古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

平塚新田八幡神社

        
            ・所在地 埼玉県熊谷市平塚新田508
            ・ご祭神 誉田別命
            ・社 格 旧村社
            ・例 祭 415日 春祭、715日 夏祭(雷電社・風雨順次の祈願)
                 
1015日 秋祭
 平塚新田八幡神社は国道407号を東松山方向に進み、荒川大橋を越えた「村岡」交差点を直進するが、最初の「村岡三又」のY字路を右折し、そのまま1㎞程進み、和田吉野川を渡って、熊谷警察著・吉野駐在所のあるT字路を左折する。左側に吉岡中学校を見ながら左方向に円を描くように進むと、高台のある一角に平塚八幡神社の参道入口に到着する。
 地図を確認すると、熊谷私立吉岡中学校に隣接して社は鎮座している。
 参道付近に駐車スペースなどは無いが、参道周辺には路上ではあるが駐車できる僅かな緑地帯もある為、そこに停めてから参拝を行う。
 
 入口には神社名を彫った社号柱と門柱が立つ。 門柱を過ぎるとすぐに石段になり境内まで続く。
        
                                    石段途中には鳥居

 ところで鎮座地である「平塚新田」の由来として「地名語源辞典」からは以下の説明がされている。
「平塚新田」
明らかではないが、「平塚」の「塚」は、古墳という意味があるので、古墳かさもなくば、古墳のような小山か岡があったものとみられる。「新田」とは文字のごとく、新しく開発された土地のことをさす。
『風土記稿』によると、草原の中に塚があったことに由来するとあり、実際、昭和20年頃までは地内には3基の古墳があり、最も大きな古墳は大塚山と呼ばれていたとのことなので、昔は古墳上にあった可能性は否定できない。社の鎮座地の字は「前原」であるが、別名八幡山と呼ばれているそうだ。
 
     石鳥居に掲げてある社号標        石製の鳥居を過ぎると境内が見えてくる。
        
                                         拝 殿
 境内は広く、木々に囲まれているとはいえ開放感もあり、雑草等もなく、手入れも行き届いている。
        
                          平塚新田八幡神社 案内板
○八幡神社
 平塚新田村社である当社の創建は、江戸中期に当地が万吉村から分村した頃と伝えられています。
 明治四十一年四月二十七日には原新田村の村社である八幡神社が合祀されました。
 当社は、古くから「赤旗八幡」と呼ばれ、それに対して原新田の八幡神社は、「白旗八幡」と呼ばれていました。この名称については、古老の話によれば、平氏と源氏の子孫が祀る神社であることから社名に冠したとする伝承と、当地と原新田の開発が同時期で、祀る神社も同じ八幡神社であったことから区別するため社名に冠したという伝承があります。
 
本殿は、古来より流造で、現在建設中、本殿屛に拝殿は往古のままですが、外宇は元大字楊井原新田村社八幡神社の外宇を合祀と共に改築したものです。
 
年間の祭事には、元旦祭をはじめ、四月十五日の春祭り、七月十五日の夏祭り、十月十五日の秋祭りがあります。
 令和元年五月  吉岡学校区連絡会
                                      案内板より引用
 
 平塚新田八幡神社社殿の左側手前には境内社・雷電神社が鎮座している(写真左)。案内板(同右)もあり、それによると、元々は吉岡村大字楊井字北耕地にありました原新田村社八幡神社の境内社でしたが、明治四十一年四月、平塚新田村社八幡神社に移され、八幡神社境内神社となったという。因みに説明にでてきた「楊井」は「やぎい」と読む。
○雷電神社
雷電神社は、元々は、吉岡村大字楊井字北耕地にありました原新田村社八幡神社の境内社でしたが、明治四十一年四月、平塚新田村社八幡神社に移され、八幡神社境内神社となりました。
 雷神は、文字通りカミナリの神様ですが、古代においては日神(ヒノカミ・太陽神)の分身として、天と地をつなぐ役目を果たす神の代表的存在でした。見た目には恐ろしい形相をしていますが、雨を導くカミナリは、稲の豊作をもたらす五穀豊穣の神として、古くから稲作農家には欠かせない神様でした。雷神を祀った神社は各地にありますが、どこにおいても、雨乞いや火伏せといった水火両面を司る神様として親しまれています。
 かつて、日照りが続くと原新田関谷にある井戸から水をくみあげ、御神水として雷電神社に供え、降雨を祈ったと謂われています。今日では、七月十五日に風雨順次の祈願が行なわれています。
 令和元年五月  吉岡学校区連絡会
                                      案内板より引用
        
