古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

戸守氷川神社


        
             
・所在地 埼玉県比企郡川島町戸守1121
             ・ご祭神 素盞嗚命
             ・社 格 旧戸守郷鎮守
             ・例 祭 不詳
  地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0026627,139.4367356,16z?hl=ja&entry=ttu
 正直日枝神社から「長楽用水」沿いの農道を700m程西行すると、進行方向右側に戸守氷川神社の鳥居が道路沿いからはやや奥に入った場所に見えてくる。この二つの社はお互いに用水に関連する社ともいえ、近距離に存在する。
 戸守氷川神社は、戸守地域にあるとはいえ、地域の中心街にあるのではなく、北側の飛び地ともいえる場所に鎮座する。「埼玉の神社」には嘗てこの地域には「戸守郷」が存在し、その郷の中央である中郷に鎮座していると記されていて、当時の「戸守郷」の広さを伺わせる位置関係となっているともいえる。
        
                  戸守氷川神社正面
 残念ながら周辺には駐車場等はない。但し道路に面して鳥居までに少なからず駐車スペースがあり、そこの一角をお借りしてから急ぎ参拝を開始する。
 周辺には民家も立ち並ぶ場所でありながら、社周辺には社叢林に囲まれた、物寂しい雰囲気を醸し出している。
        
                       鳥居は道路から少し奥に位置し建てられている。
 嘗てはもっと伸びた参道があったのではなかろうか。そのような思いがふと過る配置である。
 
鳥居の右側で、社号標柱周辺には、「鳥居建立記念碑」や幾多の庚申塔が設置されている(写真左・右)
        
                風情ある境内。参道の先には拝殿がひっそりと鎮座している。
        
                                         拝 殿
『新編武蔵風土記稿 戸守村条』
 戸守村は土袋庄川島領と云、古くは戸森と書しなり、家數七十七、東は南薗部村に隣り、西は長楽村に並び、南は中山村、北は正直村なり、東西の徑り十三町、南北十二町もあるべし、【小田原役帳】に太田豊後守が知行三十一貫九百丈、比企郡戸森乙卯検見と載す、是弘治元年の改なるべし、又八ッ林村道祖土氏文書の内、丁卯九月晦日小田原北條氏の文章に、三尾谷戸森右當郷代官職之事、如源五郎時無相違被仰付畢云云とあり、岩槻の城主源五郎氏資は、永禄九年丙寅戦死せしなれば、丁卯は永禄十年なるべし、されば弘治・永禄の頃は、太田氏の領知となりしこと明けし(以下略)

 氷川神社 川島町戸守一一二一(戸守字中郷)
 当地は、中世の史料に登場する「戸守郷」に比定されている。当社はこの戸守郷の惣鎮守であったと伝えられており、郷中の中央である中郷に鎮座している。
 郷名の初見は、正平七年(一三五二)の足利尊氏袖判下文で、尊氏は戸守郷を高師業に安堵している。下って至徳三年(一三八六)に鎌倉公方足利氏満は、戸守郷を下野国足利の鑁阿寺に寄進し、以後、室町後期まで同寺の寺領となった。享徳二年(一四五三)、享徳二年(一四五三)寺領代官の報告によれば、戸守郷と近隣の尾美野郷・八林郷は用水争論を起こしている。
 中世、各郷における権力者は、地生の「おとな」と呼ばれる者たちで、これらは、郷中間の用水談合、代官に対する年貢減免要求など、郷中経営ばかりでなく、「郷の惣鎮守」である当社の祭祀にも深く関与していたと思われる。当時から当社の神は、治水神、五穀豊穣の神とされていたことから、郷民の寄せる祈りは厚いものがあった。
 下って、江戸期の享保十八年(一七三三)、棟札によると社殿を造営している。これには、八幡大明神、稲荷大明神の二神が記されている。また、江戸後期に活躍した神祇伯の白川資延は、当社氷川大明神と、ほか二神に正一位の神位を授与している。別当については『風土記稿』に、薬師寺持ちとあり、同寺は明治初年に廃寺となった。
                                  「埼玉の神社」より引用

