古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

秋山新蔵人神社

 秋山地区は児玉町児玉の南部に位置し、上武山地の東緑、陣見山の北側に広がり、小山川(旧身馴川)で境界となる。陣見山から秋山川他幾筋の河川が流れて、小山川に合流し、これに伴う谷戸田(丘陵地の谷あいの地形のことを「谷戸」と呼び、その地形を利用して作られた田んぼのこと)が発達されている。
 地区南部は山地とそれに続く丘陵地帯で、北側に緩い斜面と宅地があり、小山川に迫り、北東部には水田や畑が広がる。尚北東部の小山川氾濫原と丘陵上には秋山古墳群が存在する。
 秋山の地名はほぼ全国的に存在するが、旧甲斐国(山梨県)の秋山が特に有名である。中世でも武田支族・秋山氏が存在し、南北朝の動乱期には秋山新蔵人光政が加茂河原で丹党安保直実と一騎打ちをしたことは『太平記』に記載されている。
 埼玉県寄居町にも秋山という地名があり、児玉の秋山とよく似た位置関係にあるという。
        
             ・所在地 埼玉県本庄市児玉町秋山242
             ・ご祭神 秋山新蔵人光政
             ・社 格 不明
             ・例 祭 祈年祭 315日 例大祭 015日 
                  新嘗祭 
1123日

 秋山新蔵人神社は本庄市児玉町秋山地区のほぼ中央部に鎮座する。埼玉県道175号小前田児玉線経由で美里町・広木みか神社を目指し、その後大きな右カーブに差し掛かり、左側に
「鎌倉街道上道の案内板」が見える手前のT字路を左折する。
 暫くはこの道を西行すること約1.2㎞、小山川支流秋山川の端を越えたところから細いY字路を左折し、更に南下。600m程進むと右側に秋山新蔵人神社の社叢と、白い鳥居が見えてくる。近郊には児玉カントリー倶楽部があり、そこを目指して行けば分かりやすい。
 駐車スペースは境内にある様子だが、鳥居を越えなければないようなので、一旦通り過ぎて、秋山川を越えた西側にお寺(本覚院)があり、道路沿いに駐車場があるので、そこの一角に駐車し、社の参拝を行う。
        
                          静かに佇む社。鳥居正面を撮影。
 
  撮影する角度にもよるが、鳥居の正面は    社殿等は、鳥居正面ではなく、やや西側に
  どうやら社日神、石碑が設置されている。     設置されている配置となっている。
        
                                     拝殿覆屋
        
                           拝殿覆屋の右側に設置されている案内板

 
新蔵人神社 御由緒  本庄市児玉町秋山二四三
 □御縁起(歴史)
 鎮座地の秋山は、小山川(身馴川)南岸に位置する農業地域であり『太平記』などにその名を残す秋山新蔵人光政ゆかりの地である。『西武南朝功臣事蹟』によれば、この秋山新蔵人光政は、南北朝期に桃井直常の部下として各地で転戦し、驍勇無双の猛者として知られていたが、正平六年(一三五一)九月に同僚の多賀某と私闘し、敗死したという。
 当社は、その社号が示すように、この秋山新蔵人公を祀った神社で、『風土記稿』秋山村の項には「光政社 秋山新蔵人光政の霊を祀れりと云、この人当所に集住せしよりかく唱へしなるべしといへど、其詳なることをしらず、昔甲州秋山邑に住し、在名をもて、秋山太郎光朝といひ、右大将頼朝に仕へしものあり、この光政もその子孫なるにや」と記されている。ただし『明細帳』によれば、当社の創建は天和三年(一六八三)のことと記されているため、光政の没後すぐに創建されたものではなく、その遺徳を讃える後世の人々が社を建立して、光政の霊を祀ったものと思われる。
 
内陣には、甲冑を付けた武将の騎乗の像が安置されているが、これは祭神の秋山新蔵人光政公の像である。この像には銘が入っていないため、いつごろ作られたものかは定かではないが、少なくとも明治以前のもので、穏やかな表情をしている。
 □御祭神 秋山新蔵人光政
                                       案内板より引用
 
     拝殿上部に掲げてある扁額          拝殿覆屋左側には神楽殿か

 甲斐源氏秋山氏は武田支族で、巨摩郡秋山村(山梨県)より起ったという。秋山系図(続群書類従)に¬加々美次郎遠光―光朝(秋山太郎)―光季(常葉次郎)―光家―時信―時綱―光信―光助―光政(秋山新蔵人太夫)、弟光房(蔵人次郎、兄討死之時、属桃井、帰于甲州)―光延―光盛―光方―光季―為光(大炊助、寛正六年二月十一日被誅、法名妙秋。弟彦九郎昌光・法名妙山)―光利―信利―信房―光任―信任―信藤(平十郎、伯耆守、仕信玄勝頼、後仕神君、天正十三年卒)
 
 
秋山氏は清和源氏武田氏の分かれで、名字の地は甲斐国巨摩郡秋山村である。すなわち、武田氏の祖である新羅三郎義光の孫にあたる逸見清光の二男加賀美遠光の長男光朝が、秋山村に居住して秋山氏を名乗ったこと始まるとされている。累代の居城地は中野村にあった。初代の光朝は、治承四年(1180)の源頼朝の挙兵に応じ、平家追討の戦いには源義経の指揮下に入って、屋島、壇の浦の合戦に参加した。その西征の途中に平重盛の娘を娶ったばかりに、のちに源頼朝に冷遇され、不運な生涯を送る羽目に追い込まれることになる。
 
     拝殿覆屋の右隣に鎮座する境内社       鳥居正面にある社日神と石碑
         詳細不明

 平家を滅ぼしたあと、頼朝は甲斐源氏の勢力拡大を恐れ、武田氏一門の武将たちを次々と謀殺していったのである。武田一門に連なる光朝も重盛の娘を娶ったのは平家再興の下心があるとのいいがかりをつけられて、鎌倉において処刑されてしまった。甲斐に落ち延びた遺児や秋山一族らは鎌倉幕府の追及を恐れ、加々美の荘に籠って武具を隠して農耕に務めたという。

 没落していた秋山一族が「承久の乱」で尼将軍北条政子の下知に従い、ふたたび武装して官軍追討の東山道軍の総大将に任じられた武田石和信光の幕下に従って上洛、戦いは幕府軍の圧倒的勝利に終わり、武田氏一門は安泰を迎えたのである。秋山光朝には数人の男子があり、常葉次郎光季が武田氏に仕えた秋山氏の祖になったという。新蔵人光政は光季から数えて7代目の子孫であり、光政の弟光房(蔵人次郎)の子孫には、戦国時代に信玄に仕えて活躍する秋山伯耆守信友がいる。

 甲斐国出身の甲斐源氏・秋山光政がなぜ秋山地区に館を構えたと伝わるのかは不明。「承久の乱」において活躍した秋山氏が、本貫地である甲斐国の回復と共に、この地に所領を得ていたのだろうか。
 秋山地区と山を隔てた南方反対側には長瀞町があり、そこに伝わる伝説で『信仰利生観』という古書に、秋山に秋山城主秋山新九郎続照(つぐてる)なる人物がいて、長瀞町小坂の仲山城主阿仁和兵衛直家との確執があったといい、新蔵人館は新九郎館の転訛ではないかともいわれるが、詳細は不明だ。
        
                         
秋山新蔵人神社遠景


参考資料 「新編武蔵風土記稿」「埼玉の神社」「本庄の地名(児玉地域編)」「続群書類従(秋山系図)」等

       

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