             帰路社殿側から一の鳥居方向の風景を撮影
 
   和田吉野川から鎮座地方向を撮影           和田吉野川の流れ

 平塚新田八幡神社が鎮座するこの地域は、平均標高25m30m程の和田吉野川を境として左岸の河岸低地、右岸は東南から北西方向に広がる江南台地(洪積台地)に移る境となっていて、低地帯からの標高差15m程の微高地を形成している。
 社の東側には吉岡中学校、南側の微高地には民家が立ち並ぶが、北側・東側は台地への境界でもあり、北側は耕作地、東側は崖面もあり、開発されていない。昼間ながらほの暗い場所でもある。


 

拍手[1回]


箕輪船木明神社

 箕輪自治体は、熊谷市の南部に位置しています。南側は船木台地区に、西側は東松山市岡地区に接しています。北側には一級河川である荒川が流れています。東側は箕輪耕地と呼ばれる広大な水田が広がっています。船木神社は、その昔南部丘陵の耕地に面した高さ15mの船木山頂にありました。創建はかなり古く、江戸期には村の産土神を祀る明神社とされてきましたが、明治期に祭神豊受姫命(伊勢神宮外宮の祭神で農業進展の神様)となりました。
 
船木山の裾に「つねぎした」という地名があります。船木神社の歴史を綴った史料である社伝によると、昔山裾を荒川が流れており、対岸から来る船を山頂から眺め、「船が来た…船来…船木」となったと言われているそうです。また、「つねぎ」は「繋ぎ」、つまり船を係留したところという意味があります。
 
平成元年の団地造成により、御神体を他の場所に移す遷座が要望されました。そこで、箕輪との境である現在の場所へ、標高35mの丘を築き、旧社殿と同様に西向きの社殿を新築しました。 
                       「くまがや自治連だより」平成29年8月号より引用                                  

        
              所在地 埼玉県熊谷市船木台5-3-2
              ・ご祭神 豊受姫命
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 不明
 箕輪船木明神社の現鎮座地である船木地区は熊谷市の南側に位置し、荒川の河岸段丘上には現在、分譲住宅が多く建てられ、工業団地も隣接する住宅地との調和を図りながら、先端企業の立地を誘導しているようだ。
 大里村南部土地区画整理事業施行区域でもあり、土地区画整理事業による基盤整備の効果が、その後の無秩序な建築行為等により損なわれることのないよう地区計画を策定し良好な居住空間の創出を誘導し質の高い市街地の形成を図ることを目的としているとの事だ。
        
                  箕輪船木明神社正面
 箕輪船木明神社は埼玉県道66号行田東松山線を旧吹上町から荒川を南下し、東松山方向に進む。大芦橋を越えてから最初の交差点は直進し、次の手押し式の交差点では右折する。この交差点は右斜め方向に大きな工場が目印になる。右折後800m程暫くそのまま進み、次の十字路を左折、その後西南方向150m程の阿諏訪野公園を目指して頂く。箕輪船木明神社は阿諏訪野公園の隣に鎮座している。
 因みに現在熊谷市船木台地区に鎮座しているので、神社名も「船木台船木神社」と表記したほうが正しいのだが、平成元年に当地に遷座した関係で、それ以前に所在した場所は「箕輪」地区である。また新編武蔵風土記稿では「神社」として記載されておらず、「明神社」と書かれていたので、今回「箕輪船木明神社」として紹介する。但し所在地に関しては現在の鎮座地を記載した。
 近年遷座した関係で、神社も奇麗に整備され、周りの雰囲気もあり小ざっぱりとした印象。
        
