古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

山河伊奈利大神社

   
               ・所在地 埼玉県深谷市山河636-1
               ・ご祭神 倉稲魂命
               ・社 格 旧村社
               ・例 祭 祈年祭 227日 例祭 1015日 新嘗祭 1127
               *例祭等は「大里郡神社誌」を参照。
 山河伊奈利大神社は、国道17号を岡部・本庄方向に進み、「岡部」交差点を左折、北武蔵広域農道を南下する。高崎線と交わる高架橋を越えてから最初の交差点を右折。コスモス街道・正式名称は深谷市道岡5号線というらしいが、その道路を1.3㎞程進むと埼玉県道353号針ヶ谷岡線と交わる交差点があるので、そこを左折し、そのまま600m程進むと、交差点付近手前右側に山河伊奈利神社の境内が見えてくる。
 
社に隣接した社務所兼山河会館があり、会館手前には広大な駐車スペースも確保されており、そこに停めて参拝を行う。
        
                     
山河伊奈利神社正面
 深谷市「山河」地区は現在「やまが」と読むが、柏合村明治十三年八海山講碑には「山カハ」と見え、新選武蔵風土記稿にも「山川(ヤマカワ)」村との記載がある。
 
     道路沿いにある一の鳥居            案内板も設置されている。
 伊奈利大神社 
 所在地 岡部町大字山河六三六番地の一
 祭神  倉稲魂命
 沿革    当社の創建年代は明らかではないが、約0.7km西方の字茶臼山に位置する伊奈利塚古墳の上に祭られていたものをいつの頃か現在地に移したと伝える。
 当社の周辺には中世の館跡があり、だんだら山、または馬場屋敷と称されていた。現在は、わずかに痕跡をとどめる程度であるが、かつては、空堀を巡らしていたと伝えられている。この館は、山河村が戦国時代に深谷上杉氏の領地であった時、上杉氏により設置されたもので伊奈利神社は、この館の鬼門除として、館の丑寅(東北方)の位置に存在する。鬼門とは反対側に寺院(昌楽寺)が置かれた。
 当社は、嘉永二(一八四九)年、二月に燈明の火により全焼しているが、神殿は塗替のため長養寺に移されていたため消失をまぬがれている。
 現在の社殿は、嘉永五(一八五二)年に再建されたものである。
                                      案内板より引用
 
 参道は2本あって、左より伊奈利大神社への社殿に向かう正面道と、その右側に末社である八坂神社(写真右)へ向かう脇道(同左)があり、八坂神社の左隣には大国主命の石祠。さらにその右側は社務所兼山河会館、また火の見櫓も含めた広い駐車場がある。
        
                                   朱色の二の鳥居
                 参道の先には社殿が見える。
        
                                        拝 殿
 山河伊奈利大神社正面鳥居脇にある「県営土地改良竣工記念碑」によると、この山河区域は、嘗て耕道らしい道路もなく、屈曲も甚だしく、幅も狭い野道を利用し、また排水路も皆無の状態で、雨期や豪雨には野道が排水路化してしまう状態であった。また水資源にも乏しく、干ばつによる被害は甚大で、一部水田耕作する場所も天水による以外なく、種付不能箇所が所々に点在した状態であったという。
 そこで昭和411112日に岡部土地改良区が設立認可され、地域住民の一同の多年の願望であった道路並びに用水路排水路の新設、同時に土地改良基盤整備の施行となったとの記載がある。

 つい560年前の話ではあるが、嘗てのこの国の農業基盤はほとんど自然の恩恵による作物の出来高次第で決まる時代が長く続いていたのだという事がこの句碑からも分かる。
        
                  拝殿 向拝の龍
 
 拝殿の所々には見事な彫刻が施されている(写真左・右)更に極彩色豊かな素晴らしい本殿もあるという。案内板によれば、嘉永二年の火災の時には、偶々塗り替えの為に隣の長養寺に移されていて、焼失を逃れたそうだ。
 
