配団扇」紋があしらわれている。
       
お社を中心にして境内社、石碑等が横一列に並べられている。社の右側には「有氏神祠碑」があり(写真左)、明治26年建立の石碑。左側には境内社や石祠が鎮座(同右)している。左端にある「大貴己命」の石碑以外は詳細不明。
            
          社のほぼ正面にある紙垂等が巻かれていたであろう石柱
                  石神の類だろうか。

        
                     社から道路側にある「有道氏の祖廟」の看板

 有道氏の祖廟
 武蔵野の開拓者、さらには、関東武士の元祖、として有名を馳せた児玉党の開祖である有道一族の祖廟は、詳らかでない。しかれども、有道惟行が朝廷の命により長官を勤めた阿久原の牧近くには、有道氏を祭る有氏明神があり、古くより地域の住民によりお祀りされている。日本古来の宗教観では、先祖霊や特別な功績を上げ尊敬される人々の霊を人格神として祭るのが自然である。阿久原地区には、古くより「有氏明神に隣接した北の位置にありし古い石塔を東北に移転した際に、人骨が発掘されこれは阿久原牧時代の有道氏一族の墓であろう」との言い伝えがあり、しかも、「有氏神社には御神体が存在しない」などのことより、有氏神社は、有道氏一族の霊域(墓地)に祠を建て、祭り始めたものであり、古くは霊域の重要な位置を占めたと推定される有氏明神に隣接した東北部の畑の中にある古石塔(地下に眠る遺骨)こそ有氏明神の御神体であるとの説がある。この石塔は、児玉党もしくは近在の有道氏一族の関係者によって、室町時代後期から江戸時代初期の間に建立されたものと推定されるが、品格の高い見事な石塔である。
 今回、古石塔及び周辺土地の管理者であり、長年に渡り秩父瀬地域住民の中心となって有氏神社をお祀りしてきた児玉党の流れを汲む浅見家21代当主新一氏のご尽力により、古石塔が整備復元されたことは、惟行生誕1000年を迎えるにあたり、誠に意味有るものといえよう。今後児玉党並びに有道氏に関係する方々はもとより、その恩恵を受けている地域の方々は、時に参拝し、武蔵野の開拓と土地生産性に基盤を置いた武家政治の確立に貢献した先祖の方々の往時を偲び、明日への活力としていただければ幸いである。
 平成14年正月 記 児玉党末裔
                                      案内板より引用

        
        室町時代後期から江戸時代初期の間に建立されたものと推定される「石塔」


参考資料 「神川町 HP(県指定の文化財)」「Wikipedia」等

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宮内若宮神社

 本庄市(旧児玉町)宮内は金屋地区の西部に位置し、神川町二ノ宮と境を接している。宮内の大半は山地と谷間の谷戸田よりなり、東部にかけて児玉丘陵が続いている。宮内地区から現在の女堀川(旧赤根川)が流れ、東部塩谷地内へ流れる。集落は女堀川の両側の平場と丘陵部の両側に広がっている。北寄りで女堀川に沿って国道462号線が東西に通っている
 宮内の名の由来は、神社の存在から来ているといわれている。宮内地区内の小字天田には若宮神社が鎮座しており、その隣町の二ノ宮は旧金鑽村と云い、延喜式にもその名が見られる金鑽神社がある。この金鑽神社の東部国道わきには元森神社があり、金鑽神社の元の鎮座地とも言われている。金鑽神社は現在地に移るまでに、三度程移転しているといわれており、宮内地区の若宮神社も旧鎮座地ではないかと考えられている
 宮内の地名が歴史上始めて確認されるのは、暦応3年(1340)の安保光阿(光泰)譲状(『安保文書』)で、「児玉郡植松名内宮内郷」と見える。
        
            
・所在地 埼玉県本庄市児玉町宮内1010
            ・ご祭神 田心姫命
            ・社 格 旧村社
            ・例 祭 新年祭 17日 春祭り 415日 秋祭り 1015
                 新嘗祭 1210日