                                       拝 殿
 船木神社 大里村箕輪八六七(箕輪字船木)
 箕輪は、比企丘陵の東端部にあり荒川水系の和田吉野川右岸に位置する。地名は、かつて荒川や和田吉野川が増水した際、辺りが水の輪すなわち川の縁になったことに由来する。鎮座地は小高い丘の上にあり、その周辺からは弥生期から平安期に至る住居跡が発見されている。また、近くには冑山古墳やとうかん山古墳などの大型古墳が存在し、これは荒川の対岸にある行田の埼玉古墳群と同時期(五、六世紀)に築かれたものといわれている。
 社名並びに小名である「船木」の由来については、日本武尊が東夷征の折、当地に船で着いたという伝承と胃山古墳の被葬者が武蔵国造兄多毛比命であるとの伝えから、この兄多毛比命が船で着いたという伝承がある。いずれにしても、当地はかつて荒川や和田吉野川を舟で渡って来る要地「船来」すなわち「船津」であったのであろう。あるいは、埼玉古墳群の被葬者と政治的にかかわりがあったかもしれない。
 このような背景から考えるに、当社は船で往来する人々の安全を見守る「船来の神」であったのであろう。これが後世、村を開くに当たり、鎮守として崇敬されるようになったものと思われる。
 当地は初め箕輪胃山村と称していたが、元禄年間(一六八八-一七〇四)までに箕輪村として一村となっている。
                                  「埼玉の神社」より引用
 
    石段手前、左側に並ぶ石祠群         拝殿の手前、左側に鎮座する境内社群
                       左から大神宮、白山神社、八幡・諏訪・日枝 
                       神社石祠、不明×3
 新編武蔵風土記稿では、箕輪船木明神社は地域の「産神」であったという。この「産神」とは
・その者が生まれた土地の守護神を指し、その者を生まれる前から死んだ後まで守護する神とされており、他所に移住しても一生を通じ守護してくれると信じられている。
出産の前後を通じて、妊産婦や胎児・生児を守り、また、出産に立ち会い見守ってくれるとされている神。
 この「産神」は「氏神」とは違い、「氏神」は「今住んでいる地域を昔から守ってくださる神様。我々の日常生活を守ってくださる最もかかわりの深い存在」といい、「産神」は「自分が生まれた地域、土地に昔からいらっしゃる神様。その地域で生まれた子供の一生の健康と命を守る。産土神とも言い、出生地を意味する」と箏を指す。
        
                                        本 殿
 欽明天皇十四年紀に「蘇我大臣稲目宿祢・勅を奉じて、王辰爾を遣はし、船賦を数録せしむ。即ち王辰爾を以って、船の長と為し、因って姓を賜ひて船史と為す、今の船連の先也」と見える。この王辰爾という人物は、百済系王族の系譜から来た渡来人と言われている。
・百済貴須王―辰斯王―辰孫王(応神朝来朝)―太阿郎王(仁徳天皇近侍)―亥陽君―午定君―辰爾
欽明天皇十四年紀の上記では、王辰爾(辰爾)に「船賦を数録」せしめ、「船の長と為し、因って姓を賜ひて船史と為」したということから、「船(フナ)」と関連性のある人物と考えられ、この系統の一派が、この「船木」地区にも存在していたのではないかと考える。
        
                 社殿から鳥居方向を撮影

 昭和48年調査の船木遺跡での発掘調査では、弥生時代後期から古墳時代・奈良平安時代の住居跡16箇所を検出した。とくに古墳時代後期初頭の住居跡からは滑石製模造品や未製品が多数出土したことから、玉作工房跡の発見となった。出土土器は5世紀末の須恵器・土師器が伴い当時の土器組成を知る格好の資料とされる。

    

拍手[2回]


玉作八幡神社

           
              ・所在地 埼玉県熊谷市玉作343
              
・ご祭神 誉田別命
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 不明
 玉作八幡神社は大里比企広域農道・通称「みどりの道」と呼ばれているが、その農道を吹上・吉見町方向に進む。津田八幡神社の参拝後、一旦県道に合流し更に南下すると、和田吉野川の土手を下る右手方向に玉作八幡神社のこんもりとした社叢が見える。
 和田吉野川の土手を下る最初のT字路を右折すると、すぐ左手に「桜リバーサイドパーク」公園駐車場があり、そこに駐車する。玉作八幡神社はその駐車場の東側に隣接していて、特にフェンス等の遮蔽物もないので、駐車場南側から回り込むようにして参拝を行った。
        
              参道から離れた玉作八幡神社一の鳥居
 玉作八幡神社が鎮座する熊谷市玉作地区は、北は荒川水系の支流で東西方向に流れる和田吉野川が玉作水門に達する下流域の南岸周辺に位置し、東は荒川右岸に接している。南は埼玉県道307号福田鴻巣線の北側の田園地帯付近で、西はその県道と枝分かれし、北西方向の相上地域に進む道路の東側がその地区範囲となる。
 玉作地区の中央部を南北に貫通する「みどりの道」を境にして、西側が本田、東側が新田と呼ばれ、当社は、本田の集落の北端部に、荒川支流の和田吉野川の流れを背に鎮座し、その社殿は水害を避けるために水塚の上に築かれている。
        