   社殿奥に鎮座する石祠。詳細不明           富士御嶽塚か
        
                  境内社蚕影山神社
       近年まで養蚕倍盛の神として山河地区氏子の信仰が厚かったという。

 日本に養蚕が伝わったのは弥生時代とされている。今から約 1,700 年前に書かれた、卑弥呼の記述で有名な『魏志倭人伝』には当時の倭で養蚕が行われていたことが記されている。絹織物は上流階級の衣服として生産が続けられたが、庶民階級にまで普及されたのが江戸時代で、幕府は国内での養蚕を奨励し、埼玉県内でも秩父絹や小川絹、川越絹など、地名を冠した商品としての絹織物の産地が生まれる。
 安政 6 年(1859)、ペリーの来航によってそれまでの鎖国を解いて開港すると、諸外国との貿易が盛んになり、日本からの主な輸出品は蚕種(蚕の卵)と生糸、茶で、政府は重要な輸出品目を生み出す養蚕を奨励、埼玉県内でも村々へ桑を植えるように勧めるなど、養蚕を奨励した。

 山河伊奈利大神社では、養蚕がほとんど行なわれなくなった現在でも、当時の名残で、春季例大祭の祭典のときには「言別(ことわ)きて白(もう)さく」と蚕影山神社の神に祈願が捧げられるという。

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岡熊野神社

        
              ・所在地 埼玉県深谷市岡2977-1
              ・ご祭神 速玉男尊・伊弉諾尊・伊弉冊
              ・社 格 *無格社
              ・例 祭 不明
              *後日確認すると、大里郡神社誌には「無格社」と記載あり。 
 岡熊野神社は、国道17号経由でまず岡部駅を目標に岡部方面に進み、「岡部駅入口」交差点を左折、埼玉県道259号新野岡部停車場線に合流し、暫く進む。その後「岡部駅(北)」交差点を右折すると、今度は埼玉県道352号児玉町蛭川普済寺線に移るわけだが、400m程進むと、右側に岡熊野神社の参道入口に到達する。更に社はそこから北に150m程進むと岡熊野神社正面鳥居に達することができる。地図を確認すると、深谷市立岡部西小学校の道路を隔てた南側に位置していると考えればよい。
 社周辺には適当な駐車スペースがないため、参道入口南側にある岡新田集会所の駐車場をお借りして参拝を行った。
        
                                岡熊野神社 正面
 旧岡村字新田(深谷市岡)鎮守。境内社は多く鎮座しているので、旧村社かもしれないが、由来等確認しても分からなかった為、社格は不明とした。
 社の正面手前左側には保育園もあり、参拝中は保育園児の元気な声も聞こえる。偶然であろうが、園児の成長を暖かく見守っているような位置関係でもある。
 但し参拝目的ではあるとはいえ、初老の男性が一人で社周辺をうろついているのは、傍から見ると印象としては決して良くないようにも見える為、静かに参拝を行う。
 
 鳥居の
右手に由緒を記した石碑があり(写真左)、参道の先にはやや横を向いているように鎮座する拝殿(同右)。参拝後自宅に戻り、編集中に偶々地図を確認すると、この地域一帯の区割りが南南西方向となっていて、真南を向いた社殿がちょっと横を向いているように見える構図となっている。

○敬神崇祖
 当熊野神社は速玉男尊・伊弉諾尊・伊弉冊尊の三柱を祭神と仰ぎ氏子の信仰篤く古来より國造りの神と伝え継がれており神威郷土を護り殖産興業の守り神として伝えらる現世安穏・家内安全・業務繁栄・願望成就の守り神として延壽万福をお授けになりその高き御神徳を普く氏子に垂れ給い厚い信仰が今日も続いておる。
 境内には倉稲魂命を祀る荒滝稲荷神社、豊川稲荷本尊荼枳尼天尊を祀る正一位丸山稲荷宮、天満宮、秋葉神社、雷電神社、八坂神社、機織神社、地神宮、金刀比羅宮を配祀す。
 当社の創立年代不詳なるも往古より此の区鎮守として信仰古くは熊野権現社と称したるも明治七年改正により社号を熊野神社と改め氏子崇敬者の寄進により社殿改築社領購入等漸く整備し現在に至る。その後風雪百余年の歳月に社殿の損壊甚だしくこのたび氏子崇敬者多数の寄進により大改修ここに復元竣功を見る。この機にあたり崇敬者熊野大社本宮に詣で玉串を奉り神威益々昂揚に努め郷土発展を祈願す。
 昭和五十五年十一月三日
                                                                     「境内 石碑」より引用

 
 鳥居の先、左側には左から八坂神社・正一位丸山稲荷神社・荒滝稲荷神社・金刀比羅宮が整然と鎮座している。木製柱で神社名がしっかり表示されているので、初回参拝者でも容易に確認できるので、大変ありがたい。
 
