古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

両園部氷川神社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡川島町北園部636
             
・ご祭神 素戔嗚尊
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 例祭 49日 天王様 725
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@35.9964052,139.4503338,16z?hl=ja&entry=ttu
 国道254号線を川島・川越方面に進み、「南園部」交差点を右折すると、すぐに進行方向正面で、道路に対して右側にこんもりとした両園部氷川神社の社叢林が見えてくる。
 但し周辺には適当な駐車スペースはないため、交差点手前にある「IA川島直売所」の駐車場をお借りしてから参拝を開始する。あたり周辺は見渡す限りの農村地帯で、その中にポツンと直売所が設置されているが、それでも交通量が多いせいか、平日にもかかわらず駐車場には多くの車両が駐車しており、買い物に、またはひと時の休憩場所に活用している方々がいるようであった。
        
                             
両園部氷川神社正面
   埼玉県道74号日高川島線沿いであるが、県道に対して一段低い位置に鎮座している。
 
 境内は決して広くはないが、こじんまりと纏まっていて、社としての形態は整っている(写真左・右)。
 後になって知ったことだが、『新編武蔵風土記稿』では、嘗て北・南園部地域は「園部村」として一地域であったが、後年(江戸時代・元禄年間中)南北二村に分かれたという。『埼玉の神社』には両園部氷川神社の所在地は「北園部636」となっていて、解説にも「北園部村の西南万の飛び地」があったようだが、現在その飛び地は無くなり、所在地も「南園部636」となっている。
       
 境内全体社叢林の覆われているが、その中でも参道途中左側に聳え立つ巨木に目が留まり、思わずシャッターを切ってしまった(写真左・右)。ご神木かどうかは不明だが、かなり威圧感ある巨木である。
        
                                      拝 殿
 氷川神社 川島町北園部六三六(北園部字安藤町)
 かつて北園部村の西南万の飛び地に「安藤沼」と呼ばれる大きな沼があった。この沼の南側の杜に祀られていたのが当社である。
 当地の開発は、天正年間(一五七三-九二)に但馬重兼なる者が土着して行われたと伝え、その祖先の郷里である丹波国園部郷の地名を採って園部と定めたという。下って、慶長七年(一六〇二)に村人一同が協議の上、足立郡大宮宿の氷川神社を勧請し、村の鎮守とした。
 当時、氷川神社が武蔵国一の宮として広く名が知られていたことが鎮守として選定されるに至った理由である。また、本社である氷川神社は、正保期(一六四四-四八)の古図を見ると、広大な見沼を望む高鼻と呼ばれる高台の鬱蒼たる杜の中に鎮座しており、当社もこれに倣って安藤沼のほとりに奉斎されたことは想像するに難くない。
『風土記稿』は「氷川社南北園部村の鎮守なり、北園部村医音寺持」と載せている。一方、『明細帳』によると、明治四年に村社となり、同四十年には無格社四社を合祀した。ただし、実際に合祀が行われたのは、字江ノ島町の神明社の一社だけで、ほかの三社はそのまま残された。なお、当社の神域であった安藤沼は、大正期から昭和初期にかけて埋め立てられた。
                                  「埼玉の神社」より引用

「埼玉の神社」に記されている「但馬重兼」なる人物を調べてみると、元々は藤原鎌足の後胤藤原資道の子孫で、由緒正しい人物であったようだ。『比企郡神社誌』には以下の記載がある。

「大字園部村字安藤、氷川神社由緒。藤原鎌足の後胤藤原資道の子孫二十代に図書重清あり、応仁元年西国の乱に発向し、丹波国園部郷に住す。重清の弟但馬重成天文十二年越後国首城郡春日野に住す、長尾謙信に仕へ同所に死す。其の子図書重政永禄四年信州川中島の合戦に供奉す。其の子但馬重兼天正元年関東に発向し、武蔵国松山領惣名川島開発場有之爰に住居す。重兼兄弟三人あり、元丹波国園部郷をとり、園部と定む。以来友人来り元禄三年迄に戸数三十戸となる。慶長七年足立郡氷川神社より万札をなし鎮守氷川神社を安置し、藤原家先導したるため地名を安藤と称す」

 
この「但馬重兼」の本来の姓は「藤原」だが、この地に居を構えたところから「園部」と名乗った可能性は高い。『比企郡神社誌』が記している「元丹波国園部郷をとり、園部と名付ける」というのは本質的におかしな話ではなかろうか。元々この地の地域名は「園部」だった為、「元丹波国園部郷」出身の但馬重兼がこの地に移住したというのが真相であろう
「移住しようとする人物・集団」が何の目的・目標もなしに移動することはあり得ず、その「最終目的地」がきっとあるわけであり、その「一候補地」は間違いなく「移住先の地域名」となるに違いない。
 このように考えると地域名(地名)は同じ血縁集団が、どんなに離れていても、どんなに時代が過ぎようとも、最終的には同じ場所にたどり着けるように導く「灯台」であり「暗号」のようなものだったかもしれない。
 また嘗て北園部村の西南万の飛び地にあった沼の名前は「安藤沼」というが、その安藤沼の名称由来も、「藤原」氏がこの地に氷川神社を「安置」したことで、「安」+「藤」沼となったことも解説されている。



参考資料「新編武蔵風土記稿」「比企郡神社誌」「埼玉の神社」等


        

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