 宮内若宮神社は旧児玉町宮内地区に鎮座する。途中までの経路は塩谷諏訪神社を参照。国道462号線を神川町方向に2㎞程進み、児玉三十三霊番「光福寺」の看板のある十字路を左折する。200m程南下し、T字路を右折すると正面にのぼり幟ポールが見え、すぐ右側に宮内若宮神社が見えてくる。
 駐車スペースは、社の正面鳥居の道を隔てた反対側に数台駐車可能な空間が確保されており、そこの一角に停めてから参拝を行った。
        
                                                       宮内若宮神社正面

 児玉郡宮内村(児玉町)は暦応三年安保文書に児玉郡枝松名内宮内郷と見え、児玉党宮内氏は児玉郡宮内村より起こる。武蔵七党系図に「塩谷平五大夫家遠―太郎経遠―児玉二郎経光(奥州合戦討死)―四郎経高―宮内太郎左衛門経氏―児玉新三郎信経(弟に六郎光氏、七郎忠氏)―三郎光信(弟太郎光経)」と記載され、宮内氏は塩谷一族から分家した一族ということになる。塩谷地区と宮内地区は距離的にも近く、同じ一族というのも頷けるというものだ。
 若宮神社の創建年代等は不詳の事だが、当地は金鑚神社の旧地だとも伝えられ、また「若宮」の社号は、田心姫命が武蔵国二ノ宮金鑽神社の大神の娘であることによると云い、田心姫命が父神と喧嘩した時の云々から、当地では椿を植えることが禁忌という伝承もあり、金鑚神社と関わりの深い神社で、古くより鎮座しているものと思われる。
 
     宮内若宮神社 朱色の両部鳥居         鳥居の左側にある案内板

若宮神社  児玉町宮内一〇一〇
▢御縁起

宮内は、武蔵七党丹党の一族である安保氏の所領として既に南北朝期の文書にその名が見え、古くは若泉荘に属し、江戸時代には児玉郡八幡山領のうちであった。一方、天正十九年(一五九一)の八幡山城主松平家清知行分を示した「武州之内御縄打取帳」(松村家文書)よれば村柄(生産力の高さ)は「上之郷」と評価され、地味に恵まれた土地であったことがわかる。
当社は、この宮内の鎮守としてられて祀られてきた神社であり、『風土記稿』宮内村の項にも「若宮明神社 村の鎮守也、遍照寺持」として記されている。祭神は田心姫命で、「若宮」の社号は、この神が武蔵国二宮の金鑚神社の大神の娘であることによるものという。また、当社の鎮座地付近を「天田」というが、この地名については、昔、田心姫命が父神と喧嘩をした時、父神が椿の校を手に「このアマダ、アマダ」と打ちかかりながら田心姫命を追いかけて当地までやって来たことに由来するとの言い伝えがある。したがって、当社の氏子の間では椿を植えることが禁忌とされ、もし植えると神の怒りに触れて疫病がはやるとか、植えた家は身が立たないなどといわれている。
更に、『明細帳』には由緒として享保十三年(一七二八) 二月に正一位の神位を受けたこと、明治五年に村社となったこと、明治四十年に字滝前の六所神社を合祀したことが載る。
御祭神 田心姫命…厄災除け、五穀豊穣
                                      案内板より引用
       
