古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

下高柳八坂社


        
              
・所在地 埼玉県加須市下高柳1081
              
・ご祭神 素戔嗚命・表筒男命・中筒男命・底筒男命・神功皇后
                   
菅原道真公・天穂日命・武夷鳥命・倉稲魂命
              
・社 格 旧下高柳村鎮守 旧村社
              
・例祭等 天王様 7815 
     
地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.109308,139.6077661,17z?entry=ttu
 加須市下高柳地域は、東武伊勢崎線の加須駅と花崎駅との中間地点で、鉄道南部に位置する「ショッピングモール」、「下高柳工業団地」等を内包する地域である。このショッピングモールの敷地は元々、下高柳工業団地として造成されていたが、企業が集まらなかったため、工業団地の一部を商業地として転用した経緯がある。近郊にはイオンモール羽生やモラージュ菖蒲などの大型ショッピングモールが開業したものの、建設当時はこのショッピングモールが周辺地域初の大規模ショッピングセンターだったので、「埼玉県北部最大のショッピングセンター」、「関東平野のど真ん中にでっかくオープン!」などのキャッチフレーズが用いられたという。
 このショッピングモールの西側を南北に通る埼玉県道149号加須菖蒲線をモールを通り過ぎた地点から500m程南下し、新川用水(騎西領用水)手前の十字路を左折する。その後「下高柳集会所」先の丁字路を左折し、暫く北上すると下高柳八坂社の鳥居が見えてくる。
        
                 
下高柳八坂社正面鳥居
 社の周囲は民家が立ち並ぶ住宅街の一角に鎮座していて、嘗ての「旧下高柳村鎮守・旧村社」という格式に対して、その歴史的な重みがなくなった第一印象。社殿や境内も最近改築等して一新し、綺麗に手入れもされているが、筆者が想い抱いていたイメージとはかなりかけ離れたものであった。
 
        民家の間にある参道           参道の先にある二の鳥居
       
                    二の鳥居を過ぎると明るい境内が広がる。
『新編武蔵風土記稿 上高柳村条』によると、元々は上下高柳村は共に一村を成していたが、正保年代に二村に分けられたという。
「文永の頃高柳弥五郎幹盛と云ふもの住せし故、此の唱ありなどものに見ゆれど土人は伝へず(中略)元は下高柳村と一村なりといへど、正保の改に上下二村とす、」
また風土記稿に記されている「高柳弥五郎幹盛」とは、武蔵七党・野与党の氏族である大河戸氏から分かれた高柳氏が居を構えた場所とされている。この「高柳弥五郎幹盛」は、『吾妻鑑』にも登場しており、卷五十二「文永二年五月二十三日、高柳弥次郎幹盛」と記されている。
 下高柳八坂社の創建年月日は明らかでないが、風土記稿によれば下高柳村の鎮守で、明治元年(一八六八)六月まで牛頭天王社と称されていた。また吉祥寺持ちとされている。
       
                     拝 殿
       
             境内に設置されている「社殿修築記念碑」
                  「社殿修築記念碑」
       八坂社の祭神は須佐之男命で極めて霊威高き神である平安の古き御代
       神仏習合に依りて牛頭天王として数多の社に鎮め祀らる此の神社の創
       建不詳なるが江戸の御代には牛頭天王社と称え村民の崇敬の的となる
       天文二年三月二十一日神祇官領からの宗源宗旨に依り正一位の神階が
       与えらる明治の初め八坂神社と改名明治五年村社に列格す後に村内に
       鎮座する三島社住吉社天神社鷲宮社稲荷社等を合祀し神威高揚に努む
       現在は八坂社と称す長年の歳月経て社殿老朽化し総代事取人に早急な
       改築の声高まる議りに議りて建設委員会を設置氏子一同に趣旨を通す
       崇敬の念に富み愛郷の情深き諸人等賛同し浄財を奉納宮司神社本庁に
       改築承認申請書提出す平成十七年二月一日付本庁統理より承認書届く
       直ちに着工建築に関わる神事行事百余名の氏人清き誠の心にて奉仕し
       盛大に執行大神等の高き尊き御神徳を蒙り奉りて工事順調に進展社殿
       内外の装飾麗しく整い尊厳な風格を加え神威を増し神聖な社となる平
       成十八年三月吉日社殿修築工事竣工奉告奉祝祭を大御国風高々に挙行
       忠実人等の顔歓喜に満ち神に祈る姿最も美し茲に竣工を寿ぎ地域の発
       展子々孫々の繁栄を祈り氏子等の美徳を称え謹んで一碑を建立して後
       世に伝えるものとする(以下略)
 
     境内にある古い祀念碑。            社殿左側にある神興庫か。
        
               神興庫の並びに鎮座する境内社等
        右から境内社・稲荷神社、弁才天・弁才天女の石碑等、力石。
        
                                      力 石
      左側の石の重量・38貫目、約140㎏。右側の石の重量・30貫目、約110㎏。
        
                                    境内の風景
『日本歴史地名大系』 「下高柳村」の解説
 [現在地名]加須市下高柳
 南は新川(につかわ)用水路を境に小浜村・常泉(つねいずみ)村と対し、北は青毛堀(あおげぼり)川を限り、西は上高柳村(現騎西町)。騎西領に所属(風土記稿)。田園簿によると田高三六〇石余・畑高三六五石余、川越藩領。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高二四七石余、反別は田方一三町九反余・畑方一三町二反余、ほかに新開高二四七石余、田方一三町九反余・畑方一三町二反余。国立史料館本元禄郷帳では幕府領。延享四年(一七四七)下総佐倉藩領となり(「佐倉藩領郷村高帳」紀氏雑録)、宝暦一三年(一七六三)上知(「堀田氏領知調帳」紀氏雑録続集)。化政期には常陸下妻藩領で(風土記稿)、幕末まで同藩領であったとみられる(改革組合取調書など)。



参考資料「吾妻鑑」「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」Wikipedia
    「境内碑」等

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