古社への誘い 神社散策記

たまには静かなる社の空間に身をまかせ、心身共にリフレッシュしてみませんか・・・・

下押垂氷川神社

 東松山市下押垂、聞きなれない不思議な地域名だ。この下押垂は「しもおしだり」と読む。この地域は東松山市南部を東西に流れる都幾川東部河川沿いに位置する。東西約2.4㎞に対して南北は広くても地域西側にある「都幾川リバーサイドパーク」付近で、650m程しかなく、東西が極端に長い長方形の形で形成されている。そのことは『新編武蔵風土記稿』にも同様に「東西の経り二十町、南北は纔三四町にすぎず」との記載もある。
 嘗て都幾川は東松山橋の上流と下流で大きく蛇行していたが、河川改修が行なわれ、下押垂地域に流れる現在の河道は直線化されていて、まさに「都幾川と歩んできた地域」なのでであろう。
下押垂氷川神社は「河川の神」として当地住民の方々に厚く信仰され、都幾川の堤防傍に境内はあり、社殿は水塚の上に鎮座しているという。
        
             
・所在地 埼玉県東松山市下押垂526
             
・ご祭神 素戔嗚尊
             
・社 格 旧村社
             
・例 祭 夏祭 714日 例祭 1019
   地図 https://www.google.co.jp/maps/@36.0120368,139.4116512,16z?hl=ja&entry=ttu
 下押垂氷川神社が鎮座する
下押垂地域は、下野本地区の南側に接し、都幾川左岸の低地で構成される一面田園風景が広がる地域である。社は丁度野本利仁神社から直線距離にして1㎞弱程真南に鎮座していて、途中までの経路は野本利仁神社を参照。国道407号線の東側を国道に沿って南北に通じる農道を南下し、「野本さくらの里」付近から進路が南東方向に変わり、その道を都幾川左岸の堤防方向に進むと、右手に下押垂氷川神社が見えてくる。
 社の東側に隣接している「下押垂公会堂」正面入り口手前には適当な駐車スペースもあり、そこに停めてから参拝を行う。
        
                                 下押垂氷川神社正面
 都幾川堤防のすぐ外側で、北側に目を転ずれば、一面田園風景が広がる長閑な場所にひっそりと鎮座している。境内参道左側には桜の樹木が、そして社の後背には杉の木々が並んで植えられている。
この社は嘗て、度々襲った都幾川の水難から村の鎮守として1700年代、大宮の氷川神社の分霊を祀った事から始まったと言われている。創建当時は国道407号線の東松山橋あたりにあったが、昭和50年河川改修と共に現在地に移ったという。
 
       河川近郊の社故か、          参道堤防側に設置されている
   参道の周りの雑草が生い茂っている。       「社殿移転新築記念碑」

この石碑によれば、建設省の河川改修工事により、本来字「宮の脇」に鎮座していた下押垂宮を昭和50年2月20日に社殿一切現在地に移ったという。移転した際には上下押垂地域の氏子の方々は新しい社の前で奉迎遷の祭りを施行し、御祭神である素戔嗚尊をお迎えしたという。
       
                              拝 殿
        水塚と云われる洪水の際に避難する水防施設上に鎮座している。

 氷川神社 東松山市下押垂三六四-七(旧下押垂字宮の脇)
 創建以来、「水の神」として厚く信仰されてきた社にふさわしく、当社の境内は都幾川の堤防の側にあり、その社殿は水塚の上に設けられている。元来、社地は、現在よりも二五〇メートルほど上流の字宮の脇(国道四〇七号東松山橋付近。現在は河道)にあったが、建設省による都幾川改修工事に伴う換地の結果、昭和五十年、字金塚にある現在の社地に遷座し、同年四月二十日に氏子を挙げてその遷座祭が斎行された。現在の境内の配置は、字宮の脇の境内の配置をそのまま復元したものであるが、地形の関係上、参道の長さが宮の脇にあったころに比べて三分の一程度になっている点が異なる。
 当社は、大宮(現大宮市)に鎮座し、武蔵国一の宮として信仰の厚い氷川神社の分霊を享保元年(一七一六)に祀ったことに始まるとされ、文化三年(一八〇六)には神祇伯から大明神号を受けている。それを記念して作られた社号額は現在も拝殿内に掛けられているが、その表には「氷川大明神」、裏には「西福寺五十四世義観受之 文化三年四月十六日 神祇伯資延王謹書印之 武州比企郡下押垂村」と彫り込まれており、大明神号の拝受は別当の西福寺により行われている。その後、当社は神仏分離を経て、明治六年に村社となり、同四十年四月十日、字山王塚から無格社日枝神社を合祀し、従来の祭神須佐之男命に加えて大山咋命が併せて祀られるようになった。
                                  「埼玉の神社」より引用



