古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

後榛沢八幡大神社

 榛沢六郎成清は鎌倉時代初期の武蔵武士。畠山重忠の郎党である
 榛沢氏は、武蔵七党のひとつ丹党の新里成房が榛沢に住み「榛沢」を名乗ったのが始まりで、『源平盛衰記』に成清の母は、畠山重忠の乳母で重忠と成清は乳兄弟の関係にあたる。
 鎌倉期の乳兄弟は肉親の兄弟よりもつながりが深いといわれており、成清は幼少の頃より、重忠の補佐役として仕えた。はじめ重忠は、平氏に味方し、頼朝を討つため三浦氏と戦い、頼朝再起の後には頼朝に従う。以後、重忠は頼朝の先陣をつとめたが、成清は、いつも重忠に従い、木曽義仲との戦い、源平の戦い、陸奥の役でおおいに活躍した。頼朝の信頼も厚く、成清に対し"汝をもって亜父となす"といったという。畠山重忠も深く信頼し、たびたび榛沢の館を訪れた。帰途、荒川の洪水のため、川が渡れない時、うぐいすの鳴き声で渡ったと伝えられており、荒川の岸辺には、うぐいすの瀬の碑が建っている。また成清は神仏に対しての信仰が深く、当時、疫病に苦しむ人々を救うために、大寄八幡大神社、後榛沢の八幡大神社、東光寺を開いたと伝えられている。元久二(1205)年、重忠は、北条氏の策略により、二俣川において三万騎の大軍にとりかこまれた。その時、重忠の手勢は、わずか一三〇騎で、その中に成清も加わっており、おおいに奮戦したが、力つき重忠と共に討死した。成清は重忠に菅谷館にもどって陣をたて直すことを進言したという話が残っている。供養塔は後榛沢地区にある旧蔵屋敷の一角にあった成清塚に隣接して、享保八年(1723)に建立されたという。
               「深谷市HP ふかやデジタルミュージアム」「Wikipedia」より引用

        
                ・所在地 埼玉県深谷市後榛沢851
                ・ご祭神 品陀和氣命(推定)
                ・社 格 旧村社
                ・例 祭 不明
 後榛沢八幡大神社は旧岡部町・コスモス街道と埼玉県道86号花園本庄線が交わる交差点から西方向に1.5㎞程進むとこんもりとした社叢が見え、緑豊かな農村地域が広がる後榛沢地区の、民家が立ち並ぶ中央部からやや北東部に外れた一角に鎮座している。
 すぐ東には志戸川が南西から北東方向に緩やかな蛇行を適度に繰り返しながら流れていて、南側には上越新幹線の高架橋が見える。社の周辺は、北・西側が標高
54m程に対して、東・南部が52m程で若干低いので、低い側に対して盛り土をして平坦としているような形となっていて、丁度その側からは高台のように見える。因みに「後榛沢」は「うしろはんざわ」と読む。
              
             社の北側で、道路沿いにある社号標柱 
 社号標柱は北側の道路沿いにあるが、そこから社殿方向に参道を進むには一旦南方向に進み、突き当たりを左に折れ、そこからまた直進し、鳥居がある所まで進み、北側に鎮座する社殿を目指す、丁度「コの字」のような形となっている。
 後日地図確認すると、社境内が参道を含め
50m程の正方形で形成されているので、このような配置となってしまったのではないかと考える。後榛沢八幡大神社に限らず、このような参道が直角に折れる配置構造の社は意外と多く存在するので、何も珍しいものではない。
 
  社号標柱から参道は一旦南方向に進む。   境内に入るとすぐ右手側に八坂神社が鎮座
       
            参道突き当たり地点に聳え立つご神木らしい巨木
         
       左に曲がった参道を進むと、               鳥居右側には六基の石祠が鎮座。
   正面左手に鳥居や社殿等が見える。            詳細は不明。

 最近まで、神楽殿やその近くにあった鳥居が存在していたが、今回参拝時にはそれらは撤去された後の事であった。少し残念な気持ちである。
        
                          南側にある鳥居。
          この鳥居の南側は堀のような低い断面が東西に広がる。
        
                                         拝 殿
 榛沢(半沢)は律令時代に令制国の一つである武蔵国内22郡の一つ「榛沢郡」と記録のある由緒ある地名で、榛沢郡の拠所となったのがこの榛沢郷である。その郷名は榛の木の繁茂する里から由来していると云い、また半沢という名前の由来は、平中興 桓武平氏高棟流、右大弁・平季長の長男の子孫であるという説、平将門の娘の春姫の子孫が平将門の死後、将門を祖とする平氏平家の再興を願って、平将門の平を苗字に残そうとしたため半沢の半という漢字が使われたという説もある。『新編武蔵風土記稿』によると、元々榛沢村は、後榛沢村や榛沢新田を包括した広い地域で一村を成し、村単位より大きい地域を表す「榛沢郷」として記載されていたが、何時の頃か3村に分割され、榛沢村は、「大寄郷藤田庄」に属するようになったという。
 
