古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

三俣諏訪神社

 現在の利根川の流れは、大水上山を水源として関東平野に入ると、北から東へ流れる「一本化」された川筋であるが、中世以前の利根川は、現在のように銚子市で太平洋に注ぐ形態を取っていなかった。当時は埼玉県羽生市上川俣で東と南の二股に分かれた後、南への分流(会の川)は南東に流路を取り、加須市川口で合流後再び本流となり現在の大落古利根川の流路をたどり荒川(現在の元荒川)などを合わせ、江戸湾(東京湾)へと注いでいた。
 このように嘗ての利根川は派川が多く「八百八筋」の如く乱流していて、尚且つ秩父山地から東側に流れる荒川も利根川と越谷(埼玉県)付近で合流する時もあり、一度大雨が降り始めると面積の狭い江戸湾(東京湾)では全て吸収しきれず、現在の埼玉東部から東京東部地帯は大湿地帯となっていた。
 天正18年(1590年)の徳川家康江戸入府後、利根川の河道を付け替える工事が始まった。世にいう「利根川東遷事業」である。その目的として、江戸を利根川の水害から守り、新田開発を推進すること、舟運を開いて東北と関東との交通・輸送体系を確立すること等に加えて、東北の雄、伊達政宗に対する防備の意味もあったといわれている。
 利根川東遷事業は、約60年間にわたって行われた大事業であるが、利根川の流れを変えるだけでなく、堤防も造成したり、農業用の用水路をつくるなどの工事も同時に行なわれた。
 その第一歩となった事業が「会の川」締め切り工事である。
 会の川(あいのかわ)は、埼玉県羽生市から加須市街地を流れる河川であり、利根川の大きい旧分流の一つで、会の川用悪水路(あいのかわようあくすいろ)とも呼ばれる。
 三俣諏訪神社は加須市街地で、会の川の北側近郊に鎮座している。一見して石垣のような頑丈な基礎で補強し、積み上げ、その上に社殿がある姿を見ると、この社も川の氾濫に備える対策を施していて、往時の水害の惨状に思いを巡らせたものである。
        
              
・所在地 埼玉県加須市諏訪184
              
・ご祭神 健御名方命
              
・社 格 旧三俣村鎮守 旧村社
              
・例祭等 例大祭 827
   
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1307296,139.5968783,20z?hl=ja&entry=ttu
 埼玉県道128号熊谷羽生線・同38号加須鴻巣線を通り、行田市を抜け、加須市街地方面に進む。「加須警察署前」交差点の先で、進行方向左側に三俣諏訪神社は鎮座している。県道沿いに鎮座しているので紹介しやすい社である。但し専用駐車場はないので、近郊にあるコンビニエンスに停めるしかない。勿論参拝前には買い物をすることは忘れていない。
        
                           県道沿いに鎮座する三俣諏訪神社
 利根川は羽生の川俣より南流し、加須市内に入って川幅を広げた。「三俣」という地名は「鬼島」「中島」「明智島」の州が流れを三つに分けていたことによるという。加須市街地を流れる会の川は嘗て古利根川と呼ばれ、一説によると利根川の本流ともいわれ、かなりの大河だったようだ。現在は近現代の整備により穏やかな流れを見せるが、嘗ては乱流であったのであろう。加須市内の社の多くがその社殿を高く積んでいるのは、川の氾濫から守るためであったと思われる
                                                        木製の二の鳥居 
 加須市街地の一角に鎮座しているからか、周囲の社叢林は少なく、陽光差し込む明るい社という印象。
『日本歴史地名大系』での 「三俣村」の解説では、「南は久下村・加須村と会の川を境に対し、北は手子堀川を限る。旧高旧領取調帳や「郡村誌」では上三俣村・下三俣村の二村として記載されているが、田園簿や元禄郷帳・天保郷帳では一村として載る。分村時期は幕末から明治初頭と考えられるが、元禄五年(一六九二)の質地証文(梅沢家文書)や同一四年の田地寄進証文(龍蔵寺文書)には下三ッ又村・上三俣村と記されており、元禄期頃から上・下に分けてよばれることもあった」とあり、江戸時代・元禄期は、下三ッ又村・上三俣村と分かれていたようだ。
 
             拝殿前に屹立するご神木(写真左・右)
 三俣諏訪神社の南西近郊には龍蔵寺がある。
 この龍蔵寺は、文和4年(1355)に教蔵上人によって開され、江戸時代には徳川幕府から寺領22石の所領安堵の朱印状が与えられたという、歴史ある寺院である。
 境内中央にそびえ立つイチョウの木は、高さ10mにも及ぶ樹齢670年の老大木である。龍蔵寺の縁起文によると、教蔵上人が人々を悩ませ続けていた約300mの白龍を、法力によって昇天させ、白龍の「龍」と教蔵の「蔵」をとって「龍蔵寺」と名付け、白龍が首をもたげた地に龍蔵寺を建立し、イチョウを植えたといわれている。
 市指定天然記念物 龍蔵寺の大銀杏
 この大銀杏は、幹回り四、三メートル、高さ十メートルで、昭和五十一年の指定時には高さ五十メートルをはかる大木であった。
 龍蔵寺縁起文に、寺の創建と大銀杏を植えた経緯が記されている。
「昔、この地に棲む怪物()が人々を悩ましていた。布教途上の教蔵上人が人々を救おうと、女性の姿をした鬼に、十念を授けたところ白龍となって天に上り、人々も鬼も救われたという。白龍の頭があった地に人々は龍蔵寺を創建し、また尾があった地に、弁財天を勧請した。 龍頭・龍尾があった場所に文和四年(一三五四)三月にそれぞれ銀杏を植えた」
 なお、龍尾のあった場所という諏訪神社境内の銀杏は、落雷にあい枯れている(以下略)
                                「龍蔵寺 案内板」より引用