「戸守郷」は別称で戸森郷とも書く。現川島町戸守を遺称地とし、同所を含む越辺(おつぺ)川左岸一帯に比定される。正平七年(一三五二)二月六日の足利尊氏袖判下文(高文書)に「戸森郷」とあり、当郷は下野国足利庄内大窪(おおくぼ)郷(現栃木県足利市)等と供に常陸国馴馬(なれうま)郷(現茨城県龍ケ崎市)などの替地として、高師業に宛行われている。なお年未詳八月一四日の足利尊氏書状(同文書)によると、尊氏は師業の訴えを受け当郷の領有を再確認している。しかし貞治四年(一三六五)一〇月日の高坂重家陳状案(同文書)によれば、当郷は重家の亡父専阿が正平七年(一三五二)一二月一二日に勲功の賞として拝領した地といい、重家と師業(常珍)代行俊との間で相論が起こっている。行俊の主張は、正平七年に師業が当郷を拝領したにもかかわらず重家が押領したというものであった。この争いは鎌倉府の裁決では重家が勝訴したようで、応安元年(一三六八)七月一二日の足利金王丸寄進状写(諸州古文書)によれば、「高坂左京亮跡」たる当郷が四季大般若経転読料所として下野国鑁阿(ばんな)寺(現栃木県足利市)に寄進され、同日、関東管領上杉憲顕がその旨を施行している。
        
        社殿の奥に祀られている「御嶽山〇王大権現」と石碑・庚申塔等。
              中には板碑まで埋め込まれている。

 享徳二年(一四五三)四月十日、鏤阿寺代官十郎三郎の注進状によれば、十郎三郎は戸守郷に隣接する尾美野(おみの)(川島町上小見野・下小見野)・ハ林郷の両郷と用水をめぐる争いを起した。この用水は、都幾川(ときがわ)の水を川島町長楽(ながらく)で取水する通称「長楽用水(ながらくようすい)」と呼ばれているもので、尾美野・八林両郷も利用していたが、堰は戸守郷内にあり、それを勝手に止めてしまったというものであった。
「埼玉の神社」でも記されているが、
従来このような用水問題があった場合には、戸守・尾美野・八林の三郷の代表である「老者(おとな)」と呼ばれる有力農民らの話合いによって解決が図られるのが普通であった。しかし今回の場合は、尾美野の「老者」が同意の証判をすえなかったため武蔵国府へ調停を依頼した。尾美野・八林両郷ともに武蔵国守護上杉氏との関係があり(八林郷は上杉氏の所領であった)、上杉氏が実権を握る国府に訴え、用水問題を有利に解決しようとする尾美野・八林側の狙いがあったものと考えられる。
 それに対して戸守郷の有力農民らは領主である鍰阿寺側に年貢減免要求を起こし、結局農民らが一致団結して耕作を放棄しても減免を勝ち取ろうとする。時代は15世紀、上杉禅秀の乱→関東府の滅亡→結城合戦→古河公方の成立というように関東の政界を二分するような内乱が相次ぎ、それに伴い権力側の支配力が弱体・低下し、各地で農民らによる反領主的行動が表面化する。
 最終的には武力などの強制力がなく、間接的に支配していた鏤阿寺側としては打つ手がなく、寺側がその主張をやめ農民側の減免要求が通ったというものである。
 その後、武力を背景として、農民支配の徹底化をめざした戦国時代には、このような農民側の動きは見えなくなったという。
 室町時代のある限定的とはいえ、農民らがこのような年貢の減免を要求するなどの農民運動を起していた時代もあったということだ。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「日本歴史地名大系」「北本デジタルアーカイブズ」
    「埼玉の神社」等
              

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