       参道右側には、手水舎・社日(地神宮)・そして神楽殿も配置されいる。
 境内は決して広くはないが、手入れも行き渡っていて、保存状態も良く管理されている。日々の氏子様方の社に対する崇拝の誠を感じる社。
        
                     拝 殿
        
           拝殿の向拝部には凝った龍の彫刻も施されている。
 
        拝殿の向拝部・木鼻部にも何気に緻密な彫刻が施されている。
       
                      社殿右側手前にはご神木が聳え立つ(写真左・右) 
 
          社殿と神楽殿の間に鎮座する境内社・末社(写真左・右)
             左から天満宮・秋葉神社・機織神社・雷電宮

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岡白鬚神社

        
               ・所在地 埼玉県深谷市岡1324
               ・ご祭神 猿田毘古命
               ・社 格 無格社
               ・例 祭 不明
 岡白鬚神社は国道17号を岡部・本庄方向に進み、「岡部駅入口」交差点を左折、埼玉県道259号新野岡部停車場線に入り南下、2番目の交差点である埼玉県道353号針ヶ谷岡線との交点である十字路を右折する。この埼玉県道353号針ヶ谷岡線は途中で左方向へ車線変更するが、そのまま直進し、深谷私立岡部西小学校を越えて800m程進むと、道路沿い右側に岡白鬚神社が鎮座する。
 岡白鬚神社を一旦通り過ぎると、道路沿い右側に墓地と社の間に、駐車可能なスペースがあるので、そこに停めてから参拝を行った。
        
                                      参道正面
        
                             鳥居の扁額には「白鬚神社」と表記
              
                       参道を遮るように屹立する岡白鬚神社のご神木

 地図等でこの地域を確認すると、櫛挽台地の一角にあるこの岡白鬚神社周辺は、南北に細長いこの住宅街が西側に防風林を背負うように立ち並んでいて、冬時期において周辺が赤城おろしの強い地域であったが容易に推測される。参拝日が1月という事もあり、新緑深い生命力あふれる時期とは違い、寒さや強風を耐え忍んできた痕跡が、樹木の肌の至る所に見える。
        
                                         拝 殿
 白鬚神社改築記念 碑文
 当社は、岡村の新田として約三百年前の貞享年間(1684-1688)には開かれていたと言われている。
 地内の浅間神社の入口にある庚申塔には、享保元年(1716)大谷勤右衛門、加藤徳左衛門、加藤佐左衛門、小暮長右衛門、茂木善右衛門等の名が刻まれておりこれらの先人達が新田開発に携わって来たものと思われる。
 口碑によれば、明治二年(1765)に社殿の再建が行われたという。別当は、岡上にある真言宗岡林寺であったが、明治初年の神仏分離によって寺の管理を離れた当社は、社格制定に際し無格社とされ、その後の合祀改築の際にも合祀されることなく現在に至っている。
 
その後、長い歴史とともに社殿も風雨に晒され耐えてきたものの、近年、特に老朽が目立つようになり、社殿改築が氏子の関心の的となっていた。
 こうした中で、平成五年、字の初会の席上に於いて、敬神崇祖の念に燃え滾る氏子達より改築の件に関し、現況では応急処置よりも社殿全ての改築を、とする意見が大部分を占め、早急に検討するべき具体案の策定まで話し合いが進展し、次の案が出され、全員の賛同を得て改築委員会の発足をみたものである(中略)
 解体後の整理中に、本殿が安置されていた台座(高さ二十センチメートル、縦横百十センチメートル)の裏面の隅の一部に、次のような記述が発見された。
 「明和六年己丑九月奉納 念願成就祈信心 當地大工作 横山市之丞、小川年次郎、加藤右藏、大谷金七、茂木重次郎、北川文藏、新井源七」、さらに、本殿裏側にあった石碑の表面に、次のような文言を確認した。
 「明和六年己丑、白髭本地薬師、十一月六旦、用土石工 平八為」
 
以上、二つの記録により、当社が今から二百二十八年前の建立であったことが推測される。(中略)
 以上、概要を記し、多くの先人達が精神の拠り所としてこの御宮を守り伝え、「敬神崇祖」の立派な精神文化を残されたことに対し改めて感謝を申し上げるとともにこのことが、永久に受け継がれていくことを念じ、此処に此れを建立す。(以下略)
        