 社殿の右側にある石で囲まれた空池の中に鎮座する石祠(写真左)。石の切り口等からそれ程昔からあるものではない雰囲気を感じる。石祠も恐らく弁財天あたりと推測。空池も時期的に水がないのかも不明。また社殿左側には六基の石祠があるが(同右)、こちらもどの神様が祀られているのかが、どの文献・HPみても判明しなかった。

 残念なことに、これほどの規模の社に関しての説明書・案内板・石碑等が全くなく、文献資料・HP等もないため、境内の石祠等の由緒を書きこむことができなかった。
 
 六基の石祠の奥には様々な石碑・石祠がある。おそらく一カ所に纏めたものであろう。仙元大日神、その周辺に小御嶽石尊大権現と食行身禄霊神等の石碑(写真左)があり、「登山記念碑」「八幡大神社拝殿改修記念碑」を挟んで、右側に倉稲魂命の石碑(同右)がある。


 旧岡部町・榛沢という地名は、和名抄に榛沢郡榛沢郷を載せ、「波牟佐波」と註しているが、元を辿れば武蔵七党・丹党出身の榛沢氏より起こっているといわれている。丹武経の曾孫秩父基房の三男、成房が榛沢の土地(武蔵国榛沢郡(現在の埼玉県深谷市榛沢))を受け渡され、領有したため、分流し、榛沢(半沢)氏と名乗った。
 武蔵七党系図には「秩父黒丹五基房―榛沢三郎成房―六郎成清(重忠に属し元久二年六月誅せらる。弟に小太郎、四郎)―平六郎成長―七郎―三郎」。安保氏系図には「秩父黒丹五元房―榛沢三郎光経」。中興武家諸系図(宮内庁書陵部所蔵)には「榛沢。丹治、本国武蔵」と見える。保元物語に「義朝に相随う手勢の者共は、武蔵国には榛沢六郎成清」。源平盛衰記に「畠山が乳人に半沢六郎成清」との記載がある。
        
                               拝殿方向から境内を望む。
   
 榛沢六郎成清は弓馬の技術に優れ知略に富んだ武将であったが、同時に神仏に対しての信仰が深く、当時、疫病に苦しむ人々を救うために、郡内の大寄八幡大神社、後榛沢の八幡大神社、東光寺造営を行う等、土木技術にも優れた才能を発揮したようだ。

 吾妻鑑文治五年八月条に「頼朝の陸奥国阿津賀志山(福島県国見町)の藤原泰衡攻めに、榛沢六郎成清の智謀によって、畠山重忠は連れて来た人夫八十人を使って、用意の鋤鍬で土石を運ばせ、一夜にして掘を埋め、突撃路を造った」とある。この戦場での活動は、平時においての土木技術に通じる所でもあり、成清のみならず、畠山一党がこのような戦時における「工兵部隊」を奥州の戦いだけでなく、常時温存し、適時活用していたことがわかる記述ではなかろうか。丹党は製鉄製錬や土木技術にたけていた集団であり、榛沢氏が率いていたともいえよう。
 その榛沢氏の潜在的な実力を源頼朝は知っていたのであろうし、
成清に対し"汝をもって亜父となす"と言った賛美の言葉の中に見え隠れする『深い策謀』を感じざるを得ない。

 

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武蔵野十二社神社

 天神七代とは、神世(かみよ)七代とも云い、日本神話において、天地開闢のとき生成した七柱の神。また、その時代をいう。「古事記」並びに「日本書紀」で神々の名称が若干違う。古事記では、別天津神の次に現れた十二柱七代の神を神世七代としていて、最初の二代は一柱で一代、その後は二柱で一代と数えて七代としている。『日本書紀』の本書では、天地開闢の最初に現れた十一柱七代の神を神世七代としている。
 地神五代(ちじんごだい)とは、日本神話において、天照大神・天忍穂耳尊・瓊瓊杵尊・火折尊・鸕鶿草葺不合尊の5柱の神々およびそれらの神々の時代(『日本書紀』神代下に相当)のこと。天神七代と初代天皇である神武との間に位置する神々と言える。
 因みに
「地神」とは地の神のことで、天の神を意味する「天神」と対称をなす語である。
        
            ・所在地 埼玉県深谷市武蔵野277‐3
            
・ご祭神 国常立尊・豊雲野尊・宇比地邇尊・須比智邇尊・角杙神
                 活杙神・意富斗能地神・大斗乃弁神・淤母陀琉神
                 阿夜訶志古泥神・伊邪那岐神・伊邪那美神
            ・社 格 旧村社
            ・例 祭 不明
 旧花園町・武蔵野地区に鎮座する武蔵野十二社神社は途中までの進行ルートは桜沢八幡大神社を参照。八幡大神社から国道254号線を美里町方向に1.3㎞程北上し、「鐘撞堂山 ふるさとの森」の看板がある信号のある交差点の手前のT字路を左折する。道幅の狭い道路になる為、対向車量には注意しながら進むと、正面に小高い森が広がり、武蔵野十二社神社の社号標柱も見えてくる。
 この武蔵野地区は東西に5㎞程、南北は1.5㎞程の横に細長く伸びている地区で構成され、またその西側は、丁度槍の先端部分のような形をしていて、西端には鐘撞堂山が尾根伝いに聳え立っている。結果的に武蔵野地区が寄居町・用土地区を飛び地のように分断した張本人ともいえなくもない。行政手続きの上の手違い等によるもので、決してこの武蔵野地区が悪いわけではないが、地理上、このような説明が出来てしまうような形になってしまったことは、少し可哀想な気もする。
        