 下押垂地域の北側面には下野本地域が接して存在しているが、鎌倉時代この地域には藤原利仁流野本氏が本拠地としていた。
 下野本地域にある「野本将軍塚古墳」の北側には無量寿寺が建っているが、嘗て野本氏の館がその地にあり、後代無量寿寺が建てられたという。野本氏の初代である野本左衛門尉基員は源頼朝に仕え鎌倉幕府の御家人となり子孫は執権北条氏に重用されている。
 野本氏は藤原利仁流の系統で、元々京都出身でもあった。藤原基経に仕えていたというが、武蔵国野本に移り住んで「野本氏」を名乗ったという。本編には直接関係ないので、あまり深くは詮索しないが、如何なる経緯でこの野本の地に移り住んだのであろうか。
 その野本一族の一人に「押垂氏」がいる。押垂地域は本拠地の南側に接している地でもあり、また野本氏は源頼朝に仕え鎌倉幕府の御家人となり、その子孫は執権北条氏に重用されているところからも所領地は少なからず増えたのであろう。押垂地域を一族が賜っても少しもおかしくない。武家政権であった鎌倉幕府を顕彰する歴史書である「吾妻鑑」には「押垂氏」に関して以下の記載がある。

吾妻鑑卷十三「建久四年十月十日、野本斎藤左衛門大夫尉基員が子息元服し、将軍家より御鎧以下重宝等を賜る」
卷二十一「建暦三年五月六日、和田の乱に、幕府方の討たれし人々に、おしたりの三郎」
卷二十五「承久三年六月十四日宇治合戦に敵を討つ人々に押垂三郎兵衛尉の郎等敵一人を討つ」卷三十「文暦二年六月二十九日、押垂左衛門尉時基」
卷三十一「嘉禎二年四月二十三日、押垂左衛門尉・御使たり。八月四日、若宮大路の新造御所に御移徒の儀あり、押垂三郎左衛門尉晴基・これを役す。同三年六月二十三日、押垂左衛門尉時基」
卷三十二「嘉禎四年二月十七日、将軍頼経入京す、随兵に押垂三郎左衛門尉」
卷三十六「寛元二年八月十六日、的立押垂左衛門尉、射手子息次郎」
卷四十「建長二年三月一日、押垂斎藤左衛門尉が跡」
卷四十二「建長四年四月十四日、将軍宗尊鶴岡に詣ず、随兵に押垂左衛門尉基時。十二月十七日、将軍宗尊鶴岡に詣ず、随兵に押垂左衛門尉時基」
卷五十「弘長元年十一月二十二日、押垂斎藤次郎を小侍番帳に加ふ」
卷五十一「弘長三年二月八日、掃部助範元等は北条政村亭において和歌会を催す」
卷五十二「文永二年五月十日、押垂掃部助・御使たり。十二月十四日、掃部助範元最前に御所に参ず
        
                              拝殿部から見た参道の一風景


『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集』では野本押垂氏の系譜を「藤原利仁流、疋田斎藤為頼(越前国惣追捕使)―竹田四郎大夫頼基―基親―野本左衛門基員(住武蔵国)―野本左衛尉時員(従五位下能登守・摂津国守護)―(義兄)野本次郎時基(左衛門尉)―押垂十郎重基(実笠原親景子)、弟三郎景基」と記している。
 
初代野本左衛門基員は、源義経の義兄弟である下河辺政義の子の時員を養子とした。時員は『吾妻鏡』によると六波羅探題在職中の北条時盛の内挙により能登守に就任したり、摂津国の守護(1224年~1230年)にも就任している。時員の弟である時基は、野本の隣の押垂に住して押垂を名乗り押垂氏の祖となったという。但し時基は父である基員と同じく「左衛門尉」を称していて、従五位下の官位を賜り、能登守に就任したり、摂津国の守護(1224年~1230年)にも就任している時員に代わって本拠地である野本を守っていたのではなかろうか。
        
                 
下押垂地域の南側で都幾川堤防から見る高坂地域の遠景

 下押垂地域の南側は都幾川右岸である高坂地域であるが、土手から幾多の建築物が見え、「高坂ニュータウン」等の開発が進んでいる地域だ。左岸にひっそりと鎮座している氷川の神様はどのような面持ちでこの開発が進んだ地域を眺めているのであろうか。


参考資料「新編武蔵風土記稿」「吾妻鑑」「
新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集」「埼玉の神社」
    「
高坂丘陵ねっと」「Wikipedia」等


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