 本殿奥にあった謎の石。石の表面には人工的に刻んだ跡があるが、ハッキリとは判別しづらい。「白鬚神社改築記念 碑文」に「明和六年己丑、白髭本地薬師、十一月六旦、用土石工 平八為」と書かれていた石碑の可能性はあるのであろうか。
 
 社殿左側奥には菅原神社。手前の石祠は不明。  社殿右側に鎮座する八坂神社と大黒天2基

 埼玉県には白髭神社・白鬚神社・白髪神社と白(髭・鬚・髪)を冠した社が意外と多く存在する。系統も3つに分かれているようだ。
滋賀県高島市鵜川にある「白鬚神社」を総本社とする系統。
 主祭神は天狗で有名な猿田彦命であり、容貌魁偉で、鼻は高く、身長は七尺余りという身体的な特徴を持つ。ある説では天津神が国土を統一する以前より豊葦原国を大国主命と共に統治していた国津神、地主神とも言われ、その後瓊瓊杵尊が天孫降臨の際には道案内をしたということから、道案内の神、その後道の神、旅人の神とされ、日本全国にある塞神、道祖神が同一視され、「猿田彦神」として祀られているケースが非常に多い。
 岡白鬚神社はこちらの系統に属すると思われる。
埼玉県日高市に鎮座する「高麗神社」を総本社とする系統。
 高麗神社は別名、高麗大宮大明神、大宮大明神、白髭大明神と称されていたが、その始祖的存在である高麗王若光は白髭をはやしていて「白ひげさん」と言われていたという。
 この高麗神社を総本社とする「白髭」「白髪」神社は高麗郡を中心として入間川流域に集中して鎮座している。
清寧天皇を御祭神とする系統。
 清寧天皇は雄略天皇と葛城韓媛との子で,生まれながらに白髪であったことから,白髪皇子と呼ばれた。和風諡号は白髪武広国押稚日本根子天皇、白髪大倭根子命(古事記)。吉田東伍は清寧天皇の御名代部である白髪部にゆかりのものだろうと考察している。
        
                               社殿から境内を撮影
        
                     社の道沿いに石祠・お地蔵様等が整然と並んでいる。
      

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小曽根神社

        
             ・所在地 埼玉県熊谷市小曽根281
             
・ご祭神 天鈿女命
             
・社 格 旧村社 創建  天明2年(1782)
             
・例 祭 不明
 小曽根神社は国道17号バイパス「柿沼」交差点を左折し、600m程行った左側にコンビニエンスがあり、その手前のT字路を左折する。道なりに500m程進むと前方右側にこんもりとした小曽根神社の社叢が見える。旧小曾根集落の南東の端にあたる場所に鎮座していて、旧社格は村社。
 
駐車場は残念ながらないので、神社脇に駐車させてもらい素早く参拝する。
 
 一の鳥居(写真左)を過ぎて、突き当たりを右側に曲がると二の鳥居(同右)が見える。
        
                                  こざっぱりした境内
        
                                         拝 殿
 小曽根神社(熊谷市小曽根二八一(小曽根字東浦))
 当地は、古くから開発された所で、古墳があり先史時代の住居跡が発掘されている。当社境内も“曾根の木古墳”発掘の土を盛ったという口碑がある。また、小曽根は昭和二十九年まで中条村の大字であり、中条とは、古い条里制より起った呼称である。
 小曽根の地名は、やせた荒地を表すとする説がある。しかし、これは当社の祭神にちなむものではあるまいか。祭神の天の鈿女命を古くは「うずめさま」更に「おすめさま」と呼び、これがいつしか古い社名の雀宮となり、地名の小曽根となったと考えられる。
 『風土記稿』には「雀宮 村の鎮守なり、修験東光院持」とある。東光院は、当社前にある納見尚男家の先祖で、維新による復飾後も当社の面倒をみていたと伝える。また、地元の山田淳之編『小曽根と山田氏』に、納見家には「雀宮別当 権大僧都知道」と書かれた慶長十二年(一六〇七)の文書があったことが記されている。
 『明細帳』に「明治四十一年十月十二日、同大字字向河原天神社、字西浦稲荷神社ヲ合祀シ社号雀神社ヲ小曽根神社ト改称ス」とある。
 内陣に三基の霊璽が安置してある。一つは雀宮霊璽で、「武蔵国埼玉郡小曽根村 雀大明神勧請 鎮座天明二年(一七八二)三月廿六日 神祇道長上卜部良延」とある。次の一つは天神社のもので、内部に像高三二センチメートルの古い男神像を納めている。残る一つは稲荷神社霊璽である。
                                  