                        なだらかな斜面上に鎮座する武蔵野十二社神社
 
 国道254号線沿いは民家等立ち並んでいるが、社に通じる道は道路幅も細く、あまり住宅等も多くない。また社自体も国道から離れている斜面上にある為、あまり目立たない。ひっそりと慎ましく佇んでいる印象。
        
                            武蔵野十二社神社 正面鳥居
 武蔵野十二社神社は近隣の足高大神社、武蔵野八幡神社と共に「武蔵野三社」とも呼ばれている。
        
                                       拝 殿
 十二社神社 深谷市武蔵野二七七-三(武蔵野字宮地)
 御祭神について 天神七代地神五代の十二代の神霊を併せて祀ることから「十二社神社」と呼ばれています。天神七代とは、国常立尊(くにとこたちのみこと)・豊雲野尊(とよくむぬのみこと)・宇比地邇尊(ういじにのみこと)・須比智邇尊(すいじにのみこと)・角杙神(つぬくいのかみ)・活杙神(いくぐいのかみ)・意富斗能地神(おおとのじのかみ)・大斗乃辨神(おおとのべのかみ)・淤母陀流神(おもだるのかみ)・阿夜訶志古泥神(あやかしこぬのかみ)・伊邪那岐神(いざなぎのかみ)・伊邪那美神(いざなみのかみ)です。ただし、宇比地邇尊(ういじにのみこと)以下は男女二柱を一代として数えます。いずれも、天地開闢神話に現れる始原の神々で、地神五代の前に日本を治めたという天津神です。 また地神五代とは、天照大神(あまてらすおおみかみ)・正勝吾勝勝速日天忍穂耳尊(まさかあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)・天津彦々火瓊々杵尊(あまつひこひこほのににぎのみこと)・彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと)・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)で神武天皇以前の皇統の祖神とされています。
 起源と再興について 伝説によれば、東征の折にこの地を通りかかった日本武尊がちょうど新年を迎えることとなり、しばらく滞在し兵馬や食糧の無事を祈願する為に天地十二神を祀り、士気を鼓舞したことが始まりとされています。当初は、西部の山地権現平に社がありましたが、江戸中期天明三年の暴風雨による洪水で崩壊し、御神体だけが宮地に漂着したことにより、そこに新たな社を設けて祀ることとなりました。 明治後期に政府の合祀政策により一度、中郷の八幡神社に合祀され「武蔵野神社」と改称しました。戦後、村に鎮守を取り戻そうという氏子の願い出により、昭和二十八年四月に、新たに境内を設けて武蔵野神社から神霊を分祀し、十二社神社は再興されたという経緯があります。 節分祭追儺式 節分とは、「季節を分ける」ことを意味しています。本来は、春夏秋冬の各季節の境目を指していましたが、今日では、立春の前日、冬と春を分ける時期に行われる行事として定着しました。 日本では、一月を「睦月(むつき)」とも呼んでいます。今では太陽暦(新暦)の一月のことを言っていますが、元々は旧暦の一月(現在の一月下旬~三月上旬頃)の名前です。 この時期は、冬から春へと季節が変る時期にあたり、陰と陽が「交わる(睦みあう)」ことで邪気が発生すると考えられてきました。その邪気をはらうために始まったのが、追儺式(ついなしき)、いわゆる鬼やらいの行事です。 十二社神社では、桃もしくは梅の木を使って弓矢を作り、恵方に矢を射った後に豆まきを行なっています。
                                   「埼玉の神社」を引用

 
      拝殿に掲げてある扁額            神社遷宮碑
 神社遷宮碑は昭和28年に武蔵野神社(現、八幡神社)から分祀してこの地に遷ったとの事。
 
 社殿右奥には合祀社が鎮座(写真左)し、左から諏訪大神・稲荷大神・大荒神・八坂大神・天手長男命・八幡大神が祀られている。また合祀社の手前には、石碑(同右)があり、宇賀神・大国主神が祀られている。
        