               鳥居の先左側に聳え立つご神木
 
      参道左側に立つ社日神            社日の隣にある謎の石組
五穀豊穣を願う日本の社に比較的多い五角形の碑。
        
                                     拝 殿

 ところで本庄市児玉町宮内地区には、古くから『雨乞屋台』と言われる民話・伝説が存在する。宮内若宮神社にも関連する昔話である。

雨乞屋台
千年も前のこと。平安の時代、阿久原に牧があり、京から来た別当がいた。任期を終えた別当は京に帰ったが、時代が変わり扱いがひどく居場所がないので、阿久原に戻り、ここを一族の拠点とすることにした。息子の若宮の家をつくり、そこを宮内として開墾に精を出した。
ところが、先住の大蛇(ながむし)の一族が反対し、邪魔をするので難儀した。そこで若宮と別当は、尊敬する田心姫の力を借りることにした。田心姫は天下り、協力を約束した。金鑽様も面会に来たというその美しさには大蛇族も歯が立たず、和睦を模索した。そして、開発に協力するが、田心姫を大蛇族の司と結婚させてほしいと申し入れた。若宮たちは撥ねつけようとしたが、姫は笑顔で、術を比べて、天より持ち来た小さな手箱に入る術を司が示せば、結婚を承知しましょう、と言った。大蛇族は思わぬ朗報に夜通しのお祝いとなった。
あくる朝、姫への誠意と、美男子の司はただ一人指定の沼のほとりへ来、さっそく身を縮める術をもって、姫の手箱に入って見せた。しかしこれは計略で、姫は手箱に鍵をかけると、若宮に手箱を沼に放り入れさせてしまった。さらには、これは天の神の作戦であり、沼を埋め立てよ、と言う。
大蛇族は司が沼に沈んだのは神をおそれなかった結果仕方がないとしたが、せめて日照りのときは司の霊を呼び戻し雨を降らせるから、埋めるのは許してほしいと懇願した。そこで池を埋めるのをやめ、その周りを息をつかずに七まわり半できたら姿を現し司の霊を慰めよう、と田心姫は約束し、天へ帰ったという。
時代は過ぎ江戸のこと。大日照りが続いた。大蛇の話は皆したが、司の霊を呼び戻す方法が分からなかった。そこである年寄が、大八車に大蛇の姿を作って載せ、手箱池の周りを回ったらどうか、と思い付き、そのようにした。それで雨が降ったらお礼に若宮様へ雨乞屋台を奉納しよう、と。
そうして池を五回も回るともう雨が降り出し、大八車も操れぬほどになり、空だった手箱池も、たちまち道まで水浸しになった。村人たちはすぐに雨乞屋台を作り若宮に納めたという。今も御宝蔵にある雨乞屋台はこうした何百年もの物語を秘めて出番を待っている。

*児玉郡・本庄市郷土民話編集委員会 『児玉郡・本庄市のむかしばなし 続』参照

 「雨乞屋台」と同じ昔話が「児玉風土記」にもあり、昔「てばこ」と呼ばれる小さい池があり、てばこ池(手箱池)の水が満ちた時に、池の周りを左回りに7回半、息をしないで回ると美しいお姫様が池から現れると言い伝えられていた。しかし実際には息をしないで7回半回れる人はいなかった為、お姫様を見ることはなかったようだ。
 本庄市児玉町宮内に鎮座される若宮神社と想定される「雨乞屋台」という民話。社の南方向には溜池のような池が沢山あるが、手箱池がどこに該当するか、そもそも現存するのかも不明だ。
 
  社殿左側で、謎の石組の隣にある石碑      社殿の隣に鎮座する境内社。詳細不明。
         
                    境内の様子

 風土記の昔の神話に近いフィクションの類と言ってしまえばそれまでの話だが、話の内容はかなり複雑であり、要約すると、大蛇(ながむし)という先住一族との抗争、そして和議と見せかけた姑息な計略でその民族を討伐する、なかなか辛辣な出来事である。今はまだこの話が正しく古代の何かを伝えるものなのか否かは断定できないが「大蛇族」というのは同児玉の南東に行って秋山(秋平)の方にも見え、一概に否定できないようにも感じる。


  
参考資料「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「武蔵七党系図」「安保文書」「本庄の地名② 児玉地域編」「児玉郡・本庄市のむかしばなし 続」等                

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