「埼玉の神社」より引用
 
    小曽根神社の扁額(写真左)他に雀神社と天神宮の額も掛けられている(写真右)

 小曾根村の鎮守社である当社は、嘗て祭神である「天鈿女命」を「うずめさま⇒おすめさま」となり、いつしか社名も「雀宮」と変わり、現在の地名の小曽根となったと考えられる。その後明治41年に字向河原天神社、字西浦稲荷神社を合祀、小曽根神社と改称した。その名残が3枚扁額という形で残されている。
 
    拝殿左側に並列して鎮座する石祠           石祠の隣には境内社
           白山神社と牛頭天王                 詳細不明
        
                    御嶽塚碑群
 石碑群の奥中央には
「三笠山大神・御嶽山大神・八海山大神」が鎮座し、その周りには、摩利支天・大江大神・清瀧権現・十二権現・一心霊神・三鷲義霊神などの文字も見える。

 小曽根神社が鎮座する熊谷市小曽根地区。この小曽根地域は、熊谷市北東部に位置し、東で今井、西で柿沼・代、南で肥塚、北で下奈良に隣接する。
 
ところで「小曽根」は「おぞね」と読む。この小曽根の地名由来はいくつかあって、熊谷WEB博物館等では以下の説があるという。
小曽根地区は、利根川と荒川の中間に位置し、河床由来の砂礫の多い痩せた土地で、古語でそれを意味する「埇(そね)」を当てていたことが名前の由来と言われている。〔熊谷市史〕
ソネ(曽根)は、ス(石)ネ(根)の転呼。スはシ(石)の原語、ネは峯、畝などのように丘堆状の地形にも用いられる。つまり、石ころの多い丘堆状の土地のことか。〔日本古語事典〕
・「
ソネ」は表土の下部に岩や礫、砂などがある痩地のところで、礁の名や旧河床の部分をいう名として各地にみられる。〔日本の地名・埼玉県地名誌〕
県内に多くみられる「ソネ」という地名は、元荒川・古利根(ふるとね)川などの河川の沿岸にあるという。「ソネ」地名の発生時代は15001700年とみられる。〔日本地名学〕
アイヌ語(オソネイOsonei)から露岩の尻という意味。
             
 小曽根神社北方近郊には「東浦遺跡」が存在し、平成17年に調査・発掘されている。古墳時代後期の住居跡や、竪穴状遺構、須恵器腿等の出土によって、開始時期は5世紀末から6世紀初めに遡る可能性が高い。「埼玉の神社」による小曽根神社の由緒では、古くから開発された所で、古墳があり先史時代の住居跡が発掘されていると書かれているが、
「東浦遺跡」の発掘により証明されている。

 小曽根神社境内には“曾根の木古墳”発掘の土を盛ったという口碑があるという。写真でも見た通り、境内で古墳らしき面影が残っている場所は、本殿奥周辺に若干の高みが見えるだけである。『埼玉県古墳詳細分布調査報告書』には直径25mの円墳。半壊で直刀出土伝承ありとの記載がある。




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平塚新田八幡神社

        
            ・所在地 埼玉県熊谷市平塚新田508
            ・ご祭神 誉田別命
            ・社 格 旧村社
            ・例 祭 415日 春祭、715日 夏祭(雷電社・風雨順次の祈願)
                 
1015日 秋祭
 平塚新田八幡神社は国道407号を東松山方向に進み、荒川大橋を越えた「村岡」交差点を直進するが、最初の「村岡三又」のY字路を右折し、そのまま1㎞程進み、和田吉野川を渡って、熊谷警察著・吉野駐在所のあるT字路を左折する。左側に吉岡中学校を見ながら左方向に円を描くように進むと、高台のある一角に平塚八幡神社の参道入口に到着する。
 地図を確認すると、熊谷私立吉岡中学校に隣接して社は鎮座している。
 参道付近に駐車スペースなどは無いが、参道周辺には路上ではあるが駐車できる僅かな緑地帯もある為、そこに停めてから参拝を行う。
 