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品沢諏訪神社

        
              ・所在地 埼玉県秩父市品沢1012
              ・ご祭神 建御名方神
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 例大祭 4月第3日曜日 祈年祭 2月 新嘗祭 12月
 品沢諏訪神社は国道140号を皆野町、秩父市方向に進み、「大塚」交差点で交わる皆野秩父バイパス方向に道路変更し、蒔田地区方向に進む。トンネルを2か所過ぎた次の出口方向に車線変更し、埼玉県道270号吉田久長秩父線と交わるT字路を右折する。南方向から北西方向に進路が変更するが、暫く道なりに直進し、同43号皆野荒川線の交わる十字路をそのまま直進する。県道同士が交差する十字路から150m程北方向に進むと左手に諏訪神社が見える。
 県道沿いに社は鎮座していて、境内に入る道もあり、その一角に車を停めて参拝を行う。
         
                                 品沢諏訪神社 鳥居正面
        
                                    品沢諏訪神社境内
      境内には,社務所、品沢集会センター、神楽殿もあり、広々としている。
       県道沿いに鎮座しているが、車両の往来は少なく、また境内も静か。
 
   拝殿に通じる石段手前にある案内板             神楽殿

諏訪神社 御由緒 秩父市品沢一〇一七
◇村社様と呼ばれ、昇格の苦心話が伝わる
 品沢は、皆野から小鹿野へ通ずる道路に沿って集落のある、山間の農業地域である。地名については『秩父志』に「往時篠竹沢辺ニ多生ジテ篠沢ト称へシヲ、後音転ジテ志奈坐波ト称ヘ」とある。社蔵棟札により、正徳五年(一七一五)に社殿を造営したことが知られるが、それ以前は不明である。
 当地の旧家である引間家には寛永二十年(一六四三)の五人組帳があり、当時の村人であった六十余名の名前が残っている。
当地の草分けは関ケ原の落ち武者五軒であったとの口碑があり、これらの人々が当社の創建にかかわったと推定できよう。
『新編武蔵風土記稿』には地内の神社について「聖権社・居野間権現・熊野社・榛名社・金山社・諏訪社・天満天神社・熊野社」と載せているが、これらの多くは明治四十二年(一九〇九)に当社に合祀された。当社も明治五年(一八七二)に村社となるまではこれら耕地の神社と同格、同様の社であったと思われ、「村社になるにはたくさんの金が要り苦心した」という口碑が残り、この時尽力した島村某・富田某の名を今に伝えている。
                                      案内板より引用 


 案内板に記載されている「引間」氏は、日置の集落を引間、曳間、曳馬と称し、秩父郡に多く存在する苗字である。
○旧下吉田村
・永法寺文書
「享保九年鐘銘、引間善左衛門・引間金左衛門・引間四郎兵衛・引間惣左衛門・引間喜兵衛・引間十郎左衛門・引間五兵衛・引間新左衛門。文化六年寄附、吉田町引間重郎右門。文化十二年寄附、取方・引間丈左衛門・引間藤太郎妻。(以下略)」
○旧久長村
・阿熊村彦久保文書
「天正十年二月二十五日、秩父衆着致、一本鑓・一騎馬上・以上二人・引間弾正」
○小鹿野町
・小鹿野町古老覚書
「古風庭、引間久兵衛先祖地庭、後に寺に成る飯田村光源寺の末寺」
○旧日野村
・秩父往還(太田巌著)
「秩父郡日野村に永禄十三年武田氏の臣引間平左衛門が春日山地西庵を建立す」
        
                       拝 殿
『秩父志』には「品沢村は篠沢と称へしとを、後音転じて志奈坐波と称す」と見える。『新編武蔵風土記稿』では「品澤村は郡の西側にあり、武光庄に属す。篠葉澤郷と称すと云、村の名義は傳えず、(中略)皆山谷を境とせり。東西僅かに三町許、南北一里半程。土性は皆眞土なり。地形谷合の村にて、細く長くして民戸多く谷合或いは山腹に住し、家敷九十五件所々に散住し、男は農事の餘に、冬より春までは山に入て薪采り、女は養蠶を専らとし、綿・横麻又は木綿などを織出す」と記載され、村の旧名やその領域、土地柄、生活状況等を細かく説明されている。
        
           社殿の奥には、境内社がひっそりと鎮座している。
 
新編武蔵風土記稿』には地内の神社について「聖権社・居野間権現・熊野社・榛名社・金山社・諏訪社・天満天神社・熊野社」と載せているが、これらの多くは明治四十二年(一九〇九)に当社に合祀されたという。これらの社は、そのうちのどちらかであろう。写真左側の合祀社は、熊野社に関わりのある社と思われ、同右の写真は置物から稲荷社と思われる。

   