              
「みどりの道」西側に鎮座する社
        
        水害対策の為か、朱色の鳥居基礎部分が頑丈に補強されている。
        
                                      境内の風景
 参道周辺は綺麗に手入れがされている。樹木に覆われているが、参道周辺は陽光もさすような幅設定となっている。但し参拝当日は小雨交じりの天候で、境内周辺の湿度はかなり高い。
 
    参道左側には石碑(写真左)や末社の石祠(同右)が並んでいる配置となっている。
        
                     拝 殿
 八幡神社 大里村玉作三四三(玉作字成瀬)
 船木遺跡の出土品に見られるように、古代、大里郡内では勾玉や管玉が製作されており、玉作という地名もこの地に玉造部が住んでいたことによるという。玉作の地内は、中央部を南北に貫通する大里比企広域農道を境にして、西側が本田、東側が新田と呼ばれ、当社は、本田の集落の北端部に、荒川支流の和田吉野川の流れを背に鎮座し、その社殿は水害を避けるために水塚の上に築かれている。
 『郡村誌』に「往古は玉造神社と唱へたりと云」とあるように、当社は、古くは玉造神社と呼ばれ、古代の玉造部が創祀し、奉斎した社ではないかと考えられている。この玉造神社が八幡神社になった時期や経緯については明らかではないが、地内にある玉泉寺は源頼朝の弟である範頼草創の慈眼院を再興したものであるとの伝承があることや、近くの津田には鎌倉の鶴岡八幡宮の放生会料所にかかわると思われる八幡神社があることから、源氏の台頭に伴い、源家の氏神である八幡神社が玉作に勧請された結果、旧来の玉造神社が衰徴したか、社名を改め、今日の八幡神社になったものであろうか。
 江戸時代、当社は不動寺の持ちであったが、神仏分離後はその管理を離れ、明治七年に村社になり、同四十二年には字成願にあった稲荷社と荒神社を境内に移した。なお、稲荷社は、中世当地の北西隅にあった永福寺という大きな寺の境内社であったといわれている。
                                  「埼玉の神社」より引用 

        
「玉作」とは古い地名でこの神社も嘗ては玉造神社と称したとの伝承があるそうで、古墳時代にこの地に勾玉などの製作に従事していた玉作部が住んでいたことに因むとの見解もある。
 玉作八幡神社~北西方向に直線距離にして1㎞程、荒川南部環境センターに近い場所に「下田町遺跡」が存在する。この遺跡は現在の和田川と荒川の合流点付近の自然堤防上に位置する遺跡である。弥生時代から中世にかかる内容が明らかになり、鉄剣の出土した弥生時代の土壙墓1基、方形周溝墓9基・竪穴住居跡163軒・堀立柱建物跡30棟などが 検出されている。
 遺跡の主体は古墳時代から平安時代であり、古墳時代では子持ち勾玉が出土している。

下田町遺跡 場所 熊谷市大字津田
 下田町遺跡は和田吉野川と荒川が合流する地点に位置し、両河川によって形成された氾濫原の自然堤防上に立地しています。 これまでの調査で発見された遺構は、竪穴住居跡163軒、掘立柱建物跡30棟、方形周溝墓9基、井戸跡328基、溝跡601条、道路状遺構2条、土壙586基があります。 弥生時代から中世までの複合遺跡で、主体を占めるのは古墳時代前期から後期、平安時代にわたる集落です。 これらの集落は、低地に面した小高い地形に立地していたため、連綿と人々が生活の場にしていたものと考えられます。
 今回の調査で特筆すべきは、奈良時代の井戸から木製の壺鐙(つぼあぶみ)が発見されたことです。鐙とは馬に乗るときに足をかける道具ですが、今回発見された壺鐙は、表面に黒漆(くろうるし)が塗られた優雅な形のもので、たいへん珍しく貴重な資料と言えましょう。
 壺鐙のほかに注目される遺物としては、刻骨(こっこつ/古墳時代前期)、子持勾玉(こもちまがたま/古墳時代末)、 瓦塔(がとう/奈良時代)、合子型香炉(ごうすがたこうろ/平安時代)、 「占部豊川」と線刻のある紡錘車(ぼうすいしゃ/平安時代)、黒漆塗の鞍(くら/平安時代)、 和鏡(わきょう/中世)などがあげられます。
             「公益財団法人
埼玉県埋蔵文化財調査事業団」 ホームページより引用
        
