秋山河原神社
・所在地 埼玉県本庄市児玉町秋山1401
・ご祭神 河原次郎盛直
・社 格 指定村社
・例 祭 祈年祭 3月15日 大祓式 6月30日 夏祭り 7月15日
例大祭 10月15日 新嘗祭 11月23日 大祓式 12月25日
秋山河原神社は秋山新蔵人神社から800m程北側に鎮座している。社に隣接して「河原神社社務所」があり、道路沿いには適当な駐車スペースも確保されていて、そこの一角に車を停めて参拝を行った。
社周辺には長閑な田畑風景が広がり、時間がゆっくりと過ぎているようで、穏やかな気持ちに包まれながらの参拝となった。
秋山河原神社正面
東側には「指定村社 河原神社」の社号標柱があったが、撮影はしなかった。
社は決して規模は大きくないが、手入れは行き届いている。
秋山河原神社に設置された案内板
河原神社御由緒 本庄市児王町秋山一四〇一
▢御縁起
『風土記稿』秋山村の項では、当社について「河原明神社 元暦元年(一一八四)二月摂州生田(現神戸市)において打死せし、河原次郎の霊を祭りしと云、隣村風洞分に太郎高直を祀れる社あり、埼玉郡河原村は河原兄弟居住の地にて、其墳墓といへるものあり、夫等の因にて当所に祀りしなるべけれど、其詳なることをつたへず、日輪寺持」と記している。ここに載るように、当社の祭神は河原次郎盛直で、隣接する風洞の地には、兄の河原太郎高直を祀った同名の社がある。
河原氏は、武蔵七党私市党に属する一族で、現在の南河原村や行田市北河原に住したといわれている。太郎高直と次郎盛直の兄弟については、『平家物語』に綴られているように、生田の森の合戦において、源範頼に従って勝利をもたらしたことで知られ、太郎が「自分が敵陣に討ち入る時はお前が残って証人になれ」と次郎に頼んだところ、次郎は「二人きりの兄弟で、白分一人だけが残っていられようか」と、兄弟共に先陣の名乗りを上げて討死した挿話は著名である。
この河原兄弟は、当地をも領有し、牧場を管理していたといわれている。その霊を祀る神社が、この秋山及び風洞の地に祀られるようになったのは、こうした領有関係によるものであろう。『児玉郡誌』は当社の創建を文明十八年(一四八六)とし、一説に河原兄弟の縁故者が秋山に来て居住し、その主君の霊を祀ったとの伝えを載せている。
□御祭神 河原次郎盛直…開運厄除、五穀豊穣
案内板より引用
拝 殿
境内の西側に隣接している社務所 社務所の並びには石碑や石祠群が並ぶ。
境内にはゆったりとした時間が流れているようだ。
この本庄市児玉町秋山地区は、南方の十二天山、陣見山からなだらかな稜線が広がり、北側で境となる小山川、その支流である秋山川等の水資源も豊富な丘陵地帯であり、古くから拓かれていたらしく、縄文時代や古墳時代の集落跡など古跡が多い。
秋山古墳群は、埼玉県本庄市児玉町秋山にある古墳群で、本庄市指定史跡に指定されている。現在、前方後円墳2基を含む43基の古墳が現存し、墳丘を失った古墳跡を含めると100基近い古墳があったと推定されている。古墳の分布は秋山地区の塚原・塚間・宿田保に多く所在し、1965年(昭和40年)3月1日付けで児玉町(当時)指定史跡に指定された。
この秋山河原神社から東側近郊に「秋山庚申塚古墳」が存在する。残念ながらこの古墳を知ったのは、参拝終了し、自宅で編集中であり、写真等で収められなかったことは残念だ。
○秋山庚申塚古墳
秋山庚申塚古墳は、直径約三十四メートル、推定高五メートルの規模をもつ円墳で、 南南西に閉口する横穴式石室を備えています。 昭和三十年に横穴式石室の発掘調査が行われ、多数の副葬品が出土しました。
また、昭和六十二年には、古墳の範囲確認調査と石室の実測調査が行われ、堀の形状や埴輪の存在、石室の構造的特徴が明らかになりました。 古墳の堀は、円墳には珍しく、墳丘の周囲を二重にめぐり、墳丘の周 や堀の内部から家、人物、馬などの形象埴輪の破片が出土していま す。 横穴式石室は、埋葬空間である玄室の側壁が緩やかな曲面をなす 「胴張型」と呼ばれる型式で、大きな塊石と細長い河原石を組み合わせ て積み上げる 「模様」という技法を取り入れています。 また、石室か ら出土した副葬品には、直刀や鉄、弓などの武器類、金銅装の馬具類、碧玉製や瑪瑙製の管玉や勾玉、ガラス製丸玉、金鋼製耳環などの装身具のほか、須恵器の高杯、短頭壺、堤瓶、などがあります。 秋山庚申塚古墳の築造年代は、出土した埴輪の型式などから六世紀後半頃 と考えられていますが、石室から出土 した副葬品には、時期差が認められる。
ことから、七世紀初頭まで追葬が行われていたことが推定されます。
案内板より引用
参考資料 「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「Wikipedia」