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三峯神社

 秩父山地一帯には「お犬様」と称してオオカミを祀っている神社が多数あり、三峯(みつみね)神社など計21社とも言われ、全国的にも個性的な地域である。江戸時代に始まったとされるお犬様信仰は、関東甲信地方へ広がりをみせ、その信仰は現在もなお続いている。
 その為この地域では、現在も毛皮や頭骨を保存している家が何軒もあり、オオカミにまつわる伝承や伝説も各地で聞くことができる。
 神様のお使いは動物に姿を借りて現れるが、これら神様のお使いのことを「神使(しんし)」や「眷属(けんぞく)」と言い、代表的なものは、稲荷神社のキツネ、八幡神社のハト、春日大社のシカ、日吉神社のサル、熊野大社のカラスがある。神様と眷属の関係は、神話や祭神との特別な関わり、語呂合わせ、その地域に多く生息した生き物や名物等様々で、一定の決まりはないようだ。
 お犬様は、山犬・オオカミが持つ類いまれな能力に、人々が畏怖(いふ)と畏敬(いけい)の念を抱き、その強い力にご神徳を求め、神様のお使いとして信心されている。秩父郡内では、三峯神社や寳登山(ほどさん)神社、両神(りょうがみ)神社(2)、龍頭(りゅうず)神社、城峯(じょうみね)神社などがお犬様を祀っている。
 この中には、神の意を知らせる兆しとして現れたお犬様に、その霊力を遺憾なく発揮していただくため、毎月の又は特定期間の特定日に「お犬様の扶持(ふち)」、「お犬様のエサ」、「お炊き上げ」と呼び習わして、赤飯・小豆飯或いは白米を生饌(せいせん)のままや熟饌(じゅくせん)に調理し供える神事を行う神社もあるようだ。
 旧大滝村、埼玉県秩父市三峰にある三峯神社は秩父多摩甲斐国立公園内の標高約1100mに鎮座している。秩父三大社のひとつとして数えられ、ヤマトタケル伝説やお犬様信仰など伝説が数多く残っており、関東屈指のパワースポットとしても有名な社である。
        
                          ・所在地 埼玉県秩父市三峰298-1
             ・ご祭神 伊弉諾尊 伊弉册尊
             ・社 格 旧県社
             ・例 祭 例大祭48日 53日奥宮山開祭 109日奥宮山閉祭
                  122日冬季大祭等

 三峯神社は、今から1900年ほど前に第十二代景行(けいこう)天皇の皇子日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国平定の帰り道に山梨県から奥秩父の山々を越えて三峰山に登り、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉册尊(いざなみのみこと)をお祀りしたのが始まりとされている。
 また景行天皇の東国巡行の際、天皇は社地を囲む白岩山・妙法ヶ岳・雲取山の三山を賞でて「三峯宮」の社号を授けたと伝える。伊豆大島に流罪になった役小角が、三峰山で修業をした際、三山を雲取山・白岩山・妙法岳と呼び、聖地と定め平安時代には僧空海が登山、三峯宮の傍らに十一面観音像を奉祀して天下泰平を祈ったと『縁起』には伝えられる。
 秩父の多くの社に関わるお犬様は、神の眷属というよりも、神そのものとされ、故に「大口真神」(おおくちのまかみ)と神号で呼ばれ、山犬=オオカミ、即ち大神として猪、鹿に代表される害獣除け、火防盗難除け、魔障盗賊避け、火防盗賊除け、憑物除けや憑物落しの神と崇められている。
        
            三ツ鳥居、別名三輪鳥居(みわとりい)ともいう。
        1つの明神鳥居の両脇に、小規模な2つの鳥居を組み合わせた珍しい形式の鳥居。

 一概に「狼」といっても現実絶滅してしまった種族であり、はく製や図鑑、インターネットでの閲覧等で、間接的にもつイメージしか浮かばない。日本人の精神構造の根本に根付いている「自然との共生」概念が今も色濃く残っていて、自然は「台風・地震・火災」等の自然災害に対する恐怖とは逆に、自然から受ける豊かな恵み、景観の美しさ等恩恵に対して畏敬の念を持ち続けていて、それらの正邪併せのむ現実を踏まえながら、何万年かけて日本人はその両面を全て包み込むように合理的な解決策にたどり着く。これが日本人独特の「神道」の根底概念でもあろう。

 秩父地域に今尚残る「狼」信仰はある意味「神道」の考え方に通じる所があるが、この考え方は西洋とは違った文化として残されている。西洋で「狼」というと、童話『赤ずきん』や『三匹の子豚』では、ずる賢く知恵を働かせ、主人公らを大きな口で食べようとする“悪役”として描かれている。中世ヨーロッパにおいては『ジェヴォーダンの獣』や『狼男』など、オオカミのような未確認生物が人間の敵として登場している。農耕・牧畜が主流だった中世の西洋社会においては、家畜を食べてしまう狼という存在は、人々にとって忌むべき対象と考えられていたのかもしれない。
 一方、古来より農業を営んできた日本において、狼は田畑を荒らす害獣を食べてくれる“益獣”として畏敬の念を抱く存在だったという。オオカミを漢字で書くと「狼」。「良い獣」。遥か昔の弥生時代、オオカミの骨などが神事や装飾の道具として用いられていたというから、あるいはその頃からオオカミは神様の使いとしての片鱗を見せていたのかもしれない。そのような歴史の経緯を踏まえ、後世日本人により神格化され、ついには山の神、又は大神(おおかみ)としての側面を持つようになったのではなかろうか。
            