 

拍手[1回]


津田八幡神社

        
              ・所在地 埼玉県熊谷市津田897
              ・ご祭神 誉田別命
              ・社 格 旧村社
              ・例 祭 不明
 大里比企広域農道は通称「みどりの道」と愛称で呼ばれているようだ。国道407号を荒川大橋で南へ渡り、「村岡」交差点で東へ入ると、この農道に入り、その道を「道の駅いちごの里 よしみ」がある吉見町方向に進む。丁度荒川が南東方向に向かう流れに沿ってこの道も形成されていると想像すると良い。「JAくまがや大里ライスセンター」を越えるころに進路は南方向に変わるが500m程下り、細いT字路を右折すると、正面に津田八幡神社の社叢が見える。
 残念ながら駐車スペースは全くないため、適当な路地に停めて急ぎ参拝を行う。
        
                 津田八幡神社鳥居正面
 社殿は南向きなのだが、参道入口は北東方向の道路に面してあり、参道正面の鳥居の舗装されていない脇道を越えて進み、一旦右に曲がり、さらに右に行くように、丁度コの字の形で林の中を進むと津田八幡神社社殿に至るという変わった進行方向となる。
 
 鳥居を越えて参道を進むと、社叢の木々のトンネルをくぐると、右手に社殿が見える(写真左)。突き当たりを右に曲がり、その後以前は赤い鳥居があった場所に到達し、尚右に曲がるコの字の形となる進行方向となり、参道正面(写真右)に至る。
 
     拝殿手前左側に大黒天の石碑          拝殿手前右側には「根精様」の標柱あり
                         大里村(現熊谷市)指定有形民俗文化財
        
                     拝 殿
 八幡神社 
 大里村津田八九七(津田字前町
津田の地名は、既に南北朝時代に「津田郷」として見え、その開発の古さを物語る。津田郷には、応永二十一年(一四一四)八月二十日の足利持氏寄進状により、鶴岡八幡宮の放生会料所があったことが知られ、そこに祀られたのが当社ではないかと想像される。
 『風土記稿』津田村の項には「諏訪社福王院持、八幡社村の鎮守なり、同寺持」とあり、当社が村の鎮守とされている。また、二社の別当であった福王院は、同地内の西明寺の門徒であった。明治初年に福王院の管理下を離れた当社は村社となり、更に明治四十五年字前町の無格社諏訪神社に遷座の上、同社と字西町にあった無格社八坂神社を合祀した。
 遷座前の社地は、字八幡町の水田の中にあった金塚と呼ばれる盛り土で、今は跡形もない。
合祀に際し、無格社であった諏訪神社の社地に移された理由は、八幡神社の社地が集落から離れ、参詣などに不便を来していたことが挙げられよう。
造営は、本殿が諏訪神社本殿として明治三十三年に行われ、覆屋が、来る合祀に備え、同四十二年に「諏訪八幡神社社殿新設」の名目で建立された。社殿下の盛り土はこの時に行われたものである。
                                  「埼玉の神社」より引用

        
               社殿の右奥にある境内社と根精様

 熊谷市津田地域は熊谷市の荒川中流域南岸、和田吉野川北岸の沖積低地に位置し、標高は平均20m25m程。弥生時代の頃には、荒川中流部の流路は扇状地河川特有の乱流をしていて、和田吉野川も荒川に合流する一派川であるため、洪水による浸水被害はかなりひどかったようだ。「津田」という地名も河川由来からくる地名だったのだろう。 
        
                      社殿からの遠景を撮影。長閑な田園地帯が広がる。

 但し洪水から醸成される肥沃な土地が幸いしてか、この地域周辺にはかなりの人々が定住していたことも分かっていて、南側に位置する相上地域には縄文時代の北廓遺跡や冑山遺跡があり、とうかん山古墳(全長74mの前方後円墳)、冑山古墳(埼玉県で2番目、全国で4番目に大きい円墳)もあることから、和田吉野川の流域には古代から人々が継続して居住していたことが伺え、また津田地域南側に隣接する「玉作」地域は文字通り大里郡内では勾玉や管玉が製作されており、玉作という地名もこの地に玉造部が住んでいたことによるという。
 大里郡津田郷は古代の幡田(はんだ)の里と言われ、後世は別称に伴田(はんだ、ばんた)と称していて、伴・蕃は姓氏録に渡来人を記している。九条家延喜式裏文書の大里郡条里坪付に「幡田里」と、また津田村旗本鈴木氏知行所に大里郡伴田村と見える。津田地域も含め、周辺地域が古代から栄えていた要因の一つにはその帰化した人々の存在も無視できないだろう。

