古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

戸川神社


        
              
・所在地 埼玉県加須市戸川808
              
・ご祭神 軻遇突智命 市杵嶋姫命 湍津姫命 田霧姫命
              
・社 格 旧寺ヶ谷戸村鎮守 旧村社
              
・例祭等 例祭 1015
  
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.1581039,139.5936007,16z?hl=ja&entry=ttu
 町屋新田天照皇太神宮から一旦東北自動車道方向に戻り、自動車道脇の道路を北西方向に1㎞程進む。埼玉県道366号三田ヶ谷礼羽線と交わる信号のある十字路を左折し、自動車道下を潜り、直後の十字路を右折、400m程進んだ先の進行方向左側に戸川神社の社号標柱が見えてくる。
        
              東北自動車道脇の道路に面して建つ社号標柱
       
                                           社号標柱の脇道の先に戸川神社は鎮座する。
       
                                                             戸川神社正面
 戸川神社の鎮座する大字戸川は、明治時代に寺ヶ谷戸村と広川村とが合併して成立した比較的新しい地域である。但し『新編武蔵風土記稿 寺ケ谷戸村条』並びに『同 広川村条』において、広川村はもと寺ヶ谷戸村の一部であり、慶安元年に分村したものであると伝えている。
『新編武蔵風土記稿 寺ケ谷戸村条』
「當所は志多見村の民佐左衛門と云者來りて開墾し、寛永の頃までは寺ケ谷戸新田と唱へて、志多見村に指揮せしが、何の頃よりか一村となれり」
愛宕社
 村の鎮守とす、地蔵院の持ち、
・地蔵院
 新義眞言宗、上羽生村正覺院末、愛宕山と號す、本尊地藏を安ず、開山堅證延寶七年十二月廿二日寂す、藥師堂
『新編武蔵風土記稿 廣川村条』
「元は寺ケ谷戸村の内なりしを、慶安元年分村すと云傳ふれど、元禄の國圖(*国図)に寺ケ谷戸枝郷廣川村と記したれば、全く一村となりしは後年のことゝ見えたり」
辨天社
 村の鎮守、村民の持、
『新編武蔵風土記稿』によると、当地は志多見村の民である佐左衛門が開いた土地であり、寛永年間までは「寺ケ谷戸新田」と唱えていた。また寺ヶ谷戸村の鎮守は愛宕社で、真言宗愛宕山地蔵院が別当であり、広川村の鎮守は弁天社で、村持ちであった。
その後1909(明治42)に広川村の弁天社を合祀し、戸川神社に改称したと云われている。
        
                       陽光が差し込み、開放感のある境内
   境内も綺麗に整備され、日頃の氏子・総代の方々の社に対する崇敬の思いを感じられよう。
『日本歴史地名大系』 での「寺ヶ谷戸村」の解説
 [現在地名]加須市戸川
 南は葛西用水路を境に下谷(しもや)村と対し、東は広川村。羽生領に所属(風土記稿)。元和七年(一六二一)羽生領代官大河内金兵衛久綱の命により、志多見村名主松村佐左衛門の手で開発されたと伝える。
当初は佐左衛門(さざえもん)新田と称されていたようで(正保二年「佐左衛門新田年貢割付状」松村家文書ほか)、田園簿では寺ヶ谷新田と記される。
『日本歴史地名大系』では、元和七年(一六二一)羽生領代官大河内金兵衛久綱の命により、志多見村名主松村佐左衛門の手で開発された地域であることが記されている。『新編武蔵風土記稿』よりも詳しく調べているようだ。
        
                     拝 殿
 加須低地上に鎮座する多くの社は、水害対策のため頑丈な石垣で補強された基盤上に鎮座している。この社の配置一つ見ても、地域の歴史の一幕を顧みることができよう。

 合祀記念之碑
 神ヲ敬ヒ神ヲ崇メ奉ル念ノ厚キハ我国民ノ良習ナリ頼リテ以テ国ハ穏力ニ民ハ安ラカナリ仰々当大字ハ広川寺ヶ谷戸二箇村ノ連合ヨリ成り而シテ古来愛宕神社ヲ以テ寺ヶ谷戸村ノ村社とし厳島神社ヲ以テ広川村ノ村社トス両社ノ神徳弥高ク各自ノ信仰最モ深カリシナリ〇ニ政府我同村社以下無格社ノ数多ク〇モスレバ神威ヲ瀆シ奉ランコトヲ恐レ社寺併合ノ訓令ヲ発セラレ此ニ於テ両社氏子総代ノ者率先シテ其併合ヲ図り遂ニ其ノ議ヲ決シ明治四十一年十一月三日出願シ同四十二年七月八日付指令収第六〇五号ヲ以テ許可セラレ同年九月十五日全ク合祀ヲ了シ社名ヲ戸川神社ト改称ス今ヤ本社ノ資産ヲ増加シ維持ニ困難ナカラシメ以テ崇敬ノ実ヲ挙ゲントス庶幾クハ将来永ク赫々タル神徳ヲ拝シ奉ランコトヲ得ンカ〇ニ合祀祭ヲ行フニ当リ碑ヲ建テテ記念トス
*〇印は旧字体であり、また印刷の所々がハッキリ読めず、解読できませんでした。
 
 拝殿の扁額には「愛宕山」と表記されている。           本 殿
 江戸時代当時の面影を残す貴重な額である。  本殿の左側奥には稲荷大明神の石祠二基あり
 
 社殿右側には幾多の石祠・石碑等が祀られる。  石祠・石碑の並びに4体の青面金剛像がある。
       
  境内社・姫宮社(多気比羅神社)、その隣には神厩舎があり、木製の白馬の像がある。
 この境内社は、埼玉県桶川市の元荒川沿いにある「篠津多気比売神社」と関係のある社と考えられる。江戸期「姫宮社」と称し、別名「姫宮大明神」とも云われ、その後明治初年社号を「多氣比賣神社」と改称したという。
       
 社の裏手、つまり北側には中川が一直線に流れている。河川改修の結果このような水路になったと考えられるが、嘗ての中川の周囲は後背湿地と埋没台地の谷が複雑に絡んだ地形でもあったという。因みに社の南川は葛西用水路が流れていて、河川・用水路に挟まれた地に鎮座している。
 戸川神社の北側隣には、へら鮒管理釣り場の「加須吉沼」が在り、周囲にも同様の沼が点在する。所々に沼もあるのは、かつてこの付近が沼地だった頃の面影を残す地形的な理由もあるのであろうか。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「
日本歴史地名大系」「Wikipedia」「境内碑文」等

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