 三ツ鳥居を過ぎてから200m位進んでT字路を左に曲がると、1691年に建立された隋身門がある。専用駐車場から三ツ鳥居までのルートは、看板や食事処等もあり、観光地らしさが漂うが、鳥居を過ぎると、巨木・老木等の樹木や石灯篭が参道の両側に立ち並び雰囲気は一変する。当日は平日で、小雨交じりの曇りの天候乍ら、多くの参拝客がいたが、まず神秘的で厳かな雰囲気に圧倒されたように、私語は全くといってなく、身が引き締まる思いを多くの参拝客も強く感じたのではないだろうか。とにかく空気感が全く違う。時折、周囲が霧で覆われるような場面もあったが、それが逆に神秘性を増幅させてしまったようだ
      
 隋神門を通過し、暫く下り坂の道を暫く進む。そこから90度右側に石段の階段(写真左)となり、その先には青銅製の鳥居が見えてくる(同右)。よく石段を見ると参拝が終わり、下ってくる方向には参拝客が全く見えない。参拝終了後に知ったことだが、三峯神社で参拝後、日本武尊像のほうに行くため、この石段を下る客はほとんどいないようだ。また参拝をすませ、右側に鎮座する境内社方向にも道があり、そこから帰路に向かう道が近道となってもいる。
      
 石段を登り切ると、左側には手水舎がある(写真左)。柱は白を基調としていて、一見コンクリート製に見えるが、実は木造で、その上には素晴らしく美しい龍の彫り物に彩色豊かな装飾が施されている。豪華絢爛というのに相応しく、これだけでも一見の価値あり。
 
また参道を挟んで手水舎の向かい側には、「八棟木灯台」と云われる安政4年(1857)建立の飾り灯台(同右)があり、手水舎同様、灯台全体に細かな彫刻が施されていて、眩しいくらいの朱色が目にとまる。高さ6m。
        
                     拝 殿
         拝殿の手前には樹齢700年と伝えられる重忠杉が聳え立つ。

「Wikipedia」「埼玉の神社」等によれば、『中世以降、日光系の修験道場となって、関東各地の武将の崇敬を受けた。養和元年(1182年)に、秩父を治めていた畠山重忠が願文を収めたところ霊験があったとして、建久6年(1195年)に東は薄郷(現・小鹿野町両神あたり)から西は甲斐と隔てる山までの土地を寄進して守護不入の地として以来、東国武士の信仰を集めて大いに栄えたが、正平7年(1352年)、足利氏を討つために挙兵し敗れた新田義興・義宗らが当山に身を潜めたことより、足利氏により社領を奪われ、山主も絶えて、衰えた時代が140年も続いた。
 その後文亀年間(1501-1504年)に修験者の月観道満がこの廃寺を知り、30数年勧説を続けて天文2年(1533年)に堂舍を再興させ、山主の龍栄が京都の聖護院に窮状を訴えて「大権現」を賜った。以後は聖護院派天台修験の関東総本山とされて隆盛した。本堂を「観音院高雲寺」と称し、「三峯大権現」と呼ばれた。以来、歴代の山主は花山院家の養子となり、寺の僧正になるのを常例としたため、花山院家の紋所の「菖蒲菱(あやめびし)を寺の定紋とした」という。
              
                      本 殿
              今から約340年前(1670年頃)の建立。

 秩父でお犬さま(御眷属様)信仰が始まったのは、享保5(1720)、三峯神社に入山した大僧都「日光法印」が、境内に狼が満ちたことに神託を感じ、「御眷属拝借」と称して、山犬の神札の配布を始めたのが最初だと言われている。以来信者も全国に広まり、三峯講が組織され、三峯山の名は全国に知られた。現在も奥州市の衣川三峯神社をはじめとして、東北各地に三峯山の影響力が残っている。
 山里では猪鹿よけとしての霊験が語られていたが、江戸時代、江戸の町を中心に関東地方でオオカミ信仰が流行した理由は、主に火防・盗賊除けの守り神としてだったという。浅草寺境内にも三峯神社があり、他のお堂はみな南を向いているが、三峯神社は本堂を向いている。本堂を火災から守るためだという。狼や犬は火事がボヤのうちに気が付き、また盗賊が店や蔵に侵入したときも騒いで知らせ、賊を襲うという習性があることから、火防・盗賊除けの守り神となった。江戸は「火災都市」と呼ばれるほど、大火が頻繁に発生した。ちなみに1601年から1867年の267年間に、江戸では49回もの大火が発生したという。
 火を消す水の水源地が三峯など秩父の山であったということも関係したようだ。いくつもの三峯講が組織され、多くの人が参拝に訪れた。現在、関東各地の神社の境内に三峯神社が祀られているのは、三峯講があった証(あかし)ともいえる。
 
      木のぬくもりを感じる神楽殿                 社殿の右側には祖霊社が鎮座
 社殿や境内社等との極彩色との違いが分かる。  元聖天堂。社に縁の深かった方の御霊を祀る。
      