 現在のご神木は、落雷により枯れてしまった銀杏に代わって植えられたものという事になる。
『新編武蔵風土記稿 三俣村条』によると、三俣諏訪神社は「諏訪辨天合社」として記載があり、社の別当寺は「光徳院」であるが、どちらも「白竜」伝説を共有している龍蔵寺との関係性が非常に深いと思われる。
*詳しくは「龍蔵寺の歴史」を参照。
 諏訪辨天合社
 諏訪社は正徳四年九月、大岡土佐守政春の勧請にして、村の鎮守なり、光徳院の持、
 龍藏寺
 淨土宗京都知恩院の末、無着山龍光院と號す、元は佛眼山と號せし由、寺領二十二石は慶安二年八月賜へり、本尊阿彌陀は立像四尺餘、慈覺大師の作なり、當寺は文和四年の草創にして、開山敎藏上人明德元年正月二日寂す、この敎藏は淨土傳燈總系譜敎藏慈智翁とのす、是なり、
鐘樓 正德五年の銘を鐘に之れり
                          『新編武蔵風土記稿 三俣村条』より引用

        
                     拝 殿
 鎮守諏訪神社緣起
 後村上天皇の御宇に當り忠臣多く匪躬の節に斃れ奸雄横行して天下麻の如く亂れ皇室式微し人民塗炭に苦めり當時本村の南部には利根川貫流し沿岸彼處此處厪に韜晦せる士人避難せる農民等の移住せしを見るのみにして開拓未だ普からず
 草萊蓬々たる原野多かりき利根の河中に三島あり鬼島中島明知島といふ奔流為に三叉を成せり爰に三俣の渡口あり
 適々龍藏寺の開山敎藏上人行脚して津頭に來り景勝を賞覽せらる舟予備に地理を語りて鬼島に及び曰く島内には怪物棲息して人を惱すを以て敢て行くものなしと
 時に上人予は雲水の身なれば願はくは衆生濟度の為め所謂怪物を得脱せしめんと乃鬼島に渡りて柴の庵を結び称名念佛七日に及べば夜中女性來りて十念を授けられんことを乞ふ上人徐に何者なりやと反問せしに忽百丈の大白龍身と化し十念を受けて見る見る形ヲ失ふ
 始め白龍の首を擡げし所には龍藏寺を創立して菩提寺とし蜿蜒七曲りして尾の止りし所には諏訪神社を勧請して氏神と仰けり是實に正平十年三月なり
 降て 中御門天皇の御宇正徳四年九月に至リ領主從五位下大岡土佐守藤原政春上諏訪神社を合祀し同時に家内和合の為め主夜神社を建立して攝社とす上社は建御名方命下社は事代主命を祭リ主夜神社は屋船命を祭れり
 爾来神徳の光被する所氏子愈々榮えて窮りなし乃齋戒沐浴して文獻に徴し舊記に據り謹みて之が梗概を記述すと云爾(以下略)
                                「鎮守諏訪神社緣起文」を引用
 この伝承は、古代の「ヤマタノオロチ伝説」同様、利根川(現会の川)の治水にまつわる伝説と考察できよう。
        
                    拝殿の扁額
 
       拝殿の扁額周囲には、幾多の奉納額が飾られている(写真左・右)。
『新編武蔵風土記稿』等に記載されている「大岡土佐守政春」とは、江戸時代「大岡越前守忠相」として有名な「大岡氏」の一族である。
 大岡氏は、摂政関白九条教実の庶流が,三河国大岡村に移り,地名を姓としたことより始まるといわれる。初代忠勝のとき,徳川氏の祖,松平清康・広忠の2代に仕え,その子忠政も家康に仕えて軍功をたてる。因みに忠勝の「忠」の諱は松平広忠に由来し、大岡氏代々の通字となった。その子忠行,忠世,忠吉の3系に分かれるが,忠吉の長男忠章の系統から忠世家に入った忠相が万石に列せられて西大平大岡家をおこし,同じく忠吉の末子忠房の系統から忠光がでて,側用人となり2万石をもらって岩槻大岡家をおこした。
 大岡土佐守政春は、忠吉の次男(三浦)吉明の系統であり、「大岡土佐守家」と称す。武蔵・上野国に領地を持ち、石高は2,000石。政春は戸田宗家・政光の3男光忠を祖とする分家である戸田政次の三男であるが、1660年に15歳で相続し、「三浦」から「大岡」に復姓した。その後、数回の加増により2,000石となる。1718年に73歳で隠居し、76歳で亡くなっている。
「鎮守諏訪神社緣起」では大岡土佐守政春はこの地域の領主であったというが、それを証明する書簡等は見つからなかったので、三俣諏訪神社との接点は判明しなかったが、「緣起」では、正徳四年(1715)大岡土佐守政春が信州諏訪から改めて諏訪社を勧請し、下社に神像を奉納したという。
        
           三俣諏訪神社の南側並びに鎮座する金毘羅神社。
      社の奥の両側には、「浅間大神」「小御嶽大神」の石碑が祀られている。
        
                             社殿からの一風景
 
  二の鳥居から北側に伸びる参道もあり、その参道右側沿いに「神庫」が並んで建てられている(写真左)。そしてその先には、社号標柱も立っている(同右)。 


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」埼玉の神社」加須市HP」
    「改訂新版 世界大百科事典」「Wikipedia」「龍蔵寺案内板」等

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