古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

長楽氷川神社


        
             ・所在地 埼玉県比企郡川島町長楽255
             ・ご祭神 素戔嗚尊
             ・社 格 旧村社
             ・例 祭 春祈祷 412日 天王様 722
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0044846,139.4261932,17z?hl=ja&entry=ttu

 戸守氷川神社から西方向約1㎞先の長楽地域に鎮座する長楽氷川神社。因みに「長楽」と書いて「ながらく」と読む。社の東側には南北方向に沿って通じる農道があり、そこから境内に入る入口があり、そこの一角に車を停めてから参拝を開始する。
 境内は決して広くはないが、社に隣接して西側には「長楽集落センター」が、また境内南側には児童用の遊具もあり、地域住民の方々の憩いの場所にもなっているのであろう。境内も参拝日当日雨交じりの天候故に人気はなかったが、日々の手入れもしっかりとしているようで、心静かな面持ちで参拝をすることができた。
             
                入口の設置されている社号標柱
       
                              
長楽氷川神社正面
 長楽氷川神社はほぼ東西に流れている長楽用水(ながらくようすい)の南側に鎮座している。この用水は、埼玉県比企郡川島町を流れる用水路で、川島町長楽の都幾川に設けられた長楽堰から取水する。途中で幾つかに枝分かれし、川島町北部を灌漑し、南部には安藤川に水を流し灌漑していて、最終的には市野川に排水される。流路延長は15.4 km、灌漑面積は762 haである。水路は素掘りで周囲は主に農地となっている。
『新編武蔵風土記稿』において「圦樋 村の西の方都幾川に設く、川嶋領二十五村組合用水の分水口なり」と記されていて、江戸時代元禄年間には用水路として整備された記録があり、1450年代の室町時代に開削された伝承が残るように、それ以前から用水路は開削されていたとみられている。
        
                                    境内の様子
 1967年(昭和42年)に長楽頭首工および長楽用水樋管の改修が行なわれ、1974年(昭和49年)から1981年(昭和56年)にかけて県の灌漑排水事業としての整備が周辺の排水路と共に行なわれた。また2012年度に埼玉県による「水辺再生100プラン」の対象となり、河岸が整備された親しみやすい川へ向けた事業が行われ、遊歩道の新設や、護岸の整備などが実施されたという。
        
                     拝 殿
 氷川神社 川島町長楽二五五(長楽字柳原)
 鎮座地である長楽という地名は、長いものの意で、河川を表す古名である。当地においては、都幾川並びに越辺川を示すのであろう。殊に中世、長楽は、都幾川からの用水取り入れ口に当たり、ここから近隣の戸守郷・尾美野郷・八林郷などに通水を行っていた。
 社伝によると、天文から天正年間にかけて、当地は北条氏代官の宇津木兵庫進が支配した。しかし、天正十八年(一五九〇)に北条氏が滅亡したため武門を退き、榎本四郎左衛門なる者と共に帰農した。
 慶長二年(一五九七)八月一日、両氏は、産土神として社殿を建立し、治水安泰の神として民衆に知られていた武蔵国一の宮氷川神社を勧請した。その後、貞享元年(一六八四)、次いで享和元年(一八〇一)に社殿の再建を行い、文化二年(一八〇六)には拝殿を造営している。
『風土記稿』によると、「村の鎮守なり、宝蔵寺持」とある。宝蔵寺は天台宗で、明治初年の神仏分離令発令まで、当社の祭祀法楽を司っていたと伝えられる。
 明治四年に村社となり、同四十年二月には字権現堂無格社東照神社を合祀している。昭和四年四月に、覆屋・幣殿・拝殿を改築し、更に同二十三年四月には、社務所を建設している。なお、この社務所は平成二年に集落センターとして再建され現在に至っている。
                                  「埼玉の神社」より引用
        
            社殿の左側奥に祀られている境内社と石碑
   境内社の由緒は不明。石祠には「秋葉権現 熊野権現 東照権現」と刻印されている。

 川島町には「宇津木」苗字が何気に多い。「埼玉の神社」に記されている「宇津木兵庫進」に関わりのある末裔がこの地に居住しているからなのだろうか。
 調べてみるとこの宇津木氏の出自は
かなりややこしいので、かいつまんで説明する。この宇津木兵庫進」の先祖は、豊後の戦国大名として、北九州一帯をその勢力圏とした「大友氏」という。この大友氏は鎌倉時代初期に相模国大友郷を所領していて、その土地の名をとって大友氏を名乗っていたからだといわれている。
 大友家乗によれば、建久7年(1196年)正月11日、豊前・豊後両国に守護兼鎮西奉行として入った大友能直という人物が豊後・大友氏の始祖と云われ、大友能直の三男である大友時景(景直)は、大野郡一萬田村を領して一萬田の俗姓を名のり、一萬田氏の家祖となったという。
        
                                       
境内の風景
『比企郡神社誌』
「大字長楽氷川神社は、天文年中より天正年間迄宇津木兵庫進・北条氏政に仕へ代官として此の地を支配す。男孫十に至り小田原落城に及びし故武門を退きて旧領地に来り住す。此の時、榎本四郎左衛門・又来り土地開拓に協力す。此の両氏発起し慶長二年八月氷川神社を勧請す」
『宇津木家留書(宇津木和夫文書)』
一万田藤原親氏嫡親良、兄関東下而依勘気、親直を以て家苗為相続、子親良関東下而宇津木と改苗罷在処、北条氏政武州川越一戦後比企郡長楽村御囲屋敷壱軒御同人より親良に給ふ、天正九年御囲屋敷へ引移り代々居住す」

 宇津木家留書では、藤原北家・秀郷流で、大友氏の支流である「一万田藤原親氏嫡親良」が何かしらの理由(勘気)で関東へ下向し、この地に移住した際に「宇津木」氏と称し、天文年中より天正年間迄宇津木兵庫進・北条氏政に仕へて代官として此の地を支配したという。筆者も「一万田藤原親氏嫡親良」という人物を書籍やインターネット等で調べてみたが、これ以外の情報はなく、全く分からなかった。この
宇津木氏に関して詳しい情報を知っている方がいたらどうかご享受願いたいと思う。
        
                       
境内南側の片隅みにある「庚申塔」「馬頭観音」


参考資料「新編武蔵風土記稿」「
比企郡神社誌」「宇津木家留書(宇津木和夫文書)」
    「埼玉の神社」「
Wikipedia」等


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