       祖霊社の右隣に鎮座 国常立神社    国常立神社の右側に鎮座 日本武尊神社
        
                  日本武尊神社の並びには多くの境内社・摂社・末社が鎮座。
                                まずは伊勢神宮。  
 
 伊勢神宮の右並びには、末社群が立ち並び、左より月読神社・猿田彦神社・塞神社・鎮火神社・厳島神社・杵築神社・琴平神社・屋船神社・稲荷神社・浅間神社・菅原神社・諏訪神社・金鑚神社・安房神社・御井神社・祓戸神社(写真左)。
 祓戸神社の右隣には東照宮・春日神社・八幡宮・秩父神社・大山祗神社(同右)。

        
                          「日本武尊(やまとたけるのみこと)銅像
 筆者は三峯神社を訪れるのは3度目だが、当日境内に霧がかかっている時が多く感じる。標高を考えれば、霧というより雲の中にいるというのが正しいのかもしれないが、まさに“神秘的”な雰囲気に包まれているという感覚が、直接肌を通して感じることができる。
               
                       奥宮遥拝殿から見た妙法ヶ岳。

 現在、三峯神社は関東屈指のパワースポットとして知られている。これは、現代版の自然崇拝・狼信仰と言えなくもないだろう。三峯神社の狼信仰も時代とともに形を変えて生き続けているようだ。


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用土貴船神社

 用土貴船神社は八高線用土駅の東側、寄居町立用土小学校近郊に鎮座している。用土は寄居町北部に突出した地域で、飛び地のように見えるが、地続きになっていて、狭隘部は幅100mもなく南側にある鐘撞堂山(山ではあるが329.8mしかない低山で、山麓から同定できないほど目立たない山ではあるが)の峰があるので寄居町から用土地区への直通道路は存在しない。
 というのも昭和
30年に寄居町が用土村など周辺4村を編入したことで生じたようで、当時の寄居町と用土村の間に位置していた花園村(昭和58年町制)が合併に参加せず、平成18年に深谷市に編入されたため、現在の用土地区はほぼ寄居町の飛び地となっている。その為用土区域に住んでいる人が町役場や市街地に行くには、一旦深谷市区域を通らなければいけない交通環境となってしまった
 このような経緯もあり、寄居町は不思議な行政区域となっている。
        
             
・所在地 埼玉県大里郡寄居町大字用土2857
             ・
ご祭神 高龗神、闇龗神
             ・
社 格 旧村社
             
・例 祭 例祭 918日
        
                                 用土貴船神社正面
 淤加美神又は龗神(おかみのかみ)は、日本神話に登場する神であり、『古事記』では淤加美神、『日本書紀』では龗神と表記している。日本神話では、神産みにおいて伊邪那岐神が迦具土神を斬り殺した際に生まれたとしている。『古事記』及び『日本書紀』の一書では、剣の柄に溜った血から闇御津羽神(くらみつはのかみ)と共に闇龗神(くらおかみのかみ)が生まれ、『日本書紀』の一書では迦具土神を斬って生じた三柱の神のうちの一柱が高龗神(たかおかみのかみ)であるとしている。
この二神は同一の神、あるいは、対の神とされ、 その総称が淤加美神(龗神)であるとされている。 龗は龍の古語であり、「闇」は谷を、「高」は山を指す言葉であることから、 闇龗神は渓谷、高龗神は山峰の水や雨を掌る龍神として信仰されてきた。
『古事記』においては、淤加美神の娘に日河比売(ひかはひめ)がおり、須佐之男命の孫の布波能母遅久奴須奴神(ふはのもぢくぬすぬのかみ)と日河比売との間に深淵之水夜礼花神(ふかふちのみづやれはなのかみ)が生まれ、この神の3世孫が大国主神であるとしている。
               
                     社号標柱
 高龗神を祭神とする神社は京都の貴船神社を本源とする貴船社系を中心に全国に分布する雨乞い信仰の神社など約三百社にのぼる。
 貴船神社は古く朝廷から祈雨、祈晴の神として崇敬され、水の神とし農業、醸造、染織、料理飲食、浴場などの業種の関係者から信仰を集めている。
 用土地域に鎮座する貴船神社も、その中の一社であり、『用土村誌』には天平元年(巳年・西暦729年)3月とあり、「村社貴船神社誌」では貞観年間(859~877年)創建と云われる、歴史のある社でもある。
 