 入口には神社名を彫った社号柱と門柱が立つ。 門柱を過ぎるとすぐに石段になり境内まで続く。
        
                                    石段途中には鳥居

 ところで鎮座地である「平塚新田」の由来として「地名語源辞典」からは以下の説明がされている。
「平塚新田」
明らかではないが、「平塚」の「塚」は、古墳という意味があるので、古墳かさもなくば、古墳のような小山か岡があったものとみられる。「新田」とは文字のごとく、新しく開発された土地のことをさす。
『風土記稿』によると、草原の中に塚があったことに由来するとあり、実際、昭和20年頃までは地内には3基の古墳があり、最も大きな古墳は大塚山と呼ばれていたとのことなので、昔は古墳上にあった可能性は否定できない。社の鎮座地の字は「前原」であるが、別名八幡山と呼ばれているそうだ。
 
     石鳥居に掲げてある社号標        石製の鳥居を過ぎると境内が見えてくる。
        
                                         拝 殿
 境内は広く、木々に囲まれているとはいえ開放感もあり、雑草等もなく、手入れも行き届いている。
        
                          平塚新田八幡神社 案内板
○八幡神社
 平塚新田村社である当社の創建は、江戸中期に当地が万吉村から分村した頃と伝えられています。
 明治四十一年四月二十七日には原新田村の村社である八幡神社が合祀されました。
 当社は、古くから「赤旗八幡」と呼ばれ、それに対して原新田の八幡神社は、「白旗八幡」と呼ばれていました。この名称については、古老の話によれば、平氏と源氏の子孫が祀る神社であることから社名に冠したとする伝承と、当地と原新田の開発が同時期で、祀る神社も同じ八幡神社であったことから区別するため社名に冠したという伝承があります。
 
本殿は、古来より流造で、現在建設中、本殿屛に拝殿は往古のままですが、外宇は元大字楊井原新田村社八幡神社の外宇を合祀と共に改築したものです。
 
年間の祭事には、元旦祭をはじめ、四月十五日の春祭り、七月十五日の夏祭り、十月十五日の秋祭りがあります。
 令和元年五月  吉岡学校区連絡会
                                      案内板より引用
 
 平塚新田八幡神社社殿の左側手前には境内社・雷電神社が鎮座している(写真左)。案内板(同右)もあり、それによると、元々は吉岡村大字楊井字北耕地にありました原新田村社八幡神社の境内社でしたが、明治四十一年四月、平塚新田村社八幡神社に移され、八幡神社境内神社となったという。因みに説明にでてきた「楊井」は「やぎい」と読む。
○雷電神社
雷電神社は、元々は、吉岡村大字楊井字北耕地にありました原新田村社八幡神社の境内社でしたが、明治四十一年四月、平塚新田村社八幡神社に移され、八幡神社境内神社となりました。
 雷神は、文字通りカミナリの神様ですが、古代においては日神(ヒノカミ・太陽神)の分身として、天と地をつなぐ役目を果たす神の代表的存在でした。見た目には恐ろしい形相をしていますが、雨を導くカミナリは、稲の豊作をもたらす五穀豊穣の神として、古くから稲作農家には欠かせない神様でした。雷神を祀った神社は各地にありますが、どこにおいても、雨乞いや火伏せといった水火両面を司る神様として親しまれています。
 かつて、日照りが続くと原新田関谷にある井戸から水をくみあげ、御神水として雷電神社に供え、降雨を祈ったと謂われています。今日では、七月十五日に風雨順次の祈願が行なわれています。
 令和元年五月  吉岡学校区連絡会
                                      案内板より引用
        
             帰路社殿側から一の鳥居方向の風景を撮影
 
   和田吉野川から鎮座地方向を撮影           和田吉野川の流れ

 平塚新田八幡神社が鎮座するこの地域は、平均標高25m30m程の和田吉野川を境として左岸の河岸低地、右岸は東南から北西方向に広がる江南台地(洪積台地)に移る境となっていて、低地帯からの標高差15m程の微高地を形成している。
 社の東側には吉岡中学校、南側の微高地には民家が立ち並ぶが、北側・東側は台地への境界でもあり、北側は耕作地、東側は崖面もあり、開発されていない。昼間ながらほの暗い場所でもある。


 

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