「津田」地名の文献上での初見は意外にも古く、京都鹿王院貞治五年(1366年)文書に天龍寺領武蔵国津田郷、鎌倉円覚寺永和二年(1376年)文書に津田長福寺と見える。その後、鎌倉鶴岡八幡宮応永二十一年文書に武蔵国津田郷との記載があり、そこに祀られたのが当社ではないかと想像されている。
                 
                              
 余談だが、平安末期の源平合戦時、一の谷の戦いで戦死した河原高直、盛直兄弟には河原一党という集団を率いていたが、その中に「津田」姓の人物がいる。
武蔵志・埼玉郡北河原村条
 治承四年三月、河原一家歴々・河原源五常直・稲村八郎正直・中村四郎正広・和泉田藤太正信・間宮仲太盛久・毛利三郎友直。着座面々・布施田新平次・今藤正五郎・鈴木二平治・新井弥平太・高沢七郎太・川瀬四郎三郎・大井五郎治・川島三郎太郎・加藤仲治五郎・小沼八郎次・藤田弥平太・長井弥太郎。惣侍列位・名越十五郎・大河内三郎太・吉田仲五郎・布施田新平太・高野小平太・沢田十郎太・酒井源次三郎・鈴木二平太・川島又五郎・中条八郎次・同一十郎・加藤新八郎・川島五郎太・薬師寺四平太・平井三郎次・今藤九八郎・松本七平次・同六郎太・小和泉金平太・平野大三郎・田中小惣太・太田小五郎・森武平次・金沢藤次太・馬場門太三郎・橋本八五郎・岸軍次三郎・篠塚弥太三郎・竹井仲次太・園田太四郎・正田小軍治・三枝弥市太・津田定五郎・同藤八郎・小笠吉郎太・同文治三郎・新村吉五郎。是は河原太郎家の武家法令也

 さて河原一党・惣侍列位に登場する「津田定五郎・同藤八郎」なる人物は津田地域出身者であろうか。

拍手[1回]


上中条三幸神社


         
              ・所在地 埼玉県熊谷市上中条1283

             ・ご祭神 別雷命 大雷命 水分神
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 不明
 上中条三幸神社は熊谷スポーツ文化公園の西側に面して北西方向に流れている埼玉県道83号熊谷舘林線を、行田市北川原地区方向に進む。「上中条」交差点では県道に沿って左方向へ進み、右斜め方向に進む手前のY字路を左折すると正面左側に上中条三幸神社が鎮座する場所に到着する。道路沿い側には社号標柱が見え、その奥に舗装されていない民家へと続く道路があるが、境内と道路に特に仕切りはない様子。
 社号標柱と鳥居の間には駐車スペースが十分に確保されていて、そこに停めてから参拝を行った。
               
                        
社号標石の左側奥には殉国英霊塔あり
              
 
                           
鳥居。参道左手側には川南自治会館
 
   鳥居の左手前側に富士嶽大神の石碑        
川南自治会館脇に石祠群あり
               
                     拝 殿
               
                            社殿の右側にある案内板
 三幸神社由緒(歴史)
 上中条の地内は、差鍋掘という用水を境に二分されており、その北側は川北、南側は川南と呼ばれている。当社は川南の鎮守として、また上中条の総鎮守として、明治六年に常光寺持ちの千形・桜神社及び宝性院持ちの雷電神社の三社を合併し、更にそれを村のほぼ中央にあった女体神社の境内に移して設立された社である。
 なお、当社の本殿は忍城内に祀られていた八幡社の社殿をこの年に譲り受けて移築したもので、
鬼瓦には葵の紋が入っていた。また内陣には、享保元年(一七四一)に神祇官領から受けた千形・桜・雷電三社の幣帛が安置されている。
 
平成二十六年吉日
                                      案内板より引用
     
           拝殿手前に聳え立つ銀杏の木(写真左・右)         

              
紙垂はないが御神木にも見える。
 
    拝殿右わきに掲げてある奉納碑      社殿右側にある末社と
上半身が欠けた石仏       
        

拍手[1回]