        
               正面両部鳥居              鳥居の手前で左側にある
   柱を支える「控え柱」が変形していて、     「伊勢神宮第六十二式年遷宮記念」
    逆に歴史の古さを感じさせてくれる。
            の案内板
 伊勢神宮第六十二回式年遷宮記念
 むらの鎮守の貴舩神社の創建は、『用土村誌』には天平元年(巳年・西暦七二九年)三月とあり、「村社貴船神社誌」では貞観年間(八五九~八七七年) のこととしています。
 延暦年間(西暦七八二~八〇六年)坂上田村麻呂東夷征伐に際し、この地に立ち寄り土質の適したるを賞し、土偶を作るに「此の土を用いたり、よって『淀』を改めて『用土』となす。」とあります。
 用土元郷地区の熊野神社には、当時この地域を支配した猪俣党藤田氏の一族と思われる用土新三郎小野業国により天文五年(一五三六年)に鰐ロが寄進されており、村の鎮守であった当社にも同様の崇敬が寄せられたことが推測されます。元禄年間に神祇管領の執奏により正一位に叙せられ、安政二年(一八五五年)には「藤田神社貴布禰大明神」の社号を授けられました。(中略)
『風土記風土記稿』には、「貴舩神社 村の鎮守なり、例祭九月十八日、末社天王・八幡・天神・八大竜王・金毘羅 別当不動寺 当山派修験、江戸青山鳳閣寺の配下、貴舩山と号す、本尊不動」とあります。
 境内
神には、青面金剛神・明仙元大菩薩・庚申・天神宮が祀られています(以下省略)
                                      案内板より引用
       
            参道を挟んで案内板の向かい側に聳え立つ巨木
『伊勢神宮第六十二回式年遷宮記念』案内板に記されている「用土新三郎小野業国」という人物、本名は用土業国と云い、武蔵国北部の豪族、藤田氏の一族で、この時の当主は藤田康邦。官位は右衛門佐。
 藤田康邦は大里・榛沢・男衾・秩父・那珂・児玉・賀美に及ぶ広域を領有していた
在地領主であり、当初は山内上杉家に仕え、天神山城を守っていたが、天文15年(1546年)の河越城の戦いの後、北条氏康の攻撃を受けて降伏し、その家臣となった。このとき、氏康の四男・乙千代丸(氏邦)を幼少から養子として育て、娘の大福御前を娶らせて藤田氏の家督を譲っている。そして自らは用土城に居城を移し、用土氏を称した。名を重利から新左衛門康邦に改めたのもこの頃とされる
 但し、以上の事蹟については異説も多く存在し、生没年など康邦の実像は解明されていない部分も多い。
 藤田氏を継いだ氏邦は藤田重氏を名乗り、その後、天神山城から鉢形城に移り藤田氏領を支配した。氏邦の所領はのちに鉢形領と称され、氏邦は北方の上野方面にも進出し、その領国は北方に拡大していったのである。
 康邦の子には用土重連や藤田信吉がいたが、彼らは北条氏にとっては邪魔な存在であり、重連は沼田城代に任じられたものの氏邦に毒殺され、信吉は武田勝頼に寝返っている。
               
                                参道の先に社殿が鎮座する。
 小野篁の子孫を称する武蔵七党猪俣党の猪俣政行(1155年に花園城を築いとたいわれる)が武蔵国榛沢郡藤田郷(埼玉県寄居町)に拠って藤田を称し、1590年豊臣秀吉による小田原征伐まで武蔵国北部の有力国衆として400年余り栄えた。政行の子・藤田行康は源平合戦(治承・寿永の乱)の一の谷生田森の戦いで討ち死している。その子能国・孫能兼は承久の乱で活躍し、このとき能国が院宣を読み上げ、文博士といわれた。一族は幕府の問注所寄人であった。
 
              神楽殿          貴船貴船神社「本殿の屋根瓦修理
                         旗竿の新調」事業記念碑
        
                                        拝  殿
 
          本 殿             本殿奥に鎮座する境内社。詳細不明。
        
                 社殿左側奥にある社日神を中心に配列された庚申塔・仏像等

 猪俣党藤田氏の一族と思われる用土新三郎小野業国が、用土元郷地区の熊野神社に鰐ロを寄進したのが天文5(1536)。当時破竹の勢いで関東を席巻していた後北条氏は、翌年当主上杉朝定の居城・河越城を攻め、この戦いで川越城は落城、扇谷上杉家は滅亡寸前まで追いつめられる。またその翌年には国府台の戦いにおいて、扇谷上杉家と協力関係にあった小弓公方足利義明を滅ぼして房総半島方面へも進出を始めていた。
        
                                  静かに佇む境内
 平安時代から代々大里郡周辺の広大な地を支配してきた藤田氏だったが、天文15年(1546)の河越夜戦で仕えていた山内上杉氏が北条氏に敗れると、形式上は氏邦を養子に迎えて体裁は保ったとはいえ、実質的には北条氏康に降伏し、屈辱的講和をせざるを得なかった。家の存続の為、氏邦に家督と居城を譲った康邦は祖先から受け継いでいた「藤田」姓を捨てて、用土新左衛門と名乗り用土城を築いて自らの隠居城とした。
 栄枯盛衰は世の常とはいえ、藤田氏にとって「用土」の地は、何百年も続いた名家の終焉の地でもあり、今の寄居町にとって用土地区の行政上の立ち位置にも通じる所でもあって、やや複雑な気持ちにもなる、そんな参拝となった。



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